流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
第七観測区。
◇
最初に聞こえたのは、床下で何かが噛み合う音だった。
重い金属同士が擦れ、巨大な歯車がゆっくりと回転する。続いて足元から突き上げるような振動が走り、生命維持容器の側面に満たされた液体が細かく波打った。
天井の照明が一度だけ暗くなる。
俺は反射的に膝を緩め、床から伝わる力の向きを確かめた。
横揺れ。
続いて、わずかな沈下。
地震とは違う。
部屋を支える構造物そのものが動いている。
「全員、壁から離れろ!」
声を張ると同時に、俺は一番の被験者が寝かされている場所へ走った。
毛布の端を掴み、床に横たわる男の身体を抱え上げる。衰弱した身体は驚くほど軽かった。肩と膝裏を支え、揺れの少ない中央の空間へ運ぶ。
その間にも、部屋の四隅から鈍い衝撃音が続いていた。
「ミレーヌさん、一番をお願いします!」
「任せて!」
男を預け、今度は零号へ向かう。
二メートル半近い巨体は、床に敷いた毛布から半分ほどはみ出していた。人間離れした筋肉を備えているとはいえ、今は意識がない。
俺は零号の背中と膝裏へ腕を差し入れた。
重い。
だが、持ち上がらないほどではなかった。
呼吸を妨げないよう姿勢に注意しながら、壁際から引き離す。
背後で金属の破裂するような音がした。
振り返ると、壁面の一部が内側へせり出していた。
先ほどまで零号が寝かされていた場所を、分厚い隔壁がゆっくりと横切っていく。
(……危なかった)
あのまま放置していたら、身体を挟まれていたかもしれない。
「アオ!」
リリアの声が飛んだ。
「西側の床が下がってる! 七番と九番の容器の間!」
視線を向ける。
床板の継ぎ目が広がり、細い段差が生じていた。
生命維持容器そのものは床に固定されている。だが、その下を走る配管の一部が、床板の移動に引っ張られていた。
七番の容器に繋がる管が、ぴんと張っている。
あと少し動けば、接続部が破損する。
「エドガー! 容器の配管は移動に耐えられるのか!」
「本来なら自動で接続が切り替わるはずです!」
「本来なら、じゃ困る!」
「……七番の補助循環路が追従していません!」
俺は零号を安全な位置へ寝かせ、七番の容器へ向かった。
配管の根元を凝で確認する。
金属製の固定具。
その奥に、伸縮する構造を持つ継ぎ手が見えた。
どうやら完全に固定されているわけではない。
しかし、継ぎ手の外側に錆びた留め金が噛み込み、伸縮を妨げている。
「ガルド! こっちへ!」
大男が駆け寄ってきた。
「何だ!」
「この配管を支えてくれ。引っ張るな。床の動きに合わせて、力を逃がすんだ」
「わかった!」
ガルドが両手で配管を支える。
俺は留め金へ指を掛けた。
無理に引き千切れば、管まで壊す可能性がある。
周を使って指先を強化し、錆びた金具だけを慎重に変形させる。
わずかに隙間ができた。
そこへナイフの先端を差し込み、固定部分を外す。
乾いた音がした。
次の瞬間、継ぎ手が伸びた。
配管に掛かっていた張力が消える。
「……よし」
ガルドが低く唸った。
「こいつは、まだ動くぞ」
「ああ。支えたままで頼む」
俺は操作卓へ目を向けた。
エドガーが必死に画面を操作している。
その横で、ユリウスだけが落ち着いていた。
右手首には、先ほど俺が取り付けた拘束具がある。
男は自由な左手を白衣のポケットに入れることもなく、床の振動を確かめるように立っていた。
その姿を見て、俺は確信した。
こいつは、この事態をある程度予想していた。
「ユリウス!」
呼びかけると、男が顔を上げた。
「はい」
「これを止める方法は?」
「……ありません」
「本当に?」
「少なくとも、ここからは」
俺は奥歯を噛んだ。
「なら、いつまで動く?」
「もう間もなくです」
男が答えた直後。
床下から、ひときわ大きな衝撃が響いた。
部屋全体が横へ滑る。
足元に伝わる加速度は、列車が急に動き出したときの感覚に似ていた。
生命維持容器の中で、液体が大きく揺れた。
そして。
数秒後、振動が止まった。
残ったのは、機械の唸りと、誰かの荒い呼吸だけだった。
◇
「……全員、無事か?」
俺は周囲を見渡した。
リリアが頷く。
「私は大丈夫」
「こっちも問題ないわ」
ミレーヌさんは一番の男の脈を確認していた。
レオンは出入口付近に立ち、ガルドはまだ七番の配管を支えている。
エドガーが操作卓へ身を乗り出した。
「生命維持系統、正常……七番の補助循環も安定しています」
「他は?」
「九番、十三番、二十一番も正常。全容器の生命反応を確認しました」
俺は長く息を吐いた。
ひとまず、最悪の事態は避けられたらしい。
ただし、安心できる状況ではなかった。
俺は出入口へ向かった。
先ほどまで通路へ続いていた扉の向こうには、見知らぬ空間が広がっていた。
黒い石材で造られた細長い廊下。
床には青白い線が走り、壁には見覚えのない文字が刻まれている。
研究施設の無機質な金属壁とは、明らかに材質が違っていた。
古い。
だが、傷んでいるわけではない。
石材の表面は滑らかで、埃もほとんど積もっていなかった。
まるで、長い年月を経てもなお手入れされ続けている建造物のようだった。
「……リリア」
「うん」
彼女は銀色の羅針盤を取り出した。
針が何度か回転する。
それから、今までとは異なる方向を指した。
「帰り道が……」
リリアが言葉を探す。
「なくなったのか?」
「ううん。記録は残ってる。でも、ここから繋がっていない」
俺は頷いた。
彼女の『帰還者の羅針盤』は、歩いてきた経路を記録する能力だ。
施設が勝手に移動したからといって、通路を作り出せるわけではない。
「つまり、第七観測区ごと別の場所へ運ばれた」
「そうだと思う」
俺は扉の向こうを見た。
遺構の内部搬送機構。
ユリウスが説明したものだ。
ただし、男はこれを自由に操作できるわけではないと言っていた。
ならば、今回の移動は誰の意思によるものなのか。
「……ユリウス」
俺は振り返った。
「ここはどこだ?」
男は廊下を見た。
その目に、初めて隠しきれない興奮が浮かんだ。
「……中央環状区画です」
「中央管理区画じゃないのか?」
「その外周に位置する場所です。私たちがこれまで立ち入れなかった、遺構本来の領域ですよ」
ユリウスは、まるで懐かしい景色を眺めるように壁の文字を見つめていた。
俺は、その横顔を観察した。
研究者としての好奇心。
それ自体は理解できる。
だが、目の前の人間たちが死にかけた直後に浮かべる表情としては、あまりにも場違いだった。
「……嬉しそうだな」
「ええ」
ユリウスは否定しなかった。
「二十年以上、この遺構の研究が続けられてきました。それでも、中央環状区画へ入る方法は見つからなかった」
「なのに、今は入れた」
「そうです」
「何が変わった?」
ユリウスは俺を見た。
「……あなたが来たことです」
その返答に、俺は眉を寄せた。
「俺が?」
「正確には、あなたが観測対象一として登録されたことですね」
男は続けた。
「遺構があなたを特別な対象として認識した。それによって、今まで閉じていた機能が動き始めた可能性があります」
俺は黙った。
可能性。
また、その言葉だ。
だが、今回ばかりは完全に否定できない。
補助電源を復旧させた際、観測核は俺を『観測対象一』と呼んだ。
それから、強制的な情報収集が始まった。
俺たちはその系統を切り離したはずだが、遺構全体が俺を認識したという事実までは消えていない。
(……厄介なことになったな)
俺は自分の手を見た。
特別な才能。
普通では考えられない身体能力。
そして、念能力とは別に与えられた力。
この遺構が何を観測したのかはわからない。
だが、もし俺の存在を何らかの異常として認識しているなら。
施設の反応が変わった理由も、多少は説明がつく。
もちろん、それが正解とは限らない。
「……一つ聞く」
俺はユリウスを見た。
「この移動で、収容者たちの生命維持が危険に晒された。お前はそれを知っていたのか?」
男は少しだけ考えた。
「移動そのものは予想していました。ただ、生命維持配管に不具合が生じるとは思いませんでした」
「そうか」
俺は頷いた。
「なら、次からは予想したことを先に話せ」
「……善処します」
「その返事は信用できない」
俺は言った。
「だから、次に何か隠していたとわかったら、協力関係はそこで終わりだ」
ユリウスは黙った。
俺は続けた。
「お前の研究がどうなろうと知ったことじゃない。俺たちが優先するのは、ここに閉じ込められた人間の命だ」
男はしばらく俺を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
「……理解しました」
その言葉が本心かどうかは、まだわからなかった。
◇
部屋の状況が落ち着いたところで、俺たちは改めて救出計画を確認した。
中央環状区画へ移動したことによって、中央管理区画までの距離は縮まったらしい。
だが、問題も増えていた。
まず、元の通路へ戻る方法がわからない。
次に、生命維持容器の状態は安定しているものの、配管の一部が移動によって損傷しかけている。
そして何より、ユリウスの正体について疑問が残っていた。
青白い観測機構は、彼を登録済み管理者ではないと判断した。
だが、エドガーもレオンも、ユリウスを知っている。
この矛盾を解決しなければ、安心して背中を預けることはできない。
「……エドガー」
俺は操作卓の前に立つ男へ尋ねた。
「ユリウスがこの施設へ来たのは、いつだ?」
エドガーは少し考えた。
「……私が着任する前からです」
「お前は何年前から?」
「七年前です」
「つまり、少なくとも七年以上前からいるわけか」
「ええ」
俺はレオンへ視線を向けた。
「お前は?」
「俺がここへ配属されたのは五年前だ。そのときには、すでに中央研究部門の責任者だった」
俺は頷いた。
ならば、ユリウスが実在する研究者であることは確かだ。
少なくとも、最近現れた偽物というわけではない。
「……じゃあ、なぜ遺構はお前を管理者として認めなかった?」
俺が尋ねると、ユリウスは答えた。
「簡単なことです」
男は壁の文字を指した。
「私たちは、この遺構を建造した人間ではありません」
俺は黙った。
「現代の研究者が設定した管理権限と、遺構本来の管理権限は別物です。観測機構は、後者を基準に判断したのでしょう」
筋は通っている。
だが、それなら先ほどの反応にも説明がつく。
登録済み管理者ではない。
つまり、遺構の正規管理者ではないという意味だ。
現代の研究施設で与えられた肩書きなど、古代の機構には関係ない。
「……エドガー」
俺は確認した。
「お前の腕輪も、遺構本来の管理権限じゃないのか?」
「……はい。私たちが解析した認証方式を利用したものです」
俺は頷いた。
ようやく話が繋がった。
エドガーの腕輪は、現代の研究者が作った認証装置。
ユリウスの端末も同じ。
だが、遺構本来の管理機構は、それらを正規の権限とは認めていない。
だから、ユリウスがいくら研究部門の責任者でも、統括機構を自由に操作できない。
「……なるほど」
俺は小さく呟いた。
ただし、疑問が一つ残る。
「じゃあ、なぜ俺は観測対象一なんだ?」
ユリウスは微笑んだ。
「それこそ、私が知りたいことですよ」
俺は男を見た。
どうやら、そこだけは本当にわかっていないらしい。
◇
その後、俺たちは第七観測区の周囲を調べ始めた。
中央環状区画の通路は、研究施設とは明らかに構造が違っていた。
壁は黒い石材で造られ、ところどころに青白い線が走っている。
天井は高く、照明らしいものは見当たらない。
それでも、足元は十分に明るかった。
壁の内部から漏れる光が、通路全体を淡く照らしている。
俺は壁へ手を当てた。
冷たい。
だが、表面には微弱な振動があった。
内部で何かが動いている。
俺は凝で確認した。
石材の奥に、細いオーラの流れが見えた。
それは、血管のように壁の内部を走っている。
(……建物そのものが、念を使っているようなものか)
もちろん、実際に念能力者がいるとは限らない。
何らかの装置がオーラを循環させている可能性もある。
だが、少なくとも現代の建築技術とは違う。
「……アオ」
リリアが呼んだ。
俺は振り返った。
彼女は床にしゃがみ込み、何かを調べていた。
「……これ、見て」
俺は近づいた。
床には、細い傷が残っていた。
靴底の跡。
それも、比較的新しい。
「……人が通ったのか?」
「うん。少なくとも四人」
俺は目を細めた。
「四人?」
リリアは頷いた。
「靴底の模様が違う。歩幅も違うから、同じ人が何度も通った跡じゃないと思う」
俺は、床を見た。
確かに、複数の足跡が重なっている。
だが、どれも薄い。
長い年月が経ったものではないが、つい先ほど付いたものでもなさそうだ。
「……いつ頃の跡だ?」
「正確にはわからない。でも、埃の付き方からすると、数日前くらい」
俺は、リリアを見た。
三日前。
施設の異常が始まった日。
そして、行方不明の調査員たちが中央管理区画へ連れていかれたとされる時期。
「……追えるか?」
「やってみる」
リリアは銀色の羅針盤を掲げた。
針がゆっくりと回転する。
そして、一つの方向を指した。
通路の奥。
中央管理区画へ続くと思われる方向だった。
「……こっち」
俺は頷いた。
だが、すぐには歩き出さなかった。
「……ミレーヌさんに知らせよう」
リリアが頷く。
俺たちは第七観測区へ戻った。
◇
「……四人分の足跡?」
ミレーヌさんは、俺たちの報告を聞いて目を細めた。
「はい。数日前のものらしいです」
「調査員たちの可能性はあるわね」
「ただし、確定ではありません」
俺が言うと、ミレーヌさんは頷いた。
「ええ。だからこそ、慎重に追う必要がある」
俺は、部屋の中央に置かれた操作卓を見た。
生命維持容器の表示は、すべて安定している。
だが、いつまた施設が動くかわからない。
ここに残る人員を決める必要があった。
「……ミレーヌさん」
「何?」
「ここは任せてもいいですか?」
彼女は、少しだけ笑った。
「そのつもりよ」
俺は頷いた。
「レオンとガルドも残ってもらいます」
レオンは腕を組んだ。
「構わん。だが、何かあった場合、連絡手段はあるのか?」
俺は少し考えた。
この施設では、通常の通信機器が正常に使える保証はない。
壁の内部に走るオーラの流れも、何らかの干渉を起こしている可能性がある。
「……施設内の通信装置は?」
俺がエドガーへ尋ねると、男は答えた。
「中央環状区画では、研究施設側の通信網が利用できない可能性があります」
「……じゃあ、別の方法が必要だな」
俺はリリアを見た。
彼女は少し考えた。
「……私の羅針盤で、戻る経路は記録できる。でも、離れた場所と連絡することはできない」
「それで十分だ」
俺は頷いた。
「無理に通信手段を作るより、戻れる経路を確保する方が重要だ」
ミレーヌさんも頷く。
「そうね。ただし、長時間戻らない場合の取り決めは必要よ」
俺たちは簡単な約束を決めた。
中央管理区画へ向かうのは、俺、リリア、エドガー、ユリウスの四人。
ミレーヌさん、レオン、ガルドは第七観測区に残る。
施設が再び移動した場合、無理に追いかけず、その場で収容者の安全を優先する。
俺たちは、可能な限り早く戻る。
それだけだった。
だが、今の状況では、それが最も現実的な判断だと思えた。
◇
出発前、俺は一番の男の様子を確認した。
男は、まだ眠っていた。
顔色は少しだけ良くなっている。
呼吸も安定していた。
俺は、毛布の端を直した。
そして、しばらくその顔を見つめた。
この男は、ユリウスを恐れていた。
中央管理区画には、人間ではない何かがいると言った。
だが、その言葉の意味はまだわからない。
ユリウス自身が人間ではないのか。
それとも、中央管理区画に別の存在がいるのか。
あるいは、研究者たちが行った実験によって、何かが生まれたのか。
考えられる可能性はいくつもある。
だが、今は推測を重ねても仕方がない。
確かめるしかなかった。
「……アオ」
ミレーヌさんが声をかけた。
俺は顔を上げた。
「無理はしないでね」
俺は頷いた。
「はい」
「あなたが強いのは知っている。でも、ここは普通の遺跡じゃない」
「わかっています」
ミレーヌさんは、少しだけ真剣な顔になった。
「……それと、ユリウスには気をつけて」
俺は小さく笑った。
「もちろんです」
彼女は頷いた。
「リリアも」
「はい」
リリアは、しっかりと答えた。
俺は二人を見た。
ミレーヌさんとリリア。
師弟の間には、言葉にしなくても通じるものがあるらしい。
短い視線のやり取りだけで、互いの考えを確かめているようだった。
俺は、それを邪魔しなかった。
◇
中央環状区画の通路へ足を踏み入れる。
俺が先頭。
少し後ろにリリア。
その後ろにエドガーとユリウス。
ユリウスの右手首には、まだ拘束具が付いている。
男は特に文句を言わなかった。
むしろ、周囲の景色を興味深そうに眺めていた。
俺は、円を広げた。
五十メートル。
オーラが通路を満たし、壁や床の形状が感覚として伝わってくる。
だが、奇妙なことが起きた。
円の端が、壁の一部で不自然に途切れる。
まるで、そこだけ空間が抜け落ちているようだった。
(……何だ?)
俺は足を止めた。
壁へ近づく。
凝で確認する。
石材の表面には、微弱なオーラが流れていた。
だが、その奥は見えない。
円も、そこから先へ届かない。
「……ユリウス」
「はい」
「この壁の向こうには何がある?」
男は壁を見た。
そして、少しだけ驚いた顔をした。
「……気づきましたか」
「何が?」
「そこは、遺構の内部構造が重なっている場所です」
俺は眉を寄せた。
「……重なっている?」
「ええ。通常の空間とは、少し異なる状態になっています」
俺は、しばらく壁を見つめた。
念能力による空間干渉。
あるいは、それに近い技術。
この遺構には、そうした機構が存在しているのかもしれない。
「……通れるのか?」
俺が尋ねると、ユリウスは首を横に振った。
「今は無理でしょう」
「今は?」
「条件が揃えば、通路が現れることもあります」
俺は頷いた。
どうやら、施設の構造変化は単純な壁の移動だけではないらしい。
だが、今はそれ以上調べる時間がなかった。
「……行こう」
俺たちは再び歩き始めた。
◇
しばらく進んだところで、リリアが足を止めた。
「……アオ」
俺は振り返った。
彼女は羅針盤を見つめていた。
「……足跡が、ここで途切れてる」
俺は床を見た。
確かに、先ほどまで続いていた四人分の足跡が消えている。
だが、通路はまだ先へ続いていた。
「……別の場所へ移動したのか?」
「わからない。でも……」
リリアは壁を指した。
「こっちに、何かある」
俺は壁へ近づいた。
そこには、他の場所と同じような青白い線が走っている。
だが、よく見ると一部だけ模様が違っていた。
円形。
その中央に、細い縦線がある。
俺は指先で触れた。
冷たい。
だが、わずかな振動が伝わってきた。
その瞬間。
壁の模様が、青白く光った。
『認証を確認』
無機質な声が響く。
俺は反射的に一歩下がった。
『観測対象一』
また、その呼び方だった。
『中央管理区画への接続要求を検知』
俺は、リリアと顔を見合わせた。
ユリウスが、背後で小さく息を呑む。
『接続条件を照合中』
壁の光が強まる。
俺は、周囲へ意識を広げた。
攻撃の気配はない。
だが、何かが動き始めている。
『照合完了』
無機質な声が続く。
『観測対象一の同行者を確認』
俺は眉を寄せた。
同行者。
リリア。
エドガー。
ユリウス。
この三人を認識しているのか。
『警告』
声が変わった。
『同行者の中に、未承認の管理権限保持者を検知』
俺は、ゆっくりと振り返った。
ユリウスが、壁を見つめていた。
その表情には、明らかな緊張が浮かんでいる。
『当該個体の権限を再照合』
青白い光が、ユリウスの右手首へ向かった。
拘束具の下にある金属製の輪が、淡く光る。
ユリウスが低く呟いた。
「……やめろ」
俺は目を細めた。
初めて聞く声だった。
穏やかな研究者のものではない。
切迫した、焦りを含んだ声。
『照合完了』
無機質な声が響く。
『当該個体の管理権限は、正規登録情報と一致しません』
俺は、静かに息を吐いた。
また同じ結果だ。
だが、今度はそれだけでは終わらなかった。
『追加情報を確認』
壁の光が、さらに強まる。
『当該個体には、外部から付与された管理権限が存在します』
俺は眉を寄せた。
外部から付与された管理権限。
つまり、ユリウスは遺構本来の管理者ではない。
だが、誰かが別の権限を与えている。
それは、現代の研究者たちが作った認証方式とは違うものなのかもしれない。
『権限付与元を照合』
ユリウスが、突然動いた。
左手が白衣の内側へ伸びる。
俺は即座に踏み込んだ。
男の左手首を掴み、身体を壁から引き離す。
「……動くなと言ったはずだ」
ユリウスは、歯を食いしばっていた。
その表情には、これまでの余裕がない。
「……あなたは、何もわかっていない」
俺は、男の目を見た。
「なら、教えてくれ」
ユリウスは、何かを言いかけた。
だが、その前に。
『照合完了』
無機質な声が響いた。
そして。
『権限付与元――中央統括機構』
俺は、目を見開いた。
中央統括機構。
この遺構の中枢。
ユリウスが停止させたいと言っていた存在。
その統括機構が、ユリウスへ権限を与えている。
俺は、ゆっくりと男を見た。
「……どういうことだ?」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
そして。
力なく笑った。
「……だから、言ったでしょう」
男は、俺を見た。
「……この施設は、あなたが考えているほど単純ではないのです」
その瞬間。
壁の中央に、細い亀裂が走った。
青白い光が、隙間から漏れ出す。
石材が、音もなく左右へ開いていく。
その向こうには。
巨大な空間が広がっていた。
天井の高さは、見当もつかない。
幾重にも重なった環状の構造物。
空中を走る青白い光の線。
そして、その中心に浮かぶ巨大な球体。
まるで、星を閉じ込めたような光景だった。
俺は、しばらく言葉を失った。
ユリウスが、低く呟いた。
「……中央管理区画」
俺は、男の腕を掴んだまま、目の前の空間を見つめた。
ここに。
四人の行方不明者がいるかもしれない。
収容者たちを救うための装置があるかもしれない。
そして。
この遺構のすべてを動かしているものが、存在している。
俺は、ゆっくりと息を吸った。
「……行くぞ」
リリアが、隣へ並ぶ。
「うん」
俺は、ユリウスを見た。
「……お前にも、最後まで付き合ってもらう」
男は、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……ええ」
その声には、先ほどまでの余裕がなかった。
俺たちは、中央管理区画へ足を踏み入れた。
背後で、青白い光が揺れていた。
まるで。
遺構そのものが、俺たちを見送っているようだった。