夏は、一晩のうちに終わった。
肌寒い朝だった。
九月の半ばに寒いもへったくれもあるか、と浅野は思うのだが、腕にはしっかり鳥肌が立っている。出がけに消し忘れ、帰ってきてからも消し忘れ、とうとう丸一日働き通しのエアコンが頭の上でまだ冷風を吐きつづけているのだ。夏が相手ならこの働き者も互角に渡り合えていたはずで、ところが一夜明けてみれば戦う相手のほうが影も形もない。
リモコンを探して止め、窓を開けると乾いた風がするりと入ってくる。町じゅうに貼りついていた湿気は、どこかへ持っていかれてしまったらしい。空が高く、電線の上の雲が昨日よりずっと速い。耳を澄ませてもセミの声はひとつもなくて、昨日の昼、街路樹で一小節も持たずに黙りこんだあの一匹が、どうやら最後の一匹だったようである。向かいの家の物干しでタオルが一枚ばたばたと鳴っている。路地の角では、ついこのあいだまで日陰を奪い合っていた野良猫が、今日は日なたのど真ん中で腹を出していた。季節の変わり目というのはたいてい人間より猫のほうが先に知っている。
喉が痛い。
唾を飲みこむたび奥に紙やすりでも貼ってあるような感触がある。原因として思い当たるのは二つ、カラオケで一時間歌ったことと、食堂の角のベンチで、いい年をした男がみっともなく泣いたこと。どちらがどれだけ悪かったのかは喉に聞いてみなければわからないし、聞いたところで喉は痛いとしか答えないだろう。
パチンコ屋は十時に開く。
今からのんびり支度しても午後の部には十分間に合うし、あの台の魚どもは今日も何食わぬ顔で珊瑚のあいだを泳ぎながら、次の三千円がやって来るのを待っているに違いない。隣の台では、あの爺さんが水筒を小脇に抱えて、来る男来る男を社長と呼んでいることだろう。
しかし、どうやっても腰が上がらない。
海なら、昨日見てきたばかりなのだ。
かわりに押入れを開けると、段ボールが二つ、一年前と同じ顔で重なっていた。上の箱のガムテープに爪を立てれば拍子抜けするほどあっさり剥がれる。一年も待たせたのだから少しくらいごねてもよさそうなものだが、テープのほうもいいかげん待ちくたびれていたらしい。
写真は壁から外した順に重ねてある。外したのも重ねたのも浅野だから、いちばん上が最後に貼った一枚で、いちばん下が最初に貼った一枚ということになる。
それを上から一枚ずつ床に並べていく。
武道館の楽屋、武道館のリハーサル、武道館の前の晩に事務所で取った出前の寿司。誰かの誕生日のケーキ、ろうそくの本数を一本間違えたやつ。高速バスの窓に並んだ寝顔。雨で中止になった野外ステージの、ブルーシートしか写っていない一枚。
並べるほどに、写真は古くなっていく。衣装が一着ぶん地味になり、客席の空きが目立ちはじめる。写っている女の子が一人減り、また一人減って、事務所がまだ小さかったころへ戻っていく。
床のほうもみるみる減っていった。座椅子のまわりが埋まり、ベッドの足もとまで写真が押し寄せてくる。台所へ抜ける細い通り道だけを残して、六畳間はあっという間に三年ぶんの写真で埋まった。
窓から風が吹きこむたびに、何枚かがふわりと浮いて隣の写真の上に着地した。武道館の写真の上に、客が八人しか入らなかったライブハウスが重なる。浅野はそのつど手を伸ばして元に戻し、三度目でとうとう窓を半分閉めた。
最後の一枚には、一人しか写っていない。
まだ鏡しかない事務所。壁に立てかけた大きな鏡の前で、制服の女の子が鞄を両手で提げてこちらを見ている。撮ったのは浅野で、撮るぞと声をかけたら、鏡越しではなくちゃんと振り向いてくれた。そのくせ、何秒待っても笑わない。笑えと言ったら口がもっとまっすぐになった。
浅野は床の上を見渡した。
壁に貼ってあったころは、一枚ずつ仕事の目で眺めていたものだ。この衣装は次の公演でも使える。この子なら来月ソロで一曲任せられる。この客席の空いたところは次こそ埋めてやる。写真の前に立つたびに気がつけば頭の中で次の段取りを組んでいた。
今はそういう考えがひとつも浮かんでこない。
そのかわりに写っている顔のほうがよく見える。
──どの子も、ずいぶんいい顔をしている。
拾い上げたスマートフォンでは、制作会社からの連絡がまだいちばん上に居座っている。返信欄を開いて、昨日消した文面を一字一句そのまま打ち直した。
『お声がけありがとうございます。会場と日程を教えていただけますか』
読み返しても直すところはない。昨日だって直すところはなかったのだ。直すところがないのに送れなかったのなら、悪かったのは文面ではないのだろう。
送信ボタンを押した。
画面の右側に吹き出しがひとつ収まる。
それだけのことで壁が崩れるわけでも天井が落ちてくるわけでもない。半分閉めた窓の向こうで物干しのタオルがもう一度ばたんと鳴っただけだった。
呼び鈴が鳴ったのは、昼を回って二つ目の段ボールを開けたときだった。
一度だけ、短く。宅配便を頼んだ覚えはないし、新聞の勧誘ならもう少ししつこく押すはずである。首をひねりながらドアを開けると、そこに黒金蓮が立っていた。
「こ、こんにちは」
「……お前、昨日の今日だぞ」
「はい。午後の授業がなかったので、昨日の続きに来ました」
目の端がまだほんの少し赤い。それ以外には昨日の名残などどこにもなく、帽子とマスクはもう外して手に持ち、駅前のドーナツ屋の紙袋を提げている。パーカーは着てこなかったらしく半袖の腕が少し寒そうだ。夏のほうが先に帰ってしまったのだから仕方がない。
鞄の持ち手では、昨日の縞の魚が相変わらずとぼけた顔で揺れていた。
「……それ、まだ付けてるのか」
「かわいいので」
魚は、黒い点の目でじっとこちらを見ている。今日はパチンコ屋に行かないと決めた男としては、なんとなく見張られているような気がしないでもない。
「写真、送ってくれるって言ったじゃないですか。でも、せっかくなら自分で選びたいなって思って」
「いやいや、何枚あると思ってんだ」
「だから来ましたっ」
理屈は通っている。通っているからなおさら始末に悪い。
蓮が紙袋を少し持ち上げてみせる。
「それと、これ。昨日のお店で、三つ買ってきました。一つはマネージャーさんのです」
「残りの二つは」
「……私のです」
「二つ半から、半分減ったな」
「そ、そこは掘り返さないでください!」
言い返しながら蓮はもう靴を脱いで揃えている。差し入れを提げてきた相手を玄関で帰す方法など浅野は知らない。黙って道を空けるほかなかった。
六畳間の入口で蓮の足が止まる。
床という床に写真が敷きつめられている。
「……え。これ、全部ですか」
「全部。捨てるわけないって言ったろ」
「それは聞きましたけど……床一面とは思わないじゃないですかっ」
ドン引きである。
無理もない。一年ぶりに会った元マネージャーが、その翌日には六畳間の床一面に昔の写真を敷きつめて平気な顔で出迎えるのだ。浅野が蓮の立場でも、そっと玄関まで引き返して呼び鈴を押すところからやり直したくなるだろう。
蓮は写真を踏まないよう爪先で歩いて、ベッドの端に腰を下ろす。浅野が麦茶を取って戻ってくるころにはもう一枚目を手に取っている。
何も聞かないうちから蓮のほうが一枚ずつ言い当てていく。
──この衣装、初めて着た日のです。
──この子、前の日に熱を出して、でも出るって言って聞かなくて。
──この後ろの壁、マネージャーさんが一人で塗り直したんですよね。
──このケーキ、ろうそくが一本足りないの、マネージャーさんが数え間違えたんですよ。
最後のは違う。数え間違えたのは蓮で、浅野は買いに走らされたほうだ。浅野が忘れていることを蓮が覚えていて、その逆もある。そのたびにどっちが正しいかで少し揉めるのだが、確かめに行ける相手はここにはいないし、写真はどちらの肩も持たずに笑っているだけだ。
皆がいたら片づかなかっただろう、と一年前に言ったのは浅野である。
二人でも、ちっとも片づかない。
「あっ」
蓮の手が止まる。武道館の楽屋の一枚で、並んだ顔の中に一人、まぶたを半分だけ開けた子がいる。
「これは捨ててくださいって言いましたよね!」
「言われたけど、捨てるとは言ってない」
「じゃあ、せめて送らないでください。それだけは絶対に」
「わかった。これは俺が持っとく」
「それもだめですっ。……没収です」
蓮は写真を裏返したまま、鞄の内ポケットへしまいこんだ。押収品は、ただちに管轄外へ移送されたらしい。
その手が別の一枚でまた止まる。鏡しかない事務所の写真だった。
「……うわ」
「何だよ、うわって」
「だって、すごい顔してますよ、この子。証明写真じゃないんですから」
「鏡が来た日だな。何回笑えって言っても笑わなかった」
「笑おうとはしたんですよ! でも、まだ二回しか会ってない大人の男の人に、いきなりカメラを向けられたんですよ? どんな顔をすればいいのか、全然わからないじゃないですかっ」
「人聞きの悪い言い方するなよ」
「事実ですっ」
蓮が写真を膝の上で少し傾けると、窓からの光が当たって制服の女の子の顔が白く飛ぶ。傾け直せばまた戻ってくる。
「──…………この子、まだ何にも知らないんですよね。武道館に行けることも。そのあと、事務所がなくなっちゃうことも」
それから、少し考えて、
「……でも、知ってても、来てました。あの事務所に。……絶対」
蓮はその一枚を、テーブルの端にそっと置いた。
浅野は返事をしないまま床の写真を端から端まで眺める。壁に貼ってあったころは部屋を一周しても足りなかった三年だ。それが今は首を少し回すだけで全部見えてしまう。
これで全部なのだ。
これより先は、もうない。
「──蓮」
「はい」
「事務所はもうないけど、ほら」
浅野は床を指さす。
「証拠なら、足の踏み場もないくらいあるぞ」
蓮は床を見て、浅野を見て、テーブルの端の一枚を見て、もう一度浅野を見る。その口もとがゆっくりほどけていく。
「……踏み場がないのは、マネージャーさんが片づけないからです」
「お前も手伝ってないだろ」
「私はお客さんですから」
窓から差しこむ光が、床の写真の上を三枚分ほど横へ移っていた。そのあいだに、送る写真は一枚も決まらなかった。蓮は一枚手に取るたびに思い出話を一つして、話が終わると、その一枚をもとの場所へきちんと戻すのである。どれを送るんだ、と聞くと、今度にします、と言う。じゃあ全部送るか、と聞くと、それも今度にします、と言う。挙句、一回じゃとても選べないので、また来ます、とも言った。
写真は、一枚もこの部屋から出ていく気配がない。
休憩にしよう、と言いだしたのは浅野のほうだった。
二人分の麦茶を注ぎ足しに台所へ立つ。注ぎ足すほど減ってはいなかったのだが。
戻ってくると、蓮が紙袋を開けていた。栗が三つ並んでいる。
「……全部、栗なのか」
「はい。昨日いちばんおいしかったので。期間限定ですから、秋のうちに食べておかないとっ」
昨日の店先のポスターは、炎天下で一足先に秋を名乗っていた。一晩たって、ようやく季節のほうが看板に追いついたらしい。
蓮は一つを浅野の前に置き、そのてっぺんの栗を自分の皿へそっと移す。昨日は避難という名目だったが、今日のはどう見ても一方的な接収である。抗議する権利がこちらにあるのかどうか、三秒ほど考えてやめた。
どうやら
二人とも一つずつ食べ終えたところで、蓮は二つ目には手を伸ばさずにフォークを置いた。麦茶のコップを脇へ寄せ、背筋を伸ばし、膝の上で手を揃えて、
「こほん。マネージャーさんに、ご報告があります」
事務所で何度も見た手順である。
「ゆうべ、帰りの電車で決めて、家に着いてすぐ、担当の方に電話しました。来年の企画、お受けしました。これから、いろんな地方を回ります。……その先も、アイドルを続けます」
昨日、辞めます、と言ったときと少しも変わらない顔つきで、正反対のことを言っている。
地方を回る、と蓮は言った。武道館の夜の楽屋で皆で行こうと騒いで、部屋割りの相談までして、とうとう行けなかったツアーである。浅野が連れていってやれなかった場所へ、この子は自分の足で行くのだ。
喉の奥が急に熱くなった。カラオケのせいでも、ベンチで泣いたせいでもない。
「……そっか」
それから、昨日カラオケ屋の前で用意したまま使いどころをなくしていた言葉を、ようやく出した。
「よかった、な」
自分で思っていたよりずっと震えた声になった。浅野はあわてて床の写真を一枚拾い上げた。拾い上げただけで何が写っているのかは見ていなかった。
蓮はそんな浅野を見て、少しだけ笑った。
「やっぱり、私は、アイドルが好きなんです。……それだけで、いいことにしたんです」
蓮は鞄の内ポケットから、さっき没収した写真を引っぱり出して表に返す。
「あの事務所のことも、聞かれたら話します。……でも、話さなきゃって思うのは、やめにします。だって、ほら。こんな薄目の写真だって、立派な証拠なんですから」
「自分で言うか、それ」
「言いますよ。……没収は、取り消しませんけど」
浅野は笑い、笑ったせいで喉が痛む。
蓮は薄目の写真を内ポケットへしまい直した。しまい直したついでに、指が鞄の奥で止まる。
白い角が、のぞいていた。
「それ、昨日から出しかけてたやつだろ」
「き、気づいてたんですか」
「あんなにちらちら意味ありげに出し入れしてたら気づくよ。……一応聞くけど、請求書とかじゃないよな」
「なんでそうなるんですかっ!」
蓮は唇をとがらせながら、両手で封筒を差し出した。
封を切ると、細長い紙が一枚出てくる。
次のライブの招待券だった。
「……昨日、渡そうと思ってたんです。でも、配信も見てくれてない人に渡しても、来てくれないかなって」
「見たよ。昨日」
「はい。だから、今日はちゃんと渡します」
浅野は日付を見た。来月の頭だった。
「……これ、最後のつもりだったのか」
「はい。辞めるなら、その日で終わりにしようって。最後のステージくらい、マネージャーさんに見ててほしかったんです」
蓮は空になった封筒の角を指でそろえて、それから少しだけ胸を張った。
「でも、もう最後じゃなくなっちゃいました」
「……ありがとう。行くよ。絶対に」
券面の席は、前から数えたほうがずっと早かった。ステージの上から、顔までちゃんと見える列である。
浅野は、その数字をしばらく眺めた。
こういう席は、どうにも落ち着かない。三年間、客席の前のほうには一度も座ったことがないのだ。前の列はお客さんのもので、浅野の居場所はいつも後ろか袖だった。座ったところで、幕が開いて十分もすれば、たぶん後ろの壁ぎわに立っているだろう。
「ちゃんと最後まで見るから。たぶん、一番後ろで」
「むっ……一番後ろ、ですか」
「全体が見えるからな」
「後ろで腕組んで、うんうんってうなずいてるだけのお客さんですか」
「それの何が悪いんだよ」
「……別に、悪くはないですけど」
悪くはないと言う顔ではない。蓮はじっとこちらを見ている。
「マネージャーさんは、どうするんですか。これから」
「……前の取引先から、月末のイベントの現場に来ないかって話があってさ。今朝、日程だけ聞いてみた」
「それって、アイドルの……いえ、どっちでもいいです」
蓮は空の封筒を膝の上に置いた。
「やりたい仕事、なんですか」
すぐには答えられない。
昔から、人を送り出すのは得意なのだ。行ってこい、お前ならやれる、とならいくらでも言える。ところが自分のこととなると、やりたい、のひと言がなかなか喉から出てこない。
浅野は、テーブルの端の写真に目をやった。にこりともしない制服の女の子が、こちらを見ている。
「…………好き、なんだ」
蓮の手が、写真をぱたんと伏せた。
「…………えっ。……え、あの、それは、その、ど、どういう──」
蓮の指が耳の横の髪へ伸びて、直すところなどどこにもないひと房を、もう一度耳にかけ直す。
「……俺もやっぱり……アイドルが好きなんだ」
蓮の指が止まった。
「………………アイドル、が」
「他に何があるんだよ」
「し、知ってました! 最初からそういう意味だって、わかってました! 私、そういうの、すぐわかるほうなので! 一瞬も、これっぽっちも、勘違いなんかしてませんからっ!」
蓮は伏せた写真を、さっと鞄の内ポケットへ押しこんだ。耳まで赤い。
「……じゃあ、その仕事、受けるんですか」
声だけは、すっかり平静を取り戻していた。
「……まあ、話を聞いてからだな」
本当は、月末の現場のことなど半分も考えていない。さっきから浮かんでくるのは、来月のあのホールの袖に立って、出ていく背中に、大丈夫だ、と声をかける自分の姿ばかりだ。
けれど、それを口に出していいのかどうかは、別の話だった。
「『……まあ、話を聞いてからだな』」
蓮が低い声で繰り返す。顎を引いて眉間にしわを寄せて、ずいぶん渋い顔だ。誰の真似なのかは、聞くまでもない。
「似てないぞ」
「似てますよ。毎日聞いてましたもん」
そう言われると反論のしようがない。毎日言っていた覚えだけはこちらにもあるのだ。
蓮は、膝の上で手を揃え直した。
「マネージャーさん、昨日、私に言いましたよね。俺がついてなくても、もう大丈夫だって」
「……言った」
「マネージャーさんこそ、どうなんですか。私がついてなくても、大丈夫なんですか」
麦茶を口へ運びかけて、浅野はコップが空なのに気づく。さっき注ぎ足したばかりのはずなのに、この子と大事な話をしているとどういうわけか飲み物のほうが先になくなるのだ。
「大丈夫だよ。夜は倉庫があるし、昼は……」
「昼は?」
「…………いろいろ、だよ」
「『いろいろ』」
蓮がまた繰り返す。今度は真似ではなく、ひどく疑わしいものを指でつまんで光に透かしてみるような言い方だった。
かと思うとその眉間に、さっきの物真似よりもずっと深いしわが寄った。
「……アイドルが大好きなくせに! 一番後ろでいいとか、話を聞いてからとか、いろいろとか! 昨日あんなに泣いたくせに、一晩寝たら、もう全部片づいたみたいな顔しないでください! 床、こんなに散らかってるくせにっ!」
夜中の二時に洗濯機を回す男が、今日も昼間から回しはじめる。ごうん、と壁が震える。
蓮が立ち上がった。
写真のない隙間を探して、つま先で一歩、二歩。六畳間のまんなかに、ちょうど人ひとり立てるだけの床が空いていて、蓮はそこにすっくと立つ。座椅子の浅野は見下ろされる格好になり、この部屋で浅野が誰かに見下ろされるのは、たぶんこれが初めてである。
「──マネージャーさん。あなたに、宣戦布告です」
洗濯機の音に少しも負けていない声だ。
宣戦布告である。請求書と督促状なら山ほど受け取ってきたが、こればかりは受け取った覚えがない。
「その招待券だって、今回だけですからね。次からは、ちゃんと自分で買ってください。……今のマネージャーさんに買えれば、の話ですけど」
「おい」
「ふんだ。私、これからは、自分のために歌います。どんどんうまくなって、どんどん大きなステージに出て、事務所はどこなの、なんて誰も聞かないくらい、黒金蓮って名前だけで、誰もが知ってるアイドルになります。チケットなんて、簡単には取れなくしてみせますから」
蓮が、半分閉めたままの窓のほうへちらりと目をやる。
「──来年の夏には、海の見えるステージにだって立ってみせます」
息が止まる。
次の夏の気配がする。
「そうなったら、一番後ろで腕を組んでるだけなんて、我慢できなくなりますよ。あそこはこうしたほうがいいとか、照明はこっちから当てたほうがいいとか、言いたいことがたっくさん出てきて、うずうずして、夜も眠れなくなるんです。マネージャーさんって、そういう人ですから」
言い返せない。昨日のカラオケで頼まれもしないのに照明の当て方を語りだし、あげくに部屋の明かりまで落としてみせたのは、ほかならぬ浅野なのだ。
「だから、そのときは──」
すうっと、蓮が息を吸う。
口の端が、にっと上がった。
浅野は、その顔を見上げている。
床の上には、最後に貼った一枚より新しい写真が、まだ一枚もない。
だから、次の一枚は、たぶん、
きっと。
「────あなたの口から必ず『もう一度、蓮のマネージャーをやらせてください』って、言わせてみせますからっ!」
SUPERCAR/My Girl