流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第二話 最初の食事、最初の傷

流星街。

 世界から捨てられたものが集まる場所。

 それが、俺の知っているこの街の説明だった。

 漫画の中で描かれていた光景を思い出す。山のように積み上がった廃棄物。薄汚れた建物。外の世界から忘れられた人々。そして、その環境の中で独自の社会を築いている住民たち。

 ただし、漫画のページに描かれている光景と、実際に自分の足で立っている場所とでは、何もかもが違った。

 まず、臭いが違う。

 腐敗した生ゴミの臭い。雨水に濡れた鉄の臭い。何かの薬品が混じったような刺激臭。長い時間をかけて染みついた埃の臭い。

 それらが一つになって、鼻の奥にまとわりついてくる。

 次に、音だ。

 風が吹くたび、積み上がった金属片が擦れ合う。遠くでは、何か大きなものが崩れるような音が響いていた。時折、聞き慣れない動物の鳴き声のようなものも聞こえてくる。

 そして、何よりも困るのが、足元だった。

 大小さまざまな廃棄物が転がっている。錆びた釘、割れたガラス、鋭く折れ曲がった金属板。足を置く場所を間違えれば、子供の身体など簡単に傷つくだろう。

 俺は自分の足元を見下ろした。

 裸足ではなかった。

 いつの間にか、くたびれた布製の靴を履いている。サイズは少し大きいが、ないよりはましだ。服も、薄汚れた長袖のシャツと、膝のあたりが擦り切れたズボン。どちらも新品ではないが、最低限、身体を覆うことはできる。

 転生時に着ていたものなのか、それとも、この身体が元から身につけていたものなのか。

 考えても答えは出なかった。

「……まずは、現状確認だな」

 口に出してみる。

 誰もいない。

 返事をする者もいない。

 それを確認してから、俺はゆっくりと息を吐いた。

 焦るな。

 まずは状況を把握する。

 危険を避ける。

 食料を確保する。

 雨風をしのげる場所を見つける。

 それから、今後のことを考える。

 やるべきことを順番に並べれば、多少は頭が落ち着く。

 俺は三十二歳まで生きてきた。

 仕事で失敗したこともあるし、予想外の問題に直面したこともある。何もかもが思いどおりになる人生ではなかった。

 だが、少なくとも、目の前の問題を整理することくらいはできる。

 そう自分に言い聞かせながら、俺は周囲を見回した。

 視界に入るのは、ゴミの山、ゴミの山、そしてゴミの山。

 まるで世界そのものが巨大な廃棄場になったかのような光景だった。

 遠くには、崩れかけた建物らしきものが見える。さらに奥には、大小の廃棄物が積み重なって、地面よりも高い丘のようになっている場所があった。

 人影はない。

 少なくとも、今見える範囲には。

 俺は耳を澄ませた。

 風の音。金属が軋む音。どこかで水が滴る音。

 人間の話し声は聞こえない。

 それは幸運なのか、それとも不運なのか。

 今の俺には判断できなかった。

 人間に出会えば、食料や寝床について情報を得られるかもしれない。だが、五歳ほどの子供が一人でこんな場所にいるのだ。相手が善人だという保証はない。

 そもそも、ここが流星街であるなら、普通の街と同じ感覚で人を信じるべきではないだろう。

 俺は自分の小さな手を握り、開いた。

 身体は子供。

 中身は三十二歳。

 そして、頭の中には五つの特典についての記憶がある。

 念能力の才能。

 戦闘の才能。

 フィジカルギフテッド。

 アイテムボックス。

 完全回復・除念能力。

 どれも、普通の五歳児が持っているものではない。

 だが、今の段階では、それらの能力がどの程度使えるのか、俺自身も完全には把握していなかった。

 念は使えない。

 少なくとも、使い方を知らない。

 戦闘の才能があるといっても、実際にどこまで動けるのかは不明だ。

 身体能力についても同じ。

 アイテムボックスと回復能力は、存在を認識しているだけで、実際に使った経験はない。

 つまり、俺は強力な特典を持っているらしいが、それを安全に使いこなせるかどうかは、これから確かめなければならない。

「……結局、何をするにも、まずは試してみるしかないか」

 ただし、無茶はしない。

 命は一つ。

 いや、正確には二度目の人生だが、だからといって三度目があるとは限らない。

 俺は一度死んでいる。

 死後に謎の存在と出会い、転生した。

 だからといって、死ぬことに慣れたわけではない。

 むしろ、もう一度人生を与えられたからこそ、簡単に失うわけにはいかなかった。

 俺は腹に手を当てた。

 空腹だった。

 それも、かなり。

 転生してからどれくらい時間が経ったのかはわからないが、胃の中には何もないようだった。身体が小さいせいか、空腹の感覚は前世よりもずっと強く感じる。

 まずは食料。

 それが最優先だ。

 俺は周囲を警戒しながら、比較的足場の安定している場所を選び、歩き始めた。

 目指す場所は決まっていない。

 ただ、何か使えそうなものが見つかる可能性がありそうな場所を探す。

 流星街が世界中から廃棄物を受け入れる場所なら、まだ使える物が混じっていてもおかしくない。

 食料が見つかる可能性だってある。

 もちろん、廃棄物の中にある食料が安全とは限らない。腐っているもの、汚染されているもの、何が混入しているかわからないものもあるだろう。

 見つけたからといって、何でも食べるわけにはいかない。

 俺はそう考えながら、慎重に足を進めた。

 最初のうちは、歩くだけでも神経を使った。

 小さな身体では、一歩の幅が狭い。足場を確かめるためにしゃがみ込む回数も多い。

 何度か、崩れかけた金属板に足を取られそうになった。

 そのたびに、俺は足を止めた。

 急ぐ必要はない。

 いや、空腹を考えれば急ぎたいところだが、ここで転んで大怪我をしたら、それこそ本末転倒だ。

 慎重に。

 確実に。

 俺は自分に言い聞かせながら進んだ。

 やがて、周囲の景色が少し変わった。

 比較的大きな廃棄物が積み上がり、その間に細い通路のような隙間ができている。

 通路の先には、古い木箱らしきものが見えた。

 木箱の表面は黒ずみ、角が欠けている。蓋は半分ほど外れ、隙間から何かが覗いていた。

 俺は足を止めた。

 中身は何だろう。

 食料か。

 道具か。

 それとも、ただのゴミか。

 期待しすぎないようにしながら、慎重に近づく。

 木箱の中には、布切れ、割れた容器、錆びた金属片が入っていた。

 食べられそうなものはない。

「……まあ、そんなもんだよな」

 がっかりはしたが、予想どおりでもあった。

 廃棄物の中から都合よく食料が見つかるほど、人生は甘くない。

 それでも、木箱は使えるかもしれない。

 俺は中身を一度外へ出し、箱そのものを調べた。

 底板は少し傷んでいるが、完全に腐っているわけではない。大きさも、子供の身体なら何とか持ち運べる程度だ。

 ただ、今すぐ持ち帰る必要はない。

 そもそも、帰る場所がないのだから。

 俺は箱を元の位置に戻し、再び歩き出した。

 しばらく進んだところで、金属片の山に行き当たった。

 大きな板が何枚も折り重なり、その下には黒い空間が広がっている。

 何かが隠れていそうな場所だった。

 だが、近づくのは危険だ。

 崩れれば、子供の身体など簡単に押し潰される。

 俺は距離を取ったまま、周囲を観察した。

 板の隙間には、古い布が引っかかっている。

 その近くに、何かの骨らしきものが転がっていた。

 動物のものか、人間のものかはわからない。

 俺はそれ以上近づかず、別の方向へ進むことにした。

 今は食料を探しているのであって、危険な場所を調査しているわけではない。

 目的を忘れてはいけない。

 そう思い直した、そのときだった。

 風向きが変わった。

 鼻に届く臭いが変わる。

 腐敗臭や金属臭に混じって、獣の臭いがした。

 俺は足を止めた。

 ほんのわずかに、背筋が冷たくなる。

 気のせいかもしれない。

 だが、こういうときに気のせいだと決めつけるのは危険だ。

 俺はゆっくりと周囲を見回した。

 右。

 崩れた壁。

 左。

 錆びたドラム缶。

 正面。

 廃棄物の山。

 背後。

 細い通路。

 そして、廃棄物の山の向こう側。

 そこに、何かがいた。

 最初に見えたのは、灰色がかった毛並みだった。

 次に、耳。

 そして、こちらを向く黄色い目。

 犬だった。

 いや、犬というには少し大きい。

 痩せているが、身体の骨格はしっかりしている。毛はところどころ抜け、皮膚には古い傷が見えた。口元は汚れ、鋭い歯の隙間から唾液が垂れている。

 野犬。

 そう判断した瞬間、俺の頭の中で警戒の信号が鳴り響いた。

 犬は一匹だけではなかった。

 その後ろに、もう一匹。

 さらに、少し離れた場所に、三匹目の影が見えた。

 全部で三匹。

 俺は無意識に、足を半歩引いた。

 前世の俺なら、どうしていただろう。

 おそらく、逃げていた。

 大人であっても、野犬が三匹いる状況で素手の戦闘を選ぶ理由はない。

 ましてや、今の身体は五歳児だ。

 普通なら、勝ち目などない。

 だが、俺には特典がある。

 それを、今まで一度も使ったことがないだけだ。

 野犬の一匹が、低く唸った。

 その声を聞いた瞬間、俺の思考が切り替わった。

 怖い。

 当たり前だ。

 だが、怖いからといって、何も考えずに逃げるわけにはいかない。

 周囲を確認する。

 右側は、崩れた金属板が積み重なっている。足場が悪い。

 左側にはドラム缶があり、その先に狭い隙間がある。

 背後の通路は細いが、途中に突き出した金属片がある。

 野犬は三匹。

 こちらの身体は小さい。

 正面から三匹を相手にするのは危険だ。

 ならば、どうする。

 俺は左側の隙間を見た。

 犬が通り抜けられる幅はある。

 だが、身体を小さくすれば、俺も通れるかもしれない。

 逃げ道としては悪くない。

 問題は、隙間までの距離だ。

 野犬との距離は、およそ数メートル。

 走り出した瞬間に飛びかかられたら、背中を取られる。

 ならば、先に動きを止める必要がある。

 俺は足元を確認した。

 手の届くところに、細長い金属片が落ちている。

 武器として使えるかもしれない。

 だが、錆びているうえに、刃のように鋭い部分がある。握り方を間違えれば、自分の手を傷つける可能性が高い。

 俺は一瞬だけ迷った。

 その間に、先頭の野犬が動いた。

 低い姿勢。

 後ろ脚に力が入る。

 来る。

 そう思った瞬間、犬が地面を蹴った。

 速い。

 想像していたよりも、ずっと。

 俺は反射的に身体を横へずらした。

 犬の牙が、さっきまで俺の胸があった場所を通り過ぎる。

 その風圧を感じた。

 次の瞬間、俺の身体が勝手に動いていた。

 右足を踏み込み、腰を回す。

 犬の側面へ回り込みながら、両手で頭の後ろから首筋にかけてを押さえつける。

 重い。

 小さな身体には、明らかに大きすぎる相手だった。

 だが、押さえ込めないほどではない。

 俺は犬の勢いを利用して、そのまま地面へと誘導した。

 金属片の散らばる地面に、犬の身体が叩きつけられる。

 鈍い音がした。

 犬が激しく暴れた。

 俺は慌てて手を離し、距離を取る。

 今のは、偶然だ。

 そう思う暇もなく、二匹目が動いた。

 俺は身体を低くする。

 犬の前脚が目の前を通過した。

 避けられた。

 なぜ、避けられたのか。

 考える時間はない。

 犬の身体が通り過ぎた直後、俺は一歩踏み込んだ。

 拳を握る。

 狙うのは、頭部ではない。

 顎の下から首元にかけて。

 正確な知識があったわけではない。ただ、正面から力任せに殴るより、相手の体勢を崩すほうがいいと直感した。

 拳が当たる。

 犬の動きが一瞬止まった。

 俺はその隙に、横へ飛び退いた。

 息が荒くなる。

 心臓がうるさい。

 怖い。

 それでも、身体は動いている。

 むしろ、頭の中は妙に冷静だった。

 犬の動きが、見える。

 いや、正確には、動き始める前の兆候が見えるような気がした。

 肩の位置。

 首の角度。

 前脚にかかる体重。

 後ろ脚の踏み込み。

 その小さな変化が、次の動きを予測するための手がかりとして、頭の中に自然と入ってくる。

 これが、戦闘の才能なのか。

 考えがまとまる前に、三匹目が飛びかかってきた。

 俺は横へ避ける。

 だが、完全には避けきれなかった。

 犬の爪が、左腕をかすめた。

「っ……!」

 鋭い痛み。

 熱い感覚。

 腕を見ると、皮膚が細く裂け、赤い血がにじんでいた。

 かすり傷。

 深くはない。

 だが、確かに傷を負った。

 俺は反射的に距離を取った。

 野犬たちは、すぐには追撃してこなかった。

 先頭の一匹は、地面から起き上がり、低く唸っている。二匹目は口を開け、荒い呼吸を繰り返していた。三匹目は、俺の左腕を見ているようだった。

 血の臭いが、刺激になったのかもしれない。

 まずい。

 このまま長引かせれば、状況が悪化する。

 俺は左腕を庇いながら、周囲を見た。

 逃げ道はある。

 ただし、背中を見せて走れば追われる可能性が高い。

 ならば、相手が引く状況を作る。

 俺は大きく息を吸い、腹の底から声を出した。

「来るな!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 同時に、地面を強く踏みつける。

 野犬の一匹が、わずかに身を引いた。

 俺はその反応を見逃さなかった。

 こちらを警戒している。

 少なくとも、無条件で襲い続けるつもりではない。

 ならば、こちらも退かない姿勢を見せる。

 俺は両腕を広げ、身体を大きく見せた。

 もちろん、五歳児の身体では限界がある。

 だが、野犬たちの動きに迷いが生じた。

 俺はその隙に、足元の金属片を拾い上げた。

 握り込まない。

 鋭い部分を避け、端を持つ。

 武器として振り回すためではなく、近づかせないための道具として使う。

 先頭の犬が一歩近づいた。

 俺は金属片を地面に叩きつけた。

 甲高い音が響いた。

 犬が飛び退く。

 その瞬間、俺は一歩前へ出た。

 大声を上げ、地面を踏み鳴らす。

 犬たちは、明らかに警戒していた。

 こちらが弱いと判断していたのかもしれない。

 だが、今の俺は、ただ怯えて逃げるだけの獲物ではない。

 先ほどの攻撃で、少なくとも一匹は痛みを感じているはずだ。こちらも傷を負ったが、戦闘を続けられないほどではない。

 それに、俺は三匹を同時に相手にする必要などない。

 逃げ道を確保し、追撃されない状況を作ればいい。

 俺は犬たちの視線を確認しながら、少しずつ位置を変えた。

 隙間へ向かう。

 ただし、背中は見せない。

 一歩。

 もう一歩。

 犬たちは唸り声を上げていたが、すぐには飛びかかってこなかった。

 俺は金属片を再び地面に叩きつけた。

 今度は、より強く。

 音が周囲に響き渡る。

 その瞬間、先頭の犬が後ずさった。

 残りの二匹も、それにつられるように距離を取った。

 俺はその変化を確認してから、ゆっくりと後退した。

 やがて、廃棄物の隙間にたどり着く。

 身体を横向きにし、慎重に入り込んだ。

 金属板が服に引っかかる。

 それでも、止まらない。

 少し進むと、隙間は狭くなり、犬たちが追ってくるのは難しそうだった。

 俺はそこで、ようやく足を止めた。

 犬の唸り声が、遠くなっていく。

 しばらくして、完全に聞こえなくなった。

 俺はその場にしゃがみ込んだ。

「……っ、はぁ……!」

 息が、うまく整わない。

 手が震えていた。

 心臓が、まだ激しく脈打っている。

 怖かった。

 本当に、怖かった。

 漫画の中なら、野犬との戦闘など、ほんの数コマで終わる出来事だろう。

 だが、実際に牙を向けられ、飛びかかられ、爪で皮膚を裂かれると、そんな余裕はどこにもない。

 俺は左腕を見た。

 血がにじんでいる。

 深い傷ではない。

 それでも、今の身体にとっては十分に痛い。

「……これが、現実か」

 呟いた声は、自分でもわかるほど震えていた。

 俺はしばらく、その場で呼吸を整えた。

 そして、ようやく一つの事実を理解した。

 自分は、野犬三匹を相手に生き延びた。

 素手で戦い、相手の動きを見て、隙を突き、最終的には追い払うことができた。

 それは、普通の五歳児にできることではないだろう。

 もちろん、相手が念能力者だったわけではない。野犬も、戦い方を理解しているわけではなかった。

 それでも、俺の身体と戦闘の才能が、特典として与えられたものであることは、ほぼ間違いない。

 だが、同時にわかったこともある。

 俺は、無傷ではいられなかった。

 ほんの少し判断を間違えていれば、もっと深い傷を負っていた可能性がある。

 そして、ここは流星街だ。

 野犬だけが危険な存在ではない。

 この世界には、念能力者がいる。

 人間離れした戦闘技術を持つ者がいる。

 原作知識があっても、知らない能力を持つ相手と出会う可能性はいくらでもある。

 だからこそ、強さに浮かれてはいけない。

 俺は深く息を吸った。

 まずは、傷の手当てだ。

 そして、能力の確認。

 俺は目を閉じ、意識を自分の内側へ向けた。

 あの謎の存在から与えられた、五つ目の特典。

 完全回復・除念能力。

 一日三回まで、自分にも他人にも使える力。

 その能力を、今こそ試すときだった。

 俺は左腕の傷を見つめた。

 皮膚が裂けた部分から、細い血の筋が流れている。

 痛みはある。

 だが、腕を動かせないほどではない。

 これくらいなら、普通に考えれば放っておいても治るだろう。

 しかし、今は能力を確認する絶好の機会だった。

 自分の身体に何が起こるのか。

 どのような感覚で発動するのか。

 何か条件があるのか。

 そういったことを知らないままでは、いざというときに困る。

 俺は頭の中で、あの謎の存在の言葉を思い返した。

 負傷、病気、呪いを完全に回復・除去する。

 精神状態も回復させる。

 一日三回まで。

 ……本当に、そんなことができるのだろうか。

 いや、そもそも俺は、すでに転生している。

 普通ならあり得ないことが起きている以上、今さら疑っても仕方がない。

 問題は、どうやって使うかだ。

 俺は傷口に目を向けたまま、頭の中で強く念じた。

 ――回復しろ。

 最初は、何も起こらなかった。

 俺は眉を寄せた。

「……あれ?」

 もう一度、意識を集中する。

 傷を治す。

 この傷を、完全に元どおりにする。

 そう考えた瞬間だった。

 胸の奥で、何かが小さく弾けたような感覚がした。

 熱いとも、冷たいとも違う。

 身体の中心から、穏やかな何かが広がっていく。

 それは腕へと流れ、傷口を包み込むように広がった。

 淡い光が見えたわけではない。

 派手な音がしたわけでもない。

 ただ、腕の表面をなぞるような、不思議な感覚があった。

 そして。

 痛みが消えた。

 俺は目を見開いた。

 左腕を見る。

 血が止まっていた。

 いや、それだけではない。

 裂けていた皮膚が、何事もなかったかのように元どおりになっている。

 傷跡すら残っていない。

 俺は指先で、さっきまで傷があった場所をそっと触った。

 痛くない。

 腫れてもいない。

 皮膚の表面に違和感もない。

「……マジか」

 思わず声が漏れた。

 俺は何度も腕を確認した。

 裏返してみる。

 指で押してみる。

 腕を曲げたり、伸ばしたりしてみる。

 異常はない。

 本当に、完全に治っていた。

「いやいやいや……」

 頭の中で、いくつもの考えが一気に走り始める。

 これが五つ目の特典。

 負傷の完全回復。

 説明どおりの能力だった。

 しかも、自分自身にも使える。

 これは、とんでもない。

 傷を治すだけでも十分に強力なのに、病気にも使える。呪いも除去できる。精神状態の回復までできるという。

 もちろん、実際に試したのは軽いかすり傷だけだ。

 大怪我や病気、呪いに対してどのように作用するのかは、まだわからない。

 それでも、少なくとも一つ、確実に確認できたことがある。

 この能力は、俺の想像の中だけに存在するものではない。

 現実に使える。

 俺はゆっくりと息を吐いた。

 興奮していた。

 正直に言えば、嬉しかった。

 この世界で生き延びるための、非常に強力な保険を手に入れたのだから。

 だが、すぐに別の考えが浮かんだ。

 ――一日三回。

 そうだ。

 この能力には、回数制限がある。

 俺は頭の中で、使用回数を確認しようとした。

 すると、不思議なことに、能力を使った回数が感覚としてわかった。

 残り、二回。

 今日、使えるのはあと二回だ。

 どうやら、発動した時点で一回分を消費するらしい。

 俺は眉を寄せた。

 これは覚えておく必要がある。

 回数制限がある以上、無駄遣いはできない。

 かすり傷程度なら、自然治癒に任せるという選択肢もあった。

 だが、今回は能力の確認という目的があった。

 結果として、一回分を使った価値はあったと思う。

 しかし、今後は違う。

 たとえば、仲間が瀕死の重傷を負ったとき。

 病気で苦しんでいる人間がいたとき。

 呪いのような、通常の方法では解決できない問題に直面したとき。

 そのときに、残りの回数が足りなければどうなる。

 俺は、自分の左腕をもう一度見た。

 傷はない。

 痛みもない。

 さっきまで野犬の爪が皮膚を裂いていたことが、嘘のようだった。

 だが、能力があるからといって、無謀なことをしていいわけではない。

 回復できるから怪我をしても構わない。

 そんな考え方を始めたら、いつか取り返しのつかない失敗をする。

 そもそも、回復能力が発動する前に命を落としたら意味がない。

 回復能力は、死んだ人間を生き返らせる能力だとは説明されていない。

 ならば、死なないための努力を怠る理由にはならない。

「……よし」

 俺は小さく頷いた。

 これで、五つの特典のうち、一つを実際に使うことができた。

 残りは四つ。

 念能力の才能。

 戦闘の才能。

 フィジカルギフテッド。

 アイテムボックス。

 念については、今すぐ確認できることが限られている。

 戦闘の才能と身体能力については、先ほどの野犬との戦闘で、ある程度の感触を得られた。

 そして、残るアイテムボックス。

 これは、食料を探すうえでも重要になるはずだ。

 俺は周囲を確認した。

 野犬の姿は見えない。

 唸り声も聞こえない。

 ただし、完全に安全だと判断するには早い。

 同じ場所に長居するのは避けたほうがいいだろう。

 俺は立ち上がり、服についた汚れを軽く払った。

 左腕は完全に治っている。

 身体にも、今のところ大きな異常はない。

 それなら、食料探しを続けられる。

 空腹は相変わらずだった。

 むしろ、先ほどの戦闘で体力を使ったせいか、余計に腹が減ったような気さえする。

「食い物……何でもいいから、まともなものが見つかってくれよ」

 俺はぼやきながら、再び歩き出した。

 今度は、先ほどよりも周囲を慎重に観察する。

 食料になりそうなもの。

 水を確保できそうな場所。

 そして、雨風をしのげる場所。

 この三つを探す。

 人間に出会えれば情報を得られるかもしれないが、無理に探し回る必要はない。

 今は、まず自分一人で生き延びるための基盤を作る。

 そう決めて、俺は廃棄物の山の間を進んでいった。

 しばらく歩いていると、俺はふと足を止めた。

 目の前に、奇妙なものが落ちていた。

 薄い灰色の板状の物体。

 いや、板というより、何かの包装材だろうか。

 表面には泥がこびりついており、角の部分は潰れている。だが、完全に破損しているわけではなさそうだった。

 俺は周囲を確認してから、慎重に近づいた。

 こういう場所では、見つけたものを何でも拾えばいいというわけではない。

 鋭い金属片が隠れているかもしれないし、薬品が付着している可能性もある。

 俺は少し離れたところから、包装材の周囲を観察した。

 変な臭いはしない。

 虫が集まっている様子もない。

 それから、足元に落ちていた細い棒を使って、包装材をひっくり返した。

 裏側には、何か文字のようなものが印刷されていた。

 ほとんど擦れていて読めない。

 ただ、端の部分に、小さな図柄が残っている。

「……食料品の包装か?」

 確証はない。

 だが、可能性はある。

 俺は棒で包装材を持ち上げ、裏側をもう少し詳しく確認した。

 すると、その下から、薄い金属製の容器が現れた。

 長方形の箱だった。

 大きさは、俺の両手に収まりそうなくらい。

 表面は汚れているが、変形は少ない。

 蓋の部分には、開封用と思われる細い帯がついていた。

「おお……!」

 思わず声が出た。

 食料かもしれない。

 いや、まだ決まったわけではない。

 期待するのは早い。

 俺は自分にそう言い聞かせながら、容器を拾い上げた。

 ずっしりとした重みがある。

 中に何かが入っている。

 俺は容器の表面を布で軽く拭き、蓋の状態を確認した。

 封は切れていないように見える。

 錆びている部分もあるが、容器そのものに大きな穴はなさそうだ。

 側面には、かすれた文字が残っていた。

 読める部分を探す。

 数字。

 記号。

 そして、保存に関する表示らしきもの。

 俺は眉を寄せた。

「……もしかして、レーションか?」

 軍用レーション。

 軍隊などで使用される、保存性を重視した携行食料。

 前世の知識では、そういった食料は長期保存できるものが多く、包装も頑丈なものがある。

 もちろん、ここにあるものが本当に軍用レーションなのかはわからない。

 そもそも、ハンター世界の食料事情について、俺が知っているのは漫画やアニメに登場した範囲だけだ。

 それでも、外見はそれに近かった。

 俺は容器を慎重に振ってみた。

 中で、何かが動く音がする。

 少なくとも、完全に空ではない。

 これが食料なら、かなりありがたい。

 俺は容器を両手で持ち、しばらく見つめた。

 食べられるものが見つかるかどうかもわからない状況だった。

 それが、たった数時間の探索で、食料らしきものを発見できた。

 運がよかったのかもしれない。

 あるいは、流星街では珍しくないことなのかもしれない。

 どちらにしても、今の俺には貴重な発見だった。

 ただし、すぐに食べるのはやめておく。

 容器が未開封に見えるとはいえ、保存状態は不明だ。

 中身が傷んでいる可能性もある。

 それに、今は食料を見つけただけで、寝床はまだ確保できていない。

 先に安全な場所を探すべきだろう。

 俺はレーションらしき容器を、そっと地面に置いた。

 そして、頭の中でアイテムボックスのことを考えた。

 特典の一つ。

 生物以外の物品を収納できる能力。

 使い方は、なぜか感覚的に理解できる気がした。

 俺は容器に手を伸ばし、頭の中で収納するイメージを思い浮かべた。

 すると。

 容器が消えた。

「……えっ?」

 俺は目を見開いた。

 地面には、何も残っていない。

 さっきまで確かにそこにあった金属製の容器が、跡形もなく消えていた。

 慌てて周囲を見回す。

 落としたわけではない。

 誰かが持ち去ったわけでもない。

 そもそも、周囲に人影はない。

 俺は恐る恐る、再び意識を集中した。

 すると、頭の中に不思議な感覚が広がった。

 そこに、空間がある。

 広さを正確に測ることはできないが、物を収納するための場所が確かに存在している。

 そして、その中に、先ほどの容器が収まっていた。

「……すげえ」

 思わず呟いた。

 ゲームのアイテムボックス。

 まさに、それだった。

 物を収納し、必要なときに取り出せる。

 少なくとも、今の俺にはそう認識できた。

 俺は試しに、足元の小さな金属片を拾った。

 今度は、収納するつもりで意識を集中する。

 金属片が消えた。

 アイテムボックスの中に、二つ目の物品が収まった感覚がある。

 成功だ。

 俺はさらに、金属片を取り出すことをイメージした。

 すると、手の中に金属片が現れた。

「……本当に、ゲームみたいだな」

 前世で何度も使った機能だ。

 荷物を整理し、必要な道具を持ち歩き、不要なものを収納する。

 ゲームの中なら当たり前のことだった。

 だが、現実の世界でこれが使えるとなれば、話はまったく違う。

 荷物を持ち歩く負担が減る。

 両手を自由に使える。

 拾った物資を保管できる。

 そして、食料を安全に持ち運べる可能性がある。

 もちろん、いくつか確認しておきたいこともあった。

 収納できる容量はどれくらいなのか。

 重量制限はあるのか。

 時間経過はどうなるのか。

 中に入れた物が腐るのか、それとも状態が維持されるのか。

 今の段階では、わからないことだらけだ。

 しかし、少なくとも物品を収納できることは確認できた。

 俺はレーションをアイテムボックスに収納したまま、探索を続けることにした。

 食料を手に入れた。

 傷を治す能力も確認した。

 アイテムボックスも使える。

 転生してから、少しずつだが、自分の状況がわかってきた。

 もちろん、これで安心できるわけではない。

 食料は一食分しかないかもしれない。

 水もない。

 寝床もない。

 明日になれば、また食料を探さなければならないだろう。

 それでも、最初の一歩としては悪くない。

 俺は再び歩き出した。

 今度は、食料よりも寝床を優先して探す。

 日がどれくらい傾いているのか、正確にはわからない。

 だが、周囲の光は少しずつ弱くなっていた。

 夜になる前に、雨風をしのげる場所を確保したい。

 できれば、野犬のような動物が入り込みにくい場所がいい。

 贅沢を言えば、横になれるだけの広さがあり、上から物が落ちてくる心配もない場所。

 ……まあ、今の状況で贅沢を言いすぎなのはわかっている。

 とにかく、身体を休められる場所が必要だった。

 俺は周囲を見回しながら、ゴミ山の間を進んだ。

 しばらくすると、積み重なった廃棄物の形が、少し変わっていることに気づいた。

 大きなコンクリート片が斜めに傾き、その下に金属板が重なっている。

 さらに、その横には古い木材が積み上がっていた。

 まるで、崩れた建物の一部が、そのままゴミ山に埋もれているようだった。

 俺は足を止めた。

 こういう場所なら、隙間があるかもしれない。

 もちろん、崩落の危険はある。

 不用意に中へ入り込むのは避けたほうがいい。

 俺はまず、外側から状態を確認した。

 コンクリート片の下には、暗い空間が見える。

 その奥に、何かの板があるようだった。

 風が吹いても、直接吹き込んでくることはなさそうだ。

 雨が降った場合も、ある程度は防げるかもしれない。

 俺は近くに落ちていた木片を拾い、隙間の手前から軽く押し込んでみた。

 何かが崩れる音はしなかった。

 次に、少し離れた場所から、コンクリート片の様子を確認する。

 大きく動く気配はない。

 ただし、絶対に安全だとは言い切れない。

 俺は慎重に、入口らしき隙間へ身体を近づけた。

 頭を低くし、片手を地面につけながら、少しずつ中へ入る。

 内部は狭かった。

 大人なら、身体を丸めなければ入れないだろう。

 だが、今の俺は五歳ほどの子供だ。

 それでも、完全に自由に動けるほどの広さはない。

 奥へ進むと、少しだけ空間が広がった。

 人ひとりが横になれる程度の窪み。

 上にはコンクリート片と金属板が重なり、左右には廃棄物が積み上がっている。

 入口は狭い。

 風はほとんど入ってこない。

 床には古い布切れが敷かれていた。

 汚れてはいるが、直接地面に寝るよりはましだろう。

 俺はしばらく、その場所を観察した。

 天井に大きな亀裂はない。

 上から水が垂れている様子もない。

 入口付近には、外からの光が細く差し込んでいる。

 閉じ込められるほど狭いわけではない。

 万が一、何かが近づいてきたとしても、音や気配に気づく時間はありそうだった。

「……ここなら、何とかなるか」

 俺は小さく呟いた。

 完璧な寝床ではない。

 衛生状態も悪い。

 安全性についても、十分とは言えない。

 だが、今の俺には、これ以上の場所を探す余裕がなかった。

 何より、身体が疲れていた。

 先ほどの野犬との戦闘で、思った以上に体力を消耗している。

 身体能力が高いからといって、疲労しないわけではないらしい。

 俺は入口まで戻り、周囲をもう一度確認した。

 野犬の姿は見えない。

 人間の気配もない。

 風が吹き、遠くで金属が軋む音が聞こえるだけだった。

 俺は窪みの近くに落ちていた、比較的平らな金属板を引き寄せた。

 入口を完全に塞ぐことはできないが、少し角度を変えて置けば、外から内部が見えにくくなる。

 同時に、風が直接吹き込むのも防げるだろう。

 ただし、出入りできなくなるほど塞ぐのは危険だ。

 俺は隙間を残しながら、金属板を配置した。

 これで、最低限の寝床は確保できた。

 俺は窪みの奥に戻り、ゆっくりと腰を下ろした。

「……疲れた」

 口にした途端、身体の疲労を強く意識した。

 肩が重い。

 足がだるい。

 腕や脚には、細かな擦り傷がいくつもできていた。

 回復能力で治したのは、左腕のかすり傷だけだ。

 それ以外の疲労まで完全に消えるわけではない。

 俺は壁に背中を預け、目を閉じた。

 少し休みたい。

 だが、その前に、食事を済ませておこう。

 俺はアイテムボックスに意識を向けた。

 先ほど見つけたレーションが、そこにある。

 収納したときと同じ状態なのか、時間が経過しているのかはわからない。

 とりあえず、取り出してみる。

 手を伸ばすような感覚で、容器を取り出すことをイメージした。

 次の瞬間、俺の膝の上に、あの金属製の容器が現れた。

「……便利すぎるだろ、これ」

 思わず苦笑した。

 食料を持ち運ぶために袋を探す必要もない。

 両手が塞がることもない。

 それだけでも、今の俺には大きな利点だった。

 俺は容器を手に取り、蓋の部分を確認した。

 封は、まだ切れていないように見える。

 外側の汚れを布で拭き取る。

 そのあと、開封用の帯を探した。

 指先に力を入れ、ゆっくりと引っ張る。

 硬い感触があった。

 だが、少し力を加えると、帯が剥がれ始めた。

 容器の蓋が開く。

 中には、いくつかの包装された食品らしきものが入っていた。

 薄い袋に包まれた固形物。

 小さなパウチ。

 乾燥した何かが入っていると思われる袋。

 そして、紙のようなもの。

 俺は一つずつ取り出し、状態を確認した。

 包装に破れはない。

 異臭も、今のところ感じられない。

 ただし、見た目だけで安全性を完全に判断することはできない。

 それでも、空腹を考えれば、食べないという選択肢はなかった。

 俺は最初に、固形物が入った袋を開けた。

 中から出てきたのは、茶色いブロック状の食品だった。

 乾燥していて、かなり硬そうだ。

 匂いを嗅いでみる。

 香ばしいような、少し油っぽいような匂いがした。

 少なくとも、腐敗臭ではない。

「……いただきます」

 誰に向けた言葉でもなかったが、自然と口から出た。

 俺は小さくかじった。

 硬い。

 そして、味が薄い。

 甘さも、塩気も、ほとんど感じない。

 だが、食べられないほど不味いわけではなかった。

 何より、食べ物だ。

 腹に何かが入るというだけで、気持ちが少し落ち着く。

 俺はゆっくりと噛み、飲み込んだ。

 水が欲しくなった。

 だが、今は水がない。

 俺は無理に食べ進めず、少しずつ口に運ぶことにした。

 次に、パウチを確認する。

 中には、ペースト状の食品が入っていた。

 包装の表示は読めない部分が多かったが、開封してみると、刺激の強い臭いはしなかった。

 俺は慎重に、少量だけ口にした。

 塩気がある。

 肉のような風味も感じる。

 味は決して良くない。

 しかし、空腹の身体には十分だった。

 俺は一口ずつ、ゆっくりと食べた。

 食べながら、今日の出来事を振り返る。

 死んだ。

 転生した。

 五歳ほどの子供になった。

 流星街に放り込まれた。

 そして、野犬と戦った。

「……濃すぎるだろ、初日から」

 思わず独り言が出た。

 前世で暮らしていた日常が、遠い昔のことのように感じられる。

 仕事を終え、家に帰り、ゲームを起動する。

 漫画を読み、好きな作品について考える。

 そんな何でもない時間が、どれほど恵まれていたのか。

 今になって、嫌というほど理解できた。

 もちろん、前世の生活に不満がなかったわけではない。

 もっと上手く生きられたはずだと思うこともあった。

 だが、少なくとも、今日食べるものがあるかどうかを心配する必要はなかった。

 眠る場所があるかどうかを考える必要もなかった。

 それが、今は違う。

 食料は一食分。

 寝床はゴミ山の隙間。

 明日になれば、また食料を探さなければならない。

 水も確保する必要がある。

 衛生状態も改善しなければならない。

 そして、流星街で生きるためには、いずれ人間との関係も避けて通れないだろう。

 今は誰にも出会っていないが、この街には人がいる。

 人がいる以上、助け合いもあれば、争いもあるはずだ。

 俺は食べる手を止め、薄暗い窪みの中を見回した。

 狭い。

 汚い。

 決して快適とは言えない。

 それでも、今夜の俺には、ここが必要だった。

 俺は再び食事を始めた。

 レーションは、思っていたよりも量があった。

 固形食品を少しずつかじり、パウチの中身を食べる。

 乾燥した食品らしきものも口にした。

 味は単調だったが、食べ進めるうちに、空腹による焦りが少しずつ薄れていった。

 食べ終えたころには、腹の底にわずかな満足感が生まれていた。

 俺は容器の中を確認した。

 まだ、包装材が残っている。

 食べ物が入っていた袋をまとめ、容器の中に戻した。

 そのままアイテムボックスへ収納する。

 ゴミを外に放置しておくと、臭いにつられて動物が近づくかもしれない。

 そう考えてのことだった。

 もっとも、収納したからといって、臭いが完全に消えるのかどうかはわからない。

 念のため、容器の蓋も閉めておく。

 それから、俺は膝を抱えるようにして座り直した。

 食事を終えたことで、少しだけ余裕ができた。

 今のうちに、今日確認できたことを整理しておこう。

 まず、身体能力。

 これは間違いなく、普通の五歳児のものではない。

 野犬の動きに反応できたこと。

 飛びかかってきた相手の勢いを利用できたこと。

 自分よりも大きな相手に対して、ある程度の力を発揮できたこと。

 これらは、フィジカルギフテッドの影響だろう。

 ただし、無敵ではない。

 実際に、爪で傷を負った。

 もっと危険な相手なら、簡単に命を落とす可能性もある。

 だから、身体能力を過信してはいけない。

 次に、戦闘の才能。

 これも、ある程度は実感できた。

 野犬の動きを見たとき、相手が次に何をしようとしているのか、自然と予測できた。

 肩の動き。

 脚の踏み込み。

 首の角度。

 そういった細かな変化が、頭の中でつながっていく。

 もちろん、戦闘経験が豊富なわけではない。

 あくまで、初めての実戦で感じた範囲の話だ。

 だが、戦いの最中に頭が真っ白にならず、状況を観察できたことは大きい。

 今後、経験を積めば、もっと精度が上がるかもしれない。

 そして、回復能力。

 これは、予想以上だった。

 かすり傷とはいえ、皮膚が完全に元どおりになった。

 痛みも、出血も、傷跡も残っていない。

 ただし、使用回数は一日三回。

 今日はすでに一回使ったため、残りは二回だ。

 この制限は、絶対に忘れてはいけない。

 能力が強力だからこそ、使用する場面を慎重に選ぶ必要がある。

 自分の傷を治すために使うのか。

 他人の命を救うために使うのか。

 それとも、病気や呪いのように、ほかの方法では解決できない問題に備えるのか。

 その判断を、これから何度も迫られることになるだろう。

 俺はゆっくりと息を吐いた。

「……簡単じゃないな」

 当たり前だ。

 五つの特典をもらったからといって、人生そのものが簡単になるわけではない。

 むしろ、強力な力を持っているからこそ、使い方を考えなければならない。

 力があるから助けられる人もいる。

 だが、力を使った結果、誰かを傷つける可能性もある。

 回復能力だって、使える回数には限りがある。

 もし、助けを求める人間が何人もいたら。

 もし、目の前で誰かが倒れていたら。

 俺は誰を助けるのか。

 全員を助けられなかったとき、自分を責めずにいられるのか。

 今は、まだ答えが出ない。

 だが、いつか必ず、答えを出さなければならないときが来る。

 俺は両手を見下ろした。

 小さな手だった。

 前世の俺の手とは、まるで違う。

 だが、この手で何をするかは、自分で決められる。

 誰かを傷つけることもできる。

 誰かを助けることもできる。

 そして、何もしないという選択もある。

 俺は、自分がどんな人間でありたいのかを考えた。

 前世では、義理を大切にしてきた。

 困っている人を見捨てたくないと思っていた。

 自分で決めたことを、最後までやり通そうとしてきた。

 その生き方を、今さら捨てるつもりはない。

 ただし、この世界では、前世と同じやり方が通用するとは限らない。

 善意だけでは生き残れない。

 正しいことをしたからといって、必ず報われるわけでもない。

 それでも。

「……できる範囲で、やっていくしかないか」

 誰かを助けられるだけの力を身につける。

 無謀なことはしない。

 必要なときには逃げる。

 それでも、どうしても見捨てられない相手がいるなら、そのときは自分の責任で行動する。

 それが、今の俺にできる決意だった。

 俺は壁に背中を預け、窪みの入口へ目を向けた。

 外は、さらに暗くなっていた。

 薄い光が、金属板の隙間から差し込んでいる。

 遠くで、何かが鳴いた。

 犬だろうか。

 それとも、別の動物だろうか。

 俺は反射的に身体を固くしたが、しばらく待っても、近づいてくる気配はなかった。

 それでも、油断はしない。

 今夜はここで眠る。

 だが、明日もここが安全とは限らない。

 俺は入口の金属板を確認し、身体を丸めるようにして横になった。

 地面は硬い。

 布切れは薄い。

 背中も少し痛い。

 快適とは程遠い寝床だった。

 それでも、風が直接当たらないだけで、かなり違う。

 俺は服の襟元を引き寄せ、身体を小さく丸めた。

 眠る前に、もう一度だけ、今日の出来事を思い返す。

 転生したこと。

 野犬と戦ったこと。

 回復能力を使ったこと。

 食料を見つけたこと。

 そして、今夜の寝床を確保できたこと。

 どれも、前世では考えられなかった出来事だ。

 それでも、俺は生きている。

 この世界で、まだ何も成し遂げていない。

 知っている未来がある。

 強力な特典がある。

 だが、それだけでは足りない。

 ここから先は、自分の足で歩かなければならない。

 俺は目を閉じた。

 明日は、水を探そう。

 食料も、もう少し確保したい。

 寝床の安全性も確認しなければならない。

 それから、アイテムボックスの容量や、収納した物の状態についても調べてみよう。

 念については、今すぐ何かできるわけではない。

 だが、いつか必ず、修行を始める。

 この世界で生き残るために。

 自分の大切なものを守るために。

 そして、与えられた二度目の人生を、無駄にしないために。

「……おやすみ」

 誰もいない窪みの中で、俺は小さく呟いた。

 返事はなかった。

 ただ、遠くで風が吹いていた。

 流星街の夜は、静かだった。

 世界から見捨てられた場所。

 明日も生きられる保証など、どこにもない場所。

 そんな場所で、俺の二度目の人生は始まったばかりだった。

 そして、その夜。

 俺は初めて、この世界で眠りについた。

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