流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
第七観測区。
◇
人間には、どうしても相容れない相手というものがいる。
考え方が違う。
価値観が違う。
あるいは、生きてきた環境が違う。
そうした違いなら、まだ理解できる。
話し合えば折り合いがつくこともあるし、互いに距離を置くという選択肢だってある。
だが、世の中には、そもそも他人を同じ人間として見ていない連中がいる。
目の前に立つ男は、おそらくその類いだった。
「……研究のために、必要な役割を果たしていただきます」
エドガー・ヴァイス。
第七観測区の主任研究員。
五十歳前後の痩せた男で、白髪混じりの黒髪を後ろへ撫でつけ、細い銀縁の眼鏡をかけている。
身につけているのは、皺一つない白衣。
その下には、仕立てのよい黒い服。
胸元には、三本の線が交差し、中央に円を持つ紋章があった。
俺たちがガイゼルから押収した通行許可証と同じものだ。
そして、何より気になるのは、そのオーラだった。
(……妙だな)
俺は凝を維持したまま、男を観察していた。
エドガー自身のオーラは、決して少なくない。
纏も安定している。
念能力者として、それなりの修練を積んでいるのだろう。
だが、身体の周囲を流れるオーラに、時折、別の何かが混ざっている。
青白い、細い糸のようなもの。
それが男の背後へ伸び、施設中央の巨大な装置とつながっているように見えた。
(……本人の能力か。それとも施設側の仕組みか)
現時点では判断できない。
俺は拳を緩く構えたまま、エドガーへ問いかけた。
「もう一度聞く。ここにいる人間は、全員自分の意思で研究に参加しているのか?」
エドガーは穏やかに微笑んだ。
「意思、ですか」
まるで、その言葉自体が意外だったかのように。
「興味深い質問ですね」
「質問に答えろ」
「彼らは研究のために必要な資質を持っていました。それだけですよ」
「……つまり、同意は取っていないんだな」
「同意という概念は、研究の効率を著しく損なうことがあります」
俺は黙った。
男は続ける。
「たとえば、未知の病原体に対する人体の反応を調べる場合、被験者が恐怖によって拒否すれば、貴重な研究機会が失われます」
「それで?」
「研究の価値を理解できない者に、判断を委ねるべきではないでしょう」
あまりにも自然な口調だった。
悪びれる様子もない。
自分の発言が、どれほど身勝手なものなのか理解していないのか。
それとも、理解したうえで気にしていないのか。
どちらにせよ、救いようがない。
「……アオ」
背後から、リリアの声がした。
振り向かなくてもわかる。
怒っている。
普段は穏やかな彼女だが、こういう理不尽を前にして黙っていられる性格ではない。
俺は小さく頷いた。
「わかってる」
そして、エドガーへ視線を戻す。
「研究の内容を聞かせてもらおうか」
「もちろん、構いませんよ」
意外なほどあっさりとした返事だった。
ただし。
「あなた方が、正式な観測対象となってくださるのであれば」
エドガーは微笑んだ。
「研究のすべてをご説明しましょう」
「断る」
即答した。
エドガーは残念そうに眉を下げた。
「……交渉というものをご存じないようですね」
「人質を取っている相手と、対等に交渉するつもりはない」
「人質?」
男は首を傾げた。
「彼らは、貴重な研究資源ですよ」
俺は静かに息を吐いた。
(……もういい)
これ以上、言葉を重ねても無駄だろう。
必要な情報は、別の方法で聞き出せばいい。
まずは、相手の能力を確認する。
そのうえで、拘束する。
そう考えた瞬間だった。
エドガーの背後で、巨大な影が動いた。
◇
ゴウン。
重い機械音が地下施設に響いた。
中央装置の奥。
青白い光に照らされた壁面が、ゆっくりと左右へ開いていく。
その向こうに現れたのは、巨大な円筒形の容器だった。
高さは、およそ四メートル。
直径は二メートルほど。
分厚い透明な壁の内部には、暗い緑色の液体が満たされている。
そして、その中に。
「……何、あれ」
リリアが息を呑んだ。
人間がいた。
いや。
人間だったもの、と言うべきか。
身長は二メートル半ほど。
異常に発達した筋肉。
肩幅は成人男性の倍近くあり、腕は膝より下まで伸びている。
皮膚は灰色がかり、胸部には金属製の器具が埋め込まれていた。
背中からは無数の管が伸び、容器の上部へつながっている。
頭部は人間に似ている。
だが、目元は金属製の覆いで隠され、口には呼吸器のような装置が取り付けられていた。
(……人間を改造したのか?)
俺は目を細めた。
少なくとも、自然な成長によって生まれた身体には見えない。
エドガーが、満足そうに微笑んだ。
「ご紹介しましょう」
まるで、自慢の作品を披露する芸術家のような口調だった。
「第七観測区における、現時点での最高傑作です」
男は容器へ手を向けた。
「試作強化個体、識別番号零号」
俺は凝を強めた。
容器の内部。
巨大な肉体から、オーラが漏れ出している。
その量は、先ほどの実験体とは比較にならない。
(……かなり多いな)
単純なオーラ量だけなら、熟練した念能力者に匹敵するかもしれない。
だが、その流れはひどく不安定だった。
まるで、複数の異なるオーラを一つの器へ無理やり押し込めているような。
ミレーヌさんが低い声で尋ねた。
「……あなた、何をしたの?」
エドガーは振り向いた。
「おや。あなたは?」
「ミレーヌ。秘境ハンターよ」
その言葉に、エドガーの表情がわずかに変わった。
「……なるほど」
男は眼鏡を押し上げた。
「協会の人間でしたか」
「答えなさい」
ミレーヌさんの声には、普段の柔らかさがなかった。
「その人に、何をしたの?」
エドガーは少し考えたあと、答えた。
「肉体の強化、神経系の調整、オーラの伝達効率の改善。そして、外部からの念干渉による出力制御です」
俺は眉をひそめた。
「……外部からの念干渉?」
「ええ」
エドガーは頷いた。
「人間の肉体には、実に多くの制限があります。痛覚、疲労、恐怖、自己保存本能。これらは生存には有益ですが、能力を測定する際には障害となる」
男は、巨大な容器を見上げた。
「ならば、取り除けばよいのです」
リリアが、低い声で言った。
「……そんなことをしたら、身体が壊れる」
「当然でしょう」
エドガーは平然と答えた。
「だからこそ、肉体の強化が必要なのです」
俺は拳を握った。
こいつは、どこまでも人間を部品として見ている。
肉体を壊し、修理し、再び使う。
その過程で本人が何を感じるかなど、考えもしない。
「……その人は、生きているのか?」
俺が尋ねると、エドガーは頷いた。
「もちろん」
「意識は?」
「必要に応じて抑制しています」
「……自分の意思で動けるのか?」
「それは研究の目的に反しますね」
俺は静かに息を吐いた。
(……やっぱり、被害者か)
あの巨体も、先ほどの男と同じ。
本人の意思とは関係なく、戦わされるのだろう。
ならば、できる限り殺さずに止める必要がある。
ただし。
(……あの身体で暴れられたら、周囲の被害者が危険だな)
施設には、二十四基の透明な容器が並んでいる。
中には、衰弱した人間が収容されている。
巨大な実験体が暴れれば、容器が破壊される可能性がある。
そして、生命維持装置が損傷すれば。
考えるまでもない。
俺はミレーヌさんへ視線を向けた。
「……あれが動いたら、俺が引きつけます」
ミレーヌさんは頷いた。
「ええ。ただし、無理はしないで」
「わかっています」
リリアも口を開いた。
「私は、周りの容器を守る」
俺は頷いた。
「頼む」
彼女は真剣な表情で頷き返した。
そのとき。
エドガーが、ゆっくりと手を上げた。
「……では」
白衣の袖から、細い金属製の腕輪が覗く。
そこには、青白い光が灯っていた。
「観測を始めましょう」
◇
最初に変化したのは、施設の音だった。
低く響いていた機械音が、一瞬だけ止まる。
次いで、巨大な容器の内部で気泡が立ち上った。
ごぼり。
ごぼり。
緑色の液体が揺れる。
金属製の固定具が外れた。
そして。
巨大な実験体の瞼が、ゆっくりと開いた。
その瞳には、青白い光が宿っていた。
『試作強化個体零号、起動』
自律観測機構の声が響く。
『対象一との戦闘試験を開始』
俺は身構えた。
次の瞬間。
容器の前面が開いた。
大量の液体が床へ流れ落ちる。
巨大な肉体が、前へ傾いた。
ドン。
重い足音。
石床が震える。
実験体は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、俺を見た。
(……来る)
俺は足を開き、重心を落とした。
実験体が一歩踏み出す。
さらに一歩。
そして。
巨体が消えた。
「……っ!」
俺は反射的に身体を捻った。
直後、巨大な拳が目の前を通過する。
轟音。
背後の石柱が砕け散った。
破片が四方へ飛ぶ。
(……速い!)
あの巨体からは想像できない加速だった。
単純な筋力だけでは説明しきれない。
念による強化も加わっている。
俺は床を蹴り、距離を取った。
実験体が追ってくる。
右拳。
左拳。
踏み込み。
その一つ一つが、常人なら即死するほどの威力を持っていた。
俺は攻撃をかわしながら、相手の動きを観察した。
(……技術は粗い)
拳の軌道は単純。
重心移動も大きい。
戦闘技術そのものは、熟練者のそれではない。
だが。
(……出力が異常だ)
純粋な筋力。
速度。
そして、オーラの量。
それらを無理やり高めることで、技術の不足を補っている。
俺は一歩踏み込んだ。
相手の右拳をかわし、懐へ入る。
右の掌底。
狙いは胸部。
ただし、威力は抑える。
衝撃が伝わった。
巨体がわずかに揺れる。
だが、倒れない。
(……硬いな)
俺は即座に後退した。
実験体の左腕が、横薙ぎに振るわれる。
俺は身を屈めた。
腕が頭上を通過する。
その風圧で、髪が大きく揺れた。
続けて、右足が持ち上がる。
踏みつけ。
俺は横へ跳んだ。
直後。
床が砕けた。
石片が飛び散る。
俺は着地しながら、周囲を確認した。
透明な容器まで、約十五メートル。
このまま戦えば、被害者たちが危険だ。
(……場所を変えるか)
俺は実験体へ向かって踏み込んだ。
拳をかわし、肩へ手を添える。
相手の力を利用して身体を回し、進行方向を変える。
巨体がわずかによろめいた。
俺はその隙に、施設中央の広い空間へ移動した。
実験体が追ってくる。
狙い通りだ。
「……こっちだ」
俺は小さく呟いた。
巨体が、再び突進してきた。
◇
俺が実験体を引きつけている間、リリアとミレーヌさんは制御盤の調査を続けていた。
リリアは、先ほどの男を停止させた操作を思い出していた。
背中の円盤。
床の配線。
制御盤。
そして、中央装置。
それらは、すべてつながっている。
ならば、零号にも同じような仕組みがあるはずだ。
「……先生」
リリアが口を開いた。
「零号の背中にも、同じような装置があると思います」
ミレーヌさんは頷いた。
「ええ。ただし、あれはもっと複雑そうね」
リリアは巨体へ視線を向けた。
背中には無数の管が接続されている。
だが、そのうち何本かは、すでに切り離されていた。
「……あれ?」
リリアが眉をひそめた。
「どうしたの?」
「……管が、全部つながってない」
ミレーヌさんも目を細めた。
確かに。
零号の背中には、金属製の接続具が複数残っている。
だが、施設中央へつながっている管は、すでに切れていた。
それでも、実験体は動いている。
「……なるほど」
ミレーヌさんが呟いた。
「直接操作だけではないのね」
リリアは頷いた。
「……じゃあ、どうやって?」
ミレーヌさんは、中央装置を見た。
青白い人影。
巨大な円形装置。
そして、そこから広がるオーラ。
「……あれが中継している可能性があるわ」
リリアも視線を向けた。
青白い光が、規則的に脈動している。
そのたびに、零号の身体から立ち上るオーラも変化していた。
「……同期してる」
リリアが呟いた。
ミレーヌさんは頷いた。
「ええ」
そして、静かに言った。
「……アオに伝えましょう」
◇
実験体の拳が、床へ叩きつけられた。
轟音。
石材が砕け、破片が飛び散る。
俺は後方へ跳び、距離を取った。
(……やっぱり、強いな)
単純な身体能力だけなら、相当な水準だ。
少なくとも、並の念能力者では正面から相手にならないだろう。
だが。
(……戦い方が単調すぎる)
俺は実験体を観察した。
攻撃は、すべて直線的。
拳を振るう。
踏み込む。
掴もうとする。
それだけだ。
フェイントもない。
相手の動きを読もうとする様子もない。
まるで、あらかじめ決められた命令を繰り返しているようだった。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
(……なら、少し試してみるか)
実験体が突進してくる。
俺は正面から迎えた。
右拳が振り下ろされる。
俺は左へ半歩移動した。
拳が空を切る。
その瞬間、相手の右腕へ手を添えた。
そして、身体を回転させる。
巨体の重心が、わずかに崩れた。
俺はその勢いを利用し、右足を相手の足の外側へかけた。
投げ。
ただし、通常の投げ技ではない。
相手の質量が大きすぎるため、無理に持ち上げれば周囲へ大きな衝撃が生じる。
俺は相手の重心を崩すことだけに集中した。
巨体が前のめりになる。
そのまま、膝をついた。
俺は背後へ回り込んだ。
肩を押さえる。
腰へ手を添える。
そして、動きを封じる。
だが。
「……ぐ、うう……!」
実験体の身体が、大きく震えた。
筋肉が膨張する。
オーラが増大した。
(……出力が上がった?)
俺は目を細めた。
どうやら、拘束されると自動的に出力を高める仕組みらしい。
俺は即座に手を離した。
直後。
実験体が、無理やり身体を起こした。
その動きで、膝の関節が軋む音がした。
(……またか)
俺は眉をひそめた。
先ほどの男と同じ。
身体を壊してでも、命令を遂行しようとする。
いや。
命令によって、身体を壊されている。
俺は静かに息を吐いた。
(……本当に、胸糞悪い)
そのとき。
「アオ!」
リリアの声が響いた。
俺は視線だけを向けた。
「どうした!」
「中央装置!」
彼女が叫ぶ。
「零号のオーラと、あの光が同期してる!」
俺は目を細めた。
中央装置。
青白い人影。
そして、零号。
凝を強める。
すると。
(……見えた)
青白い人影から、細いオーラの流れが伸びていた。
それは空間を横切り、零号の背中へつながっている。
ただし、物理的な糸ではない。
放出系の性質を持つ、断続的なオーラの伝達。
一定の間隔で、命令のようなものが送られている。
(……なるほど)
俺は頷いた。
「……ありがとう、リリア!」
彼女が、小さく頷き返した。
俺は中央装置へ視線を向けた。
(……あれを止めれば、零号も止まる可能性がある)
だが、問題は。
装置が、他の被害者たちの生命維持にも関わっているかもしれないことだった。
無闇に破壊するわけにはいかない。
俺は、静かに息を吐いた。
(……さて、どうする)
そのとき。
エドガーの声が響いた。
「……素晴らしい」
俺は顔を上げた。
男は、少し離れた場所で俺たちを観察していた。
その表情には、純粋な興味が浮かんでいる。
「まさか、ここまで短時間で制御方式を見抜くとは」
俺は目を細めた。
「……褒められても嬉しくないな」
エドガーは微笑んだ。
「いえ、本当に感心していますよ」
そして。
「……ですが」
男は、ゆっくりと右手を上げた。
腕輪が青白く光る。
「観測は、まだ終わっていません」
その瞬間。
零号の身体から、さらに強いオーラが噴き上がった。
◇
空気が震えた。
零号の筋肉が、異常なほど膨張する。
皮膚の下で血管が浮き上がり、全身から蒸気のようなものが立ち上った。
俺は目を細めた。
(……出力を上げたな)
だが、先ほどとは違う。
オーラの流れが、明らかに変化していた。
全身へ均等に分配されていたオーラが、右腕へ集中している。
凝。
いや、硬に近い。
(……来る)
俺は重心を落とした。
零号が、右拳を振り上げる。
その瞬間。
床が砕けた。
巨体が、凄まじい速度で突進してくる。
俺は、正面から受けるつもりはなかった。
だが。
零号の拳が振り下ろされる直前。
俺は、あることに気づいた。
(……狙いが違う)
拳の軌道。
肩の向き。
重心の位置。
それらが、俺ではなく。
俺の背後へ向いていた。
そこには。
透明な容器が並んでいる。
(……っ!)
俺は即座に動いた。
床を蹴る。
零号の懐へ飛び込む。
そして、右肩へ手を添えた。
全身の力を使い、攻撃の軌道を変える。
零号の拳が、わずかに逸れた。
直後。
轟音。
拳が、容器の手前にある石柱へ激突した。
石材が砕け散る。
衝撃波が広がった。
俺は、飛び散る破片を腕で弾いた。
背後で、リリアが叫ぶ。
「アオ!」
「大丈夫だ!」
俺は返事をした。
だが、内心では冷や汗をかいていた。
(……危なかった)
あのまま拳が容器へ当たっていれば、中の人間がどうなっていたかわからない。
俺はエドガーへ視線を向けた。
男は、静かに微笑んでいる。
「……なるほど」
その声には、興味が混じっていた。
「あなたは、周囲の観測対象を守ろうとするのですね」
俺は眉をひそめた。
「……何?」
「非常に興味深い行動です」
エドガーは続けた。
「自身の安全よりも、他者の保護を優先する。その判断が、戦闘能力へどのような影響を与えるのか」
俺は、静かに息を吐いた。
(……こいつ)
わざとだ。
俺が容器を守ろうとすることを見越して、攻撃を誘導した。
そして、その反応を観察している。
俺は拳を握った。
怒りが、胸の奥で静かに燃え上がる。
だが。
(……落ち着け)
ここで感情に任せて動けば、相手の思う壺だ。
エドガーは、俺の反応を見ている。
ならば、見せてやればいい。
ただし。
あいつの望む形ではなく。
◇
「……ミレーヌさん!」
俺は声を上げた。
「零号は俺が引きつけます!」
「わかったわ!」
「その間に、中央装置の制御を調べてください!」
ミレーヌさんは頷いた。
「ええ。ただし、時間がかかるかもしれない!」
「構いません!」
俺は零号へ向き直った。
巨体が、ゆっくりとこちらを向く。
青白い瞳。
荒い呼吸。
そして、異常なオーラ。
俺は、静かに構えた。
(……さて)
相手は強い。
だが、戦闘技術は未熟。
攻撃は単調。
そして、こちらの動きに応じて出力を変える。
ならば。
(……分析するには十分だ)
俺は一歩踏み込んだ。
零号が反応する。
右拳。
俺はかわす。
左拳。
受け流す。
踏みつけ。
横へ移動する。
その繰り返し。
だが、俺は少しずつ動きを変えていった。
踏み込む距離。
回避する方向。
相手へ与える圧力。
そして、攻撃を誘導する角度。
零号の動きには、一定の法則があった。
こちらが近づけば、拳を振るう。
距離を取れば、突進する。
背後へ回れば、身体を回転させる。
そして、拘束しようとすると、出力を上げる。
(……なるほど)
俺は目を細めた。
零号自身が判断しているわけではない。
中央装置が、状況に応じて行動を選択している。
つまり。
(……あいつの動きは、ある程度予測できる)
俺は、静かに息を吐いた。
そして。
次の瞬間。
零号の右拳が、俺の顔へ向かってきた。
俺は、あえて大きく避けなかった。
半歩だけ、左へ。
拳が頬の横を通過する。
その瞬間。
俺は、相手の右腕へ手を添えた。
肩。
肘。
手首。
それぞれの動きを確認する。
そして、身体を回転させた。
零号の重心が崩れる。
だが、今回は投げない。
そのまま、進行方向を変える。
巨体が、中央の広い空間へ向かって踏み込んだ。
俺は後方へ跳んだ。
零号が追ってくる。
狙い通り。
透明な容器から、さらに距離が開いた。
(……よし)
俺は、静かに構え直した。
ここなら、多少激しく動いても被害者を巻き込む危険は小さい。
そして。
俺には、まだ使っていない手段がある。
もちろん、殺すためのものではない。
だが、相手の動きを封じるには十分なものだ。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
(……そろそろ、終わらせるか)
◇
そのとき。
ミレーヌさんの声が響いた。
「……アオ!」
俺は振り向かずに答えた。
「はい!」
「中央装置の制御、少しわかったわ!」
俺は目を細めた。
「……止められますか!」
「可能性はある!」
ミレーヌさんは続けた。
「ただし、零号だけを停止させるには、個別の認証が必要みたい!」
「……認証?」
「ええ!」
俺は、エドガーへ視線を向けた。
男の腕輪。
青白い光。
そして、胸元の紋章。
(……あれか)
俺は静かに息を吐いた。
なるほど。
施設の管理者。
認証装置。
そして、個別制御。
つながった。
俺は、零号の拳をかわした。
そして、エドガーへ視線を向ける。
「……ミレーヌさん」
「何?」
「認証に必要なのは、あの男の腕輪ですか?」
ミレーヌさんは、少し考えた。
「……おそらく!」
俺は頷いた。
「……わかりました」
そして。
静かに笑った。
(……なら、簡単だ)
相手の能力を確認する。
必要な情報を得る。
そして、戦闘を終わらせる。
俺は、零号へ向き直った。
巨体が、再び突進してくる。
俺はその動きを見据えた。
次の瞬間。
床を蹴った。
零号の右拳をかわし、懐へ入る。
左手で腕を押さえる。
右足を相手の足の外側へ差し込む。
そして、身体を回転させた。
巨体の重心が崩れる。
俺はその勢いを利用し、零号を床へ誘導した。
轟音。
巨体が、膝をつく。
俺は、その背後へ回り込んだ。
そして。
両肩を押さえ、動きを制限した。
零号が暴れる。
だが、俺は無理に関節を曲げない。
重心を制御し、立ち上がるための足場を奪う。
それだけで、巨体の動きは大きく制限された。
(……今だ)
俺は、リリアへ声をかけた。
「リリア!」
「うん!」
「エドガーの腕輪を!」
彼女は頷いた。
そして、すぐに動き出した。
◇
リリアは、エドガーへ向かって走った。
だが、真正面からではない。
床の配線。
石柱。
装置の陰。
それらを利用し、相手の視線を切りながら近づいていく。
エドガーは、最初は気づかなかった。
いや。
気づいていたのかもしれない。
だが、彼女を脅威とは見なしていなかったのだろう。
その判断が、誤りだった。
「……失礼します」
リリアが、静かに呟いた。
次の瞬間。
彼女は、エドガーの右側へ回り込んだ。
男が振り向く。
「……おや?」
だが、遅い。
リリアは、相手の腕へ手を伸ばした。
腕輪を掴む。
そして。
身体を捻った。
「……っ!?」
エドガーの表情が変わった。
リリアは、腕輪を引き抜こうとした。
だが。
その瞬間。
腕輪が、青白く光った。
「……っ!」
リリアが、反射的に手を離した。
直後。
腕輪から、細いオーラの糸が伸びた。
それは、リリアの手首へ絡みつこうとした。
彼女は即座に後退した。
糸が空を切る。
エドガーは、少し驚いたように目を見開いた。
「……なるほど」
そして、微笑んだ。
「あなたも、なかなか優秀ですね」
リリアは、短剣を構えた。
「……褒められても嬉しくありません」
エドガーは、小さく笑った。
「……そうですか」
そして。
「ですが、残念です」
男は、ゆっくりと右手を上げた。
腕輪が、再び青白く光る。
「認証装置を奪おうとする行為は、明確な敵対行動です」
リリアは、静かに構えた。
エドガーの周囲に、細いオーラの糸が広がり始める。
俺は、その様子を視界の端で確認した。
(……やっぱり、念能力者か)
しかも。
あの糸。
先ほどの警備員が使っていたものとは、性質が違う。
もっと細く。
もっと複雑で。
そして、明らかに強い。
俺は、零号の動きを抑えながら、静かに息を吐いた。
(……リリア)
彼女の実力は知っている。
だが、相手の能力が未知である以上、油断はできない。
俺は、ミレーヌさんへ視線を向けた。
「……ミレーヌさん!」
「ええ!」
彼女は、すでに動いていた。
リリアとエドガーの間へ、素早く割り込む。
そして、静かに構えた。
「……リリア、下がって」
「……はい!」
リリアは、すぐに距離を取った。
エドガーは、ミレーヌさんを見つめた。
「……秘境ハンター、でしたか」
「ええ」
ミレーヌさんは、静かに答えた。
「……あなたの研究には、少し興味があるわ」
エドガーが微笑んだ。
「それは光栄です」
「ただし」
ミレーヌさんの声が、冷たくなる。
「……研究者としてではなく、犯罪者としてね」
エドガーの笑みが、わずかに薄れた。
◇
俺は、零号の動きを抑えながら、周囲の状況を確認した。
リリアは無事。
ミレーヌさんがエドガーを牽制している。
中央装置は稼働中。
そして、零号はまだ暴れている。
(……長引かせるわけにはいかないな)
俺は、静かに息を吐いた。
零号の身体から、再びオーラが噴き上がる。
拘束を振りほどこうとしている。
俺は、関節へ負担をかけないように姿勢を調整した。
だが、巨体の筋肉が異常なほど収縮している。
このままでは、身体が壊れる。
(……仕方ない)
俺は、一瞬だけ考えた。
回復能力を使えば、傷ついた身体を治すことはできる。
だが、操作そのものを止めなければ、同じことの繰り返しだ。
しかも、今のところ零号は致命的な損傷を負っていない。
ならば、まずは制御を止めるべきだ。
俺は、エドガーへ視線を向けた。
男の腕輪。
青白い光。
そして、オーラの糸。
(……あれを奪う)
だが、リリアとミレーヌさんが相手をしている以上、無理に割り込む必要はない。
俺は、零号を抑え続けた。
そのとき。
エドガーが、静かに口を開いた。
「……実に興味深い」
男は、ミレーヌさんを見つめていた。
「あなた方は、なぜそこまで他人の生命を重視するのですか?」
ミレーヌさんは、眉をひそめた。
「……何?」
「研究の進歩には、犠牲が必要です」
エドガーは、穏やかに続けた。
「一人の生命を守るために、百人を救う可能性を捨てる。それは、合理的な判断でしょうか?」
ミレーヌさんは、しばらく黙っていた。
そして。
「……あなた、勘違いしているわ」
静かに言った。
エドガーが首を傾げる。
「……何を?」
「人を救うための研究と、人を道具にする研究は、同じじゃない」
ミレーヌさんは続けた。
「どれほど立派な目的を掲げても、本人の意思を奪い、苦痛を与え、命を使い潰すことが許されるわけではないの」
エドガーは、少しだけ目を細めた。
「……感情論ですね」
「そう思うなら、それでもいいわ」
ミレーヌさんは、静かに構えた。
「でも、私はあなたを止める」
その言葉と同時に。
エドガーの周囲に、青白い糸が広がった。
俺は、目を細めた。
(……来る)
ミレーヌさんも、同じことを感じているらしい。
彼女の身体を包むオーラが、静かに強まった。
そして。
エドガーが、ゆっくりと右手を振った。
無数の糸が、空間を走る。
俺は、零号の動きを抑えながら、その光景を見つめた。
(……なるほど)
どうやら。
あの男の念能力も、ようやく姿を現し始めたらしい。
地下施設の青白い光が、激しく揺れた。
そして。
第七観測区の主任研究員との戦いが、本格的に始まろうとしていた。