「待て待て待て。何を辞めるって?」
自分の耳を疑う、という言い回しがある。浅野はこれまで、あれは物の喩えだと思っていた。現場では一度で聞き取れなければ仕事にならない。聞き違えた入り時間のせいで駅のホームを全力疾走した人間なら、一人よく知っている。浅野自身である。
──アイドルを、辞めようと思ってます。
その耳を、今、浅野はかなり本格的に疑っていた。
蓮は言い直さなかった。膝の上で手を重ねたまま、まっすぐこちらを見ている。
空き部屋のさらに向こうで洗濯機が回りはじめた。ごうん、と壁が震える。それが号砲になった。浅野は座椅子から体を起こそうとして、さっきあれほど探しても見つからなかった背もたれのレバーに肘をぶつけた。がちん、と留め金が外れ、座椅子はがくんと一段起き上がって浅野の背中を前へ押し出した。今さら起きてもらっても遅いのに。
「何でだよ。さっき、ちゃんと歌えたって言ってたろ。二番の終わり、やっと出たんだろ」
「はい。それは本当です」
「じゃあ何だ。仕事きついのか。誰かに何か言われたか。今の担当って、移籍のときに会ったあの人だよな。あの人か」
「違います、あの方はすごく親切で──」
「大学か。両立がきついなら、出る回数減らしてもらえばいいだろ。それとも、」
世の中にある辞める理由の見本市を、浅野の口はたった一人で開いていた。並べながら、手のほうは手のほうでいつのまにかテーブルの上のスマートフォンをつかんでいる。向こうの担当者の番号はまだ消していなかったはずだ。
昨日から返事の一通も送れなかった道具が、こういうときだけ驚くほど手になじむ。
「えっ、ま、待ってください! どこにかけるんですか!?」
「あの担当の人。一回話聞けば──」
「だ、駄目ですよ! 私からお話しするって約束してるんです! マネージャーさんが先に電話なんかしたら、私、明日からどんな顔して事務所に行けばいいんですか!」
蓮が身を乗り出して画面から目を離さない。通話履歴を開きかけた親指がそこで止まった。
どんな顔、と言われて、浅野は想像した。
平日の昼下がり、よその事務所の電話が鳴る。出てみると、知らない男がたいへん丁寧な声で、どうも、前の事務所の元社長でございます、いつもお世話になっております、と言う。その元社長はたいへん切迫しており、たいへん早口で、そのくせ肝心の事情はひとつも知らない。受話器を握った担当者は、きっと送話口を手でふさいで隣の席の同僚にこう言う。
なんだこいつ。
浅野がスマートフォンを伏せると、蓮はようやく腰を戻した。
「いつ話すんだ、向こうに」
「今日中、の予定です」
蓮は来年の企画の話をした。何人かの出演者で来年いっぱい地方をツアーで回る。新しい曲を覚え、合同で練習をしてあちこちの会場へ出ていく。その返事を延ばしに延ばし、ついに今日のうちにすることになっているのだという。
受ければ、この先一年は辞められない。断る電話が、そのまま辞める電話になる。
浅野は反射的に会場の規模を尋ねていた。考えるより先に口が動いた。こういうところだけは一年放っておいたくらいでは錆びないらしい。返ってきた数字は悪くなかった。悪くないどころか、一年前の浅野が逆立ちで町内を一周しても取ってこられなかった数字だった。
「いい話じゃないか」
「はい。いいお話なんです」
蓮はそう言ってうなずき、うなずいたきり、続きがなかった。
浅野は壁の時計を見た。
十二時四十分。
今日中というのが日付の変わるまでなら、あと十一時間と少しある。少しあるが、一人の人間が三年かけて登ってきたものを手放すかどうか決めるにはどう考えても短すぎる。
「理由を聞かせてくれよ。ちゃんと」
「それは、」
蓮は口を開き、閉じた。鞄の持ち手を握り、もう一度開いた。
「……きょ、今日は、その話はしないでください」
「は?」
「
何という条件だろう、と浅野は思った。
本番の三十分前に辞めると言い出して、理由は終演後、と言うようなものである。そんな楽屋があったらマネージャーは本番のあいだじゅう袖で胃を押さえていなければならない。
ところが蓮は、できるまで帰りません、と言うときの顔をしている。あの顔の蓮に、浅野は一度も勝ったことがない。
「……
「はい」
「ほんとに話すんだな」
「話します。マネージャーさんも……そのときはちゃんと聞いてくださいね」
協定は締結された。
条文は口頭のみ、調印式の会場は六畳一間、立会人は空き部屋の向こうの洗濯機である。洗濯機はちょうど脱水に入ったところでがたがたと身をよじり、床ごと揺すって賛成の意を表明した。
押入れの横でシャツを探しながら浅野は作戦を練った。
正面からの説得はたった今協定によって禁じられた。では、正面以外ならどうか。側面か、背後か、いっそ地下からか。
さっきの蓮の顔を思い出す。配信の話をしていたときの顔だ。二番の終わりで息が続いた、一回でできた、私にかかれば──あれが、もうステージに立たない人間の顔だろうか。
違う。
あれは、アイドルが好きで好きでたまらない人間の顔だ。
だったらそれを本人に思い出させればいい。ドーナツで機嫌を取り、カラオケで思いきり歌わせる。気持ちよく歌い終えたところでさりげなく聞くのだ。アイドル、好きなんだろ、と。
好きです、と本人の口から言わせてしまえば、こっちのものだ。
頭の中に久しぶりに進行表が一枚できあがった。
引っぱり出したシャツは片方の袖が裏返っていて、肘までくしゃくしゃだった。しかし首の伸びたTシャツよりはましである。この部屋にアイロンがあったかどうか思い出そうとしてすぐにやめた。あったと思い出せたところでどこにしまったかまでは思い出せないに決まっている。
ズボンを持って風呂場へ入りかけて、財布のことを思い出した。開けてみると、札入れには何も入っていなかった。そばの釣り銭は数えもせずに短パンのポケットへ押しこんだきりで、その短パンは今、洗濯かごの底である。
三千円である。
あの海の魚どもが一匹でも吐き戻してくれるわけではない。わけではないが、できることなら二時間前の自分の襟首をつかんで台から引きはがし、ここまで引きずってきて正座させてやりたかった。
浅野は台所の引き出しを開けた。輪ゴムと割り箸と、いつか読むつもりの保証書の下に、家賃を入れた封筒がある。月末までは何があっても手をつけないと決めていた封筒である。一万円札を一枚抜き、少し考えて戻し、もう少し考えてからまた抜いた。
壁の時計は浅野の後悔などおかまいなしに、きっちり一分ずつ進んでいる。
あと十一時間と、少し。
駅まで十分の道のりに、一時間かかった。
九月の真昼の道というのは、歩く人間に何ひとつ遠慮しない。アスファルトは足の裏から、ガードレールは横から、どこかの家の窓ガラスは斜め上から、それぞれ思い思いの角度で熱を投げてくる。空には雲のかけらもない。浅野は頭の中に日陰の地図を広げ、塀の影から電柱の影へ、電柱の影から自販機の影へと飛び石を渡るように進路を組んでいた。最短ではないが、いちばん焼けない経路である。
ところが連れのほうは、その飛び石を片っ端から踏み外していく。
余計にかかった時間の最初の行き先は雑貨屋だった。
駅へ向かう途中の、浅野が毎日のように前を素通りしている店である。木の看板に読めない横文字が書いてあり、店先には麻の鞄や用途の見当がつかない小瓶、乾いた草の束などが吊られている。浅野にとってはパチンコ屋へ向かう途中の障害物のひとつである。
蓮はその前でぴたりと止まった。
鞄を一つ手に取り、店の奥の鏡の前で肩に掛けて似合いますか、と聞く。似合う、と答えた。すると色違いが出てきた。そっちもいいんじゃないか、と答えると、では最初のものとどちらがいいのかという議題に移った。生成りか、からし色か。肩紐は長いほうか、短いほうか。協議は三巡し、浅野の意見はそのたびに求められ、そのたびに丁重に聞き流され、最後は二つとも棚へ戻して閉会した。
「また来ます。やっぱり欲しいなって思ったら。……放課後って、たぶん、こういうのですよね?」
知らない。浅野だって放課後の専門家ではない。
ただ蓮は何ひとつ買っていないくせに、次に来る用事がひとつ増えた、という面持ちで隣を歩いている。
さて、雑貨屋を出て三軒先で蓮の足がまた止まった。
ゲームセンターである。
自動ドアが開くたびに、電子音と、何かが当たった音と、何かが外れた音と、店内放送の早口とが、ひとかたまりになって歩道へ転がり出てくる。冷房の風もいっしょに転がり出てくるのでそこだけ歩道が少し涼しい。
蓮の目は入口すぐのクレーンゲームに釘づけになっていた。
ガラスの箱の中にぬいぐるみが山と積まれている。
魚だった。
青い魚、黄色い魚、縞の入った魚。どれも目が大きく、口を半開きにしてこちらを見ているとも見ていないともつかない顔をしている。浅野はその顔に見覚えがあった。今朝、液晶の中を右から左へ悠々と泳いでいき、群れをなして画面を埋めつくし、浅野の胸をさんざん高鳴らせておいて、肝心なところで素通りしていった、あの連中にそっくりなのである。まさか陸に上がってまで追いかけてくるとは思わなかった。
「わあ、かわいい……」
「どこがだよ」
「この子です、この縞の。目が、ちょっととぼけてて」
とぼけているのではない。人の三千円を素知らぬ顔で見送った目だ。
しかし浅野の意見などおかまいなしに蓮はもう百円玉を投入口へ入れていた。
「大丈夫です。こういうの、わりと得意なので……!」
聞いていない。
一回目、アームはぬいぐるみの頭をなでて帰ってきた。
二回目、尾びれをつまんで持ち上げかけ、ご丁寧に元の場所へ戻した。
浅野は口を開きかけて閉じた。頭のほうが重い、と言いかけたのだが、言ってくれと頼まれてはいない。
三回目、アームは何もつかまないまま何かをやり遂げたような顔で定位置へ帰っていった。
四枚目の百円玉を握ったところで蓮が真剣な顔でこちらを振り返った。
「マネージャーさん。これ、どうしたら取れるんですか!」
「知らないよ」
「だって、こういうの得意そうじゃないですか。段取りとか」
自分のことをなんだと思っているのだろう。段取りでぬいぐるみが取れるなら苦労はない。ないのだが、頼まれると口が先に動きだすのが、元マネージャーという生き物の悲しい性である。
浅野はガラスに顔を寄せて魚の山を横から眺めて、
「……あの縞のやつ、頭のほうが重いな。真ん中じゃなくて、頭寄りを狙おうか。それと、奥のやつに尾びれが引っかかってる。一回で取ろうとするな。二回で手前に転がして、三回目で落とす」
「三回目……」
「あと三百円で済めば安いもんだ」
蓮はうなずいてボタンに指を置いた。その指先はステージの立ち位置に足を置くときと同じくらい慎重だった。
四回目で縞の魚が手前に転がった。
五回目で出口の穴のふちに乗った。
六回目、アームは魚の背中をそっと押し、魚は、今朝の液晶の中の連中がついに一度もしてくれなかったことを、あっさりとやってのけた。
落ちた。
「取れました! マネージャーさん、取れました!」
取り出し口から引っぱり出した魚を両手で持ち上げ、とぼけた顔を正面から眺め、それから鞄の持ち手にぎゅっと結びつけた。歩くたびに魚が鞄の横でぶらぶら揺れる。
浅野はなるべくそちらを見ないようにした。目が合うと三千円のことを思い出してはらわたが煮えかえる。魚のほうは知ったことではないという顔で揺れている。
そのクレーンゲームの奥で床が光っていた。
画面の前に矢印の描かれた足場が並んでいる。曲に合わせて降ってくる矢印を足で踏んでいく遊びらしい。蓮はその前を一度通り過ぎ、三歩戻ってまた通り過ぎかけて、止まった。
「……ちょっとだけ、いいですか」
「何で俺に聞くんだよ」
蓮は帽子を目深にかぶり直し、マスクを鼻の上まで引き上げてから足場に乗った。選んだのはいちばん易しい曲らしい。
最初の何小節かは、ちゃんと易しく踏んでいた。矢印が来たら、来たところを、つま先でそっと押す。お行儀のいい、いかにも初めてです、という踏み方である。
サビで、音が一段厚くなった。
その途端、蓮の足が矢印を待たなくなった。半拍早く、次へ行く。踵が浮き、膝が拍を拾い、腰が回る。踏むだけでいい足場の上で、腕まで勝手に振りをつけはじめた。マスクの上の目は、もう画面を見ていない。
最後の一音で、きっちり右へ顔を向けて止まった。
どこにも、そんな指示は書いていない。
画面に知らない英単語が金色で躍った。たぶん、褒められているのだろう。
隣の台で遊んでいた二人連れが、口を開けてこちらを見ていた。
「……あ」
蓮が自分の両腕を見下ろした。降ってきた矢印の数よりはるかに多くの仕事をした両腕である。
「い、今のは、その、体が勝手に」
「知ってるよ」
ここで言うつもりはなかった。作戦の山場はカラオケである。だが向こうから城門を開けて出てきてくれたのなら、話は別だ。
「踊るの、好きだもんな」
顔を真っ赤にして、いえ好きじゃないです、癖です、習性みたいなものです、と言い張るに決まっている。浅野はそのつもりで待った。
蓮は帽子のつばを少し上げ、こちらへ体ごと向き直った。
「はい。好きです。踊っているときがいちばん、自分らしくいられるので」
ゲームセンターの電子音の中で、その声だけがどこか別の場所から持ってきたように滑らかだった。
悪くない、と浅野は思った。前哨戦としては上出来である。あとは、カラオケだ。
気をよくして浅野も足場に乗ってみたが、一曲目の途中で矢印に置いていかれ、隣の二人連れに同情の目を向けられて降りた。踏むだけでいいと書いてあるものを踏めない、というのは、なかなか新しい種類の敗北だった。
そんなわけで店を出たときには日陰の位置が少しだけ変わっていた。
浅野の進行表に、雑貨屋の欄はなかったし、ゲームセンターの欄も、もちろんなかった。
駅前の信号を渡ると、ドーナツ店の入口に秋限定のポスターが貼り出されていた。
栗である。
こんもり絞ったクリームの上に、つやつやの栗がひと粒、玉座に据えられたように鎮座している。背景には紅葉まで散らしてある。客がどれほどの炎天下を歩いてこようと、売ると決めた以上は秋なのである。薬局の幟も同じ理屈だった。
蓮がポスターの前で止まった。
「これ、もう始まってたんですね。どうしましょう。私、友達のおすすめとお店の人気ランキングを見比べて、チョコのとお砂糖のにしようって、前から決めてたんです。それがいちばん確実かなって。でも、これ、期間限定なんですよね」
そう言われても困る。浅野が決めた期間ではない。
店に入ってからも、蓮は決まらなかった。トングを構えたままチョコレートの前へ行き、砂糖の前へ行き、栗の前で止まって、またチョコレートの前へ戻る。一歩ごとにトングがかちりと鳴る。そのあいだに、あとから来た客が何のためらいもなく栗を取っていく。蓮が道を譲る。また一人来る。蓮はまた道を譲る。
トレーの栗は、残り四つ。
三つ。
目当ての品が目の前で売り切れていくのを、こうも礼儀正しく見送る客を浅野は初めて見た。
「三つにすりゃいいだろ。そんなに食いたいなら」
「お昼に三つは、さすがに……。あの、マネージャーさんは何にするんですか?」
「コーヒー」
「それだけですか?」
「そば食ったろ。お前の目の前で」
蓮は考えた。
考えた末に、浅野の腹のあたりへ目を向けた。
「じゃあ、栗のを半分こしませんか。私がチョコとお砂糖と、栗の半分。マネージャーさんが、栗のもう半分。そうしたら、私が食べるのは二つ半です」
「二つ半は食うんだな」
「は、半分はマネージャーさんのぶんですから! セーフです!」
何がどうセーフなのかは審判にもよくわからない。
奥の壁際の席に落ち着くと、蓮はまずスマートフォンを構えた。
皿を三枚並べ直し、向きを揃え、栗のてっぺんが光るように角度をつける。撮る。確かめる。皿を一センチ寄せる。撮る。確かめる。紙ナプキンを一枚、構図の外へ追放する。ずいぶん本格的だ。今の事務所では写真の撮り方まで仕込んでくれるのだろうか、と浅野は少し感心する。
そのレンズが、すうっとこちらへ滑ってきた。コーヒーカップを持った浅野の手が、画面の端に入りかけている。
「マネージャーさんも、ちょっとだけ。手だけでいいですから」
「俺はいいよ」
カップごと手を引っこめた。
手だけでも困るのだ。マネージャーさん、とこの子はまだ呼ぶが、浅野はもう誰のマネージャーでもない。現役のアイドルが撮った写真の端に、袖のくしゃくしゃなシャツがのぞいている。誰も気にしないかもしれない。それでも、今の蓮の写真に自分の居場所があっていいとは、どうしても思えなかった。
蓮は画面とこちらを見比べた。何か言いかけて、やめた。それから一度だけシャッターを切った。
ちらりと見えた画面の中で、三枚の皿は左へ寄っていた。右側だけが、誰かの席を取っておいたみたいに空いている。
そのスマートフォンが、テーブルの上で短く震えた。
画面に通知が浮かぶ。差出人の名前の前に、今の事務所の名前が見えた。蓮は指先で画面を伏せ、何事もなかったようにフォークを手に取った。
浅野もポケットから自分のスマートフォンを出して、同じように伏せた。こちらにも、昨日から返していない連絡が一件入っている。
伏せた画面が二つ、テーブルの上に並んだ。
どちらも、今日の
それから栗の分割が始まった。
フォークを入れた途端、下の生地が皿の上をつるりと滑り、クリームの山がぐらりと傾く。浅野がとっさに自分のフォークで下を押さえ、その隙に蓮が切り進める。倒壊はどうにか免れた。免れはしたが、片方にはクリームの大半が載り、もう片方には、かつてここにクリームがあったという記念碑しか残らなかった。
蓮は皿を見た。浅野を見た。少し迷ってから、クリームの多いほうを浅野へ寄せた。
俺には甘すぎる、と浅野は言った。蓮は、いいんです、と言って皿を引っこめさせなかった。ひと口も食べていないのに甘さを知っていることについては、双方とも問わなかった。
てっぺんの栗は、最初のひと太刀の時点ですでに蓮の皿へ避難していた。
蓮は砂糖のほうを小さく切り分けて、その一切れを浅野の皿へひょいと移した。
「はい。おすそわけです」
「いいよ、お前のだろ」
「友達が送ってくれる写真、だいたいこうやって一口ずつ分けてるんです。ひとつずつしか頼んでなくても、全部の味がわかるので」
チョコレートの一切れも、続けて皿へやってきた。気がつけば、浅野の皿の上にだけ三種類が揃っている。注文したのはコーヒー一杯きりのはずなのに、テーブルでいちばん品数が多いのはこの皿である。
砂糖のひと切れを口に入れると、蓮がのぞきこんでくる。
「おいしいですか」
「甘い」
「それ、さっきも言ってましたよ」
蓮は笑って、残りのドーナツをひと口ずつゆっくり減らしていった。
「今日は、こういうのだけでいいんです。おいしいねって言って、それでおしまい。ちゃんとできたかどうかとか、考えなくていい日にしたいんです」
何の話だ、と聞きかけて、やめた。浅野はかわりにコーヒーをひと口飲んだ。
「ドーナツ食うのに、ちゃんとも何もないだろ」
「ありますよ。半分に切れませんでしたし」
「切れなくても、味は同じだよ。甘いとこは多めにもらったしな」
蓮が顔を上げて、少し笑った。
浅野は残りのコーヒーを飲みほした。クリームのあとでは、最初のひと口よりずいぶん苦い。
蓮は、避難させておいた栗を最後に食べた。ポスターで玉座まで用意されていたわりに、ひと口でなくなってしまう。空になった皿を見下ろし、少し考えてから、蓮は満足そうにフォークを置いた。
「……ごちそうさまでした。放課後のドーナツって、こういう味なんですね」
「普通のドーナツだったけど、いいのか」
「普通のドーナツの味です。それが、いいんです」
残高の欄には、放課後三年ぶん、と書いてある。
ドーナツ二つ半とコーヒー一杯で、そこからいくら引けたのかはわからない。わからないが、目の前の債権者は、少なくとも今は、ずいぶん満足そうな顔をしていた。