流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
第七観測区、補助電源区画への連絡通路。
◇
人間の声というものは、不思議なものだ。
どれほど小さくても、周囲の物音に紛れていても、切実な感情が込められていれば耳に残る。
まして、それが助けを求める声ならなおさらだった。
「……誰か……」
薄暗い通路の奥から、かすれた声が聞こえた。
俺は足を止めた。
背後では、リリアが銀色の羅針盤を握り直している。ミレーヌさんは拘束したエドガーを連れ、少し離れた位置から通路を観察していた。
天井には細長い照明が並んでいる。
ただし、その半分以上は消えていた。
残っているものも、一定の間隔で明滅を繰り返している。
床は金属製。
壁には太い配管が走り、その表面には細かな水滴が浮かんでいた。
湿った空気には、機械油と消毒薬、それに何かが焦げたような臭いが混じっている。
俺は足元へ視線を落とした。
床には、複数の靴跡が残っていた。
大人のものだ。
しかも、一組や二組ではない。
比較的新しい。
(……人の出入りがあるな)
俺は凝を維持したまま、通路の奥を見た。
円で捉えている気配は、五つ。
そのうち二つは、明らかに念能力者のものだった。
ただし、壁の向こうにいるため、正確な位置までは把握しにくい。
この施設には、オーラの感知を妨げるような構造があるのかもしれない。
「アオ」
リリアが小声で呼びかけてきた。
「声、聞こえた?」
「ああ」
「……あの奥からだと思う」
彼女は通路の右側を指差した。
そこには、十数メートル先で分岐する横道がある。
俺は頷いた。
「ただ、少し気になる」
「何が?」
「声の聞こえ方だ」
リリアが首を傾げた。
俺は耳を澄ませた。
機械音。
水滴の落ちる音。
遠くで何かが軋む音。
そして。
「……助けて……」
再び、声が聞こえた。
同じ言葉。
同じ間隔。
同じ高さ。
(……やっぱり)
俺はミレーヌさんへ視線を向けた。
「今の声、どう思います?」
彼女は少しだけ考えた。
「不自然ね」
「ええ」
ミレーヌさんが続ける。
「二回とも、声の切れ方が同じだった」
俺は頷いた。
普通、人間が助けを求めるとき、声の大きさや息継ぎは多少なりとも変化する。
だが、今の声にはそれがない。
まるで、同じ音声を繰り返し流しているようだった。
「……録音?」
リリアが呟く。
「その可能性が高い」
俺は答えた。
すると、後ろからエドガーの声がした。
「……それは、救難誘導装置です」
俺は振り向いた。
男は青白い顔をしていた。
右腕の切断部には止血処置を施してあるが、失血の影響は無視できない。
それでも、意識は保っている。
「救難誘導装置?」
俺が尋ねると、エドガーは頷いた。
「……本来は、施設内で事故が発生した際、作業員を安全区画へ誘導するためのものです」
「じゃあ、今の声は?」
「……現在の設定がどうなっているかは、わかりません」
俺は男を見た。
「自分たちの施設なのに?」
「……すべての機能を把握しているわけではありません」
エドガーは苦々しげに答えた。
俺は通路の奥へ視線を戻した。
どうやら、あの声を頼りに進むのは危険らしい。
だが、補助電源区画へ向かう必要があることに変わりはない。
俺は一歩踏み出した。
「リリア、足跡を確認してくれ」
「うん」
「ミレーヌさん、エドガーをお願いします」
「任せなさい」
俺たちは、慎重に通路を進み始めた。
◇
分岐点へ到達すると、リリアがしゃがみ込んだ。
床には、薄く積もった埃がある。
その上に、靴跡がいくつも重なっていた。
リリアは指先で床をなぞり、足跡の深さを確かめる。
「……少なくとも六人」
彼女が言った。
「そのうち二人は、何度もここを通ってる」
「わかるのか?」
「靴底の模様が同じだから」
彼女は一つの足跡を指差した。
「これ。右足の踵に欠けた部分がある」
俺は覗き込んだ。
確かに、足跡の一部が不自然に途切れている。
「こっちにも同じ跡がある」
リリアは数歩先を指差した。
「それに、往復してる」
俺は感心した。
ただ足跡を見つけるだけではない。
歩幅。
重心のかかり方。
靴底の損傷。
そうした情報を組み合わせ、誰がどの方向へ移動したのかを読み取っている。
以前よりも、観察の精度が上がっていた。
「……こっちは?」
俺が左側の通路を指差すと、リリアは首を横に振った。
「古い跡が多い。最近はあまり使われてないと思う」
「なら、右か」
「うん」
彼女は立ち上がった。
そのとき、ミレーヌさんが口を開いた。
「待ちなさい」
俺たちは足を止めた。
彼女は、分岐点の壁を見ていた。
そこには、小さな金属板が取り付けられている。
表面には、擦り切れた文字。
『第八隔離区画』
その下には、赤い線で囲まれた警告表示があった。
『未承認者立入禁止』
「……第八?」
俺は眉を寄せた。
俺たちがいたのは、第七観測区だ。
補助電源区画へ向かう途中に、別の隔離区画があるらしい。
ミレーヌさんがエドガーを見た。
「説明して」
エドガーは口を閉ざした。
俺はその反応を見逃さなかった。
「何か知ってるな?」
「……第八隔離区画は、私の管理外です」
「誰の管理だ?」
エドガーは、少しだけ迷った。
「……保安部門です」
俺は目を細めた。
「研究施設に保安部門があるのはわかる。だが、わざわざ隔離区画を管理している理由は?」
「……危険な観測対象を収容しているからです」
ミレーヌさんが尋ねた。
「人間?」
エドガーは答えなかった。
その沈黙が、答えの代わりになっていた。
◇
俺たちは右側の通路へ進んだ。
その先は、これまでの区画と雰囲気が違っていた。
壁の色は灰色から黒へ。
照明は白から薄い赤へ。
床には、一定の間隔で太い溝が刻まれている。
そして、天井には監視装置らしい球形の機械が並んでいた。
俺はその一つを見上げた。
レンズが、ゆっくりとこちらを追っている。
(……監視されてるな)
俺はリリアへ視線を向けた。
彼女も気づいているらしい。
小さく頷いた。
俺は立ち止まらず、歩き続けた。
監視装置を壊すことは簡単だ。
だが、それによって警報が作動する可能性もある。
今は無闇に手を出さない方がいい。
しばらく進むと、通路の先に大きな扉が現れた。
分厚い金属製。
高さは三メートルほど。
左右には、複数の固定具が取り付けられている。
そして、扉の中央には、見覚えのある円形の認証口があった。
「……腕輪か」
俺は布に包んだエドガーの右腕を取り出した。
腕輪は、まだ青白く光っている。
だが、俺はすぐには認証口へ近づけなかった。
扉の周囲を確認する。
床。
壁。
天井。
そして、扉の隙間。
不自然なオーラの流れは見えない。
ただし、扉の向こうには複数の気配がある。
そのうち一つが、こちらへ近づいてきた。
(……来る)
俺は右腕を下げた。
「二人とも、下がってください」
ミレーヌさんがエドガーを壁際へ寄せる。
リリアは少し後方へ移動し、弓へ手をかけた。
俺は扉の正面から半歩ずれた位置に立った。
数秒後。
扉の向こうから、男の声が響いた。
「……そこで止まれ」
低い声だった。
落ち着いている。
少なくとも、慌てている様子はない。
「所属と認証番号を答えろ」
俺は答えなかった。
代わりに、扉を見据えた。
男は続けた。
「主任研究員の認証信号を確認している。だが、本人の生体反応が一致しない」
(……やっぱり、わかるのか)
腕輪だけでは、完全な身分偽装はできないらしい。
俺は口を開いた。
「エドガー・ヴァイスは拘束した」
短い沈黙。
「……何?」
「第七観測区の実験体を解放するため、補助電源区画へ向かっている」
俺は続けた。
「通してもらいたい」
扉の向こうで、何かが動く気配がした。
そして。
「……侵入者か」
男の声が、低くなった。
「主任をどうした?」
「生きてる。右腕は失ったがな」
今度は、明確な沈黙があった。
俺は、相手の反応を待った。
やがて。
「……主任をこちらへ渡せ」
男が言った。
「そうすれば、通行を検討する」
俺は首を横に振った。
「無理だ」
「……理由は?」
「こいつを自由にするつもりはない」
男は、しばらく黙っていた。
そして。
「……交渉決裂だな」
俺は、静かに構えた。
「残念だ」
次の瞬間。
扉の左右にある小さな開口部が開いた。
そこから、金属製の筒が突き出される。
(……銃か)
俺は即座に動いた。
床を蹴る。
壁際へ移動する。
その直後。
乾いた発射音が、連続して響いた。
◇
銃弾が床へ突き刺さった。
火花が散る。
俺は壁を蹴り、天井近くへ跳躍した。
銃口が追ってくる。
だが、動きは遅い。
自動照準なのか、それとも扉の向こうから操作しているのか。
いずれにせよ、俺の速度には対応できていなかった。
俺は天井の配管を足場にして方向を変えた。
銃弾が配管を叩く。
金属音が響いた。
(……壊してもいいが)
俺は、銃口の位置を確認した。
左右に二基。
どちらも固定式。
射角には限界がある。
ならば、破壊する必要はない。
俺は着地すると同時に、扉の正面へ踏み込んだ。
銃口がこちらを向く。
だが、その直前。
俺は床を滑るように移動した。
銃弾が頭上を通過する。
そのまま、扉の真下へ。
ここは、銃口の射角から外れている。
(……よし)
俺は扉へ手を当てた。
金属は厚い。
だが、内部の固定具には隙間がある。
念を使えば破壊することは可能だろう。
しかし、扉の向こうには人間がいる。
無理に吹き飛ばせば、巻き込む可能性がある。
俺は扉から手を離した。
「……リリア!」
「うん!」
彼女はすでに動いていた。
壁際を走り、銃口の死角へ入る。
そのまま、俺の近くへ滑り込んだ。
「……どうする?」
「扉の制御装置を探せるか?」
リリアは周囲を見渡した。
そして、左側の壁を指差した。
「……あそこ」
そこには、小さな操作盤があった。
ただし、金属製の覆いが取り付けられている。
俺は頷いた。
「任せた」
リリアが操作盤へ向かう。
俺は、銃口の動きを監視した。
そのとき。
扉の向こうから、再び男の声が響いた。
「……無駄だ」
俺は顔を上げた。
「何が?」
「その扉は、外部からは開けられない」
俺は眉をひそめた。
「……そうか?」
「管理者認証だけでは不十分だ。内部からの承認が必要になる」
俺は、静かに息を吐いた。
(……なるほど)
腕輪だけでは開かない。
だが、だからといって、通れないわけではない。
俺は扉の表面を見た。
金属製。
厚さは不明。
だが、少なくとも破壊不可能な材質ではない。
俺は右拳を握った。
その瞬間。
ミレーヌさんの声が響いた。
「アオ、待ちなさい!」
俺は振り向いた。
彼女はエドガーを拘束したまま、扉の上部を見ていた。
「……何です?」
「上を見て」
俺は視線を上げた。
扉の上部には、小さな表示灯があった。
赤。
黄。
青。
そのうち、黄色だけが点滅している。
ミレーヌさんが言った。
「……あれ、警告表示じゃないわ」
俺は眉をひそめた。
「……どういうことです?」
「扉の状態を示しているのよ」
彼女は続けた。
「赤が施錠。青が解錠。黄色は……」
そのとき。
エドガーが、かすれた声で呟いた。
「……圧力調整中です」
俺は男を見た。
「圧力?」
「……この先は、隔離区画です。内部と外部の気圧が異なる場合、扉は自動的に開きません」
俺は、表示灯を見た。
黄色の点滅。
確かに、一定の間隔で続いている。
(……なるほど)
ならば、無理に破壊するのは危険だ。
内部の環境がどうなっているかわからない。
俺は、拳を下ろした。
「……圧力調整は、どれくらいかかる?」
エドガーは、少しだけ考えた。
「……通常なら、数分です」
俺は頷いた。
「……なら、待つか」
だが。
その判断を下した直後。
扉の向こうから、別の声が響いた。
「……待つ必要はない」
先ほどの男とは違う声。
低く、落ち着いている。
そして、明らかに強いオーラを感じる。
俺は、静かに構えた。
(……念能力者か)
男は続けた。
「……こちらから開けてやる」
次の瞬間。
黄色の表示灯が消えた。
代わりに、青い光が灯る。
そして。
重い金属製の扉が、ゆっくりと開き始めた。
◇
扉の向こうには、広い空間があった。
天井は高い。
床には、複数の金属製の台が並んでいる。
壁際には、巨大な機械が設置されていた。
そして、その中央。
二人の男が立っていた。
一人は、黒い制服を着た中年の男。
短く刈り込んだ髪。
鋭い目。
右腰には拳銃。
左腰には短い警棒。
身体を包むオーラは、かなり濃い。
もう一人は、灰色の作業服を着た大柄な男だった。
身長は二メートル近い。
太い腕。
厚い胸板。
そして、首筋には古い傷跡がある。
こちらも念能力者だ。
しかも、かなりの使い手らしい。
俺は、二人を観察した。
(……少なくとも、普通の警備員じゃないな)
黒い制服の男が、こちらを見た。
「……侵入者か」
俺は答えた。
「そうなるな」
男の視線が、俺の手元へ向く。
布に包んだエドガーの右腕。
その腕輪が、青白く光っている。
男の表情が、わずかに変わった。
「……主任の腕か」
「ああ」
俺は短く答えた。
男は、しばらく黙っていた。
そして。
「……ずいぶん思い切ったことをする」
俺は肩をすくめた。
「必要だったからな」
男は、静かに笑った。
「……なるほど」
その笑みには、エドガーのような研究者特有の冷たさはなかった。
だが、別の意味で危険なものを感じた。
戦い慣れた人間の余裕。
相手の実力を測るような視線。
そして、必要なら迷わず殺すことのできる雰囲気。
俺は、静かに構えた。
「……名前を聞いても?」
男は、少しだけ目を細めた。
「……レオン・グラント」
低い声で答える。
「第八隔離区画、保安責任者だ」
俺は頷いた。
「……アオだ」
レオンは、俺を見つめた。
「……ハンターか?」
「ああ」
男は、少しだけ笑った。
「……そうか」
そして。
「……なら、話が早い」
俺は眉をひそめた。
「……どういう意味だ?」
レオンは、腰の警棒へ手を伸ばした。
その瞬間。
彼の身体を包むオーラが、急激に膨れ上がった。
俺は、静かに息を吐いた。
(……やっぱり、戦うつもりか)
だが、次の言葉は予想外だった。
「……ここを通りたいなら、俺を倒せ」
俺は、目を細めた。
レオンは続けた。
「……それが、この区画の規則だ」
俺は、しばらく男を見つめた。
そして。
「……規則?」
レオンは頷いた。
「……そうだ」
俺は、静かに首を横に振った。
「……悪いが、そんなものに付き合っている暇はない」
男の笑みが深くなる。
「……なら、力ずくで通るか?」
俺は答えなかった。
ただ、静かに構えた。
背後には、リリアとミレーヌさん。
そして、拘束されたエドガー。
さらに、奥には補助電源区画がある。
そこで電源を起動しなければ、収容者たちの命が危険に晒される。
俺は、レオンを見据えた。
「……一つだけ聞く」
男が眉を上げる。
「……何だ?」
「補助電源は、この奥にあるんだな?」
レオンは、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
俺は、静かに息を吐いた。
「……なら、通してもらう」
レオンの笑みが、わずかに消えた。
そして。
「……やってみろ」
その言葉と同時に。
男が、床を蹴った。
◇
速い。
俺は、最初の一歩でそう判断した。
レオンの身体が、視界の中で急激に大きくなる。
右手には警棒。
左手は空いている。
警棒の先端には、濃いオーラが集まっていた。
(……周か)
俺は半歩横へ移動した。
警棒が、俺の肩をかすめる。
風圧。
そして、わずかな衝撃。
俺はそのまま身体を回転させた。
右掌底。
狙いは胸部。
だが、レオンは左腕で受けた。
鈍い音が響く。
男の身体が、わずかに後退した。
「……ほう」
レオンが笑った。
「……いい動きだ」
俺は答えなかった。
男の左腕を観察する。
防御の瞬間、オーラが集中していた。
流。
しかも、かなり滑らかだ。
(……基礎はしっかりしてるな)
レオンが再び踏み込む。
警棒が、横薙ぎに振るわれた。
俺は上体を沈める。
そのまま懐へ入る。
左手で相手の手首を押さえる。
右足を踏み込む。
そして、重心を崩す。
だが。
レオンは、そこで踏みとどまった。
左足を大きく開き、体勢を立て直す。
俺は、わずかに目を細めた。
(……反応がいい)
普通の相手なら、今ので床へ倒れている。
だが、レオンは違う。
身体の使い方を理解している。
しかも、こちらの動きに合わせて、素早く対応してくる。
俺は距離を取った。
レオンも、すぐには追ってこない。
互いに数歩離れた位置で向き合う。
男が口を開いた。
「……なるほど」
俺は黙っていた。
レオンは、警棒を肩へ担ぐ。
「……主任がやられた理由が、少しわかった」
俺は静かに答えた。
「……それはどうも」
男は笑った。
「……だが」
その瞬間。
レオンのオーラが、さらに濃くなった。
「……俺は、あの研究者とは違うぞ」
俺は、静かに構え直した。
(……知ってるよ)
だからこそ、油断していない。
俺は、相手の呼吸を見た。
足の位置。
重心。
警棒の角度。
そして、オーラの流れ。
レオンは、ゆっくりと警棒を構えた。
その背後では、灰色の作業服を着た大男が、腕を組んだままこちらを見ている。
あちらも、まだ動く気配はない。
(……二対一になる可能性もあるな)
俺は、静かに息を吐いた。
だが、焦る必要はない。
今のところ、レオンの能力は未知だ。
ならば、まずは観察する。
相手の得意な距離。
攻撃の癖。
念の使い方。
それらを把握したうえで、最短の方法で無力化する。
俺は、静かに一歩踏み出した。
レオンも、同時に動いた。
そして。
第八隔離区画の中央で、再び拳と警棒が交錯した。