My Girl   作:cooperS

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#6 I need the sun

 

 

 

 

 

 

 

 

 カラオケの入口で、浅野はまだ次の言葉を待っていた。

 

 ──私、やっぱり、アイドルを辞めます。

 

 その後ろには、ただし、が来るはずだった。なんて冗談です、でもいい。放課後が終わったら全部話す、と約束したのは蓮のほうなのだ。理由が来て、言い訳が来て、その言い訳への言い訳が来たって構わない。今なら止めない。頭からでも、その前からでも、何なら前世からでも聞く。

 しかし、続きは来なかった。

 蓮は鞄の持ち手を両手で握ったまま、それきり口を閉じている。

 

「……あの。何か、言ってもらえませんか」

「うん。ごめん。ちょっと、待って」

 

 蓮が目を伏せた。

 待って、と言っておきながら、何を言えばいいのか、頭の中には何ひとつ用意がなかった。用意のないところへ頼んでもいない再生が始まる。ついさっきまでの一時間。前奏を待つ横顔。二番の途中で二人そろって歌詞を見失ったときの、あ、という顔。マイクを持ち替える指。ああいうものをさんざん見せておいて結論がこれか。

 

 階段の上で、また店のドアが開いた。冷房の風と、どこかの部屋の誰かの十八番のサビとが、いっしょくたに転がり落ちてくる。浅野が脇へよけるより先に、下りてきた三人連れは浅野たちを左右によけて通り、三歩先でまた一緒になった。

 

「少し歩こう。ここだと、人の邪魔になるし」

「……はい」

 

 来た道を歩きだすと蓮が後ろをついてくる。道が広くなれば隣に並び、後ろで自転車のベルが鳴ればすっと一列になる。浅野が振り返るより先に蓮はもうよけている。

 八百屋の店先では首振りの扇風機が誰もいないほうへせっせと風を送り、ドラッグストアの前ではワゴンに積まれた日焼け止めが半額の札を貼られて、来年までの身の振り方を思案している。ドーナツ屋の前を過ぎ、信号を渡り、駅の入口まで来たところで蓮が足を止めた。マスクを顎まで引き下げてから、こちらを見る。

 

「マネージャーさん。私、帰るとは言ってません」

「え?」

「……ここ、駅ですけど」

 

 言われて顔を上げるとガラス張りの入口の向こうに改札が並んでいた。その手前で、誰かを待っていた人と待たせていたらしい人とが片手を上げ合っている。

 

 帰ってきてしまったのだ。

 

 いや待て、何かの間違いである。辞めますと言われた直後に黙って駅まで送り届けるなど、元マネージャーとしては始末書ものの失態だ。

 違う。足が悪い。この一年、パチンコ屋とコンビニと倉庫とアパートのあいだしか行き来しなかったせいで、持ち主が上の空になった途端、勝手に家へ帰ろうとしたのである。

 ──という言い訳は半分くらいしか通らない。

 見慣れた看板が見えてきたときほっとしたのは足ではない。自分である。

 蓮の側から見れば黙りこくった元マネージャーの背中を十分近くも眺めさせられたあげく、まっすぐ駅まで送り届けられたことになる。どう言い繕ったところで、帰れ、と言われたのと何も変わらないだろう。

 

「いや、帰そうと思ったわけじゃないんだ。普段は家に帰る道しか歩かないもんだから、つい」

「放(・)課(・)後(・)、まだ終わってません。まだ夕方にもなってませんよ」

「わかってるって。まだ帰らないよ」

「……本当ですか」

「本当」

 

 言いながら浅野は駅に背を向けた。回れ右である。帰さない、と口で百回唱えるより、背中で一回言ったほうがまだしも信じてもらえそうな気がした。

 問題は、回れ右した先に何もないことだった。

 この町で浅野が知っている寄り道は三つしかない。パチンコ屋は論外である。大学生の女の子を連れて、家賃の封筒から抜いてきた元手で海へ漕ぎ出すわけにはいかない。コンビニは──あそこの天井のスピーカーからは、今もたぶんあの曲が降ってくる。ドーナツ屋はさっき行った。

 

 詰んだ。

 

 詰んだところで、頭の中の一覧が浮かんだ。部屋で聞いた放課後の一覧である。寄り道、ドーナツ、カラオケには、もう線が引いてある。残っているのは、いちばん最後の、もう一つ。

 

「海、行くか」

 

 蓮が顔を上げた。

 

「え」

「返済、まだ一個残ってたろ。最後に海を見て帰るって、言ってたじゃないか」

「覚えてたんですか」

「そりゃ覚えてるよ」

 

 蓮は何か言い返そうとして、言い返す言葉より先に鞄からスマートフォンを取り出していた。指が迷わず一枚の写真を開く。三人分の制服と、ピンクの浮き輪と、右上の隅っこへ追いやられた、灰色の海らしき何か。

 

「ここ、なんです。今からでも、行けますか」

「調べてみないとな。最寄り、どこだ」

「あ、ちょっと待ってください。道も、出せます」

 

 蓮は写真を閉じて地図を開いた。手つきに迷いはなかった。こちらへ画面を向ける前に一度だけ自分で確認した。

 

「調べてあったのか」

「この写真を見せてもらった日に、一度だけ。そのときは、結局行かなかったので」

 

 蓮の指が画面を広げる。海沿いの道が大きくなって、途中にある食堂の名前まで読めるようになった。

 

「次のお休みに、って思うと、また別の予定が入っちゃうんです。友達に誘われたときも、そのうちね、って言っちゃって……。そのうちって、いつまでたっても来ないんですよね」

「何分だ、ここまで」

「乗り換え一回で、四十分です。……四十分なら、近いですよね?」

「近いかって言われると、どうだろう」

「近いですよ。事務所に通ってたのも、それくらいでしたから。毎日行ってたんですよ、私」

 

 言い終わりで蓮の声が少し小さくなった。

 浅野は蓮の手もとの画面から目を上げなかった。

 学校から事務所まで、四十分。蓮はたいてい一番乗りだった。自分が外回りから戻っていない日には、着きました、とだけ連絡が来た。今から戻る、と返しておいて途中で電話につかまり、ずいぶん待たせてしまった日もある。

 あの四十分と同じだけ電車に揺られれば海に着くらしい。

 

「じゃあ、急ごう。今から出れば、日が暮れる前に海が見られる」

「……いいんですか」

「いいも何も、一個残ってるんだから。片づけないとな」

「か、片づけるって……。なんか、私ばっかり楽しみにしてるみたいで、恥ずかしいじゃないですか」

 

 言いながら、蓮の口もとがゆるんでいく。

 本人も気づいたのか、ぎゅっと唇を結んだ。結んだそばから、今度は頬のほうが持ち上がってくる。

 

「ほら、行くぞ。次の電車、六分後だ」

「はい。……あ、何か買っていきますか。お水とか」

「買っとこう」

 

 売店の冷蔵ケースから水を二本取って一本を蓮に渡す。次は何番線か、乗り換えはどこか。聞かれる前に口が答え、蓮が、はい、と返事をする。あまりにもいつもどおりの段取りなのでこのまま二人で現場へ向かうような気がしてきた。着けば誰かが待っていて、浅野には浅野の、蓮には蓮の仕事がある。難しい話はそれが済んでから考えればいい。ずっとそうしてきたのだ。

 釣り銭を受け取って財布を閉じた。

 ホームのほうから発車のベルが降ってくる。自分たちの乗る電車ではない。

 

 そうだった。

 今日は、海へ行くのだ。

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

 乗り換えた電車は、座席が向かい合わせになっていた。

 蓮が窓際に座ったので浅野はその向かいに腰を下ろした。二人とも隣の席は空けたままだ。誰が乗ってくるわけでもないのに、鞄を置いてもまだ余るほどの領土を確保して、膝がぶつからない距離で向かい合っている。膝と膝のあいだの数センチには、どちらが引いたのかもわからない国境線が一本走っていて、それがまたひどくあやふやなのだった。

 蓮は水を一口飲み、蓋を閉め、鞄へしまいかけて、やめた。

 

「……怒ってますか」

「怒ってないって。何で俺が怒るんだよ」

「でも、さっきから、私が何か言わないと喋ってくれないじゃないですか」

 

 返事ならしているぞ、と浅野は思った。海へ行こうとも言ったし、乗り換えの階段では、こっちだよ、と声もかけた。発言の実績を指折り数えはじめて、二本目で指が止まった。蓮が聞きたいのは階段の場所ではない、とようやく気がついたからである。

 

「驚いてるんだ。まだ」

「マネージャーさんのお部屋でも、お話ししましたよ」

「聞いてたんだけど……」

 

 考え直したのだと思っていた。ドーナツを分け合い、カラオケで歌い、あんな顔で皆の曲を一人で歌い終えた子が、予定どおり辞めると言い出すはずがない。作戦はもう済んだものと決めこんでいた。カラオケを出るころには、すっかり安心していた。店の前で、それで、どうする、などと明日の昼飯の相談みたいな調子で聞いたのだ。おめでたいにもほどがある。

 

 蓮は言葉を待っている。

 浅野はボトルの蓋にかけていた指を離した。

 

「ごめん。考えてる。ちゃんと」

「……私も、ちゃんと考えました。いっぱい考えて、決めたんです」

 

 そうだよな、とは言わなかった。

 言えば、辞めるという返事を受け取ったことになる。受領印を押すのは、もう少しだけ先にしたかった。

 アイドルを辞めたら、蓮はいなくなる。ステージの上にも、画面の向こうにも。この一年、浅野は一度も見に行かなかった。見ないように逃げ回ってさえいた。それでも、見ようと思えばいつでも見られる場所に蓮がいることだけは、どこかで当てにしていたのだ。

 その場所がなくなったら、あとに何が残るだろう。皆の写真を送る、とさっきカラオケで約束した。残るのは、たぶんそれだけだ。

 一年前は約束などしなくても、明日になれば事務所に蓮がいたのに。

 

 黙っているうちに蓮は窓のほうを向いた。電車が揺れるたびに髪が頬へかかる。指で払う。またかかる。払う。揺れのほうも根気があるが、払うほうも負けていない。浅野は勝敗のつかないその攻防を、ずっと眺めていた。

 蓮が背もたれに肩を預けた。浅野も少し脚を伸ばし、蓮のスニーカーに当たりそうになって引っこめた。

 国境線は、相変わらずあやふやなままだった。

 

「あ! あそこ、海じゃないですか」

 

 窓を見たが、見えるのは長い倉庫の壁ばかりだった。

 

「どこ?」

「今、建物のあいだに、ちらっと。光ってたんです、ほんとに……あっ、ほら、また!」

 

 壁と壁の切れ目を、光るものが一瞬だけ横切った。浅野がのぞきこんだときには、もう次の倉庫が窓をふさいでいた。

 倉庫というものは、外から眺めるかぎり長いということ以外にこれといった取り柄がない。しかも今は、そのたった一つの取り柄がたいへん邪魔だった。浅野は窓に顔を寄せて、それが終わるのを待った。

 屋根が低くなった。来るか、と思ったら月極駐車場の看板が来た。空きあり、空きあり、空きあり。

 

「……海って、逃げないですよね。逃げないのはわかってるんですけど、こういうのって一回見えちゃうと、次が来るまで目が離せなくなりません? あっ、待ってください、私たち、駅、通り過ぎてませんか!?」

 

 浅野はあわててドアの上の表示に目をやった。まだ二つ先だった。

 ほっと胸をなでおろした蓮は、それから浅野のほうをじろりと見た。

 

「……マネージャーさんだって、海のほう見てましたよね」

 

 見ていた。駅名を見張るのは連れていく側の仕事のはずなのに、気がつけば二人そろって窓に張りついていたのだ。浅野は次の駅名まで確かめてから、窓へ戻った。

 倉庫の列が、ふっと途切れた。

 

「ほら」

 

 今度は、浅野のほうが先だった。

 窓いっぱいに、海が、

 

 低い柵と白っぽく乾いた道路と、そのまた向こうの砂浜とを三段跳びに越えたところから先が、もう全部、海だった。九月の午後の日差しは真上からではなく少し斜めに差していて、そのせいで水面は一枚の板のようには光らず、無数の細かな破片に割れてちかちかと瞬いている。沖へ行くほど光はまばらになり、色が濃くなって、水平線のあたりで青とも灰色ともつかない一本の線に落ち着いている。その線の上に、輪郭のぼやけた貨物船が一隻、止まっているのか動いているのかわからない格好で、ぽつんと置かれていた。

 窓のすぐ下では、電柱も、ガードレールも、店じまいしかけた海の家ののぼりも、後ろへ後ろへとすっ飛んでいく。それなのに遠くの海だけは、窓の同じところに浮かんだまま、どこまでもついてくるのだった。

 窓ガラスがほんのりと温かい。

 蓮は窓枠に両手をついて、口を少し開けたまま光るほうを見ていた。その頬にも睫毛の先にも、窓越しの光が細かく揺れていた。

 家並みの屋根がまた前をふさぐと、蓮は窓から離れて座り直した。

 

 目が合った。

 

 見えましたね、と言われるような気がしたが、蓮は何も言わずに笑っただけだった。浅野も、うなずくだけにした。

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 駅からは蓮が先に立って歩いた。

 地図を見て、道を見て、もう一度地図を見る。一つ目の角を通り過ぎ、二つ目の手前で立ち止まったので、浅野が横からのぞきこもうとすると、スマートフォンがさっと胸もとへ引っこんだ。機密文書の扱いである。

 

「あ、合ってますから! 念のため確認してるだけです」

「何も言ってないだろ」

「言いそうな顔でした」

 

 見ようか、とは思った。口に出さなかっただけである。浅野は半歩下がって、蓮が歩きだすのを待った。

 駅前の通りは、海の町のくせに潮の匂いひとつしなかった。海らしいものといえば、シャッターの半分下りた釣具屋くらいで、あとは日に焼けて水色だか灰色だかわからなくなった薬局の看板と、誰が使うのか見当もつかない公衆電話とが、ぽつりぽつりと並んでいるきりだ。そのぶん、空ばかりがやけに広い。

 白い壁に突き当たると、蓮は今度こそ迷わず右へ折れた。自販機の並んだ食堂の角を曲がったところで、風が来た。

 

 潮の匂いだった。

 

 蓮の髪が肩から流れ、帽子を押さえる手が上がる。浅野の鼻にもそれは真正面から届いた。生臭いとも甘いともつかない、塩と日なたと、何かがゆっくり乾いていくような匂い。一年ぶりどころの話ではない。最後に海の匂いを嗅いだのがいつだったのか自分ではもう思い出せなかった。

 地図の上ではただの線だった道を匂いのするほうへ歩いていく。

 蓮はもうスマートフォンを見るために立ち止まらなかった。

 

「着きましたっ」

 

 防波堤の手前で蓮が振り返った。

 

「ほら、着きましたよ。一回も迷わずに、ですよ。地図だって、最後のほうはほとんど見てませんでしたからね」

「疑ってないって」

 

 それでも蓮は、浅野が隣に来るまで待って、並んでから海を見た。

 波打ち際までは、まだしばらく砂浜を歩かなければならなかった。ここから見下ろすと、砂の上を横切っていく人の足がずいぶんのんびり動いて見える。その向こうで白く崩れた波が、こちらへ届く前に薄くなって砂の上へ広がる。次の波はさっきより少し遠くまで来る。その次は少し手前で力尽きる。どこまで来ればいいのか、波のほうでもまだ決めかねているらしい。水際にいた子どもが歓声を上げて逃げだすのを見て、浅野は、自分がずっと波の行方を目で追っていたことに気がついた。

 隣の蓮も、同じところを見ていた。

 

「……本当に、来ちゃいましたね。海」

 

 ひとりごとのような声だった。来ちゃったな、と浅野は答えた。思ったより弾んだ声が出て、自分で少し驚いた。

 意外と近かったな、と続けかけてやめた。

 地図の上ではたった四十分の距離が、蓮にとってどれほど遠かったのか、浅野には測りようがなかった。

 

 釘の抜ける甲高い音がして、蓮がそちらを向いた。

 浜の端で海の家の壁板を外しているところだった。男が一人で持ち上げかけ、少し待ち、もう一人が反対の端を持ったところで二人一緒に動きだす。壁に貼られたかき氷の写真が横倒しになり、積んである板の上に寝かされた。いちごもメロンもブルーハワイも、そろって空のほうを向いたままトラックの荷台を待っている。ひと夏ぶんの売り上げに貢献した功労者たちにしてはずいぶんあっけない退場だった。

 

「もう、終わっちゃったんですね」

「九月だからな」

「……はい。でも、今日は間に合いました」

 

 何に間に合ったんだ、と聞き返そうとしたときには、蓮はもう砂浜へ下りる階段を指さしていた。

 

「下りましょう。せっかく来たのに、ここから見てるだけなんて、もったいないです」

 

 言うが早いか蓮は歩きだしていた。

 階段の脇の水道では、父親が子どもの砂まみれの足を洗っていた。片方を洗うあいだにもう片方へ砂がつく。右を洗えば左が汚れ、左を洗えば右が汚れる。永久機関である。最後には父親が諦めたように子どもをまるごと抱き上げた。

 

「帰りはあそこで足を洗えますね」

「靴、脱ぐのか?」

「だって、砂入りますよね。……足だけなら、いいですよね?」

「俺に許可取らなくても」

「そうですけど。一応、聞いておこうと思って」

 

 浅野が何か返す前に蓮は残りの段を下りていった。片足をそっと砂に置いて、沈み具合を確かめてからもう片方を下ろす。地雷原でも渡るような慎重さだったのは最初の二歩だけで、その先は靴を脱ぐのにちょうどいい場所を探しているのか、海のほうを見たり足もとへ目を戻したりしながら、ずんずん進んでいく。

 浅野も最後の段を下りた。サンダルが思ったより深く沈む。ぐずぐずしているとまた振り返って呼ばれそうなので、歩幅を広げて隣へ並んだ。蓮は浅野のサンダル履きの足を見て、それから自分の靴を見下ろした。

 

「……あっ。脱ぐの、忘れてました」

 

 ところがこれがなかなか脱げない。片足を抜けば靴下を脱ぐ手が足りなくなり、鞄を肩に掛け直せば今度は持ち上げていた膝が下がる。片足立ちのまま同じ手順を三回繰り返し、三回とも同じところでつまずいた。さっきの父子の永久機関がここにもう一基あったのだ。四回目に入る前に浅野は手を差し出した。蓮は少し迷ってから鞄を預けて、その場にしゃがみこんだ。

 

「最初からそうすればよかったんじゃないか」

「……途中から、私もそう思ってました」

 

 脱いだ靴下を靴の中へ押しこみ、左右まとめて片手に提げる。立ち上がった蓮に鞄を返すと、蓮はそれを肩に掛けて今度こそ何にも邪魔されずに海を見た。

 素足の指が砂に埋まっていた。

 

「どう?」

「熱い、です」

「九月でも熱いんだな」

「感心してないで行きましょうっ。止まってるほうが熱いですから!」

 

 蓮は足を交互に浮かせながら小走りに歩きだした。浅野もつられてサンダルを脱いでみて、三歩目で後悔した。

 

 九月の砂は、暦というものを読まない。

 

 八月が終わったことなど知ったことではないとばかりに、昼のあいだ溜めこんだ熱を足の裏めがけて惜しげもなく払い戻してくる。追いかけるつもりが熱さに背中を押されて追い越しそうになる。ようやく二人がひと息つけたのは、砂の色が濡れて濃くなってからだった。

 波が来た。

 足の先を薄くなでただけなのに、蓮は声を上げて浅野の腕をつかんだ。

 

「つめたっ……!」

「熱いよりいいだろ」

「ちょうどいいところはないんですかっ。熱いか冷たいかしかないんですか、ここは!」

 

 海に向かって苦情を申し立てるころには、浅野の腕をつかんでいた手はもう離れていた。あいにく受付窓口はないので、苦情は波に呑まれてそのまま沖へ運ばれていく。蓮は靴を高く掲げ、次の波を今度は逃げずに待った。水が足首まで届くと肩がきゅっと上がったが、声は出さなかった。どうだ、というようにこちらを見るので浅野もうなずいた。よくできました、と言いかけて、それは違うだろうと思ってやめた。

 波が引いていく。足の裏の砂まで一緒に持っていかれて、踏んばるとかえって深く沈んでいく。

 

「……変な感じしませんか。立ってるだけなのに、自分のほうが動いてるみたいな」

「地面ごと持っていかれそうだ」

「こういうの、写真じゃ全然わからなかったです」

 

 蓮は足もとの水を見下ろしていた。

 あの写真の三人も、こうやって靴を脱いだのだろう。学校帰りの制服のまま、いつもと逆向きの電車に乗ってきて、冷たいと騒いで、誰かのスマートフォンで写真を何枚も撮ったのだろう。そのうちの一枚が、右上の隅にだけ海の写った、あの写真になったのだ。

 蓮から聞いた話しか知らないくせに、浅野にはその日の浜が、見てきたように浮かんだ。

 

「来てよかったな」

「はい。連れてきてもらえて、よかったです。一人だったら、きっとまた、そのうちね、で済ませてたと思います」

 

 蓮は寄せてきた水を、つま先で小さく蹴った。

 

「電車で海が見えたとき、やっと見えましたねって言おうとしたんですよ。でも、マネージャーさんも同じところを見てたので、言わなくてもいいかなって。……ほら、一人だと、ああいうのって、ないじゃないですか。言わなくても通じちゃうのって」

 

 浅野は水の向こうを見た。

 今日は来てよかった。

 そこで止めておけば二人とも同じことを思ったまま帰れる。辞めるだの辞めないだのの話には触れずに、電車に乗って乗り換えて、また今度と手を振って、何も壊さずにすむ。それはわかっている。わかっているのだが。

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 少し歩きましょう、と今度は蓮が言った。

 波の届くところと届かないところの境目を、二人で歩いた。蓮は靴を、浅野はサンダルを提げている。浅野が海側なので、長い波が来ると自分の足が先に濡れる。そのたびに蓮はしぶきをよけて半歩離れ、何も言わずにまた戻ってくる。離れて、戻って、また離れて。波のほうも同じことを繰り返しているので、浜の上には寄せては返すものが二つあることになる。

 話すなら今だ、と浅野は思った。

 駅でもそう思った。電車でもそう思った。そのたびに降りる駅が来て、曲がる角が来て、脱がなければならない靴が来た。先送りの口実は、いつも向こうからやって来た。だが浜にはもう何も来ない。どれだけ歩いても浜は浜のままだった。

 

「さっきの話だけど」

 

 蓮の足が少し遅くなった。

 

「はい」

「今の担当には、まだ言ってないんだよな」

「……はい。言う前に、マネージャーさんと話したかったので」

 

 今の事務所より先に、自分に。

 その意味を考えるより先に、浅野の頭は、まだ言っていないなら間に合う、と計算していた。我ながらひどい段取りの組み方だった。

 

「休むっていうのは、相談できないのか。辞めるって決める前に」

「休んで、それからどうするんですか」

「それは休んでから考えればいい。少し離れたら、またやりたくなるかもしれないだろ」

 

 蓮はすぐには答えなかった。その足が止まり、提げた靴が腕と一緒にゆっくり下りた。浅野も足を止めた。

 

「……アイドルが嫌になったわけじゃないんです。今日も、もっと歌っていたかったですし、ここへ来る電車の中でも、気がついたら頭の中で振りをなぞってました。だから、たぶん休んでも同じです。皆が先へ行っちゃう気がして、結局どこかで一人で練習してると思います」

 

 休み方を知らない子なのは嫌というほど知っている。休めと言えば休むための練習を始めかねない子である。

 

「少しくらい休んだって、お前がやってきたことはなくならないよ」

 

 蓮は少しだけ笑った。困ったような笑い方だった。

 

「その少しくらい、がわからなくなったんですよ」

 

 それきり、蓮は海のほうを見ていた。波が一つ来て、引いていった。次の言葉は、話の途中から始まった。

 

「……この前、振りの入りが一拍遅れたんです。自分でもわかるくらい。でも、誰も何も言わなくて。前だったら、そこ遅れてるぞって言われて、私が直して、」

「一拍くらい、誰も気づかなかったんじゃないか」

「気づいてますよ。皆、プロなので。……あ、違うんです、一拍の話がしたいんじゃなくて。次の日にはちゃんと直しましたし。そうじゃなくて、」

 

 蓮は靴を提げていないほうの手で、自分の肘のあたりをつかんだ。

 

「……いつも言えないんです。できませんって。今の事務所には、武道館に立った子、っていうことで入れてもらったので。……下手だなって思われるだけなら、まだいいんです。それは私のせいだから。でも、あの子は前のところで何を教わってきたんだろうって、もし、そう思われてたら、」

 

 声は大きくならなかった。そのかわり一語ずつ、波打ち際に置いていくように言った。

 

「私ができないと、あの事務所が、その程度だったことになっちゃう。皆で立った武道館まで、全部。……だから、もう、一回も間違えちゃいけないんです。一回も」

 

 考えすぎだ、と言えばいい。

 現場の人間は新人一人のつまずきで前の事務所まで値踏みしたりしない。そう言えばいい。

 言えなかった。

 よその事務所の子の挨拶ひとつで、ここはしっかりしているんだな、と感心したことが、自分にもあるからだ。挨拶ひとつで感心する人間がいるなら、一拍の遅れで首をかしげる人間がいたって少しもおかしくはない。そういう目で人を見て飯を食ってきたのは、ほかでもない自分だった。

 

「褒めてもらえると、ほっとするんです。前の事務所で教わったんです、って言えたときは、もっと嬉しくて。昔の映像まで見てくれたファンの方がいて、ほかの子の名前も覚えていてくれて。ああ、あの場所はちゃんとどこかに残ってるんだって」

 

 蓮が笑った。さっきの困ったような笑い方とは違う、本当に嬉しそうな顔だった。

 

「それで、次も頑張らなきゃって。でも、一つ終わったらもう次があって。できた、よかったって思ってるうちに、もう、次もできなきゃ、になってて。その次も、そのまた次も。…………私、これからずっとこれをやっていくのかなって思ったら、」

 

 波が足もとまで来た。

 

「──いつまでやったら、もう大丈夫なんでしょうか」

 

 蓮は動かなかった。浅野も、その場から動けなかった。引いていく水の中で、二人の足のまわりだけ砂が小さく濁った。

 

「そんなの、お前が一人で抱えこむことじゃない」

「……一人のつもりなんて、なかったですよ。マネージャーさんも、見ててくれると思ってましたから」

 

 蓮は提げた靴のほうへ目を落とし、それからもう一度、浅野を見た。

 

「……一度も、見てくれなかったんですか」

 

 違う、と答えることさえできなかった。違わないからだ。

 蓮はこちらを見たまま待っている。

 

 浮かんだのは、今朝のパチンコ台だった。

 液晶の中を、魚の群れが右から左へ泳いでいく。その海に、千円札を一枚ずつ食わせていた。今朝だけではない。この一年、この子が一人で次の予定を一つずつこなしているあいだ、自分はずっと、画面の中の海ばかり眺めていたのだ。

 

 本物の海は、四十分先にあったのに。

 

「見れば、いろいろ思い出すんだよ」

 

 臆病なだけだったくせに。

 

「お前のことだけじゃない。ほかの子のことも、仕事してたころのことも、全部。今どうしてるか、知りたくないわけじゃないんだ。でも、見て、ああよかったなって、それだけで済むことばっかりじゃ──」

「……私だって、思い出します」

 

 浅野の言葉はそこで断ち切られた。

 

「皆で歌ってた曲を、一人で歌うんですよ。次はあの子のパートだって思っても、ステージには私しかいないんです。それでも笑って、最後まで歌って……」

「俺の事務所のために続けてた、って言うのか」

 

 違う。そんな聞き方がしたかったのではない。

 わかっているのに口のほうが止まらなかった。

 

「好きでやってたんだろ。今日だって、あんなに──」

「好きですよ!」

 

 蓮の声が、浜に響いた。

 水際で遊んでいた子どもがこちらを振り返った。浅野は続けるはずだった言葉をどこかへ取り落としていた。

 

「好きです! 大好きです! 好きだから、できたんです! 皆のことだって、事務所のことだって、私が言いたくて言ってたんです! やらされてたなんて、そんなこと、一言も言ってない……!」

 

 息が続かなくなったのか、蓮は口を閉じた。鼻から小さく息を吸って、もう一度浅野を見た。

 

「……マネージャーさんは、好きなら、苦しくならないんですか」

 

 自分は、何を聞いていたのだろう。

 

「ごめん。今のは──」

「ごめんなさい。今日は、もっと普通に話すつもりだったんです。前みたいに、今日はここができなくて、どうしたらいいですか、って。そんなふうに」

 

 浅野は首を横に振った。

 

「……でも、本当のことを言えば、少しくらい困ればいいのにって思ってました。辞めるって言ったら、今度は……平気な顔で送り出したりできないでしょうって。そういう気持ちも、ちょっとだけ、ありました」

 

 今度は、と蓮は言った。

 あの日、あの最後の日。自分がどんな顔をしていたのか、浅野は知らない。確かめようにも、鏡はもう運び出したあとだった。ただ平気な顔をしようとしていたことだけは覚えている。蓮に前を向いて歩いてほしかったからだ。それが平気な顔に見えていたのなら、たぶんあの日の自分の仕事のなかでいちばん出来がよくて、いちばん余計な仕事だったのだろう。

 蓮は鞄の紐を掛け直した。ずっと肩に食いこんでいたのか、紐の下に指を差し入れてすぐに抜いた。

 

「……今日、楽しかったんです。ゲームセンターも、ドーナツも、カラオケも。海も、来られてよかったです。本当に」

 

 俺も楽しかった、と言えばいい。

 そこまでは二人とも同じはずだった。そこを足がかりにすればもう少し何か話せるはずだった。それなのに喉のどこかで言葉がつかえて、出てこない。

 

「……なのに、明日の練習のことを考えると、行きたくないんです」

 

 蓮の声が小さくなった。

 

「……どうしたらいいんでしょうね、私」

 

 浅野は口を開いた。

 休めばいい──それはさっき言った。辞めなくてもいい──まだそれを言うのか。

 目の前で蓮は返事を待っていた。一年前なら、明日は俺も一緒に行く、と言えた。そのあとどうするかは行ってから考えればよかった。少なくとも隣に立っていてやることはできた。

 

 今の自分には、一緒に行ける場所がない。

 

「……すみません。困らせたいって言ったあとで相談するのも、変ですよね」

「変じゃ、ない」

 

 蓮はうなずいた。そして、続きを待ってくれた。

 浅野は砂に半分埋まった自分の足を見ていた。

 もっと話してくれればいいのに、と思った。何度でも、いくらでも聞くから。頭からでも、その前からでも。そのあいだに、こっちも何か言えるようになっておくから。

 

「……私、帰りますね。今日は、ありがとうございました」

 

 蓮は提げていた靴を持ち直して、浅野に頭を下げた。顔を上げたとき、帽子のつばの下で口もとが動いた。何か言うのかと思ったら、笑おうとしたのだった。うまくいかなかったのか、唇を一度結び直した。

 

「マネージャーさんも、気をつけて帰ってくださいね」

 

 浅野が答えるより先に、蓮はもう水の届かないほうへ歩きだしていた。

 

「蓮、待て。駅まで──」

「道、わかりますから」

 

 追いかけようとした足が、濡れた砂に沈んだ。引き抜いて、また沈んで、そうしているうちに蓮の背中は階段のほうへ小さくなっていく。だが追いついて隣を歩いて、それで何を言うのか。

 足を抜くのを、やめた。

 

 波が来る。足首を濡らして、引いていく。

 次の波が来る。

 手には、提げたままのサンダルがある。

 

 

 

 

 

 

 

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