流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第四十五話 閉ざされた救難信号――第八隔離区画

一九八九年、春。

 

 霧哭きの渓谷、地下深部。

 

 第七観測区、補助電源区画への連絡通路。

 

     ◇

 

 人間の声というものは、不思議なものだ。

 

 どれほど小さくても、周囲の物音に紛れていても、切実な感情が込められていれば耳に残る。

 

 まして、それが助けを求める声ならなおさらだった。

 

「……誰か……」

 

 薄暗い通路の奥から、かすれた声が聞こえた。

 

 俺は足を止めた。

 

 背後では、リリアが銀色の羅針盤を握り直している。ミレーヌさんは拘束したエドガーを連れ、少し離れた位置から通路を観察していた。

 

 天井には細長い照明が並んでいる。

 

 ただし、その半分以上は消えていた。

 

 残っているものも、一定の間隔で明滅を繰り返している。

 

 床は金属製。

 

 壁には太い配管が走り、その表面には細かな水滴が浮かんでいた。

 

 湿った空気には、機械油と消毒薬、それに何かが焦げたような臭いが混じっている。

 

 俺は足元へ視線を落とした。

 

 床には、複数の靴跡が残っていた。

 

 大人のものだ。

 

 しかも、一組や二組ではない。

 

 比較的新しい。

 

(……人の出入りがあるな)

 

 俺は凝を維持したまま、通路の奥を見た。

 

 円で捉えている気配は、五つ。

 

 そのうち二つは、明らかに念能力者のものだった。

 

 ただし、壁の向こうにいるため、正確な位置までは把握しにくい。

 

 この施設には、オーラの感知を妨げるような構造があるのかもしれない。

 

「アオ」

 

 リリアが小声で呼びかけてきた。

 

「声、聞こえた?」

 

「ああ」

 

「……あの奥からだと思う」

 

 彼女は通路の右側を指差した。

 

 そこには、十数メートル先で分岐する横道がある。

 

 俺は頷いた。

 

「ただ、少し気になる」

 

「何が?」

 

「声の聞こえ方だ」

 

 リリアが首を傾げた。

 

 俺は耳を澄ませた。

 

 機械音。

 

 水滴の落ちる音。

 

 遠くで何かが軋む音。

 

 そして。

 

「……助けて……」

 

 再び、声が聞こえた。

 

 同じ言葉。

 

 同じ間隔。

 

 同じ高さ。

 

(……やっぱり)

 

 俺はミレーヌさんへ視線を向けた。

 

「今の声、どう思います?」

 

 彼女は少しだけ考えた。

 

「不自然ね」

 

「ええ」

 

 ミレーヌさんが続ける。

 

「二回とも、声の切れ方が同じだった」

 

 俺は頷いた。

 

 普通、人間が助けを求めるとき、声の大きさや息継ぎは多少なりとも変化する。

 

 だが、今の声にはそれがない。

 

 まるで、同じ音声を繰り返し流しているようだった。

 

「……録音?」

 

 リリアが呟く。

 

「その可能性が高い」

 

 俺は答えた。

 

 すると、後ろからエドガーの声がした。

 

「……それは、救難誘導装置です」

 

 俺は振り向いた。

 

 男は青白い顔をしていた。

 

 右腕の切断部には止血処置を施してあるが、失血の影響は無視できない。

 

 それでも、意識は保っている。

 

「救難誘導装置?」

 

 俺が尋ねると、エドガーは頷いた。

 

「……本来は、施設内で事故が発生した際、作業員を安全区画へ誘導するためのものです」

 

「じゃあ、今の声は?」

 

「……現在の設定がどうなっているかは、わかりません」

 

 俺は男を見た。

 

「自分たちの施設なのに?」

 

「……すべての機能を把握しているわけではありません」

 

 エドガーは苦々しげに答えた。

 

 俺は通路の奥へ視線を戻した。

 

 どうやら、あの声を頼りに進むのは危険らしい。

 

 だが、補助電源区画へ向かう必要があることに変わりはない。

 

 俺は一歩踏み出した。

 

「リリア、足跡を確認してくれ」

 

「うん」

 

「ミレーヌさん、エドガーをお願いします」

 

「任せなさい」

 

 俺たちは、慎重に通路を進み始めた。

 

     ◇

 

 分岐点へ到達すると、リリアがしゃがみ込んだ。

 

 床には、薄く積もった埃がある。

 

 その上に、靴跡がいくつも重なっていた。

 

 リリアは指先で床をなぞり、足跡の深さを確かめる。

 

「……少なくとも六人」

 

 彼女が言った。

 

「そのうち二人は、何度もここを通ってる」

 

「わかるのか?」

 

「靴底の模様が同じだから」

 

 彼女は一つの足跡を指差した。

 

「これ。右足の踵に欠けた部分がある」

 

 俺は覗き込んだ。

 

 確かに、足跡の一部が不自然に途切れている。

 

「こっちにも同じ跡がある」

 

 リリアは数歩先を指差した。

 

「それに、往復してる」

 

 俺は感心した。

 

 ただ足跡を見つけるだけではない。

 

 歩幅。

 

 重心のかかり方。

 

 靴底の損傷。

 

 そうした情報を組み合わせ、誰がどの方向へ移動したのかを読み取っている。

 

 以前よりも、観察の精度が上がっていた。

 

「……こっちは?」

 

 俺が左側の通路を指差すと、リリアは首を横に振った。

 

「古い跡が多い。最近はあまり使われてないと思う」

 

「なら、右か」

 

「うん」

 

 彼女は立ち上がった。

 

 そのとき、ミレーヌさんが口を開いた。

 

「待ちなさい」

 

 俺たちは足を止めた。

 

 彼女は、分岐点の壁を見ていた。

 

 そこには、小さな金属板が取り付けられている。

 

 表面には、擦り切れた文字。

 

『第八隔離区画』

 

 その下には、赤い線で囲まれた警告表示があった。

 

『未承認者立入禁止』

 

「……第八?」

 

 俺は眉を寄せた。

 

 俺たちがいたのは、第七観測区だ。

 

 補助電源区画へ向かう途中に、別の隔離区画があるらしい。

 

 ミレーヌさんがエドガーを見た。

 

「説明して」

 

 エドガーは口を閉ざした。

 

 俺はその反応を見逃さなかった。

 

「何か知ってるな?」

 

「……第八隔離区画は、私の管理外です」

 

「誰の管理だ?」

 

 エドガーは、少しだけ迷った。

 

「……保安部門です」

 

 俺は目を細めた。

 

「研究施設に保安部門があるのはわかる。だが、わざわざ隔離区画を管理している理由は?」

 

「……危険な観測対象を収容しているからです」

 

 ミレーヌさんが尋ねた。

 

「人間?」

 

 エドガーは答えなかった。

 

 その沈黙が、答えの代わりになっていた。

 

     ◇

 

 俺たちは右側の通路へ進んだ。

 

 その先は、これまでの区画と雰囲気が違っていた。

 

 壁の色は灰色から黒へ。

 

 照明は白から薄い赤へ。

 

 床には、一定の間隔で太い溝が刻まれている。

 

 そして、天井には監視装置らしい球形の機械が並んでいた。

 

 俺はその一つを見上げた。

 

 レンズが、ゆっくりとこちらを追っている。

 

(……監視されてるな)

 

 俺はリリアへ視線を向けた。

 

 彼女も気づいているらしい。

 

 小さく頷いた。

 

 俺は立ち止まらず、歩き続けた。

 

 監視装置を壊すことは簡単だ。

 

 だが、それによって警報が作動する可能性もある。

 

 今は無闇に手を出さない方がいい。

 

 しばらく進むと、通路の先に大きな扉が現れた。

 

 分厚い金属製。

 

 高さは三メートルほど。

 

 左右には、複数の固定具が取り付けられている。

 

 そして、扉の中央には、見覚えのある円形の認証口があった。

 

「……腕輪か」

 

 俺は布に包んだエドガーの右腕を取り出した。

 

 腕輪は、まだ青白く光っている。

 

 だが、俺はすぐには認証口へ近づけなかった。

 

 扉の周囲を確認する。

 

 床。

 

 壁。

 

 天井。

 

 そして、扉の隙間。

 

 不自然なオーラの流れは見えない。

 

 ただし、扉の向こうには複数の気配がある。

 

 そのうち一つが、こちらへ近づいてきた。

 

(……来る)

 

 俺は右腕を下げた。

 

「二人とも、下がってください」

 

 ミレーヌさんがエドガーを壁際へ寄せる。

 

 リリアは少し後方へ移動し、弓へ手をかけた。

 

 俺は扉の正面から半歩ずれた位置に立った。

 

 数秒後。

 

 扉の向こうから、男の声が響いた。

 

「……そこで止まれ」

 

 低い声だった。

 

 落ち着いている。

 

 少なくとも、慌てている様子はない。

 

「所属と認証番号を答えろ」

 

 俺は答えなかった。

 

 代わりに、扉を見据えた。

 

 男は続けた。

 

「主任研究員の認証信号を確認している。だが、本人の生体反応が一致しない」

 

(……やっぱり、わかるのか)

 

 腕輪だけでは、完全な身分偽装はできないらしい。

 

 俺は口を開いた。

 

「エドガー・ヴァイスは拘束した」

 

 短い沈黙。

 

「……何?」

 

「第七観測区の実験体を解放するため、補助電源区画へ向かっている」

 

 俺は続けた。

 

「通してもらいたい」

 

 扉の向こうで、何かが動く気配がした。

 

 そして。

 

「……侵入者か」

 

 男の声が、低くなった。

 

「主任をどうした?」

 

「生きてる。右腕は失ったがな」

 

 今度は、明確な沈黙があった。

 

 俺は、相手の反応を待った。

 

 やがて。

 

「……主任をこちらへ渡せ」

 

 男が言った。

 

「そうすれば、通行を検討する」

 

 俺は首を横に振った。

 

「無理だ」

 

「……理由は?」

 

「こいつを自由にするつもりはない」

 

 男は、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……交渉決裂だな」

 

 俺は、静かに構えた。

 

「残念だ」

 

 次の瞬間。

 

 扉の左右にある小さな開口部が開いた。

 

 そこから、金属製の筒が突き出される。

 

(……銃か)

 

 俺は即座に動いた。

 

 床を蹴る。

 

 壁際へ移動する。

 

 その直後。

 

 乾いた発射音が、連続して響いた。

 

     ◇

 

 銃弾が床へ突き刺さった。

 

 火花が散る。

 

 俺は壁を蹴り、天井近くへ跳躍した。

 

 銃口が追ってくる。

 

 だが、動きは遅い。

 

 自動照準なのか、それとも扉の向こうから操作しているのか。

 

 いずれにせよ、俺の速度には対応できていなかった。

 

 俺は天井の配管を足場にして方向を変えた。

 

 銃弾が配管を叩く。

 

 金属音が響いた。

 

(……壊してもいいが)

 

 俺は、銃口の位置を確認した。

 

 左右に二基。

 

 どちらも固定式。

 

 射角には限界がある。

 

 ならば、破壊する必要はない。

 

 俺は着地すると同時に、扉の正面へ踏み込んだ。

 

 銃口がこちらを向く。

 

 だが、その直前。

 

 俺は床を滑るように移動した。

 

 銃弾が頭上を通過する。

 

 そのまま、扉の真下へ。

 

 ここは、銃口の射角から外れている。

 

(……よし)

 

 俺は扉へ手を当てた。

 

 金属は厚い。

 

 だが、内部の固定具には隙間がある。

 

 念を使えば破壊することは可能だろう。

 

 しかし、扉の向こうには人間がいる。

 

 無理に吹き飛ばせば、巻き込む可能性がある。

 

 俺は扉から手を離した。

 

「……リリア!」

 

「うん!」

 

 彼女はすでに動いていた。

 

 壁際を走り、銃口の死角へ入る。

 

 そのまま、俺の近くへ滑り込んだ。

 

「……どうする?」

 

「扉の制御装置を探せるか?」

 

 リリアは周囲を見渡した。

 

 そして、左側の壁を指差した。

 

「……あそこ」

 

 そこには、小さな操作盤があった。

 

 ただし、金属製の覆いが取り付けられている。

 

 俺は頷いた。

 

「任せた」

 

 リリアが操作盤へ向かう。

 

 俺は、銃口の動きを監視した。

 

 そのとき。

 

 扉の向こうから、再び男の声が響いた。

 

「……無駄だ」

 

 俺は顔を上げた。

 

「何が?」

 

「その扉は、外部からは開けられない」

 

 俺は眉をひそめた。

 

「……そうか?」

 

「管理者認証だけでは不十分だ。内部からの承認が必要になる」

 

 俺は、静かに息を吐いた。

 

(……なるほど)

 

 腕輪だけでは開かない。

 

 だが、だからといって、通れないわけではない。

 

 俺は扉の表面を見た。

 

 金属製。

 

 厚さは不明。

 

 だが、少なくとも破壊不可能な材質ではない。

 

 俺は右拳を握った。

 

 その瞬間。

 

 ミレーヌさんの声が響いた。

 

「アオ、待ちなさい!」

 

 俺は振り向いた。

 

 彼女はエドガーを拘束したまま、扉の上部を見ていた。

 

「……何です?」

 

「上を見て」

 

 俺は視線を上げた。

 

 扉の上部には、小さな表示灯があった。

 

 赤。

 

 黄。

 

 青。

 

 そのうち、黄色だけが点滅している。

 

 ミレーヌさんが言った。

 

「……あれ、警告表示じゃないわ」

 

 俺は眉をひそめた。

 

「……どういうことです?」

 

「扉の状態を示しているのよ」

 

 彼女は続けた。

 

「赤が施錠。青が解錠。黄色は……」

 

 そのとき。

 

 エドガーが、かすれた声で呟いた。

 

「……圧力調整中です」

 

 俺は男を見た。

 

「圧力?」

 

「……この先は、隔離区画です。内部と外部の気圧が異なる場合、扉は自動的に開きません」

 

 俺は、表示灯を見た。

 

 黄色の点滅。

 

 確かに、一定の間隔で続いている。

 

(……なるほど)

 

 ならば、無理に破壊するのは危険だ。

 

 内部の環境がどうなっているかわからない。

 

 俺は、拳を下ろした。

 

「……圧力調整は、どれくらいかかる?」

 

 エドガーは、少しだけ考えた。

 

「……通常なら、数分です」

 

 俺は頷いた。

 

「……なら、待つか」

 

 だが。

 

 その判断を下した直後。

 

 扉の向こうから、別の声が響いた。

 

「……待つ必要はない」

 

 先ほどの男とは違う声。

 

 低く、落ち着いている。

 

 そして、明らかに強いオーラを感じる。

 

 俺は、静かに構えた。

 

(……念能力者か)

 

 男は続けた。

 

「……こちらから開けてやる」

 

 次の瞬間。

 

 黄色の表示灯が消えた。

 

 代わりに、青い光が灯る。

 

 そして。

 

 重い金属製の扉が、ゆっくりと開き始めた。

 

     ◇

 

 扉の向こうには、広い空間があった。

 

 天井は高い。

 

 床には、複数の金属製の台が並んでいる。

 

 壁際には、巨大な機械が設置されていた。

 

 そして、その中央。

 

 二人の男が立っていた。

 

 一人は、黒い制服を着た中年の男。

 

 短く刈り込んだ髪。

 

 鋭い目。

 

 右腰には拳銃。

 

 左腰には短い警棒。

 

 身体を包むオーラは、かなり濃い。

 

 もう一人は、灰色の作業服を着た大柄な男だった。

 

 身長は二メートル近い。

 

 太い腕。

 

 厚い胸板。

 

 そして、首筋には古い傷跡がある。

 

 こちらも念能力者だ。

 

 しかも、かなりの使い手らしい。

 

 俺は、二人を観察した。

 

(……少なくとも、普通の警備員じゃないな)

 

 黒い制服の男が、こちらを見た。

 

「……侵入者か」

 

 俺は答えた。

 

「そうなるな」

 

 男の視線が、俺の手元へ向く。

 

 布に包んだエドガーの右腕。

 

 その腕輪が、青白く光っている。

 

 男の表情が、わずかに変わった。

 

「……主任の腕か」

 

「ああ」

 

 俺は短く答えた。

 

 男は、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……ずいぶん思い切ったことをする」

 

 俺は肩をすくめた。

 

「必要だったからな」

 

 男は、静かに笑った。

 

「……なるほど」

 

 その笑みには、エドガーのような研究者特有の冷たさはなかった。

 

 だが、別の意味で危険なものを感じた。

 

 戦い慣れた人間の余裕。

 

 相手の実力を測るような視線。

 

 そして、必要なら迷わず殺すことのできる雰囲気。

 

 俺は、静かに構えた。

 

「……名前を聞いても?」

 

 男は、少しだけ目を細めた。

 

「……レオン・グラント」

 

 低い声で答える。

 

「第八隔離区画、保安責任者だ」

 

 俺は頷いた。

 

「……アオだ」

 

 レオンは、俺を見つめた。

 

「……ハンターか?」

 

「ああ」

 

 男は、少しだけ笑った。

 

「……そうか」

 

 そして。

 

「……なら、話が早い」

 

 俺は眉をひそめた。

 

「……どういう意味だ?」

 

 レオンは、腰の警棒へ手を伸ばした。

 

 その瞬間。

 

 彼の身体を包むオーラが、急激に膨れ上がった。

 

 俺は、静かに息を吐いた。

 

(……やっぱり、戦うつもりか)

 

 だが、次の言葉は予想外だった。

 

「……ここを通りたいなら、俺を倒せ」

 

 俺は、目を細めた。

 

 レオンは続けた。

 

「……それが、この区画の規則だ」

 

 俺は、しばらく男を見つめた。

 

 そして。

 

「……規則?」

 

 レオンは頷いた。

 

「……そうだ」

 

 俺は、静かに首を横に振った。

 

「……悪いが、そんなものに付き合っている暇はない」

 

 男の笑みが深くなる。

 

「……なら、力ずくで通るか?」

 

 俺は答えなかった。

 

 ただ、静かに構えた。

 

 背後には、リリアとミレーヌさん。

 

 そして、拘束されたエドガー。

 

 さらに、奥には補助電源区画がある。

 

 そこで電源を起動しなければ、収容者たちの命が危険に晒される。

 

 俺は、レオンを見据えた。

 

「……一つだけ聞く」

 

 男が眉を上げる。

 

「……何だ?」

 

「補助電源は、この奥にあるんだな?」

 

 レオンは、ゆっくりと頷いた。

 

「……ああ」

 

 俺は、静かに息を吐いた。

 

「……なら、通してもらう」

 

 レオンの笑みが、わずかに消えた。

 

 そして。

 

「……やってみろ」

 

 その言葉と同時に。

 

 男が、床を蹴った。

 

     ◇

 

 速い。

 

 俺は、最初の一歩でそう判断した。

 

 レオンの身体が、視界の中で急激に大きくなる。

 

 右手には警棒。

 

 左手は空いている。

 

 警棒の先端には、濃いオーラが集まっていた。

 

(……周か)

 

 俺は半歩横へ移動した。

 

 警棒が、俺の肩をかすめる。

 

 風圧。

 

 そして、わずかな衝撃。

 

 俺はそのまま身体を回転させた。

 

 右掌底。

 

 狙いは胸部。

 

 だが、レオンは左腕で受けた。

 

 鈍い音が響く。

 

 男の身体が、わずかに後退した。

 

「……ほう」

 

 レオンが笑った。

 

「……いい動きだ」

 

 俺は答えなかった。

 

 男の左腕を観察する。

 

 防御の瞬間、オーラが集中していた。

 

 流。

 

 しかも、かなり滑らかだ。

 

(……基礎はしっかりしてるな)

 

 レオンが再び踏み込む。

 

 警棒が、横薙ぎに振るわれた。

 

 俺は上体を沈める。

 

 そのまま懐へ入る。

 

 左手で相手の手首を押さえる。

 

 右足を踏み込む。

 

 そして、重心を崩す。

 

 だが。

 

 レオンは、そこで踏みとどまった。

 

 左足を大きく開き、体勢を立て直す。

 

 俺は、わずかに目を細めた。

 

(……反応がいい)

 

 普通の相手なら、今ので床へ倒れている。

 

 だが、レオンは違う。

 

 身体の使い方を理解している。

 

 しかも、こちらの動きに合わせて、素早く対応してくる。

 

 俺は距離を取った。

 

 レオンも、すぐには追ってこない。

 

 互いに数歩離れた位置で向き合う。

 

 男が口を開いた。

 

「……なるほど」

 

 俺は黙っていた。

 

 レオンは、警棒を肩へ担ぐ。

 

「……主任がやられた理由が、少しわかった」

 

 俺は静かに答えた。

 

「……それはどうも」

 

 男は笑った。

 

「……だが」

 

 その瞬間。

 

 レオンのオーラが、さらに濃くなった。

 

「……俺は、あの研究者とは違うぞ」

 

 俺は、静かに構え直した。

 

(……知ってるよ)

 

 だからこそ、油断していない。

 

 俺は、相手の呼吸を見た。

 

 足の位置。

 

 重心。

 

 警棒の角度。

 

 そして、オーラの流れ。

 

 レオンは、ゆっくりと警棒を構えた。

 

 その背後では、灰色の作業服を着た大男が、腕を組んだままこちらを見ている。

 

 あちらも、まだ動く気配はない。

 

(……二対一になる可能性もあるな)

 

 俺は、静かに息を吐いた。

 

 だが、焦る必要はない。

 

 今のところ、レオンの能力は未知だ。

 

 ならば、まずは観察する。

 

 相手の得意な距離。

 

 攻撃の癖。

 

 念の使い方。

 

 それらを把握したうえで、最短の方法で無力化する。

 

 俺は、静かに一歩踏み出した。

 

 レオンも、同時に動いた。

 

 そして。

 

 第八隔離区画の中央で、再び拳と警棒が交錯した。

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