流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
――まず、一人。
そう心の中で呟いたときには、俺の身体はすでに動き始めていた。
薄暗い部屋。
錆びた鉄の匂い。
古い寝具が敷かれたベッド。
そして、その傍らに立つ大柄な男。
男は、こちらに背中を向けていた。
身長は百九十センチ以上。
横幅も相当なものだ。
だが、ただ脂肪がついているだけではない。
分厚い肩。
太い首。
そして、服の下からでもわかる、発達した筋肉。
あの体格で念まで使えるとなれば、正面からの殴り合いは避けたい相手だった。
もっとも。
正面から戦うつもりなど、最初からない。
俺は、絶を維持したまま男の背後へ近づいた。
一歩。
さらに一歩。
足裏が床に触れる瞬間、体重を滑らかに移す。
靴底が擦れる音すら立てない。
呼吸も浅く、静かに。
心拍は落ち着いている。
目の前にいるのは、自分よりも遥かに大きな念能力者だ。
だが、不思議なほど恐怖はなかった。
油断しているわけではない。
むしろ、神経は研ぎ澄まされていた。
男の肩の動き。
呼吸の間隔。
重心の位置。
そして、オーラの流れ。
それらが、はっきりと見えていた。
「へへ……さっきまで威勢がよかったじゃねえか」
男が、下卑た笑い声を漏らした。
その視線の先には、一人の少女がいた。
十歳前後だろうか。
髪は乱れ、服は汚れている。
頬には涙の跡。
それでも、少女は男を睨みつけていた。
「……近づかないで」
「何だと?」
「……あんたなんか、怖くない」
声は震えていた。
だが、少女は必死に言葉を絞り出していた。
俺は、その姿を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。
怖くないはずがない。
身体の大きさも、力も、まるで違う。
逃げ場もない。
助けを呼べる相手もいない。
それでも、少女は抵抗していた。
ほかの子供たちを励ましていたときと同じように。
自分自身を奮い立たせているのだろう。
男は、その様子を楽しむように笑った。
「……いいねえ。そういう生意気なガキは――」
その言葉が、最後まで続くことはなかった。
俺は、男の背後で静かに右手を動かした。
何もない空間。
そこへ、意識を向ける。
次の瞬間。
大ぶりなナイフが、俺の手の中に現れた。
アイテムボックス。
五年間、誰にも知られずに隠し続けてきた特典の一つ。
以前なら、手をかざす必要があった。
だが、今は違う。
自分から一メートル以内であれば、意識した位置へ物を取り出せる。
そして、その動作には、ほとんど時間がかからない。
ナイフの柄が、手のひらに収まる。
俺は、握りを確かめた。
重さ。
刃の長さ。
重心。
すべて、把握している。
このナイフは、何でも屋の仕事で手に入れたものだった。
元々は、古い軍用装備の中に紛れていた大型の刃物だ。
刃は厚く、頑丈。
何度も手入れを重ね、今では十分に使える状態になっている。
俺は、男の背中を見た。
念能力者。
だが、今は完全に油断している。
オーラは身体を覆っているものの、その密度は高くない。
少なくとも、戦闘中の堅とは比べものにならなかった。
そして、男は俺の存在に気づいていない。
ならば。
この機会を逃す理由はなかった。
俺は、静かに絶を解いた。
同時に、オーラを刃へ流し込む。
周。
物体をオーラで包み、強化する応用技。
四年間、繰り返し鍛えてきた技術だ。
ナイフの刃が、薄いオーラに包まれた。
そして。
俺は、一歩踏み込んだ。
◇
最初の一撃は、心臓。
男が振り向くより早く、刃を突き立てた。
肉体を覆うオーラの抵抗。
筋肉。
骨。
それらを、周で強化された刃が貫いた。
男の身体が、びくりと震える。
「……がっ?」
声にならない音が漏れた。
だが、俺は止まらない。
刃を引き抜く。
そして、次の瞬間。
うなじ。
男の首の後ろへ、二撃目を突き込んだ。
ほとんど同時だった。
男が状況を理解する暇もない。
反撃する暇もない。
念能力を発動する暇もない。
ただ、身体が硬直した。
俺は、男の服を掴んだ。
そして、静かに後ろへ引いた。
巨大な身体が、ゆっくりと傾く。
本来なら、床へ倒れれば大きな音がするだろう。
だが、俺はその重量を支えた。
フィジカルギフテッドによる身体能力。
十歳ほどの身体でありながら、成人男性を遥かに上回る筋力。
その力を使い、男の身体を静かに床へ下ろした。
鈍い音が、わずかに響いた。
それだけだった。
男は、もう動かなかった。
俺は、手首に触れた。
脈はない。
呼吸もない。
そして、オーラの流れも消えていた。
死亡を確認する。
俺は、静かに息を吐いた。
一人目。
完了。
その間、数秒もかかっていなかった。
◇
「…………え?」
小さな声が聞こえた。
俺は、顔を上げた。
ベッドの上に、少女がいた。
さっきまで男に抵抗していた女の子だ。
少女は、目を大きく見開いていた。
何が起こったのか、理解できていないのだろう。
無理もない。
自分を襲おうとしていた大男が、突然動きを止めた。
次の瞬間には、床へ倒れていた。
そして、その背後に。
見知らぬ少年が立っている。
俺は、少女へ視線を向けた。
身体に大きな怪我は見当たらない。
少なくとも、今すぐ治療が必要な状態ではなさそうだ。
だが、精神的な衝撃は大きいだろう。
俺は、できるだけ穏やかな声を出した。
「……大丈夫?」
少女は、答えなかった。
ただ、俺を見つめている。
瞳には、大粒の涙が溜まっていた。
「……助けに来た」
俺は、短く告げた。
「ほかの子供たちも助ける。だから、ここで待ってて」
少女の唇が、小さく震えた。
「……た、助け……?」
「うん」
俺は、頷いた。
「もう、あいつは動かない」
少女は、床に倒れた男へ視線を向けた。
そして、すぐに目を逸らした。
俺は、それ以上説明しなかった。
今、この子に必要なのは、細かな事情ではない。
安全な場所へ戻れるという希望だ。
「……この部屋から出ないで。俺が戻ってくるまで、静かに待ってて」
少女は、ようやく小さく頷いた。
「……う、うん……」
俺は、扉へ向かった。
だが、その前に一度だけ振り返った。
「……名前は?」
少女は、少しだけ戸惑った。
「……サラサ」
「サラサ、か」
俺は、頷いた。
「俺はアオ。すぐ戻るから」
そして、扉へ向かった。
少女は、何も言わなかった。
ただ、涙を浮かべたまま、俺の背中を見つめていた。
◇
サラサには、何が起こったのかわからなかった。
つい先ほどまで、目の前には恐ろしい男がいた。
大きな身体。
嫌な笑い方。
そして、逃げられないという絶望。
ほかの子供たちの前では、泣かないようにしていた。
自分より小さな子供たちが、怯えていたからだ。
誰かが励まさなければならない。
そう思っていた。
だが、本当は怖かった。
ずっと、怖かった。
男に腕を掴まれたとき。
別室へ連れていかれたとき。
そして、ベッドへ投げ出されたとき。
もう、助からないのかもしれない。
そう思った。
それなのに。
男が、突然倒れた。
何の前触れもなかった。
叫び声も、争う音もなかった。
ただ、男の身体が動かなくなった。
そして、その背後に。
一人の少年が立っていた。
黒髪。
黒い瞳。
年齢は、自分と同じくらいだろうか。
だが、その少年は、まるで大人のように落ち着いていた。
いや。
大人というよりも。
何か、もっと違うものだった。
少年の目には、恐怖がなかった。
怒りもなかった。
ただ、静かだった。
そして、その静けさが、妙に怖かった。
だが。
少年は、自分へ向き直ると、穏やかな声で言った。
助けに来た。
その言葉を聞いた瞬間。
サラサの胸の奥で、何かが崩れた。
助け。
誰かが、助けに来てくれた。
それだけで、涙が溢れそうになった。
だが、声が出なかった。
少年は、アオと名乗った。
そして、ほかの子供たちを助けると言った。
サラサは、何とか頷いた。
少年が扉へ向かう。
その背中を見ながら、サラサは思った。
……本当に、助かるの?
信じたい。
だが、怖い。
もし、あの少年まで捕まってしまったら。
もし、ほかの男たちに殺されてしまったら。
そんな考えが、頭の中を駆け巡る。
サラサは、両手を強く握りしめた。
そして、震える声で呟いた。
「……お願い……」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
ただ。
あの少年が、無事に戻ってくることを願った。
◇
俺は、別室を飛び出した。
扉を閉める。
そして、すぐに倉庫の中央へ向かう。
残り二人。
特徴のない男。
そして、灰色の男。
どちらも念能力者だ。
しかも、灰色の男は電話をしていた。
つまり、外部に仲間がいる可能性が高い。
長引かせるわけにはいかない。
俺は、通路を走りながら、周囲の気配を探った。
倉庫の中央。
そこには、二人の男がいる。
特徴のない男は、鉄格子の近く。
灰色の男は、少し離れた場所。
子供たちは、鉄格子の中。
およそ二十人。
俺は、頭の中で位置関係を整理した。
まず、特徴のない男。
あいつは、子供たちのすぐ近くにいる。
戦闘が始まれば、人質を取る可能性がある。
だから、最初に無力化する。
そして、灰色の男。
あいつは、明らかにほかの二人よりも警戒心が強い。
オーラの扱いも洗練されている。
正面から戦えば、面倒な相手になるだろう。
だが。
奇襲なら、話は別だ。
俺は、アイテムボックスへ意識を向けた。
次の瞬間。
右手の中に、小さな鉄片が現れた。
手裏剣のような形に加工した、薄い金属片。
四年間の修行で、何度も使ってきた投擲武器だ。
元々は、ゴミ山で拾った金属板だった。
それを切り出し、研磨し、重心を調整した。
見た目は、簡素な手裏剣に近い。
だが、俺の身体能力と念を組み合わせれば、十分な殺傷力を持つ。
俺は、鉄片を指先で挟んだ。
そして、オーラを流し込む。
周。
薄い鉄片が、オーラに包まれた。
金属の強度が増す。
そして、投擲時の衝撃にも耐えられるようになる。
俺は、静かに息を吐いた。
目標。
特徴のない男。
距離。
およそ十五メートル。
障害物。
なし。
子供たちは、男の背後にいる。
だから、投げる角度を調整する必要がある。
俺は、ほんのわずかに身体を傾けた。
そして。
右腕を振り抜いた。
◇
鉄片が、飛んだ。
音は、ほとんどなかった。
ただ、空気を切り裂く鋭い気配だけが走った。
フィジカルギフテッドによる身体能力。
そして、周による強化。
その二つが組み合わさった投擲は、常識外れの速度に達していた。
特徴のない男は、鉄格子の前に立っていた。
子供たちへ何かを言おうとしていたらしい。
だが、その言葉が口から出る前に。
鉄片が、胸へ直撃した。
「……がっ!?」
男の身体が、大きく揺れた。
胸元に、深く食い込んだ鉄片。
その衝撃で、男は後ろへ倒れ込んだ。
床へ、鈍い音が響く。
俺は、その様子を横目で確認した。
命中。
だが、死亡したとは限らない。
相手は念能力者だ。
致命傷に見えても、まだ動ける可能性がある。
それでも、今は追撃しない。
次の標的がいる。
灰色の男。
俺は、すでに動いていた。
◇
灰色の男は、突然の出来事に目を見開いた。
目の前で、仲間が倒れた。
何が起こったのか、理解できていないのだろう。
だが、その反応は速かった。
男は、即座に身体を捻った。
そして、オーラを膨らませる。
練。
俺は、その変化を見逃さなかった。
だが、止まらない。
床を蹴る。
身体が、前へ飛び出す。
十歳ほどの身体。
だが、その速度は、普通の人間には到底追えないものだった。
残像。
そんな言葉が、似合う速度。
俺は、一瞬で灰色の男との距離を詰めた。
右手には、先ほどの大型ナイフ。
アイテムボックスへ戻していたものを、再び取り出している。
刃は、周で強化されていた。
俺は、男の胸元へ狙いを定めた。
心臓。
最短距離。
最小の動作。
そして、最大の速度。
俺は、ナイフを突き出した。
「……っ!?」
灰色の男が、目を見開く。
だが、間に合った。
男は、咄嗟に右腕を上げた。
そして、その腕へオーラを集中させる。
凝。
いや、攻防力移動。
瞬間的に、防御へオーラを集めたのだ。
俺のナイフが、男の右腕へ突き刺さった。
「……ぐあっ!!」
男が、苦痛に顔を歪めた。
だが、刃は心臓へ届かなかった。
右腕で、受け止められた。
俺は、内心で評価を改めた。
速い。
そして、判断が的確だ。
仲間が突然倒れた直後。
さらに、俺の突進を受けながら。
それでも、咄嗟に防御を間に合わせた。
相当な実戦経験がある。
俺は、ナイフを引き抜いた。
血が、わずかに飛び散る。
灰色の男が、歯を食いしばった。
だが、俺は止まらない。
次の一撃。
首。
右腕を負傷した今、男の防御は崩れている。
俺は、刃の角度を変えた。
そして、男の首へ向けて振り抜こうとした。
その瞬間。
違和感。
灰色の男の視線が、俺を見ていなかった。
正確には。
俺の肩越し。
背後。
そこへ、視線が向いていた。
俺は、反射的に判断した。
何かがいる。
あるいは、何かが来る。
この男は、それを見ている。
俺は、即座に攻撃を中断した。
そして、地面を蹴った。
横へ。
全力で。
灰色の男から距離を取る。
その動作は、ほとんど反射だった。
四年間。
何度も死線を越えてきた。
その中で身につけた、危険への直感。
それが、今、警鐘を鳴らしていた。
俺は、数メートル横へ跳んだ。
そして、着地と同時に構え直した。
右手には、ナイフ。
身体の周囲には、纏。
そして、視線は灰色の男へ向けたまま。
だが。
意識の一部は、背後へ向いていた。
何がある?
何が来た?
俺は、静かに息を吐いた。
灰色の男は、右腕を押さえながら、こちらを見ていた。
その顔には、苦痛が浮かんでいる。
だが、同時に。
奇妙な笑みもあった。
俺は、目を細めた。
そして、心の中で呟いた。
……何だ?
その瞬間。
背後から、何かが動く気配がした。
俺は、反射的に身体を捻った。
だが、まだ正体は見えない。
ただ。
確かなことが、一つだけあった。
この戦いは。
まだ、終わっていない。