流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
中央管理区画。
◇
医療設備室へ続く通路は、妙に明るかった。
天井に照明器具は見当たらない。黒い石材に似た壁の内部を淡い光が流れ、足元を照らしている。光源が直接目に入らないせいか、眩しさはほとんど感じなかった。
空気も清潔だった。
鼻を刺す消毒薬の臭いはない。金属の錆も、地下特有の湿った土の匂いもない。ただ、わずかに草木を思わせる香りが混じっている。
人間が生活することを前提に造られた場所。
第五十三話で中央統括機構から聞いた説明を思い出す。
この遺構は、もともと生命を保護するために建造されたものだという。
その話が本当なら、今歩いている通路の造りにも納得がいく。
床には段差がなく、角は丸く処理されている。壁に沿って細い溝が走っていたが、排水路というより何かの搬送機構に見えた。
車椅子や寝台を運ぶことも考慮されているのかもしれない。
もっとも、そんな穏やかな設計思想とは裏腹に、俺たちの状況は少しも穏やかではなかった。
俺の後ろを歩くのはリリア。
さらにエドガー・ヴァイスとユリウス・ベルンハルトが続く。
エドガーは人体実験の責任者。
ユリウスは遺構研究部門の責任者であり、中央統括機構から暫定的な管理権限を与えられた男だ。
どちらも信用できない。
特にユリウスについては、まだ何を隠しているのかわからなかった。
男の右手首には、先ほど取り付けた拘束具が残っている。
観測端末を装着した腕を自由に操作させないためのものだ。
「……アオ」
リリアが小声で呼んだ。
「どうした?」
「さっきの四人、気になる」
「ああ。俺もだ」
中央統括機構の巨大な球体の下。
あそこには四人の人間が横たわっていた。
生命反応は確認できた。
だが、保護状態にあるという理由で解放は許可されなかった。
本人たちの意思確認すら行われていない。
統括機構にとっては、それが適切な保護なのだろう。
しかし、俺たちが求めているのは、ただ生かしておくことではない。
あの四人を、地上へ連れ帰ることだ。
「まずは医療設備室で装置を確保する。それから四人を迎えに行こう」
「うん」
リリアは頷いた。
その表情には、疲労が見え始めていた。
無理もない。
この遺構へ入ってから、まともに休めていない。
戦闘、探索、救出、そして施設の異常。
俺自身も疲れを感じていた。
身体能力に恵まれているからといって、疲労そのものが消えるわけではない。
それでも、今は休んでいる場合ではなかった。
背後の第七観測区には、二十五人の命が残されている。
俺たちが持ち帰る装置を待っているのだ。
◇
通路を百メートルほど進んだところで、前方に扉が現れた。
高さ三メートルほどの両開きの扉。
黒い石材の表面には、円を重ね合わせたような模様が刻まれている。
中央には、掌ほどの大きさの窪みがあった。
俺が近づくと、窪みの内部に青白い光が灯った。
『医療設備区画』
無機質な声が響く。
『利用目的を確認します』
「生命維持装置の搬送だ」
俺は答えた。
「第七観測区にいる二十三人の収容者を、安全に移動させたい」
『要求を確認』
扉の表面に細い光の線が走った。
『必要機材を選定中』
数秒後。
『搬送補助装置、神経安定器、循環補助器具を準備します』
扉が左右へ開いた。
その向こうに広がっていた光景を見て、俺は思わず足を止めた。
「……これは」
広い部屋だった。
奥行きは五十メートルほどあるだろうか。
天井は高く、壁際には無数の収納棚が並んでいる。
だが、研究施設で見てきた倉庫とは違った。
棚に埃は積もっていない。
機材は整然と並び、床には一つの傷も見当たらなかった。
何より驚いたのは、部屋の中央にある装置だった。
白い寝台。
その周囲を取り囲む半透明の輪。
天井から伸びる細い柱。
それらが一体となり、複雑な医療設備を形作っている。
俺が凝で確認すると、装置の内部には微弱なオーラが流れていた。
しかし、その流れは非常に安定している。
研究施設で見た強制制御装置のような、乱暴なものではなかった。
人間の身体へ負担をかけないよう、細かく調整されているように見える。
「……信じられない」
エドガーが呟いた。
俺は振り返った。
「何が?」
「この設備は……」
男は、部屋の中央にある寝台を見つめていた。
「私たちが使用していた生命維持装置とは、比較にならないほど高度です」
「同じ遺構の技術じゃないのか?」
「……基本原理は同じです。しかし、制御精度がまるで違う」
エドガーは、ゆっくりと寝台へ近づいた。
俺はその肩を掴んだ。
「勝手に触るな」
「……わかっています」
男は足を止めた。
俺は装置へ視線を戻した。
確かに、研究施設で見たものとは違う。
あちらは、複数の機械を無理やり組み合わせたような構造だった。
配管が露出し、接続部には後付けの金属板が取り付けられていた。
だが、こちらには余計なものがない。
必要な機能が、最初から一つの装置として完成している。
(……本来は、こっちを使うものだったのか)
そう考えると、少しだけ腹立たしくなった。
これほどの設備が存在しているのに、研究者たちは人間を傷つけるための装置を作っていたのだから。
「……統括機構」
俺は天井へ向かって呼びかけた。
『応答』
「ここにある装置で、第七観測区の収容者たちを治療できるか?」
『対象者の状態によります』
「全員分の記録はあるんだろう?」
『生命維持記録を確認しています』
「なら、必要なものを教えてくれ」
少しの沈黙。
そして、部屋の中央に青白い光が集まった。
人間の形をした輪郭が現れる。
以前、第七観測区で見た観測機構と似ていた。
だが、今回は攻撃的な気配がない。
光の人影は、俺たちへ向き直った。
『第七観測区の保護対象二十三名について、移送手順を提示します』
床の一部が淡く光り、複数の機材が収納棚から運び出されてきた。
小型の円環。
薄い金属板。
柔軟な素材で作られた帯状の器具。
そして、折り畳まれた寝台のようなもの。
それらが俺たちの前に並ぶ。
『携帯型生命維持補助装置、二十三組』
俺は思わず目を見開いた。
「……全員分あるのか?」
『肯定』
胸の奥に、熱いものが込み上げた。
これで。
ようやく、あの人たちを外へ出せるかもしれない。
だが、俺はすぐに気持ちを引き締めた。
「……使い方は?」
『各対象者の状態に合わせて設定する必要があります』
「設定は自動でできるのか?」
『対象者の生命維持記録を利用し、初期設定を実施可能』
俺は頷いた。
ありがたい。
だが、まだ確認することがある。
「装置を取り付けたあと、容器から出しても問題ないのか?」
『段階的な補助移行が必要です。急激な切り替えは推奨されません』
「所要時間は?」
『対象者ごとに異なります』
「具体的には?」
『安定した対象者では数分。複数の補助機構に依存する対象者では、数十分以上を要する場合があります』
俺は考えた。
二十三人。
全員を移送するには、相当な時間が必要になる。
だが、装置が揃っただけでも大きな前進だ。
「……よし」
俺はリリアを見た。
「持ち帰れるように準備しよう」
「うん」
◇
機材の運搬方法を確認していると、ユリウスが口を開いた。
「……一つ、興味深いことがあります」
俺は振り返った。
「何だ?」
「この設備は、私たちが解析した医療機構よりも、遥かに古い形式です」
「古い?」
「ええ。構造そのものが違う」
ユリウスは、壁際の装置を見つめた。
「私たちが利用していた生命維持設備は、この遺構の機能を部分的に再現したものです。しかし、こちらは建造当初の構造をほぼ維持しているように見えます」
俺は眉を寄せた。
「……つまり、何が言いたい?」
「この遺構を造った人々は、私たちよりも高度な技術を持っていたということです」
俺は、しばらく黙った。
それ自体は、すでにわかっていたことだ。
通路を移動させる機構。
膨大なオーラを循環させる中央統括機構。
長期間にわたって生命を維持する装置。
どれも、普通の技術ではない。
だが、ユリウスが気にしているのは別の部分らしい。
「……年代はわかるのか?」
俺が尋ねると、男は首を横に振った。
「正確には不明です」
「二十年以上前に発見されたんだろう?」
「ええ。しかし、発見された時点で、すでに非常に古い施設でした」
「どれくらい古い?」
「……少なくとも、数百年単位では説明できない可能性があります」
俺は、少しだけ驚いた。
「……そんなにか?」
「断定はできません。ただ、建造に使われた素材や技術体系が、既知のものと一致しないのです」
俺は、部屋の壁を見た。
黒い石材。
青白い光。
そして、今も正常に動いている機械。
数百年どころではない。
もしそれが本当なら、この遺構を造った人々は一体何者だったのか。
俺は、少しだけ考えた。
だが、今はその答えを探している場合ではない。
「……その話は、あとで聞く」
俺は言った。
「今は救出が先だ」
ユリウスは、少しだけ笑った。
「……ええ。もちろんです」
◇
機材の準備が終わるまでの間、俺は部屋の奥を調べていた。
そこには、小さな記録室のような空間があった。
壁には無数の細い溝が刻まれ、中央には円形の台座が置かれている。
台座の上には、掌ほどの大きさの板が幾つも並んでいた。
金属にも石にも見える、不思議な材質だった。
俺は一枚を手に取ろうとして、途中で動きを止めた。
勝手に触れていいものか、判断できなかったからだ。
「……統括機構」
『応答』
「これは何だ?」
『記録媒体です』
「何の記録?」
『本施設の運用履歴および建造時の情報を保存しています』
俺は、少しだけ興味を引かれた。
「……読めるのか?」
『一部の記録は破損しています』
「残っているものは?」
『閲覧可能です』
俺は頷いた。
「……見せてくれ」
台座の上に、淡い光が集まった。
空中に、幾つもの文字が浮かび上がる。
だが。
俺は眉を寄せた。
(……読めないな)
見たことのない文字だった。
直線と曲線が複雑に組み合わさり、一つの文字を形作っている。
現在の共通語とは、まるで違う。
俺はリリアを呼んだ。
「……これ、読めるか?」
彼女は近づいてきて、文字を見つめた。
「……ううん。見たことない」
「だよな」
俺は頷いた。
リリアは、しばらく文字を観察していた。
そして、ある部分を指差した。
「……でも、これ」
「何だ?」
「同じ模様が、何度も出てくる」
俺は、彼女が指差した場所を見た。
確かに、同じ形の文字列が繰り返されている。
文章の区切り。
あるいは、特定の地名や名称かもしれない。
「……記録の年代はわかるか?」
俺が尋ねると、統括機構が答えた。
『建造初期の記録です』
「……内容を翻訳できるか?」
『翻訳機能を起動』
空中の文字が、ゆっくりと変化し始めた。
だが、途中で光が乱れた。
『警告』
『記録の一部に欠損を確認』
俺は眉を寄せた。
「……全部は無理か?」
『完全な翻訳は不可能です』
「読める部分だけでいい」
数秒後。
空中に、断片的な文章が現れた。
『……生存者……』
『……外部環境……』
『……帰還……失敗……』
『……保護施設……建造……』
俺は、しばらく文字を見つめた。
生存者。
帰還。
保護施設。
中央統括機構が説明した内容と一致している。
だが、何から帰還したのか。
どこへ帰ろうとしていたのか。
その部分は欠けていた。
「……他には?」
『記録の一部が損傷しています』
俺は頷いた。
無理に読み取ろうとしても、仕方がない。
リリアが、少しだけ首を傾げた。
「……アオ」
「ん?」
「この人たち、どこかから逃げてきたのかな」
俺は、彼女を見た。
「……どうしてそう思う?」
「生存者って書いてあるし、帰還に失敗したっていうのも……」
リリアは、言葉を探した。
「……何か、怖いことがあったみたい」
俺は、しばらく考えた。
確かに、その可能性はある。
この遺構は、生命を保護するために造られた。
ならば、保護しなければならないほど危険な状況があったはずだ。
だが、その正体はまだわからない。
「……そうかもしれないな」
俺は答えた。
「ただ、今は情報が足りない」
リリアは頷いた。
「うん」
俺は、台座の上にある記録媒体を見た。
いつか、詳しく調べる必要があるかもしれない。
だが、今は持ち出すべきではないだろう。
俺は統括機構へ尋ねた。
「……この記録を、あとで調べることはできるか?」
『閲覧権限が維持される限り、可能です』
俺は頷いた。
「……わかった」
そして、記録室を後にした。
◇
医療設備室へ戻ると、機材の準備が終わっていた。
二十三組の携帯型生命維持補助装置。
それぞれが小型の搬送台に載せられ、整然と並んでいる。
俺は、その数を確認した。
一。
二。
三。
……二十三。
すべて揃っている。
「……これを、第七観測区まで運ぶのか」
俺が呟くと、統括機構が答えた。
『自動搬送機構を利用できます』
俺は目を見開いた。
「……そんなものがあるのか?」
『肯定』
床の一部が開き、細い溝が現れた。
搬送台が、その溝に沿ってゆっくりと動き始める。
俺は、思わず笑った。
「……便利だな」
リリアも、少しだけ笑った。
「うん。これなら、運ぶのも楽そう」
俺は頷いた。
ただし、まだ問題がある。
中央管理区画にいる四人の調査員だ。
彼らを救出しなければ、ここへ来た意味が半分しかない。
「……統括機構」
『応答』
「さっきの四人を、もう一度確認したい」
『要求を受理』
「彼らを解放するために、何が必要なんだ?」
『代替保護手段の提示が必要です』
「……この医療設備室の装置で代用できるか?」
『対象者の状態を再評価します』
俺は、黙って待った。
数秒後。
『可能』
俺は、思わず拳を握った。
「……本当か?」
『四名の生命維持状態は安定しています。携帯型補助装置を利用した移送が可能です』
俺は、リリアを見た。
彼女も嬉しそうに頷いた。
「……よかった」
「ああ」
俺は、統括機構へ向き直った。
「……なら、四人を迎えに行こう」
『要求を受理』
部屋の奥に、新しい通路が開いた。
その向こうには、青白い光が続いていた。
『保護対象四名の収容区画へ案内します』
俺は、リリアへ頷いた。
「……行こう」
「うん」
俺たちは、再び歩き始めた。
◇
四人の調査員がいる場所は、中央統括機構の球体の下だった。
先ほど遠くから見たときには、ただの台座に見えた。
だが、近づいてみると、そこには複雑な装置が組み込まれていた。
四つの寝台。
それぞれを包む半透明の光の膜。
周囲には、細い柱が幾つも立っている。
柱の表面には、生命反応を示すらしい光点が並んでいた。
俺は、一番近くの寝台へ向かった。
そこには、三十代ほどの男が横たわっていた。
短い黒髪。
日に焼けた肌。
右頬に小さな傷痕がある。
着ている服は、研究施設の白衣ではなかった。
厚手の上着。
丈夫そうなズボン。
腰には、空になった道具袋が付いている。
遺跡調査員の装備だ。
「……間違いなさそうだな」
俺が呟くと、リリアが頷いた。
「うん。服装も、ダリオさんたちと似てる」
俺は、残る三人も確認した。
四十代ほどの男。
二十代後半の女。
そして、三十代前半と思われる女。
全員、意識はない。
だが、呼吸は安定している。
「……統括機構」
『応答』
「この四人を、順番に解放したい」
『要求を受理』
「まず、最初の一人からだ」
『保護状態の解除準備を開始』
光の膜が、ゆっくりと薄くなった。
俺は、寝台のそばへ立った。
リリアは反対側へ回る。
エドガーが携帯型補助装置を準備した。
ユリウスは、少し離れた場所で見守っている。
俺は男の呼吸を確認した。
胸は規則正しく上下している。
脈も安定している。
少なくとも、今すぐ危険な状態ではない。
『補助装置の接続を確認』
統括機構の声が響く。
『生命維持機能の移行を開始』
俺は、男の身体を慎重に支えた。
光の膜が、少しずつ消えていく。
その間、男の呼吸に大きな変化はなかった。
数十秒後。
『移行完了』
光の膜が完全に消えた。
俺は、男の肩へ手を当てた。
「……聞こえるか?」
返事はない。
だが、男の瞼がわずかに動いた。
俺は、少しだけ身を乗り出した。
「……大丈夫だ。助けに来た」
男の唇が、かすかに動いた。
「……だれ……」
俺は、静かに答えた。
「ハンターだ」
男の目が、ゆっくりと開いた。
焦点の合わない視線が、俺の顔を捉える。
そして。
「……たす……かった……?」
俺は頷いた。
「ああ」
男の目から、涙が一筋こぼれた。
俺は、その様子を黙って見ていた。
何か言葉をかけようと思った。
だが、適切な言葉が見つからなかった。
だから、ただ肩を支え続けた。
◇
最初の一人が安定したあと、残る三人も順番に解放した。
作業には時間がかかった。
だが、中央統括機構の補助があったおかげで、大きな問題は起きなかった。
四人とも、意識を取り戻した。
ただし、長期間の保護状態から解放されたばかりで、身体は弱っている。
すぐに歩ける状態ではなかった。
俺たちは、携帯型補助装置を接続したまま、四人を搬送台へ寝かせた。
リリアが、それぞれに水を飲ませる。
俺は、最初に目を覚ました男のそばへ座った。
「……名前を聞いてもいいか?」
男は、少しだけ頷いた。
「……マルク……」
「マルクか」
俺は頷いた。
「俺はアオ。こっちはリリアだ」
リリアが、小さく手を振った。
「よろしくね」
マルクは、弱々しく頷いた。
「……あんたたち……ハンター……?」
「ああ。行方不明になった調査員を探しに来た」
男の目が、大きく開いた。
「……ダリオ……エマ……」
俺は頷いた。
「二人とも無事だ」
その瞬間。
マルクの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……そうか……」
男は、何度も頷いた。
「……よかった……」
俺は、しばらく待った。
男が落ち着くのを確認してから、ゆっくりと尋ねた。
「……何があった?」
マルクは、天井を見つめた。
そして、少しずつ話し始めた。
「……俺たちは……遺構の奥を調べていた……」
俺は黙って聞いた。
「……途中で……変な部屋を見つけた……」
「変な部屋?」
「……壁に……文字が……」
俺は、少しだけ目を細めた。
「……どんな文字だ?」
マルクは、首を横に振った。
「……読めなかった……」
俺は頷いた。
医療設備室の記録室で見た文字と同じかもしれない。
「……他には?」
マルクは、苦しそうに呼吸した。
俺は、急かさずに待った。
やがて、男は続けた。
「……地図が……あった……」
俺は眉を寄せた。
「……地図?」
「……ああ……」
マルクは、ゆっくりと頷いた。
「……でも……俺たちの知ってる地図じゃなかった……」
俺は、少しだけ考えた。
古代の地図。
それなら、現在の地形と違っていても不思議ではない。
だが、男の表情はそれだけでは説明できなかった。
「……どう違った?」
マルクは、しばらく黙っていた。
そして。
「……わからない……」
俺は、男を見た。
「……何が?」
「……あれが……どこの地図なのか……」
マルクは、震える声で続けた。
「……俺たちが知ってる大陸の形と……全然違った……」
俺は、しばらく黙っていた。
知らない大陸の地図。
それだけなら、古い記録として珍しくないのかもしれない。
だが、遺構の規模と技術を考えると、単なる古地図では済まない可能性もある。
「……その地図は、まだ残っているのか?」
俺が尋ねると、マルクは頷いた。
「……たぶん……」
「場所は覚えてる?」
リリアが尋ねた。
マルクは、少しだけ考えた。
「……通路が……変わる前なら……」
俺は頷いた。
今すぐ調べるのは難しい。
だが、後で確認する価値はありそうだ。
「……わかった」
俺は、男の肩へ手を置いた。
「今は休んでくれ」
マルクは、弱々しく頷いた。
そして、再び目を閉じた。
◇
四人の救出が終わった。
俺は、搬送台に横たわる彼らを見渡した。
全員、生きている。
ダリオとエマを含めれば、行方不明だった六人の調査員は全員無事だ。
その事実に、ようやく胸の奥が軽くなった。
だが、まだ終わりではない。
第七観測区には、二十五人の被験者が残されている。
彼らを救い出さなければ、この探索は終われない。
「……リリア」
「うん」
「戻ろう」
彼女は頷いた。
「みんな、待ってるもんね」
「ああ」
俺は、中央統括機構へ向き直った。
「……第七観測区まで、搬送台を運べるか?」
『可能』
「……頼む」
『要求を受理』
床の一部が青白く光り、搬送台がゆっくりと動き始めた。
俺は、その様子を確認した。
四人の調査員。
二十三組の生命維持補助装置。
すべて、無事に運ばれていく。
俺は、ようやく小さく笑った。
「……これで、次へ進めるな」
リリアも頷いた。
「うん」
だが。
そのときだった。
背後で、ユリウスが静かに呟いた。
「……やはり、あなたは特別ですね」
俺は振り返った。
男は、巨大な球体を見上げていた。
その目には、奇妙な光が宿っている。
「……何が?」
俺が尋ねると、ユリウスは微笑んだ。
「……中央統括機構が、ここまで協力的になるとは思いませんでした」
俺は、少しだけ眉を寄せた。
「……人を救うための施設なんだろう?」
「ええ」
ユリウスは頷いた。
「……だからこそ、不思議なのです」
俺は、男を見つめた。
「……どういう意味だ?」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……この施設は、長い間、誰の命令にも従いませんでした」
俺は黙った。
「……私たちがどれほど研究しても、中央統括機構は沈黙したままだった」
男は、ゆっくりと俺を見た。
「……それなのに、あなたが来た途端、これほど多くの機能が動き始めた」
俺は、静かに息を吸った。
確かに、その通りだった。
だが、それが何を意味するのかはわからない。
「……偶然かもしれないだろ」
俺が言うと、ユリウスは首を横に振った。
「……私は、そうは思いません」
男は、右手首の拘束具を見た。
そして。
「……あなたには、この遺構を完全に目覚めさせる力があるのかもしれません」
俺は、目を細めた。
その言葉には、嫌な響きがあった。
研究者が、珍しい実験材料を見つけたときのような。
そんな、冷たい期待が込められていた。
俺は、ユリウスを見据えた。
「……勘違いするなよ」
男が首を傾げる。
「……何を?」
「俺は、お前の研究に協力するために来たんじゃない」
俺は、静かに言った。
「人を助けに来たんだ」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……ええ。承知しています」
穏やかに微笑んだ。
だが。
その目は、少しも笑っていなかった。
俺は、男から視線を外した。
今は、これ以上話す必要はない。
俺たちは、救出した四人と医療機材を連れて、第七観測区へ戻る。
そこで待っている二十五人を救い出す。
それが先だ。
俺は、前方に続く通路を見据えた。
遺構の奥で、巨大な機械が低く唸っている。
その音は、まるで長い眠りから目覚めた生き物の呼吸のようだった。
だが、俺にはまだわからなかった。
この遺構を造った人々が、どこから来たのか。
何を恐れ、何から逃れようとしていたのか。
そして、なぜこれほどの技術を残しながら、歴史から姿を消したのか。
答えは、まだ闇の中にある。
俺は、その疑問を胸の奥へしまい込んだ。
今は、目の前の命を救うことだけを考えよう。
そう決めて、歩き出した。