流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
第六十九回ハンター試験を終えた翌日。
午後三時四十二分。
俺を乗せた車は、山間を走る細い道路を進んでいた。
窓の外には、深い緑に覆われた山々が連なっている。街を離れてから、すでに数時間。途中で舗装道路は途切れ、今は木々の間を縫うように延びる山道を登っていた。
車体が大きく揺れる。
運転手は慣れた様子でハンドルを切り、急な曲がり角を抜けた。
「もうすぐ到着しますよ」
「ありがとうございます」
俺は窓の外へ目を向けた。
山腹には、古い石段が見える。
その先には、瓦屋根の建物がいくつも並んでいた。
……あれが、心源流の総本山か。
ハンター協会会長、アイザック=ネテロ。
そのネテロが創始した武術、心源流拳法。
俺がこれまで修得してきた念の技術は、ほとんどが自己流だった。
原作で得た知識を土台に、流星街で実践と試行錯誤を繰り返してきた。
纏、絶、練、凝。
堅、硬、流、周、隠、円。
それぞれを扱うことはできる。
だが、正しく扱えているかと問われれば、断言はできなかった。
特にヴァルグとの戦いでは、技術の繋がりに粗さがあると痛感した。
身体能力とオーラ量に頼って押し切れる相手ばかりではない。
もっと効率よく動き、もっと正確に力を使う必要がある。
俺は膝の上に置いた拳を開いた。
……学べるものは、全部学ぼう。
そのとき、車が緩やかに減速した。
前方に、大きな木製の門が見えてきた。
門の上には、力強い筆文字で四文字が刻まれている。
『心源流拳法』
俺は、その文字を見上げた。
そして、車が停まった。
◇
総本山の敷地は、想像していたよりも広かった。
正門を抜けると、左右に長い石畳の道が延びている。
道の先には大きな本堂があり、その周囲を修練場や宿舎が取り囲んでいた。
どこからか、威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
「せいっ!」
「はあっ!」
視線を向けると、道着姿の男女が広場で組手を行っていた。
年齢はさまざまだ。
十代と思われる少年少女もいれば、白髪交じりの中年もいる。
彼らの動きは、無駄が少なかった。
踏み込み。
打撃。
受け。
崩し。
一つ一つが、明確な意図を持って繋がっている。
俺は、しばらくその様子を眺めた。
……なるほど。
ここでは、念能力だけでなく、武術そのものも重視されているらしい。
「アオ君ですね?」
背後から声を掛けられた。
振り返ると、灰色の道着を着た男性が立っていた。
三十代半ばほどだろうか。
短く刈り込んだ髪と、日に焼けた肌が印象的だった。
「はい」
「私は総本山の指導員、ゲンザと申します。会長から話は伺っています」
男は、丁寧に頭を下げた。
「今日からこちらで修行されるそうですね」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。まずは宿舎をご案内しましょう」
俺は、ゲンザの後について歩き始めた。
途中、何人かの門下生とすれ違う。
彼らは俺を見ると、少し不思議そうな顔をした。
まあ、無理もない。
十歳の子供が、一人で総本山へ来たのだから。
ゲンザは、歩きながら施設について説明してくれた。
東側には基礎修練場。
西側には実戦訓練用の道場。
北側の山中には、持久力や身体操作を鍛えるための訓練区域があるらしい。
そして、本堂の奥には、上級者だけが使用できる特別修練場が設けられているという。
「会長からは、あなたの現在の技量を確認した上で、修行内容を決めるよう指示されています」
「わかりました」
「それと、ひとつ注意があります」
ゲンザは、少しだけ表情を引き締めた。
「ここでは、才能よりも基礎を重視します。すでに念を使える方でも、必要と判断されれば初歩からやり直していただきます」
俺は、頷いた。
「望むところです」
その答えに、ゲンザは満足そうに笑った。
「それなら、きっと充実した修行になりますよ」
◇
宿舎へ荷物を置いた後、俺は東側の修練場へ向かった。
そこで、奇妙な光景を目にした。
広場の中央。
一人の女性が、三人の門下生を相手に組手をしていた。
金色の髪。
小柄ながら均整の取れた身体。
そして、少女のようにも見える整った顔立ち。
だが、何より目を引いたのは、その動きだった。
「ほらほら! そんな大振りじゃ当たらないわよ!」
女性は、楽しそうに笑っていた。
一人目の拳を、身体をわずかに傾けてかわす。
続く蹴りを、足を半歩引くだけで外す。
三人目が背後から組みつこうとした瞬間、女性は腰を落とした。
そして。
「はい、そこ!」
――ドンッ!
短い掌打。
それだけで、男の身体が宙へ浮いた。
男は地面へ転がり、数メートル先でようやく止まった。
俺は、思わず足を止めた。
……今のは。
力任せではない。
相手の重心が前へ移動した瞬間を捉え、最小限の力で崩している。
しかも、動作の途中でオーラの配分が変わっていた。
流。
それも、かなり高い精度だ。
女性は、倒れた門下生へ手を差し伸べた。
「もう一回やる?」
「い、いえ……今日は勘弁してください」
「えー? まだ始めたばっかりじゃない」
女性は、不満そうに頬を膨らませた。
その仕草だけ見れば、年相応の若い女性にしか見えない。
だが。
俺は、彼女の顔を改めて見た。
金髪。
特徴的な口調。
そして、異様なほど洗練された念の技術。
……まさか。
女性が、こちらへ顔を向けた。
「あら?」
視線が合う。
次の瞬間、女性の表情が変わった。
俺の身体を、上から下まで観察している。
そして。
「……へえ」
小さく呟いた。
「あなた、念が使えるのね」
俺は、軽く頷いた。
「はい」
女性は、嬉しそうに笑った。
「しかも、かなり鍛えてるじゃない」
俺は、彼女を見た。
「……失礼ですが、お名前を伺っても?」
女性は、胸を張った。
「ビスケット=クルーガー!」
俺は、心の中で息を呑んだ。
……やっぱりか。
ビスケット=クルーガー。
通称、ビスケ。
原作では、ゴンとキルアの師匠となった人物。
そして、長年の修行によって圧倒的な技術を身につけた念能力者だ。
ただし。
目の前のビスケは、原作で見た姿よりも若かった。
髪型も少し違う。
服装も、派手なドレスではなく動きやすい道着だ。
それでも、あの独特の雰囲気は変わらない。
「あなたは?」
「アオです」
「アオ君ね」
ビスケは、俺の周囲を一周した。
まるで、珍しい宝石を鑑定するような目つきだった。
「十歳くらい?」
「はい」
「十歳でその纏?」
彼女は、目を細めた。
「……誰に教わったの?」
「ほとんど独学です」
その瞬間。
ビスケの足が止まった。
「……独学?」
「はい」
彼女は、数秒間黙った。
そして。
「ちょっと待ちなさい」
俺の肩を掴んだ。
「あなた、それ本当?」
「本当です」
「……へええ」
ビスケは、ゆっくりと笑った。
その笑顔には、先ほどまでとは違う熱が宿っていた。
「……これは、磨き甲斐がありそうね」
俺は、少しだけ嫌な予感を覚えた。
◇
「じゃあ、ちょっと見せて」
ビスケは、広場の中央へ歩いていった。
俺は、その後についていく。
周囲の門下生たちが、興味深そうに集まってきた。
ビスケは、俺の正面へ立った。
「まずは、纏」
俺は、頷いた。
身体の周囲へオーラを留める。
呼吸を整え、全身を均等に覆った。
ビスケは、真剣な表情で観察していた。
「……ふうん」
そして。
「次、練」
俺は、オーラの出力を高めた。
身体の周囲に、密度の高いオーラが広がる。
近くにいた門下生が、思わず一歩後退した。
「……すごいな」
「十歳だろ、あの子……」
そんな声が聞こえた。
だが、ビスケは驚いていなかった。
むしろ、何かを確認するように頷いている。
「次、堅」
俺は、練の出力を維持したまま、オーラを安定させた。
ビスケは、俺の周囲を歩いた。
正面。
側面。
背後。
そして、再び正面へ戻る。
「……なるほどね」
彼女は、腕を組んだ。
「確かに、かなりのものだわ」
俺は、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「でも」
ビスケは、人差し指を立てた。
「無駄が多い」
俺は、顔を上げた。
「……無駄?」
「そう」
彼女は、俺の肩へ軽く触れた。
「ここ。オーラの密度が、ほんの少しだけ高い」
次に、脇腹。
「それから、ここは逆に薄い」
俺は、意識を向けた。
……確かに。
言われてみれば、わずかな偏りがある。
だが、今まで気づかなかった。
ビスケは、続けた。
「それと、練から堅へ移行するとき、出力が一瞬だけ揺れるわね」
俺は、眉を寄せた。
……そこまで見えるのか。
ビスケは、笑った。
「才能はある。でも、まだ粗い」
彼女は、俺の額を軽く指で弾いた。
「宝石だって、原石のままじゃ本当の輝きは出ないのよ」
俺は、頷いた。
「……勉強になります」
ビスケは、満足そうに笑った。
「素直でよろしい!」
そして、突然、俺の手首を掴んだ。
「よし! 今度は流を見せなさい!」
……休ませる気はないらしい。
俺は、思わず苦笑した。
だが、悪い気はしなかった。
これほどの技術を持つ人物から、直接指摘を受けられる。
それだけでも、ここへ来た価値がある。
◇
午後五時。
俺は、ビスケとの基礎確認を終えた。
結果は、散々だった。
いや、正確には、技術そのものが通用しなかったわけではない。
ビスケは、俺の能力を高く評価してくれた。
だが、その分だけ、欠点も容赦なく指摘された。
オーラの配分。
動作と念の連動。
呼吸。
重心移動。
視線。
さらには、攻撃を出す直前の癖まで。
俺が自分では気づかなかった部分を、次々と見抜いていった。
「あなた、攻撃する瞬間に右肩が少し上がるわね」
「……はい」
「それから、相手の動きを読むとき、目だけで追いすぎ」
「……はい」
「あと、流の切り替えが速いのはいいけど、必要以上に大きく配分を変えてる」
「……なるほど」
ビスケは、腕を組んだ。
「才能で補えてるから今まで困らなかったんでしょうけど、強い相手には通用しないわよ」
俺は、頷いた。
……その通りだ。
ヴァルグとの戦いでも、同じ問題があった。
相手の技術に対して、俺は速度と身体能力で対応していた。
だが、それではいつか限界が来る。
ビスケは、俺の顔を見た。
「……ねえ、アオ」
「はい」
「あなた、本当に強くなりたいの?」
俺は、迷わず頷いた。
「はい」
ビスケは、少しだけ笑った。
「なら、覚悟しなさい」
彼女は、人差し指を立てた。
「これからは、基礎を徹底的にやり直すわよ」
俺は、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
ビスケは、嬉しそうに笑った。
「ふふん。いい返事ね!」
そのとき。
背後から、聞き覚えのある笑い声が響いた。
「ほっほっほ。ずいぶんと楽しそうじゃのう」
俺は、振り返った。
そこには、ネテロが立っていた。
◇
「会長!」
ビスケが、声を上げた。
ネテロは、笑顔で近づいてきた。
「ビスケ。新入りをいじめておるのか?」
「失礼ね! 指導してるのよ!」
「ほっほっほ。そうかそうか」
ネテロは、俺へ視線を向けた。
「どうじゃ、アオ。総本山は気に入ったかの?」
「はい」
俺は、頷いた。
「学ぶことが多いです」
ネテロは、満足そうに笑った。
「それは結構」
そして。
「さて、せっかく来たのじゃ。少し身体を動かしてみるかの?」
俺は、顔を上げた。
……まさか。
ネテロは、楽しそうに続けた。
「わしと、組手でもしてみんか?」
周囲の空気が、変わった。
門下生たちが、一斉にこちらを見た。
ビスケも、目を丸くしている。
「……会長が?」
「うむ」
ネテロは、頷いた。
「アオの実力を、直接見ておきたくてのう」
俺は、しばらく黙っていた。
ネテロ。
あのネテロと、組手。
前世で原作を読んでいた頃なら、想像するだけで興奮しただろう。
だが、今は違う。
俺は、この世界で実際に戦ってきた。
そして、目の前の老人がどれほど危険な存在なのか、ある程度は理解している。
……勝てるわけがない。
それでも。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……お願いします」
ネテロは、満足そうに笑った。
「ほっほっほ。よい返事じゃ」
◇
組手は、特別修練場で行われることになった。
本堂の奥。
厚い木製の扉を抜けた先には、広い道場があった。
床は、よく磨かれた木材。
壁には、歴代の師範たちの名前が刻まれた木札が並んでいる。
俺は、道場の中央へ進んだ。
正面には、ネテロ。
老人は、道着の袖を軽くまくった。
そして、穏やかに笑った。
「さて、ルールは簡単じゃ」
俺は、姿勢を正した。
「はい」
「発は使わん。武器もなし。純粋な体術と念の基礎技術だけで組手をする」
俺は、頷いた。
「わかりました」
「勝敗は、わしが一本と判断した時点で決める」
ネテロは、顎髭を撫でた。
「もちろん、おぬしがわしから一本取ってもよいぞ」
俺は、軽く息を吸った。
……一本。
ネテロから一本。
それがどれほど難しいことなのか、考えるまでもない。
だが、やるからには全力だ。
俺は、構えを取った。
ネテロは、自然体のまま立っている。
両手は下げたまま。
足幅も狭い。
まるで、散歩の途中で立ち止まった老人のようだった。
だが。
……隙がない。
どこから攻撃しても、届く気がしない。
俺は、静かに念を巡らせた。
纏。
練。
堅。
そして、流。
身体を覆うオーラを安定させる。
ネテロは、笑った。
「準備はよいかの?」
「はい」
「では」
老人は、ゆっくりと手を上げた。
「始めじゃ」
◇
俺は、地面を蹴った。
最初から、全力だった。
右足で踏み込み、左の拳を突き出す。
狙いは、ネテロの胸元。
だが。
拳は、空を切った。
……っ!?
ネテロの姿が、わずかにずれた。
それだけだった。
大きく避けたわけではない。
俺の拳が届く直前、身体をほんの数センチ動かしただけだ。
俺は、すぐに右拳を繰り出した。
続けて、蹴り。
肘打ち。
掌打。
だが。
すべて、外れた。
ネテロは、ほとんど動いていない。
まるで、俺の攻撃が最初から見えているかのようだった。
「ほっほっほ」
老人が、笑った。
「速いのう」
俺は、歯を食いしばった。
……速さだけじゃ駄目か。
俺は、一度距離を取った。
呼吸を整える。
ネテロは、相変わらず自然体だった。
……なら。
俺は、次の攻撃を変えた。
正面からではなく、斜めへ踏み込む。
左足を軸に身体を回転させ、低い位置から蹴りを放つ。
同時に、上半身へオーラを移動させる。
相手が蹴りを避けた瞬間、拳を叩き込むつもりだった。
だが。
ネテロは、蹴りを避けなかった。
片足を、わずかに浮かせる。
俺の蹴りが、その下を通過した。
そして。
――トン。
軽い音。
ネテロの指先が、俺の額へ触れた。
次の瞬間。
身体が、後方へ吹き飛んだ。
「……っ!?」
俺は、空中で身体を捻った。
床へ着地する。
だが、衝撃を完全には殺せなかった。
足裏が滑り、数メートル後退した。
……何だ、今の。
ただ触れられただけだった。
それなのに、身体が吹き飛んだ。
俺は、額へ手を当てた。
痛みは、ほとんどない。
だが、確かな衝撃が残っている。
ネテロは、笑っていた。
「一本じゃな」
俺は、静かに頷いた。
「……参りました」
ネテロは、顎髭を撫でた。
「ほっほっほ。よい動きじゃったぞ」
俺は、苦笑した。
「……まったく、届きませんでした」
「当然じゃ。まだまだ修行が足りん」
俺は、頷いた。
……その通りだ。
だが。
俺は、ネテロを見た。
「……もう一度、お願いします」
ネテロは、目を細めた。
そして。
楽しそうに笑った。
「ほっほっほ。よかろう!」
◇
二度目の組手。
結果は、同じだった。
俺は、攻撃を繰り出した。
ネテロは、最小限の動きでかわした。
そして、軽く触れるだけで俺を崩した。
三度目。
四度目。
五度目。
何度挑んでも、結果は変わらない。
だが。
少しずつ、わかってきたことがある。
ネテロは、単に速いわけではない。
相手の重心。
呼吸。
筋肉の動き。
視線。
そして、オーラの流れ。
それらを、瞬時に読み取っている。
俺が攻撃を出す前から、次の動きを予測しているのだ。
……これが、達人の技術か。
俺は、息を整えた。
ネテロは、穏やかに笑っている。
「どうした、アオ。もう終わりかの?」
俺は、首を横に振った。
「……まだです」
ネテロは、頷いた。
「よろしい」
俺は、再び構えた。
今度は、無理に攻めない。
相手の動きを観察する。
呼吸。
足の位置。
肩の角度。
オーラの流れ。
そして。
俺は、ゆっくりと一歩踏み出した。
ネテロは、動かなかった。
もう一歩。
距離が縮まる。
そして。
俺は、拳を繰り出した。
だが、狙いは胸ではない。
肩。
相手の動きを制限するための一撃。
ネテロは、わずかに身体を傾けた。
俺は、その瞬間を待っていた。
左足を踏み込み、身体を回転させる。
右拳を引き戻し、左の掌打を繰り出す。
……今度こそ。
だが。
ネテロの姿が、消えた。
いや。
消えたように見えただけだ。
次の瞬間。
俺の背後から、声が聞こえた。
「惜しいのう」
俺は、反射的に振り返った。
だが、遅かった。
――トン。
背中へ、軽い掌打。
身体が、前方へ押し出される。
俺は、床を転がった。
そして、ようやく止まった。
……駄目か。
俺は、仰向けになったまま天井を見上げた。
息が荒い。
身体は、まだ動く。
だが、技術の差が大きすぎる。
ネテロは、ゆっくりと近づいてきた。
「アオ」
俺は、顔を向けた。
「はい」
「おぬし、よい才能を持っておる」
俺は、黙っていた。
ネテロは、続けた。
「身体能力も高い。念の技量も、年齢を考えれば異常なほどじゃ」
老人は、俺を見た。
「だが、まだ力に頼りすぎておる」
俺は、静かに頷いた。
「……はい」
「速さは、強さの一つにすぎん」
ネテロは、指を一本立てた。
「大切なのは、必要な瞬間に、必要な場所へ、必要な力を届けることじゃ」
俺は、その言葉を噛みしめた。
……必要な瞬間。
必要な場所。
必要な力。
ネテロは、笑った。
「それができれば、今より遥かに強くなれる」
俺は、ゆっくりと起き上がった。
そして、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
ネテロは、満足そうに頷いた。
「うむ」
◇
組手が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。
俺は、道場の隅で水を飲んでいた。
身体には、疲労が残っている。
だが、不思議と気分は晴れていた。
ネテロとの組手。
結果だけ見れば、完敗だった。
それでも、得たものは大きい。
自分に足りないものが、はっきりと見えた。
俺は、手のひらを見つめた。
……まだまだだな。
そのとき。
「お疲れさま」
声がした。
顔を上げると、ビスケが立っていた。
手には、二本の飲み物がある。
彼女は、そのうち一本を俺へ差し出した。
「はい」
「ありがとうございます」
俺は、受け取った。
ビスケは、隣へ腰を下ろした。
「……会長との組手、見てたわよ」
俺は、少しだけ苦笑した。
「……散々でした」
「当たり前でしょ」
ビスケは、あっさりと言った。
「相手が誰だと思ってるのよ」
俺は、頷いた。
「……そうですね」
ビスケは、飲み物を一口飲んだ。
そして。
「でも、最後の方は少し変わってたわね」
俺は、顔を上げた。
「……そうですか?」
「うん」
彼女は、俺を見た。
「最初は、ただ速く動こうとしてた。でも、途中から相手の動きを読むことに意識を向けてたでしょ」
俺は、頷いた。
「……はい」
「それでいいのよ」
ビスケは、笑った。
「強い相手に負けたとき、大事なのは何を学んだかなんだから」
俺は、静かに頷いた。
……確かに。
勝てない相手と戦うことにも、意味はある。
むしろ、今の俺には必要な経験だ。
ビスケは、立ち上がった。
「さて!」
俺は、顔を上げた。
「……はい?」
彼女は、満面の笑みを浮かべた。
「明日から、私もあなたの修行を見ることにしたわ!」
俺は、少しだけ目を見開いた。
「……本当ですか?」
「もちろん!」
ビスケは、胸を張った。
「会長からも、頼まれたしね」
俺は、驚いた。
……ネテロが?
ビスケは、楽しそうに続けた。
「まずは、基礎の徹底的な見直し!」
彼女は、人差し指を立てた。
「纏、練、堅、流。それから、身体操作と格闘技術!」
俺は、頷いた。
「……はい」
「その後は、応用技術の精度を上げていくわ」
ビスケは、笑った。
「あなたの才能なら、かなり伸びると思うわよ」
俺は、深く頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
ビスケは、満足そうに頷いた。
「ふふん。任せなさい!」
そして。
少しだけ、悪戯っぽく笑った。
「ただし」
俺は、顔を上げた。
「……ただし?」
「私の修行、かなり厳しいわよ?」
俺は、静かに頷いた。
「……覚悟しています」
ビスケは、嬉しそうに笑った。
「よろしい!」
◇
翌朝。
午前五時。
俺は、宿舎の外に立っていた。
まだ、空は薄暗い。
山の向こうから、わずかに朝日が差し始めている。
空気は冷たく、吐く息が白い。
俺は、軽く身体を動かした。
昨夜の疲労は、十分な睡眠によってほとんど回復している。
念の状態も安定していた。
そして。
「おはよう、アオ!」
元気な声が響いた。
振り返ると、ビスケが立っていた。
昨日と同じく、動きやすい道着姿だ。
手には、小さな木箱を持っている。
「……おはようございます」
俺は、頭を下げた。
ビスケは、満足そうに頷いた。
「時間ぴったりね!」
そして、木箱を地面へ置いた。
「じゃあ、さっそく始めましょうか」
俺は、頷いた。
「……はい」
ビスケは、木箱を開けた。
中には、小さな石が大量に入っていた。
大きさは、親指の先ほど。
形も重さも、ほとんど同じだ。
俺は、首を傾げた。
「……これは?」
ビスケは、笑った。
「今日の修行道具よ」
俺は、石を見た。
……石?
ビスケは、一つ拾い上げた。
「まずは、この石を使って流の精度を鍛えるわ」
彼女は、石を指先へ乗せた。
「オーラを指先へ集中させる。ただし、必要以上には込めない」
俺は、静かに聞いていた。
「そして、石を弾く」
ビスケは、軽く指を動かした。
――ピンッ。
石が、一直線に飛んだ。
数メートル先の木板へ当たり、小さな音を立てる。
俺は、目を細めた。
……ただの石なのに。
軌道が、まったくぶれていない。
ビスケは、笑った。
「簡単そうでしょ?」
「……はい」
「じゃあ、やってみなさい」
俺は、石を一つ拾った。
指先へオーラを集中させる。
そして、弾いた。
――ピンッ。
石が飛ぶ。
木板へ当たった。
だが、ビスケは首を横に振った。
「駄目」
俺は、顔を上げた。
「……何がですか?」
「オーラを使いすぎ」
ビスケは、指を一本立てた。
「今のは、必要な量の三倍くらい使ってるわ」
俺は、石が当たった木板を見た。
……三倍?
ビスケは、続けた。
「威力を出すだけなら簡単。でも、最小限の力で同じ結果を出すのが難しいのよ」
俺は、静かに頷いた。
……なるほど。
ネテロの言葉と、繋がる。
必要な瞬間に。
必要な場所へ。
必要な力を。
俺は、もう一つ石を拾った。
今度は、オーラを減らす。
そして、弾いた。
――ピンッ。
石が飛ぶ。
だが、木板の手前で落ちた。
ビスケは、笑った。
「今度は足りない!」
俺は、思わず苦笑した。
……難しいな。
だが。
これこそ、俺に必要な修行だ。
俺は、もう一つ石を拾った。
そして、指先へオーラを集中させた。
◇
それから、数時間。
俺は、ひたすら石を弾き続けた。
何百回。
何千回。
指先が痛くなり、腕が重くなる。
だが、ビスケは容赦しなかった。
「まだ多い!」
「今度は少ない!」
「配分が遅い!」
「指先だけじゃなく、身体全体の動きを使いなさい!」
俺は、黙々と続けた。
最初は、ただ石を飛ばすことしか考えていなかった。
だが、繰り返すうちに、少しずつ感覚が変わってきた。
オーラの量。
指先の角度。
弾く瞬間の力。
そして、身体の重心。
それらが、一つの動作として繋がり始める。
俺は、石を拾った。
指先へ、必要な分だけオーラを流す。
そして。
――ピンッ。
石が、一直線に飛んだ。
木板の中央へ当たり、小さな音を立てる。
ビスケは、目を細めた。
そして。
「……うん」
小さく頷いた。
「今のは、合格」
俺は、息を吐いた。
……ようやくか。
ビスケは、満足そうに笑った。
「でも、まだ一回だけよ」
俺は、顔を上げた。
「……はい」
「次は、それを百回連続で成功させなさい」
俺は、少しだけ目を見開いた。
……百回?
ビスケは、楽しそうに笑った。
「もちろん、失敗したら最初から!」
俺は、空を見上げた。
山の上には、すっかり青空が広がっていた。
……長い修行になりそうだ。
だが。
俺は、石を拾った。
そして、静かに構えた。
強くなるためなら、いくらでも繰り返そう。
ネテロ。
ビスケ。
二人の達人から学べる機会など、二度とないかもしれない。
俺は、指先へオーラを集中させた。
そして。
再び、石を弾いた。
――ピンッ。
乾いた音が、朝の修練場へ響いた。
心源流の総本山。
俺の新たな修行の日々は、こうして始まった。