My Girl   作:cooperS

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#7 Daydreamer

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蓮の帽子が防波堤の向こうへ消えてから、浅野は波打ち際を離れた。

 乾いた砂まで戻って、サンダルに足を入れる。濡れた指のあいだに砂がこびりついて、体重をかけるたびに土踏まずへ食いこんでくる。階段の脇には水道があった。帰りはあそこで足を洗えますね、と蓮は言っていた。その蓮は砂のついた足のまま靴を提げて行ってしまった。

 浅野はその場の砂の上に腰を落とした。足の砂ひとつ始末する気力もないまま、膝のあいだへ頭を垂れる。背中にあたる西日だけがまだ夏のつもりでいる。

 

 あんなことが言いたかったわけじゃない。

 それは本当だ。ではいったい何が言いたかったのか、と聞き返されたら浅野には答えがない。答えのないまま走っていって追いついたところでさっきの繰り返しにしかならないだろう。

 

 好きでやってたんだろ、と言った。

 蓮は好きだと答えた。

 大好きです、と浜の端まで届きそうな声で答えた。

 

 浅野はその返事が欲しくてたまらなかったのである。

 アイドル、好きなんだろ。今日一日口には出さないまま、ずっと蓮の口から聞きたがっていた一言だった。

 その一言さえもらえれば、続きは自分で言えた。

 

 ──ほらみろ。お前だって望んでやってたんじゃないか。楽しいこともいっぱいあっただろ。だったら、そんなにひどい三年間じゃなかったはずだろう。俺のやったことまで、何もかも間違いだったみたいに言わないでくれ。

 

 喉まで出かかっていたその続きを飲みこめたのは分別が働いたからでも何でもない。蓮のほうが一足先に、好きなら苦しくならないんですか、と聞いてきたからだ。

 あの子は大事なものを守ろうとして、そのせいで苦しくなってしまったのだ。それなのに自分はその話の真ん中に割りこんで、自分をかばってくれる一言をあの子の口から引き出そうとしたのである。

 

 犬を連れた人が浅野の前を通りかかった。浅野が脚を引っこめると、すみません、と会釈され、浅野も慌てて頭を下げた。人に道を譲るくらいのことは、どうやらまだできるらしい。

 事務所を閉めたときもそうだった。やることさえ決まっていれば体は動くのだ。机と椅子の引き取り手に至るまで片っ端から決めて、済んだものから一本ずつ線を引いていった。自分のことはあとでよかった。

 

 あとでよかった。

 そうだ。自(・)分(・)の(・)こ(・)と(・)は(・)、(・)あ(・)と(・)で(・)い(・)い(・)の(・)だ(・)。

 

 他人のためにはあれほど細かく書き出してやった明日が、自分のぶんだけどこを探しても書いていなかった。

 

 寂しかったのだろう、と浅野は思う。

 そう言ってしまえばずいぶん簡単な話だ。自分で潰した事務所がなくなって寂しかった。送り出した子が会いに来てくれて嬉しかった。ところがその子は浅野の知らないところで苦しんでいて、何とかしてくれそうだった頃の浅野を頼って相談しに来た。

 はたして今の自分に、何ができるというのか。

 何もできないと知られるのが嫌で、自分は、この子はもう大丈夫だ、ということにしたのだ。カラオケを出たところで、それで、どうする、などと気楽に聞けたのはそういうことにしておきたかったからだ。

 

 電話が震えた。

 倉庫からだった。来週の出勤日の確認である。

 その画面を閉じて蓮とのやり取りを開く。

 帰る前に、もう少し話したい。

 そこまで打って一字ずつ消した。向かい合っていたときには黙っていたくせに、背中が見えなくなった途端、今度は自分の番だとばかりに言葉を取り返そうとしている。話したいことがあったのなら、あの子が目の前にいてくれたうちに話せばよかったのだ。

 

 海の家のほうで板を積み上げる音がした。

 残っている柱は三本きりだった。少し前までは壁があって、そのもっと前には屋根もあったのだろう。暑い盛りには、かき氷を待つ客が列をつくり、日に焼けた子どもたちの声で一日じゅうにぎやかだったのだろう。今はそこで首にタオルを巻いた男が二人、どう積めばトラックの荷台に全部収まるかを話し合っている。ラムネ、と大きく書かれた看板が裏返しにされて板の山に重なった。

 

 

 電話が鳴ればよかったのに。

 

 

 ──武道館、拝見しました。あの子たちの全国ツアーを、うちに組ませていただけませんか。

 

 浅野は相手の社名を聞き返し、メモを取ろうとペンを探す。ペンならもう握っている。その手で、相手の話を片っ端から書き留める。札幌、名古屋、大阪、福岡。会場の手配も移動の足も、向こうで持ってくれるという。電話を切ってから、同じメモを三回読み返す。翌日、皆を事務所に集める。最後まで聞けよ、と一応は言っておく。ツアーをやるぞ、と言った途端、部屋がしんとする。次の瞬間、全員がいっぺんに喋りだす。いつからですか。どこに行くんですか。新しい衣装は。お土産は経費で落ちますか。浅野がまだ日程を読み上げているのに、部屋の隅ではもう旅館の部屋割りの相談が始まっている。朝起きない子を誰と同じ部屋にするか、という話らしい。どうせ最後は浅野の机に回ってくる。浅野は笑って、日程表の続きを読む。

 冬。最初の公演地、札幌へ向かう。機材車を追いかけるワゴンの中は、出発して十分で遠足になる。最初の休憩で、全員がソフトクリームを買ってくる。この寒いのに、と言いながら浅野も一本受け取って、雪のちらつく駐車場で皆と震えながら舐める。初日の客席は、端までちゃんと埋まっている。開演前の袖で、何人かが浅野を振り返る。浅野はいつものようにうなずいてやる。

 夏。海辺の野外フェスに呼ばれる。リハーサルの合間に、皆が波打ち際へ行きたがる。衣装のまま行くなよ、と言えば、じゃあ靴だけ脱いでいきます、と返ってくる。話を聞いていたとは思えない。冷たい、冷たいと騒ぐ声が聞こえる。さっきこの浜で聞いたばかりの、蓮の声だ。気がつけば浅野もズボンの裾をまくって、足首まで水に浸かっている。頭の中では、もうフィナーレの段取りを組んでいる。

 

 そうして一年が過ぎるころ、事務所の壁にはもう写真を貼る場所がない。

 どれか外そう、と言ってみても、どの一枚にも誰かの思い出がくっついていて、結局どれも外せない。

 そんな日々が、いつまでも、

 

 

 積んであった板が、倒れた。

 

 

 浅野は、砂の上に座っている。

 写真は一枚残らず自分の部屋の段ボールの中だ。最後に貼った一枚より新しい写真など、一枚もない。

 

 そのあいだにも、蓮はステージに立っていた。

 浅野が一度も見なかったステージに。

 

 ようやく膝の上で伏せていた電話を表に返した。

 ──マネージャーさんも、見ててくれると思ってましたから。

 蓮は、そう言ったのだ。

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

 聞き覚えのある前奏が流れだした。

 西日が画面に照り返して、はじめは蓮の顔がよく見えなかった。浅野が体をずらして画面を自分の影に入れると、たったそれだけのことで蓮はそこにいた。

 今日、すぐ隣で聴いていた声だった。ただ歌いかけている相手が違う。蓮は客席の奥まで目を配って、返ってくる声に笑ってみせる。

 蓮はほとんど立ち位置から動かずに歌っていた。踊らずに歌に集中させてもらえた、と言っていたとおりだ。

 Bメロに入る。昔ならここで、左右から中央へ寄っていく。その手前で、蓮の顔が横を向いた。

 振りなど、もうどこにもついていないはずの場所だった。

 隣の子と目を合わせるところだった。

 そこには、誰もいない。

 半拍、蓮の顔がそこで止まった。それから向けた顔をそのまま客席の端まで滑らせて、そこに知り合いでも見つけたように、片手を上げてみせた。端のほうから声が返る。客席は最初からそういう演出だと思っただろう。

 聞いてみたかった。最初からああするつもりだったのか、それともその場で思いついたのか。そんなことを考えているうちに、昔の蓮がよくつまずいていたところが、もう過ぎてしまっていた。見ていなかった。巻き戻そうかとも思ったが、戻しているあいだに次を見逃しそうな気がした。録画なのだからそんな心配はいらない。わかっているのに指が動かなかった。

 最後まで、二曲目も見た。

 歌い終えた蓮が深々と頭を下げ、肩で息を整えながらマイクを握り直した。

 

『──最初の曲は、前にいた事務所でも、ずっと歌っていた曲なんです』

 

 帰る時間になっても、あと一回だけ、と頼みこんでいた話を蓮はした。その一回で終わらなかったことのほうが多かったんです、と言って客席を笑わせた。

 

『歌も、踊りも、それ以外のことも。皆で教わって、できないところは教え合って……そこで、私は、アイドルになりました』

 

 蓮は客席を見渡した。

 

『事務所は、もうありません。でも、私を見て、前はどんなところにいたんだろうって思ってくれる人がいたら、私は何度でも話せます。こんな子がいて、こんなことをして、皆で武道館まで行ったんですって』

 

 拍手が起こった。

 

『もっと、そういう人を増やしたいです。あそこにいた皆が、あれはうちの蓮だって、胸を張れるように。これからも、笑ってステージに立ちます』

 

 立派な挨拶だ。

 浅野の知っている話を浅野の知らない客が聞いて、拍手を送っている。あの場所で起きたことが、こうして浅野の手の届かない場所にまで届いている。嬉しくないはずがなかった。よかったよ、頑張ってるな。昨日のうちに見ていたらきっとそう送っていただろう。

 

 ──いつまでやったら、もう大丈夫なんでしょうか。

 

 浅野は、映像を止めた。

 止まった画面の中で蓮はまだ笑っていた。

 

 何かが、耳の奥に引っかかっていた。

 さっきはどうしても動かなかった指で、浅野は映像を巻き戻した。画面の中の蓮が、下ろしたマイクをまた口もとへ持ち上げていく。三十秒。

 

『あそこにいた皆が、あれはうちの蓮だって、胸を張れるように』

 

 その声の下から別の声がした。

 

 ──お前が出てきたら、俺、言うからさ。あの子、うちの事務所にいたんだよって。

 

『これからも、笑ってステージに立ちます』

 

 ──これからも、笑ってステージに立ってくれよ。

 

 もう一度、戻す。

 もう一度。

 何度戻しても、蓮の声の下で、一年前の浅野が喋っていた。

 

 最後の日、椅子が二脚しか残っていない事務所で自分が言った言葉だった。

 それを一年、あの子はステージに立つたびに自分の声で繰り返してきたのだ。

 客席の誰ひとりそれが別の人間の言葉だとは気づかない。気づくはずもない。

 

 ──お前がそうしててくれたら、この場所も、たしかにあったんだって思えるから。

 

 たった一行の、簡単な理屈だった。

 あの子がステージに立っているあいだだけ、あの事務所はあったことになる。

 裏を返せば、あの子がステージを降りたその日に、なかったことになる。机の上の弁当も、鏡の前の場所取りも、何度撮り直しても誰かが泣いていた集合写真も、何もかも、最初から、

 

 ──だから、頼むな。

 

 頼むな、とだけ言っていつまでとは言わなかった。

 期限の欄を空けたまま、渡したのだ。

 いつまでやったら大丈夫なのか、と蓮は聞いた。答えならその空欄に書いてある。

 

 ずっと、だ。

 

 あれは、頼みごとなんかじゃない。

 あの子の心の奥底に打ちこんだ、呪いだった。

 

 言った本人に、そんなつもりはこれっぽっちもなかった。あの日の浅野はあれを、送り出す子に持たせてやれる精一杯のはなむけのつもりで口にしたのだ。それは今でも疑わない。

 疑わないからこそ、始末に負えない。

 本気で言われた言葉だから、あの子は黙って受け取った。本気で頼まれたことだから、一日も休まずに守ってきた。

 

 あの子に重たいものを載せたのは、きっと浅野ひとりではない。

 武道館に立った子、と紹介した新しい事務所の人。基礎をちゃんとやってきたんだね、と目を細めた歌の先生。昔の映像まで探し出して、ほかの子の名前まで覚えていてくれたファン。誰ひとり悪気はない。皆が心からあの子を褒め、心からあの子に期待した。その一言一言が楽屋に届く祝い花のようにあの子のまわりに並んでいって、どの花の札にも、『一回も間違えるな』、と同じことが書いてあった。

 けれど、並んだ花の札のどこを探しても、浅野の名前はない。

 浅野の一言は、もっと奥にある。客席の拍手よりも先に、あの子の中に書きこまれている。

 最後の日、がらんとしたあの事務所で、浅野はあの子の胸に、笑ってステージに立て、と書きこんだ。それがあの事務所の存在証明になるのだと、だから頼むな、と念を押した。そうしておいて、いつものように片手を上げて、あの子をひとりでドアの外へ送り出したのだ。

 

 あの日に、帰らなければならない。

 

 この海を壊したってかまわない。

 波を叩き、海面を割り、水しぶきと一緒に魚どもを空へ吹き飛ばして、最後にはこの世界ごと跡形もなく静かになったっていい。

 あの日、階段を下りていったあの子に会いに行かなければならない。

 

 決めた。

 

 砂を蹴った。

 乾いた砂は踏みこむそばから崩れて、蹴っても蹴っても体が前へ出ない。脱げたサンダルをひっつかんで裸足で走る。来るときの二人の足跡がまだ残っていた。小さいほうがところどころ妙に間を空けているのは熱い熱いと跳ねた跡だ。その砂も、もう冷えていた。二人ぶんの足跡を踏み荒らして浅野は走った。階段の下でサンダルを突っかけて階段を一段飛ばしに駆け上がる。サンダルが足についてこない。底が一拍遅れてぺたぺたと踵を叩き、指のあいだに残った砂がこすれて痛む。自販機の並んだ食堂の角を曲がる。白い壁の角を左へ折れて電柱をよける。胸の下が痛む。吸っても吸っても息が足りない。もう少しゆっくり行けばいいじゃないか、と体が言う。うるさい。お前の言い分ならこの一年でたっぷり聞いてやっただろ。出せ。足を出せ。次の電車が出る前に、

 

 駅に、蓮はいなかった。

 

 券売機の前も待合室も、改札の向こうのホームも見た。電光掲示板を見れば次の電車まではまだ七分あった。けれどそれは次の電車に乗る人間のための数字であって、ひとつ前の電車が何分前に出ていったのかは、どこにも書かれていない。

 息を整えようとしたら今度は咳が出た。

 来た道を引き返すしかない。

 もう走れなかった。角に来るたびに立ち止まって左右を見た。駅まで来るあいだ浅野は前しか見ていなかったのだ。

 やがて食堂の角まで戻ってきたところで足が止まった。

 自販機の陰のベンチに、蓮が座っていた。

 

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

 

「……マネージャー、さん?」

 

 蓮が顔を上げる。腰を浮かせかけたので、浅野は手を振った。座っていてくれ、のつもりだったが、はたから見れば、もう一歩も歩けない男が助けを求めているようにしか見えなかっただろう。

 両手を膝につく。息が戻らない。

 蓮は鞄を胸に抱えたまま、こちらを見ていた。

 

「……すみません。帰るって、言ったのに」

 

 浅野は首を横に振る。

 

「駅まで行こうと思ったんですけど。ここで、ちょっと座ったら……」

 

 蓮は、足もとに揃えて置いた靴を見ている。

 

「──どうやって帰ったらいいのか、わからなくなっちゃって」

 

 浅野は隣に腰を下ろした。ベンチがぎしりと鳴る。

 風にあおられて、かき氷の旗が裏返った。

 

「……足、砂だらけですよ」

 

 見下ろすと、サンダルの指のあいだまで砂まみれだった。帰りはあそこで足を洗えますね、と言いだした本人とそれを聞いていた男が、二人そろって洗わずにここまで来てしまったのである。

 蓮の口の端が、ほんの少しだけ動いた。

 駅のほうで踏切が鳴りはじめる。どちらも、次の電車の話はしなかった。

 

「……配信、見たよ」

 

 蓮がこちらを向く。

 

「二曲とも。そのあとの話も。……さっきは、ごめん。あんな言い方するつもりじゃ、なかったんだ」

 

 蓮は鞄の持ち手を握りなおした。

 

「……横を見ても、誰もいないんです」

 

 左右から中央へ寄る直前に一度だけ、隣の子と顔を見合わせる振りがあった。息が揃うようになってからも、浅野はあの振りを削らなかった。顔を見合わせたあとのほうが、皆いい顔をしたからだ。

 

「わかってるのに、見ちゃうんですよ」

 

 鞄を抱えた指の先が白い。

 

「私、ステージに立ってました。どこに出ても、笑って、最後まで。あそこにいた子として、ずっと。だから、だから……」

 

 涙をいっぱいに溜めた目が、まばたきもせずにこちらを見ている。

 そんな顔をさせたくて、走ってきたんじゃない。

 

「もういい」

 

 蓮の肩が小さく跳ねた。

 

「もういいんだ。笑ってなくたっていい。あんなの、頼むほうがどうかしてたんだ。お前ひとりに背負わせて、俺だけ、さっさと──」

 

 さっさと、何だ。逃げたのか。寝ていたのか。魚を眺めていたのか。

 

「背負わされたなんて、思ってないです」

 

 蓮は首を振る。

 

「……私が、そうしたかったんです。そうしてれば、まだ、あの事務所がどこかにある気がして……いつもステージが終わると、あそこに帰りたくなって」

 

 声が途切れた。

 

「……泣かないって、決めてたんですよ。最後の日だって、」

 

 自分の膝に向かって、蓮は言う。

 

 

「──あの時、本当は、帰りたくなかったんです」

 

 

 浅野は、何も言えなかった。

 

「大丈夫なんて、うそでした。……ツアーにも、行きたかったんです。皆で。部屋割りで揉めて、朝起きない子を起こして、帰ってきたら、また、あの場所で練習して、次の日も、学校が終わったら、走って、なのに、もう、どこにも、」

 

 涙が鞄の上に落ちる。蓮は慌ててぬぐう。ぬぐう端から、次が落ちる。

 その先を、蓮は言わなかった。

 

 その先に来る言葉なら、浅野も知っていた。

 一年かけて、自分が逃げ回ってきた言葉だった。

 

 電話に出て書類を揃えて、頭を下げて鍵を返して、そのあいだ一度も立ち止まらなかったのは、立ち止まったが最後、この一言に追いつかれるとわかっていたからだ。だから、自分に、あとで、と言い続けた。悲しむのは、あとで。悔しがるのも、あとで。あの場所を振り返るのも、泣くのも、全部、あとで、

 

 あとで、あとで、あとで、

 

 そうやって一年、逃げおおせたつもりでいたのに。

 

 浅野は、蓮のほうへ体を向けた。

 蓮が、濡れた目を上げる。

 

「──蓮」

 

 名前を呼んだところで、喉が詰まった。吸った息が震える。

 

「俺たちの事務所は──もう、ないんだ」

 

 蓮は、浅野の顔を見ていた。

 長いあいだ、見ていた。

 

「……あ、」

 

 鞄を抱えていた腕から、ゆっくりと力が抜けていく。白くなっていた指の先に、少しずつ色が戻ってきた。

 浅野は何か笑って言うつもりだった。だけど顔が、うまく動かなくなって、

 

「……皆が来るのが、好きだったんだ。うるさいし、片づけないし、机の上で弁当食うし。人が電話してるそばで振りの確認を始めるし、静かにしろって言ったら、全員ひそひそ声で返事するし。……外回りから戻ったら、もう鍵が開いてて、誰かの靴がドアに挟まってて、ただいまって言う前に、お帰りなさいって言われて。……俺の事務所なのに、俺のほうが毎日お邪魔してるみたいで、」

 

 止まらなかった。

 

「──最後の日も、お前が帰ったあと、」

 

 そのあとのことを、浅野は一年ぶりに思い出した。

 

 蓮はドアの前で振り返って、笑って、お疲れさまでした、と言ったのだ。いつもの挨拶だった。だから自分も、いつものように片手を上げた。明日も同じ時間に、このドアが開くみたいに。

 ドアが閉まると、すぐに電話が鳴った。短い用件だった。切ってしまうと、机の前の椅子が空いていた。

 机の脇には、口の開いた段ボール箱があった。ガムテープと延長コードに埋もれて、裁縫箱の蓋がのぞいている。浅野は箱に手を突っこんで、裁縫箱をいちばん上まで引っぱり出した。本番の直前に誰かの衣装がほころびても、これならすぐに手が届く。

 そこまでやってから、手が止まった。

 ほころびる衣装も、本番も、もうどこにもない。

 それでも浅野は、裁縫箱を箱の底へ戻せなかった。揃え終わった書類をもう一度揃え、空になった棚をもう一度拭いた。窓の外が真っ暗になっても、あの部屋の明かりを消せなかった。消してしまえば、それで本当に終わりだとわかっていたからだ。

 

 

 ──あの時、本当は、帰りたくなかったんです。

 

 

「……おれ、も、」

 

 声が割れた。

 

 

「おれも、帰りたくなかったんだ」

 

 

 蓮の指が、浅野のシャツの袖をつかむ。

 浅野は帽子の上から、その頭に手を置いた。

 

 

「…………なくなっちゃったぁ」

 

 

 大きく息を吸いこんで、蓮は声を上げて子どものように泣いた。

 浅野も顔を伏せた。伏せた顔の下へ、何もかもがいっぺんに押し寄せてくる。先に開いている鍵も机の上の弁当もひそひそ声の返事も衣装のほつれもあと一回だけの一回も段ボールの底の写真も、全部、全部、ここへ流れこんできて、浅野はそれを、ひとつも止められなかった。

 

 踏切が鳴って、電車が一本出ていった。

 浜のほうで柱の倒れる音がした。海の家の、最後の一本だろう。

 夏が、片づけられていく。

 来年になれば、あそこにはまた新しい店が建つ。人が並び、子どもがはしゃぎ、誰かがかき氷をこぼす。きっと、いい夏になる。

 

 けれど、この夏は、もう二度と来ない。

 

 手のひらの下で、蓮の帽子が小さく震えている。

 浅野は、いつまでもその手をどけなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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