流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第三十四話 迷い人の足跡――二人のハンター、秘境へ

一九八九年、春。

 港湾都市ベルザード。

 まだ夜の名残が漂う早朝、宿屋の一室で、俺は机の上に広げた地図を眺めていた。

 目的地は、大陸西部の内陸に位置する山岳地帯。

 現地では『霧哭きの渓谷』と呼ばれているらしい。

 名前の由来は、谷を吹き抜ける風が人間の泣き声のように聞こえること。

 もっとも、そんな話は珍しくない。

 風が岩の隙間を通れば、奇妙な音が鳴ることもある。

 問題は、そこではなかった。

「……三か月前に行方不明になった調査隊、か」

 机には、ミレーヌさんから渡された資料が並んでいる。

 調査隊の人数は六人。

 地質学者が二人。

 植物学者が一人。

 測量技師が一人。

 護衛兼案内人が二人。

 全員、未開地域での活動経験を持つ人間だった。

 その六人が、渓谷の奥にある遺跡の調査へ向かい、消息を絶った。

 最後の通信は、渓谷の入口から約十キロメートル進んだ地点で確認されている。

 通信内容は短い。

『谷の奥に人工構造物を確認。予定を変更して接近する』

 そして、その後の連絡はない。

 調査隊の最後の報告から、すでに三か月。

 生存の可能性は高いとは言えない。

 それでも、遺体が発見されたわけではなかった。

 生きている可能性があるなら、探す価値はある。

 俺は地図に記された赤い印を指でなぞった。

(……問題は、この先だな)

 渓谷の奥は、ほとんど地図が作られていない。

 過去の調査記録も断片的。

 深い森林、複雑な岩場、地下水脈。

 さらに、夜間には不可解な光が目撃されている。

 自然現象なのか。

 未知の生物なのか。

 それとも、念能力によるものなのか。

 現時点では判断できない。

 俺は資料を閉じた。

「……準備は、こんなところか」

 机の上に並べていた道具を確認する。

 水。

 保存食。

 医療用品。

 ロープ。

 照明器具。

 予備の衣類。

 野営道具。

 そして、武器の手入れ道具。

 必要なものを順番にアイテムボックスへ収納していく。

 手を触れた道具が、次々と消えていった。

 相変わらず便利な能力だ。

 だが、他人の前で使うわけにはいかない。

 この能力は念ではない。

 その事実を知っているのは、ネテロ会長とビスケくらいだ。

 リリアにも、まだ話していない。

(……今回も、慎重に使わないとな)

 俺は最後にナイフを腰へ差した。

 黒いシャツ。

 動きやすいズボン。

 丈夫なブーツ。

 そして、背中には普通の旅行者が使う程度の大きさの鞄。

 必要な装備の大半はアイテムボックスに収めているため、見た目はそれほど重装備ではない。

 鏡に映った自分を見る。

 十五歳。

 身長は百八十三センチ。

 黒い無造作な髪に、暗い灰色の瞳。

 以前より精悍になった顔立ちには、まだ少年らしさが残っている。

 少し前まで、流星街で食べ物を探していた小さな子供だったとは思えない。

「……さて」

 俺は鞄を背負った。

「行くか」

     ◇

 待ち合わせ場所は、ベルザードの北門だった。

 朝日が街の屋根を照らし始めたころ、俺は門の前へ到着した。

 すると、すでに見覚えのある少女が立っていた。

「アオ!」

 リリアだ。

 明るい栗色の髪。

 琥珀色の瞳。

 髪は後ろで軽くまとめられ、最も長い毛先が肩甲骨に届くか届かないかという長さになっている。

 深緑色の探索服に、革製のベルトとポーチ。

 背中には弓と矢筒。

 腰には短剣。

 そして、足元には丈夫なブーツ。

 昨日までの街中での服装とは違い、完全に仕事用の装備だった。

「おはよう、リリア」

「おはよう!」

 彼女は笑顔で近づいてきた。

 そして、俺の姿を上から下まで眺める。

「……やっぱり大きいね」

「またそれか?」

「だって、まだ慣れないんだもん」

 リリアは少し頬を膨らませた。

 俺は苦笑した。

「そのうち慣れるさ」

「そうかなあ」

 そう言いながら、リリアは俺の隣に並んだ。

 以前なら、それほど大きな身長差はなかった。

 だが、今は彼女が少し見上げる形になる。

 リリアはしばらく俺を見ていたが、ふいに視線を逸らした。

「……何だ?」

「な、何でもない!」

 相変わらず、時々よくわからない反応をする。

 俺が首を傾げていると、背後から落ち着いた声が聞こえた。

「朝から仲がいいわね」

「先生!」

 振り向くと、ミレーヌさんが立っていた。

 動きやすい旅装に、革製の鞄。

 その表情は穏やかだが、視線には経験豊富なハンター特有の鋭さがある。

「おはようございます」

「おはよう、アオ」

 ミレーヌさんは俺たちを見比べ、微笑んだ。

「二人とも、準備はできているみたいね」

「はい」

「もちろん!」

 俺とリリアが答える。

 ミレーヌさんは頷いた。

「それじゃあ、出発前に最終確認をしましょう」

     ◇

 北門の近くにある休憩所。

 俺たちは、人の少ない一角で地図を広げた。

 ミレーヌさんが説明を始める。

「今回の依頼は、行方不明になった調査隊の捜索。それから、可能であれば遺跡周辺の状況確認よ」

 俺は頷いた。

「調査隊の発見が最優先ですね」

「ええ。ただし、生存者の救助が困難だと判断した場合は、無理をしないこと」

 ミレーヌさんは真剣な表情になった。

「特に、念能力者が関与している可能性は否定できないわ」

「……わかっています」

 俺は答えた。

 リリアも頷く。

 ミレーヌさんは、地図の一角を指差した。

「ここが、最後に通信が確認された地点」

 赤い印がついている。

「そして、こちらが過去の調査隊によって確認された遺跡の推定位置」

 さらに奥。

 渓谷の最深部に近い場所だった。

「距離は?」

 俺が尋ねる。

「最後の通信地点から、直線距離で約八キロメートル。ただし、実際の移動距離はもっと長くなるでしょうね」

「……なるほど」

 俺は地形を確認した。

 急峻な崖。

 深い森林。

 複雑な谷筋。

 直線距離だけでは判断できない。

 ミレーヌさんは続けた。

「それと、もう一つ」

 彼女は小さな通信機を取り出した。

「これを持っていって」

 リリアが受け取る。

「……先生、これって」

「緊急用の通信機よ。通常の通信が届かない場所でも、特定の中継地点を利用すれば連絡できる」

 ただし、とミレーヌさんは付け加えた。

「万能ではないわ。地形によっては使えないこともある」

 俺は頷いた。

「連絡が取れなくなることも想定しておきます」

「そうして」

 ミレーヌさんは少し笑った。

「それから、今回の現地判断はリリアに任せるつもりよ」

「……えっ?」

 リリアが目を丸くした。

 俺も少し驚いた。

「リリアが、ですか?」

「ええ」

 ミレーヌさんは頷いた。

「探索と追跡に関しては、リリアの専門分野だから」

 そして、俺を見た。

「アオ。あなたは戦闘能力が高い。でも、今回はリリアの判断を尊重してほしいの」

 俺は迷わず頷いた。

「もちろんです」

 リリアが俺を見た。

「……いいの?」

「当然だろ」

 俺は笑った。

「探索はリリアの方が詳しい。俺が勝手に判断して足を引っ張るわけにはいかないからな」

 リリアは一瞬、目を丸くした。

 そして、嬉しそうに笑った。

「……うん!」

 ミレーヌさんも満足そうに頷いた。

「それなら安心ね」

 彼女は最後に、少しだけ声を低くした。

「……二人とも」

 俺たちは顔を上げた。

「必ず帰ってきなさい」

 その言葉には、冗談の気配がなかった。

「依頼を成功させることより、生きて帰ることを優先するのよ」

 俺は静かに頷いた。

「……はい」

「わかりました、先生」

 リリアも真剣な表情で答えた。

 ミレーヌさんは、ようやく微笑んだ。

「……よろしい」

     ◇

 ベルザードを出発してから、四日。

 俺たちは、目的地に近い山間の集落へ到着した。

 ここまでは、乗合馬車と徒歩を組み合わせて移動してきた。

 途中、山道が崩れている場所もあったが、大きな問題はなかった。

 もっとも、リリアの判断がなければ、何度か遠回りすることになっていただろう。

「……この先、地図と実際の道が違うね」

 集落の入口で、リリアが地図を見ながら言った。

「そうなのか?」

「うん。ここにあるはずの小道が、なくなってる」

 彼女は地図を指差した。

「たぶん、最近の土砂崩れで埋まったんだと思う」

 俺は周囲を見た。

 確かに、山肌の一部が崩れている。

 だが、俺なら多少の崩落地帯でも強引に進めるだろう。

 リリアは違った。

 彼女は周囲の地形を確認し、少し考えた。

「……こっちから回ろう」

「理由は?」

「尾根沿いなら地盤が比較的安定してるし、視界も確保しやすい。それに、谷へ下りる場所も選べるから」

 俺は頷いた。

「なるほど」

 確かに合理的だ。

 力任せに進むより、安全性が高い。

(……やっぱり、専門家だな)

 俺は少し感心した。

 リリアは地図を畳むと、こちらを見た。

「……どうしたの?」

「いや」

 俺は笑った。

「頼りになるなと思って」

「……っ」

 リリアの頬が、ほんの少し赤くなった。

「……そ、そう?」

「ああ」

「……えへへ」

 彼女は嬉しそうに笑った。

 その笑顔は、昔と変わらなかった。

     ◇

 集落で一泊した翌朝。

 俺たちは、いよいよ霧哭きの渓谷へ向かった。

 集落の長老から話を聞くと、渓谷には昔から奇妙な噂があるらしい。

 夜になると、谷の奥で青白い光が揺れる。

 風のない日でも、誰かの泣き声のような音が聞こえる。

 そして、時折、森へ入った人間が帰ってこなくなる。

 ただし、これらの話には誇張も混じっているだろう。

 俺はそう考えていた。

 だが、長老が最後に言った言葉は、少し気になった。

『……あの谷では、道が変わる』

 道が変わる。

 それは、単なる地形の変化なのか。

 それとも、何か別の意味があるのか。

 俺はその言葉を頭の片隅に置いていた。

 そして。

 渓谷の入口へ到着したとき。

「……ここか」

 俺は、思わず呟いた。

 目の前には、巨大な岩壁がそびえ立っていた。

 その間を縫うように、細い谷が奥へ続いている。

 谷底には薄い霧が漂い、奥の様子はほとんど見えない。

 周囲には、背の高い木々。

 岩肌には苔が生え、湿った空気が漂っていた。

 リリアは静かに周囲を見渡した。

「……思ったより、視界が悪いね」

「ああ」

 俺は頷いた。

「円を使っておく」

 そう言って、オーラを広げる。

 半径約五十メートル。

 周囲の地形や生物の気配が、感覚として伝わってくる。

 小動物が数匹。

 木々の間を移動する鳥。

 そして、谷の奥へ続く岩場。

 今のところ、危険な気配はない。

「……近くに大きな生物はいない」

 俺が言うと、リリアは頷いた。

「ありがとう」

 そして、腰のポーチへ手を伸ばした。

「……じゃあ、私も準備するね」

 彼女は静かに息を吐いた。

 次の瞬間。

 リリアの手の中に、銀色の羅針盤が現れた。

 俺は目を細めた。

「……それが」

「うん」

 リリアは少し笑った。

「私の発」

 銀色の外装。

 古い懐中時計にも似た形状。

 そして、蓋の内側に刻まれた小さな地図状の紋様。

 中央には、青白く輝く針があった。

「名前は――」

 リリアは、少し誇らしげに言った。

「『迷い人の足跡(ロスト・トレイル)』」

 俺は静かに頷いた。

「……いい名前だな」

「でしょ?」

 リリアは嬉しそうに笑った。

 そして、羅針盤の蓋を開いた。

「まずは、帰還経路を記録するね」

 彼女がオーラを流し込む。

 羅針盤の針が、ゆっくりと回転した。

 やがて、針が一方向を指し示す。

 蓋の内側に、小さな青い点が現れた。

「……これで、記録開始」

 リリアは説明した。

「ここから私が歩いた道を、羅針盤が記録してくれるの」

「……なるほど」

 俺は感心した。

 自分が歩いた道を記録する能力。

 複雑な地形では、非常に役立つ。

「ただし、道が崩れたり、敵がいたりしても、自動で教えてくれるわけじゃないから」

「そこは自分で判断する必要があるんだな」

「うん」

 リリアは頷いた。

「だから、アオの円と組み合わせれば、もっと安全に進めると思う」

 俺は笑った。

「……いい組み合わせだな」

「でしょ!」

 リリアは嬉しそうに笑った。

 こうして。

 二人の探索が始まった。

     ◇

 渓谷へ入ってから、約二時間。

 俺たちは、慎重に奥へ進んでいた。

 道は狭く、足場も悪い。

 ところどころに大きな岩が転がり、木の根が地面を覆っている。

 リリアは先頭を歩き、周囲の地形を確認していた。

 俺は少し後ろから、円と視覚を使って警戒する。

「……アオ、止まって」

 突然、リリアが小さく言った。

 俺は足を止めた。

「……何かあったか?」

「うん」

 リリアはしゃがみ込んだ。

 地面に残された、小さな痕跡を見つめている。

 俺も近づいた。

「……足跡か?」

「そう」

 彼女は頷いた。

「人間のものだと思う」

 俺は地面を見た。

 確かに、わずかな窪みがある。

 だが、素人なら見逃してしまいそうなほど薄い。

 リリアは指先で地面をなぞった。

「……古いね」

「どれくらい?」

「正確にはわからないけど、かなり時間が経ってる」

 彼女は周囲を見渡した。

「でも、この先にも痕跡が残ってるかもしれない」

 俺は頷いた。

「……調べてみよう」

 リリアは羅針盤を取り出した。

 そして、地面の痕跡へ指先を触れた。

 オーラが、静かに流れ込む。

 羅針盤の針が揺れた。

 だが。

「……あれ?」

 リリアが眉をひそめた。

「……どうした?」

「反応が弱い」

 彼女は少し考えた。

「……痕跡が古すぎるのかもしれない」

 俺は頷いた。

 リリアの能力には、制約がある。

 基本的に、追跡できるのは七十二時間以内の痕跡。

 それ以上古いものは、保存状態がよくなければ難しい。

 三か月前の調査隊の足跡を、そのまま追うことはできない。

 だからこそ、まずは普通の追跡技術が必要になる。

「……無理に使わなくていい」

 俺が言うと、リリアは頷いた。

「うん」

 彼女は羅針盤を閉じた。

「でも、こっちに人が通った形跡があるのは確かだよ」

 そう言って、谷の奥を指差した。

「……進もう」

「ああ」

 俺たちは、再び歩き始めた。

     ◇

 さらに一時間ほど進んだころ。

 リリアが、再び足を止めた。

「……アオ」

「ん?」

「これ、見て」

 彼女が指差したのは、岩の陰だった。

 そこには、古い布の切れ端が引っかかっていた。

 色は濃い青。

 かなり汚れている。

 俺は資料を思い出した。

「……調査隊の制服に似てるな」

「うん」

 リリアは慎重に布を取り外した。

 そして、表面を確認する。

「……かなり古い」

 彼女は眉をひそめた。

「でも、ここに誰かが通ったのは間違いない」

 俺は周囲を見渡した。

 岩場。

 木々。

 そして、奥へ続く細い道。

 人間が通った形跡は、ほとんど残っていない。

 だが、リリアは地面をじっと見つめていた。

「……こっち」

 彼女が指差す。

「何かわかったのか?」

「うん。岩の表面に、擦れた跡がある」

 俺は近づいた。

 確かに、岩の一部が不自然に削れている。

「……荷物を引きずったのか?」

「たぶん」

 リリアは頷いた。

「重いものを持っていたか、誰かを支えていたのかもしれない」

 俺は少し考えた。

(……負傷者がいた可能性もあるな)

 だが、断定はできない。

 リリアも同じ考えだったらしい。

「……まだ、わからないけど」

 彼女は静かに言った。

「この先に、何かあると思う」

 俺は頷いた。

「……行こう」

     ◇

 午後。

 谷の奥へ進むにつれて、霧が濃くなってきた。

 視界は、せいぜい二十メートルほど。

 周囲の木々も、ぼんやりとした影に見える。

 俺は円を維持しながら歩いていた。

 だが、ここで一つ気になることがあった。

(……妙だな)

 円の感覚が、時折わずかに乱れる。

 大きな異常ではない。

 だが、岩壁の一部に、妙な違和感がある。

 俺は足を止めた。

「……リリア」

「どうしたの?」

「少し、気になる場所がある」

 俺は右手の岩壁を指差した。

「……あそこだ」

 リリアは目を細めた。

 そして、慎重に近づいた。

「……何かあるの?」

「円の感覚が、少し変なんだ」

 リリアは岩壁を調べ始めた。

 苔。

 ひび割れ。

 そして、細い隙間。

 数分後。

「……アオ」

 リリアが小さく言った。

「……見つけた」

 俺は近づいた。

 彼女が指差したのは、岩壁の一角。

 そこには、人工的に削られたような線があった。

 自然にできたものとは思えない。

「……これは」

 俺は目を細めた。

「……人工物だな」

「うん」

 リリアは頷いた。

「たぶん、古い石造りの構造物が、岩に埋もれてる」

 俺は周囲を見渡した。

 確かに、よく見ると岩壁の一部が不自然に整っている。

 長い年月をかけて、土砂や植物に覆われたのだろう。

「……遺跡の一部か?」

「可能性はあるね」

 リリアは真剣な表情になった。

 そして、岩壁の隙間へ視線を向けた。

「……奥に空間があるかもしれない」

 俺は頷いた。

「調べてみよう」

 そう言って、岩壁へ近づいた。

 だが、その瞬間。

 リリアが俺の腕を掴んだ。

「……待って」

「……ん?」

 彼女の表情が、変わっていた。

 琥珀色の瞳が、鋭く細められている。

「……何か、変」

 俺は周囲を見渡した。

「……どういうことだ?」

 リリアは地面を指差した。

「ここ、見て」

 俺はしゃがみ込んだ。

 そこには、わずかな足跡が残っていた。

 先ほどまでの古い痕跡とは違う。

 土が、まだ湿っている。

 俺は目を細めた。

「……新しいな」

「うん」

 リリアは頷いた。

「たぶん、今日か昨日」

 俺は周囲を確認した。

 円の範囲内には、人間らしい気配はない。

 だが。

 誰かが、最近ここを通った。

 それは確かだった。

 リリアは、静かに羅針盤を取り出した。

「……使ってみる」

 俺は頷いた。

「頼む」

 彼女は地面へ指先を触れた。

 そして、オーラを流し込む。

 羅針盤の針が、ゆっくりと動き始めた。

 青白い光が、地面に浮かび上がる。

 足跡。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 それらは、岩壁の隙間へ向かって続いていた。

 リリアの目が、わずかに見開かれる。

「……反応した」

 俺は静かに頷いた。

「……追えるか?」

「うん」

 リリアは真剣な表情で答えた。

「この痕跡なら、追跡できる」

 彼女は羅針盤を見つめた。

 青白い針が、岩壁の奥を指している。

 俺は目を細めた。

(……三か月前の調査隊とは別の人間か?)

 もしそうなら。

 この渓谷には、最近まで人間が出入りしていることになる。

 そして、その人物は、遺跡の入口らしき場所へ向かっている。

 俺は静かに息を吐いた。

「……慎重に行こう」

「うん」

 リリアは頷いた。

 俺たちは、岩壁の隙間へ近づいた。

     ◇

 隙間は、人一人がようやく通れるほどの幅だった。

 奥は暗い。

 湿った空気が流れてくる。

 俺は円を少し絞り、感覚を集中させた。

 内部には、細い通路が続いている。

 そして、その先には。

(……広い空間があるな)

 俺はリリアへ視線を向けた。

「……中に空間がある」

「……わかった」

 リリアは頷いた。

「私が先に行くね」

 俺は少し考えた。

 だが、すぐに頷いた。

「……頼む」

 リリアは微笑んだ。

 そして、慎重に隙間へ入っていった。

 俺も後に続く。

 通路は狭く、足場も悪い。

 だが、リリアは迷わず進んでいた。

 彼女の羅針盤が、淡い光を放っている。

 その光は、地面に残された足跡を示していた。

 俺は周囲を警戒しながら歩く。

 やがて。

 通路の先に、広い空間が現れた。

「……これは」

 俺は思わず呟いた。

 そこには、巨大な地下空洞が広がっていた。

 天井は高く、岩壁には古い石造りの柱が並んでいる。

 床には、崩れた石材。

 壁には、見慣れない文字のようなもの。

 そして、奥には巨大な扉があった。

 明らかに、人工的な構造物だった。

「……遺跡だ」

 リリアが小さく言った。

 俺は頷いた。

「ああ」

 だが、驚くべきことは、それだけではなかった。

 地下空洞の中央。

 そこに、いくつもの足跡が残っていた。

 しかも。

 新しい。

 リリアは羅針盤を見つめた。

 青白い足跡が、複雑に交差している。

「……複数人いる」

 彼女が小さく言った。

 俺は目を細めた。

「……何人くらいだ?」

「まだわからない。でも、少なくとも三人以上」

 リリアは真剣な表情で周囲を見渡した。

 俺は円を広げた。

 半径五十メートル。

 周囲の気配が、感覚として伝わってくる。

 そして。

(……いた)

 奥の扉の向こう。

 円の範囲ぎりぎりに、人間らしい気配があった。

 一人。

 二人。

 そして。

 三人。

 俺は静かに息を吐いた。

「……リリア」

「……うん?」

「奥に、人がいる」

 リリアの表情が引き締まった。

「……何人?」

「三人」

 俺は答えた。

「ただし、敵か味方かはわからない」

 リリアは頷いた。

 そして、羅針盤を握り直した。

「……じゃあ、慎重に近づこう」

「ああ」

 俺たちは、足音を抑えて進み始めた。

 だが、そのとき。

 地下空洞の奥から、低い声が響いた。

「……誰だ」

 俺とリリアは、同時に足を止めた。

 暗闇の向こう。

 巨大な扉の前に、一人の男が立っていた。

 男は、こちらを見つめていた。

 その手には、古びた剣が握られている。

 そして。

 その身体から、明らかに異質なオーラが漂っていた。

(……念能力者か)

 俺は静かに構えた。

 リリアも短剣へ手を伸ばす。

 男は、低い声で言った。

「……ここへ来た理由を言え」

 俺は一歩前へ出た。

「……行方不明になった調査隊を探している」

 男の目が、わずかに細められた。

「……調査隊?」

「ああ」

 俺は答えた。

「三か月前に、この渓谷へ入った六人だ」

 男は、しばらく黙っていた。

 そして。

 ゆっくりと笑った。

「……そうか」

 その笑みには、どこか不気味なものがあった。

「……なら、ちょうどいい」

 俺は目を細めた。

「……どういう意味だ?」

 男は剣を持ち上げた。

 その刀身に、黒いオーラがまとわりつく。

 そして、静かに言った。

「……お前たちも、ここで消えてもらう」

 次の瞬間。

 男の姿が、消えた。

(――速い!)

 俺は反射的に踏み込んだ。

 リリアの前へ出る。

 黒い刃が、目の前へ迫る。

 俺は腕にオーラを集中させた。

 流。

 そして、硬。

 刃を受け止める。

 激しい衝撃が、地下空洞に響いた。

 石床が、わずかにひび割れる。

 俺は男を睨んだ。

「……いきなりかよ」

 男は笑った。

「……ほう」

 その目に、興味の色が浮かぶ。

「……面白い」

 俺は静かに息を吐いた。

 そして、構えを整えた。

(……なるほど)

 今回の依頼。

 どうやら、ただの遭難者捜索では終わりそうにない。

 俺は背後のリリアへ声をかけた。

「……リリア」

「……うん!」

「周囲の警戒を頼む」

 リリアは頷いた。

「任せて!」

 俺は男へ視線を戻した。

 相手のオーラは、明らかに普通ではない。

 だが。

 俺も、以前の俺ではない。

 心源流で積み重ねた修行。

 ネテロ会長との稽古。

 ビスケから叩き込まれた技術。

 そして、実戦経験。

 それらすべてが、今の俺を形作っている。

 俺は静かに笑った。

「……悪いけど」

 一歩、踏み込む。

「俺たちは、帰るつもりなんだ」

 男の笑みが、深くなった。

 地下遺跡の空気が、張り詰める。

 そして。

 二人のハンターにとって、初めての共同任務。

 その最初の戦いが、始まろうとしていた。

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総合評価:257/評価:8.33/連載:2話/更新日時:2026年08月13日(木) 00:00 小説情報


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