流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
第七観測区。
人間を相手に拳を振るうとき、俺が最初に考えることは二つある。
相手がどれほど強いか。
そして、どこまで傷つけていいか。
前者は、戦ってみなければわからないことも多い。
念能力者ならなおさらだ。見た目やオーラの量だけで実力を判断すれば、思わぬところで足をすくわれる。
だが、後者は違う。
こちらが何を目的として戦うのか。それによって、選ぶべき手段は大きく変わる。
殺すつもりなら、急所を狙えばいい。
相手の反撃を許さず、最短で戦闘能力を奪う。そのために武器を使うことも、遠距離から攻撃することも躊躇わない。
だが、生かして捕らえるとなれば、話は少し複雑になる。
人体は頑丈なようで脆い。
顎を打てば脳が揺れる。首を絞めれば意識を失う。関節を極めれば動きを封じられるが、加減を誤れば靱帯や骨を壊してしまう。
まして、俺の身体能力は普通ではない。
念を使わずとも、一般人を相手に全力で殴れば取り返しのつかないことになる。
だから、力の調整が必要だった。
相手の状態を見極め、動きを制限し、必要なだけの力を使う。
言葉にすれば簡単だ。
だが、実戦ではそれが難しい。
特に――。
「……あの人、苦しそう」
隣でリリアが呟いた。
俺は正面を見据えた。
青白い光に満たされた地下施設。
中央の巨大な装置から伸びる無数の管。
その周囲に並ぶ透明な容器の一つが開き、中から痩せた男が現れていた。
年齢は三十代半ばほど。
長い間まともな食事を与えられていなかったのか、頬はこけ、肋骨が浮き出ている。
皮膚には無数の針痕。
腕と背中には細い管が接続されたままだった。
そして、何より異様なのは、その瞳だった。
瞳孔の奥に、青白い光が揺れている。
男は濡れた床に裸足で立ち、ゆっくりと俺たちへ顔を向けた。
口が開く。
「……あ……」
掠れた声。
言葉にならない吐息。
男の喉が、不自然に震えた。
次の瞬間。
『補助実験体、起動完了』
頭の中へ、無機質な声が響いた。
『対象一の拘束を開始』
男の身体が跳ねた。
背中が反り、腕が不自然な角度へ持ち上がる。
そして。
床を蹴った。
――速い。
俺は反射的に半歩前へ出た。
「リリア、下がれ!」
「うん!」
男が一直線に突っ込んでくる。
拳を振り上げる。
その拳には、濃いオーラが集まっていた。
(……強化系の応用か?)
俺は正面から受けず、身体を捻った。
拳が肩口をかすめる。
風圧が外套を揺らした。
続く左拳。
俺は前腕で軌道を逸らし、男の懐へ入った。
右手で手首を掴む。
左手を肘へ添える。
そのまま重心を崩し、床へ倒そうとした。
だが。
「……っ!」
男の身体が、奇妙な方向へ動いた。
普通なら関節が耐えられない角度。
腕を掴まれたまま、胴体だけが強引に回転する。
骨が軋む音がした。
(……おいおい)
俺は即座に手を離した。
直後、男の踵が俺の側頭部を通過した。
もし拘束を続けていれば、相手の腕が壊れていただろう。
俺は距離を取った。
男は床へ着地する。
右肘が、不自然に腫れていた。
それでも、痛がる様子がない。
いや。
違う。
男の顔は、苦痛に歪んでいた。
ただ、身体が止まらないのだ。
(……痛覚を消しているわけじゃない)
俺は目を細めた。
(痛みを感じていても、動作を強制されている)
厄介な相手だった。
単に力を抑えて殴れば済む話ではない。
この男自身が、自分の身体を壊しながら戦っている。
ならば、こちらがどれだけ手加減しても、相手の負傷を防げるとは限らない。
「……先生!」
リリアが声を上げた。
「この人、操られています!」
ミレーヌさんが頷く。
「ええ。しかも、かなり強い強制力ね」
俺は男から目を離さずに尋ねた。
「操作系ですか?」
「可能性は高いわ。ただし、装置による補助があるかもしれない」
その言葉を聞き、俺は男の背中を見た。
細い管。
金属製の接続具。
そして、肩甲骨の間に埋め込まれた小さな円盤。
そこから、青白いオーラが脈打っている。
(……あれか)
まずは仕組みを調べる。
殺さずに止める方法は、その先だ。
◇
男が再び突進してきた。
今度は、拳ではない。
右足を大きく踏み込み、両腕を広げる。
組みつくつもりらしい。
俺は足を引き、半身になった。
男の右手が外套を掴もうとする。
その手首へ、左手を添える。
相手の力を利用して身体を回し、背後へ抜ける。
男の重心が前へ流れた。
俺はその背中を押し、転倒させようとした。
だが、男は床へ両手をつき、そのまま身体を反転させた。
人間離れした柔軟性。
いや、関節の可動域を無視した動きだった。
男の右肩から、鈍い音がした。
「ぐ……あっ!」
初めて、はっきりとした悲鳴が漏れた。
俺は眉をひそめた。
(……これ以上、動かさせるわけにはいかない)
俺は一歩踏み込んだ。
男の攻撃をかわし、懐へ入る。
右の掌底。
狙いは顎ではない。
胸骨の上部。
呼吸を乱し、姿勢を崩す程度に力を調整する。
衝撃が伝わった。
男の身体が後方へ揺れる。
俺はすぐに追撃した。
左手で肩を押さえる。
右足を相手の足の外側へかける。
重心を崩し、そのまま床へ倒した。
今度は、関節を極めない。
男の背中が床へ落ちる瞬間、俺は衝撃を和らげながら身体を押さえ込んだ。
胸部への圧迫を避け、肩と腰を制御する。
「……動くな」
男は激しく抵抗した。
だが、俺の体重移動に合わせて押さえ込まれ、起き上がれない。
それでも、筋肉が異常なほど収縮している。
歯を食いしばり、全身を震わせていた。
(……駄目だ)
このままでは、筋肉や腱を損傷する。
俺は男の背中へ視線を向けた。
肩甲骨の間にある円盤。
そこから、細いオーラの流れが首筋へ伸びている。
さらに、その流れは床の配線を通じて中央装置へつながっているように見えた。
(……操作の中継点か)
俺は凝を強めた。
円盤から伸びるオーラは、男自身のものと微妙に性質が違う。
本人のオーラに、外部から別のオーラが混ざり込んでいる。
しかも、身体の動きに合わせて脈動していた。
俺は口を開いた。
「ミレーヌさん!」
「何?」
「背中の円盤です! あそこから操作用らしいオーラが流れています!」
ミレーヌさんの視線が鋭くなった。
「……見えたわ」
彼女はすぐにリリアへ指示を出した。
「リリア、装置へつながる管を確認して!」
「はい!」
リリアが動き出す。
その瞬間。
男の身体が、突然大きく跳ねた。
「……っ!」
俺は押さえ込みを維持した。
だが、男の筋肉がさらに膨張する。
オーラの量が増えた。
強制的に練を行わせているようだった。
(……これ以上は危険だな)
俺は押さえ込む力を少し緩めた。
男の身体が浮き上がる。
その勢いを利用し、俺は横へ転がった。
直後。
男の両腕が床へ叩きつけられた。
石材が砕ける。
血が飛び散った。
男の拳の皮膚が裂けている。
それでも、動きは止まらなかった。
俺は歯を食いしばった。
(……ふざけた真似を)
こんなものは戦闘ではない。
人間を武器として使い潰しているだけだ。
俺は静かに息を吐いた。
怒りはある。
だが、今ここで感情に任せて拳を振るえば、目の前の男を傷つけるだけだ。
必要なのは、冷静な判断だった。
◇
「……アオ!」
リリアの声が響いた。
俺は男の攻撃をかわしながら、視線だけを向けた。
「どうした!」
「背中の装置、直接中央につながってるわけじゃない!」
リリアは壁際の配線を指差した。
「一度、あそこの制御盤を通ってる!」
俺は目を細めた。
施設の左側。
金属製の箱が壁へ埋め込まれている。
そこから複数の管が伸び、透明な容器へ接続されていた。
「……なるほど」
俺は男の拳を受け流した。
右足を軸に身体を回し、背後へ抜ける。
男が追ってくる。
俺は制御盤の位置を確認した。
(……壊せば止まるか?)
だが、単純に破壊するのは危険だ。
装置が生命維持に関わっている可能性もある。
周囲には、まだ多数の人間が容器へ収容されている。
操作系の念能力者を相手にするとき、術者を倒せば能力が解除されるとは限らない。
死後の念という例もある。
まして、今回のように機械装置と組み合わされているなら、仕組みを理解しないまま破壊するのは避けたい。
「ミレーヌさん!」
「わかっているわ!」
彼女は制御盤へ近づき、表面を調べ始めた。
俺は男を引きつけるため、反対側へ移動した。
男が追ってくる。
その動きは、ますます荒くなっていた。
拳。
蹴り。
組みつき。
すべてが大振りで、技術的には粗い。
だが、筋力とオーラの出力が異常に高い。
そして、身体の損傷を無視して動き続ける。
(……長引かせるほど危険だ)
俺は男の攻撃をかわし、右手で襟元を掴んだ。
足を払う。
相手の重心を崩す。
今度は床へ倒さず、身体を回転させて壁際へ誘導した。
男が壁へ手をつく。
俺はその背後へ回り込み、両肩を押さえた。
無理に関節を曲げない。
首も絞めない。
ただ、身体の中心線を制御し、踏み込みを封じる。
男が暴れる。
俺はその動きに合わせて重心を移動させた。
(……もう少しだ)
そのとき。
「アオ!」
ミレーヌさんの声が響いた。
「制御盤に、個別停止の機構があるわ!」
俺は顔を上げた。
「操作できますか!」
「試してみる!」
彼女は制御盤の蓋を開き、内部を調べていた。
リリアが隣で照明を当てている。
俺は男の動きを抑え続けた。
男の呼吸は荒い。
心拍も速い。
筋肉の震えが、手のひらを通じて伝わってくる。
限界が近い。
「……急いでください!」
「ええ!」
ミレーヌさんが、制御盤の内部へ手を伸ばした。
金属製の切り替え器。
複数の配線。
そして、青白く光る小さな結晶。
彼女は凝で確認し、慎重に一つの切り替え器を動かした。
カチリ。
小さな音。
その直後。
男の身体が、大きく震えた。
「……ぐ、ああっ!」
俺は身構えた。
だが、次の瞬間。
男の全身から、異様なオーラが急速に薄れていった。
肩甲骨の円盤から伸びていた光も消える。
男の身体から力が抜けた。
「……っ!」
俺は倒れ込む身体を支えた。
膝をつき、ゆっくりと床へ寝かせる。
呼吸を確認する。
脈拍。
意識。
瞳孔。
男は、かすかに息をしていた。
俺は静かに息を吐いた。
(……止まった)
少なくとも、強制的な戦闘行動は停止した。
◇
「……アオ、大丈夫?」
リリアが駆け寄ってきた。
「ああ。俺は問題ない」
俺は答えた。
「それより、この人だ」
男は意識を失っていた。
右拳の皮膚は裂け、肘と肩にも損傷がある。
身体全体が衰弱しているうえ、無理やり引き出されたオーラによって、相当な負担がかかっているはずだった。
俺は男の呼吸を確認しながら、考えた。
(……回復能力を使えば、すぐに治せる)
昨夜は十分に眠っている。
使用回数は三回に戻っていた。
だが、今ここで使うべきか。
周囲には、まだ多数の被害者がいる。
そして、施設の奥には未知の敵が残っている。
この男一人に使えば、残りは二回。
今後、さらに重傷者が出る可能性もある。
俺は男の状態を慎重に確認した。
呼吸は安定している。
出血はあるが、致命的ではない。
意識は戻っていないものの、脈拍は徐々に落ち着き始めていた。
(……今すぐ使う必要はない)
俺はアイテムボックスから医療用品を取り出そうとして、手を止めた。
リリアとミレーヌさんが見ている。
秘密にする必要があるかどうかは、別として。
今は、普通に持ってきた鞄の中に必要なものがある。
俺は鞄を開き、包帯と消毒用品を取り出した。
「リリア、手伝ってくれ」
「うん!」
彼女はすぐに膝をついた。
俺たちは男の傷を処置し、身体を冷やさないように毛布をかけた。
ミレーヌさんは、制御盤を確認している。
「……どうやら、個別に停止できるようね」
俺は顔を上げた。
「他の容器もですか?」
「ええ。ただし、同じ操作で安全に解放できるかどうかは、まだわからないわ」
俺は頷いた。
当然だ。
透明な容器の中には、液体に浸された人間がいる。
生命維持のために必要な装置が接続されている可能性もある。
むやみに開けば、かえって命を危険に晒すかもしれない。
リリアが、静かに口を開いた。
「……この人、助かるよね?」
俺は男の顔を見た。
青白い光は、瞳から消えている。
ただの、疲れ果てた人間の顔だった。
「……助ける」
俺は答えた。
「そのために、ここまで来たんだ」
リリアは、ゆっくりと頷いた。
◇
そのときだった。
『……補助実験体一、機能停止』
頭の中へ、再び声が響いた。
俺は顔を上げた。
中央の青白い人影が、こちらを見つめている。
『拘束行動、失敗』
『対象一の戦闘行動を再評価』
俺は眉をひそめた。
(……まだ観測しているのか)
青白い光が、ゆっくりと揺れた。
『対象一。攻撃出力を意図的に制限』
『殺傷行動、未確認』
『戦闘目的、不明』
俺は静かに息を吐いた。
「……そうか」
どうやら、俺が手加減していることまで把握しているらしい。
ならば、少しだけ試してみるか。
俺は青白い人影へ向き直った。
「……おい」
声をかける。
人影が、わずかに揺れた。
『音声入力を確認』
「お前は、何だ?」
短い沈黙。
そして。
『第七観測区・自律観測機構』
俺は目を細めた。
「……自律観測機構?」
『肯定』
ミレーヌさんが、静かに近づいてきた。
「……会話できるのね」
俺は頷いた。
「そのようです」
リリアも、少し驚いた表情を浮かべている。
俺は続けた。
「ここにいる人間を、どうするつもりだ?」
『観測対象の反応を記録』
「……その後は?」
『適合率に応じて分類』
「分類した人間は?」
『研究工程へ移行』
俺は眉をひそめた。
「……研究工程って何だ?」
『権限不足』
即答だった。
俺は小さく息を吐いた。
(……そういう仕組みか)
質問に答える機能はある。
だが、情報の開示には制限があるらしい。
俺は別の質問をした。
「この施設の管理者は誰だ?」
『権限不足』
「第七観測区以外にも、同じような施設があるのか?」
『権限不足』
「ここにいる人間を、自由に帰すつもりはあるのか?」
短い沈黙。
そして。
『観測対象の外部移送には、管理者の承認が必要』
俺は目を細めた。
「……つまり、勝手には帰れないわけだ」
『肯定』
リリアが唇を噛んだ。
ミレーヌさんも、険しい表情を浮かべている。
俺は、さらに尋ねた。
「……調査隊の四人は、ここにいるのか?」
『照合情報を提示せよ』
俺は少し考えた。
名前。
顔写真。
あるいは、何らかの識別情報が必要なのだろう。
俺たちは、調査隊の資料を持っている。
だが、それを見せれば、こちらの目的を詳しく知られる可能性がある。
すでに敵対している以上、大きな違いはないかもしれない。
それでも、慎重に判断した方がいい。
俺はミレーヌさんへ視線を向けた。
彼女は小さく首を振った。
今は、情報を与えすぎない方がいい。
そういう意味だろう。
俺は頷いた。
「……後でいい」
『照合処理を中断』
青白い人影が、静かに揺れた。
◇
俺たちは、施設の構造を改めて確認した。
中央には巨大な円形装置。
その周囲に、透明な容器が二十基以上。
さらに、奥の壁には複数の扉が並んでいる。
左側には制御盤。
右側には、別の通路。
そして、天井には無数の管が走っていた。
俺は円を広げた。
半径五十メートル。
周囲の人間の気配を確認する。
容器の中には、確かに生体反応がある。
だが、すべてが同じ状態ではなかった。
呼吸が浅い者。
心拍が弱い者。
ほとんど動かない者。
そして。
(……奥にもいる)
施設のさらに深い場所。
壁の向こうから、複数の人間の気配が感じられた。
少なくとも五人。
そのうち二人は、明らかに強いオーラを持っている。
(……まだ戦力が残っているな)
俺は円を解除した。
ミレーヌさんへ報告する。
「奥に五人以上います。念能力者らしい反応も二つ」
彼女は頷いた。
「……そう」
リリアが尋ねた。
「……どうしますか?」
ミレーヌさんは、しばらく考えた。
そして。
「まず、この部屋を安全にしましょう」
俺は頷いた。
倒した三人の警備員。
操られていた男。
そして、容器の中の人々。
彼らを放置して奥へ進めば、何が起きるかわからない。
「……警備員を拘束し直します」
俺が言うと、ミレーヌさんは頷いた。
「お願い」
俺は倒れている男たちのもとへ向かった。
最初に無力化した糸使いの男。
大柄な隊長。
金属弾を放つ男。
三人とも生きている。
だが、念能力者である以上、拘束具だけでは不十分だ。
俺はそれぞれの身体を確認し、武器と通信機を取り上げた。
さらに、必要に応じて念を使えないようにするための拘束方法を考える。
もちろん、相手の能力が完全にわかっているわけではない。
だからこそ、慎重に。
リリアも手伝ってくれた。
「……アオ」
「ん?」
「この人たち、どうするの?」
「施設を出るときに連れていく」
「……全員?」
「ああ」
俺は頷いた。
「犯罪に関わっているなら、相応の責任は取ってもらう」
リリアは静かに頷いた。
「……うん」
俺は続けた。
「ただし、今ここで裁く必要はない」
彼女は、少しだけ表情を和らげた。
◇
それからしばらくして。
俺たちは、施設の左側にある制御盤の前へ集まった。
ミレーヌさんが、内部の構造を調べている。
リリアは記録を取っていた。
俺は周囲を警戒しながら、二人の作業を見守る。
「……先生」
リリアが、小さく声を上げた。
「これ、見てください」
彼女が指差したのは、制御盤の下部。
そこには、複数の番号が刻まれていた。
一から二十四まで。
そして、それぞれの番号の横には、小さな表示灯がある。
「……容器の番号かしら」
ミレーヌさんが呟いた。
俺は周囲を見渡した。
透明な容器の数。
配置。
そして、制御盤の番号。
確かに一致しているように見える。
「……一番の表示灯が消えています」
リリアが言った。
俺は、先ほど解放された男を見た。
彼が入っていた容器には、一番の番号が刻まれていた。
(……なるほど)
個別制御。
少なくとも、各容器を区別して操作する仕組みはあるらしい。
ミレーヌさんは、慎重に制御盤を調べ続けた。
そして。
「……これね」
彼女が、ある部分を指差した。
そこには、小さな文字が刻まれていた。
『生命維持』
『観測』
『強制起動』
『停止』
俺は目を細めた。
「……強制起動」
その言葉に、嫌な予感がした。
ミレーヌさんも、険しい表情を浮かべている。
「……おそらく、さっきの男を動かした機能ね」
リリアが唇を噛んだ。
「……そんな」
俺は静かに息を吐いた。
人間を、装置の一部として扱っている。
それが、この施設の実態なのだろう。
だが、まだわからないことがある。
誰が。
何のために。
そして、どこまでの規模で。
俺は、制御盤を見つめた。
(……必ず、調べる)
◇
そのとき。
施設の奥から、足音が聞こえた。
俺は顔を上げた。
ミレーヌさんも、すぐに反応する。
リリアが羅針盤を握り直した。
足音は、一人分。
ゆっくりと近づいてくる。
俺は円を使わず、気配を探った。
オーラの流れ。
呼吸。
足音の間隔。
(……念能力者だな)
しかも、かなり落ち着いている。
先ほどの警備員たちとは違う。
足音には、焦りも緊張も感じられなかった。
やがて。
奥の扉が、ゆっくりと開いた。
そこから現れたのは、一人の男だった。
年齢は五十歳前後。
白髪混じりの黒髪を後ろへ撫でつけ、細い眼鏡をかけている。
服装は、白衣。
だが、その下には上質な黒い服を着ていた。
手には、薄い書類の束。
そして、胸元には。
三本の線が交差し、中央に円を持つ紋章。
第七観測区の通行許可証と、同じ印があった。
男は、俺たちを見渡した。
倒れている警備員。
停止した実験体。
そして、開かれた制御盤。
それらを確認したあと。
ゆっくりと微笑んだ。
「……なるほど」
その声は、妙に穏やかだった。
「予想以上ですね」
俺は、静かに構えた。
「……誰だ?」
男は、軽く頭を下げた。
「失礼」
そして。
「私は、第七観測区の主任研究員を務めております」
眼鏡の奥で、細い目が光った。
「名を、エドガー・ヴァイスと申します」
俺は黙って男を見つめた。
エドガーは、俺たちを順番に見た。
ミレーヌさん。
リリア。
そして。
俺。
その視線が、わずかに長く留まる。
「……あなたが、特異反応を示した少年ですね」
俺は目を細めた。
「……それがどうした?」
エドガーは、柔らかく微笑んだ。
「いえ」
そして。
「……ぜひ、あなたを詳しく調べてみたいと思いまして」
俺は静かに息を吐いた。
(……そう来たか)
研究者。
念能力者。
そして、人間を実験体として扱う施設の責任者。
どうやら、今回の事件の中心人物が現れたらしい。
俺は一歩前へ出た。
「……その前に、こっちから聞きたいことがある」
エドガーは、興味深そうに首を傾げた。
「……何でしょう?」
俺は、周囲の透明な容器を指差した。
「……この人たちを、どうするつもりだ?」
エドガーは、少しだけ目を細めた。
そして。
「……もちろん」
穏やかな声で答えた。
「研究のために、必要な役割を果たしていただきます」
俺は、静かに拳を握った。
その言葉には、人間への敬意が欠片もなかった。
ただの研究材料。
ただの観測対象。
ただの数字。
それが、彼にとっての人間なのだろう。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
エドガーは、微笑んだままだった。
「……ご理解いただけましたか?」
俺は首を横に振った。
「……いや」
そして。
「……お前が、どういう人間なのかはわかった」
地下施設の青白い光が、静かに揺れた。
エドガーの笑みが、わずかに深くなる。
「……それは、光栄です」
俺は、拳を構えた。
今度の相手は、操られている被害者ではない。
自分の意思で、人間を実験体として扱っている男だ。
そして。
その身体からは、明らかに異質なオーラが流れていた。
(……さて)
俺は、静かに呼吸を整えた。
まずは、能力を見極める。
相手の目的。
念能力。
そして、施設との関係。
それらを把握したうえで、どう戦うかを決める。
俺は、エドガーを見据えた。
「……話を聞かせてもらおうか」
男は、楽しそうに微笑んだ。
「……ええ。ぜひ」
その瞬間。
地下施設の中央装置が、再び低く唸り始めた。
青白い光が、ゆっくりと強くなる。
そして。
エドガー・ヴァイスという男の背後で、巨大な影が動いた。
俺は、目を細めた。
(……まだ、何かあるな)
どうやら。
第七観測区の本当の秘密は、これから明らかになるらしい。