流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第二十八話 心源流の総本山と、若き宝石の狩人

第六十九回ハンター試験を終えた翌日。

 午後三時四十二分。

 俺を乗せた車は、山間を走る細い道路を進んでいた。

 窓の外には、深い緑に覆われた山々が連なっている。街を離れてから、すでに数時間。途中で舗装道路は途切れ、今は木々の間を縫うように延びる山道を登っていた。

 車体が大きく揺れる。

 運転手は慣れた様子でハンドルを切り、急な曲がり角を抜けた。

「もうすぐ到着しますよ」

「ありがとうございます」

 俺は窓の外へ目を向けた。

 山腹には、古い石段が見える。

 その先には、瓦屋根の建物がいくつも並んでいた。

 ……あれが、心源流の総本山か。

 ハンター協会会長、アイザック=ネテロ。

 そのネテロが創始した武術、心源流拳法。

 俺がこれまで修得してきた念の技術は、ほとんどが自己流だった。

 原作で得た知識を土台に、流星街で実践と試行錯誤を繰り返してきた。

 纏、絶、練、凝。

 堅、硬、流、周、隠、円。

 それぞれを扱うことはできる。

 だが、正しく扱えているかと問われれば、断言はできなかった。

 特にヴァルグとの戦いでは、技術の繋がりに粗さがあると痛感した。

 身体能力とオーラ量に頼って押し切れる相手ばかりではない。

 もっと効率よく動き、もっと正確に力を使う必要がある。

 俺は膝の上に置いた拳を開いた。

 ……学べるものは、全部学ぼう。

 そのとき、車が緩やかに減速した。

 前方に、大きな木製の門が見えてきた。

 門の上には、力強い筆文字で四文字が刻まれている。

『心源流拳法』

 俺は、その文字を見上げた。

 そして、車が停まった。

     ◇

 総本山の敷地は、想像していたよりも広かった。

 正門を抜けると、左右に長い石畳の道が延びている。

 道の先には大きな本堂があり、その周囲を修練場や宿舎が取り囲んでいた。

 どこからか、威勢のいい掛け声が聞こえてくる。

「せいっ!」

「はあっ!」

 視線を向けると、道着姿の男女が広場で組手を行っていた。

 年齢はさまざまだ。

 十代と思われる少年少女もいれば、白髪交じりの中年もいる。

 彼らの動きは、無駄が少なかった。

 踏み込み。

 打撃。

 受け。

 崩し。

 一つ一つが、明確な意図を持って繋がっている。

 俺は、しばらくその様子を眺めた。

 ……なるほど。

 ここでは、念能力だけでなく、武術そのものも重視されているらしい。

「アオ君ですね?」

 背後から声を掛けられた。

 振り返ると、灰色の道着を着た男性が立っていた。

 三十代半ばほどだろうか。

 短く刈り込んだ髪と、日に焼けた肌が印象的だった。

「はい」

「私は総本山の指導員、ゲンザと申します。会長から話は伺っています」

 男は、丁寧に頭を下げた。

「今日からこちらで修行されるそうですね」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ。まずは宿舎をご案内しましょう」

 俺は、ゲンザの後について歩き始めた。

 途中、何人かの門下生とすれ違う。

 彼らは俺を見ると、少し不思議そうな顔をした。

 まあ、無理もない。

 十歳の子供が、一人で総本山へ来たのだから。

 ゲンザは、歩きながら施設について説明してくれた。

 東側には基礎修練場。

 西側には実戦訓練用の道場。

 北側の山中には、持久力や身体操作を鍛えるための訓練区域があるらしい。

 そして、本堂の奥には、上級者だけが使用できる特別修練場が設けられているという。

「会長からは、あなたの現在の技量を確認した上で、修行内容を決めるよう指示されています」

「わかりました」

「それと、ひとつ注意があります」

 ゲンザは、少しだけ表情を引き締めた。

「ここでは、才能よりも基礎を重視します。すでに念を使える方でも、必要と判断されれば初歩からやり直していただきます」

 俺は、頷いた。

「望むところです」

 その答えに、ゲンザは満足そうに笑った。

「それなら、きっと充実した修行になりますよ」

     ◇

 宿舎へ荷物を置いた後、俺は東側の修練場へ向かった。

 そこで、奇妙な光景を目にした。

 広場の中央。

 一人の女性が、三人の門下生を相手に組手をしていた。

 金色の髪。

 小柄ながら均整の取れた身体。

 そして、少女のようにも見える整った顔立ち。

 だが、何より目を引いたのは、その動きだった。

「ほらほら! そんな大振りじゃ当たらないわよ!」

 女性は、楽しそうに笑っていた。

 一人目の拳を、身体をわずかに傾けてかわす。

 続く蹴りを、足を半歩引くだけで外す。

 三人目が背後から組みつこうとした瞬間、女性は腰を落とした。

 そして。

「はい、そこ!」

 ――ドンッ!

 短い掌打。

 それだけで、男の身体が宙へ浮いた。

 男は地面へ転がり、数メートル先でようやく止まった。

 俺は、思わず足を止めた。

 ……今のは。

 力任せではない。

 相手の重心が前へ移動した瞬間を捉え、最小限の力で崩している。

 しかも、動作の途中でオーラの配分が変わっていた。

 流。

 それも、かなり高い精度だ。

 女性は、倒れた門下生へ手を差し伸べた。

「もう一回やる?」

「い、いえ……今日は勘弁してください」

「えー? まだ始めたばっかりじゃない」

 女性は、不満そうに頬を膨らませた。

 その仕草だけ見れば、年相応の若い女性にしか見えない。

 だが。

 俺は、彼女の顔を改めて見た。

 金髪。

 特徴的な口調。

 そして、異様なほど洗練された念の技術。

 ……まさか。

 女性が、こちらへ顔を向けた。

「あら?」

 視線が合う。

 次の瞬間、女性の表情が変わった。

 俺の身体を、上から下まで観察している。

 そして。

「……へえ」

 小さく呟いた。

「あなた、念が使えるのね」

 俺は、軽く頷いた。

「はい」

 女性は、嬉しそうに笑った。

「しかも、かなり鍛えてるじゃない」

 俺は、彼女を見た。

「……失礼ですが、お名前を伺っても?」

 女性は、胸を張った。

「ビスケット=クルーガー!」

 俺は、心の中で息を呑んだ。

 ……やっぱりか。

 ビスケット=クルーガー。

 通称、ビスケ。

 原作では、ゴンとキルアの師匠となった人物。

 そして、長年の修行によって圧倒的な技術を身につけた念能力者だ。

 ただし。

 目の前のビスケは、原作で見た姿よりも若かった。

 髪型も少し違う。

 服装も、派手なドレスではなく動きやすい道着だ。

 それでも、あの独特の雰囲気は変わらない。

「あなたは?」

「アオです」

「アオ君ね」

 ビスケは、俺の周囲を一周した。

 まるで、珍しい宝石を鑑定するような目つきだった。

「十歳くらい?」

「はい」

「十歳でその纏?」

 彼女は、目を細めた。

「……誰に教わったの?」

「ほとんど独学です」

 その瞬間。

 ビスケの足が止まった。

「……独学?」

「はい」

 彼女は、数秒間黙った。

 そして。

「ちょっと待ちなさい」

 俺の肩を掴んだ。

「あなた、それ本当?」

「本当です」

「……へええ」

 ビスケは、ゆっくりと笑った。

 その笑顔には、先ほどまでとは違う熱が宿っていた。

「……これは、磨き甲斐がありそうね」

 俺は、少しだけ嫌な予感を覚えた。

     ◇

「じゃあ、ちょっと見せて」

 ビスケは、広場の中央へ歩いていった。

 俺は、その後についていく。

 周囲の門下生たちが、興味深そうに集まってきた。

 ビスケは、俺の正面へ立った。

「まずは、纏」

 俺は、頷いた。

 身体の周囲へオーラを留める。

 呼吸を整え、全身を均等に覆った。

 ビスケは、真剣な表情で観察していた。

「……ふうん」

 そして。

「次、練」

 俺は、オーラの出力を高めた。

 身体の周囲に、密度の高いオーラが広がる。

 近くにいた門下生が、思わず一歩後退した。

「……すごいな」

「十歳だろ、あの子……」

 そんな声が聞こえた。

 だが、ビスケは驚いていなかった。

 むしろ、何かを確認するように頷いている。

「次、堅」

 俺は、練の出力を維持したまま、オーラを安定させた。

 ビスケは、俺の周囲を歩いた。

 正面。

 側面。

 背後。

 そして、再び正面へ戻る。

「……なるほどね」

 彼女は、腕を組んだ。

「確かに、かなりのものだわ」

 俺は、軽く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「でも」

 ビスケは、人差し指を立てた。

「無駄が多い」

 俺は、顔を上げた。

「……無駄?」

「そう」

 彼女は、俺の肩へ軽く触れた。

「ここ。オーラの密度が、ほんの少しだけ高い」

 次に、脇腹。

「それから、ここは逆に薄い」

 俺は、意識を向けた。

 ……確かに。

 言われてみれば、わずかな偏りがある。

 だが、今まで気づかなかった。

 ビスケは、続けた。

「それと、練から堅へ移行するとき、出力が一瞬だけ揺れるわね」

 俺は、眉を寄せた。

 ……そこまで見えるのか。

 ビスケは、笑った。

「才能はある。でも、まだ粗い」

 彼女は、俺の額を軽く指で弾いた。

「宝石だって、原石のままじゃ本当の輝きは出ないのよ」

 俺は、頷いた。

「……勉強になります」

 ビスケは、満足そうに笑った。

「素直でよろしい!」

 そして、突然、俺の手首を掴んだ。

「よし! 今度は流を見せなさい!」

 ……休ませる気はないらしい。

 俺は、思わず苦笑した。

 だが、悪い気はしなかった。

 これほどの技術を持つ人物から、直接指摘を受けられる。

 それだけでも、ここへ来た価値がある。

     ◇

 午後五時。

 俺は、ビスケとの基礎確認を終えた。

 結果は、散々だった。

 いや、正確には、技術そのものが通用しなかったわけではない。

 ビスケは、俺の能力を高く評価してくれた。

 だが、その分だけ、欠点も容赦なく指摘された。

 オーラの配分。

 動作と念の連動。

 呼吸。

 重心移動。

 視線。

 さらには、攻撃を出す直前の癖まで。

 俺が自分では気づかなかった部分を、次々と見抜いていった。

「あなた、攻撃する瞬間に右肩が少し上がるわね」

「……はい」

「それから、相手の動きを読むとき、目だけで追いすぎ」

「……はい」

「あと、流の切り替えが速いのはいいけど、必要以上に大きく配分を変えてる」

「……なるほど」

 ビスケは、腕を組んだ。

「才能で補えてるから今まで困らなかったんでしょうけど、強い相手には通用しないわよ」

 俺は、頷いた。

 ……その通りだ。

 ヴァルグとの戦いでも、同じ問題があった。

 相手の技術に対して、俺は速度と身体能力で対応していた。

 だが、それではいつか限界が来る。

 ビスケは、俺の顔を見た。

「……ねえ、アオ」

「はい」

「あなた、本当に強くなりたいの?」

 俺は、迷わず頷いた。

「はい」

 ビスケは、少しだけ笑った。

「なら、覚悟しなさい」

 彼女は、人差し指を立てた。

「これからは、基礎を徹底的にやり直すわよ」

 俺は、深く頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 ビスケは、嬉しそうに笑った。

「ふふん。いい返事ね!」

 そのとき。

 背後から、聞き覚えのある笑い声が響いた。

「ほっほっほ。ずいぶんと楽しそうじゃのう」

 俺は、振り返った。

 そこには、ネテロが立っていた。

     ◇

「会長!」

 ビスケが、声を上げた。

 ネテロは、笑顔で近づいてきた。

「ビスケ。新入りをいじめておるのか?」

「失礼ね! 指導してるのよ!」

「ほっほっほ。そうかそうか」

 ネテロは、俺へ視線を向けた。

「どうじゃ、アオ。総本山は気に入ったかの?」

「はい」

 俺は、頷いた。

「学ぶことが多いです」

 ネテロは、満足そうに笑った。

「それは結構」

 そして。

「さて、せっかく来たのじゃ。少し身体を動かしてみるかの?」

 俺は、顔を上げた。

 ……まさか。

 ネテロは、楽しそうに続けた。

「わしと、組手でもしてみんか?」

 周囲の空気が、変わった。

 門下生たちが、一斉にこちらを見た。

 ビスケも、目を丸くしている。

「……会長が?」

「うむ」

 ネテロは、頷いた。

「アオの実力を、直接見ておきたくてのう」

 俺は、しばらく黙っていた。

 ネテロ。

 あのネテロと、組手。

 前世で原作を読んでいた頃なら、想像するだけで興奮しただろう。

 だが、今は違う。

 俺は、この世界で実際に戦ってきた。

 そして、目の前の老人がどれほど危険な存在なのか、ある程度は理解している。

 ……勝てるわけがない。

 それでも。

 俺は、ゆっくりと頷いた。

「……お願いします」

 ネテロは、満足そうに笑った。

「ほっほっほ。よい返事じゃ」

     ◇

 組手は、特別修練場で行われることになった。

 本堂の奥。

 厚い木製の扉を抜けた先には、広い道場があった。

 床は、よく磨かれた木材。

 壁には、歴代の師範たちの名前が刻まれた木札が並んでいる。

 俺は、道場の中央へ進んだ。

 正面には、ネテロ。

 老人は、道着の袖を軽くまくった。

 そして、穏やかに笑った。

「さて、ルールは簡単じゃ」

 俺は、姿勢を正した。

「はい」

「発は使わん。武器もなし。純粋な体術と念の基礎技術だけで組手をする」

 俺は、頷いた。

「わかりました」

「勝敗は、わしが一本と判断した時点で決める」

 ネテロは、顎髭を撫でた。

「もちろん、おぬしがわしから一本取ってもよいぞ」

 俺は、軽く息を吸った。

 ……一本。

 ネテロから一本。

 それがどれほど難しいことなのか、考えるまでもない。

 だが、やるからには全力だ。

 俺は、構えを取った。

 ネテロは、自然体のまま立っている。

 両手は下げたまま。

 足幅も狭い。

 まるで、散歩の途中で立ち止まった老人のようだった。

 だが。

 ……隙がない。

 どこから攻撃しても、届く気がしない。

 俺は、静かに念を巡らせた。

 纏。

 練。

 堅。

 そして、流。

 身体を覆うオーラを安定させる。

 ネテロは、笑った。

「準備はよいかの?」

「はい」

「では」

 老人は、ゆっくりと手を上げた。

「始めじゃ」

     ◇

 俺は、地面を蹴った。

 最初から、全力だった。

 右足で踏み込み、左の拳を突き出す。

 狙いは、ネテロの胸元。

 だが。

 拳は、空を切った。

 ……っ!?

 ネテロの姿が、わずかにずれた。

 それだけだった。

 大きく避けたわけではない。

 俺の拳が届く直前、身体をほんの数センチ動かしただけだ。

 俺は、すぐに右拳を繰り出した。

 続けて、蹴り。

 肘打ち。

 掌打。

 だが。

 すべて、外れた。

 ネテロは、ほとんど動いていない。

 まるで、俺の攻撃が最初から見えているかのようだった。

「ほっほっほ」

 老人が、笑った。

「速いのう」

 俺は、歯を食いしばった。

 ……速さだけじゃ駄目か。

 俺は、一度距離を取った。

 呼吸を整える。

 ネテロは、相変わらず自然体だった。

 ……なら。

 俺は、次の攻撃を変えた。

 正面からではなく、斜めへ踏み込む。

 左足を軸に身体を回転させ、低い位置から蹴りを放つ。

 同時に、上半身へオーラを移動させる。

 相手が蹴りを避けた瞬間、拳を叩き込むつもりだった。

 だが。

 ネテロは、蹴りを避けなかった。

 片足を、わずかに浮かせる。

 俺の蹴りが、その下を通過した。

 そして。

 ――トン。

 軽い音。

 ネテロの指先が、俺の額へ触れた。

 次の瞬間。

 身体が、後方へ吹き飛んだ。

「……っ!?」

 俺は、空中で身体を捻った。

 床へ着地する。

 だが、衝撃を完全には殺せなかった。

 足裏が滑り、数メートル後退した。

 ……何だ、今の。

 ただ触れられただけだった。

 それなのに、身体が吹き飛んだ。

 俺は、額へ手を当てた。

 痛みは、ほとんどない。

 だが、確かな衝撃が残っている。

 ネテロは、笑っていた。

「一本じゃな」

 俺は、静かに頷いた。

「……参りました」

 ネテロは、顎髭を撫でた。

「ほっほっほ。よい動きじゃったぞ」

 俺は、苦笑した。

「……まったく、届きませんでした」

「当然じゃ。まだまだ修行が足りん」

 俺は、頷いた。

 ……その通りだ。

 だが。

 俺は、ネテロを見た。

「……もう一度、お願いします」

 ネテロは、目を細めた。

 そして。

 楽しそうに笑った。

「ほっほっほ。よかろう!」

     ◇

 二度目の組手。

 結果は、同じだった。

 俺は、攻撃を繰り出した。

 ネテロは、最小限の動きでかわした。

 そして、軽く触れるだけで俺を崩した。

 三度目。

 四度目。

 五度目。

 何度挑んでも、結果は変わらない。

 だが。

 少しずつ、わかってきたことがある。

 ネテロは、単に速いわけではない。

 相手の重心。

 呼吸。

 筋肉の動き。

 視線。

 そして、オーラの流れ。

 それらを、瞬時に読み取っている。

 俺が攻撃を出す前から、次の動きを予測しているのだ。

 ……これが、達人の技術か。

 俺は、息を整えた。

 ネテロは、穏やかに笑っている。

「どうした、アオ。もう終わりかの?」

 俺は、首を横に振った。

「……まだです」

 ネテロは、頷いた。

「よろしい」

 俺は、再び構えた。

 今度は、無理に攻めない。

 相手の動きを観察する。

 呼吸。

 足の位置。

 肩の角度。

 オーラの流れ。

 そして。

 俺は、ゆっくりと一歩踏み出した。

 ネテロは、動かなかった。

 もう一歩。

 距離が縮まる。

 そして。

 俺は、拳を繰り出した。

 だが、狙いは胸ではない。

 肩。

 相手の動きを制限するための一撃。

 ネテロは、わずかに身体を傾けた。

 俺は、その瞬間を待っていた。

 左足を踏み込み、身体を回転させる。

 右拳を引き戻し、左の掌打を繰り出す。

 ……今度こそ。

 だが。

 ネテロの姿が、消えた。

 いや。

 消えたように見えただけだ。

 次の瞬間。

 俺の背後から、声が聞こえた。

「惜しいのう」

 俺は、反射的に振り返った。

 だが、遅かった。

 ――トン。

 背中へ、軽い掌打。

 身体が、前方へ押し出される。

 俺は、床を転がった。

 そして、ようやく止まった。

 ……駄目か。

 俺は、仰向けになったまま天井を見上げた。

 息が荒い。

 身体は、まだ動く。

 だが、技術の差が大きすぎる。

 ネテロは、ゆっくりと近づいてきた。

「アオ」

 俺は、顔を向けた。

「はい」

「おぬし、よい才能を持っておる」

 俺は、黙っていた。

 ネテロは、続けた。

「身体能力も高い。念の技量も、年齢を考えれば異常なほどじゃ」

 老人は、俺を見た。

「だが、まだ力に頼りすぎておる」

 俺は、静かに頷いた。

「……はい」

「速さは、強さの一つにすぎん」

 ネテロは、指を一本立てた。

「大切なのは、必要な瞬間に、必要な場所へ、必要な力を届けることじゃ」

 俺は、その言葉を噛みしめた。

 ……必要な瞬間。

 必要な場所。

 必要な力。

 ネテロは、笑った。

「それができれば、今より遥かに強くなれる」

 俺は、ゆっくりと起き上がった。

 そして、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 ネテロは、満足そうに頷いた。

「うむ」

     ◇

 組手が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 俺は、道場の隅で水を飲んでいた。

 身体には、疲労が残っている。

 だが、不思議と気分は晴れていた。

 ネテロとの組手。

 結果だけ見れば、完敗だった。

 それでも、得たものは大きい。

 自分に足りないものが、はっきりと見えた。

 俺は、手のひらを見つめた。

 ……まだまだだな。

 そのとき。

「お疲れさま」

 声がした。

 顔を上げると、ビスケが立っていた。

 手には、二本の飲み物がある。

 彼女は、そのうち一本を俺へ差し出した。

「はい」

「ありがとうございます」

 俺は、受け取った。

 ビスケは、隣へ腰を下ろした。

「……会長との組手、見てたわよ」

 俺は、少しだけ苦笑した。

「……散々でした」

「当たり前でしょ」

 ビスケは、あっさりと言った。

「相手が誰だと思ってるのよ」

 俺は、頷いた。

「……そうですね」

 ビスケは、飲み物を一口飲んだ。

 そして。

「でも、最後の方は少し変わってたわね」

 俺は、顔を上げた。

「……そうですか?」

「うん」

 彼女は、俺を見た。

「最初は、ただ速く動こうとしてた。でも、途中から相手の動きを読むことに意識を向けてたでしょ」

 俺は、頷いた。

「……はい」

「それでいいのよ」

 ビスケは、笑った。

「強い相手に負けたとき、大事なのは何を学んだかなんだから」

 俺は、静かに頷いた。

 ……確かに。

 勝てない相手と戦うことにも、意味はある。

 むしろ、今の俺には必要な経験だ。

 ビスケは、立ち上がった。

「さて!」

 俺は、顔を上げた。

「……はい?」

 彼女は、満面の笑みを浮かべた。

「明日から、私もあなたの修行を見ることにしたわ!」

 俺は、少しだけ目を見開いた。

「……本当ですか?」

「もちろん!」

 ビスケは、胸を張った。

「会長からも、頼まれたしね」

 俺は、驚いた。

 ……ネテロが?

 ビスケは、楽しそうに続けた。

「まずは、基礎の徹底的な見直し!」

 彼女は、人差し指を立てた。

「纏、練、堅、流。それから、身体操作と格闘技術!」

 俺は、頷いた。

「……はい」

「その後は、応用技術の精度を上げていくわ」

 ビスケは、笑った。

「あなたの才能なら、かなり伸びると思うわよ」

 俺は、深く頭を下げた。

「……よろしくお願いします」

 ビスケは、満足そうに頷いた。

「ふふん。任せなさい!」

 そして。

 少しだけ、悪戯っぽく笑った。

「ただし」

 俺は、顔を上げた。

「……ただし?」

「私の修行、かなり厳しいわよ?」

 俺は、静かに頷いた。

「……覚悟しています」

 ビスケは、嬉しそうに笑った。

「よろしい!」

     ◇

 翌朝。

 午前五時。

 俺は、宿舎の外に立っていた。

 まだ、空は薄暗い。

 山の向こうから、わずかに朝日が差し始めている。

 空気は冷たく、吐く息が白い。

 俺は、軽く身体を動かした。

 昨夜の疲労は、十分な睡眠によってほとんど回復している。

 念の状態も安定していた。

 そして。

「おはよう、アオ!」

 元気な声が響いた。

 振り返ると、ビスケが立っていた。

 昨日と同じく、動きやすい道着姿だ。

 手には、小さな木箱を持っている。

「……おはようございます」

 俺は、頭を下げた。

 ビスケは、満足そうに頷いた。

「時間ぴったりね!」

 そして、木箱を地面へ置いた。

「じゃあ、さっそく始めましょうか」

 俺は、頷いた。

「……はい」

 ビスケは、木箱を開けた。

 中には、小さな石が大量に入っていた。

 大きさは、親指の先ほど。

 形も重さも、ほとんど同じだ。

 俺は、首を傾げた。

「……これは?」

 ビスケは、笑った。

「今日の修行道具よ」

 俺は、石を見た。

 ……石?

 ビスケは、一つ拾い上げた。

「まずは、この石を使って流の精度を鍛えるわ」

 彼女は、石を指先へ乗せた。

「オーラを指先へ集中させる。ただし、必要以上には込めない」

 俺は、静かに聞いていた。

「そして、石を弾く」

 ビスケは、軽く指を動かした。

 ――ピンッ。

 石が、一直線に飛んだ。

 数メートル先の木板へ当たり、小さな音を立てる。

 俺は、目を細めた。

 ……ただの石なのに。

 軌道が、まったくぶれていない。

 ビスケは、笑った。

「簡単そうでしょ?」

「……はい」

「じゃあ、やってみなさい」

 俺は、石を一つ拾った。

 指先へオーラを集中させる。

 そして、弾いた。

 ――ピンッ。

 石が飛ぶ。

 木板へ当たった。

 だが、ビスケは首を横に振った。

「駄目」

 俺は、顔を上げた。

「……何がですか?」

「オーラを使いすぎ」

 ビスケは、指を一本立てた。

「今のは、必要な量の三倍くらい使ってるわ」

 俺は、石が当たった木板を見た。

 ……三倍?

 ビスケは、続けた。

「威力を出すだけなら簡単。でも、最小限の力で同じ結果を出すのが難しいのよ」

 俺は、静かに頷いた。

 ……なるほど。

 ネテロの言葉と、繋がる。

 必要な瞬間に。

 必要な場所へ。

 必要な力を。

 俺は、もう一つ石を拾った。

 今度は、オーラを減らす。

 そして、弾いた。

 ――ピンッ。

 石が飛ぶ。

 だが、木板の手前で落ちた。

 ビスケは、笑った。

「今度は足りない!」

 俺は、思わず苦笑した。

 ……難しいな。

 だが。

 これこそ、俺に必要な修行だ。

 俺は、もう一つ石を拾った。

 そして、指先へオーラを集中させた。

     ◇

 それから、数時間。

 俺は、ひたすら石を弾き続けた。

 何百回。

 何千回。

 指先が痛くなり、腕が重くなる。

 だが、ビスケは容赦しなかった。

「まだ多い!」

「今度は少ない!」

「配分が遅い!」

「指先だけじゃなく、身体全体の動きを使いなさい!」

 俺は、黙々と続けた。

 最初は、ただ石を飛ばすことしか考えていなかった。

 だが、繰り返すうちに、少しずつ感覚が変わってきた。

 オーラの量。

 指先の角度。

 弾く瞬間の力。

 そして、身体の重心。

 それらが、一つの動作として繋がり始める。

 俺は、石を拾った。

 指先へ、必要な分だけオーラを流す。

 そして。

 ――ピンッ。

 石が、一直線に飛んだ。

 木板の中央へ当たり、小さな音を立てる。

 ビスケは、目を細めた。

 そして。

「……うん」

 小さく頷いた。

「今のは、合格」

 俺は、息を吐いた。

 ……ようやくか。

 ビスケは、満足そうに笑った。

「でも、まだ一回だけよ」

 俺は、顔を上げた。

「……はい」

「次は、それを百回連続で成功させなさい」

 俺は、少しだけ目を見開いた。

 ……百回?

 ビスケは、楽しそうに笑った。

「もちろん、失敗したら最初から!」

 俺は、空を見上げた。

 山の上には、すっかり青空が広がっていた。

 ……長い修行になりそうだ。

 だが。

 俺は、石を拾った。

 そして、静かに構えた。

 強くなるためなら、いくらでも繰り返そう。

 ネテロ。

 ビスケ。

 二人の達人から学べる機会など、二度とないかもしれない。

 俺は、指先へオーラを集中させた。

 そして。

 再び、石を弾いた。

 ――ピンッ。

 乾いた音が、朝の修練場へ響いた。

 心源流の総本山。

 俺の新たな修行の日々は、こうして始まった。

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