流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
中央管理区画。
◇
最初に感じたのは、奇妙な温かさだった。
地下深くにある古代遺構。
長い年月、人の手が届かなかった場所。
そんな空間なら、冷え切った空気や湿った石の匂いがするものだと思っていた。
だが、中央管理区画の空気は違っていた。
肌に触れる温度は、人間が生活するのにちょうどいい程度に保たれている。湿気は少なく、呼吸をしても喉が乾かない。どこからか流れ込む微かな風には、雨上がりの森を思わせる匂いが混じっていた。
俺は足を止めた。
目の前に広がる光景は、これまで見てきた研究施設とは根本的に異なっていた。
巨大な円形の空間。
天井は遥か上方にあり、青白い光の筋が幾重にも交差している。
中央には、直径二十メートルほどの球体が浮かんでいた。
透明な水晶にも、磨き上げられた金属にも見える不思議な材質。
その内部では無数の光点が明滅し、星空を閉じ込めたような光景を作り出している。
球体の周囲には、大小さまざまな環状構造物が浮かんでいた。
ゆっくりと回転するもの。
一定の位置で停止しているもの。
時折、光の線を伸ばして球体と接続するもの。
それらが複雑に組み合わさり、一つの巨大な装置を形作っていた。
(……これが中央統括機構か)
俺は凝を使った。
瞬間、視界が変わった。
球体の内部には、膨大なオーラが流れている。
だが、それは一人の念能力者が放つオーラとは違っていた。
何百、何千という細い流れが絡み合い、互いに干渉しながら循環している。
まるで巨大な河川だった。
支流が集まり、本流となり、再び枝分かれして施設の各所へ伸びている。
その流れの一部は、俺たちが通ってきた壁や床へ繋がっていた。
生命維持装置。
通路の移動機構。
観測設備。
それらすべてが、この場所から供給される力によって動いているのだろう。
「……すごい」
隣でリリアが呟いた。
彼女も銀色の羅針盤を握ったまま、巨大な球体を見上げている。
「これ、全部動いてるんだよね」
「ああ」
「誰も操作してないのに?」
「少なくとも、今はそう見えるな」
俺は周囲へ円を広げた。
五十メートル。
足元の構造物、周囲の壁、遠くに伸びる通路。
それらの形が感覚として伝わってくる。
だが、中央の球体だけは違った。
円が表面に触れた瞬間、感覚が曖昧になる。
拒絶されているわけではない。
むしろ、こちらのオーラを何かが読み取ろうとしているようだった。
(……また観測か)
俺は円を縮めた。
これ以上、無闇に情報を与える必要はない。
「アオ」
リリアが小声で呼んだ。
「……あそこ」
彼女が指差したのは、球体の下方だった。
円形の床から、細い柱が幾つも伸びている。
その先には、人間が立てる程度の広さを持つ台座があった。
台座の上には、四つの影が見える。
俺は目を細めた。
距離はかなりある。
だが、身体能力を活かして視線を凝らせば、輪郭くらいは判別できた。
人間だ。
四人。
全員、床に横たわっている。
「……あれは」
俺は思わず一歩踏み出した。
リリアも同じものを見ていたらしい。
「四人いる」
「ああ」
俺は後ろを振り返った。
「ユリウス。あそこにいるのは誰だ?」
男は球体の下を見た。
そして、少しだけ表情を変えた。
「……なるほど」
「何がなるほどだ」
「中央管理区画に連れてこられた人間たちでしょう」
俺は男を睨んだ。
「知ってたのか?」
「存在は聞いていました。しかし、あの場所にいるとは」
俺は再び台座を見た。
四人とも動かない。
生きているかどうかも、ここからではわからない。
「……リリア」
「うん」
「まずはあの四人を確認する」
俺はユリウスへ視線を戻した。
「案内できるか?」
男は少し考えた。
「……あの台座へ直接向かう通路は、現在閉じられています」
「開ける方法は?」
「中央統括機構の承認が必要です」
俺は顔をしかめた。
またそれか。
どうやら、この場所では何をするにも統括機構の許可が必要らしい。
「……なら、直接聞いてみるか」
俺は巨大な球体を見上げた。
その瞬間だった。
『観測対象一』
無機質な声が響いた。
俺は足を止めた。
声は球体の内部から聞こえてきた。
いや、正確には違う。
床。
壁。
天井。
空間そのものが声を発しているようだった。
『中央統括機構への接続を確認』
俺は、静かに息を吸った。
「……お前が、この遺構を動かしているのか?」
少しの沈黙。
そして。
『肯定』
俺は眉を寄せた。
「……話が通じるんだな」
『対話機能は正常に稼働しています』
俺は、リリアと顔を見合わせた。
彼女も驚いているようだった。
だが、俺はすぐに球体へ視線を戻した。
「……なら、聞きたいことがある」
『質問を受理』
俺は、球体の下にある台座を指差した。
「あそこにいる四人は生きているのか?」
数秒の沈黙。
『生命反応を確認』
俺は、胸の奥で張り詰めていたものが少しだけ緩むのを感じた。
「……全員か?」
『四名全員の生命反応を確認』
俺は頷いた。
少なくとも、生きている。
それがわかっただけでも、大きな前進だった。
「……あの四人を解放してくれ」
『要求を受理』
球体の内部で、光点が幾つか移動した。
『解放条件を照合中』
俺は黙って待った。
『現在、解放は許可されていません』
俺は眉を寄せた。
「……理由は?」
『当該四名は保護対象として登録されています』
「保護?」
『生命維持および外部環境からの隔離が必要と判断されています』
俺は台座を見た。
四人は、透明な光の膜のようなものに包まれている。
あれが保護機構なのかもしれない。
「……危険な状態なのか?」
『生命維持状態は安定しています』
「なら、なぜ解放できない?」
『保護環境外における安全性が確認されていません』
俺は、しばらく黙った。
どうやら、統括機構は四人を囚人として扱っているわけではないらしい。
少なくとも、説明の上では。
だが、本人たちの意思を無視して閉じ込めているなら、それは保護と呼べるのか。
「……本人たちは、ここから出たがっているんじゃないのか?」
『意思確認は未実施』
俺は目を細めた。
「……確認してないのか?」
『保護状態への移行後、意識活動は抑制されています』
俺は思わず額に手を当てた。
つまり、眠らせたまま保護しているということだ。
本人の意思も聞かずに。
(……機械らしい判断だな)
だが、怒鳴っても仕方がない。
相手は人間ではない。
少なくとも、普通の人間と同じ価値観を持っているとは思えなかった。
「……なら、俺が安全を確保する」
俺は言った。
「必要な装置も、搬送手段も用意する。だから、解放できる条件を教えてくれ」
球体の内部で、光が揺れた。
『要求を再評価』
俺は、黙って待った。
そして。
『代替保護手段の提示を要求』
俺は、口元を緩めた。
「……話が早いな」
少なくとも、交渉の余地はあるらしい。
◇
「……待ってください」
ユリウスが口を開いた。
俺は振り返った。
男は、巨大な球体を見つめていた。
その表情には、隠しきれない興奮が浮かんでいる。
「中央統括機構が、外部の人間と直接対話している……」
「お前は話したことがないのか?」
「ありません」
ユリウスは即答した。
「私たちは、端末を通じて限定的な命令を送ることしかできませんでした」
俺は球体を見た。
確かに、今の統括機構は俺の質問へ答えている。
しかも、単純な定型文だけではない。
こちらの意図をある程度理解し、条件を提示しているようだった。
「……なぜ俺とは話せる?」
俺が尋ねると、ユリウスは首を横に振った。
「それがわかれば、二十年以上の研究が一気に進みますよ」
俺は男を見た。
ユリウスの目には、強い光が宿っている。
好奇心。
執着。
そして、何かを手に入れようとする欲望。
俺は、少しだけ距離を取った。
「……余計なことはするなよ」
ユリウスは微笑んだ。
「もちろんです」
俺は、その返事を信用しなかった。
そして、球体へ向き直った。
「……もう一つ聞きたい」
『質問を受理』
「この遺構は、何のために造られた?」
球体の内部で、無数の光点が動いた。
しばらくの沈黙。
そして。
『本施設は、生命保護および環境維持を目的として建造されました』
俺は、ゆっくりと頷いた。
ユリウスの話と一致している。
「……研究施設じゃないのか?」
『否定』
「……では、何を守っていた?」
球体の光が、わずかに強まった。
『対象地域における生存者』
俺は眉を寄せた。
「……生存者?」
『外部環境の悪化に伴い、保護対象を収容。生命維持、居住環境の確保、医療補助を実施』
俺は、周囲を見渡した。
温かい空気。
清潔な床。
安定した照明。
そして、壁の内部を流れるオーラ。
確かに、人間が生活するための環境が整えられている。
この場所は、研究施設というよりも、巨大な避難所だったのかもしれない。
「……外部環境の悪化って、何があったんだ?」
『記録の一部が破損しています』
「残っている範囲で教えてくれ」
『大規模な環境変動。生命活動に有害な現象の発生。複数の居住区域が機能停止』
俺は、少しだけ考えた。
自然災害。
戦争。
あるいは、念能力による何らかの現象。
可能性はいくつもある。
だが、今の情報だけでは判断できない。
「……それで、この施設へ人間を避難させたのか?」
『肯定』
俺は、巨大な球体を見上げた。
なるほど。
ようやく、この遺構の本来の姿が見えてきた。
人間を閉じ込めるための場所ではない。
生き延びるための場所だった。
生命維持装置も、観測機構も、通路の移動機構も。
すべて、保護対象の安全を確保するために造られたものだったのだろう。
だが。
現代の研究者たちは、その機能を別の目的へ使っていた。
人体実験。
強制制御。
オーラの解析。
俺は、エドガーへ視線を向けた。
男は、俯いていた。
「……聞こえたか?」
俺が尋ねると、エドガーは頷いた。
「……はい」
「お前たちが使っていた装置は、もともと人を守るためのものだったらしいぞ」
エドガーは何も答えなかった。
俺は続けた。
「それを、お前たちは人間を壊すために使った」
男の肩が、わずかに震えた。
俺は、それ以上何も言わなかった。
今ここで責め立てても、収容者たちが救われるわけではない。
だが、忘れるつもりもなかった。
◇
「……もう一つ、確認したいことがある」
俺は球体へ向き直った。
『質問を受理』
「第七観測区にいる被験者たちを、安全に取り出す方法はあるか?」
球体の内部で、光点が幾つも移動した。
『対象区画の状態を確認』
俺は、黙って待った。
『二十三名の生命維持状態を確認』
「……全員、救出できるか?」
『適切な補助装置および医療処置を用いれば、移送可能』
俺は、思わず拳を握った。
可能。
その言葉を、どれほど待っていたことか。
「……必要な装置は?」
『携帯型生命維持補助装置。神経補助器具。オーラ循環安定器』
俺は頷いた。
エドガーが言っていた装置と一致している。
「……どこにある?」
『中央管理区画、医療設備室』
俺は、ユリウスへ視線を向けた。
男は黙っていた。
どうやら、ここまで来れば隠しようがないらしい。
「……そこへ案内してくれ」
『要求を受理』
球体の周囲にある環状構造物が、ゆっくりと動き始めた。
床に青白い線が走る。
俺たちの右側にあった壁の一部が、静かに開いた。
その向こうには、明るい通路が続いていた。
『医療設備室への経路を開放』
俺は、しばらくその通路を見つめた。
そして、リリアへ視線を向けた。
「……行けそうだな」
彼女は頷いた。
「うん」
俺は、少しだけ笑った。
ようやく、救出への道が見えてきた。
だが、その前に。
もう一つ、確認しておかなければならないことがあった。
◇
「……ユリウス」
俺は男を呼んだ。
「はい」
「お前の管理権限について、統括機構に聞く」
ユリウスの表情が、わずかに変わった。
「……必要ですか?」
「必要だ」
俺は即答した。
「お前が何を隠しているのかわからないまま、これ以上協力するつもりはない」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
俺は球体へ向き直った。
「……この男について教えてくれ」
『対象個体を確認』
青白い光が、ユリウスへ向けられた。
男の右手首にある金属製の輪が、淡く光る。
『外部管理権限保持者』
俺は頷いた。
「……誰が権限を与えた?」
『中央統括機構』
「なぜ?」
しばらくの沈黙。
『管理機能の復旧を目的とした暫定権限の付与』
俺は眉を寄せた。
「……復旧?」
『三日前、中央統括機構の一部機能に異常が発生』
俺は、ユリウスを見た。
男は、唇を引き結んでいた。
『当該個体は、復旧作業への協力者として登録されました』
俺は、しばらく考えた。
つまり、ユリウスは遺構本来の管理者ではない。
だが、統括機構から復旧作業のための暫定権限を与えられた。
だから、権限を持っているのに正規管理者ではないという矛盾が生じたわけだ。
「……ユリウス」
俺は男を見た。
「お前は、三日前に何をした?」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……記録を再生しました」
俺は眉を寄せた。
「それだけか?」
「……いいえ」
男は、ゆっくりと首を横に振った。
「記録の再生中、統括機構の一部が停止しました」
「……それで?」
「私は復旧を試みました」
俺は、黙って続きを待った。
「ですが、その過程で……」
ユリウスは言葉を止めた。
俺は目を細めた。
「……何が起きた?」
男は、巨大な球体を見上げた。
そして。
「……統括機構が、私たちの命令を受け付けなくなったのです」
俺は、しばらく黙っていた。
命令を受け付けなくなった。
つまり、研究者たちの制御から離れたということか。
「……それで、お前は停止させようとしている?」
ユリウスは頷いた。
「ええ」
俺は、男を見つめた。
その説明には、まだ何かが足りない。
だが、少なくとも一部は本当なのだろう。
俺は球体へ向き直った。
「……統括機構」
『応答』
「三日前、何が起きた?」
球体の内部で、光が揺れた。
『管理機能への不正干渉を検知』
俺は眉を寄せた。
「……不正干渉?」
『保護対象の生命維持機構を、外部から強制制御する命令が入力されました』
俺は、エドガーを見た。
男の顔色が変わっていた。
『当該命令は、本施設の基本保護規則に抵触』
俺は、ゆっくりと頷いた。
なるほど。
研究者たちは、遺構の機能を人体実験へ転用していた。
その結果、統括機構が本来の保護規則に従って反応した。
そう考えれば、施設の異常にも説明がつく。
「……つまり、お前は人間を守ろうとしていたのか?」
俺が尋ねると、統括機構は答えた。
『本施設の最優先目的は、保護対象の生命維持です』
俺は、しばらく黙っていた。
その答えは、どこか不思議だった。
機械に善意があるとは限らない。
だが、少なくとも目的は明確だった。
人間を守る。
それが、この遺構の本来の役割だった。
◇
「……では、最後に一つ」
俺は球体を見上げた。
『質問を受理』
「なぜ俺を観測対象一と呼ぶ?」
その瞬間。
球体の内部で、光が大きく揺れた。
周囲の環状構造物が、ゆっくりと回転を始める。
俺は、わずかに身構えた。
リリアも隣で警戒している。
だが、攻撃の気配はない。
『観測対象一』
無機質な声が響いた。
『当該個体は、既存の分類体系に該当しません』
俺は眉を寄せた。
「……どういう意味だ?」
『身体能力、オーラ循環、生命反応に複数の異常値を確認』
俺は、静かに息を吸った。
なるほど。
俺の身体能力とオーラの流れが、通常の人間とは違う。
それを検知したということか。
『当該個体は、既存の観測記録に存在しない特性を有しています』
俺は、しばらく黙っていた。
その言葉は、少しだけ気になった。
既存の観測記録。
つまり、この遺構は過去にも多くの人間を観測していたということだ。
その中に、俺と同じような存在はいなかった。
少なくとも、記録上は。
「……それで、俺を観測対象一としたのか?」
『肯定』
俺は頷いた。
特別な称号というわけではないらしい。
単に、既存の分類に当てはまらない最初の対象として登録された。
そういうことなのだろう。
だが。
その瞬間、ユリウスが低く呟いた。
「……やはり」
俺は振り返った。
男は、俺を見つめていた。
その目には、先ほどまでとは違う光が宿っている。
「……何がやはりだ?」
俺が尋ねると、ユリウスは微笑んだ。
「……あなたは、非常に貴重な存在です」
俺は、眉をひそめた。
「……研究材料としてか?」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……そうですね」
その返答は、あまりにも率直だった。
俺は、静かに拳を握った。
だが、今ここで殴りかかるつもりはなかった。
ユリウスは危険だ。
それは間違いない。
だが、まだ何もしていない。
少なくとも、今この瞬間は。
俺は、男から視線を外した。
「……リリア」
「うん」
「まずは医療設備室へ行こう」
彼女は頷いた。
「わかった」
俺は、エドガーとユリウスへ視線を向けた。
「……二人とも、ついてこい」
エドガーは黙って頷いた。
ユリウスは、少しだけ笑った。
「……ええ」
俺たちは、開かれた通路へ向かった。
背後では、巨大な球体がゆっくりと回転していた。
その内部に浮かぶ無数の光点。
それらは、まるで夜空の星のようだった。
俺は、歩きながら考えた。
この遺構は、人間を守るために造られた。
だが、その機能は現代の研究者によって歪められた。
そして今、統括機構は本来の目的へ戻ろうとしている。
少なくとも、そう説明している。
ならば、俺たちがやるべきことは明確だ。
四人の調査員を救う。
二十五人の被験者を救う。
そして、この施設が二度と人間を傷つけるために使われないようにする。
俺は、前方に続く通路を見据えた。
まだ終わりではない。
むしろ、ここからが本当の勝負だ。
だが、ようやく進むべき方向が見えてきた。
俺は、歩みを速めた。