流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
第七観測区。
◇
人間は、どこまで自分の行いを正当化できるのだろうか。
誰かを救うためだった。
大勢の幸福のためだった。
より優れた未来を築くためだった。
そうした言葉には、確かに人を動かす力がある。
俺自身、何かを成し遂げるためには多少の犠牲が避けられない場合もあると考えている。現実は、誰もが望む結果を得られるほど都合よくできていない。
だが、だからといって、何をしても許されるわけではない。
特に、自分以外の人間に犠牲を強いる場合は。
その人間が何を望み、何を恐れ、何を失うのか。
そうしたものを考慮せず、ただ数字や成果だけを追い求める行為を、俺は正しいとは思わない。
そして今。
俺の目の前には、その考え方を極端な形で体現した男がいる。
「……さて」
俺は、床に座らされたエドガー・ヴァイスを見下ろした。
「そろそろ、話してもらおうか」
男は答えなかった。
白衣は血で汚れ、額には脂汗が浮かんでいる。
右腕は肘の少し下から失われていた。
俺が切断したのだ。
切断面には応急処置を施してあるが、痛みまで消せるわけではない。
エドガーは時折、歯を食いしばりながら荒い息を吐いていた。
それでも、意識ははっきりしている。
少なくとも、質問に答えられない状態ではない。
「……何を、聞きたい」
ようやく、男が口を開いた。
俺はその前にしゃがんだ。
「まず、この施設の目的だ」
エドガーの目が、わずかに動いた。
「……目的?」
「ああ」
俺は周囲を見渡した。
二十四基の透明な容器。
その中に収容された人々。
中央に鎮座する巨大な装置。
そして、青白い光を放つ自律観測機構。
「ここで何を研究しているのか。誰が運営しているのか。どうして人間を実験体にしているのか」
一つずつ、言葉を区切る。
「全部だ」
エドガーは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなたは、本当に何も知らないのですね」
俺は眉をひそめた。
「知っていたら、聞かない」
「……そうですか」
男は、乾いた笑いを漏らした。
「では、どこから説明すればよいのか……」
俺は答えなかった。
エドガーが何を話すにせよ、まずは聞く。
その内容が真実かどうかは、あとで判断すればいい。
◇
「……第七観測区は、もともと研究施設ではありませんでした」
エドガーが、静かに語り始めた。
「この地下構造物が発見されたのは、今から二十年以上前のことです」
俺は黙って聞いていた。
「当時、この一帯では奇妙な現象が頻発していました。霧の中で道が変わる。人間の声が聞こえる。存在しないはずの建造物が現れる」
ミレーヌさんが、わずかに眉を動かした。
「……この渓谷で起きている現象ね」
エドガーは頷いた。
「ええ」
男は続けた。
「調査隊が派遣され、地下深部に巨大な遺構が存在することが判明しました」
「……遺構?」
「正確な年代は不明です。少なくとも、現代の技術体系とは異なる方法で建造されている」
俺は中央装置へ視線を向けた。
青白い光。
複雑な金属構造。
そして、施設全体に広がる異様なオーラ。
(……古代の念能力者が関わっているのか?)
可能性はある。
この世界には、常識では説明できないものがいくらでも存在する。
念能力を使えば、現代技術では再現できないような仕組みを作ることも不可能ではない。
だが、それが何百年、何千年と維持されるとなれば、相応の制約や仕組みが必要になるはずだ。
「……それで?」
俺が促すと、エドガーは続けた。
「発見された遺構には、奇妙な機能がありました」
「……どんな?」
「人間の生命活動と、念の働きを観測する機能です」
俺は目を細めた。
「……念を観測する?」
「ええ」
エドガーは、中央装置を見た。
「この施設は、念能力者のオーラの流れだけでなく、肉体や精神状態の変化まで記録できるのです」
俺は黙った。
それだけなら、確かに研究価値は高い。
念の仕組みは、まだ解明されていない部分が多い。
オーラの量。
性質。
能力の発現条件。
精神状態との関係。
そうしたものを詳細に観測できる装置があれば、念の研究は大きく進むだろう。
だが。
「……それで、人間を実験体にしたのか?」
俺が尋ねると、エドガーは頷いた。
「当然でしょう」
その言葉に、リリアの表情が険しくなった。
俺は、静かに続けた。
「……当然?」
「観測装置があるなら、観測対象が必要です」
エドガーは、まるで当たり前のことを説明するように言った。
「最初は、動物を使いました。しかし、得られる情報には限界があった」
「……それで人間に?」
「ええ」
男は頷いた。
「特に、念能力者は貴重でした」
俺は拳を握った。
だが、すぐには動かなかった。
今は情報を得ることが先だ。
「……誰が、そんな研究を許可した?」
エドガーは、少しだけ口を閉ざした。
そして。
「……出資者です」
俺は眉をひそめた。
「名前は?」
「……それは」
男は言い淀んだ。
俺は、静かに見つめた。
「……言えない理由があるのか?」
エドガーは、目を逸らした。
「……契約があります」
俺は小さく息を吐いた。
(……やっぱりな)
ガイゼルの件を思い出す。
あいつには、念による呪いがかけられていた。
雇い主について話そうとすると、命を奪う仕組みだった。
エドガーにも、同じような制約がある可能性がある。
俺は凝を使い、男の身体を観察した。
だが、すぐにそれらしいものは見つからない。
(……隠しているだけか。それとも、本当に言えないのか)
判断は保留だ。
「……わかった」
俺は言った。
「今は、そこは後回しにする」
エドガーが、わずかに安堵したように息を吐いた。
俺は続けた。
「代わりに、捕らわれている人間のことを教えろ」
◇
リリアは、制御盤の前で作業を続けていた。
銀色の羅針盤を片手に持ち、もう一方の手で表示を確認している。
彼女の目的は、収容者たちの状態を把握することだった。
一番から二十四番まで。
それぞれの容器には、異なる数値が表示されている。
生命維持。
観測。
強制起動。
停止。
そして、身体の状態を示しているらしい複数の項目。
ただし、専門的な記号が多く、すべてを理解できるわけではない。
「……先生」
リリアが口を開いた。
ミレーヌさんが近づく。
「どうしたの?」
「……この表示、見てください」
彼女が指差したのは、七番の容器だった。
そこには、赤い文字が点滅している。
『生命維持補助、低下』
ミレーヌさんの表情が変わった。
「……まずいわね」
リリアが頷く。
「……他にも、似た表示がある」
九番。
十三番。
そして、二十一番。
それぞれの容器に、異常を示す表示が出ていた。
ミレーヌさんは、すぐにエドガーへ視線を向けた。
「……エドガー」
男が顔を上げる。
「……何です?」
「七番、九番、十三番、二十一番。生命維持に異常が出ているわ」
エドガーの表情が、わずかに変わった。
「……何?」
ミレーヌさんは続けた。
「このまま放置して大丈夫なの?」
エドガーは、制御盤を見た。
そして、顔色を変えた。
「……馬鹿な」
俺は眉をひそめた。
「……どうした?」
エドガーは、震える声で答えた。
「……零号の強制停止によって、中央装置の出力配分が変わったのかもしれません」
俺は目を細めた。
「……つまり?」
「……一部の容器へ供給されるエネルギーが不足している可能性があります」
俺は、静かに息を吐いた。
(……厄介だな)
零号を止めたこと自体は正しかった。
だが、施設の仕組みが複雑すぎる。
一つの操作が、別の場所へ影響を与える可能性がある。
俺はエドガーへ尋ねた。
「……どうすればいい?」
男は、しばらく考えた。
そして。
「……補助電源を起動する必要があります」
「場所は?」
「……この区画の奥です」
俺は、エドガーが現れた扉へ視線を向けた。
そこからは、今も低い機械音が聞こえている。
そして、俺の円には、複数の人間の気配が捉えられていた。
(……やっぱり、奥か)
俺はミレーヌさんへ視線を向けた。
「……どう思います?」
彼女は、少し考えた。
「……罠の可能性はあるわ」
俺は頷いた。
「ええ」
「でも、生命維持装置の異常が本当なら、放置できない」
俺は、静かに息を吐いた。
その通りだ。
罠かもしれない。
だが、だからといって見捨てるわけにはいかない。
俺はエドガーへ視線を戻した。
「……補助電源の起動方法を説明しろ」
男は、震える声で答えた。
「……認証装置が必要です」
俺は、切断した右腕を見た。
腕輪は、まだ青白く光っている。
「……これか?」
エドガーは頷いた。
「……ええ」
俺は、静かに息を吐いた。
(……なら、持っていくか)
ただし。
エドガーを信用するつもりはない。
俺は、ミレーヌさんへ視線を向けた。
「……この男、どうします?」
彼女は、少し考えた。
「……連れていくしかないでしょうね」
俺は頷いた。
エドガーは、この施設の仕組みを知っている。
その知識は、救出のために必要になるかもしれない。
だが、自由に動かすわけにはいかない。
俺は男の左腕を拘束し直した。
そして、止血の状態を確認する。
出血は、ひとまず抑えられている。
ただし、長時間放置すれば危険だ。
(……こいつも、いずれ治療が必要だな)
俺は小さく息を吐いた。
エドガーがどれほど非道なことをしていたとしても、今ここで死なせるつもりはない。
罪を償わせるなら、生きていてもらわなければ困る。
◇
俺たちは、まず収容者たちの状態を確認した。
零号は、床に横たわったまま意識を失っている。
呼吸は安定しているが、全身の筋肉には強い負担がかかっているようだった。
俺は、できる限り身体を楽な姿勢へ整えた。
そのうえで、周囲にある布や毛布を使い、体温が下がらないようにする。
先ほど救出した一番の男も、同じように休ませている。
こちらは、時折目を開ける程度には意識が戻っていた。
「……大丈夫か?」
俺が声をかけると、男はかすかに頷いた。
「……あ、ああ……」
声は弱い。
だが、反応はある。
俺は、水を少しずつ飲ませた。
むせないよう、慎重に。
男は、何度か喉を動かした。
そして、かすれた声で呟いた。
「……ありがとう……」
俺は、静かに頷いた。
「……まだ安心するのは早い」
男の瞳が揺れる。
「……でも、必ず連れて帰る」
俺はそう告げた。
男は、ゆっくりと目を閉じた。
俺は立ち上がった。
(……さて)
問題は、残りの収容者たちだ。
容器の中には、まだ多くの人間がいる。
全員を今すぐ解放できるわけではない。
だが、生命維持装置の異常が続けば、命に関わる。
俺は制御盤へ視線を向けた。
赤い表示が、まだ点滅している。
(……急ぐ必要があるな)
◇
「……アオ」
リリアが、静かに声をかけた。
俺は振り向いた。
「……どうした?」
彼女は、銀色の羅針盤を見せた。
針が、かすかに震えている。
「……帰り道が、また変わってる」
俺は眉をひそめた。
「……どのくらい?」
「……さっきまで、入口へ向かう通路は北側だった」
リリアは、施設の奥へ視線を向けた。
「でも、今は東側へずれてる」
俺は、静かに息を吐いた。
(……やっぱり、施設全体が動いているのか)
単純な迷路ではない。
通路そのものが変化している。
しかも、俺たちが行動するたびに、構造が変わっているように見える。
俺はエドガーへ視線を向けた。
「……通路が変わる仕組みも、研究の一部か?」
男は、少しだけ顔を上げた。
「……それは、私たちの研究ではありません」
俺は目を細めた。
「……どういうことだ?」
エドガーは、静かに答えた。
「……この遺構が、もともと持っていた機能です」
俺は黙った。
男は続ける。
「……空間の接続を変化させる仕組みがあるのです。私たちは、その一部を利用しているにすぎません」
ミレーヌさんが、眉をひそめた。
「……制御できるの?」
エドガーは、首を横に振った。
「……完全には」
俺は、静かに息を吐いた。
(……なるほど)
つまり、この施設は。
研究者たちでさえ、すべてを理解しているわけではない。
それどころか。
自分たちが扱っているものの危険性すら、十分に把握していない可能性がある。
俺は、中央装置へ視線を向けた。
青白い人影は、相変わらず静かに浮かんでいる。
だが、その光は、どこか不気味だった。
◇
俺たちは、奥へ進む準備を始めた。
ミレーヌさんは、拘束したエドガーを連れていく。
リリアは、帰還経路の記録を確認する。
俺は、周囲の安全を確保しながら、必要な物資を整理した。
そして、最後に。
切断したエドガーの右腕を確認する。
腕輪は、まだ青白く光っている。
認証装置としての機能は残っているようだ。
俺は、布で包み、慎重に保持した。
エドガーは、それを見て顔を歪めた。
「……私の腕を、持ち歩くつもりですか」
俺は、静かに答えた。
「……必要だからな」
男は、何か言いかけた。
だが、結局口を閉ざした。
俺は、ミレーヌさんへ視線を向けた。
「……行きましょう」
彼女は頷いた。
「……ええ」
リリアも、羅針盤を握り直した。
「……準備できた」
俺は、奥へ続く扉を見た。
そこからは、今も低い機械音が聞こえている。
そして、俺の円には、複数の人間の気配が捉えられていた。
少なくとも五人。
そのうち二人は、明らかに強いオーラを持っている。
(……さて)
次に待っているのは、何だろうな。
研究者か。
警備員か。
それとも、また別の実験体か。
俺は、静かに拳を握った。
だが、今度は少しだけ違う。
俺たちは、すでにこの施設の仕組みを理解し始めている。
認証装置も確保した。
零号も停止させた。
そして、エドガーという情報源も手に入れた。
状況は、決して悪いことばかりではない。
俺は、奥へ続く扉へ向かって歩き出した。
そのとき。
中央装置の青白い人影が、ゆっくりとこちらを向いた。
『管理者認証を確認』
俺は足を止めた。
『第七観測区、補助電源区画への移動を検知』
青白い光が、わずかに強まる。
『警告』
俺は、静かに目を細めた。
『当該区画には、未承認の観測対象が存在します』
リリアが、息を呑んだ。
ミレーヌさんも、表情を引き締める。
俺は、青白い人影を見上げた。
「……未承認の観測対象?」
『肯定』
俺は眉をひそめた。
「……何がいる?」
短い沈黙。
そして。
『回答権限が不足しています』
俺は、小さく息を吐いた。
(……またそれか)
だが、今はそれ以上追及している時間がない。
俺は、扉へ視線を戻した。
補助電源を起動しなければ、収容者たちの命が危険に晒される。
ならば、進むしかない。
俺は、静かに歩き出した。
そして。
重い金属製の扉が、ゆっくりと開き始めた。
その向こうには、薄暗い通路が続いていた。
奥から、冷たい空気が流れ込んでくる。
そして。
かすかに。
人間の声が聞こえた。
「……誰か……」
俺は、足を止めた。
リリアが、こちらを見る。
ミレーヌさんも、表情を変えた。
声は、通路の奥から聞こえている。
弱々しい。
だが、確かに人間の声だった。
「……助けて……」
俺は、静かに息を吐いた。
(……まだ、いるのか)
俺たちが探している研究者かもしれない。
あるいは、別の被害者かもしれない。
どちらにせよ。
放っておく理由はない。
俺は、ゆっくりと拳を握った。
「……行こう」
リリアが頷いた。
「……うん」
ミレーヌさんも、静かに答えた。
「……ええ」
俺たちは、薄暗い通路へ足を踏み入れた。
背後では、青白い光が静かに揺れている。
そして。
第七観測区の奥深くで、何かが俺たちを待っていた。