流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
第八隔離区画。
◇
金属同士が打ち合うような、甲高い音が響いた。
レオン・グラントの警棒が、俺の左肩を狙って振り下ろされる。
その軌道を見切り、右足を半歩引いた。
警棒が鼻先を通過する。
風圧が頬を撫でた。
俺は相手の右腕へ手を伸ばす。
手首を掴み、肘を制し、重心を崩す。
狙いは投げだ。
だが、レオンは素早かった。
俺が手首へ触れた瞬間、警棒を握る手を緩めたのだ。
棒が手の中で滑り、握る位置が変わる。
長く使っていた警棒が、短い打撃武器へと変わった。
肘が畳まれる。
至近距離から、柄頭が俺の胸へ突き出された。
(……そう来るか)
俺は左手を差し込み、打撃の軌道を外した。
同時に右の掌底を放つ。
狙いは顎。
レオンが首を傾けた。
掌底は頬をかすめるに留まる。
だが、こちらの目的はそれだけではない。
俺は踏み込んだ足を軸に身体を回し、相手の右膝へ足を掛けた。
レオンの重心が後方へ傾く。
今度こそ倒れる。
そう判断した瞬間だった。
ガンッ!
警棒の先端が床を叩いた。
レオンはそれを支えにして、崩れかけた体勢を立て直した。
さらに、警棒を押し込む反動を使って後方へ跳ぶ。
俺の指先が制服をかすめた。
距離が開く。
互いに三メートルほど離れたところで、動きが止まった。
「……なるほどな」
レオンが警棒を握り直した。
口元には薄い笑みが浮かんでいる。
「その歳で、よくそこまで身体を使える」
俺は返事をせず、相手の足元を観察した。
右足がわずかに外側を向いている。
左膝には、古い傷を庇うような癖がある。
ただし、それが動きを鈍らせているわけではない。
むしろ、長年の戦闘経験によって身体に染みついた動作なのだろう。
警棒を扱う技術も高い。
念の基礎も十分に鍛えられている。
相手の攻撃を受ける瞬間にオーラを集中させ、無駄な消耗を抑えていた。
(……流も堅実だな)
少なくとも、見かけだけの警備責任者ではない。
レオンが顎をしゃくった。
「どうした。もう終わりか?」
「いや」
俺は拳を開き、指を軽く動かした。
「少し確認していただけだ」
「何を?」
「どの程度なら、怪我をさせずに倒せるか」
レオンの笑みが消えた。
その背後で、灰色の作業服を着た大男が低く笑った。
「……随分と舐められたもんだな、隊長」
レオンは答えなかった。
ただ、警棒を構え直す。
その目つきが変わった。
先ほどまでの余裕を含んだものではない。
敵を仕留めるために、必要な距離と機会を測る目だった。
(……ようやく本気か)
俺も腰を落とした。
戦いは、ここからが本番らしい。
◇
もっとも、俺には長々と付き合うつもりはなかった。
第七観測区では、二十四基の生命維持容器が稼働している。
そのうち四基には異常が発生していた。
七番。
九番。
十三番。
二十一番。
補助電源を起動しなければ、収容されている人間の命が危険に晒される。
エドガーの説明が正しければ、だが。
仮に嘘だったとしても、制御盤に異常表示が出ていたのは事実だ。
放置する理由にはならない。
「アオ!」
背後からリリアの声がした。
「右の通路、奥まで続いてる!」
俺は視線を動かさずに答えた。
「補助電源は?」
「まだわからない。でも、太い送電管がそっちへ伸びてる!」
「了解!」
レオンが小さく鼻を鳴らした。
「戦っている最中に、よそ見とは余裕だな」
「よそ見はしてない」
俺は答えた。
「お前の呼吸も、足音も聞いてる」
レオンが床を蹴った。
今度は先ほどより速い。
警棒を右肩に担いだ姿勢から、一気に踏み込んでくる。
俺は左へ動いた。
だが、レオンは警棒を振らなかった。
踏み込んだ足を軸に身体を回し、左拳を突き出してきた。
フェイント。
俺は右腕で受け流した。
拳が前腕に触れた瞬間、相手のオーラが急激に移動する。
(……硬!)
俺は接触を解き、身体を捻った。
直後、レオンの拳が空を切る。
拳に集中したオーラが、薄暗い照明の下で輪郭を際立たせていた。
まともに受ければ、俺でも無傷では済まないだろう。
だが、攻撃を外した直後のレオンは無防備だった。
警棒を持つ右手は、まだ身体の外側にある。
左拳は伸びきっている。
重心は前。
俺は懐へ踏み込んだ。
右肩を相手の胸へ当てる。
左手で腰を押さえる。
そして、身体を沈めた。
「……っ!」
レオンが息を呑む。
俺は足を払った。
今度は警棒を床へ突く暇を与えない。
レオンの身体が浮いた。
そのまま、床へ叩きつける。
鈍い音が響いた。
俺はすぐに追撃せず、相手の状態を確認した。
呼吸はある。
意識も残っている。
だが、背中から落ちた衝撃で一瞬動きが止まっていた。
(……これで終わればいいんだが)
そう考えた直後。
レオンの口元が動いた。
「……捕まえた」
俺は反射的に後退しようとした。
だが。
足が動かなかった。
◇
(……何?)
視線を落とす。
俺の右足首に、何かが絡みついていた。
いや、違う。
絡みついているわけではない。
足首の周囲に、透明な輪のようなものが浮かんでいる。
凝を強める。
輪郭が見えた。
淡い灰色のオーラ。
それが床と俺の足首を結びつけている。
(……念能力か)
俺は即座に左足へ重心を移した。
だが、右足は動かない。
無理に引き抜こうとすれば、足首へ強い負担がかかる。
レオンが床から起き上がった。
「……ようやく掛かったな」
男は警棒を拾い、肩を回した。
「お前、俺の攻撃をずっと見てただろ」
俺は黙っていた。
「だが、足元はどうだ?」
レオンが警棒の先端で床を叩く。
その瞬間、灰色の輪がわずかに濃くなった。
(……警棒を床へ接触させることが条件か?)
思い返す。
最初の投げを防いだとき。
レオンは警棒を床へ突いた。
その後も、何度か床へ先端を接触させている。
ただの体勢維持だと思っていたが、違ったらしい。
あの動作には、別の意味があった。
「……能力名くらいは教えてやる」
レオンが言った。
「『不動の戒め(アンカー・ロック)』」
男は警棒を構えた。
「俺が指定した場所に、相手を固定する」
俺は足首の輪を見た。
なるほど。
確かに、単純だが厄介な能力だ。
ただし、説明をそのまま信じるつもりはない。
相手がわざわざ能力名を教えるのには、理由があるかもしれない。
発動条件を満たすためか。
あるいは、能力の一部だけを明かして誤認させるためか。
いずれにせよ、警戒する必要がある。
レオンが踏み込んだ。
警棒が振り下ろされる。
俺は右足を固定されたまま、上体を捻った。
警棒が肩をかすめる。
続く横薙ぎ。
俺は左腕で軌道を逸らした。
さらに、相手の懐へ拳を放つ。
だが、足が固定されているため、踏み込みが浅い。
レオンは容易に距離を取った。
「……どうした?」
男が笑う。
「さっきまでの動きはどこへ行った?」
俺は返事をしなかった。
代わりに、足首へ意識を向ける。
オーラの輪は、右足を固定している。
だが、床そのものと一体化しているわけではなさそうだ。
輪の内側には、わずかな空間がある。
俺は右足へ力を込めた。
動かない。
さらに力を加える。
床が軋んだ。
レオンの表情が、わずかに変わる。
(……なるほど)
固定されているのは、俺の足首と床の一点。
ならば。
床の方を動かせばいい。
俺は左足を踏み込み、右足へ力を集中させた。
バキッ!
金属製の床板が、鈍い音を立てて歪んだ。
レオンが目を見開く。
「……なっ!?」
俺はさらに力を加えた。
床板を固定していた金具が外れる。
次の瞬間。
俺の右足が、床板の一部を引き剥がした。
灰色の輪は、足首と床板を繋いだままだ。
だが、床板そのものが動いている。
(……やっぱりな)
俺は右足を持ち上げた。
床板がぶら下がる。
レオンが、呆然と呟いた。
「……馬鹿な」
俺は、静かに答えた。
「固定する相手を間違えたな」
そして。
床板を振り払うように右足を動かした。
金属片が床へ叩きつけられる。
衝撃で灰色の輪が揺らぎ、消えた。
俺は足首を回した。
問題なく動く。
レオンは、しばらく黙っていた。
やがて。
「……化け物か、お前は」
俺は肩をすくめた。
「ただのハンターだよ」
◇
レオンの能力は、厄介ではある。
だが、絶対的な拘束ではない。
少なくとも、今の使い方ではそうだった。
能力の本質は、対象と場所を結びつけること。
ただし、結びつけた場所が動けば、固定も崩れる。
ならば、対処法はいくつもある。
もっとも、毎回床を壊していたら、施設そのものが危険になる。
俺は周囲を見た。
壁際には大型の機械。
床には送電管。
天井には複雑な配線。
ここで派手に暴れれば、補助電源を破損させる可能性がある。
(……次は、もっと静かに終わらせるか)
俺はレオンへ向き直った。
「……まだやるか?」
男は警棒を握り直した。
「当然だ」
「補助電源を起動するだけだ。邪魔しないでくれれば、戦う必要はない」
レオンは首を横に振った。
「それを決めるのは俺だ」
俺は小さく息を吐いた。
「……そうか」
ならば、仕方ない。
俺は足を踏み出した。
レオンが構える。
だが、今度は俺から仕掛けた。
床を蹴る。
距離を詰める。
レオンが警棒を振り下ろす。
俺は左へ避けた。
そのまま、相手の右腕へ手を伸ばす。
レオンが警棒を引く。
だが、俺は追わない。
代わりに、右足を踏み込んだ。
狙いは、相手の左側。
レオンが身体を回す。
その瞬間。
俺は、相手の視線から外れた。
「……っ!?」
レオンが反応するより早く、背後へ回り込む。
左腕で肩を制する。
右手で警棒を持つ手首を押さえる。
そして、重心を崩した。
レオンが抵抗する。
だが、今度は逃がさない。
俺は相手の足を払った。
身体が傾く。
そのまま、床へ倒す。
ただし、頭を打たせないようにする。
そして、関節を極めた。
「……ぐっ!」
レオンが呻く。
俺は必要な力だけを加えた。
「……終わりにしよう」
男は歯を食いしばった。
だが、まだ諦めていない。
警棒を握る手に、オーラが集まる。
(……まだか)
俺は、その手首をさらに制した。
レオンが痛みに顔を歪める。
警棒が床へ落ちた。
俺は素早く拾い、手の届かない場所へ放り投げた。
そして、相手の身体を拘束する。
レオンが、荒い息を吐いた。
「……くそっ」
俺は静かに答えた。
「……これ以上やっても、結果は変わらない」
男は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……認める」
低い声で言った。
「俺の負けだ」
俺は、拘束を少し緩めた。
だが、完全には離さない。
「……なら、補助電源の場所を教えてくれ」
レオンは、苦々しげに笑った。
「……奥だ」
俺は頷いた。
「……ありがとう」
男は、呆れたように息を吐いた。
「……礼を言われるとは思わなかったな」
◇
そのとき。
背後で、重い足音が響いた。
俺は振り向いた。
灰色の作業服を着た大男が、ゆっくりと近づいてくる。
身長は二メートル近い。
太い腕。
厚い胸板。
そして、身体を包む濃いオーラ。
男は、俺を見下ろした。
「……隊長を倒すとはな」
俺は静かに構えた。
「……次は、あんたか?」
大男は、少しだけ笑った。
「……そうなるな」
俺は眉をひそめた。
「……補助電源を起動したいだけなんだが」
男は肩をすくめた。
「……俺たちにも、仕事がある」
俺は小さく息を吐いた。
(……面倒だな)
だが、相手が戦うつもりなら、仕方ない。
俺は拳を握った。
その瞬間。
リリアの声が響いた。
「……アオ!」
俺は振り向いた。
彼女は、右側の通路を指差していた。
「……補助電源、見つけた!」
俺は目を見開いた。
「……本当か!」
「うん!」
リリアが頷く。
「……でも、操作盤が壊されてる!」
俺は眉をひそめた。
(……壊されてる?)
その言葉に、大男の表情が変わった。
俺は、それを見逃さなかった。
「……何か知ってるな?」
男は答えなかった。
代わりに、拳を握った。
その拳に、濃いオーラが集まる。
俺は静かに構え直した。
(……なるほど)
どうやら。
この先には、まだ隠されていることがあるらしい。
◇
俺は大男を見据えた。
相手の身体は大きい。
だが、零号ほどではない。
筋肉も発達しているが、自然な範囲に収まっている。
そして、何より。
この男には、自分の意思がある。
戦う理由も、判断する能力も。
ならば、零号とは違う。
俺は、静かに口を開いた。
「……一つ聞く」
大男が眉を上げる。
「……何だ?」
「補助電源の操作盤を壊したのは、お前か?」
男は、しばらく黙っていた。
そして。
「……違う」
俺は目を細めた。
「……じゃあ、誰だ?」
大男は、ゆっくりと視線を奥へ向けた。
その先には、薄暗い通路が続いている。
そして。
「……俺たちにも、わからん」
俺は眉をひそめた。
「……どういうことだ?」
男は、低い声で答えた。
「……三日前から、この区画では妙なことが起きている」
俺は黙った。
大男は続けた。
「……設備が勝手に動く。通路が変わる。監視装置が、誰もいない場所を追いかける」
俺は、静かに息を吐いた。
(……やっぱり)
この施設には、研究者たちの制御を超えた何かがある。
そして、それは今も活動している。
大男は、さらに続けた。
「……補助電源の操作盤が壊れたのも、その頃だ」
俺は、静かに目を細めた。
「……誰かが壊したわけじゃないのか?」
「……少なくとも、俺たちは知らん」
俺は、少しだけ考えた。
ならば、補助電源を起動するには、別の方法を探す必要がある。
だが、その前に。
この大男をどうするか。
俺は、静かに構えた。
「……それでも、戦うのか?」
男は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
俺は小さく息を吐いた。
「……わかった」
ならば、早く終わらせよう。
俺は、床を蹴った。
大男も、同時に動いた。
そして。
第八隔離区画の中央で、新たな戦いが始まった。