流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第五十四話 囚われた調査員――四人の生存者

一九八九年、春。

 

 霧哭きの渓谷、地下深部。

 

 中央管理区画。

 

     ◇

 

 医療設備室へ続く通路は、妙に明るかった。

 

 天井に照明器具は見当たらない。黒い石材に似た壁の内部を淡い光が流れ、足元を照らしている。光源が直接目に入らないせいか、眩しさはほとんど感じなかった。

 

 空気も清潔だった。

 

 鼻を刺す消毒薬の臭いはない。金属の錆も、地下特有の湿った土の匂いもない。ただ、わずかに草木を思わせる香りが混じっている。

 

 人間が生活することを前提に造られた場所。

 

 第五十三話で中央統括機構から聞いた説明を思い出す。

 

 この遺構は、もともと生命を保護するために建造されたものだという。

 

 その話が本当なら、今歩いている通路の造りにも納得がいく。

 

 床には段差がなく、角は丸く処理されている。壁に沿って細い溝が走っていたが、排水路というより何かの搬送機構に見えた。

 

 車椅子や寝台を運ぶことも考慮されているのかもしれない。

 

 もっとも、そんな穏やかな設計思想とは裏腹に、俺たちの状況は少しも穏やかではなかった。

 

 俺の後ろを歩くのはリリア。

 

 さらにエドガー・ヴァイスとユリウス・ベルンハルトが続く。

 

 エドガーは人体実験の責任者。

 

 ユリウスは遺構研究部門の責任者であり、中央統括機構から暫定的な管理権限を与えられた男だ。

 

 どちらも信用できない。

 

 特にユリウスについては、まだ何を隠しているのかわからなかった。

 

 男の右手首には、先ほど取り付けた拘束具が残っている。

 

 観測端末を装着した腕を自由に操作させないためのものだ。

 

「……アオ」

 

 リリアが小声で呼んだ。

 

「どうした?」

 

「さっきの四人、気になる」

 

「ああ。俺もだ」

 

 中央統括機構の巨大な球体の下。

 

 あそこには四人の人間が横たわっていた。

 

 生命反応は確認できた。

 

 だが、保護状態にあるという理由で解放は許可されなかった。

 

 本人たちの意思確認すら行われていない。

 

 統括機構にとっては、それが適切な保護なのだろう。

 

 しかし、俺たちが求めているのは、ただ生かしておくことではない。

 

 あの四人を、地上へ連れ帰ることだ。

 

「まずは医療設備室で装置を確保する。それから四人を迎えに行こう」

 

「うん」

 

 リリアは頷いた。

 

 その表情には、疲労が見え始めていた。

 

 無理もない。

 

 この遺構へ入ってから、まともに休めていない。

 

 戦闘、探索、救出、そして施設の異常。

 

 俺自身も疲れを感じていた。

 

 身体能力に恵まれているからといって、疲労そのものが消えるわけではない。

 

 それでも、今は休んでいる場合ではなかった。

 

 背後の第七観測区には、二十五人の命が残されている。

 

 俺たちが持ち帰る装置を待っているのだ。

 

     ◇

 

 通路を百メートルほど進んだところで、前方に扉が現れた。

 

 高さ三メートルほどの両開きの扉。

 

 黒い石材の表面には、円を重ね合わせたような模様が刻まれている。

 

 中央には、掌ほどの大きさの窪みがあった。

 

 俺が近づくと、窪みの内部に青白い光が灯った。

 

『医療設備区画』

 

 無機質な声が響く。

 

『利用目的を確認します』

 

「生命維持装置の搬送だ」

 

 俺は答えた。

 

「第七観測区にいる二十三人の収容者を、安全に移動させたい」

 

『要求を確認』

 

 扉の表面に細い光の線が走った。

 

『必要機材を選定中』

 

 数秒後。

 

『搬送補助装置、神経安定器、循環補助器具を準備します』

 

 扉が左右へ開いた。

 

 その向こうに広がっていた光景を見て、俺は思わず足を止めた。

 

「……これは」

 

 広い部屋だった。

 

 奥行きは五十メートルほどあるだろうか。

 

 天井は高く、壁際には無数の収納棚が並んでいる。

 

 だが、研究施設で見てきた倉庫とは違った。

 

 棚に埃は積もっていない。

 

 機材は整然と並び、床には一つの傷も見当たらなかった。

 

 何より驚いたのは、部屋の中央にある装置だった。

 

 白い寝台。

 

 その周囲を取り囲む半透明の輪。

 

 天井から伸びる細い柱。

 

 それらが一体となり、複雑な医療設備を形作っている。

 

 俺が凝で確認すると、装置の内部には微弱なオーラが流れていた。

 

 しかし、その流れは非常に安定している。

 

 研究施設で見た強制制御装置のような、乱暴なものではなかった。

 

 人間の身体へ負担をかけないよう、細かく調整されているように見える。

 

「……信じられない」

 

 エドガーが呟いた。

 

 俺は振り返った。

 

「何が?」

 

「この設備は……」

 

 男は、部屋の中央にある寝台を見つめていた。

 

「私たちが使用していた生命維持装置とは、比較にならないほど高度です」

 

「同じ遺構の技術じゃないのか?」

 

「……基本原理は同じです。しかし、制御精度がまるで違う」

 

 エドガーは、ゆっくりと寝台へ近づいた。

 

 俺はその肩を掴んだ。

 

「勝手に触るな」

 

「……わかっています」

 

 男は足を止めた。

 

 俺は装置へ視線を戻した。

 

 確かに、研究施設で見たものとは違う。

 

 あちらは、複数の機械を無理やり組み合わせたような構造だった。

 

 配管が露出し、接続部には後付けの金属板が取り付けられていた。

 

 だが、こちらには余計なものがない。

 

 必要な機能が、最初から一つの装置として完成している。

 

(……本来は、こっちを使うものだったのか)

 

 そう考えると、少しだけ腹立たしくなった。

 

 これほどの設備が存在しているのに、研究者たちは人間を傷つけるための装置を作っていたのだから。

 

「……統括機構」

 

 俺は天井へ向かって呼びかけた。

 

『応答』

 

「ここにある装置で、第七観測区の収容者たちを治療できるか?」

 

『対象者の状態によります』

 

「全員分の記録はあるんだろう?」

 

『生命維持記録を確認しています』

 

「なら、必要なものを教えてくれ」

 

 少しの沈黙。

 

 そして、部屋の中央に青白い光が集まった。

 

 人間の形をした輪郭が現れる。

 

 以前、第七観測区で見た観測機構と似ていた。

 

 だが、今回は攻撃的な気配がない。

 

 光の人影は、俺たちへ向き直った。

 

『第七観測区の保護対象二十三名について、移送手順を提示します』

 

 床の一部が淡く光り、複数の機材が収納棚から運び出されてきた。

 

 小型の円環。

 

 薄い金属板。

 

 柔軟な素材で作られた帯状の器具。

 

 そして、折り畳まれた寝台のようなもの。

 

 それらが俺たちの前に並ぶ。

 

『携帯型生命維持補助装置、二十三組』

 

 俺は思わず目を見開いた。

 

「……全員分あるのか?」

 

『肯定』

 

 胸の奥に、熱いものが込み上げた。

 

 これで。

 

 ようやく、あの人たちを外へ出せるかもしれない。

 

 だが、俺はすぐに気持ちを引き締めた。

 

「……使い方は?」

 

『各対象者の状態に合わせて設定する必要があります』

 

「設定は自動でできるのか?」

 

『対象者の生命維持記録を利用し、初期設定を実施可能』

 

 俺は頷いた。

 

 ありがたい。

 

 だが、まだ確認することがある。

 

「装置を取り付けたあと、容器から出しても問題ないのか?」

 

『段階的な補助移行が必要です。急激な切り替えは推奨されません』

 

「所要時間は?」

 

『対象者ごとに異なります』

 

「具体的には?」

 

『安定した対象者では数分。複数の補助機構に依存する対象者では、数十分以上を要する場合があります』

 

 俺は考えた。

 

 二十三人。

 

 全員を移送するには、相当な時間が必要になる。

 

 だが、装置が揃っただけでも大きな前進だ。

 

「……よし」

 

 俺はリリアを見た。

 

「持ち帰れるように準備しよう」

 

「うん」

 

     ◇

 

 機材の運搬方法を確認していると、ユリウスが口を開いた。

 

「……一つ、興味深いことがあります」

 

 俺は振り返った。

 

「何だ?」

 

「この設備は、私たちが解析した医療機構よりも、遥かに古い形式です」

 

「古い?」

 

「ええ。構造そのものが違う」

 

 ユリウスは、壁際の装置を見つめた。

 

「私たちが利用していた生命維持設備は、この遺構の機能を部分的に再現したものです。しかし、こちらは建造当初の構造をほぼ維持しているように見えます」

 

 俺は眉を寄せた。

 

「……つまり、何が言いたい?」

 

「この遺構を造った人々は、私たちよりも高度な技術を持っていたということです」

 

 俺は、しばらく黙った。

 

 それ自体は、すでにわかっていたことだ。

 

 通路を移動させる機構。

 

 膨大なオーラを循環させる中央統括機構。

 

 長期間にわたって生命を維持する装置。

 

 どれも、普通の技術ではない。

 

 だが、ユリウスが気にしているのは別の部分らしい。

 

「……年代はわかるのか?」

 

 俺が尋ねると、男は首を横に振った。

 

「正確には不明です」

 

「二十年以上前に発見されたんだろう?」

 

「ええ。しかし、発見された時点で、すでに非常に古い施設でした」

 

「どれくらい古い?」

 

「……少なくとも、数百年単位では説明できない可能性があります」

 

 俺は、少しだけ驚いた。

 

「……そんなにか?」

 

「断定はできません。ただ、建造に使われた素材や技術体系が、既知のものと一致しないのです」

 

 俺は、部屋の壁を見た。

 

 黒い石材。

 

 青白い光。

 

 そして、今も正常に動いている機械。

 

 数百年どころではない。

 

 もしそれが本当なら、この遺構を造った人々は一体何者だったのか。

 

 俺は、少しだけ考えた。

 

 だが、今はその答えを探している場合ではない。

 

「……その話は、あとで聞く」

 

 俺は言った。

 

「今は救出が先だ」

 

 ユリウスは、少しだけ笑った。

 

「……ええ。もちろんです」

 

     ◇

 

 機材の準備が終わるまでの間、俺は部屋の奥を調べていた。

 

 そこには、小さな記録室のような空間があった。

 

 壁には無数の細い溝が刻まれ、中央には円形の台座が置かれている。

 

 台座の上には、掌ほどの大きさの板が幾つも並んでいた。

 

 金属にも石にも見える、不思議な材質だった。

 

 俺は一枚を手に取ろうとして、途中で動きを止めた。

 

 勝手に触れていいものか、判断できなかったからだ。

 

「……統括機構」

 

『応答』

 

「これは何だ?」

 

『記録媒体です』

 

「何の記録?」

 

『本施設の運用履歴および建造時の情報を保存しています』

 

 俺は、少しだけ興味を引かれた。

 

「……読めるのか?」

 

『一部の記録は破損しています』

 

「残っているものは?」

 

『閲覧可能です』

 

 俺は頷いた。

 

「……見せてくれ」

 

 台座の上に、淡い光が集まった。

 

 空中に、幾つもの文字が浮かび上がる。

 

 だが。

 

 俺は眉を寄せた。

 

(……読めないな)

 

 見たことのない文字だった。

 

 直線と曲線が複雑に組み合わさり、一つの文字を形作っている。

 

 現在の共通語とは、まるで違う。

 

 俺はリリアを呼んだ。

 

「……これ、読めるか?」

 

 彼女は近づいてきて、文字を見つめた。

 

「……ううん。見たことない」

 

「だよな」

 

 俺は頷いた。

 

 リリアは、しばらく文字を観察していた。

 

 そして、ある部分を指差した。

 

「……でも、これ」

 

「何だ?」

 

「同じ模様が、何度も出てくる」

 

 俺は、彼女が指差した場所を見た。

 

 確かに、同じ形の文字列が繰り返されている。

 

 文章の区切り。

 

 あるいは、特定の地名や名称かもしれない。

 

「……記録の年代はわかるか?」

 

 俺が尋ねると、統括機構が答えた。

 

『建造初期の記録です』

 

「……内容を翻訳できるか?」

 

『翻訳機能を起動』

 

 空中の文字が、ゆっくりと変化し始めた。

 

 だが、途中で光が乱れた。

 

『警告』

 

『記録の一部に欠損を確認』

 

 俺は眉を寄せた。

 

「……全部は無理か?」

 

『完全な翻訳は不可能です』

 

「読める部分だけでいい」

 

 数秒後。

 

 空中に、断片的な文章が現れた。

 

『……生存者……』

 

『……外部環境……』

 

『……帰還……失敗……』

 

『……保護施設……建造……』

 

 俺は、しばらく文字を見つめた。

 

 生存者。

 

 帰還。

 

 保護施設。

 

 中央統括機構が説明した内容と一致している。

 

 だが、何から帰還したのか。

 

 どこへ帰ろうとしていたのか。

 

 その部分は欠けていた。

 

「……他には?」

 

『記録の一部が損傷しています』

 

 俺は頷いた。

 

 無理に読み取ろうとしても、仕方がない。

 

 リリアが、少しだけ首を傾げた。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「この人たち、どこかから逃げてきたのかな」

 

 俺は、彼女を見た。

 

「……どうしてそう思う?」

 

「生存者って書いてあるし、帰還に失敗したっていうのも……」

 

 リリアは、言葉を探した。

 

「……何か、怖いことがあったみたい」

 

 俺は、しばらく考えた。

 

 確かに、その可能性はある。

 

 この遺構は、生命を保護するために造られた。

 

 ならば、保護しなければならないほど危険な状況があったはずだ。

 

 だが、その正体はまだわからない。

 

「……そうかもしれないな」

 

 俺は答えた。

 

「ただ、今は情報が足りない」

 

 リリアは頷いた。

 

「うん」

 

 俺は、台座の上にある記録媒体を見た。

 

 いつか、詳しく調べる必要があるかもしれない。

 

 だが、今は持ち出すべきではないだろう。

 

 俺は統括機構へ尋ねた。

 

「……この記録を、あとで調べることはできるか?」

 

『閲覧権限が維持される限り、可能です』

 

 俺は頷いた。

 

「……わかった」

 

 そして、記録室を後にした。

 

     ◇

 

 医療設備室へ戻ると、機材の準備が終わっていた。

 

 二十三組の携帯型生命維持補助装置。

 

 それぞれが小型の搬送台に載せられ、整然と並んでいる。

 

 俺は、その数を確認した。

 

 一。

 

 二。

 

 三。

 

 ……二十三。

 

 すべて揃っている。

 

「……これを、第七観測区まで運ぶのか」

 

 俺が呟くと、統括機構が答えた。

 

『自動搬送機構を利用できます』

 

 俺は目を見開いた。

 

「……そんなものがあるのか?」

 

『肯定』

 

 床の一部が開き、細い溝が現れた。

 

 搬送台が、その溝に沿ってゆっくりと動き始める。

 

 俺は、思わず笑った。

 

「……便利だな」

 

 リリアも、少しだけ笑った。

 

「うん。これなら、運ぶのも楽そう」

 

 俺は頷いた。

 

 ただし、まだ問題がある。

 

 中央管理区画にいる四人の調査員だ。

 

 彼らを救出しなければ、ここへ来た意味が半分しかない。

 

「……統括機構」

 

『応答』

 

「さっきの四人を、もう一度確認したい」

 

『要求を受理』

 

「彼らを解放するために、何が必要なんだ?」

 

『代替保護手段の提示が必要です』

 

「……この医療設備室の装置で代用できるか?」

 

『対象者の状態を再評価します』

 

 俺は、黙って待った。

 

 数秒後。

 

『可能』

 

 俺は、思わず拳を握った。

 

「……本当か?」

 

『四名の生命維持状態は安定しています。携帯型補助装置を利用した移送が可能です』

 

 俺は、リリアを見た。

 

 彼女も嬉しそうに頷いた。

 

「……よかった」

 

「ああ」

 

 俺は、統括機構へ向き直った。

 

「……なら、四人を迎えに行こう」

 

『要求を受理』

 

 部屋の奥に、新しい通路が開いた。

 

 その向こうには、青白い光が続いていた。

 

『保護対象四名の収容区画へ案内します』

 

 俺は、リリアへ頷いた。

 

「……行こう」

 

「うん」

 

 俺たちは、再び歩き始めた。

 

     ◇

 

 四人の調査員がいる場所は、中央統括機構の球体の下だった。

 

 先ほど遠くから見たときには、ただの台座に見えた。

 

 だが、近づいてみると、そこには複雑な装置が組み込まれていた。

 

 四つの寝台。

 

 それぞれを包む半透明の光の膜。

 

 周囲には、細い柱が幾つも立っている。

 

 柱の表面には、生命反応を示すらしい光点が並んでいた。

 

 俺は、一番近くの寝台へ向かった。

 

 そこには、三十代ほどの男が横たわっていた。

 

 短い黒髪。

 

 日に焼けた肌。

 

 右頬に小さな傷痕がある。

 

 着ている服は、研究施設の白衣ではなかった。

 

 厚手の上着。

 

 丈夫そうなズボン。

 

 腰には、空になった道具袋が付いている。

 

 遺跡調査員の装備だ。

 

「……間違いなさそうだな」

 

 俺が呟くと、リリアが頷いた。

 

「うん。服装も、ダリオさんたちと似てる」

 

 俺は、残る三人も確認した。

 

 四十代ほどの男。

 

 二十代後半の女。

 

 そして、三十代前半と思われる女。

 

 全員、意識はない。

 

 だが、呼吸は安定している。

 

「……統括機構」

 

『応答』

 

「この四人を、順番に解放したい」

 

『要求を受理』

 

「まず、最初の一人からだ」

 

『保護状態の解除準備を開始』

 

 光の膜が、ゆっくりと薄くなった。

 

 俺は、寝台のそばへ立った。

 

 リリアは反対側へ回る。

 

 エドガーが携帯型補助装置を準備した。

 

 ユリウスは、少し離れた場所で見守っている。

 

 俺は男の呼吸を確認した。

 

 胸は規則正しく上下している。

 

 脈も安定している。

 

 少なくとも、今すぐ危険な状態ではない。

 

『補助装置の接続を確認』

 

 統括機構の声が響く。

 

『生命維持機能の移行を開始』

 

 俺は、男の身体を慎重に支えた。

 

 光の膜が、少しずつ消えていく。

 

 その間、男の呼吸に大きな変化はなかった。

 

 数十秒後。

 

『移行完了』

 

 光の膜が完全に消えた。

 

 俺は、男の肩へ手を当てた。

 

「……聞こえるか?」

 

 返事はない。

 

 だが、男の瞼がわずかに動いた。

 

 俺は、少しだけ身を乗り出した。

 

「……大丈夫だ。助けに来た」

 

 男の唇が、かすかに動いた。

 

「……だれ……」

 

 俺は、静かに答えた。

 

「ハンターだ」

 

 男の目が、ゆっくりと開いた。

 

 焦点の合わない視線が、俺の顔を捉える。

 

 そして。

 

「……たす……かった……?」

 

 俺は頷いた。

 

「ああ」

 

 男の目から、涙が一筋こぼれた。

 

 俺は、その様子を黙って見ていた。

 

 何か言葉をかけようと思った。

 

 だが、適切な言葉が見つからなかった。

 

 だから、ただ肩を支え続けた。

 

     ◇

 

 最初の一人が安定したあと、残る三人も順番に解放した。

 

 作業には時間がかかった。

 

 だが、中央統括機構の補助があったおかげで、大きな問題は起きなかった。

 

 四人とも、意識を取り戻した。

 

 ただし、長期間の保護状態から解放されたばかりで、身体は弱っている。

 

 すぐに歩ける状態ではなかった。

 

 俺たちは、携帯型補助装置を接続したまま、四人を搬送台へ寝かせた。

 

 リリアが、それぞれに水を飲ませる。

 

 俺は、最初に目を覚ました男のそばへ座った。

 

「……名前を聞いてもいいか?」

 

 男は、少しだけ頷いた。

 

「……マルク……」

 

「マルクか」

 

 俺は頷いた。

 

「俺はアオ。こっちはリリアだ」

 

 リリアが、小さく手を振った。

 

「よろしくね」

 

 マルクは、弱々しく頷いた。

 

「……あんたたち……ハンター……?」

 

「ああ。行方不明になった調査員を探しに来た」

 

 男の目が、大きく開いた。

 

「……ダリオ……エマ……」

 

 俺は頷いた。

 

「二人とも無事だ」

 

 その瞬間。

 

 マルクの顔が、くしゃりと歪んだ。

 

「……そうか……」

 

 男は、何度も頷いた。

 

「……よかった……」

 

 俺は、しばらく待った。

 

 男が落ち着くのを確認してから、ゆっくりと尋ねた。

 

「……何があった?」

 

 マルクは、天井を見つめた。

 

 そして、少しずつ話し始めた。

 

「……俺たちは……遺構の奥を調べていた……」

 

 俺は黙って聞いた。

 

「……途中で……変な部屋を見つけた……」

 

「変な部屋?」

 

「……壁に……文字が……」

 

 俺は、少しだけ目を細めた。

 

「……どんな文字だ?」

 

 マルクは、首を横に振った。

 

「……読めなかった……」

 

 俺は頷いた。

 

 医療設備室の記録室で見た文字と同じかもしれない。

 

「……他には?」

 

 マルクは、苦しそうに呼吸した。

 

 俺は、急かさずに待った。

 

 やがて、男は続けた。

 

「……地図が……あった……」

 

 俺は眉を寄せた。

 

「……地図?」

 

「……ああ……」

 

 マルクは、ゆっくりと頷いた。

 

「……でも……俺たちの知ってる地図じゃなかった……」

 

 俺は、少しだけ考えた。

 

 古代の地図。

 

 それなら、現在の地形と違っていても不思議ではない。

 

 だが、男の表情はそれだけでは説明できなかった。

 

「……どう違った?」

 

 マルクは、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……わからない……」

 

 俺は、男を見た。

 

「……何が?」

 

「……あれが……どこの地図なのか……」

 

 マルクは、震える声で続けた。

 

「……俺たちが知ってる大陸の形と……全然違った……」

 

 俺は、しばらく黙っていた。

 

 知らない大陸の地図。

 

 それだけなら、古い記録として珍しくないのかもしれない。

 

 だが、遺構の規模と技術を考えると、単なる古地図では済まない可能性もある。

 

「……その地図は、まだ残っているのか?」

 

 俺が尋ねると、マルクは頷いた。

 

「……たぶん……」

 

「場所は覚えてる?」

 

 リリアが尋ねた。

 

 マルクは、少しだけ考えた。

 

「……通路が……変わる前なら……」

 

 俺は頷いた。

 

 今すぐ調べるのは難しい。

 

 だが、後で確認する価値はありそうだ。

 

「……わかった」

 

 俺は、男の肩へ手を置いた。

 

「今は休んでくれ」

 

 マルクは、弱々しく頷いた。

 

 そして、再び目を閉じた。

 

     ◇

 

 四人の救出が終わった。

 

 俺は、搬送台に横たわる彼らを見渡した。

 

 全員、生きている。

 

 ダリオとエマを含めれば、行方不明だった六人の調査員は全員無事だ。

 

 その事実に、ようやく胸の奥が軽くなった。

 

 だが、まだ終わりではない。

 

 第七観測区には、二十五人の被験者が残されている。

 

 彼らを救い出さなければ、この探索は終われない。

 

「……リリア」

 

「うん」

 

「戻ろう」

 

 彼女は頷いた。

 

「みんな、待ってるもんね」

 

「ああ」

 

 俺は、中央統括機構へ向き直った。

 

「……第七観測区まで、搬送台を運べるか?」

 

『可能』

 

「……頼む」

 

『要求を受理』

 

 床の一部が青白く光り、搬送台がゆっくりと動き始めた。

 

 俺は、その様子を確認した。

 

 四人の調査員。

 

 二十三組の生命維持補助装置。

 

 すべて、無事に運ばれていく。

 

 俺は、ようやく小さく笑った。

 

「……これで、次へ進めるな」

 

 リリアも頷いた。

 

「うん」

 

 だが。

 

 そのときだった。

 

 背後で、ユリウスが静かに呟いた。

 

「……やはり、あなたは特別ですね」

 

 俺は振り返った。

 

 男は、巨大な球体を見上げていた。

 

 その目には、奇妙な光が宿っている。

 

「……何が?」

 

 俺が尋ねると、ユリウスは微笑んだ。

 

「……中央統括機構が、ここまで協力的になるとは思いませんでした」

 

 俺は、少しだけ眉を寄せた。

 

「……人を救うための施設なんだろう?」

 

「ええ」

 

 ユリウスは頷いた。

 

「……だからこそ、不思議なのです」

 

 俺は、男を見つめた。

 

「……どういう意味だ?」

 

 ユリウスは、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……この施設は、長い間、誰の命令にも従いませんでした」

 

 俺は黙った。

 

「……私たちがどれほど研究しても、中央統括機構は沈黙したままだった」

 

 男は、ゆっくりと俺を見た。

 

「……それなのに、あなたが来た途端、これほど多くの機能が動き始めた」

 

 俺は、静かに息を吸った。

 

 確かに、その通りだった。

 

 だが、それが何を意味するのかはわからない。

 

「……偶然かもしれないだろ」

 

 俺が言うと、ユリウスは首を横に振った。

 

「……私は、そうは思いません」

 

 男は、右手首の拘束具を見た。

 

 そして。

 

「……あなたには、この遺構を完全に目覚めさせる力があるのかもしれません」

 

 俺は、目を細めた。

 

 その言葉には、嫌な響きがあった。

 

 研究者が、珍しい実験材料を見つけたときのような。

 

 そんな、冷たい期待が込められていた。

 

 俺は、ユリウスを見据えた。

 

「……勘違いするなよ」

 

 男が首を傾げる。

 

「……何を?」

 

「俺は、お前の研究に協力するために来たんじゃない」

 

 俺は、静かに言った。

 

「人を助けに来たんだ」

 

 ユリウスは、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……ええ。承知しています」

 

 穏やかに微笑んだ。

 

 だが。

 

 その目は、少しも笑っていなかった。

 

 俺は、男から視線を外した。

 

 今は、これ以上話す必要はない。

 

 俺たちは、救出した四人と医療機材を連れて、第七観測区へ戻る。

 

 そこで待っている二十五人を救い出す。

 

 それが先だ。

 

 俺は、前方に続く通路を見据えた。

 

 遺構の奥で、巨大な機械が低く唸っている。

 

 その音は、まるで長い眠りから目覚めた生き物の呼吸のようだった。

 

 だが、俺にはまだわからなかった。

 

 この遺構を造った人々が、どこから来たのか。

 

 何を恐れ、何から逃れようとしていたのか。

 

 そして、なぜこれほどの技術を残しながら、歴史から姿を消したのか。

 

 答えは、まだ闇の中にある。

 

 俺は、その疑問を胸の奥へしまい込んだ。

 

 今は、目の前の命を救うことだけを考えよう。

 

 そう決めて、歩き出した。

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