流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
午後三時三十八分。
第三次試験会場、地下医療区画。
白い扉を開けた瞬間、鼻を突いたのは消毒液の匂いだった。
清潔な白い壁。規則正しく並べられた医療器具。絶え間なく小さな音を立てる監視装置。
その中央に置かれたベッドの上に、リリアがいた。
「…………」
俺は、入口で足を止めた。
白いシーツに横たわる少女は、ひどく小さく見えた。
顔色は青白く、唇には血の気がない。頬には擦過傷が走り、首筋には紫色の痣が残っている。
右腕は包帯で覆われ、左腕にはさらに分厚い包帯が巻かれていた。
だが、何より目を引いたのは、その長さだった。
左肘から先。
本来なら、そこにあるはずの前腕と手が失われていた。
俺は、無意識に拳を握った。
……リリア。
昨日まで、地図を広げて楽しそうに話していた少女だった。
第二次試験では、泥だらけになりながらも自力で合格を勝ち取り、誇らしげに笑っていた。
その彼女が、今は意識もなく横たわっている。
「君が、アオ君だね」
ベッドの反対側に立っていた医師が声をかけてきた。
五十歳前後の男性だった。白髪交じりの髪を短く整え、丸い眼鏡を掛けている。
「私は、この医療区画の責任者を務めるエドガーだ」
「……リリアの状態を教えてください」
挨拶もそこそこに尋ねると、エドガーは表情を引き締めた。
「命に別状はない。輸血と止血処置は終わっている。ただし、全身に多数の裂傷と打撲があり、左前腕は切断されている」
「再接着は?」
「切断された部分は回収したが、損傷が激しい。現状では極めて困難だ」
俺は、ベッドの脇へ近づいた。
リリアの右手が、シーツの上に置かれている。
指先には細かな傷があり、爪の周囲には乾いた血が残っていた。
それを見た瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
「……ほかに、異常は?」
エドガーは、わずかに言葉を選んだ。
「身体の損傷だけではない。搬送された直後、彼女は強い精神的混乱を起こしていた」
「……精神的混乱?」
「意識がある間、何度も『もうやめて』『ごめんなさい』と繰り返していた。医療スタッフが近づくだけでも、激しく怯えていたよ」
俺は、リリアの顔を見た。
……あの剣士。
ただ勝つだけでは飽き足らなかったのか。
戦いの内容は、まだ詳しく聞いていない。
だが、彼女の傷と医師の説明だけで、ある程度は想像できた。
俺は、ゆっくりと息を吸った。
怒りはある。
それも、今すぐ相手を探し出したくなるほど強い怒りだ。
だが、今は優先すべきことがある。
リリアを治す。
それが先だ。
◇
「エドガー先生」
俺は、医師へ向き直った。
「彼女を治療させてください」
エドガーは、眉を寄せた。
「君が?」
「はい」
「医療技術を学んでいるのかね?」
「いえ。使うのは念能力です」
その言葉に、医師の表情が変わった。
「……念能力?」
俺は頷いた。
「俺は念能力者です。回復を目的とした発を持っています」
もちろん、正確には違う。
俺の回復能力は、転生時に与えられた五つの恩恵の一つだ。
念能力として修得したものではない。
しかし、その事実を他人に説明するつもりはなかった。
そもそも、異世界から転生してきたなどと言っても、信じてもらえるとは思えない。
それならば、念能力の発として説明した方が自然だ。
「どの程度の回復が可能なのかね?」
「外傷、病気、欠損した身体部位の再生まで対応できます」
「……欠損した身体部位の再生?」
エドガーの声が、明らかに変わった。
「本当に?」
「はい」
「君は、自分が何を言っているのかわかっているのか?」
俺は、静かに頷いた。
エドガーは、リリアの左腕へ視線を向けた。
「失われた四肢を完全に再生させるなど、医療系の念能力者でも極めて困難な領域だ。それを君のような子供が……」
そこで、扉が開いた。
「その子供は、俺を素手の格闘で倒したぞ」
低い声。
振り返ると、ヴァルグが立っていた。
第三次試験の試験官。
右腕には、俺との戦闘で負った傷を保護する包帯が巻かれている。
エドガーは、驚いたように顔を上げた。
「ヴァルグ試験官」
「話は聞いた。アオが回復系の発を使えるそうだな」
「はい。ただ、四肢の再生まで可能だと……」
ヴァルグは、俺へ視線を向けた。
「アオ。確認するが、本当にできるのか?」
「できます」
迷わず答えた。
ヴァルグは、数秒間俺を見つめた。
そして、腕を組んだ。
「……そうか」
「信じるのですか?」
エドガーが尋ねる。
ヴァルグは、短く頷いた。
「少なくとも、頭から否定する気にはなれん」
男は、俺を見た。
「こいつの纏、練、堅、流は、年齢からは想像できんほど完成されている。特にオーラ配分の精度は、熟練者と比較しても遜色がない」
俺は、黙って聞いていた。
「念の基礎をそこまで修得しているなら、強力な発を持っていても不思議ではない。もっとも、四肢の再生となれば、話は別だがな」
ヴァルグは、少しだけ口元を緩めた。
「……実際に見れば、わかるだろう」
エドガーは、しばらく考え込んだ。
やがて、頷く。
「患者の状態を監視しながらであれば、試みる価値はあります。ただし、異常が起きた場合は直ちに中止してください」
「わかりました」
俺は、ベッドへ向き直った。
リリアの右手を、そっと握る。
冷たい。
けれど、確かな体温があった。
……待ってろ。
今、治してやる。
◇
俺は、目を閉じた。
回復能力。
一日に三回まで使用できる、転生時に与えられた恩恵。
傷や病を完全に癒やし、呪いを取り除き、精神状態まで回復させることができる。
ただし、使用時の認識が重要になる。
流星街で初めて能力を試したとき、俺は左腕の傷だけを意識してしまった。
その結果、ほかの傷は残ったままだった。
あの経験は、忘れていない。
今回は、リリアの身体全体を対象にする。
切断された左腕だけではない。
全身の裂傷。
打撲。
失われた血液。
損傷した筋肉と神経。
そして、恐怖によって傷ついた心。
すべてを、健全な状態へ戻す。
俺は、彼女の手を握ったまま、能力を発動させた。
――回復。
瞬間。
身体の奥から、温かな感覚が広がった。
淡い光が、リリアの身体を包み込む。
「……っ!」
エドガーが息を呑んだ。
監視装置の数値が、変化し始める。
まず、頬の傷が消えた。
首筋の痣が薄れ、やがて完全になくなる。
右腕の包帯の下では、傷ついた組織が急速に修復されていった。
そして。
左腕。
切断された部分を覆う包帯が、内側から押し上げられた。
「……まさか」
エドガーが、震える声を漏らした。
俺は、集中を続ける。
失われた骨。
筋肉。
血管。
神経。
皮膚。
それらが、順番に形を取り戻していく。
包帯が緩み、白い布の隙間から新しい皮膚が現れた。
やがて、手首が形成される。
手のひら。
そして、五本の指。
リリアの左腕は、完全に元の姿へ戻っていた。
俺は、さらに意識を向けた。
肉体の回復は終わった。
だが、まだ一つ残っている。
精神状態だ。
極度の恐怖。
苦痛による混乱。
心身を失いかけるほどの衝撃。
それらを、丁寧に取り除いていく。
ただし、記憶そのものを消すわけではない。
リリアが経験した事実は残る。
だが、その記憶に触れるたび、恐怖に支配されてしまう状態は回復させる。
やがて、光が静かに消えた。
俺は、ゆっくりと目を開ける。
リリアの顔色は、すっかり戻っていた。
呼吸は穏やかで、表情にも苦痛はない。
左腕は、完全に再生している。
俺は、安堵の息を吐いた。
……よし。
今日の回復能力の使用回数は、一回。
残り二回。
俺は、彼女の手を離した。
「……終わりました」
だが、返事はなかった。
医療関係者たちは、目の前で起きた現象を呆然と見つめていた。
◇
「……信じられん」
最初に口を開いたのは、エドガーだった。
彼は、リリアの左腕を慎重に確認した。
指先。
手首。
肘。
皮膚の状態。
血流。
神経反応。
そして、医療機器の数値。
すべてを調べた後、深く息を吐いた。
「……完全に正常だ」
看護師の一人が、思わず声を上げた。
「先生、本当に再生したんですか?」
「ああ。少なくとも、外見上の異常はない。血流も正常で、神経反応にも問題がない」
エドガーは、俺を見た。
「……君の発は、これほどの回復を可能にするのか」
「はい」
「失われた腕だけでなく、全身の損傷まで同時に……」
医師は、言葉を失った。
ヴァルグも、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……驚いたな」
俺は、男へ視線を向けた。
「……そうですか?」
「ああ。正直、ここまでとは思っていなかった」
ヴァルグは、再生した左腕を見た。
「俺は、念能力者を数多く見てきた。だが、これほど完成度の高い回復能力は、そうそうお目にかかれん」
男は、俺へ視線を戻した。
「それでも、お前の念の習熟度を考えれば、まったく理解できない話ではない」
エドガーも、ゆっくりと頷いた。
「念能力は、本人の資質や修練によって大きく変わる。彼ほど基礎技術を修得しているなら、強力な発を持っていても不自然ではない……」
医師は、改めて俺を見た。
「それにしても、十歳でこの水準とは」
俺は、軽く肩をすくめた。
……ひとまず、説明は通ったか。
もちろん、完全に納得したわけではないだろう。
だが、今はそれで十分だった。
リリアが助かった。
その事実が、何より大切だ。
そのとき。
「……ん……」
小さな声が聞こえた。
俺は、すぐに顔を向けた。
リリアの指が、わずかに動いている。
そして。
ゆっくりと、瞼が開いた。
◇
「……あれ……?」
リリアは、天井を見つめていた。
しばらく、何が起きたのかわからない様子だった。
俺は、ベッドへ近づいた。
「リリア」
少女の視線が、こちらへ向く。
「……アオ?」
「ああ」
俺は、頷いた。
「ここにいるよ」
リリアは、俺を見つめた。
その瞳が、ゆっくりと大きくなる。
「……アオ……」
声が震えた。
そして。
「……怖かった……!」
少女の目から、涙が溢れた。
俺は、何も言わずに頷いた。
「……あの人、全然やめてくれなくて……」
リリアは、両手を握りしめた。
「……何度も、もう無理って言ったのに……」
俺は、静かに聞いていた。
「……逃げても、追いかけてきて……」
少女の声が、途切れる。
「……腕が……」
そこで、リリアは自分の左腕へ視線を向けた。
そして。
動きを止めた。
「……え?」
少女は、ゆっくりと左手を持ち上げた。
五本の指。
手のひら。
手首。
肘。
すべて、元通りだった。
「……あれ?」
リリアは、何度も指を動かした。
握る。
開く。
手首を回す。
そして、右手で左腕に触れる。
「……どうして……?」
少女は、俺を見た。
「……アオ?」
俺は、頷いた。
「……治したんだ」
「……え?」
「俺が、リリアの怪我を治した」
リリアは、目を丸くした。
「……アオが?」
「ああ」
俺は、少しだけ笑った。
「……ちゃんと、元通りになってる」
少女は、左腕を見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……でも、どうやって?」
俺は、少し考えた。
……説明する必要があるな。
リリアは、念についてほとんど知らない。
今まで、俺も詳しく話してこなかった。
だが、彼女自身が能力によって治療された以上、何も説明しないわけにはいかない。
「……リリア」
「……うん」
「俺には、普通の人間には使えない力がある」
少女は、俺を見つめた。
「……力?」
「ああ。念能力っていうんだ」
「……念能力?」
俺は、頷いた。
「人間が持っている生命エネルギーを操る技術だよ。修行すれば、身体を強化したり、特殊な能力を使ったりできる」
リリアは、驚いたように目を見開いた。
「……そんなことができるの?」
「できる」
俺は、彼女の左腕を見た。
「俺は、その念能力の一つとして、回復能力を使えるんだ」
もちろん、これは偽装した説明だ。
だが、リリアにとっては、十分理解できる内容だろう。
「……回復能力?」
「ああ。怪我や病気を治せる。今回みたいに、失われた身体の一部を元に戻すこともできる」
リリアは、しばらく黙っていた。
そして、左腕を見つめた。
「……じゃあ……」
少女の声が、震えた。
「……私の腕、アオが戻してくれたの?」
「そうだよ」
俺は、頷いた。
「ほかの傷も、全部治した。身体の痛みも、もうないはずだ」
リリアは、右手で左腕を抱きしめた。
そして。
「……ほんとに……?」
「ああ」
俺は、静かに答えた。
「……もう、大丈夫だ」
少女は、何度も左腕を動かした。
指を曲げる。
手を握る。
そして、ゆっくりと開く。
そのたびに、目から涙が零れた。
「……ありがとう……」
俺は、頷いた。
だが。
次の瞬間。
「……アオっ!!」
リリアが、ベッドから飛び起きた。
そして。
俺へ飛びついてきた。
「……うわっ!?」
俺は、反射的に彼女を受け止めた。
小さな身体が、胸へぶつかる。
リリアは、俺の服を強く握りしめた。
「……ありがとう……!」
涙が、止まらなかった。
「……ありがとう、アオ……!」
俺は、少しだけ目を閉じた。
そして、彼女の背中へ手を回した。
「……うん」
リリアは、しばらく泣き続けた。
俺は、何も言わずに抱きしめていた。
その身体が、もう痛みに震えていないことを確かめながら。
◇
十分ほどが経過した頃。
リリアは、ようやく落ち着いた。
今はベッドへ腰掛け、温かい飲み物を飲んでいる。
医師による再検査でも、異常は見つからなかった。
身体の状態は、完全に正常。
精神的な混乱も、大きく改善している。
ただし、戦闘の記憶そのものが消えたわけではない。
リリアは、あの剣士にされたことを覚えていた。
それでも、今は恐怖に支配されていない。
俺は、その様子を見て安堵した。
……よかった。
能力は、きちんと作用している。
そのとき。
ヴァルグが、治療室へ戻ってきた。
「アオ。少し、話がある」
俺は、顔を上げた。
「……はい」
リリアへ視線を向ける。
「少し、外へ出てくる」
「……うん」
少女は、俺を見た。
「……戻ってきてね」
「もちろん」
俺は、頷いた。
そして、ヴァルグとともに治療室を出た。
◇
医療区画の廊下。
ヴァルグは、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で口を開いた。
「……あの剣士について、説明しておく必要がある」
俺は、目を細めた。
「……黒髪の剣士ですか?」
「ああ」
ヴァルグは、頷いた。
「奴の名は、クロウ・ベルガー」
俺は、その名前を覚えた。
「……どんな男なんですか?」
ヴァルグの表情が、険しくなった。
「……指名手配犯だ」
俺は、眉を寄せた。
「……指名手配?」
「ああ。複数の都市で殺人事件を起こしている。被害者の多くは、抵抗できない状態で殺されていた」
俺は、黙って聞いていた。
「しかも、奴は被害者を苦しめること自体を楽しんでいたらしい」
……快楽殺人者。
俺は、奥歯を噛みしめた。
「……どうして、そんな男がハンター試験に?」
ヴァルグは、苦い表情を浮かべた。
「ハンター試験は、原則として誰でも受験できる」
俺は、静かに頷いた。
……そうだったな。
ハンター協会は、受験者の過去を理由に参加を拒否することが少ない。
犯罪者であっても、試験を受けること自体は可能だ。
原作でも、そういう人間は存在していた。
だが。
それでも。
俺は、拳を握った。
「……試合中、何があったんですか?」
ヴァルグは、ゆっくりと息を吐いた。
「最初は、普通の試合だった」
男は、壁へ視線を向けた。
「リリアは、相手の剣を避けながら距離を取っていた。何度か反撃も試みたらしい」
俺は、黙っていた。
「だが、実力差が大きすぎた」
ヴァルグは、続けた。
「クロウは、すぐに勝負を決めることもできたはずだ。だが、そうしなかった」
俺は、目を細めた。
「……どういう意味ですか?」
「……わざと、攻撃を外した。逃げ道を塞ぎ、少しずつ傷を負わせた」
俺は、拳を握り直した。
……あの野郎。
ヴァルグは、低い声で続けた。
「リリアが降参を宣言しようとしたとき、奴は攻撃を重ねた。言葉を最後まで言わせず、戦闘を続けた」
俺は、息を止めた。
……そういうことか。
リリアは、降参しようとしていた。
だが、相手がそれを許さなかった。
「そして、左腕を切断した」
ヴァルグの声が、低くなった。
「その時点で、審判が試合を止めた」
俺は、目を閉じた。
……遅すぎる。
そう言いたかった。
だが、ヴァルグもそれを理解しているのだろう。
男は、苦々しい表情を浮かべていた。
「審判の判断が遅れた。協会側の責任だ」
俺は、ゆっくりと目を開けた。
「……クロウは、どうなったんですか?」
ヴァルグは、しばらく黙っていた。
そして。
「……第三次試験に合格した」
俺は、男を見た。
「……何ですって?」
「クロウ・ベルガーは、第三次試験の合格者だ」
俺は、拳を握った。
「……あれだけのことをして?」
ヴァルグは、頷いた。
「試験規則では、相手を殺害した場合は即失格。だが、今回の試合では、リリアは生存している」
俺は、静かに息を吐いた。
……そういうことか。
殺害はしていない。
だから、規則上は失格にならない。
だが。
……納得できるか。
俺は、男を見据えた。
「……降参しようとしていたんですよね?」
「ああ」
「それでも、試合を続けた」
「そうだ」
「……それは、問題にならないんですか?」
ヴァルグは、苦い表情を浮かべた。
「問題にはなった。だが、審判が正式に降参を確認する前だった。規則上、勝敗を覆すことは難しい」
俺は、黙った。
……ふざけている。
そう思った。
だが、ここで怒鳴っても、結果が変わるわけではない。
俺は、ゆっくりと息を吸った。
「……最終試験にも、進むんですか?」
ヴァルグは、頷いた。
「ああ。クロウは、最終試験の受験資格を得ている」
俺は、目を閉じた。
……そうか。
あの男と、また会うことになる。
俺は、拳を握り直した。
……なら。
そのときは。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
「……わかりました」
ヴァルグは、俺を見た。
「……何を考えている?」
俺は、首を横に振った。
「……今は、リリアのことだけです」
それは、本心だった。
クロウへの怒りは、消えていない。
だが、今すぐ行動するつもりはない。
リリアが無事に回復した。
それが、何より重要だった。
◇
その頃。
第三次試験の待機室では、重苦しい空気が漂っていた。
試合を終えた受験者たちが、結果の発表を待っている。
受験番号三番の大柄な斧使いは、椅子へ深く腰掛けていた。
普段なら大声で騒いでいそうな男だが、今は黙っている。
その隣には、眼鏡の青年。
腕に包帯を巻いた女性。
そして、小柄な老人。
彼らの視線は、部屋の隅へ向いていた。
そこには、黒髪の剣士がいた。
クロウ・ベルガー。
男は、椅子へ腰掛けたまま、薄い笑みを浮かべている。
「……何だよ、その顔」
斧使いの男が、低く呟いた。
クロウは、ゆっくりと顔を上げた。
「……何か?」
「何か、じゃねえだろ」
斧使いは、拳を握った。
「お前、あんな小さな女の子相手に、何やってんだよ」
クロウは、笑った。
「……試合をしただけですよ」
その言葉に、周囲の空気が変わった。
「試合?」
眼鏡の青年が、声を荒らげた。
「相手が降参しようとしていたのに、攻撃を続けていたじゃないか!」
クロウは、肩をすくめた。
「……聞こえませんでしたね」
「ふざけるな!」
斧使いが、立ち上がった。
だが、協会職員がすぐに間へ入った。
「落ち着いてください」
「落ち着けるかよ!」
男は、クロウを睨みつけた。
「俺だって、戦いは好きだ。強い奴と殴り合うのは楽しい。だがな……」
そこで、言葉を切る。
「……あんなのは、戦いじゃねえ」
小柄な老人も、静かに頷いた。
「相手を痛めつけることが目的になっておった。武人の振る舞いではない」
クロウは、退屈そうに欠伸をした。
「……皆さん、随分とお優しいんですね」
その声には、嘲りが含まれていた。
周囲の受験者たちは、誰も笑わなかった。
合格者も。
不合格者も。
クロウへ向ける視線には、強い嫌悪が浮かんでいた。
そのとき。
待機室の扉が開いた。
協会職員が、数人入ってくる。
「クロウ・ベルガー」
先頭の男が、名前を呼んだ。
「あなたには、複数の殺人事件に関する指名手配が出ています」
クロウは、目を細めた。
「……へえ」
「協会として、あなたの身元と犯罪歴を確認しました」
男は、淡々と告げた。
「ただし、ハンター試験の受験資格は、原則として犯罪歴によって失われるものではありません」
クロウは、口元を吊り上げた。
「……それで?」
「あなたの第三次試験合格は、有効と判断されました」
待機室が、ざわついた。
「……何だと?」
斧使いが、声を上げた。
協会職員は、続けた。
「したがって、クロウ・ベルガーは最終試験へ進出します」
クロウは、ゆっくりと笑った。
「……当然ですね」
その態度に、周囲の受験者たちの表情が険しくなった。
だが、誰も手を出さなかった。
協会職員が、厳しい視線を向けていたからだ。
クロウは、椅子から立ち上がった。
そして、ゆっくりと出口へ向かった。
すれ違う受験者たちは、誰も道を譲ろうとはしなかった。
男は、薄い笑みを浮かべたまま歩いていく。
その背中へ向けられた視線には、強い嫌悪が込められていた。
◇
午後四時十分。
俺は、医療区画の小さな待機室にいた。
ヴァルグから事情を聞いた後、医師に頼んで少しだけ休ませてもらっていた。
身体には、まだ戦闘の傷が残っている。
腹部の痛み。
右肩の痺れ。
頬の裂傷。
俺は、自分の状態を確認した。
……さて。
残り二回。
今日の回復能力は、まだ使える。
俺は、椅子へ腰掛けたまま目を閉じた。
自分の身体全体を意識する。
傷ついた筋肉。
打撲。
裂傷。
疲労。
そして、念の消耗。
すべてを、正常な状態へ戻す。
――回復。
温かな感覚が、全身へ広がった。
腹部の痛みが消える。
肩の痺れがなくなる。
頬の傷が塞がる。
乱れていた呼吸も、自然と落ち着いた。
さらに、消耗していたオーラも回復していく。
数秒後。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
……よし。
身体は、完全に回復した。
今日の残り使用回数は、一回。
俺は、軽く腕を動かした。
痛みはない。
関節の動きも正常。
戦闘前より、身体が軽く感じられるほどだった。
そのとき。
「……アオ?」
扉の方から、声がした。
俺は、顔を上げた。
そこには、ヴァルグが立っていた。
男は、俺の顔を見ていた。
そして。
目を細めた。
「……お前」
俺は、少しだけ首を傾げた。
「……はい?」
「……傷が、消えているな」
俺は、頷いた。
「自分にも使えるので」
ヴァルグは、しばらく黙っていた。
そして。
深く息を吐いた。
「……そうか」
男は、ゆっくりと頷いた。
「他人だけでなく、自分も完全に回復できるのか」
「はい」
「……制約は?」
俺は、少し考えた。
ここは、正直に答えた方がいいだろう。
ただし、能力の由来については伏せる。
「……一日に三回までです」
ヴァルグは、目を見開いた。
「……三回?」
「はい」
「……あれほどの回復を、一日に三回も使えるのか?」
俺は、頷いた。
男は、しばらく黙っていた。
そして。
低く笑った。
「……とんでもない発だな」
俺は、少しだけ苦笑した。
「……そうですか?」
「ああ」
ヴァルグは、真剣な表情になった。
「医療系の念能力者でも、欠損した四肢を完全に再生できる者は極めて少ない。まして、それを一日に三回も使えるとなれば……」
男は、言葉を切った。
そして、俺を見た。
「……協会が知れば、間違いなく注目するだろう」
俺は、静かに頷いた。
……だろうな。
それは、覚悟している。
だが。
リリアを助けるためなら、必要なことだった。
俺は、ヴァルグへ視線を向けた。
「……一つ、お願いがあります」
「何だ?」
「この能力について、必要以上に広めないでもらえますか?」
ヴァルグは、少し考えた。
そして。
「……わかった」
俺は、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
男は、腕を組んだ。
「ただし、医療記録には残る。完全に隠すことはできんぞ」
「……承知しています」
俺は、頷いた。
……それで十分だ。
少なくとも、今すぐ大勢に知られることは避けられる。
◇
午後四時三十分。
俺は、再びリリアの治療室へ戻った。
少女は、ベッドへ腰掛けていた。
左腕を何度も動かしている。
指を握る。
開く。
手首を回す。
そして、肘を曲げる。
そのたびに、嬉しそうな表情を浮かべていた。
俺は、扉を軽く叩いた。
「……入っていい?」
リリアは、顔を上げた。
「アオ!」
少女は、笑った。
「うん!」
俺は、部屋へ入った。
そして、ベッドの隣へ腰掛けた。
「調子はどう?」
「すっごくいい!」
リリアは、左腕を見せた。
「ほら! ちゃんと動くよ!」
「ああ」
俺は、頷いた。
「……よかった」
少女は、少しだけ笑った。
そして。
しばらく黙った。
俺は、彼女の言葉を待った。
やがて。
「……アオ」
「ん?」
「……私、負けちゃった」
その声は、小さかった。
俺は、静かに頷いた。
「……そうだな」
「……第三次試験、不合格だね」
リリアは、視線を落とした。
俺は、少しだけ考えた。
そして。
「……悔しい?」
少女は、頷いた。
「……うん」
俺は、彼女を見た。
「……そっか」
リリアは、拳を握った。
「……もっと、強くなりたかった」
俺は、静かに頷いた。
……そうだな。
彼女は、今回の試験で、自分の限界を知った。
それは、辛い経験だっただろう。
だが。
俺は、彼女の左腕を見た。
もう、傷はない。
失われたものは、戻っている。
そして、彼女は生きている。
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「……リリア」
「……ん?」
「今回の試験で、負けたことは変わらない」
少女は、頷いた。
「……うん」
「でも、それで終わりじゃない」
俺は、彼女を見た。
「次に挑戦することもできる。もっと強くなることもできる」
リリアは、少しだけ顔を上げた。
俺は、続けた。
「……だから、今は休もう」
少女は、しばらく黙っていた。
そして。
小さく笑った。
「……うん」
俺は、頷いた。
リリアは、少しだけ考えた。
そして。
「……ねえ、アオ」
「ん?」
「……来年も、ハンター試験ってあるよね?」
「……ああ」
「……私、また受けたい」
俺は、少女を見た。
その瞳には、もう先ほどまでの恐怖はなかった。
代わりに。
静かな決意が、宿っていた。
俺は、頷いた。
「……そうか」
リリアは、笑った。
「……今度は、ちゃんと強くなってから!」
俺は、少しだけ笑った。
「……それがいい」
少女は、左手を握りしめた。
そして。
「……アオ」
「ん?」
「……私、絶対に強くなるからね!」
俺は、頷いた。
「……ああ」
その言葉を聞きながら。
俺は、静かに考えていた。
リリアには、まだ知らない力がある。
念。
生命エネルギーを操る技術。
それを修得すれば、彼女の可能性は大きく広がるだろう。
だが。
今すぐ教えるべきかどうかは、慎重に考える必要がある。
念の修行には、危険も伴う。
それに、彼女自身の意思が何より重要だ。
俺は、リリアの笑顔を見た。
……まずは、ゆっくり休ませよう。
話すのは、それからでも遅くない。
◇
夕方。
第三次試験の結果が、正式に発表された。
合格者は、六名。
五組の勝者と、特別試験を突破した俺。
そして、その中には、クロウ・ベルガーの名前もあった。
俺は、掲示板に貼られた結果を見つめた。
……第三次試験、突破。
だが、胸の奥には、重いものが残っていた。
クロウ。
あの男が、最終試験へ進む。
それは、変わらない事実だった。
俺は、静かに息を吐いた。
……次の試験で、会うことになるかもしれない。
そのとき。
背後から、足音が聞こえた。
振り返ると、リリアが立っていた。
左腕には、もう包帯もない。
少女は、俺を見て笑った。
「……アオ!」
「ん?」
「……次も、頑張ってね!」
俺は、頷いた。
「……ああ」
リリアは、少しだけ笑った。
「……私の分まで!」
俺は、彼女を見た。
そして。
「……任せろ」
そう答えた。
少女は、嬉しそうに頷いた。
俺は、掲示板へ視線を戻した。
第三次試験。
その結果は、俺にとって大きな意味を持つものになった。
自分の力の限界。
そして、守りたいもの。
その両方を、改めて考えさせられた。
俺は、拳を握った。
……もっと、強くならないとな。
ヴァルグとの戦い。
リリアの負傷。
そして、彼女の回復。
すべてが、俺の中に残っている。
俺は、静かに歩き始めた。
次の試験へ。
そして、その先にある未来へ。