流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
第七観測区。
◇
人間を殺さずに無力化する。
言葉にすれば簡単だが、実際にはいくつもの判断が必要になる。
相手の戦闘能力。
念能力の性質。
周囲の環境。
そして、何よりも優先すべきもの。
俺の場合、相手が人間である以上、できる限り命を奪わないようにしている。
流星街で生きていた頃から、そうだった。
もちろん、綺麗事だけで生き延びられる場所ではなかった。自分や仲間の命を守るため、相手を傷つけなければならない場面もあった。
それでも、殺さずに済むなら、その方がいい。
死んだ人間は、二度と戻らない。
俺の持つ回復能力でさえ、死者を蘇らせることはできないのだから。
だが。
命を奪わないことと、相手を傷つけないことは、必ずしも同じではない。
たとえば、目の前にいる男が、二十人以上の人間を人質に取っていたとする。
その男は、他人の身体を勝手に改造し、意思を奪い、命令一つで戦わせている。
そして、その行為を止めるつもりがない。
そんな相手に、こちらがどこまで手加減する必要があるのか。
答えは、状況によって変わる。
俺は、そう考えている。
だからこそ。
今、この瞬間。
俺が何を優先すべきなのかは、すでに決まっていた。
◇
青白い糸が、空間を走った。
一本。
二本。
三本。
いや、それだけではない。
エドガー・ヴァイスの右腕から伸びた無数のオーラが、蜘蛛の巣のように広がっていく。
糸は細く、肉眼ではほとんど確認できない。
だが、凝を使えば、その輪郭がはっきりと見えた。
一本一本に、相応のオーラが込められている。
そして、それらはエドガーの右手の動きに合わせ、複雑な軌道を描いていた。
「リリア、下がりなさい!」
ミレーヌさんの声が響く。
「はい!」
リリアが素早く後退した。
直後、彼女が立っていた場所を青白い糸が通過する。
金属製の手すりに触れた糸が、かすかな音を立てた。
キン。
手すりの表面に、細い傷が走る。
(……切断力があるな)
俺は視界の端でそれを確認した。
ただし、単純に糸が鋭いのか、それとも接触した物体に別の作用を及ぼしているのかはわからない。
念能力の詳細は、まだ不明だ。
「……さすがはハンターですね」
エドガーが微笑む。
「初見で避けられるとは」
ミレーヌさんは答えなかった。
彼女は左足を半歩引き、身体を斜めに構えている。
視線はエドガーの顔ではなく、右腕。
正確には、腕輪の周囲に集まるオーラへ向けられていた。
エドガーが右手を軽く振る。
糸が動いた。
ミレーヌさんは後退せず、斜め前へ踏み込んだ。
糸の間を抜ける。
そして、エドガーの左側へ回り込む。
速い。
派手な動きではないが、無駄がない。
相手の攻撃範囲を見極め、最短の距離で死角へ入っている。
エドガーの表情が、わずかに変わった。
「……ほう」
男が左手を持ち上げる。
その瞬間、ミレーヌさんは足を止めた。
床に落ちていた細い金属片が、突然跳ね上がったのだ。
金属片には、青白い糸が絡んでいた。
それが彼女の足首へ向かって飛ぶ。
ミレーヌさんは跳躍した。
金属片が床を滑り、壁へぶつかる。
カン、と乾いた音が響いた。
(……糸を介して物体も動かせるのか)
俺は眉を寄せた。
だが、今はそちらへ集中できない。
「……ぐ、うううっ!」
零号が、低い呻き声を漏らした。
俺の腕の中で、巨体が激しく震えている。
身長は二メートル半ほど。
異常に発達した筋肉。
そして、身体から噴き出す大量のオーラ。
俺は背後から肩と腰を制御し、零号の重心を崩し続けていた。
だが、拘束が長引くにつれて、筋肉の収縮が激しくなっている。
皮膚の下で血管が浮き上がり、右膝が不自然に震えていた。
(……限界が近い)
このままでは、本人の身体が壊れる。
俺は零号の重心を横へ流し、拘束を緩めた。
巨体が床に片手をつく。
その瞬間、俺は距離を取った。
直後。
零号の両腕が床へ叩きつけられた。
石材が砕け、破片が飛び散る。
俺はその一つを足先で弾き、背後の透明な容器へ飛ばないよう軌道を変えた。
(……こいつを放置してエドガーへ向かうわけにもいかない)
周囲には、二十四基の透明な容器がある。
その中には、衰弱した人間たちが収容されている。
零号が暴れれば、容器が破壊される。
だが、零号を抑え続ければ、エドガーへの対応が遅れる。
そして、エドガーの右腕には、施設の認証装置らしい腕輪がある。
(……状況を整理しよう)
俺は零号の攻撃をかわしながら、頭の中で情報を並べた。
まず、零号は被害者だ。
本人の意思で戦っているわけではない。
可能な限り傷つけずに止めたい。
次に、エドガー。
あいつは自分の意思で人間を実験体として扱い、零号を操っている。
しかも、右腕の腕輪を使って施設の制御へ干渉している可能性が高い。
そして、最後に。
認証装置。
零号を停止させるには、あれが必要になるらしい。
(……なら、壊すわけにはいかない)
俺はエドガーの右腕を見た。
腕輪は、手首より少し上に装着されている。
金属製の輪。
青白い光。
そして、そこから伸びる無数の糸。
あれを奪えば、零号を止められる可能性がある。
だが、腕輪には接触を防ぐ機構がある。
リリアが奪おうとしたとき、糸が噴き出していた。
単純に掴むのは危険だ。
ならば。
(……腕輪ごと確保すればいい)
俺は、静かに呼吸を整えた。
その方法は、すでに頭の中にあった。
◇
「……アオ!」
リリアの声が響いた。
俺は零号の拳をかわしながら答える。
「どうした!」
「零号の停止装置、見つけた!」
俺は目を細めた。
「使えるか!」
「認証が必要!」
「……腕輪か!」
「たぶん!」
俺は頷いた。
予想通りだ。
リリアは制御盤の前に立ち、内部を調べていた。
そこには、一から二十四までの番号が並んでいる。
さらに、その右端。
通常の番号とは異なる小さな金属板。
『特別観測個体』
『零号』
その横には、円形の認証口があった。
どうやら、腕輪を使うための場所らしい。
ただし、まだ確証はない。
俺はエドガーへ視線を向けた。
男はミレーヌさんと戦っている。
青白い糸が、空間を縦横に走っていた。
ミレーヌさんはその間を抜け、距離を詰めようとしている。
だが、糸の攻撃範囲が広く、なかなか接近できない。
(……俺が行くしかないな)
俺は零号へ向き直った。
巨体が再び突進してくる。
右拳。
俺は半歩横へ移動した。
拳が空を切る。
その瞬間、相手の腕へ手を添えた。
肩。
肘。
手首。
それぞれの動きを確認する。
そして、身体を回転させた。
零号の重心が崩れる。
俺はその勢いを利用し、巨体を中央の広い空間へ誘導した。
零号が数歩よろめく。
俺は後方へ跳んだ。
巨体が追ってくる。
狙い通り。
透明な容器から、さらに距離が開いた。
(……よし)
俺は構え直した。
ここなら、多少激しく動いても被害者を巻き込む危険は小さい。
だが、中央装置には無数の管が接続されている。
無闇に破壊するわけにはいかない。
俺は周囲の配置を頭に叩き込んだ。
石柱。
配線。
壁。
そして、エドガーの位置。
そのとき。
零号が、再び突進してきた。
俺は正面から迎えた。
右拳が振り下ろされる。
俺は左へ半歩移動した。
拳が空を切る。
その瞬間、相手の右腕へ手を添える。
そして、身体を回転させた。
零号の重心が崩れる。
俺はその勢いを利用し、巨体を床へ誘導した。
轟音。
零号が膝をつく。
俺は背後へ回り込んだ。
そして、両肩を押さえ、動きを制限した。
零号が暴れる。
だが、俺は無理に関節を曲げない。
重心を制御し、立ち上がるための足場を奪う。
それだけで、巨体の動きは大きく制限された。
ただし、長くは続かない。
零号の筋肉が、再び膨張し始めた。
(……時間がない)
俺はミレーヌさんへ声をかけた。
「ミレーヌさん!」
「何!」
「エドガーの腕輪、俺が取りに行きます!」
彼女は一瞬だけこちらを見た。
そして、すぐに頷いた。
「わかったわ!」
俺は零号の身体を押さえながら、周囲を確認した。
エドガーとの距離は約二十メートル。
途中には石柱が二本。
床には配線。
そして、青白い糸が張り巡らされている。
普通に走れば、糸に絡め取られる可能性がある。
だが。
(……見えているなら、避けられる)
俺は凝を強めた。
糸の位置。
張力。
動き。
そして、エドガーの右腕の動作。
それらを観察する。
次の瞬間。
俺は零号の拘束を解いた。
巨体が立ち上がる。
俺は、その勢いを利用して後方へ跳んだ。
零号が追ってくる。
だが、俺は直線的には逃げない。
石柱の間を抜ける。
身体を捻る。
そして、零号の進行方向を変える。
巨体が石柱の手前で方向転換しようとする。
その瞬間。
俺は床を蹴った。
零号の頭上を越える。
そして。
エドガーへ向かって、一直線に駆けた。
◇
エドガーが、こちらを見た。
その表情に、初めて明確な驚きが浮かぶ。
「……おや?」
俺は答えなかった。
距離、十五メートル。
十メートル。
エドガーの右腕が動く。
青白い糸が広がった。
俺は身体を沈めた。
一本目をかわす。
二本目を跳び越える。
三本目が、右肩へ向かって伸びる。
俺は左手で床を押し、身体を横へ回転させた。
糸が外套をかすめる。
布が裂けた。
だが、身体には届かない。
距離、五メートル。
エドガーが右腕を引いた。
糸が収束する。
俺の正面へ、網のように広がった。
(……なるほど)
正面からの接近を防ぐための防御。
だが、網にはわずかな隙間がある。
俺は、その隙間へ身体を滑り込ませた。
エドガーの目が見開かれる。
「……なっ!?」
俺は男の懐へ入った。
右手を伸ばす。
狙いは、腕輪。
エドガーが反射的に右腕を引いた。
俺は、その動きに合わせて踏み込んだ。
左手で相手の肘を押さえる。
右手で手首を掴む。
そして、身体を回転させた。
エドガーの重心が崩れる。
だが、その瞬間。
腕輪が青白く光った。
(……っ!)
俺は反射的に手を離した。
直後。
腕輪から、無数の糸が噴き出した。
それらは、俺の腕へ絡みつこうとする。
俺は後方へ跳んだ。
糸が空を切る。
エドガーは、数歩後退した。
そして。
初めて、笑みを消した。
「……危険ですね」
俺は静かに構えた。
「……そうか?」
エドガーは眼鏡を押し上げた。
「あなたは、想定以上に速い」
俺は答えなかった。
男の右腕。
腕輪。
そして、そこから伸びる糸。
俺は凝を維持したまま、観察する。
(……触れた瞬間に反応した)
腕輪そのものに、防御機構があるらしい。
無理に掴めば、糸に絡め取られる。
だが。
(……なら、掴まなければいい)
俺は腰へ手を伸ばした。
そこには、一本のナイフがある。
使い慣れた、実用本位の刃物。
俺はそれを抜いた。
エドガーの目が細くなる。
「……武器ですか」
俺は静かに答えた。
「必要になったからな」
刃へオーラを流す。
周。
金属の表面を、薄いオーラが包み込んだ。
刃の輪郭が、わずかに鮮明になる。
エドガーの表情が変わった。
「……なるほど」
男は右腕を引いた。
青白い糸が、再び広がる。
「それで、何をするつもりですか?」
俺は静かに構えた。
「……決まってるだろ」
そして。
「お前の好きにはさせない」
◇
零号が、背後で咆哮した。
俺は視線を向けなかった。
だが、気配は感じている。
巨体がこちらへ向かっている。
距離は約二十メートル。
時間は、あまりない。
エドガーが右手を振った。
糸が飛ぶ。
俺は半歩踏み込み、刃を振るった。
キン。
細い音が響いた。
周を施したナイフが、糸の一本を断ち切った。
エドガーの目が見開かれる。
「……ほう」
俺は続けて身体を捻った。
二本目。
三本目。
糸を切り裂きながら、距離を詰める。
だが、すべてを切る必要はない。
避けられるものは避ける。
邪魔なものだけを断つ。
それで十分だった。
距離、三メートル。
エドガーが後退する。
俺は追う。
男の右腕が持ち上がった。
腕輪が青白く光る。
その瞬間。
俺は、あることに気づいた。
(……あの腕輪)
糸を出すたびに、光が強くなる。
だが、糸を切断した直後には、わずかに光が弱まる。
つまり。
(……再展開まで、ほんの少し間がある)
俺は足を止めた。
エドガーが、不審そうに目を細める。
「……どうしました?」
俺は答えなかった。
右手のナイフを構え直す。
左足を半歩前へ。
重心を落とす。
そして。
エドガーの右腕が動いた瞬間。
俺は踏み込んだ。
糸が広がる。
俺は刃を振るった。
一本。
二本。
三本。
切断。
その直後。
腕輪の光が、わずかに弱まった。
(……今だ)
俺は、さらに踏み込んだ。
エドガーの懐へ入る。
男が右腕を引こうとする。
だが、遅い。
俺は左手で相手の肩を押さえた。
右手のナイフを構える。
狙いは、腕輪ではない。
その少し上。
右腕の前腕部。
腕輪と身体をつなぐ、肉体そのもの。
俺は一瞬だけ、エドガーの顔を見た。
男は、まだ自分が何をされようとしているのか理解していない。
だが、俺の判断は変わらなかった。
(……腕輪は壊さない)
必要なのは、認証装置だ。
そして、エドガーがそれを操作できない状態にすること。
ならば。
切り離すべきものは、決まっている。
俺は、刃を振るった。
周を施したナイフが、鋭く走る。
次の瞬間。
エドガーの右腕が、肘の少し下から切断された。
◇
一瞬。
時間が止まったように感じた。
エドガーの右腕が、宙を舞う。
腕輪は、手首に装着されたまま。
青白い光を放っている。
俺は、その腕が床へ落ちる前に左手で掴んだ。
そして、即座に距離を取った。
「……え?」
エドガーが、間の抜けた声を漏らした。
男は、自分の右腕を見た。
いや。
右腕があった場所を。
そこには、肘から先がなかった。
切断面から血が流れ始める。
エドガーの顔から、血の気が引いた。
「……あ、ああ……?」
俺は、すぐに動いた。
右手のナイフを鞘へ戻す。
左手に確保した切断腕を、邪魔にならないように保持する。
そして、エドガーへ近づいた。
男は後退しようとした。
だが、足がもつれる。
俺は、その肩を掴んだ。
「……動くな」
低い声で告げる。
エドガーが、震える声を漏らした。
「……な、何を……」
俺は答えなかった。
まず、止血。
切断面からの出血を抑えるため、素早く処置を行う。
その間も、エドガーの左手と全身のオーラの動きを警戒する。
右腕を失ったからといって、念能力が完全に使えなくなったとは限らない。
操作系なら、事前に仕込んだ命令が残っている可能性もある。
あるいは、腕輪とは別の発動条件があるかもしれない。
油断はできない。
だが、少なくとも。
エドガーは、右腕を使って糸を操ることができなくなった。
俺は男の身体を床へ押さえつけた。
「……ぐっ!」
エドガーが呻く。
俺は、必要な力だけを使って拘束した。
「……殺しはしない」
俺は静かに言った。
「だが、これ以上好き勝手させるつもりもない」
エドガーの顔が歪んだ。
「……き、貴様……!」
俺は答えなかった。
男の怒りに付き合っている時間はない。
俺は、切断した右腕を確認した。
腕輪は、まだ青白く光っている。
認証装置として機能する可能性は残っている。
(……よし)
俺は顔を上げた。
「リリア!」
彼女が振り向く。
「……アオ!」
「腕輪を確保した!」
俺は、切断した右腕を見せた。
リリアの表情が、一瞬だけ強張った。
だが、すぐに状況を理解したらしい。
「……わかった!」
俺は頷いた。
「制御盤へ持っていく!」
そのとき。
背後で、零号が咆哮した。
俺は顔を上げた。
巨体が、こちらへ向かって突進してくる。
距離、十メートル。
(……時間がない)
俺はエドガーを床へ押さえつけたまま、ミレーヌさんへ声をかけた。
「ミレーヌさん!」
「ええ!」
彼女は、すでに動いていた。
エドガーの左側へ回り込み、拘束を引き継ぐ。
「アオ、行きなさい!」
「お願いします!」
俺は立ち上がった。
切断した右腕を持ち、制御盤へ向かって走る。
零号が追ってくる。
だが、俺は速度を落とさない。
床を蹴る。
石柱の陰へ入る。
巨体の進行方向をずらす。
そして、制御盤へ到達した。
◇
「……リリア!」
「ここ!」
彼女が、制御盤の右端を指差した。
そこには、円形の認証口があった。
俺は、切断した右腕を確認する。
腕輪は、まだ光っている。
だが、認証口へどう接続すればいいのかはわからない。
俺はリリアへ尋ねた。
「……差し込むのか?」
「たぶん、腕輪のこの部分!」
彼女が、腕輪の内側を指差した。
そこには、小さな金属製の突起があった。
認証口の形状と一致している。
(……なるほど)
俺は慎重に腕輪を近づけた。
その瞬間。
腕輪が、青白く光った。
制御盤の表示灯が点滅する。
『管理者認証を確認』
無機質な声が響いた。
俺は、静かに息を吐いた。
(……使える)
少なくとも、認証装置としての機能は残っている。
リリアが、すぐに制御盤を操作した。
「……零号、零号……」
彼女は表示を確認する。
『特別観測個体零号』
『強制起動中』
『制御権限:管理者』
そして。
『停止』
その文字の横に、小さな切り替え器があった。
リリアは俺を見た。
「……アオ」
俺は頷いた。
「……やってくれ」
彼女は、切り替え器へ手を伸ばした。
カチリ。
小さな音。
その瞬間。
施設中央の巨大な装置が、低く唸った。
零号の身体が、突然大きく震えた。
「……ぐ、あああっ!」
俺は即座に振り向いた。
巨体が、床へ膝をつく。
全身を包んでいた異様なオーラが、急速に薄れていった。
背中の接続具から伸びていた青白い光も消える。
そして。
零号は、ゆっくりと倒れ込んだ。
俺は床を蹴った。
巨体のもとへ駆け寄る。
倒れ込む身体を支え、頭部が床へ激突しないようにする。
そのまま、ゆっくりと横たえた。
「……っ、は……」
零号が、かすかに息を吐いた。
俺は脈拍を確認した。
呼吸。
意識。
身体の損傷。
そして、オーラの流れ。
(……止まった)
少なくとも、強制的な戦闘行動は停止した。
俺は、ようやく息を吐いた。
「……リリア!」
彼女が振り向く。
「……うん!」
俺は頷いた。
「……成功だ!」
リリアの表情が、少しだけ緩んだ。
だが、すぐに真剣な顔へ戻る。
「……アオ、まだ終わってない」
俺は頷いた。
「ああ」
周囲には、まだ多数の被害者がいる。
そして、施設の奥には未知の敵が残っている。
零号を止めただけでは、すべてが解決したわけではない。
俺は、零号の顔を見た。
青白い光は、瞳から消えている。
その表情は、疲れ果てた人間のものだった。
俺は静かに声をかけた。
「……聞こえるか?」
零号の瞳が、わずかに動いた。
「……あ……」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……もう戦わなくていい」
零号の唇が、かすかに動いた。
「……たす……け……」
その声を聞いた瞬間。
俺は、胸の奥が重くなるのを感じた。
(……ああ)
わかっている。
この人は、最初から助けを求めていたのだ。
ただ、身体を操られ、声を出すことすら許されなかった。
俺は、静かに答えた。
「……助ける」
零号の瞳が、わずかに揺れた。
「……必ず」
◇
そのとき。
施設中央の青白い人影が、ゆっくりと動いた。
『特別観測個体零号、機能停止』
『管理者認証による停止処理を確認』
俺は顔を上げた。
青白い光が、静かに揺れている。
『観測対象一の行動を再評価』
『戦闘行動における殺傷選択、限定的』
『管理者の身体損傷を確認』
俺は眉をひそめた。
(……まだ観測しているのか)
青白い人影が、こちらを見下ろした。
『対象一。目的達成のため、管理者の身体を切断』
『殺害行動は未実行』
『行動原理、既存分類に該当せず』
俺は、静かに息を吐いた。
どうやら、俺の行動を分析しているらしい。
だが、そんなことはどうでもいい。
俺は、青白い人影へ向き直った。
「……おい」
『音声入力を確認』
「零号は止めた」
『肯定』
「他の実験体も、解放できるんだろうな?」
短い沈黙。
そして。
『管理者認証による個別停止処理は可能』
俺は頷いた。
「……生命維持装置を止めずにか?」
『肯定』
リリアが、ほっと息を吐いた。
だが、俺はまだ安心しなかった。
「……じゃあ、全員を解放する」
『管理者権限による処理を要求』
俺は、制御盤の前にある腕輪を見た。
まだ青白く光っている。
認証装置としての機能は残っている。
ならば、使える。
俺はリリアへ視線を向けた。
「……頼めるか?」
彼女は頷いた。
「……うん」
そして、制御盤へ向き直った。
だが。
その瞬間。
エドガーの声が響いた。
「……待て!」
俺は振り向いた。
男は、ミレーヌさんに拘束されたまま、必死に顔を上げていた。
右腕は肘から先がない。
止血処置はされているが、顔色は悪い。
それでも、目には強い焦りが浮かんでいた。
「……それ以上、操作するな!」
俺は眉をひそめた。
「……何?」
エドガーは、震える声で続けた。
「……零号の停止と、他の実験体の解放は違う!」
俺は、静かに目を細めた。
「……どう違う?」
エドガーは、唇を噛んだ。
そして。
「……あの容器の中には、まだ外部環境に適応できない個体がいる!」
俺は眉をひそめた。
「……つまり、無闇に開けば死ぬ可能性があるってことか?」
エドガーは頷いた。
「……そうだ!」
俺は、静かに息を吐いた。
(……なるほど)
それなら、話は別だ。
俺はリリアへ声をかけた。
「……一度、止めてくれ」
彼女は頷いた。
「……うん」
制御盤の操作を中断する。
俺はエドガーへ近づいた。
男は、警戒するように身を縮めた。
俺は、その前にしゃがんだ。
「……詳しく説明しろ」
エドガーは、震える声で答えた。
「……生命維持装置を切れば、衰弱した個体は耐えられない」
「……なら、生命維持装置を動かしたまま解放する方法は?」
エドガーは、少しだけ目を見開いた。
「……あるには、ある」
俺は頷いた。
「……教えろ」
男は、しばらく黙っていた。
そして。
「……なぜ、そこまでする?」
俺は眉をひそめた。
「……何が?」
「……彼らは、あなたとは何の関係もない人間だ」
エドガーは続けた。
「……命を危険に晒してまで、助ける理由があるのか?」
俺は、しばらく男を見つめた。
そして。
「……理由なんて、必要か?」
静かに答えた。
エドガーが、目を見開く。
俺は続けた。
「……目の前で助けを求めている人間がいる」
そして。
「……俺に助ける力がある」
それだけだ。
もちろん、すべての人間を救えるわけではない。
俺にも限界はある。
だが、だからといって、目の前の人間を見捨てる理由にはならない。
俺は、静かに立ち上がった。
「……説明してもらうぞ」
エドガーは、何も答えなかった。
ただ、俺を見つめていた。
◇
そのとき。
施設の奥から、低い機械音が響いた。
俺は顔を上げた。
ミレーヌさんも、すぐに反応する。
リリアが羅針盤を握り直した。
音は、エドガーが現れた扉の向こうから聞こえている。
ゴウン。
ゴウン。
重い金属が動くような音。
俺は凝を強めた。
さらに、円を広げる。
半径五十メートル。
施設の奥。
壁の向こう。
そこから、複数の気配が感じられた。
少なくとも五人。
そのうち二人は、明らかに強いオーラを持っている。
(……まだいるな)
俺は、静かに息を吐いた。
エドガーは拘束した。
零号も停止した。
だが、第七観測区には、まだ何かが残っている。
俺はミレーヌさんへ視線を向けた。
「……奥に人がいます」
彼女は頷いた。
「……ええ」
リリアも、静かに口を開いた。
「……帰り道も、少し変わってる」
俺は彼女を見た。
「……またか?」
「うん」
銀色の羅針盤が、かすかに震えている。
リリアは続けた。
「……さっきまで通れた道が、今は別の方向へつながってるみたい」
俺は眉をひそめた。
(……施設そのものが動いているのか)
あるいは、念によって空間が歪められているのか。
いずれにせよ、脱出は簡単ではなさそうだ。
俺は周囲を見渡した。
透明な容器。
衰弱した人々。
停止した零号。
拘束されたエドガー。
そして、奥へ続く扉。
やるべきことは、まだ山ほどある。
だが。
少なくとも、一つだけ確かなことがあった。
俺たちは、前へ進んでいる。
少しずつではあるが、この施設の仕組みを理解し始めている。
そして、救える命も増えている。
俺は、静かに拳を握った。
(……ここからだな)
今度こそ、全員を連れて帰る。
そのために、必要なことをする。
俺は、エドガーへ視線を向けた。
「……さて」
男が、怯えたように顔を上げる。
俺は、静かに言った。
「……研究の話を、詳しく聞かせてもらおうか」
地下施設の青白い光が、ゆっくりと揺れた。
そして。
第七観測区の奥深くから、再び重い機械音が響いた。