カラオケ店は、道を渡った向かいのビルの二階だった。
階段の脇に、平日昼間の料金が大きく書いてある。安い。安いと思わせておいて、その下には会員価格だのドリンクバー料金だの対象時間だの室料と飲食の別だのが、大きな数字の邪魔をしない程度の慎ましい文字で並んでいる。嘘はひとつも書いていない。客が勝手に安いと思いこむだけで、店は初めから全部説明しているのである。
受付で一時間と言うと、蓮が料金表を見ながら指を折りはじめた。歌いたい曲を数えているらしい。一本折り、少し考えて一本戻し、また二本折る。どう見ても足りていない。延長するか、と言いかけて、浅野は口を閉じた。財布の中身は家賃である。
部屋は狭かった。壁に大きな画面、その下に機械とテーブル、奥へL字に折れたソファ。窓はなく、空調だけがやけに真面目に働いている。蓮が奥へ鞄を置いたので、浅野は入口に近いほうへ腰を下ろした。飲み物を取りに出やすいし、店員が来てもすぐ立てる。座る場所ひとつ選ぶのにも、いまだに段取りが先に立つ。自分でもあきれる。
温かいお茶と烏龍茶を取って戻ると、蓮は端末を膝に載せたまま待っていた。予約の一覧は空っぽだった。
「入れててよかったのに」
「マネージャーさんが戻ってきてからにしようと思って。最初のとこ、聴いてもらえないじゃないですか」
最初に蓮が入れたのは、可愛い曲だった。
片思いの女の子が、考えて、悩んで、勝手に落ちこんで、勝手に立ち直る歌である。そんなに忙しく悩むくらいなら一度本人に聞いてみればいいではないか、と浅野などは思うのだが、それをやったら一番が終わる前に結論が出てしまう。歌のほうにも都合がある。
蓮の声は、その忙しさによく合っていた。短い言葉を弾ませ、次の言葉へ滑りこみ、かと思うと急に声を落として、聴いているこちらまで耳を寄せたくなるような歌い方をする。凛と通る声には、こういう使い道もあったのだ。
サビに入る。
蓮の左手が上がった。振りを覚えているらしい。マイクを持たないほうの手だけで控えめにやるつもりだったのだろうが、手首がついてくる。肘がついてくる。しまいには肩まで加勢に来る。その真下には、湯気の立つお茶のカップがある。
浅野はとっさにカップを引いた。蓮が、あっ、と歌詞にはない声を出して、次の一語を取り逃がす。
二度目のサビの手前で、指がまたうずうずと動きだした。浅野は黙ってカップをテーブルの端まで寄せる。
最後のサビでは、もう遠慮もなかった。蓮の両手は堂々と天井へ上がり、浅野の手はカップの取っ手から一度も離れなかった。
「振りまで覚えてたのか」
「動画見てたら、だんだん覚えちゃって。家ではちゃんとできたんですよ?」
「家には、このテーブルがないからな」
「テーブルのせいじゃなくて! この部屋が狭いんです!」
カップを倒しかけた曲を最後まで歌い切って、蓮は悔しそうに自分の肘をにらんでいる。
ほらみろ、が喉もとまで来た。
まだだ、と浅野は飲みこんだ。
振りを覚えていたくらいなら、動画で見てたら覚えちゃって、で言い逃れができてしまう。もう一押し、言い逃れのきかない一曲がほしい。
何を入れさせたものか考えながら、端末を借りて履歴を送っていった。この部屋をこれまでに借りた、見知らぬ誰かたちの足跡である。どこかで聴いたことのある演歌があり、そのすぐ下に子ども向けアニメの主題歌があり、その下に誕生日の歌があって、その下にまた同じ演歌があった。誕生日を祝われたのが誰なのか、演歌を二回歌ったのが誰なのか、子どもとおじいちゃんが同じ部屋にいたのかどうか、浅野には知るよしもない。履歴というのは他人の昼休みと夜更かしと記念日を、日付も名前も剥ぎ取って一列に並べた、奇妙な名簿だった。
その名簿の途中で指が止まった。
コンビニの天井から降ってきた曲だった。
「これも、あるんだな」
蓮が身を寄せて画面をのぞいた。
「あ。それ、私たちの」
曲名の脇に小さな画像がついている。配信に使っていたジャケットである。あの頃、何案も並べてどれなら小さく表示されても見分けがつくか、夜中まで考えた。今そのとおりの小ささで、自分の手の中に収まっている。
知らない誰かがここで歌ったのだ。サビしか知らなかったかもしれないし、途中で唐揚げが来たかもしれない。友達に入れられて照れながら歌ったのかもしれないし、一人で来て誰にも聴かせずに歌ったのかもしれない。いずれにせよ、その誰かは最後まで歌って次の曲へ進んだのだ。今朝の浅野にはこの一曲を最後まで聴くことさえできなかった。
「これ、歌ってくれないか」
作戦のためだ、と自分に言い聞かせた。これほど確実な一曲はない。言い聞かせるのに少し時間がかかった。
「いいんですか?」
「ああ。さっき言ってたとこ、聴きたいんだ。二番の終わりのとこ」
「はい。でも、そこだけじゃなくて、ほかにも前と変えたところがあるので」
「全部聴くよ。途中で切ったりしないから」
蓮は口を結び、一度うなずいて、お願いします、と言った。頼んだのはこっちだ、と思ったが言い直すのはよした。
予約を押した。
蓮が立ち上がった。座ったままでいいだろ、と言いかけて、やめた。ソファとテーブルのあいだの、人ひとりぶんしかない隙間に蓮は両足を肩幅に置いた。マイクを胸の高さに構えて一度だけ小さく息を吐く。袖からいつも見送っていた、出ていく前の背中だ。六畳ほどの部屋ではその背中が、ずいぶん近い。
浅野は端末を置いて座り直した。烏龍茶はある。スマートフォンもある。ドリンクバーへ行こうと思えば行ける。ここはコンビニと違って出ていく客を引き留めるような丁寧な店員もいない。逃げ道は三本も四本も開いている。だけど今は、全部そのままでいい。
前奏が鳴った。
これが鳴ると浅野の頭の中では、ステージの右端で一人が前へ出る。Bメロで中央へ寄り、照明が変わる。サビで腕が上がる。順番も間合いも、何ひとつ忘れていない。忘れようとして一年かけたのに、何ひとつ忘れられなかった。
ところが画面に出てきたのは、海沿いの道を歩く知らない女だった。
蓮たちとは縁もゆかりもない女が、風に髪をなびかせ、いかにも何か思い出しそうな顔で海を見ている。人の曲に勝手に出演するなら、せめてひと言相談してほしかった。
その女の前で蓮が歌いはじめた。
頭の中の歌声と、違った。
一番の出だしはもともと別の子のパートだった。そこを蓮が歌っている。言葉の終わりを少し残して次の音へつなぐ。その違いを一つ聞き取ったところで、浅野の頭の中の声は目の前の声に追い越された。
追い越された声はしばらく未練がましく後ろを走っていた。Aメロの終わりで息を継ぐ場所、Bメロの頭で一瞬だけ硬くなる喉。浅野の頭はその一つひとつに昔の印をつけようと待ち構え、そのたびに目の前の声に置いていかれた。追いついたと思う頃には、もう次のフレーズへ行っている。
二番の終わりで、昔は息が足りなくなった。
目の前の蓮が、二番を歌っている。
画面の女は、いつのまにか電車に揺られていた。浅野はもう女のほうを見ていなかった。
昔なら肩に力の入るあたりでも、蓮は急がない。ゆっくり歌っているように聞こえるのに、ちゃんと間に合う。
浅野は背もたれから離れた。
声が、最後まで残った。
伴奏に消されず細くならず、蓮が少しマイクを離すところまで伸びた。自分で終わりを決めて止めた。
できたじゃないか。
そう言いかけて顔を上げると、蓮はまだ歌っていた。
当たり前である。曲は終わっていない。
浅野の中ではここで蓮が振り向くことになっていた。どうでしたか、と聞かれる。よかったぞ、と答える。彼女が笑う。もう一度やってみてもいいですかと言い出すかどうかは、その日の残り時間と浅野の断る強さ次第である。台本はそこまでできていた。ずっと前から、その場面で止まっていた。
目の前の蓮は、次の言葉を歌っている。
あの一節を、通り過ぎていく。
浅野の記憶の中では何度でもつまずく場所が、この子の中ではもう曲の途中になっている。
最後のサビで、蓮がこちらを見た。
浅野は手を叩いていた。伴奏に合わせてやろうと思ったのではない。何かしていなければ座っていられなかったのである。拍は少しずれていたし、途中からだんだん速くなった。手拍子としては落第だった。
蓮が笑った。笑ったまま最後の言葉まで歌い切った。
伴奏が終わるのを待って、マイクが下りる。
「──どうでしたか」
何から言えばいいのか、わからなかった。あそこで声が出た。出だしが違った。歌詞が前よりずっとよく聞こえる。言いたいことが山ほど浮かんで議事進行に手間取っているあいだに、蓮の顔から自信が少しずつ抜けていく。
待たせるなよ、と自分に腹が立った。
「すごいな、蓮」
結局、それだけが先に出た。
一度口から出てしまうとあとは栓が抜けたようだった。
「あそこ、ほんとに歌えるようになったんだな。いや、あそこだけじゃない。出だしから全然違った。何だよ、一年でこんなに変わるのか」
「そ、そんなに、ですか?」
「そんなにだよ。最後なんか、前みたいに苦しそうじゃなかったし。余裕まであったろ」
蓮は笑いかけていったん唇を結んだ。結びきれずにまた笑った。
「息を吸う場所を、変えたんです。歌の先生に相談して。そこで吸ったら言葉が切れちゃうと思ってたんですけど、やってみたら全然切れなくて。あ、でも今のは踊ってませんからね! 踊りながらだと、まだ毎回こうはいかなくて、だからまだ完成じゃなくて──」
「いいんだよ。踊りながらは次の話だろ。今のは最後まで出た。俺はそれが聴けて、うれしかったんだから」
言いながら、浅野の頭はもう先へ走っていた。あの最後の伸ばしは、ちゃんとしたステージなら照明を一段絞って声だけ残したほうがいい。そのあとのサビ頭で上から一気に──
気がつくと、手が壁のつまみを回していた。部屋の明るさを変えるつまみである。部屋はすうっと暗くなり、天井の隅でミラーボールがここぞとばかりに光の粒を撒きはじめた。
「だから、ここで一回落として、最後の音だけ拾って、サビで──」
「マネージャーさん。ここ、カラオケです」
言われて見上げると、天井ではミラーボールがまだ回っていた。浅野はつまみを元へ戻した。
蓮はマイクを膝に下ろした。まだ話したそうな顔だった。
「今の先生にも言われたんです。基礎をちゃんとやってきたんだねって。だから私、前の事務所で教わりましたって、ちゃんと言いました。あの頃のノート、まだ使ってるんですよ。紙を貼り足しすぎて、閉じても勝手に開いちゃうんですけど」
新しいのを買え、と言いかけてやめた。押入れに段ボールを二つ積んだまま一年放っておいた男に紙の扱いについて意見する資格はない。
知らない先生の話を聞いているのに浅野の頭に浮かぶのは、最後に事務所で向かい合った蓮のほうだった。
半分空になった棚。書類を封筒に入れて渡したところまでは覚えている。蓮が何か聞いて、自分も何か答えたはずだ。ところがその先をたどろうとすると机の上でスマートフォンが震えだす。電話の用件ならいくらでも出てくるのに、あの日の蓮がどんな顔で帰っていったのかだけがどうしても出てこない。
「マネージャーさん?」
浅野は顔を上げた。
目の前の蓮はうまく歌えた日の話をしたくてうずうずしている顔だった。
──アイドル、好きなんだろ。
今だ、と思った。気持ちよく歌い終えて褒められて、この流れなら、好きです、と返ってくるに決まっている。
浅野が口を開きかけたのと、蓮が端末を差し出したのは、ほとんど同時だった。
「次、マネージャーさんの番です」
「待て、今の曲の話をもう少し──」
「もしかして、私が歌ってるあいだ、一曲も探してなかったんですか?」
探していなかった。
探すどころか端末というものがこの部屋にあることさえ忘れていた。その端末が今、蓮の手からこちらへまっすぐに差し出されている。
「俺はいいよ。聴いてるほうが」
「駄目です。私だけ歌ってたら、いつものレッスンと同じじゃないですか。今日は放課後なんですから」
蓮はもう一本のマイクを取って、浅野が持ちやすい向きに置いた。それから自分のカップを持って部屋を出ていき、戻ってきたときには水の入ったコップをもう一つ持っていた。浅野の前に置く。喉、乾きますよ、と言う。
水もある。機械もある。聴いてくれる人間もいる。差し出す側から差し出される側へ回ってみると、これはなかなか断りにくい。
端末を受け取って困った。
何でもいいと言われれば何かある気がするのに、いざ画面を前にすると出てこない。とりあえず年代別というボタンを押して、自分が中学生だった頃の年を選んでみた。見覚えのある曲名がずらりと並ぶ。並びはするのだが、どれも名前を知っているだけでどう歌い出すのかが出てこない。表札だけきちんと掛かっていて、どの家も留守、といった眺めだった。
「マネージャーさんの好きな歌って、何ですか?」
「俺の、好きな歌か」
「はい。普段、何聴いてるのかなって」
出てこなかった。
この一年でいちばん長く聴いた音楽は、たぶんパチンコ台のファンファーレである。それも、鳴っているのはたいてい隣の台だった。
「じゃあ、お休みの日って何してたんですか? 事務所があったころの」
「事務所にいた」
「それはお休みじゃないです」
「休みの日は電話が少ないから、書類が進むんだよ」
「それはお仕事です!」
蓮は声を上げてから、ふっと黙った。
それから端末を浅野の手から取り返し、迷わず何か打ちこんで、出てきた一覧の中から一曲を選んだ。浅野が中学生くらいの頃に、どこへ行っても流れていた歌だった。商店街でも、歯医者の待合室でも、親戚の結婚式の二次会でも流れていた。さっき年代別の画面で素通りした表札のひとつだった。
「これです」
「何で、これ」
「マネージャーさん、書類を書いてるとき、よくこれを鼻歌で歌ってました。サビのところだけ、何回も。電話が鳴ると止まって、切るとまたサビから歌い直すんです」
覚えがなかった。
鼻歌を歌っていたことも、それがこの曲だったことも。
見られていたのは、こっちも同じだったらしい。
「サビなら歌えますよね」
「サビしか知らないってことだろ、それ」
「サビは私も歌えます。何回も聴かされましたから」
そこから先は、さんざんだった。
声が出ない。出てはいるのだが、頭で思っている音と、スピーカーから返ってくる音がまるで一致しない。サビの手前の高い音で見事に裏返った。
蓮の唇がきゅっと結ばれた。
このやろう。
「悪い、キー二つ下げてくれ。高いとこ、全然出ねえ」
「は、はい。今のは、びっくりしただけで」
「笑っていいよ。俺だって他人があんな声出したら笑うし」
蓮は吹き出し、すみません、と言いながらキーを下げた。前奏が頭から鳴り直す。
それなら、今の自分にも届いた。
Aメロはあやしかった。Bメロは画面を読んだ。サビに入ったところで隣から声が重なってきた。マイクも持たずに浅野より正確に歌っている。何回も聴かされたというのは、どうやら誇張ではなかったらしい。
それだけでは済まなかった。
二度目のサビの手前で、蓮が部屋の隅のかごからタンバリンを拾い上げた。たぶん一日じゅう誰にも構われずにいたタンバリンは、蓮の手首で小さく正確に鳴った。間奏に入ると蓮は手拍子に持ち替え、拍の頭で、はい、はい、と声をかけてきた。客席の最前列でしか聞かないような掛け声だった。どこで覚えたのかは、聞くまでもない。ステージの上で毎回それを浴びていたのは、浅野ではなく蓮のほうなのだ。
浅野は客席のほうを向いて歌ったことなど一度もない。いつも袖か、客席のいちばん後ろにいた。
手を叩いている人間の顔は、思っていたよりずっとよく見える。
そこからは、交代で歌った。
蓮が今どきの曲を入れて、浅野に教えた。教わったとおりに歌おうとして浅野は早口のところで完全に置いていかれた。画面の歌詞は浅野を待たずに色を変えながら先へ先へと流れていき、浅野はそれを駅のホームで乗りそこねた電車を見送るような気持ちで眺めた。
お返しに浅野が古い曲を入れると蓮は前奏の途中で顔を輝かせた。
「あ、これ知ってます! この前ドラマで流れてたやつですよね。若い女の人がカバーしてて、私、あれすごく好きで、配信で何回も聴いてたんです。原曲ってこういう感じなんですね、ちょっと渋くて、なんか、かっこいいです」
「こっちが元なんだよ。順番が逆だ、順番が」
言ってから、ずいぶん年寄りじみた響きになったことに気づいた。蓮は、はい、すみません、と神妙に謝り、謝りながら笑っていた。
知らない曲を教わり、知っているつもりの曲で間違えた。間違えたまま歌い終えてもここでは誰も困らなかった。
途中で一度蓮が端末から顔を上げた。
「そうだ。皆で撮った写真、送ってもらえませんか。私、自分で撮ったのしか持ってないので」
「あれは、箱の中だな」
「じゃあ、箱から出して送ってください」
「探しとくよ」
「探しとく、じゃなくて、送ってください」
浅野は押入れのガムテープを思い浮かべた。一年前に自分で貼ってそれきり一度も剥がしていない。茶色いテープは今ごろすっかり箱になじんで、もとから箱の一部だったような顔をしているはずだ。開けなければ何も出てこない箱である。
送るよ、と答えた。答えてしまった以上は開けなければならない。
不意に壁の電話が鳴った。
蓮より先に浅野の手が受話器を取っていた。
「はい、浅野です」
受話器の向こうが一瞬黙った。それから若い店員の声が、いくらか戸惑ったように、お時間残り十分となりますが、と言った。
浅野は受話器を耳に当てたまま固まった。ここはカラオケ店で、かけてきたのはカラオケ店の店員で、浅野が名乗る必要はどこにもない。一年ぶんの錆も、電話を取る手と口の速さだけは少しも鈍らせてくれなかったらしい。
延長はなしで、と言って受話器を置くと、蓮が両手で口を押さえてソファの上で丸くなっていた。
「わ、笑ってません」
「笑ってるだろ」
「だって、浅野です、って……。事務所の電話みたいに、すごくちゃんとした声で……」
笑いが収まってから、二人で壁の時計を見て、もう、と言った。
「じゃあ最後に、これ、一緒に歌いませんか」
「サビだけな。途中なんて絶対にあやしいぞ」
「私も二番は自信ありません。わからなくなったら、画面を見れば大丈夫です」
画面を見れば歌えるのなら、この一時間浅野は一度も困っていないはずである。
結局二番の途中で二人ともわからなくなった。画面を読み、相手をうかがい、同時に違う音を出した。蓮が笑って歌えなくなり、浅野が残りを引き受けた。その浅野も正しくはなかったが、正しい歌を知っている人間が部屋にいないので、最後まで訂正は入らなかった。
受付には先客がいた。
大学生らしい四人連れで、伝票を一枚挟んでああでもないこうでもないと割り勘の計算をしている。誰がドリンクバーをつけて誰がつけなかったか、途中で抜けた一人の分はどうするのか、ポテトは四人で食べたのか三人で食べたのか。店員は笑顔のままレジの前で静かに待っていた。
浅野が伝票を持って列の後ろに並ぶあいだ、蓮は帽子をかぶり直して壁際で店内に流れている曲に耳を傾けていた。さっき受付で指を折って数えていたうちの、一曲だったらしい。
「入れればよかったな、それ。俺の鼻歌のやつで時間食ったから」
「いいんです。あれが聴きたかったので。今日、マネージャーさんと歌えて、楽しかったです。間違えたところも」
浅野は伝票の端を指で折りかけてやめた。店員に渡すものまで畳むことはない。
──好きなんだろ、アイドル。
聞くならここが最後だった。店を出てしまえば進行表にはもう何も書いていない。
しかし、と浅野は思う。聞く必要が、あるだろうか。
証拠ならもう山ほど挙がっている。二番の終わりを通り過ぎていった声を聴いた。先生の話をする顔を見た。ゲームセンターでは頼まれもしないのに踊りだし、カップを倒しかけるほど腕を振り上げ、浅野の鼻歌まで覚えていて、タンバリンを鳴らし、掛け声までかけて、間違えたところも楽しかったと言う。これだけ揃えば、どんな頑固な裁判官でも黙って判決文を書きはじめるだろう。ここまで見せてもらってまだ本人の口から言わせなければわからないのなら、三年間、何を見ていたのか、という話になる。
もうわかっている。この子は言うまでもなくアイドルが好きなのだ。
だったら、言ってやるべきなのはこっちのほうなのだ。
割り勘の四人連れはようやく小銭の最後の一枚まで話をつけて、満足げに階段を下りていった。店員はすぐには呼ばなかった。カウンターの内線を取り、どこかの部屋に向かって、お時間残り十分となりますが、と告げている。受話器の向こうで誰かが自分の名前を名乗った様子はなかった。
「……俺、まだ昔のお前のつもりでいたんだな。あそこが出ないとか、こっちが苦手だとか。先生と相談して、自分で直したんだろ。とっくに通り過ぎてたんだな」
蓮はうなずいて鞄の肩紐を掛け直した。続きを待っている。
「──だから、俺なんかがついてなくても、もう大丈夫だよ」
蓮の手が肩紐をつかんだまま止まった。
「……そう、ですか」
「うん。自信持っていい。俺が心配しすぎたんだな」
蓮は肩紐の端を指で折り返した。口を少し開き、言葉を探して、やがて、はい、と答えた。帽子のつばで顔は見えなかった。肩紐を持つ指だけがゆっくり動いていた。
「マネージャーさんは、」
蓮が顔を上げた。浅野は続きを待った。蓮は口を開きかけてから小さく首を振った。
「……いえ。今日は、一緒に来てくれて、ありがとうございました」
「何だよ急に。まだ帰ってないだろ」
「そうですけど。今、言っておきたくて」
店員に呼ばれる。
表示された金額は入る前に計算したとおりだった。一円の狂いもない。今朝の店も、払ったぶん楽しんで帰れる仕組みならよかったのだ。札を抜きながら振り返ると蓮は鞄の口を開けていた。
白い角が見えた。
手がその上で止まって、隣へずれた。取り出したのはスマートフォンだった。画面を一度見て、鞄へ戻す。浅野は釣り銭を受け取って、今度はちゃんと財布にしまった。
外へ出ると日陰の位置がさらに変わっていた。
さっき渡った横断歩道をビルの影が半分のみこんでいる。日差しは真昼と少しも変わらない顔で照りつけているくせに、影だけはきちんと東へ伸びはじめていた。浅野はまぶしさに目を細めて隣を見た。蓮のマスクの下で口が小さく動いていた。さっきの曲の続きを歌っているらしい。
一時間歌って外へ出てもまだ続きを歌っている。終わったと言われても本人の中では終わっていない。そういうところはあの頃とひとつも変わっていない。
蓮は大丈夫だと、今度こそ伝わったはずだ。
作戦は、少し形を変えて成功した。
言わせるつもりが、言うほうに回った。それでも、言うべきことは言ったのだ。戦果としては上々である。凱旋の楽隊こそいないが、ちょうど通りの向こうでパチンコ屋の自動ドアが開いて景気のいい音楽が歩道まで漏れてきた。今日だけはあれを祝砲と思ってやってもいい。
あとは蓮が自分で決めればいい。慌てる必要はない。
頭の中の進行表に行が勝手に増えていく。今夜のうちに予定を全部出してもらう。大学の試験期間に赤い線を引く。移動の多い月を割り出す。向こうの担当と話す前に、言うことを三つに絞っておく。四つ以上言うと人は二つ目までしか覚えていない、というのは、浅野が電話口で何年もかけて学んだ、数少ない真理のひとつである。
そのくらいの役には、まだ立つだろう。
放課後の一覧には、海が一つ残っていた。だが作戦はもう済んだのだ。この炎天下に、これ以上あの子を連れ回す理由もない。
時計を見た。三時半を回っていた。返事の期限まではまだ八時間ある。八時間あれば何だってできる。四時間前の自分は魚に三千円を食わせていた男なのだ。それに比べれば、今の自分はほとんど敏腕と言っていい。
少し先を歩きかけて浅野は振り返った。
「放課後は、このへんでいいだろ。十分返したと思うぞ、俺は。それで、どうする?」
蓮が鞄の持ち手を握り直した。持ち手の横で縞の魚がひとつ揺れた。
ほら、来た、と浅野は思った。
うれしそうな顔になりすぎないよう口もとに力を入れる。最初からそう言ってただろ、とは言わない。よかったな、と言えばいい。本人が決めたことなのだから。
「────私、やっぱり、アイドルを辞めます」
背後で店のドアが開き、若い男が二人、階段を下りてきた。蓮が道を空けたので浅野も遅れて脇へ寄った。一人が電話をかけながら、いや今終わったとこ、と笑っている。こんなときに何がそんなにおかしいのかと思い、こんなときなのは自分だけだと浅野は気づいた。
どこから違ったのか。
いつから違ったのか。
蓮の鞄の横で、縞の魚がとぼけた顔のまま揺れている。今朝、液晶の中を素通りしていった連中と同じ顔だった。
喉にはまだ一緒に歌った熱が残っている。
大丈夫だと言ったばかりの口で、浅野は何が大丈夫だったのかさえ説明できなくなっていた。