My Girl   作:cooperS

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#2 Hello

 

 

 

 

 

 

 

「ひゃっ……! ま、マネージャーさん!?」

 

 帽子のつばの下で、目がまんまるになった。

 次の瞬間から、黒金蓮の両手はたいへんな激務に見舞われた。胸に抱えていた鞄がずり落ちかける。あわてて抱え直す。抱え直した拍子に右手の白い封筒の角が自分の顎をつつく。封筒を鞄へしまおうとして、留め具が開かない。開かない留め具と格闘しながら浅野の顔を見て、浅野の顔を見ながら留め具と格闘する。挨拶より先に片づけなければならない案件が両手にひとつずつ発生してしまったらしい。

 

 浅野のほうも、階段の下から一歩も動けずにいた。

 人違いなら、すみませんでした、と頭を下げれば済む話である。ところが向こうから、マネージャーさん、と来た。人違いではない。黒金蓮が、自分の部屋の前にいる。さっきコンビニの天井から逃げてきた声の持ち主が、逃げた先の玄関で先回りして待ち構えていたのである。地獄の鬼だって、もう少し手加減というものを知っている。

 

 一年ぶりの再会である。

 

 再会というものには、本来もう少し日取りを選ぶ余地があってしかるべきではないか。よりにもよってパチンコで三千円すった日の、首の伸びたTシャツの、卵の載っていないそばを提げた、一年ぶりである。

 せめて一本向こうの道を回ってくれば、三十秒分の支度ができた。三十秒分の支度のできた自分なら、第一声くらいもう少し気の利いたことが言えたはずなのだ。

 

「どうした。何かあったか」

「い、いえっ、何もありません! あの、そ、そうです、近くまで来たものですから、それならひと言ご挨拶だけでもと思いまして、ですから決して、わざわざこのために来たというわけでは──」

 

 そこまで一息に言って、蓮は口を閉じた。

 近くまで、と言うには、このアパートの近くには蓮の用事がありそうなものが何ひとつない。あるのは駅前のパチンコ屋と、秋の健康相談を呼びかける薬局と、夜中の二時に洗濯機を回す男くらいのものである。この三つのいずれかに用があって来たのだとしたら、それはそれで元マネージャーとして一度じっくり話を聞かなければならない。

 

「というか、よくここがわかったな」

「それは、最後の日にいただいた書類に、書いてありましたから。何かあったときのご連絡先、って」

 

 そういえば書いた。何かあったときのために、と書いておいて、何もなかったことにしてこの一年を過ごしたのは浅野のほうである。

 

「来るなら来るって、連絡くれりゃよかったのに」

「そうしたら、マネージャーさん、今ちょっと忙しくて、って返しますよね」

 

 忙しくはない。死ぬほど暇である。ただ、そう返している自分の親指なら、浅野にもありありと目に浮かんだ。昨日から返事を七通も書いては消した親指である。

 やがて蓮は鞄を抱え直し、今度はちゃんと浅野のほうへ向いて頭を下げた。

 

「……お久しぶりです」

「ああ。久しぶり」

 

 それきり、会話の在庫が尽きた。

 元気だったか、は顔を見ればわかる。今どうしてる、はこちらが聞かれたくない。一年分の積もる話というやつは積もりすぎるとかえって取り出し口が見つからないものらしい。焦れば焦るほど頭に浮かぶのはいちばんどうでもよくて、いちばん気になっていることだけになった。

 

「……うちのドアに、何してたんだ。何回も頭下げてたけど」

「み、みみみ、見てたんですか!? い、いつから──いえ、違うんです、あれは、一年ぶりですから、最初のひと言で印象が全部決まってしまうと思って、いちばん感じのいいご挨拶を、こう、確かめていたというか」

「俺に?」

「他に誰がいるんですかっ」

 

 言われてみれば、そのとおりである。

 蓮は昔から本番の前に必ず練習をする。それは美徳だ。ただし練習の相手を選ばない。事務所の等身大パネルを相手に握手会の練習をしていたこともあるし、鏡を相手に本番のMCを三通り試していたこともある。一度などは楽屋の観葉植物に向かって、本日はお足もとの悪い中、と深々と頭を下げていた。

 

 浅野が階段をのぼりきると、蓮はドアの脇へ寄って帽子とマスクを外した。

 汗で額に張りついた前髪を指先で払う。耳の上の髪をすくって、後ろへかける。

 浅野は、レジ袋を持ち替えかけた手を止めた。

 

 ──誰だ、これは。

 

 いや、黒金蓮である。わかっている。わかっているのだが、浅野の目はわかっていることとは別の仕事を勝手に始めていた。毎朝のようにアイドルたちの顔を眺めては、今日の肌の調子だの昨夜の寝不足だの宣材写真との差だのを確かめてきた目である。その目が一年ぶりに職場へ戻ってきたはいいものの、山のような差分を報告しかけ、まとめきれずに投げ出した。

 結局三年がかりで鍛えた目が提出してきた報告書は、一行きりだった。

 

 綺麗になった。

 

 それだけである。根拠も差分も添付されていない。浅野が上司なら書き直しを命じているところだが、困ったことにその一行には訂正を入れる余地がひとつもなかった。

 かつて、蓮は黙って立っていると、よく怒っているのかと聞かれていた。きりりと吊り上がった目が本人の緊張まで鋭さに見せてしまうのだ。同じ目が今は廊下の照り返しの中でただまっすぐこちらを見ている。睨んでいるのでも、身構えているのでもない。一年前まで本人がいちばん持て余していたものが、いつの間にかいちばんよく似合うものになっていた。

 

「なんか、大人っぽくなったな」

 

 言ってから、猛烈に後悔した。一年ぶりに会った元所属アイドルの顔立ちを、玄関先で品評する元社長がどこにいる。

 ここにいる。

 

「えっ。そ、そうですか? まあ、一年経ってますから、私だって少しくらいは、その、あれなんですけど。……あの、それって変な意味じゃないですよね?」

「変な意味って何だよ」

「わかりませんけどっ。そ、そんなにじっと見なくても、もうわかりましたから!」

 

 言いながら蓮の指が耳の横の髪へ伸びた。さっきかけたばかりのひと房を、もう一度かけ直す。直すところなど、どこにもないのに。

 浅野はあわてて廊下の手すりの錆へ目を逃がした。褒めたのはこちらなのに、なぜ叱られた気分にならなければならないのか。

 蓮は一年でこんなに綺麗になっている。同じ一年を使っていたはずのこちらは首の伸びたTシャツの裾を引っぱっている。どう勘定しても、どこかで一年分計算が合わないじゃないか。

 

 とりあえず中で、と言いかけて、浅野はドアを見た。

 このドアの向こうにあるのは事務所ではない。独身男の六畳一間である。そして目の前にいるのは、現役のアイドルなのである。

 今の事務所の担当者に、今日はどこへ行くの、と聞かれた蓮を想像してみる。蓮のことだからきっと正直に答える。そこへ浅野だけが知っている事情を足していくと、こうなる。

 

 ──はい、前の事務所の社長さんのお部屋です。今は週に三日だけ働いている方で、今日はお休みなんです。さっきまでパチンコをしていたそうなんですけど、三千円負けて帰ってきたところに私が来たので、お部屋にどうぞって。

 

 事案である。

 

 自分がその担当者なら、その場で、駅まで引き返しなさい、と言うだろう。元社長さんですから大丈夫です、と食い下がられたら、元社長なら何をしてもいいのか、と叱るだろう。いや、何もするつもりはないんです、と当の元社長として口を挟みたくなったが、考えてみればそれは部屋へ連れ込む側が決まって口にする台詞なのだった。

 

 ──駅前の喫茶店へ行こう。

 

 そう決めて顔を上げると、蓮がパーカーの袖口をつまんで手首に張りついた布を浮かせていた。額にはまた汗がにじんでいる。目が合うと、何でもないような顔で手を下ろした。

 この炎天下に十分立たせておいて、これからもう十分歩かせるのか。

 喫茶店に要るものといえば、冷房と、座るところと、冷たい飲み物である。冷房ならたぶん部屋でつけっぱなしになっている。座布団なら一枚ある。麦茶なら今、袋の中にある。

 つまりこれは喫茶店へ行くのと同じことなのだ。

 

「暑かったろ。中、入るか。散らかってるけど」

「えっ。お、お部屋に、ですか。いえ私、決してお部屋に上がり込むつもりで来たわけでは──」

「わかってるよ。ちょっとそこで待ってな。靴はまだ、そのままで」

 

 蓮を玄関の土間に入れてドアを閉め、袋を流しへ置くと、浅野は奥の六畳間へ滑りこんで背中で引き戸を閉めた。

 持ち時間は、せいぜい三分。

 生涯でもっとも迅速な証拠隠滅が始まった。

 

 ベッドと、低いテーブルと、座椅子。家具だけなら三つで話が済む部屋である。問題は家具と家具のあいだでいつの間にか独自の生活を営みはじめた連中のほうだった。テーブルの上ではカップ麺の容器が三段の塔をなしていた。重ねてあったので一度につかめた。重ねた日の自分を少しだけ見直して、まとめてごみ袋へ押しこむ。空き缶も入れる。分別はあとでやる。床の靴下を拾い、ベッドのタオルを持ち上げると、下から下着が出てきた。片づけるたびに、次に片づけるべきものが出てくる。毎日ここで寝起きしているくせに、客が来ると決まってから初めて知る我が家の事情が多すぎるのである。

 それから雑誌だ。表紙で水着の女性が笑っている。彼女には何の落ち度もないのだが、今日だけは服を着ていてほしかった。

 押入れを開けて上の段へ押しこもうとして、手が止まった。

 段ボール箱が二つ、ガムテープで封をされたまま一年前と同じ顔で重なっていた。

 上の箱の側面には浅野の字で、写真、と書いてある。下の箱には、写真・その他。事務所の最後の週に壁から一枚ずつ剥がしたものを順に重ねて輪ゴムでまとめ、上から詰めていったのだ。剥がし終えた壁には画鋲の穴だけが星座のように残っていた。

 開けなければいい。

 開けなければ何も出てこない。この一年、浅野はそうやってこの箱と実にうまく付き合ってきた。向こうも口を割らないし、こちらも問い詰めない。ただし、その上に水着の女性を載せるわけにはさすがにいかない。箱の中にはもっとちゃんと服を着た女の子たちが、三年分の笑顔で詰まっているのである。

 浅野は水着の女性を下の段の冬物の毛布のあいだへ差しこみ、靴下と下着も同じ亡命先へ送りこんで、襖を閉めた。

 

「あの、何かお手伝いしましょうか?」

「大丈夫だからっ。もう終わるからっ」

 

 まだ終わらない。ごみ袋の口を縛って台所へ出ると、玄関の蓮と目が合った。

 

「お掃除、してくださってたんですか」

「いや、ちょうどやろうと思ってたんだ」

 

 嘘ではない。三分ほど前からずっとそう思っていた。

 

 蓮は靴を脱いで揃え、浅野が座布団を出しているあいだ、部屋の入口に立ったままぐるりと首を巡らせていた。六畳一間の観光名所といえば、ベッドとカーテンと、あとは壁くらいのものである。蓮はその壁をずいぶん丁寧に見た。端から端まで何かを探すように眺めて、探しものが見つからなかったらしく、最後にカーテンへ目を戻した。

 浅野は流しのコップから比較的ましな二つを選んで洗い、麦茶を注いだ。そばと一緒に運んでいくと、蓮はパーカーを畳んで鞄の上に載せ、座布団の上で膝をきちんと揃えていた。いつもは浅野が足を投げ出してテレビを見ている場所である。そこにそんなふうに座られると、床まで少しよそよそしい。

 

「昼、まだなら何か買ってくるけど。俺のぶんしかないんだ」

「いえ、お構いなく。マネージャーさんはどうぞ召し上がってください。私、お話ししながらでも全然平気ですので」

 

 浅野はうなずき、ポケットのスマートフォンをテーブルの端へ置いた。昨日から返していない連絡がその中でまだ返事を待っている。画面を伏せた。

 座椅子に腰を下ろすと、背もたれがいつもの角度で体を受け止めた。この一年で浅野の体の形をすっかり覚えこんだ背もたれで、客の前では少々だらしない角度である。少し起こそうと横のレバーを探るうちに蓮と目が合い、何でもないような顔でそばの蓋を開けた。

 人間、手と口にやることがあるとたいていの沈黙には耐えられるものである。一年ぶりの相手と何を話せばいいのか、という難問も、飯を食いながら話を聞く、といういつもの形に収めてしまえばずいぶん楽になった。

 

「で、最近どうだ。仕事は」

 

 待ってました、とでもいう顔だった。

 本人は隠したつもりなのだろう。しかし背筋が伸び、膝の上の手が組み直され、麦茶のコップがテーブルの脇へ寄せられる。

 黒金蓮は報告の前にまず机の上を片づける。手柄の大小は関係ない。新曲のソロを任されたときも、事務所の前の自販機で当たりが出たときも、彼女はまったく同じ手順で机を片づけ、同じ角度で背筋を伸ばしてから同じくらい長くしゃべった。

 

「先月、配信ライブに出させていただいたんです。何人かで出る中の一枠なんですけど、二曲、ひとりで歌わせてもらえて。二曲ですよ、一曲じゃなくて。一曲目は前に皆で歌っていた曲で、ひとりで歌うことになったのでパートも全部自分で覚え直して、それで、ずっと苦手だった二番の終わりのところも、今回は踊らずに歌に集中させていただけたので、最後まで、ちゃんと息が続いたんです」

 

 一息だった。肺活量の成長ぶりを、報告の中身より先に報告の仕方で証明してしまっている。

 二番の終わり、だ。浅野も覚えている。息が足りなくなるところだ。通して聴けば気にならない、と言うと、私は気になるんです、と返された場所である。

 

「ああ、あそこか。できるまで帰らないって、何回もやり直してたよな」

「お、覚えてるんですか」

「そりゃ覚えてるよ。片づけようとするたびに、あと一回って呼び戻されたんだから」

「だ、だってできないまま帰ったら、ひと晩じゅう気になるじゃないですか! とにかく、今回は一回でできたんです。リハーサルでも本番でも。ふふ、まあ、私にかかれば、あのくらいは──」

 

 胸を張りかけたところで何かを思い出したらしく、張りかけた胸がしぼんだ。

 

「ただ、最後のご挨拶で、声がかすれました」

「何で」

「お水を飲むのを忘れていたんです。すぐ足もとに置いてあったんですけど」

 

 黙っていればわからないのに、言わずには済まないらしい。手柄をひとつ報告すると、その帳尻を合わせるように必ず失敗をひとつ添える。頼まれてもいないのに、である。報告書の書き方としては満点だが、自慢話の運び方としては零点だった。浅野が吹き出すと、蓮は、笑うところじゃありません、と抗議しながら自分も笑っていた。

 いい報告だった、と浅野はそばをすすりながら思った。難しいところで息が続いて、ひとりで二曲任されて、水を飲み忘れる。全部、目に浮かぶ。

 

 蓮が鞄へ手を伸ばした。

 畳んだパーカーを脇へよけて出てきたのは、さっき顎をつついた白い封筒だった。表に浅野の名前が角張った字で書いてある。払いだけが妙に長い。

 封筒を両手で持って、蓮が身を乗り出す。

 

「それで、あの、マネージャーさん。もしかして、なんですけど──見て、くれましたか? 配信」

 

 箸が止まった。

 見ていない。

 名前を検索したことはある。新しい衣装も、知らない公演の予定も見た。その先の動画はあとで見るつもりで閉じた。いつのあとのつもりだったのか、今となっては浅野にもわからない。

 忙しくて、と言えれば楽だった。しかしついさっきまで魚を待っていた口で、そこまで言う気にはなれなかった。

 

「……いや、悪い。見てない」

 

 封筒が止まった。

 蓮は浅野の顔を見たまま一度まばたきをして、両手で持っていた封筒を少しだけ下げた。

 

「──そうですか。そう、ですよね」

 

 蓮は封筒の角を親指でなでた。口を開きかけて、表に書いた浅野の名前へ目を落とす。

 

「…………これは、あとにします」

 

 何だよそれ、と聞きかけて、浅野の頭は別のことを考えはじめた。

 宛名の書かれた白い封筒というものに、浅野はこの一年ろくな思い出がない。開ければたいてい、払ってください、か、返してください、である。

 まさか蓮まで、とは思う。しかしずいぶん無理を頼んだのも事実なのだ。そのたびに蓮は、大丈夫です、と言った。あれを全部快く引き受けてくれた返事だと思っていたが、もし、ひとまずツケにしておきます、という意味だったとしたらどうか。三年分のツケである。利息もついているかもしれない。

 ──まずい。払えるわけがない。

 封筒が鞄の奥へ沈んでいくのを、浅野は黙って見送った。あとにすると言ったのは蓮だ。本人がしまおうとしているところへ、わざわざ何だ何だと首を突っこむこともないだろう。

 自分にそう言い聞かせてそばの残りをすすった。

 

 やがて話題を変えたのは、浅野のほうだった。

 

「蓮は、今日はこのあと仕事か」

「いえ、今日は一日お休みです。大学も、お仕事もなくて」

「大学?」

「はい、春から。あ、それも言ってませんでしたね」

 

 浅野は、すぐには言葉が出なかった。

 大学へ行くほど大きくなったのか、という話ではない。高校を卒業したことさえ、今の今までちゃんと考えたことがなかったのだ。あれだけ一緒にいたくせに、離れてしまえば卒業式の日もただの一日として過ぎていく。その日、自分は何をしていたのだろう。倉庫か、パチンコか、寝ていたか。どれもありそうで、どれだったかは思い出せなかった。

 

「そっか。どうだ、楽しいか」

「授業は面白いです。友達もできましたし。ただ、終わるとそのまま仕事に行くので、遊びに誘ってもらってもなかなか行けなくて。夏休みの写真を見せてもらうばっかりで、気がついたら、夏休みのほうが先に終わってました」

 

 蓮はそこで少し考えて、スマートフォンを出した。

 

「……でもそれ、高校のときからなんです。いちばん覚えてるのが、たしか──ちょっと待ってくださいね、ずいぶん前のなので」

 

 親指が画面を払う。払うたびに写真が下から上へ流れていく。浅野はついその流れを目で追った。

 大学らしい建物の前の、知らない女の子たち。どこかの楽屋の、浅野の知らない鏡。浅野の知らない衣装を着た蓮が、浅野の知らない誰かとピースをしている。浅野がパチンコ台の前で魚を待っていた一年が、親指一本でものすごい速さで巻き戻っていく。

 そして急に、見覚えのある壁が来た。

 半分だけ空になった棚。鏡の前で誰かが変な顔をしている。その隣の誰かがそれを見て笑い崩れている。

 親指が、ほんの一瞬だけ止まりかけた。

 止まらなかった。見覚えのある壁は見覚えのある速さで上へ流れて消えた。そのいくらか先で蓮の指はようやく動きを止めた。

 

「あ、ありました。これです。あとで送ってもらったんです」

 

 三人の女の子の顔が画面の八割を占めていた。残りの二割には髪と指と、どこから調達してきたのかピンク色の浮き輪が、ぎゅうぎゅうに詰めこまれている。右上の角に灰色っぽい何かが少しだけのぞいていた。

 

「空か、これ」

「海です! ここ、右上の、ここです!」

 

 蓮の指が角を叩いた。言われてみれば灰色の中にうっすら白い筋がある。波なのかもしれないし、画面の汚れなのかもしれない。

 写真の出来について、浅野にはひと言もふた言もあった。主役であるはずの海が、端役どころか背景美術の扱いである。三人のうち一人は髪が顔に貼りついているし、もう一人は半分しか写っていない。宣材写真なら即日撮り直し、カメラマンにはそれとなく次回からの参加をご遠慮いただくところだ。

 ただ、三人ともひどくいい顔で笑っていた。

 

「三人とも制服だな」

「学校の帰りに、制服のまま行っちゃったんですって。帰りの電車を、いつもと逆向きに乗って。私、海って、もっと大変なところだと思ってました。水着とか日焼け止めとか、何日も前から準備して、やっと行けるところなんだって」

「蓮は行かなかったのか」

「その日は、私、」

 

 蓮は一度、画面の三人を見て、

 

「ライブでした。駅前の広場の」

「……ああ」

 

 蓮の学校から事務所まで、電車を乗り継いで四十分かかることを思い出す。その四十分の手前にも、蓮の一日はあったはずなのだ。

 ところが浅野の記憶の中では、蓮の一日はいつも事務所のドアが開くところから始まる。お疲れさまです、と声がして、ああ来たか、と時計を見る。ドアの向こうで蓮が誰に手を振って別れてきたのか、反対側のホームに何があったのか、浅野は一度も考えたことがなかった。

 

「私、高校の三年間、放課後って、ほとんどやったことないんです」

 

 蓮はスマートフォンを伏せて、膝の上に置いた。

 

「学校が終わったらそのまま電車に乗って、乗り換えの駅では階段にいちばん近いドアの前に立って。あ、別に、それが嫌だったって話じゃないんですよ? 早く行きたかったのは私ですし、新しい振りを覚えたら一秒でも早く見てもらいたかったですし──ですから、そういう恨みがましい話をしに来たんじゃなくて、ですね」

 

 恨みがましい話をしに来たのではない人間は、たいてい最初にそう断る。浅野は麦茶を飲んで続きを待った。

 

「……つまり、ですね」

 

 続きは来なかった。

 蓮の目が膝の上のスマートフォンに落ち、テーブルの上を横切って、浅野の首の伸びたTシャツのあたりで止まった。

 

「あっ、そうか」

 

 何か思いついた顔だった。今度は背筋も伸ばさなければ、麦茶のコップを脇へ寄せもしない。報告の前の手順を全部すっ飛ばして、蓮は身を乗り出した。

 

「マネージャーさん、返してくださいっ」

「何を」

 

 浅野は思わず蓮の脇の鞄に目をやった。あの封筒を受け取らずに済んで、ひと息ついたばかりである。

 

「──私の放課後を、返してください」

 

 請求は封筒とは別口で、しかも封筒には入りきらない大きさで回ってきたらしい。

 

「……俺、いつ借りたんだっけ」

「毎日です。三年分、まるごと」

 

 即答だった。

 

「放課後に寄り道して、それから、何も買わないでお店を見て、ドーナツを食べて、あとカラオケにも行って、それも練習じゃないカラオケで、それで、」

 

 蓮の指が、伏せたスマートフォンの背をとんと叩いた。

 

「……最後に、海を見て帰れたらいいなって」

 

 浅野が口を開くより先に、蓮は続けた。

 

「今日はお互い、お仕事もありませんし。マネージャーさんも、お休みなんですよね?」

「休みだけど」

「でしたら、今日一日で、返済をお願いします」

 

 返済である。

 この一年、浅野はその言葉をずいぶんいろいろな人の口から聞いてきた。銀行の窓口の人、リース会社の人、電話口の、名前を覚えきれなかった何人もの人。皆それぞれに丁寧で、それぞれに容赦がなかった。期日があり、利率があり、残高があった。しかしドーナツとカラオケで払えと言ってきた債権者は、さすがに初めてである。残高の欄にはたぶん、放課後三年ぶん、とだけ書いてある。

 浅野の口もとがゆるむと、蓮の頬が赤くなった。

 

「わ、笑わないでくださいよ。真剣なんですから」

「だってさあ。今、思いついたろ絶対」

「お、思いついたのは今ですけど! でも、ずっと前から思ってたんです。いつかって。いつか、お休みの日にって。そのいつかが来る前に、高校のほうが先に終わってしまったので」

 

 浅野は空になったそばの容器に蓋を載せた。角を押すと、反対側が浮いた。

 

 寄り道にドーナツ、カラオケに海。ひとつずつなら何でもない。だが、一年ぶりに会った蓮と、これから半日ずっと一緒にいるというのは、どうにも想像がつかなかった。ついさっきまで、何を話せばいいのかさえわからなかったのだ。ここなら黙っていても麦茶を足してやれる。外ではそうもいかない。

 

「ドーナツなら、駅前で買ってくるぞ。暑いしさ。ここにいれば涼しいだろ、テレビでも見てていいから」

「おつかいを頼んでるんじゃありませんっ!」

 

 言ってから蓮は自分の声の大きさに驚いたように口を押さえた。空き部屋のさらに向こうで、夜中の二時に洗濯機を回す男が何かを床に落とした音がした。

 

「放課後なんですから。……一緒に、行くんです」

 

 最後だけ、ずいぶん小さくなった。

 聞こえなかったことにするには、いくら浅野でも無理がある。浅野は蓋を押した。今度はぱちんとはまった。向かいの話もそのくらい簡単に済んでほしい。

 

「わかった。わかったけどさ、今日じゃなきゃ駄目なのか。ほら、もうちょっと涼しくなってからとか、ちゃんと店とか調べてからとか。海なんか、今から行ったら──」

「今日じゃなきゃ駄目なんです!」

 

 蓮が身を乗り出した。膝が座布団からはみ出して、テーブルが少し動いた。麦茶が揺れた。

 

「だって、今日を逃したら次なんて、もう──辞める前に一度くらい、そういう日があったっていいじゃないですか!」

 

 言ってしまってから、蓮の口が、「あ」、の形のまま止まった。

 浅野も止まった。

 辞める、と聞こえた。

 大学か、と最初に思った。授業は面白いと、ついさっき聞いたばかりではないか。友達もできたと言っていた。それならそうと、先にそっちの話を──

 

 蓮はゆっくりと身を引いて座布団の上に座り直した。はみ出していた膝を戻し、揺れた麦茶のコップを元の位置へ戻し、それから両手を膝の上に重ねた。全部を元どおりにしてから、もう一度、浅野を見た。

 

 

「──アイドルを、辞めようと思ってます」

 

 

 

 

 

 

 

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