海の写真なのに、海がほとんど写っていなかった。
画面の八割は三人の顔で、残りの二割には髪と指と、どこから調達してきたのかピンク色の浮き輪がぎゅうぎゅうに詰めこまれている。海は右上の角にあった。指で示されなければ蓮はそこを空だと思っただろう。空だと思って、ずいぶん曇ってるね、と言っていたはずだ。
「これ、何してるとこ?」
「風がすごくてさ。三人とも顔が入ってるの、これしかないんだって」
友人の指が画面を払う。
次の一枚では一人が自分の髪の向こうに消えていた。その次では三人そろって目を閉じていた。その次はたぶん地面だった。その次はたぶん誰かのポケットの中だった。蓮が吹き出すと友人はなぜか得意そうに、でしょ、と言った。まともに撮れた写真が一枚もないのに、見せるほうも見せられるほうもさっきからずっと楽しい。
帰りのホームルームは、とっくに終わっている。
教室にはまだ半分くらい人が残っていた。黒板の前では日直が消し残しの日付と格闘していて、後ろのロッカーの前では誰かが体操服を探して袋をひっくり返していて、窓の外からはボールを打つ乾いた音と、吹奏楽部の誰かがいつまでも同じ音階の途中でつまずいている音とが、かわるがわる流れこんでくる。
蓮は鞄を肩に掛けたまま友人の机に片手をついていた。一枚だけ見て出るつもりだったのだ。ところが一枚見ればその前に何があったのかを聞かずにはいられないし、聞けば今度はそのあとが気になる。断片をつなぎ合わせてわかったことには、彼女たちは海に着くまでに電車を二度乗り間違えていた。二度である。一度目は反対方向へ乗り、二度目は快速で目当ての駅を通り過ぎて、三人で窓に張りついたまま遠ざかる駅名を見送ったらしい。そうまでしてたどり着いた海が写真の隅っこに押しやられているのだった。
「あ、これ。これが一番まとも」
ようやく、砂浜が写った。
ローファーが三足、行儀よく並べて脱いである。その先へ裸足の跡が続き、途中から誰のものがどれなのかわからないくらいぐちゃぐちゃに入り混じって波打ち際でぷっつりと消えていた。
「泳いだの?」
「足だけ。着替えなんか持ってないもん」
「じゃあこの浮き輪は?」
「海の家で借りた。泳がないのに」
「え、なんで借りたの」
「写真に要るじゃん、浮き輪」
蓮は最初の一枚をもう一度見せてもらった。
三人とも制服だった。自分と同じ、学校帰りのままの格好だった。
海というのはもっと準備のいる場所だと思っていた。休みを取って天気予報を三日前から見張って、水着を買って日焼け止めを買って、前の晩から枕元に荷物を並べてそわそわして、そこまでしてやっと行かせてもらえる場所が海のはずだった。この三人は駅の階段でいつもと反対側のホームに下りた。ただそれだけなのである。
「蓮も来られたらよかったのにね。あの日ってライブだったっけ」
「うん。駅前の広場で」
ステージのすぐ脇を、買い物袋を提げた人が素通りしていくような会場だった。一曲目の終わりに通りかかった女の人は、歩く速さも変えずに行きかけて、二曲目のイントロで足を止めた。そのまま帰らずにいて、最後の曲では袋を足もとに下ろし、両手で拍手をしてくれた。あの人の顔は今でも覚えている。
「楽しかった?」
「すごく」
これは迷わずに答えられた。それでも写真はもう少し見ていたかった。
「蓮のは? ライブの写真とかないの?」
言われて蓮は自分のスマートフォンを出した。写真のフォルダを開いて親指で上へたどっていく。
レッスン場の鏡。鏡に映った、振りを確かめている誰かの背中。ハンガーにずらりと掛かった衣装。楽屋の机に並んだお弁当。名前も覚えていない会場の、やけに高い天井。浅野の字で書かれた、出番の順番の貼り紙。
どこまでたどっても海は出てこなかった。海どころか、空がまともに写っている写真が一枚もなかった。
そのかわりどの写真にも事務所の誰かがいた。誰もいないときは、誰かの荷物があった。
「……見せられるの、あんまりないかも。勝手に出しちゃだめなのもあるし」
「あー、そっか。アイドルだもんね」
友人はあっさりうなずいた。蓮はフォルダを閉じた。閉じたあとも親指はしばらく画面の上に残っていた。
「じゃあ今度さ、蓮も行こうよ。休みの日に」
「うん。そのうちね」
そのうち、と言ってから、そのうちとはいつのことだろうと考えた。考えはじめるより先に明日の予定がやってきた。新しい事務所へ行って挨拶をして、それから先のことは向こうの人に聞いてみなければわからない。わかったらまた考えよう。そう決めて顔を上げたときには友人はもうスマートフォンを伏せていた。
友人が机の横の鞄を引き上げたので蓮も机から手を離した。肩に食いこんでいた持ち手を掛け直す。窓から吹きこんだ風が、友人の腕の下にあったプリントを一枚床へさらっていった。
「今日も事務所?」
拾い上げながら蓮はうなずいた。
「え、急がなくて平気? ごめん、引き止めちゃった」
「大丈夫。今日はレッスンないから」
「へー、めずらし」
友人は受け取ったプリントを半分に折って鞄の隙間に押しこんだ。
蓮は、その先を言わなかった。
今日は、ない。明日も、ない。あさっても、しあさっても、あの事務所でレッスンをすることは、もう二度とない。
それを言えばこの机のまわりの空気が変わってしまう。浮き輪とローファーの話で笑っていた放課後がまるで別のものになってしまう。それはなんだかひどくもったいないことのような気がした。
「じゃ、また明日ね」
「うん、また明日」
戸口で別れると友人は階段のほうへ駆けていった。踊り場の下から別の子が友人の名前を呼んでいた。
蓮はスマートフォンを出して浅野とのやり取りを開く。朝、校門をくぐる前に送った一行がいちばん下に残っている。
『放課後、いつもの時間に行きます』
『わかった。待ってる』
待ってる、の四文字を、蓮はもう一度読んだ。
それから時刻を見た。いつもの電車に乗るにはもう走らなければならない時間だった。
間に合った。
そして間に合ってから、べつに一本遅れてもよかったのだと気がついた。
今日はレッスンがないのだ。自分が着かないせいで振りを合わせられずに待っている子もいなければ、遅れた理由をしどろもどろに説明しているうちに「ではその一本前の電車に乗ればいいのでは?」と、この世でいちばん正しくてこの世でいちばん腹の立つ指摘をしてくるトレーナーもいない。
車内はいつもの時間のいつもの顔ぶれだった。参考書を開いたまま眠っている他校の男子、ドアの横でいつも同じ角度にもたれている会社員らしい女の人、ランドセルを前に抱えた小学生の二人連れ。名前はひとりも知らないが、ほとんど毎日同じ箱に揺られてきた人たちである。明日から自分がこの電車に乗らなくなってもたぶん誰も気づかないだろう。
それでも乗り換えの駅が近づくと、気がつけば自分は階段にいちばん近いドアの前へ移っていた。
すっかり体が覚えこんだ通い方である。急がなくていい、というくらいでは、ほかのドアから降りる理由にはならないらしい。
ビルに着いたころには息はすっかり整っていた。
階段も体が覚えている。途中の踊り場にはどこの誰が貼ったのか誰も知らない防災訓練のお知らせが去年の日付のまま色あせている。手すりはある一か所だけ塗装がはげていて、そこは皆が駆け上がるときに必ずつかむ場所だった。
上がりながら、着きました、と打ちかけて、やめた。ここまで来てしまえばドアを開けたほうが早い。
浅野に、相談したいことがあった。
事務所のドアを開けて、一度、閉めた。
階を間違えたと思ったのだ。
馬鹿な話である。三年間ほとんど毎日上り下りした階段を、よりにもよって最後の日に一階ぶん余計に上ってくるような人間が、明日から新しい事務所でやっていけるはずがない。新しい事務所どころか今日の帰りの駅にだって無事にたどり着けるかどうか怪しいものだ。おそるおそるドアの脇を見ると剥がしかけの社名プレートがまだそこにあった。昨日まではきちんとひと続きだった文字が、真ん中から二文字ぶん抜け落ちてずいぶん発音のしづらい会社になっている。
合っている。
ここだ。
もう一度開けると、奥で電話をしていた浅野が片手を上げて空いている椅子を指さした。
空いていない椅子は、なかった。そもそも椅子は浅野の座っているものと、指さされたものの二脚しか残っていなかった。
蓮は小さく頭を下げて後ろ手にドアを閉めた。
いつもなら机をぐるりと回りこむところをまっすぐ歩けてしまった。誰かの鞄をまたぐことも、誰かの脱ぎっぱなしの靴を蹴飛ばすことも、床に広げられた誰かの数学のプリントを踏まないように爪先立ちになることもなかった。椅子に腰を下ろすと床が部屋の端までずっと見えた。
初めてここへ来た日もたしかこんなふうだった。
あの日は机すらなくて、折り畳みのパイプ椅子が二つ、壁際に出してあるだけだった。浅野と向かい合って座り、蓮は鞄を膝の上に載せた。ほかには誰もいなかったから自分が黙ると部屋ごと静かになった。何か話さなければと思えば思うほどこういうときに限って何も出てこない。
浅野のほうはまるで気にした様子もなく何もない壁を指さした。
──鏡はな、ここに入るんだよ。土曜だったかな、届くの。
──大きいんですか。
──えっと、これくらい。
浅野が広げた両手のあいだを、蓮は思わず目で測った。
そこなら全身が映る。腕を伸ばしても足を振り上げても、家の姿見みたいに肘から先や膝から下がどこかへ行ってしまったりしない。
──あ、あの。土曜日も、来てもいいですか。
──え? いいけど、たぶん手伝ってもらうことになるよ。
──はいっ。
返事だけはすぐにできた。
鏡が届くだけの土曜日が待ち遠しくてたまらなかった。家に帰るとさっそく母をつかまえて鏡の大きさを両手で説明した。これからはあそこで練習していいのだ。家で机を壁際に寄せなくても、下の階から足音がうるさいと言われなくても思いきり踊っていいのだ。
あの日の自分はほとんどそれだけで幸せだった。
「──はい。そちらは本人に。……ええ、明日。時間も伝えてありますので」
目の前で浅野が書類を一枚めくった。
蓮は膝の上の鞄を抱え直した。あの壁にあった鏡も今はもうない。鏡のあった場所だけ壁紙がほんの少し白かった。
電話をしている浅野を見るのには慣れていた。
慣れていた、というより、それが浅野だった。聞きたいことがある日に限って、浅野のほうも誰かに聞かなければならないことを山ほど抱えていて、電話が終わった瞬間をうっかり逃すと、間髪入れずに次の電話が始まってしまう。だから浅野に用のある人間は、まずこの机の前に座って自分がここにいることを知らせておかなければならない。この椅子はいわば浅野の順番待ちの整理券なのだった。
机の脇に口の開いた段ボール箱があった。延長コードとガムテープの下から裁縫箱の蓋が半分だけのぞいている。あれはもう少し上に出しておいたほうがいいんじゃないかな。本番前に誰かの衣装がほつれたときすぐに取り出せるように。
手を伸ばしかけてやめた。
ここで衣装のほつれを直す人は、もういないのだ。
「ああ悪い、待たせた」
顔を上げると浅野がスマートフォンを机に伏せたところだった。
「学校から真っすぐ?」
「はい」
「そっか。何か飲むか。冷えてないけど」
「大丈夫です」
浅野はうなずいて机の上の書類を揃えはじめた。その手つきを見ていたら口が勝手に動いた。
「……あの、やっぱり、少しだけもらってもいいですか」
喉が渇いていたのは本当だった。でも、渡してもらって、受け取って、ありがとうございますと言う。そのやり取りを、あと一回だけしておきたかった。
浅野が立ち上がるあいだに鞄を足もとへ下ろして、差し出されたペットボトルを両手で受け取った。水は本当にちっとも冷えていなくて、それで冷蔵庫もなくなったのだと気がついた。
「じゃあ、先にこれ渡しとくな」
封筒の中身は書類だった。明日持っていくもの、家で保管しておくもの、お母さんに見せておくもの。浅野の字の付箋が必要なところに一枚ずつ貼ってある。
新しい事務所までの道順も、もう一度教わった。面談の日に一緒に行ったから覚えていますと言ったのに、どの駅のどの出口を出て、どっちへ曲がるのかまでしっかり確かめられた。子どもじゃないのに。浅野はこういうところでは自分をまるで信用しない。そのくせ曲の途中で一人だけ逆を向いてターンするような難しい振りつけとなると、昨日できたんだから今日もできるだろ、という顔で平然と要求してくるのだ。駅の出口なんて、毎日同じ場所から動かないのだから、振りつけよりよっぽど簡単なのに。
「向こうの担当の人の番号、入ってるよな」
「はい」
「遅れそうなら、そっちに電話しろよ。俺にかけても、もう迎えに行ってやれないからな」
「お、遅れませんよ! 私、これまでだって遅刻なんて一度も……」
言いかけて蓮は口をつぐんだ。一度も、ではなかった。二度ある。二度とも、浅野が車で迎えに来た。
「……ほとんど、したことないじゃないですか」
「わかってる。念のためだよ」
浅野は笑いもせずに手もとの紙にペンで小さな印をつけた。
自分が一つ答えるたびに紙の上の印が一つ増えていく。明日の自分が困らないための項目が、一つずつ片づいていく。最後の項目に印をつけ終えると浅野はペンを置いた。
「よし。ほかに何か聞いときたいことあるか」
山ほどあります。
──というか、まだ何ひとつ聞いていません。新しい事務所の話なんて本当はもうどうでもいいんです。私が知りたいのはここがなくなったあとでもマネージャーさんに会えるのかどうか、それだけなんです。
言えるわけがなかった。
「……マネージャーさんは、どうするんですか」
「俺? 明日は鍵返して、銀行行って、あともう一か所寄らないといけないんだよな」
「そ、そうじゃなくてですね。そのあとです。鍵を返して、銀行に行って、もう一か所に寄って、それが全部済んだあとの話です」
「……ああ」
浅野は背もたれに体を預けた。椅子が、きい、と小さく鳴った。この椅子が鳴るのを聞いたのはたいてい夜遅く、電話が全部終わったあとだった。
「休むよ。早く休みたいな。さすがに疲れた」
そう言って指で目をこすった。指が離れてもまぶたはしばらく閉じたままだった。
蓮は続きを待った。
──休むのはわかりました。休んだあとは、どうするんですか。
「……どのくらい、お休みするんですか」
「決めてない。とりあえず三日くらいは、何も考えたくないな」
「三日……」
「足りないか」
浅野は笑った。蓮は笑えなかった。
三日なら待てる、と思ってしまったのだ。四日目にまた電話をかけたら、おう、来ていいぞ、と言ってもらえるような気がした。事務所の鍵を返すのだとたった今聞いたばかりなのに。
「──私、新しい事務所でもちゃんとやります。レッスンにも遅刻しませんし、挨拶もちゃんとしますし、スタッフさんにそっけなくしたりもしません。……たぶん。なるべく。とにかく、誰にも心配をかけないようにしますから。だから……」
だから、
蓮は封筒の端を指で押さえた。移籍の手続きは終わった。明日の予定も聞いた。もう帰っていい。浅野にしてもらわなければならないことは一つも残っていない。だけどそれで終わりにしたくなかった。次に会う約束もないままこのドアを出ていきたくなかった。
だから、
「もし、マネージャーさんがまた何か始めるときは、私にも教えてください。今じゃなくていいんです。ちゃんと休んでからで。三日でも、一か月でも、もっとずっとあとでも、私、全然……」
全然かまいません、と言うつもりだった。
一か月。一年。そのあいだこの人に会えないのだと思ったらどっちも全然かまわなくなかった。ずっとあとでもいいと自分で言ったくせに、そんなに先にはならないよ、と言ってほしかった。
「……私にできることがあったら、何でもしますから」
浅野は答えなかった。
付箋が一枚、封筒からはみ出して蓮の指に貼りついていた。そっと剥がして元の場所に押さえ直した。それでも返事はなかった。黙っていられるのが怖くて、蓮は顔を上げた。
「武道館のあと、言ってたじゃないですか。次は地方にも行こうって」
口に出したとたんあの夜の楽屋の騒がしさが耳の奥によみがえった。
「泊まりになるなら同じ部屋がいいとか、あの子は朝起きないから一緒は嫌だとか、枕が替わると眠れないから自分の枕を持っていくとか。まだどこに行くかも決まってないのに、みんな部屋割りの話ばっかりして……」
「旅館決める前に会場決めろ、ってな」
「そうです。それ、マネージャーさんが言ったんですよ。みんなに一斉にブーイングされて──」
言いかけて、止まった。
浅野は机に置いた自分の手を見ていた。さっきまで書類を揃え、電話番号を確かめ、一つずつ用事を片づけていたその手が、今は何もしていなかった。
「……行きたかった、な」
だったら、行きましょうよ。
いつかでいい。どこでもいい。皆ばらばらの事務所になったけど、マネージャーさんが呼べば絶対に来ます。朝の弱いあの子は誰かが起こせばいいんです。なんなら私が起こします。布団ごと引きずってでも起こします。部屋割りなんて、何回だってやり直せばいいじゃないですか。
そう言うつもりで自分が身を乗り出したのと、浅野が顔を上げたのは、ほとんど同時だった。
「向こうにも、話はしてあるから」
「……え?」
「お前、ツアーの仕事があったらやりたいって。すぐには難しいだろうけど、機会があればって言ってくれてる」
違う。
そういうことじゃない。
でも、新しい事務所の人は親切だった。面談では自分の話を最後まで遮らずに聞いてくれて、レッスン場を案内しながら、わからないことがあったら何でも聞いてね、と言ってくれた。あの人は何も悪くない。自分の希望を先回りして伝えておいてくれた浅野にだって文句を言う筋合いなんかどこにもない。
地方へ行きたかった。それは嘘じゃない。けれど、誰と行くのか、というところだけをきれいに抜き取られてしまうと、それはもう、どこか知らない誰かの願い事みたいに聞こえた。
「……ありがとう、ございます」
蓮は書類を封筒に戻して足もとの鞄にしまった。折れないように教科書とノートのあいだにそっと差しこむ。それで帰り支度はすっかり済んでしまい、膝の上に戻した両手のやり場がなくなった。
何か。
何か、まだ。
机の上にはもう渡してもらうものが何もない。浅野から目をそらした先に、写真のなくなった壁があった。
さっき教室で開いたフォルダのことを蓮は思い出した。あの中には皆が揃って写っている写真が一枚もなかった。皆を撮るのはいつも自分で、撮っている自分はどこにも写っていない。皆が揃った写真は全部浅野が撮って、全部あの壁に貼ってあった。
「写真、どうしたんですか」
「写真?」
「あそこに貼ってあった、皆で撮ったやつです」
「ああ。持って帰ったよ」
「全部ですか」
「全部。貼ったまま返すわけにいかないだろ」
「……まさか、捨てたりしてませんよね」
「捨てるわけないだろ」
思ったより、強い声だった。
蓮が見ると、浅野も壁を見ていた。それから少しして、こちらへ目を戻した。
「全部取ってあるよ。お前が薄目あけてるやつも」
「なッ……! そ、それは捨ててください! 今すぐ! というか、どうしてよりによってそれを覚えてるんですか!」
「全部かって聞いたのはそっちだろ」
武道館の楽屋で撮った集合写真は、何回撮り直しても必ず誰かの顔がおかしかった。泣いている子が落ち着くのを待っているうちに別の子が泣きだし、じゃあ撮るよ、というところで浅野がスタッフを呼びに廊下へ飛び出していった。浅野が戻ってくるまでのあいだに自分の涙はなんとか引っこんだのに全員がそろったとたん、また全員だめになった。
それでも、撮り直してもらった。次こそはちゃんと笑うから、もう一枚だけ。
──マネージャーさんまでそんな顔してるから、こっちも止まらなくなるんじゃないですか。
「皆がいたら、まだ片づいてなかっただろうな」
浅野が、壁を見たまま言った。
「一個箱から出すたびに、これ覚えてるか、って話になってさ」
なると思った。
この部屋で皆が着替え、お弁当を食べ、宿題を広げ、鏡の前の場所を取り合った。
電話が始まるたびに静かにしろと言われて、静かにしているつもりで叱られた。
座る場所がなければ、誰かが少しずつ詰めてくれた。
三年前、浅野と二人きりで座っていた部屋に、いつの間にか皆がいた。
そして今日は、また二人しかいない。
浅野はどこへも目を移さず、しばらくしてから長く息を吐いた。
──また皆でやりましょうよ。
喉もとまで出かかって蓮はこらえた。
もう一度頼んでしまったら、今度こそ浅野に、できない、と言わせてしまうかもしれない。この時間を、自分の手で終わらせてしまうかもしれない。
「……マネージャーさん、」
浅野が振り向いた。
呼んだはいいが、続けられる言葉は、さっき飲みこんだものしか残っていなかった。
鼻の奥が、つんとする。
だめだ、と思った。ここで泣いたら、この人はきっと、これからの段取りより先に自分の心配を始めてしまう。鍵を返しに行く道すがらも、銀行の窓口で順番を待ちながらも、もう一か所に寄りながらも、ずっと。
クール担当でしょ、と蓮は心の中で唱えた。最初に自分から名乗り出て、そのくせ一度もまともに務まったためしのない役職である。でも、今日くらいは務まってもいいはずだ。
泣かないで、ちゃんとお礼を言って、笑って帰ろう。
「大丈夫ですよ。そんなに心配しなくても」
蓮が笑ってみせると浅野の肩から、ふっと力が抜けた。
「……そうだな。お前なら、大丈夫だよ」
その声に、蓮はもう一度うなずいてみせた。
「──なあ、蓮」
名前で呼ばれたのは、今日はそれが初めてだった。
顔を上げると、浅野は蓮ではなく、写真のなくなった壁を見ていた。
「これからも、笑ってステージに立ってくれよ」
言葉が出てこない。
「お前が出てきたら、俺、言うからさ。あの子、うちの事務所にいたんだよって」
浅野は机の上のペンを持ち上げた。さっきまで、明日の項目に一つずつ印をつけていたペンである。けれど今度は紙のどこにも印をつけないまま、また置き直した。
「お前がそうしててくれたら、この場所も、たしかにあったんだって思えるから」
明日の予定でも、移籍先の話でもなかった。
この人が初めて、自分にしてほしいことを話している。
浅野が、こちらを向いた。
「──だから、頼むな」
そんなことを言われるとは思ってもみなかった。
浅野が机を運び出し、写真を外し、自分たちを一人ずつよその事務所へ送り出しているあいだ、自分には何もできなかった。新しいところで頑張れよと言われれば、はいと答えるしかなかった。この人にしてあげられることなんて、結局ひとつも見つけられなかったと思っていた。
でも、あったのだ。
家に帰ったら、レッスンのノートのいちばん新しいページに書いておこう。三年ぶんの注意書きのあとに、最後の一行として。
「……言います」
浅野がわずかに首を傾けた。
「この事務所のこと、ちゃんと言いますから。武道館のことだけじゃなくて、最初のライブのことも。お客さんが全然いなくて、それでもマネージャーさんが一番後ろで、ずっと手を振ってたことも。全部、全部……」
最初のライブの客席は、端から端まで数えられた。そのいちばん後ろで、浅野は最後の曲が終わるまで手を振っていた。あんまり大きく振るので、ステージから見ると、客席が何人ぶんか多く見えた。
武道館まで行けた話をいつかどこかでするのなら、そこから話そうと蓮は思う。
「黒金蓮は、この事務所で、アイドルになったんですって」
蓮は、息を吸った。
「もっとすごくなりますから。この子は前どこにいたんだろうって、思わず調べたくなっちゃうくらい、すごくなりますから……!」
声が大きくなった。
明日の挨拶ひとつで頭がいっぱいだったくせに、何を言っているのだろうと思う。でも言い直したくはなかった。浅野が誰かに自慢するのなら、自慢できる自分でいたい。
「だから、ちゃんと見ててください。マネージャーさん、見るのがお仕事じゃないですか」
言ってからもうお仕事ではないのだと気がついた。
浅野も、たぶん同じことに気がついた。少しだけ間があって、
「ああ、楽しみにしてる」
蓮はペットボトルの蓋を締めた。椅子から立ち上がると膝はちゃんと言うことを聞いてくれて、そのことにほっとした。明日から何を頑張ればいいのかようやくわかった気がした。
「今までありがとうございました」
浅野が腰を浮かせかけたので、蓮は首を振った。出口なら知っている。
ペットボトルを鞄にしまい、椅子を元の位置に戻してドアへ向かった。途中で誰かに呼び止められることも、鞄からはみ出したプリントを誰かに引っぱられることもなかった。
ドアまでって、こんなに近かったっけ。
振り返ると浅野がこちらを見ていた。もう一度頭を下げて、顔を上げて、笑った。
「──マネージャーさん、お疲れさまでした」
いつもの挨拶だった。
浅野も、いつものように片手を上げた。まるで明日も同じ時間に、このドアが開くみたいに。
階段を半分下りたところで上から電話の鳴る音がした。
蓮は足を止めた。手が、手すりの塗装のはげたところをつかんでいた。
そうだった。浅野に、相談したいことがあったのだ。
──どうしよう。明日が怖い、という話を、しなかった。
挨拶のあと、何を見せればいいのだろう。歌も踊りも最初からできて当然だと思われていたらどうしよう。武道館に立った子ですよ、なんて紹介されてしまったらどんな顔をしていればいいのだろう。いつものように緊張して、いつものようにそっけない返事しかできなくて、感じの悪い子が来たと思われたら、どうしよう。
階段の上を見た。
電話はまだ鳴っていた。二回、三回。四回目の途中で、ぷつりと止んだ。浅野が出たのだ。はい、と言う声まで聞こえる気がした。
戻ればまだ聞いてもらえる。電話が終わるまであの椅子に座って待っていればいいだけだ。いつもそうしてきたように。
楽しみにしてる、という声を思い出した。
もっとすごくなるからと大見得を切って出てきたばかりなのに、もう弱音を吐きに戻るのか。
蓮は鞄の持ち手を握り直した。
今度会うときは、何か一つでもいい報告を持っていこう。初めてのライブが決まったとか、新しい曲を任せてもらえたとか。あの事務所の子でよかった、と浅野が思えるような話をしよう。
もう一度だけ上を見てから、蓮は残りの階段を下りた。