流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第三十六話 蒼い灯火と、消えた調査隊

一九八九年、春。

 

 霧哭きの渓谷、地下遺跡。

 

 人間が極度の恐怖を覚えたとき、その反応は必ずしも悲鳴や震えとして現れるわけではない。

 

 言葉が出なくなる者もいる。

 

 怒り出す者もいる。

 

 何もかも諦めたように、ただ一点を見つめ続ける者もいる。

 

 目の前にいる中年の男は、その最後の類いだった。

 

「……光の向こうへ、連れていかれたんだ」

 

 男は、かすれた声でそう繰り返した。

 

 薄暗い石室。

 

 壁際には、破れた毛布と空になった水筒が転がっている。

 

 その隣で、若い女性が膝を抱えて座っていた。

 

 二人とも頬がこけ、目の下には濃い隈ができている。

 

 三か月前に消息を絶った六人の調査隊。

 

 そのうち二人が、今、俺たちの目の前にいる。

 

 生存者を発見できた。

 

 それ自体は、喜ぶべきことだ。

 

 だが、問題は残りの四人だった。

 

「……落ち着いて聞いてください」

 

 俺は男の前にしゃがみ込んだ。

 

「俺たちは、あなたたちを救助するために来ました。まずは、何が起きたのか教えてほしいんです」

 

 男は俺を見た。

 

 十五歳の俺を見て、少し戸惑ったような表情を浮かべる。

 

 無理もない。

 

 身長こそ百八十三センチまで伸びたが、顔立ちにはまだ少年らしさが残っている。

 

 こんな場所で突然現れた少年に、命を預けろと言われても、すぐには信用できないだろう。

 

 俺はハンターライセンスを見せた。

 

「アオといいます。こちらはリリア。二人ともプロハンターです」

 

 リリアが静かに頷く。

 

「ミレーヌという秘境ハンターから依頼を受けて来ました」

 

 その名前を聞いた瞬間、男の目が動いた。

 

「……ミレーヌ?」

 

「ご存じですか?」

 

「ああ……」

 

 男は、震える息を吐いた。

 

「今回の調査計画について、事前に意見をもらったことがある。あの人が……捜索を?」

 

「はい」

 

 リリアが答えた。

 

「だから、諦めないでください」

 

 男はしばらく黙っていた。

 

 やがて、両手で顔を覆う。

 

「……そうか」

 

 指の隙間から、涙が落ちた。

 

「……本当に、助けが来たのか」

 

 俺は何も言わなかった。

 

 ただ、男が落ち着くのを待った。

 

     ◇

 

 最初に確認したのは、二人の健康状態だった。

 

 男性は右脚に深い傷を負っている。

 

 傷口はすでに応急処置を施したが、炎症があり、自力での長距離移動は難しい。

 

 女性の方は、重度の栄養不足と脱水。

 

 さらに、長期間の緊張による消耗が見られた。

 

 幸い、二人とも意識は明瞭だ。

 

 少量ずつ水と栄養を補給させれば、状態を改善できる可能性はある。

 

 だが。

 

(……この状態で渓谷を歩かせるのは、厳しいな)

 

 俺は男性の脚を見た。

 

 回復能力を使えば、治せる。

 

 骨折も、病気も、念による異常も。

 

 対象とする範囲を明確に意識すれば、完全に回復させることができる。

 

 使用回数は、今のところ三回残っている。

 

 ただし、この力は念能力ではない。

 

 会長とビスケ以外には、その詳細を明かしていない。

 

 リリアにもだ。

 

(……どうする)

 

 秘密を守ることは重要だ。

 

 だが、目の前の人間の命より優先するつもりはない。

 

 問題は、今すぐ能力を使わなければ助からない状態なのか、ということだった。

 

 俺はもう一度、二人を診察した。

 

 脈拍。

 

 呼吸。

 

 意識。

 

 外傷。

 

 男性の脚は動かさなければ急激に悪化する状態ではなさそうだ。

 

 女性も、水分補給を始めてから少しずつ顔色が戻ってきている。

 

 まずは、安全な場所への移動を優先できる。

 

「……リリア」

 

「うん?」

 

「二人を外へ運ぶ方法を考えたい。地形はどうだ?」

 

 リリアはすぐに羅針盤を取り出した。

 

 銀色の蓋を開く。

 

 内部には、青白い線が複雑に折れ曲がりながら刻まれていた。

 

『迷い人の足跡(ロスト・トレイル)』

 

 第二機能。

 

『帰還者の羅針盤(ホームワード・コンパス)』

 

 リリア自身が歩いた経路を記録する能力だ。

 

「ここまでの道は全部記録してあるよ」

 

「崩落の危険がある場所は?」

 

「二か所。入口から三キロくらいのところと、この遺跡に入る直前」

 

 リリアは羅針盤の表示を指で示した。

 

「でも、来るときに別の足場も確認してある。そっちを使えば、負傷者を連れていても通れると思う」

 

「なるほど」

 

 俺は頷いた。

 

「なら、移動そのものは何とかなりそうだな」

 

「うん。ただ……」

 

 リリアは石室の奥へ視線を向けた。

 

「問題は、あの光だよね」

 

 俺も同じ方向を見た。

 

 奥の通路。

 

 そこから、青白い光が漏れている。

 

 まるで、水の底から月を見上げているような、不思議な光だった。

 

     ◇

 

「……名前を聞いてもいいですか?」

 

 俺が尋ねると、中年の男はゆっくりと顔を上げた。

 

「……ダリオ・フェルンだ。地質学者をしている」

 

「私は、エマ・リードです」

 

 若い女性も、小さな声で名乗った。

 

「植物学の調査を担当していました」

 

 俺は資料と照合した。

 

 確かに、二人とも行方不明になった調査隊の名簿に載っている。

 

「ダリオさん。エマさん。ここまでの経緯を教えてください」

 

 ダリオは、しばらく考えてから口を開いた。

 

「……最初は、順調だった」

 

 調査隊は三か月前、渓谷へ入った。

 

 目的は、古い遺跡の位置を確認し、周辺の地質や植物相を調査すること。

 

 最初の数日は、特に問題はなかったらしい。

 

 だが、渓谷の奥へ進むにつれて、奇妙な現象が起き始めた。

 

「……同じ場所へ戻ってくるんだ」

 

「同じ場所?」

 

 リリアが尋ねた。

 

「ああ。地図と方位磁針を使って進んでいるはずなのに、気づくと見覚えのある岩場へ戻っていた」

 

 俺は眉をひそめた。

 

「地形を見間違えた可能性は?」

 

「最初はそう考えた。だが、測量技師が何度確認しても、方位が合わなかった」

 

 ダリオは、震える手で水筒を握った。

 

「それから、夜になると光が見えるようになった」

 

 青白い光。

 

 谷の奥で、ゆっくりと揺れる光。

 

 調査隊は、その光を追って遺跡を発見した。

 

「……あれは、普通の光じゃない」

 

 ダリオは言った。

 

「見ていると、頭の中に誰かの声が響くんだ」

 

 俺は目を細めた。

 

「……声?」

 

「ああ」

 

 ダリオは唇を噛んだ。

 

「最初は、風の音だと思った。だが、違った」

 

 彼は顔を上げた。

 

「……名前を呼ばれるんだよ」

 

 石室が静まり返った。

 

 リリアの表情が引き締まる。

 

「……誰の声で?」

 

 ダリオは、しばらく答えなかった。

 

 そして。

 

「……死んだ妻の声だった」

 

 そう呟いた。

 

     ◇

 

 俺は、無意識に呼吸を浅くしていた。

 

 死者の声。

 

 人間の名前を呼ぶ光。

 

 そして、道に迷わせる渓谷。

 

 ただの自然現象とは考えにくい。

 

(……念能力か)

 

 可能性は十分にある。

 

 操作系。

 

 具現化系。

 

 あるいは、複数の系統を組み合わせた能力。

 

 ただし、現時点では断定できない。

 

 念による現象に似ていても、未知の生物や特殊な環境が原因である可能性は残っている。

 

「……その声を聞いたあと、どうなったんですか?」

 

 俺が尋ねると、ダリオは目を伏せた。

 

「最初に消えたのは、案内人の一人だった」

 

 夜間の見張りをしていた男が、突然、青白い光の方へ歩き始めた。

 

 仲間が呼び止めても、反応しない。

 

 まるで夢遊病者のように、ゆっくりと進んでいった。

 

 そして、遺跡の奥へ入ったきり戻ってこなかった。

 

「……そのあと、もう一人」

 

 ダリオの声が震えた。

 

「今度は測量技師だった。彼は、自分の母親が呼んでいると言っていた」

 

 リリアが小さく息を呑んだ。

 

「……二人とも、同じ方向へ?」

 

「ああ」

 

 ダリオは頷いた。

 

「残った四人で探したが、見つからなかった」

 

 その後、調査隊は遺跡から脱出しようとした。

 

 だが、入口へ向かっているはずなのに、何度も同じ通路へ戻ってしまった。

 

 食料は減り続けた。

 

 水も尽きかけた。

 

 そして、さらに二人が消えた。

 

「……最後に残ったのが、私たちだ」

 

 ダリオは、隣に座るエマを見た。

 

 エマは膝を抱えたまま、うつむいていた。

 

「……私も、聞こえました」

 

 彼女が小さく言った。

 

 俺は顔を向けた。

 

「……何が?」

 

「……弟の声です」

 

 エマの指先が震えた。

 

「弟は、三年前に亡くなりました。でも……ここでは、何度も私を呼ぶんです」

 

 彼女は唇を噛んだ。

 

「……会いたいって、思ってしまったんです」

 

 俺は何も言わなかった。

 

 エマは続けた。

 

「でも、ダリオさんが止めてくれました」

 

 ダリオは、苦しそうに目を閉じた。

 

「……あれが本当に妻なら、俺をこんな場所へ呼ぶはずがない」

 

 その言葉には、深い悲しみがあった。

 

 俺は静かに頷いた。

 

「……そうですね」

 

     ◇

 

 事情を聞き終えたあと、俺とリリアは石室の入口付近へ移動した。

 

 生存者たちには休んでもらっている。

 

 俺は壁に背を預け、腕を組んだ。

 

「……どう思う?」

 

 リリアに尋ねる。

 

 彼女は少し考えた。

 

「……人を誘導する何かがあるんだと思う」

 

「俺もそう考えてる」

 

「でも、気になることがあるの」

 

「何だ?」

 

 リリアは羅針盤を開いた。

 

 その針は、ゆっくりと揺れていた。

 

「この遺跡に入ってから、帰還経路の表示が少し不安定なんだ」

 

 俺は目を細めた。

 

「……能力に干渉されている?」

 

「まだわからない」

 

 リリアは首を振った。

 

「ただ、記録した道そのものは消えてないの。問題は、方角を示す針の方」

 

 俺は考えた。

 

 リリアの能力は、実際に歩いた経路を記録する。

 

 単なる方位磁針ではない。

 

 それなのに、針が揺れる。

 

(……空間そのものに異常があるのか。それとも、感覚を狂わせる何かがあるのか)

 

 俺は周囲へ円を広げた。

 

 半径五十メートル。

 

 石壁。

 

 通路。

 

 生存者二人。

 

 そして、拘束している男の気配。

 

 今のところ、異常はない。

 

 だが。

 

(……妙だ)

 

 奥の通路。

 

 青白い光が漏れている方向。

 

 そこだけ、感覚が薄い。

 

 円の範囲内にあるはずなのに、奥行きがはっきりしない。

 

 まるで、薄い布を何枚も重ねた向こう側を探っているようだった。

 

「……リリア」

 

「うん?」

 

「奥の通路、何かおかしい」

 

 彼女は顔を上げた。

 

「……アオの円でも?」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「ただの壁なら、こんな感覚にはならない」

 

 リリアはしばらく考えた。

 

 そして、静かに言った。

 

「……なら、まずは帰り道を確保しよう」

 

 俺は彼女を見た。

 

「……そうだな」

 

 目の前の謎を追いたい気持ちはある。

 

 だが、俺たちの目的は調査隊の救助だ。

 

 未知の現象へ無計画に踏み込むのは、ハンターとして正しい判断ではない。

 

 俺は頷いた。

 

「まずは二人を外へ出す。そのあとで、残りの四人を探そう」

 

 リリアは、ほっとしたように笑った。

 

「うん」

 

     ◇

 

 問題は、拘束した男だった。

 

 石扉の前へ戻ると、男は相変わらず石柱のそばに座っていた。

 

 俺たちの姿を見るなり、顔をしかめる。

 

「……戻ってきやがったか」

 

「残念だったな」

 

 俺は肩をすくめた。

 

「まだ生きてるよ」

 

「……ちっ」

 

 男は舌打ちした。

 

 俺は、その前へしゃがみ込んだ。

 

「……名前を聞いてなかったな」

 

「……何だよ、今さら」

 

「呼び方がないと不便だろ」

 

 男はしばらく黙っていた。

 

 そして、渋々答えた。

 

「……ガイゼルだ」

 

「ガイゼル。お前は、どうしてここにいる?」

 

 男は顔を背けた。

 

「……仕事だ」

 

「誰の?」

 

「……言えねえ」

 

 俺は頷いた。

 

「なら、別の質問だ」

 

 男がこちらを見る。

 

「三か月前の調査隊が消えたことを、知っていたんだな?」

 

 ガイゼルは黙っていた。

 

「それなのに、俺たちを殺そうとした」

 

「……ここへ来る奴は、みんな邪魔なんだよ」

 

 俺は目を細めた。

 

「……何の邪魔だ?」

 

 ガイゼルは、唇を噛んだ。

 

 そして。

 

「……知らねえ方がいい」

 

 低い声で言った。

 

「ここには、関わるな」

 

 俺はしばらく男を見つめた。

 

 恐怖。

 

 焦り。

 

 そして、何かを隠そうとする意志。

 

 この男は、ただの遺跡荒らしではなさそうだ。

 

「……わかった」

 

 俺は立ち上がった。

 

 ガイゼルが怪訝そうな顔をする。

 

「……何がだ?」

 

「今は無理に聞かない」

 

 俺は答えた。

 

「ただし、お前には同行してもらう」

 

「……は?」

 

「ここへ置いていくわけにはいかないからな」

 

 男の顔が引きつった。

 

「……おい、待て!」

 

 俺は構わず、拘束具を確認した。

 

 そして、リリアへ視線を向ける。

 

「……行こう」

 

「うん」

 

     ◇

 

 救助の準備には、思ったより時間がかかった。

 

 ダリオの脚は、まともに体重をかけられる状態ではない。

 

 エマも、自力で歩ける距離は限られている。

 

 ガイゼルは拘束したまま連れていく必要がある。

 

 つまり。

 

(……俺が二人を運ぶのが一番早いな)

 

 俺は、ダリオへ声をかけた。

 

「……少し揺れるかもしれませんが、俺が運びます」

 

 ダリオは驚いた。

 

「……君が?」

 

「はい」

 

「だが、私は軽くないぞ」

 

 俺は苦笑した。

 

「大丈夫です」

 

 そして、彼を背負った。

 

 ダリオが目を丸くする。

 

「……おお?」

 

 俺は立ち上がった。

 

 重さは、ほとんど気にならない。

 

 この程度なら、念を使わなくても十分に運べる。

 

 だが、無理な動きをすれば傷に響く。

 

 そこだけは注意する必要がある。

 

 エマは、リリアが支えることになった。

 

 ガイゼルは、俺が短い拘束用ロープで管理する。

 

 もちろん、念能力を使おうとする兆候があれば、すぐに対処するつもりだ。

 

「……準備できた?」

 

 リリアが尋ねた。

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「先導を頼む」

 

「任せて」

 

 リリアは銀色の羅針盤を開いた。

 

 青白い針が、ゆっくりと動く。

 

 そして。

 

「……こっち」

 

 彼女は、俺たちが入ってきた通路を指差した。

 

 俺は頷いた。

 

「……行こう」

 

     ◇

 

 遺跡からの脱出は、予想以上に難しかった。

 

 原因は、地形ではない。

 

 道そのものだった。

 

 最初の異変が起きたのは、石扉を抜けて十分ほど進んだころ。

 

「……止まって」

 

 リリアが小さく言った。

 

 俺は足を止めた。

 

「……どうした?」

 

 彼女は羅針盤を見つめていた。

 

「……おかしい」

 

 俺は周囲を見渡した。

 

 古い石柱。

 

 崩れた壁。

 

 そして、湿った石床。

 

 どこか見覚えがある。

 

(……まさか)

 

 俺は、右手の石柱を見た。

 

 そこには、先ほどの戦闘でついたひび割れがあった。

 

「……戻ってきた?」

 

 リリアが呟く。

 

 俺は静かに頷いた。

 

「ああ」

 

 間違いない。

 

 俺たちは、先ほど戦った地下空洞へ戻ってきていた。

 

 だが。

 

(……おかしい)

 

 来た道を引き返したはずだ。

 

 途中で分岐もなかった。

 

 少なくとも、俺の記憶では。

 

 リリアは羅針盤を握り直した。

 

「……記録は合ってる」

 

「本当か?」

 

「うん。私が歩いた道筋は、ちゃんと残ってる」

 

 彼女は真剣な表情で続けた。

 

「でも、進んでいる方向と、実際に戻ってきた場所が一致しない」

 

 俺は目を細めた。

 

(……なるほど)

 

 単なる迷路ではない。

 

 何かが、俺たちの認識を狂わせている。

 

 あるいは。

 

(……空間のつながり自体が変わっている?)

 

 俺は円を広げた。

 

 周囲の石壁。

 

 通路。

 

 人間の気配。

 

 すべてが、正常に感じられる。

 

 だが、その先。

 

 円の端に近い場所だけ、わずかな違和感があった。

 

 俺はリリアへ声をかけた。

 

「……もう一度、試そう」

 

 リリアは頷いた。

 

「うん」

 

「今度は、俺が円で通路を確認する。リリアは経路の記録を見てくれ」

 

「わかった」

 

 俺たちは、再び歩き始めた。

 

     ◇

 

 二度目の試行。

 

 俺は、通路の構造を細かく確認した。

 

 壁の凹凸。

 

 床のひび割れ。

 

 天井の高さ。

 

 そして、円で感知できる範囲。

 

 リリアは羅針盤を見ながら、正しい帰還経路を示している。

 

 最初の曲がり角。

 

 問題なし。

 

 二つ目の分岐。

 

 問題なし。

 

 三つ目の通路。

 

 ここで。

 

(……ん?)

 

 俺は足を止めた。

 

「……リリア」

 

「どうしたの?」

 

「この先、何か変だ」

 

 俺は右手の壁を指差した。

 

 そこには、古い石の模様が刻まれている。

 

 だが、その模様の位置が、先ほど見たものと微妙に違っていた。

 

「……壁が動いた?」

 

 リリアが呟く。

 

「可能性はある」

 

 俺は頷いた。

 

 だが、単純な仕掛けでは説明できない。

 

 円で確認した限り、壁そのものが動いた気配はなかった。

 

 つまり。

 

(……俺たちの認識がずれているのか)

 

 俺は目を細めた。

 

 念能力。

 

 幻覚。

 

 あるいは、特殊な生物の影響。

 

 どれにしても、厄介だ。

 

 俺は少し考えた。

 

 そして、リリアへ言った。

 

「……一度、止まろう」

 

「うん」

 

 俺はダリオを安全な場所へ下ろした。

 

 そして、周囲を確認する。

 

 ガイゼルは、青ざめた顔で黙っていた。

 

 俺は男へ視線を向けた。

 

「……知ってるんだろ?」

 

 ガイゼルは答えなかった。

 

 だが、その表情がすべてを物語っていた。

 

     ◇

 

「……ここは、戻れねえんだよ」

 

 ガイゼルが、ぽつりと言った。

 

 俺は目を細めた。

 

「……どういう意味だ?」

 

「……奥へ入ったら、普通には出られねえ」

 

 男は震える声で続けた。

 

「道が、勝手に変わるんだ」

 

 俺は黙って聞いた。

 

「……最初は、俺も信じなかった」

 

 ガイゼルは、扉の奥を見た。

 

「だが、何度も見た。人間が同じ場所をぐるぐる回って、最後には光の方へ歩いていくのを」

 

 リリアの表情が変わった。

 

「……じゃあ、どうやってあなたは出入りしてたの?」

 

 ガイゼルは唇を噛んだ。

 

 そして、しばらくしてから答えた。

 

「……札だ」

 

 俺は、男から取り上げた金属札を見た。

 

「……これか?」

 

 ガイゼルは頷いた。

 

「……それを持ってる奴だけが、正しい道を通れる」

 

 俺は目を細めた。

 

(……なるほど)

 

 この札は、単なる鍵ではない。

 

 遺跡の仕掛けに対する、何らかの通行証なのかもしれない。

 

 俺は札を観察した。

 

 古い金属。

 

 三本の線が交差する紋章。

 

 中央の小さな円。

 

 そして、周囲に刻まれた文字。

 

 何らかの念が込められている可能性もある。

 

 俺は凝を使った。

 

 目にオーラを集中させる。

 

 すると。

 

「……っ」

 

 札の表面に、薄いオーラが見えた。

 

 しかも、そのオーラは一定の方向へ流れている。

 

(……やっぱりか)

 

 俺はリリアを見た。

 

「……これ、念が込められてる」

 

「……本当?」

 

「ああ」

 

 リリアは羅針盤を見つめた。

 

 そして、少し考えた。

 

「……もしかして」

 

 彼女は顔を上げた。

 

「その札を使えば、私の羅針盤も安定するかもしれない」

 

 俺は頷いた。

 

「……試してみよう」

 

     ◇

 

 金属札を手に持った状態で、再び歩き始めた。

 

 すると。

 

 変化は、すぐに現れた。

 

「……あっ」

 

 リリアが小さく声を上げた。

 

「……針が」

 

 俺は羅針盤を見た。

 

 先ほどまで不安定に揺れていた青白い針が、一定の方向を指し示している。

 

「……安定した?」

 

「うん!」

 

 リリアは頷いた。

 

「記録した道筋と、針の方向が一致してる!」

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

(……なるほど)

 

 この札は、遺跡の異常な影響を抑えるための道具なのかもしれない。

 

 あるいは、札を持つ者だけが正しい通路を認識できるようになっているのか。

 

 いずれにしても。

 

 脱出の手掛かりは見つかった。

 

「……よし」

 

 俺は頷いた。

 

「このまま進もう」

 

「うん!」

 

 リリアは嬉しそうに笑った。

 

 そして、再び先頭を歩き始めた。

 

     ◇

 

 それから、一時間ほど。

 

 俺たちは、ようやく地下遺跡の入口へ戻ることができた。

 

 外から差し込む自然光が、ひどく眩しく感じられる。

 

 ダリオが、俺の背中で小さく息を吐いた。

 

「……外だ」

 

 エマも、涙を浮かべていた。

 

「……本当に、出られた……」

 

 リリアは、ほっとしたように笑った。

 

「……よかった」

 

 俺も静かに頷いた。

 

「ああ」

 

 だが、まだ終わりではない。

 

 ここから渓谷を抜け、山間の集落まで戻る必要がある。

 

 俺は周囲を確認した。

 

 霧は、相変わらず濃い。

 

 だが、空気は地下よりずっと新鮮だった。

 

 俺はリリアへ声をかけた。

 

「……帰還経路は?」

 

「問題ないよ」

 

 彼女は羅針盤を見せた。

 

「ここから先は、ちゃんと記録どおりに戻れると思う」

 

「……頼む」

 

「任せて!」

 

 俺は頷いた。

 

 そして、再び歩き始めた。

 

     ◇

 

 日が傾き始めたころ。

 

 俺たちは、渓谷の入口から数キロ離れた、比較的安全な岩場へ到着した。

 

 周囲には大きな獣の気配もなく、見通しもよい。

 

 ここなら、一晩休むことができそうだった。

 

 俺はダリオを下ろし、簡易的な寝床を整えた。

 

 リリアはエマの世話をしている。

 

 ガイゼルは、引き続き拘束したまま。

 

 俺は少し離れた場所で、周囲を警戒していた。

 

 夕陽が、山の向こうへ沈みかけている。

 

 空は赤く染まり、渓谷の霧が淡い金色に輝いていた。

 

 その光景を見ながら、俺は考えた。

 

(……残りの四人)

 

 まだ、見つかっていない。

 

 生きているのか。

 

 それとも、すでに命を落としているのか。

 

 わからない。

 

 だが、あの遺跡には何かがある。

 

 人間を誘う光。

 

 道を狂わせる仕掛け。

 

 そして、念を帯びた金属札。

 

 さらに、ガイゼルのような念能力者が番人として配置されている。

 

(……誰かが、意図的に管理している)

 

 そう考えるのが自然だった。

 

 ならば。

 

 その目的は何なのか。

 

 調査隊は、何を見つけてしまったのか。

 

 俺は、腰のポーチに入れた金属札へ手を触れた。

 

 冷たい感触。

 

 小さな紋章。

 

 そして、微かなオーラ。

 

(……面倒なことになりそうだな)

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 そのとき。

 

「……アオ」

 

 背後から声がした。

 

 振り向くと、リリアが立っていた。

 

「……どうした?」

 

「ちょっと、いい?」

 

「ああ」

 

 彼女は俺の隣へ歩いてきた。

 

 そして、しばらく夕陽を眺めていた。

 

「……今日は、ありがとう」

 

 俺は首を傾げた。

 

「……何が?」

 

「いろいろ」

 

 リリアは少し笑った。

 

「戦ってくれたことも、二人を運んでくれたことも」

 

 俺は苦笑した。

 

「それは、俺の仕事だろ」

 

「……そうだけど」

 

 彼女は、少しだけ俯いた。

 

「……アオと一緒に来て、よかった」

 

 俺は彼女を見た。

 

 夕陽に照らされた横顔。

 

 明るい栗色の髪。

 

 琥珀色の瞳。

 

 その表情には、疲れと安堵が混じっていた。

 

 俺は小さく笑った。

 

「……俺もだよ」

 

 リリアが顔を上げた。

 

「……本当?」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「リリアがいなかったら、遺跡から出るのにもっと苦労してた」

 

 彼女は少し驚いたような顔をした。

 

 そして、嬉しそうに笑った。

 

「……そっか」

 

 俺は続けた。

 

「それに、調査隊の二人も見つけられた」

 

「……うん」

 

 リリアは頷いた。

 

 しばらく、二人は黙って夕陽を眺めた。

 

 やがて。

 

「……ねえ、アオ」

 

「ん?」

 

「残りの四人も、探すんだよね?」

 

 俺は頷いた。

 

「ああ」

 

 リリアは少しだけ目を細めた。

 

「……私も、一緒に行く」

 

 俺は彼女を見た。

 

「……危険だぞ」

 

「わかってる」

 

 リリアは、迷わず答えた。

 

「でも、私もハンターだから」

 

 その言葉には、強い意志があった。

 

 俺は、少しだけ笑った。

 

「……そうだな」

 

 そして、頷いた。

 

「一緒に行こう」

 

 リリアの顔が明るくなった。

 

「……うん!」

 

     ◇

 

 その夜。

 

 野営地には、小さな焚き火が灯っていた。

 

 ダリオとエマは、毛布に包まれて休んでいる。

 

 ガイゼルは、少し離れた場所で拘束されたまま座っていた。

 

 俺は火のそばで、金属札を眺めていた。

 

 三本の線。

 

 中央の円。

 

 そして、古い文字。

 

 凝で確認すると、やはり微かなオーラが見える。

 

(……これが鍵か)

 

 俺は札を裏返した。

 

 すると。

 

 裏面に、小さな刻印があることに気づいた。

 

 数字。

 

 そして、文字。

 

 それは、古い文字ではなかった。

 

 現代の文字だ。

 

 俺は目を細めた。

 

「……管理番号?」

 

 刻印には、こう書かれていた。

 

『第七観測区・通行許可証』

 

 俺は、しばらくその文字を見つめた。

 

(……第七観測区?)

 

 つまり。

 

 あの遺跡は、単なる古代遺跡ではない。

 

 誰かが、現在進行形で管理している施設なのかもしれない。

 

 しかも。

 

 第七。

 

 ということは。

 

(……少なくとも、他にも観測区がある?)

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 そして、焚き火の向こうで眠るリリアを見た。

 

 彼女は毛布に包まり、静かな寝息を立てている。

 

 そのそばには、銀色の羅針盤が置かれていた。

 

 迷い人の足跡。

 

 帰還者の羅針盤。

 

 誰かを見失わないための能力。

 

 そして、必ず帰るための力。

 

 俺は小さく笑った。

 

(……頼りになるな)

 

 だが、同時に思う。

 

 今回の依頼は、まだ終わっていない。

 

 残りの四人。

 

 青白い光。

 

 そして、第七観測区。

 

 すべての謎は、まだ遺跡の奥に残されている。

 

 俺は金属札を握りしめた。

 

「……次は、もう少し準備してからだな」

 

 焚き火が、静かに揺れた。

 

 夜の渓谷から、冷たい風が吹いてくる。

 

 その風に混じって。

 

 遠くから、かすかな音が聞こえた。

 

 まるで。

 

 誰かが、泣いているような。

 

 俺は顔を上げた。

 

 暗闇の向こう。

 

 霧に包まれた渓谷の奥で。

 

 一瞬だけ。

 

 青白い光が、揺れた。

 

 俺は目を細めた。

 

(……待ってろ)

 

 まだ、終わっていない。

 

 必ず、真相を突き止める。

 

 そして。

 

 帰れる者は、全員連れて帰る。

 

 俺は静かに、そう決意した。

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