流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
第八隔離区画、補助動力炉制御室。
◇
扉の向こうに立っていたのは、白衣の男だった。
年齢は四十代半ばほどだろうか。
痩せた身体に、背筋の伸びた姿勢。灰色がかった金髪を後ろへ撫でつけ、細い銀縁の眼鏡をかけている。
白衣の下には濃紺のシャツと黒いスラックス。足元の革靴には、地下施設を歩き回った人間にしては不自然なほど汚れが少なかった。
顔立ちは整っている。
ただ、その表情には妙な違和感があった。
穏やかな笑みを浮かべているのに、目だけが笑っていない。
いや、正確には違う。
こちらを見ているようで、どこか別のものを観察している。
そんな印象を受けた。
「初めまして、アオ君」
男は胸元へ片手を添え、軽く頭を下げた。
「私はユリウス・ベルンハルト。ここで研究をしている者だ」
俺は返事をせず、相手を観察した。
纏は安定している。
全身を覆うオーラの密度も高い。
無駄な漏出がほとんどなく、呼吸に合わせて自然に循環していた。
(……相当な使い手だな)
レオンやガルドよりも、念の扱いが洗練されている。
ただし、戦闘向きかどうかは別だ。
念能力者の実力は、単純なオーラ量だけでは測れない。
まして、研究者を名乗る人間なら、直接戦闘以外の能力を持っている可能性も高い。
「俺の名前を知っているようだな」
俺が尋ねると、ユリウスは頷いた。
「ええ。施設の記録で拝見しました」
「記録?」
「観測対象一。そう呼ばれているでしょう?」
俺は目を細めた。
どうやら、こいつも施設の観測情報へアクセスできるらしい。
「その呼び方は好きじゃない」
「失礼。では、アオ君と」
ユリウスはあっさり言い直した。
俺は男の背後へ視線を向けた。
通路は薄暗く、奥まで見通せない。
円で確認できる範囲には、他の人間の気配も残っている。
ただし、この男のすぐ後ろには誰もいない。
単独で来たようだった。
「何の用だ?」
俺が尋ねると、ユリウスは微笑んだ。
「協力をお願いしたいのです」
「協力?」
「ええ」
男は、俺の背後にある制御室へ視線を向けた。
「あなたは補助電源を復旧させ、観測核への情報供給を遮断した。実に見事な判断です」
俺は黙っていた。
ユリウスは続ける。
「ですが、まだ問題は解決していません」
「……何が残っている?」
「この施設そのものです」
男の声が、少しだけ低くなった。
「第七観測区も、第八隔離区画も、すでに正常な管理状態にはありません」
俺はエドガーへ視線を向けた。
男は、ユリウスの姿を見たまま固まっていた。
その顔には、明らかな動揺が浮かんでいる。
「……ユリウス」
エドガーが呟いた。
「……なぜ、あなたがここに」
ユリウスは、ゆっくりと顔を向けた。
「お久しぶりですね、エドガー主任」
その声音は穏やかだった。
だが、エドガーは一歩後退した。
「……あなたは、中央管理区画にいるはずでは……」
「予定が変わりましてね」
ユリウスは笑みを崩さなかった。
「少々、確認したいことができたのです」
俺は二人のやり取りを見ながら、考えた。
(……知り合いか)
それも、単なる同僚ではなさそうだ。
エドガーの反応には、警戒以上のものがある。
恐怖。
あるいは、後ろめたさ。
どちらにせよ、詳しく聞く価値はありそうだった。
◇
「……知り合いなら、紹介してもらおうか」
俺はエドガーへ言った。
男は口を開きかけた。
だが、ユリウスの方が先に答えた。
「私は、この遺構の基礎研究を担当しています」
「基礎研究?」
「ええ。古代の構造物が、どのような原理で動いているのか。それを調べる仕事です」
ユリウスは壁へ手を添えた。
金属の表面には、青白い線が走っている。
「エドガー主任は、人間の身体と念能力の応用研究を担当している。私は、施設そのものを調べている。役割が違うのですよ」
俺は頷いた。
「つまり、ここの仕組みについては、エドガーより詳しいわけか」
「少なくとも、専門分野に関しては」
「なら、話が早い」
俺はユリウスを見据えた。
「第七観測区には、二十四基の生命維持容器がある。中にいる人間を安全に救出する方法を教えてくれ」
ユリウスの笑みが、わずかに薄れた。
「……なるほど」
男は、俺の背後にいるリリアとミレーヌさんへ視線を向けた。
「あなた方の目的は、収容者の救出ですか」
「それだけじゃない」
俺は答えた。
「この施設で何が行われていたのかも調べる。行方不明になった研究者たちも探している」
ユリウスは、少しだけ眉を上げた。
「行方不明の研究者?」
「ああ。六人の調査隊だ。そのうち二人は保護した。残り四人を探している」
男は、しばらく考えるような素振りを見せた。
そして。
「……それなら、心当たりがあります」
俺は目を細めた。
「本当か?」
「ええ」
ユリウスは頷いた。
「三日前、施設の外部から複数の人間が侵入しました」
俺は黙った。
「彼らは、この遺構を調査していたようです。保安部門が発見し、一時的に保護しました」
「保護?」
俺は、その言葉を繰り返した。
ユリウスは穏やかに頷く。
「この施設は危険ですからね。無許可の立ち入りを放置するわけにはいきません」
俺はレオンへ視線を向けた。
「聞いてるか?」
レオンは、眉をひそめていた。
「……外部の調査員が捕まった話は聞いている」
「どこへ連れていかれた?」
「中央管理区画だ」
俺はユリウスへ視線を戻した。
「……今もそこに?」
「おそらく」
ユリウスは答えた。
「ただし、現在の施設状況では、正確な位置を確認するのが難しい」
俺は小さく息を吐いた。
(……ようやく手掛かりが出たか)
四人の行方不明者。
中央管理区画。
そして、施設の異常。
どうやら、すべてが同じ場所へ繋がっているらしい。
だが。
俺はユリウスの表情を見た。
男は、相変わらず穏やかに微笑んでいる。
(……信用できるかどうかは、別問題だな)
◇
「……一つ、聞いてもいいですか」
リリアが口を開いた。
ユリウスは彼女へ顔を向けた。
「もちろん」
「三日前から、施設の通路が変わったり、設備が壊れたりしているそうですね」
「ええ」
「それは、あなたの研究と関係がありますか?」
俺は、リリアを見た。
いい質問だ。
ユリウスは施設の基礎研究を担当している。
ならば、異常が発生した原因についても何か知っている可能性がある。
ユリウスは、少しだけ考えた。
「……関係がある、と言えばあります」
リリアの表情が引き締まる。
「どういう意味ですか?」
「私たちは、遺構の中枢機構を調査していました」
ユリウスは続けた。
「その過程で、これまで使用できなかった機能の一部を起動させたのです」
俺は眉を寄せた。
「……それが原因か?」
「可能性はあります」
男は、あっさり認めた。
「ただし、すべてが私たちの操作によるものとは限りません」
「どういうことだ?」
「この遺構には、自律的に判断し、行動する機構が存在します」
俺は青白い人影を思い出した。
第七観測区に現れた観測機構。
こちらの行動を分析し、記録していた存在。
あれも、遺構の一部なのだろう。
「……あの青白い人影か?」
俺が尋ねると、ユリウスは頷いた。
「それも一つです」
「……一つ?」
「ええ」
ユリウスは、わずかに笑みを深めた。
「この遺構には、複数の自律機構が存在します」
俺は黙った。
男は続ける。
「観測を担当するもの。生命維持を管理するもの。施設構造を調整するもの。そして……」
そこで、言葉が止まった。
俺は続きを促した。
「……そして?」
ユリウスは、静かに答えた。
「……全体を統括するものです」
俺は目を細めた。
(……統括機構か)
つまり、この施設には中心となる管理機構が存在する。
しかも、研究者たちが完全に制御できているわけではない。
俺は尋ねた。
「その統括機構は、どこにある?」
ユリウスは、通路の奥へ視線を向けた。
「中央管理区画です」
俺は頷いた。
「……なるほど」
行方不明の研究者たち。
施設の異常。
そして、統括機構。
すべて中央管理区画に関係している。
ならば、向かう理由は十分にある。
だが、まだ一つ気になることがあった。
「……ユリウス」
「何でしょう?」
「お前は、何をしたい?」
男は、わずかに首を傾げた。
「……と言いますと?」
「俺たちに協力を求めた理由だ」
俺は続けた。
「研究者を探すためでも、収容者を助けるためでもないだろ」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……鋭いですね」
男は微笑んだ。
「ええ。私には、別の目的があります」
俺は、静かに構えを解かなかった。
「……聞こうか」
ユリウスは、ゆっくりと口を開いた。
「……この遺構の統括機構を、停止させたいのです」
◇
俺は、その言葉を聞いて少しだけ考えた。
統括機構の停止。
確かに、それができれば施設の異常を止められるかもしれない。
だが、問題もある。
「……停止させたら、生命維持装置はどうなる?」
俺が尋ねると、ユリウスはすぐには答えなかった。
その反応だけで、嫌な予感がした。
「……どうなる?」
俺は繰り返した。
ユリウスは、ゆっくりと答えた。
「……影響が出る可能性はあります」
俺は眉をひそめた。
「……具体的には?」
「統括機構は、施設全体のエネルギー配分を管理しています。完全に停止すれば、一部の設備が機能を失うかもしれません」
俺は、静かに息を吐いた。
(……やっぱりな)
つまり、統括機構を止めれば、収容者たちの生命維持装置まで停止する可能性がある。
そんなことはできない。
「……却下だ」
俺は即答した。
ユリウスが眉を上げる。
「……理由を伺っても?」
「人が死ぬかもしれないからだ」
男は、しばらく俺を見つめた。
そして。
「……あなたは、実に興味深い」
俺は顔をしかめた。
「その言い方、エドガーに似てるぞ」
ユリウスは小さく笑った。
「失礼しました」
俺は続けた。
「統括機構を止めるにしても、まず収容者たちを安全な場所へ移す。それが先だ」
「……なるほど」
「それに、まだ四人の研究者が見つかってない」
ユリウスは頷いた。
「ええ」
俺は、男を見据えた。
「だから、順番を変えるつもりはない」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……わかりました」
男は、ゆっくりと頷いた。
「では、まず収容者の救出を優先しましょう」
俺は目を細めた。
「……随分あっさり引くんだな」
「無理に説得しても、あなたは動かないでしょう?」
俺は答えなかった。
ユリウスは続けた。
「それに、私も無駄な犠牲を望んでいるわけではありません」
俺は、その言葉を聞いても警戒を解かなかった。
この男が本心からそう言っているのか。
それとも、俺を利用するために合わせているだけなのか。
まだ判断できない。
だが、少なくとも今は。
目的が一部一致している。
ならば、利用できる情報は利用する。
俺は頷いた。
「……わかった」
そして、リリアへ視線を向けた。
「帰り道は?」
彼女は羅針盤を確認した。
「……まだ変わってる。でも、通れる道はあると思う」
俺は頷いた。
「なら、戻ろう」
◇
俺たちは、第七観測区へ戻ることにした。
ただし、来た道をそのまま引き返すことはできなかった。
リリアの羅針盤が示す経路は、途中で大きく曲がっている。
しかも、通路の接続が変化したため、以前通った場所が別の区画へ繋がっていた。
俺たちは、慎重に進んだ。
先頭は俺。
その後ろにリリア。
続いてミレーヌさんとエドガー。
レオンとガルドは後方を警戒する。
ユリウスは、少し離れた位置からついてきていた。
俺は円を広げ、周囲の気配を探る。
人間の気配は少ない。
だが、機械の動きは活発だった。
壁の向こうで、巨大な歯車が回転しているような音が聞こえる。
床下では、何かがゆっくりと移動していた。
そして、時折。
通路そのものが、低く震える。
(……本当に、施設が動いてるんだな)
俺は壁へ手を当てた。
金属の奥から、微弱な振動が伝わってくる。
その振動には、一定の規則があった。
まるで、巨大な機械が呼吸しているようだった。
「……アオ」
リリアが小声で呼びかけてきた。
「どうした?」
「……この先、少し変」
俺は足を止めた。
彼女は羅針盤を見つめている。
「……道の記録が、二つに分かれてる」
俺は眉をひそめた。
「……二つ?」
「うん。さっきまで一つだったのに」
俺は通路の先を見た。
そこには、左右へ分かれる分岐がある。
だが、どちらも同じような構造だった。
金属製の壁。
薄暗い照明。
そして、床に刻まれた細い溝。
俺は円を広げた。
左側には、特に人間の気配はない。
右側にも、同じく。
ただし。
右側の奥から、微弱なオーラの流れを感じた。
(……何だ?)
俺は凝を強めた。
壁の向こう。
通路の先。
そこに、細い光のようなものが見えた。
俺は、しばらく観察した。
そして。
(……これは)
見覚えがあった。
第七観測区の生命維持装置。
その内部を流れていたオーラに似ている。
俺は、リリアへ視線を向けた。
「……右へ行こう」
彼女は頷いた。
「うん」
ミレーヌさんも、周囲を確認しながら続いた。
俺たちは、右側の通路へ進んだ。
◇
しばらく進むと、通路の先に扉が現れた。
見覚えのある構造だった。
金属製。
中央には円形の認証口。
そして、扉の上部には青白い表示灯。
俺は、布に包んだエドガーの右腕を取り出した。
腕輪は、まだ光っている。
それを認証口へ近づける。
『管理者認証を確認』
無機質な声が響いた。
扉が、ゆっくりと開く。
その向こうには。
見覚えのある広い空間が広がっていた。
二十四基の透明な容器。
中央の巨大な装置。
そして、青白い光を放つ観測機構。
第七観測区だ。
「……戻ってきた」
リリアが、安堵したように呟いた。
俺は頷いた。
「ああ」
だが、すぐに周囲を確認した。
零号は、床に横たわったままだった。
呼吸はある。
先ほどよりも安定しているように見える。
一番の男も、毛布に包まれて休んでいた。
こちらも、意識は保っている。
俺は、まず生命維持装置の表示を確認した。
七番。
九番。
十三番。
二十一番。
先ほどまで赤く点滅していた警告表示は、消えていた。
『生命維持補助:正常』
俺は、ようやく息を吐いた。
(……よし)
補助電源の復旧は、確かに効果があったらしい。
だが、これで終わりではない。
容器の中にいる人間たちは、まだ救出されていない。
俺は、制御盤へ向かった。
リリアも隣へ並ぶ。
ミレーヌさんは、周囲の安全を確認している。
ユリウスは、少し離れた位置から中央装置を見つめていた。
その表情には、先ほどまでの笑みがなかった。
代わりに。
何かを計算しているような、冷たい眼差しが浮かんでいる。
俺は、その様子を横目で確認した。
(……やっぱり、何か隠してるな)
だが、今は問い詰めるより先にやることがある。
俺は、制御盤へ手を伸ばした。
「……さて」
そして、静かに呟いた。
「……ここからが本番だな」
二十四基の容器。
その中にいる人間たち。
そして、まだ見つかっていない四人の研究者。
俺たちの仕事は、ようやく次の段階へ進もうとしていた。