流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
流星街には、法律がない。
少なくとも、俺が生まれ育った日本のように、誰かが守ってくれることを期待できる法律は存在しない。
力のない者は奪われる。
奪われたくなければ、隠すか、逃げるか、戦うしかない。
そんな当たり前のことを、俺はこの世界に転生してから、わずか二日ほどで思い知らされていた。
そして今。
俺は、もう一つの事実を知ることになる。
この世界には、単純な腕力や身体能力だけではどうにもならない力が存在する。
その名は――念。
俺が前世で愛読していた漫画、『HUNTER×HUNTER』において、戦いの根幹を成す力。
それを知識として知っていることと、実際にその力を持つ相手と向き合うことは、まったく別の話だった。
◇
「……さて、どうしたもんかな」
俺は、昨日から寝床として使っている瓦礫の隙間で、小さく息を吐いた。
目の前には、薄汚れた毛布が一枚。
その横には、昨日見つけた軍用品らしき物資の中から取り出した、携帯食料の包みが置かれている。
あれだけ苦労して食料を探していたのが嘘のようだ。
軍用の補給物資がまとめて廃棄されていた場所を見つけたおかげで、俺は大量の食料と飲料水を手に入れることができた。
およそ三か月分。
もちろん、正確な消費量や保存状態を考慮すれば、必ずしも三か月間安泰というわけではない。
それでも、昨日までの俺からすれば、文字どおり命をつなぐ財産だった。
問題は、その物資を巡って面倒な連中と遭遇してしまったことだ。
四人の男。
見るからに荒事に慣れた連中だったが、実際に戦ってみれば、その強さは大したものではなかった。
いや、正確には、相手が悪かったのだろう。
俺には転生時に与えられた特典がある。
伏黒甚爾のようなフィジカルギフテッド。
戦術眼、直感、相手の動きを読む才能。
そして、ゴンやキルアに匹敵するという念能力の才能。
もっとも、最後の一つについては、現時点では宝の持ち腐れだ。
俺はまだ念に覚醒していない。
身体能力に関しても、いくら特典があるとはいえ、肉体は五歳程度の子供でしかない。
筋肉の量も、骨格の大きさも、腕の長さも、大人とは比べものにならない。
だが、それでも昨日の四人は俺に触れることすらできなかった。
相手の動きは大きく、単調で、隙だらけ。
殴りかかってくる腕をかわし、重心を崩し、急所ではない場所に打撃を入れる。
それだけで十分だった。
結局、四人は俺を捕まえることができず、散々痛い目を見た末に逃げ出した。
俺は怪我一つ負わずに済んだ。
それ自体は幸運だったと思う。
ただし、問題はその後だ。
「……絶対、戻ってくるよな」
独り言が、狭い寝床に落ちる。
あの男たちは、俺を別の集団の使い走りだと勘違いしていた。
子供一人で大量の物資を持ち去れるはずがない。
だから、背後に誰かがいる。
そう考えたらしい。
当然といえば当然だ。
まさか俺が、異世界転生の特典としてアイテムボックスを持っているなどとは、想像もできないだろう。
そして、連中が物資を集めるためにやってきたのなら、その物資を管理している人間がいる可能性は高い。
つまり、上役。
あるいは、ボス。
昨日の連中は、逃げる際に何度も俺を睨みつけていた。
特に最後の一人は、明らかに復讐を誓ったような顔をしていた。
あの様子では、仲間に報告するだろう。
俺が考えなければならないのは、連中が戻ってくるかどうかではない。
いつ、何人で戻ってくるかだ。
「寝床を移すべきか……」
そう呟きながら、俺は毛布を手に取った。
せっかく見つけた場所だが、ここに固執する理由はない。
寝床としては風雨をある程度しのげるものの、決して快適ではない。
それに、出入口が狭く、逃げ道も限られている。
見つかった場合、囲まれる危険がある。
長期的に利用する拠点としては不適切だ。
ただ、問題が一つあった。
俺はまだ、この周辺の地理をほとんど把握していない。
流星街は広い。
廃棄物の山がどこまでも続き、その間に人間の生活圏が点在している。
見通しの悪い場所も多く、下手に移動すれば、昨日の連中以上に危険な相手と遭遇するかもしれない。
それでも、ここに留まるよりはましだろう。
「よし。食べたら移動しよう」
俺はそう決め、携帯食料の包装を開けた。
乾燥した固形食料を口に運ぶ。
相変わらず、味はよくない。
だが、食べられるだけありがたい。
水分も補給し、空になった包装をアイテムボックスへ収納する。
ゴミを残して居場所を知られるのは避けたい。
そう考えていたときだった。
遠くから、金属の擦れる音が聞こえた。
続いて、人の声。
「……こっちか?」
俺の手が止まった。
声はまだ遠い。
しかし、確実にこちらへ近づいている。
「おい、本当にこんなところにいるんだろうな?」
「間違いねえって! あのガキ、この辺に逃げたんだ!」
聞き覚えのある声だった。
昨日の男たちの一人だ。
俺は食料を収納し、立ち上がる。
まずい。
予想より早い。
連中は、俺が一晩を過ごした場所まで追跡してきたらしい。
もっとも、完全に寝床を特定しているわけではなさそうだ。
声の調子からして、周辺を探している段階だろう。
今なら逃げられる。
俺は毛布をアイテムボックスに戻し、寝床の入口へ近づいた。
そこで、別の声が響いた。
「うるせえな。少し黙ってろ」
低く、太い声。
先ほどまで騒いでいた男たちが、ぴたりと静かになった。
その変化だけで、声の主がどういう立場の人間なのか、おおよその見当がついた。
「ガキ一匹に四人まとめてやられたんだろ?」
「そ、それは……」
「しかも、物資まで持っていかれた。お前ら、何のために飯を食ってるんだ?」
「す、すんません、ボス……」
やっぱりか。
俺は瓦礫の陰に身を寄せ、慎重に外の様子を窺った。
見えたのは、昨日の男たちのうち三人。
そして、その中央に立つ大柄な男だった。
年齢は三十代後半から四十代くらいだろうか。
身長は百九十センチ近くありそうだ。
分厚い肩。
丸太のような腕。
腹回りには脂肪がついているが、その下には相応の筋肉があるように見える。
短く刈った髪に、無精髭。
左の頬には古い傷跡が走っていた。
服装は他の男たちと大差ない。
汚れた上着に、くたびれたズボン。
腰には大きな刃物を差している。
ただ、明らかに違う点があった。
「…………?」
俺は眉をひそめた。
何だ?
あの男を見ていると、妙な感覚がある。
圧迫感。
そう表現するのが一番近い。
空気がわずかに重くなったような、胸の奥を軽く押されているような感覚だ。
とはいえ、息苦しいほどではない。
恐怖で身体がすくむわけでもない。
ただ、何となく嫌な感じがする。
それだけだった。
俺は男の身体を観察した。
呼吸。
姿勢。
重心。
筋肉の緊張。
いずれも、昨日の四人よりは多少ましだ。
だが、格闘技を本格的に修めた人間の立ち方には見えない。
むしろ、腕力に頼って相手を殴り倒してきた人間特有の、雑な構えだった。
それなのに。
なぜか、嫌な予感が消えない。
「……まさか」
一つの可能性が頭をよぎった。
念。
しかし、すぐには確信できなかった。
俺自身、まだ念に覚醒していない。
オーラを見ることもできないし、相手の念の強さを正確に測ることもできない。
前世の知識はあっても、それを判断するための感覚が備わっていないのだ。
あの男が念能力者だとしても、俺にわかるのは軽い圧迫感だけ。
それ以上のことは何もわからない。
「おい、出てこい!」
大柄な男が叫んだ。
「そこにいるんだろ、ガキ!」
心臓が跳ねた。
見つかったのか?
いや、まだ断定はできない。
俺は呼吸を抑え、動かずにいた。
すると、男は苛立ったように舌打ちした。
「おい。あの辺を調べろ」
「へ、へい!」
昨日の男たちが散開する。
一人が俺の隠れている瓦礫の山へ近づいてきた。
まずい。
このままでは、逃げ道を塞がれる。
俺は素早く周囲を確認した。
右側には、崩れかけた金属板。
左側には、細い通路。
正面には男たち。
背後は瓦礫で行き止まりだ。
逃げるなら、左。
そう判断した瞬間。
「いたぞ!」
男の一人が俺を見つけた。
俺は反射的に飛び出した。
細い通路へ向かって駆ける。
「逃がすな!」
怒号が響く。
だが、昨日の男たちが追いつけるとは思わなかった。
実際、俺の足は速い。
五歳程度の肉体とは思えないほど、軽やかに地面を蹴ることができる。
足場の悪い瓦礫の上でも、重心がぶれない。
飛び越える。
着地する。
方向を変える。
身体が、まるで最初から最適な動きを知っているかのように反応する。
これがフィジカルギフテッドの恩恵なのだろう。
だが。
「待てや、クソガキ!」
背後から、低い声が迫ってきた。
振り返る。
大柄な男が、驚くほどの速度でこちらへ走ってきていた。
「なっ……!」
速い。
いや、速いというより、力強い。
足運びは雑だ。
重心も高い。
走り方だけ見れば、決して洗練されていない。
それなのに、一歩一歩の踏み込みが異様に強い。
まるで地面を叩き割るようにして、距離を詰めてくる。
俺の背筋に冷たいものが走った。
あの男。
やはり、何かがおかしい。
俺は進路を変え、狭い瓦礫の隙間へ飛び込もうとした。
しかし、その瞬間。
「ちょこまかと!」
男が足元に転がっていた金属片を蹴り飛ばした。
錆びた鉄板が、凄まじい勢いで飛んでくる。
「っ!」
俺は身体を捻って回避した。
鉄板が背後の瓦礫に衝突し、耳障りな音を立てる。
破片が飛び散った。
その一瞬。
俺の動きが止まった。
そして、それが致命的な隙になった。
「捕まえたぞ!」
大柄な男が、目前に迫っていた。
◇
拳が見えた。
大きな拳だった。
指の節は分厚く、皮膚は硬くなっている。
何度も人を殴ってきたのだろう。
だが、その拳の軌道自体は単純だった。
右の大振り。
肩から腕を振り回すような、素人じみた打撃。
昨日の男たちなら、簡単にかわせた。
だから、俺は同じように避けようとした。
右足を引く。
腰を落とす。
頭を拳の軌道から外す。
判断は間違っていなかった。
それでも。
「――え?」
間に合わなかった。
大きな拳が、俺の腹部を捉えた。
その瞬間、世界がひっくり返った。
「がっ――!」
衝撃。
ただの衝撃ではなかった。
腹の表面を殴られたという感覚の奥に、何か重く、鋭いものが身体の内側へ突き抜けてきた。
胃が潰れる。
肺から空気が押し出される。
内臓を直接握り潰されたような、激しい痛み。
俺の小さな身体は、地面から浮き上がった。
視界が回転する。
瓦礫の山。
灰色の空。
錆びた鉄骨。
それらが一瞬のうちに流れ去り、次の瞬間には背中が地面へ叩きつけられていた。
「――っ、かはっ!」
息ができない。
肺が空気を求めて痙攣する。
口の中に、鉄の味が広がった。
咳き込む。
赤いものが地面に散った。
血。
俺の血だ。
「……は?」
理解が追いつかなかった。
殴られた。
それはわかる。
だが、なぜ?
なぜ、あの程度の大振りを避けられなかった?
なぜ、こんなにも身体の奥が痛む?
俺には、フィジカルギフテッドがあるはずだ。
昨日の四人を相手にしても、まったく問題はなかった。
なのに。
「なんだ、もう終わりか?」
男の声が聞こえた。
足音が近づいてくる。
「ずいぶん強いガキだって聞いてたが、大したことねえな」
俺は起き上がろうとした。
しかし、腹部に激痛が走り、身体が動かない。
「ぐ……っ!」
まずい。
これは、まずい。
単なる打撲じゃない。
内臓が傷ついている。
呼吸するだけで痛い。
身体の内側で、何かが壊れている。
このままでは死ぬ。
そう直感した。
男は、倒れた俺を見下ろしていた。
「お前、どこの連中の使いだ?」
「…………」
「昨日、うちの奴らが集めに行った物資を横取りしたらしいな」
俺は答えられなかった。
痛みで声が出ない。
「黙ってんじゃねえよ」
男が俺の脇腹を軽く蹴った。
軽く。
少なくとも、男にとってはそうだったのだろう。
しかし、俺にとっては違った。
「ぐあっ!」
身体が勝手に丸まる。
痛い。
痛すぎる。
昨日の野犬に腕を引っかかれたときとは、比較にもならない。
男は鼻を鳴らした。
「俺はな、最近調子がいいんだよ」
何を言っている?
俺は苦痛に耐えながら、男を見上げた。
「ちょっと前から、身体の奥が熱くなるようになってな。力も出るし、疲れにくい。殴った奴が簡単に吹っ飛ぶんだ」
男は自慢げに拳を握った。
「最初は病気かと思ったが、どうやら違うらしい。俺は特別な身体になったんだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の中で、すべてがつながった。
こいつ。
念能力者だ。
しかも。
自分が念を使っていることに、気づいていない。
原作に登場した、未熟な念能力者たちのことが頭をよぎる。
グリードアイランドにいたモタリケのように、念を使えても実力が高いとは限らない。
目の前の男は、さらに根本的なところで未熟だった。
念という概念そのものを知らない。
修行もしていない。
オーラの扱い方を学んだこともない。
ただ、偶然にも念に目覚め、身体から漏れ出す生命エネルギーを無意識に利用している。
おそらく、それだけだ。
しかし。
それだけで、俺は死にかけている。
「……くそっ」
思わず、悪態が漏れた。
相手の念の練度が低いことと、攻撃が危険でないことは、まったく別の話だった。
こいつは弱い。
念能力者として見れば、間違いなく弱い部類だろう。
オーラの制御もできていない。
戦闘技術もない。
身体の動かし方も雑だ。
それでも。
俺はまだ、念に覚醒していない。
そして、この身体は五歳程度。
いくら優れた身体能力を与えられていても、成長した大人の肉体ではない。
筋力の絶対量。
体重。
手足の長さ。
そして、念による強化。
その差が、たった一撃で俺を地面に沈めた。
何より厄介なのは、俺が相手のオーラを認識できないことだった。
相手の動きは読める。
拳の軌道もわかる。
だが、念によって強化された踏み込みの速さや、打撃の威力を、正確に見積もることができなかった。
予測していた速度を超えられた。
それが、回避失敗の原因だ。
そして。
俺は、もっと重大なことに気づいた。
念を使えない者が、念を込めた攻撃を受ける。
それは、原作で何と呼ばれていた?
「……洗礼」
掠れた声で、呟いた。
そうだ。
洗礼。
念能力者の攻撃によって、強制的に精孔を開かれることがある。
危険な覚醒方法。
下手をすれば、身体に重大な障害を残す。
場合によっては、死に至る。
天空闘技場で、ズシの師匠であるウイングが語っていた知識。
ゴンとキルアは、ウイングの手によって安全に精孔を開かれた。
しかし、他人の悪意ある攻撃によって念に目覚める者もいる。
その危険性を、俺は知っていた。
知っていたのに。
まさか、自分がそれを受けることになるとは思わなかった。
「……っ!」
突然、身体の奥が熱くなった。
腹部の激痛とは別の感覚。
皮膚の内側を、熱い液体が流れるような感覚が広がっていく。
何だ、これ。
身体中が、ざわついている。
何かが、外へ出ようとしている。
俺は自分の腕を見た。
見慣れた、小さな子供の腕。
しかし、その輪郭が、妙にぼやけて見えた。
いや。
違う。
腕の周囲に、薄い何かが漂っている。
煙のような。
湯気のような。
けれど、煙でも湯気でもないもの。
「……オーラ?」
俺は息を呑んだ。
見える。
自分の身体から、何かが漏れ出している。
これが。
これが、念の源となる生命エネルギー。
オーラ。
その瞬間、俺は確信した。
精孔が開いた。
あの一撃によって。
俺は、念に覚醒してしまったのだ。
◇
「おい、聞いてんのか?」
男が苛立った声を上げる。
俺は答えなかった。
いや、答えている余裕がなかった。
身体のあちこちから、オーラが漏れ続けている。
それは、まるで穴の開いた容器から水が流れ出していくようだった。
身体が熱い。
なのに、同時に力が抜けていく。
このままでは危険だ。
オーラが無制限に流出すれば、生命力を消耗する。
原作で説明されていたはずだ。
精孔が開いたばかりの人間は、まずオーラを身体の周囲に留めることを覚えなければならない。
それが――纏。
だが、その前に。
「……回復」
俺は腹部を押さえながら、かすれた声を絞り出した。
転生時に与えられた五つ目の特典。
一日に三回まで使用できる、完全回復の能力。
怪我。
病気。
呪い。
念による呪いの解除。
精神状態の回復。
それらを、自分にも他人にも行使できる力。
以前、野犬に傷つけられた左腕を治したとき、俺は失敗していた。
いや、能力の発動そのものは成功していた。
問題は、俺の意識の向け方だった。
左腕の傷だけに意識を集中させてしまったため、そこしか治らなかったのだ。
あのときの反省が、今になって生きる。
今度は違う。
腹だけじゃない。
内臓だけでもない。
全身だ。
頭の先から足の先まで。
筋肉。
骨。
血管。
内臓。
神経。
身体に生じた損傷のすべて。
そして、今この瞬間の激痛によって乱れた精神状態まで。
俺は、身体全体が元の健全な状態へ戻る様子を、強く思い描いた。
ただし。
開いた精孔を閉じるつもりはない。
念への覚醒そのものは、傷ではない。
治すべきは、あの一撃で受けた損傷だ。
「治れ……!」
次の瞬間。
身体の内側を、柔らかな熱が駆け巡った。
腹部の激痛が薄れていく。
呼吸するたびに刺さっていた痛みが消える。
喉の奥にこびりついていた血の味が、少しずつ遠ざかっていく。
傷ついた内臓が修復される。
潰れかけていた身体の機能が、正常な状態へ戻っていく。
そんな感覚があった。
「……っ、はあ!」
俺は大きく息を吸った。
吸える。
肺が動く。
腹も痛まない。
身体が軽い。
先ほどまでの苦痛が、嘘のように消えていた。
成功だ。
今度こそ、全身の回復に成功した。
しかし、安心している暇はなかった。
傷は治った。
だが、オーラは漏れ続けている。
「……なんだ、お前?」
男が怪訝そうに眉をひそめた。
「さっきまで死にそうだったくせに……」
俺は男を見上げた。
その姿が、先ほどとは違って見えた。
男の身体の周囲に、何かがある。
薄い膜。
いや、炎のような揺らぎ。
それが、男の身体から不規則に立ち上っていた。
俺のものよりも、明らかに大きい。
しかし、まとまりがない。
腕から強く漏れたかと思えば、肩のあたりでは薄くなる。
腹部の周囲で渦を巻き、次の瞬間には霧散する。
一定の形を保っていない。
これが、男のオーラ。
やはり、こいつは念能力者だった。
ただし。
「……ひどいな」
思わず、呟いた。
「ああ?」
男が顔をしかめる。
俺は構わず観察を続けた。
オーラが見えるようになったことで、男の未熟さがはっきりした。
無駄が多い。
あまりにも多い。
身体から漏れ出すオーラを、ほとんど制御できていない。
本人はただ、身体が強くなったと感じているだけなのだろう。
それでも、肉体を強化するように働いている。
おそらく、無意識のうちにオーラを身体の周囲へ集める瞬間があるのだ。
先ほどの拳も、そうだったのかもしれない。
だから、あれほどの威力が出た。
俺は自分の手を見た。
小さな指先から、淡いオーラが漏れている。
それが見える。
感じられる。
そして、不思議なことに。
どうすればいいのか、何となくわかる気がした。
いや。
正確には、わかるはずがない。
俺は念の修行を受けていない。
ウイングのような師匠もいない。
四大行についての知識はあるが、実際に行った経験など一度もない。
それなのに。
自分の身体から流れ出していくオーラを見ていると、ある感覚が浮かんできた。
外へ流れるものを、引き戻す。
身体から離れようとするものを、留める。
無理に押し込めるのではない。
身体の表面に沿わせる。
薄く、均一に。
全身を包むように。
「……纏」
俺は小さく呟いた。
纏。
オーラを身体の周囲に留める、念の基本技術。
原作で知っていた説明を、頭の中で反芻する。
身体から溢れ出る生命エネルギーを、肉体の周囲に留める。
ただ、それだけ。
言葉にすれば簡単だ。
だが、本来は修行が必要な技術のはずだった。
俺は目を閉じた。
身体の内側に意識を向ける。
熱。
流れ。
脈動。
皮膚の下を巡る、目に見えない力。
それが精孔から外へ流れ出していく様子を、感覚で捉える。
流れを止めるのではない。
出口を塞ぐのでもない。
身体を包むように、循環させる。
薄い膜を作る。
全身に、ぴたりと沿わせる。
そう思った瞬間。
何かが、かちりとはまった。
「……あ」
漏れ出していたオーラが、動きを変えた。
それまで無秩序に広がっていたものが、俺の身体の周囲に集まり始める。
肩。
腕。
胸。
腹。
背中。
脚。
頭。
全身を包み込むように、淡い光が薄く広がった。
呼吸が楽になる。
身体の熱が、落ち着いていく。
外へ流出していた生命エネルギーが、自分の周囲に留まっている。
わかる。
今なら、はっきりわかる。
これが、纏だ。
「……できた」
俺は呆然と呟いた。
念の修行など、一度もしたことがない。
それなのに。
たった今、俺は纏を体得してしまった。
理由は一つしか考えられない。
転生時に与えられた特典。
ゴンやキルアに匹敵する、念能力の才能。
それが、働いたのだ。
前世の知識が、道筋を示した。
そして、生まれ持った才能が、その道筋を実際の感覚へ変換した。
そう考えるのが自然だった。
もちろん、これで念を極めたわけではない。
むしろ、ようやく入口に立っただけだ。
纏ができるようになった。
それだけ。
だが。
今の俺にとっては、それだけで十分すぎるほどの変化だった。
「……おい」
男の声が聞こえた。
俺は目を開けた。
男が、気味の悪いものを見るような顔でこちらを見ている。
「お前、何をした?」
「…………」
「さっきまで動けなかっただろうが」
俺はゆっくりと立ち上がった。
腹部に痛みはない。
呼吸も正常。
全身の傷は回復している。
そして、身体の周囲には薄いオーラが留まっていた。
男が一歩後ずさった。
「……何なんだ、お前は」
その声には、先ほどまでなかった警戒が混じっていた。
俺は答えなかった。
答える必要もない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
今度は、先ほどと同じようにはいかない。
◇
「ふざけやがって!」
男が怒鳴った。
恐怖を怒りで押し潰そうとしている。
そんな印象を受けた。
「ガキが! 調子に乗るなよ!」
男が突進してくる。
先ほどと同じ。
大振りの右拳。
だが、今度は違った。
俺には見えていた。
拳の周囲に、オーラが集まっている。
正確には、男が意識して集めているわけではない。
拳を握り、力を込め、殴ろうとした結果、オーラが自然と腕へ偏っているのだ。
その量は多い。
俺の身体を包んでいるオーラより、明らかに厚い。
まともに受ければ危険だ。
たとえ纏を覚えたとしても、今の俺があの拳を正面から受け止められる保証はない。
念に覚醒したからといって、五歳の肉体が突然成長するわけではないのだ。
だから、避ける。
俺は拳の軌道を見極めた。
肩が動く。
腰が回る。
踏み込みが始まる。
そして、オーラが腕に集まる。
先ほどは予測を超えられた。
だが、今は違う。
オーラの動きが見える。
男が力を込める瞬間が、わかる。
俺は半歩だけ身体をずらした。
拳が、顔のすぐ横を通過する。
風圧が頬を撫でた。
だが、当たらない。
「なっ!」
男が目を見開く。
俺はその脇を抜けた。
しかし、すぐには反撃しなかった。
まだ確認したいことがあった。
自分のオーラ。
それが、どのように動くのか。
どこまで制御できるのか。
俺は足を止め、身体の周囲に意識を向けた。
纏によって、オーラは薄く全身を包んでいる。
その状態で、右手を握る。
すると。
「……ん?」
オーラが、わずかに動いた。
右手へ。
ほんの少しだけ、集まろうとした。
俺は驚いた。
意識しただけで?
もう一度、試す。
右手から左手へ。
左手から右足へ。
大きくは動かない。
量もわずかだ。
しかし、確かに反応する。
オーラが、俺の意思に従って移動している。
原作でいうところの、攻防力の移動。
念を用いた戦闘では、身体のどの部分にどれだけオーラを配分するかが重要になる。
攻撃する瞬間には攻撃部位へ。
防御する瞬間には防御部位へ。
それによって、同じオーラ量でも戦闘能力は大きく変わる。
ただし、本来の攻防力移動は簡単なものではない。
流や堅といった応用技術も関係する。
今の俺は、そんな高度な技術を習得しているわけではなかった。
できているのは、せいぜい纏で留めたオーラの厚みを、部分的に変化させる程度だ。
それでも。
この感覚は、間違いなく本物だった。
まるで、初めて動かす筋肉の使い方を、最初から知っていたかのような感覚。
どうすればいいのか。
どの程度動かせばいいのか。
それが、頭で考えるより先に身体へ伝わってくる。
才能。
そうとしか言いようがなかった。
「この野郎!」
男が再び殴りかかってきた。
俺は反射的に左腕を上げた。
その瞬間、オーラが左腕へ集まる。
拳が接近する。
俺は受け止めようとはしなかった。
左腕で拳の側面を軽く払い、軌道を逸らす。
接触した瞬間。
鈍い衝撃が腕を走った。
「くっ!」
重い。
やはり、相手のオーラ量は俺より多い。
まともにぶつかれば、力負けする。
しかし。
さっきとは違う。
腕が折れるような衝撃ではない。
纏によって、身体が守られている。
それがわかった。
俺はすぐに距離を取った。
男は苛立ったように歯を剥き出しにした。
「何で当たらねえ!」
当然だ。
お前の動きは、単純すぎる。
しかも、オーラの流れが読めるようになったことで、攻撃の兆候が以前よりはっきりわかる。
男は念に覚醒している。
だが、念について何も知らない。
だから、オーラを効率よく使えない。
殴る瞬間に大量のオーラが拳へ流れ込んでも、それを安定させられない。
身体の他の部分は、無防備に近くなる。
オーラの配分も、攻防の切り替えも、無意識任せ。
本人は、ただ力任せに殴っているだけなのだ。
それに対して、俺は。
オーラの量では負けている。
身体の大きさでも負けている。
筋力の絶対値でも、おそらく負けている。
だが、身体の動かし方なら。
相手の動きを読む能力なら。
そして、オーラを扱う才能なら。
俺のほうが上だ。
圧倒的に。
「……いけるか?」
小さく呟く。
まだ確信はない。
ただ、可能性は見えた。
俺は右手を握った。
纏で身体を包んでいるオーラを意識する。
その一部を、右拳へ集める。
薄い膜が、拳の周囲でわずかに厚くなる。
ほんの少し。
相手と比べれば、あまりにも頼りない量だ。
だが。
それを見た瞬間、俺の身体は自然と動き始めていた。
◇
戦いには、力の差というものがある。
大人と子供。
鍛えた人間と、鍛えていない人間。
念能力者と、念を使えない人間。
それぞれに、明確な差が存在する。
そして、その差は、気合いや根性だけで埋められるものではない。
俺は、そう考えている。
だからこそ、目の前の男を甘く見てはいなかった。
相手は未熟な念能力者。
だが、俺を一撃で死にかけさせた相手でもある。
もう一度、まともに攻撃を受ければどうなるかわからない。
回復能力があるからといって、無謀な行動を取るつもりはなかった。
一日に三回という制限もある。
それに、即死するような攻撃を受けた場合、能力を使う暇すらないかもしれない。
だから、確実に仕留める。
いや。
殺すという意味ではない。
戦闘不能にする。
それが、今の俺の目標だった。
「……来いよ」
俺は男を見据えた。
男の顔が、怒りで赤くなる。
「ガキがぁ!」
突進。
やはり、正面からだ。
男は右拳を振り上げた。
オーラが腕へ集まる。
その動きを見た瞬間、俺は地面を蹴った。
前へ。
逃げるのではなく、踏み込む。
男の拳が振り下ろされるより先に、懐へ潜り込む。
身体の小ささが、ここでは利点になった。
大柄な男にとって、俺の位置は低すぎる。
拳を当てるためには、腰を落とすか、腕を大きく振り下ろさなければならない。
しかし、男はそれをしなかった。
力任せに、腕を振った。
俺の頭上を拳が通り過ぎる。
空振り。
男の身体が、前方へ流れる。
右肩が開いた。
脇腹が露出する。
無防備。
そう判断した瞬間、俺の身体は動いていた。
左足を踏み込む。
腰を回す。
背中から肩へ、力を伝える。
右腕を突き出す。
ただし、狙うのは急所ではない。
胸の中央から少し外れた、厚い筋肉に覆われた部分。
心臓の真上でも、喉でも、頭でもない。
男を吹き飛ばし、距離を取らせるための一撃。
そのための、最短の打撃。
俺は拳に意識を集中させた。
オーラが、右拳へ集まる。
薄い。
頼りない。
だが、確かに存在する。
そして。
俺の身体は、そのわずかなオーラを最大限に活かす動きを選んだ。
踏み込み。
腰の回転。
肩の連動。
拳の角度。
重心の移動。
すべてが、自然と噛み合う。
フィジカルギフテッド。
その特典によって与えられた、異常なまでの身体操作能力。
そして、念能力の才能によって可能になった、未熟ながらも的確なオーラの集中。
二つの力が、初めて一つになった。
「――っ!」
拳が、男の胸に触れた。
その瞬間。
奇妙な感覚があった。
俺の拳と、男の身体の間に、薄い壁のようなものが存在している。
男のオーラだ。
無意識に身体を守っている、生命エネルギーの膜。
普通なら、俺の拳はそこで勢いを殺されていたかもしれない。
だが。
俺は、その壁の薄い部分を感じ取っていた。
男は攻撃のために右腕へオーラを偏らせていた。
その結果、胸の周囲に留まるオーラは薄くなっている。
しかも、その薄い膜すら不安定だった。
俺は拳の先端へ、意識を集中させる。
自分のオーラを、無駄なく接触点へ集める。
強く。
細く。
正確に。
そして、踏み込みの力を、その一点へ伝えた。
――抜けた。
そう感じた。
男のオーラを突破した。
もちろん、相手の念を完全に消し去ったわけではない。
俺のわずかなオーラが、男の不安定な防御を局所的に上回っただけだ。
それでも、十分だった。
俺の拳が、男の胸を押し込む。
そこへ、フィジカルギフテッドによる爆発的な身体操作が重なる。
衝撃が、男の身体を貫いた。
「――ごっ!?」
男の目が見開かれた。
次の瞬間。
その巨体が、地面から浮き上がった。
「なっ……!」
俺自身、驚いた。
百九十センチ近い大男が、後方へ吹き飛んでいく。
足が地面を離れる。
腕がばたつく。
そして。
男は数メートル先の廃材の山へ、背中から突っ込んだ。
轟音。
錆びた金属板が跳ね上がる。
空き缶や小さな部品が、雨のように散らばった。
「…………」
俺は拳を突き出した姿勢のまま、固まっていた。
今の。
俺が、やったのか?
自分の拳を見る。
小さな手。
五歳程度の子供の拳。
その周囲には、淡いオーラが揺らめいていた。
ほんのわずかな量だ。
男が無意識に放出していたオーラと比べても、決して多くはない。
それなのに。
あの巨体を吹き飛ばした。
「……すげえ」
思わず、声が漏れた。
だが、すぐに気を引き締める。
まだ終わっていない。
男が起き上がってくる可能性がある。
俺は距離を保ち、瓦礫の山を見据えた。
しばらくして。
「……ぐ、うぅ……」
低いうめき声が聞こえた。
男が、廃材の間から上半身を起こした。
生きている。
まず、それに安堵した。
しかし、男の様子は明らかにおかしかった。
胸を押さえている。
呼吸が荒い。
顔には、怒りよりも困惑が浮かんでいた。
「……なん、だ……今の……」
男は俺を見た。
その目が、大きく見開かれる。
「何を……しやがった……?」
俺は答えなかった。
男のオーラを観察する。
先ほどまで身体から勢いよく漏れていたオーラが、弱まっている。
完全に消えたわけではない。
だが、明らかに乱れていた。
呼吸も不規則だ。
立ち上がろうとしているが、うまく力が入らないらしい。
戦闘を続けられる状態ではない。
俺はそう判断した。
そして、男も同じ結論に至ったのだろう。
その顔から、血の気が引いていった。
「……ば、化け物……」
男が呟いた。
化け物。
その言葉に、俺はわずかに眉を動かした。
昨日の四人にも、似たようなことを言われた気がする。
まあ、無理もないか。
見た目は五歳程度の子供。
そんな相手に、大の男が吹き飛ばされたのだ。
常識的に考えれば、異常な光景だろう。
だが。
俺からすれば、目の前の男も十分に異常だった。
念を知らないまま念に覚醒し、その力で人を殴り倒している。
本人は、自分の身体が特別になったと思っているだけ。
念の基本すら知らない。
それでも、俺を一度は死の淵まで追い込んだ。
恐ろしいのは、そこだ。
念という力は、扱い方を知らない人間が使っても、十分に危険なのだ。
「ボ、ボス!」
遠くから声がした。
昨日の男たちだ。
俺とボスの戦いを、少し離れた場所から見ていたらしい。
彼らは、廃材の山に倒れ込んだボスの姿を見て、慌てて駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「何があったんです!?」
「うるせえ……!」
ボスが怒鳴ろうとした。
しかし、途中で咳き込み、胸を押さえる。
俺はその様子を見ながら、静かに後退した。
追撃するつもりはない。
今なら、男を殺すこともできるかもしれない。
しかし、その必要はなかった。
俺は生き延びたいだけだ。
物資を奪い返しに来た相手を撃退できれば、それでいい。
相手が逃げるなら、追う理由はない。
もっとも。
それは、今の俺に余裕があるから言えることでもあった。
もし回復能力がなければ。
もし念の才能がなければ。
もし、あの一撃で即死していたら。
俺は今、ここに立っていない。
その事実が、胸の奥に重く残った。
「……行くぞ」
俺は小さく呟き、背を向けた。
その瞬間。
「ま、待て!」
男の一人が叫んだ。
俺は足を止めた。
振り返る。
男は、俺と目が合った瞬間に口を閉じた。
顔が引きつっている。
どうやら、反射的に呼び止めただけらしい。
「……まだ、やるのか?」
俺は尋ねた。
男たちは答えなかった。
視線が、倒れたボスへ向かう。
ボスは歯を食いしばりながら、俺を睨んでいた。
しかし。
「……行かせろ」
低い声が響いた。
「ボ、ボス?」
「聞こえなかったのか。行かせろっつってんだ!」
男たちが、びくりと肩を震わせた。
俺はしばらく様子を見た。
追ってくる気配はない。
それを確認してから、再び歩き出した。
今度は、誰も呼び止めなかった。
◇
しばらく歩いてから、俺はようやく大きく息を吐いた。
「……はああああ……」
全身から力が抜けそうになった。
危なかった。
本当に、危なかった。
俺は近くの瓦礫に腰を下ろした。
手が震えている。
先ほどまで、戦闘中は気にならなかった。
だが、危険が去った途端、身体が勝手に震え始めた。
怖かったのだ。
当然だ。
俺は死にかけた。
しかも、相手は念の基礎すら知らない男だった。
念能力者としては、原作に登場するモタリケ程度か、場合によってはそれ以下の練度だろう。
少なくとも、まともな念の修行を積んだ人間には見えなかった。
そんな相手に、俺は一撃で倒された。
もし、あの男が念の四大行を習得していたら?
もし、堅を使えたら?
もし、凝で攻撃を強化できたら?
もし、発まで身につけていたら?
考えるだけで、背筋が冷たくなる。
「……死んでたな」
俺は呟いた。
間違いなく、危険だった。
今回生き延びられたのは、いくつもの偶然が重なったからだ。
まず、男が念について何も知らなかったこと。
次に、俺の回復能力が致命傷を修復できたこと。
そして、念の才能によって、覚醒直後に纏を体得できたこと。
さらに、フィジカルギフテッドと戦闘の才能があったこと。
どれか一つでも欠けていれば、結果は違っていたかもしれない。
「……特典様々、か」
苦笑する。
しかし、その笑いはすぐに消えた。
俺は右手を見た。
拳の周囲には、まだ薄いオーラが漂っている。
纏。
念の基本。
それが、今も維持されていた。
俺は意識を向ける。
すると、オーラがわずかに揺れた。
右手へ。
左手へ。
胸へ。
足へ。
まだ不安定だ。
意識を集中しなければ、均一な状態を保つことすら難しい。
だが、確かに動かせる。
それが、何よりも大きかった。
俺は念に覚醒した。
それも、原作でいうところの洗礼によって。
本来なら、危険極まりない方法だ。
強引に精孔を開かれたことで、身体が深刻な損傷を受けることもある。
実際、俺は内臓にまでダメージを受けた。
しかし、回復能力のおかげで、肉体の損傷は治癒できた。
そして、念の才能によって、オーラの流出を制御することにも成功した。
結果として、俺は念能力者になった。
それは、間違いない。
ただし。
「……調子に乗るなよ、俺」
自分に言い聞かせる。
念に覚醒したからといって、強くなったつもりになるのは危険だ。
今回の相手は、念を知らない素人だった。
オーラの制御もできていなかった。
戦闘技術も未熟だった。
それでも、俺は一度敗北している。
そして、最後の一撃も、相手の防御があまりにも雑だったからこそ通用した。
もし、相手がしっかりと纏を維持していたら。
もし、胸部へオーラを集中させていたら。
俺の拳は、あの男を吹き飛ばせなかったかもしれない。
今の俺が使えるオーラは、まだ少ない。
纏も覚えたばかり。
攻防力の移動らしきことができたとはいえ、それは感覚的なもので、再現性があるかどうかもわからない。
もっと練習が必要だ。
そして、何より。
念について、体系的に学ばなければならない。
俺は前世の記憶を探った。
念の四大行。
纏。
絶。
練。
発。
さらに、応用技術。
凝。
隠。
円。
周。
堅。
硬。
流。
原作で説明されていた技術が、次々と頭に浮かぶ。
しかし。
知っていることと、できることは違う。
俺が今できるのは、纏だけ。
それも、覚えたばかりの未熟な纏だ。
攻防力の移動についても、正式な技術として習得したとは言い難い。
まずは、纏を安定させること。
その次に、絶。
そして、練。
少なくとも、基本となる四大行を身につけなければ、話にならない。
問題は、師匠がいないことだ。
原作では、ゴンとキルアはウイングから念を教わった。
その後、ビスケによる本格的な修行を受けている。
どちらも、優秀な指導者だ。
しかし、俺にはそんな人間がいない。
そもそも、ここは流星街。
原作開始よりも、ずっと前の時代だ。
念を教えてくれる人間がいるかどうかすら、わからない。
いたとしても、簡単に信用できるとは限らない。
流星街で、見ず知らずの子供に念を教えてくれる親切な人物。
そんな都合のいい存在を期待するのは、危険だろう。
「……独学、か」
俺は呟いた。
簡単ではない。
だが、不可能とも思わなかった。
原作の知識がある。
念の才能がある。
そして、何より、今は実際にオーラを感じ取ることができる。
少なくとも、何もわからない状態で手探りするよりは、ずっとましだ。
俺は立ち上がった。
そろそろ移動しなければならない。
あの男たちが、また仲間を連れてくる可能性もある。
今度こそ、寝床を変えるべきだ。
そう考えて歩き出したが、数歩進んだところで足を止めた。
「……いや」
待て。
今の俺には、もう一つ考えるべきことがある。
それは、念の存在を知ったことによって、流星街での危険度が大きく変わったという事実だ。
これまでは、野犬や普通の人間を警戒していればよかった。
もちろん、毒物や病気、飢餓、事故などもある。
しかし、少なくとも戦闘に関しては、フィジカルギフテッドがあれば何とかなると、どこかで考えていた。
それは甘かった。
流星街には、念能力者がいる。
しかも、念の存在すら知らないまま覚醒している人間がいた。
ならば。
もっと強い念能力者がいても、おかしくない。
いや、むしろ、いると考えるべきだ。
流星街は、原作でも特異な場所として描かれていた。
ここで育った人間の中には、強力な念能力者も存在する。
そして、そうした人間が、必ずしも善人とは限らない。
今の俺が、そんな相手に遭遇したら?
逃げられるか?
戦えるか?
生き延びられるか?
答えは、わからない。
だからこそ。
「……強くならないとな」
俺は、静かに呟いた。
その言葉は、自然と口から出ていた。
強くなる。
単純な願いだ。
だが、今の俺には、それが何よりも必要だった。
◇
しばらく歩いた後、俺は結局、元の寝床へ戻ってきた。
もちろん、無警戒に戻ったわけではない。
周囲を大きく迂回し、何度も足を止めて気配を探った。
人の声は聞こえない。
足音もない。
先ほどの男たちが追跡してきた様子もなかった。
ひとまず、ここは安全らしい。
とはいえ、長居するつもりはない。
新しい寝床を探す必要はある。
ただ、今は少し休みたかった。
肉体の傷は治っている。
しかし、精神的な疲労までは完全に消えたわけではなかった。
回復能力を使った際、精神状態も整えるよう意識した。
そのおかげで、戦闘中の混乱や恐怖による硬直は消えた。
だが、死にかけた経験そのものが消えるわけではない。
記憶は残っている。
そして、その記憶が教えてくれることもある。
俺は寝床の奥に座り込み、アイテムボックスから毛布を取り出した。
地面に敷く。
その上に腰を下ろし、飲料水の入った容器を取り出す。
蓋を開け、一口飲んだ。
冷たい水が、喉を通っていく。
「……生きてるな」
当たり前のことを、しみじみと感じた。
生きている。
それだけで、ありがたい。
転生してから、まだ二日ほどしか経っていない。
なのに、もう何度も命の危険に晒されている。
野犬。
食料不足。
荒くれ者たち。
そして、念能力者。
前世では、こんな危険とは無縁の生活を送っていた。
仕事をして。
家に帰って。
漫画を読んで。
アニメを見て。
ゲームをして。
そんな日常が、今となっては遠い昔のように感じられる。
俺は、ふと自分の手を見た。
小さな手。
子供の手だ。
だが、その周囲には、薄いオーラが存在している。
目を凝らせば、淡い光のようなものが見える。
俺は、その光をじっと見つめた。
「……念、か」
前世では、憧れの力だった。
漫画の中で、キャラクターたちが使っていた不思議な能力。
自分ならどんな念能力を作るだろうか。
どんな系統になるだろうか。
そんなことを、何度も考えた。
しかし、実際に手に入れてみれば、憧れだけでは済まされない。
念は、危険な力だ。
使い方次第で、人を傷つける。
殺すこともできる。
そして、使い方を知らなければ、自分自身を危険に晒すことにもなる。
今日の俺が、その証拠だった。
洗礼。
念を込めた攻撃による、強制的な覚醒。
原作で知っていたその言葉が、今は恐ろしく現実的なものとして胸に残っている。
あの拳を受けた瞬間の痛み。
内臓が潰れたような感覚。
呼吸できなかった恐怖。
血の味。
それらを、俺は忘れないだろう。
忘れてはいけない。
あれが、念を知らない者と念能力者の間に存在する、決定的な差なのだから。
「……それにしても」
俺は右手を握った。
オーラが、わずかに拳へ集まる。
その感覚を確かめながら、今日の戦闘を思い返した。
最後の一撃。
俺の拳は、男のオーラを突破した。
そして、あの巨体を吹き飛ばした。
そのとき、確かに何かが噛み合った。
身体の動き。
オーラの集中。
相手の隙。
すべてが、自然につながった。
あれは、単純な筋力による打撃ではなかった。
フィジカルギフテッドと、念の才能。
二つの特典が、互いの力を引き出した結果だった。
もし、あの一撃を再現できるようになれば。
もっと安定してオーラを扱えるようになれば。
さらに、練や堅を習得できれば。
俺は、今よりずっと強くなれる。
その可能性を、確かに感じた。
だが、同時に。
自分がどれほど未熟なのかも、思い知らされた。
今日の相手は、念の素人だった。
それでも、危うく殺されかけた。
今の俺が、原作に登場するような本格的な念能力者と戦えば、どうなるか。
考えるまでもない。
まず勝てない。
いや、戦いにすらならない可能性が高い。
それほどまでに、念の世界は奥深い。
「……修行、だな」
俺は、静かに言った。
もう、迷いはなかった。
念を修行する。
それが、今の俺に必要なことだ。
まずは、纏を安定させる。
意識しなくても維持できるようになるまで、繰り返し練習する。
次に、絶。
オーラを外へ漏らさず、気配を消す技術。
流星街で生き延びるためには、特に重要になるだろう。
そして、練。
体内から多くのオーラを生み出し、放出する技術。
今の俺には、オーラの絶対量がどの程度あるのかもわからない。
それを確かめる必要がある。
さらに、凝。
目にオーラを集める技術。
念能力者を相手にするなら、これも欠かせない。
そして、いずれは。
発。
自分だけの念能力。
ただし、そこまで急ぐつもりはなかった。
念能力は、単に強い技を作ればいいというものではない。
系統。
適性。
制約と誓約。
能力の用途。
自分自身の性格。
それらを考えた上で、慎重に決める必要がある。
原作の知識があるからこそ、その重要性は理解していた。
焦って能力を作り、後から後悔するようなことは避けたい。
それに、今はまだ自分の念系統すらわかっていない。
水見式を行うための道具もない。
まずは基礎だ。
基礎を固める。
それが、最優先。
「……よし」
俺は立ち上がった。
そして、寝床の中央で姿勢を正した。
足を肩幅に開く。
肩の力を抜く。
呼吸を整える。
目を閉じる。
身体の内側へ、意識を向ける。
オーラ。
生命エネルギー。
それが、身体の周囲を薄く包んでいる。
俺は、その感覚を確かめた。
呼吸に合わせて、オーラがわずかに揺れる。
意識を集中すると、揺れが小さくなる。
逆に、余計なことを考えると、膜が乱れる。
なるほど。
まだまだ未熟だ。
だが。
確かに、制御できている。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
焦る必要はない。
一歩ずつでいい。
この世界に転生して、まだ二日ほど。
俺には時間がある。
少なくとも、今日を生き延びることはできた。
食料もある。
飲料水もある。
寝床もある。
そして、念に覚醒した。
昨日までの俺とは、確実に違う。
もちろん、危険が消えたわけではない。
むしろ、念という力を知ったことで、この世界の恐ろしさを改めて理解した。
だが、それでいい。
恐ろしさを知ることは、悪いことではない。
自分の弱さを知ることも、悪いことではない。
問題は、そこから何をするかだ。
俺は、強くなる。
生き延びるために。
自分の身を守るために。
そして、いつか。
自分が守りたいと思った誰かを、守れるようになるために。
前世の俺は、特別な人間ではなかった。
ただの三十二歳の男だった。
仕事をして、趣味を楽しんで、日々を過ごしていた。
それでも、譲れないものはあった。
一度決めたことは、最後までやり通す。
恩を受けたら、返す。
困っている人間を、見捨てない。
そんな、自分なりの信念。
この世界に転生しても、それだけは変えたくなかった。
力を得たからといって、何でも好き勝手にしていいわけではない。
今日の戦いでも、俺は相手を殺さずに済んだ。
狙って完全に手加減できたわけではない。
あの一撃がどこまで通用するのか、俺自身にもわかっていなかった。
結果として、男は生きていた。
それは、偶然の要素が大きい。
もし打撃の角度が少し違っていたら。
もし、相手が頭を強く打っていたら。
もし、廃材の中に鋭利な金属片が突き出していたら。
男は死んでいたかもしれない。
そう考えると、手放しで喜ぶことはできなかった。
自分の力を、正確に制御できるようにならなければならない。
相手を倒すための力。
相手を殺さずに止めるための力。
その両方を、身につけたい。
簡単なことではないだろう。
だが、目指す価値はある。
「……絶対に、生き延びてやる」
俺は、小さく呟いた。
そして、もう一度、身体の周囲に意識を向けた。
纏。
オーラを留める。
薄く。
均一に。
全身を包む。
呼吸を整える。
意識を集中させる。
乱れた部分を、修正する。
それを、何度も繰り返す。
時間が、ゆっくりと過ぎていった。
瓦礫の隙間から、灰色の空が見える。
遠くでは、金属が崩れる音が響いていた。
流星街。
捨てられたものが集まる場所。
人間さえも、捨てられる場所。
そんな世界の片隅で。
俺は、初めて本格的な念の修行を始めていた。
誰に教わるわけでもない。
誰かに見守られているわけでもない。
ただ一人。
小さな身体に、薄いオーラをまといながら。
それでも。
俺の胸には、確かな決意があった。
今日、俺は死にかけた。
そして、生き延びた。
念という力を知り、その入口に立った。
次に同じような相手と遭遇したとき、もう二度と、無防備に殴られるつもりはない。
もっと強くなる。
もっと賢くなる。
もっと、この世界を知る。
そのために、今できることを積み重ねる。
俺は目を閉じたまま、ゆっくりと息を吸った。
身体の周囲に、淡いオーラが静かに揺れる。
そして、薄い膜となって全身を包み込んだ。
――纏。
その感覚を、忘れないように。
俺は何度も、何度も、繰り返した。
流星街で迎えた二日目。
それは、俺が初めて念能力者と戦い、洗礼を受け、そして念に覚醒した日となった。
同時に。
この世界で生き抜くための、本当の修行が始まった日でもあった。