流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

56 / 68
第五十六話 観測者との戦い――奪わせない意志

一九八九年、春。

 

 霧哭きの渓谷、地下深部。

 

 中央環状区画。

 

     ◇

 

 床を走る赤い光が、幾何学模様を描いた。

 

 その中心に立つユリウス・ベルンハルトの身体から、無数の細い糸が伸びている。

 

 凝を使わなければ見落としてしまいそうな、極めて細いオーラの糸。

 

 一本一本は頼りなく見えた。

 

 だが、床や壁へ繋がったそれらは、巨大な蜘蛛の巣のように広場全体へ張り巡らされている。

 

 俺はユリウスの右腕を掴んだまま、足元に意識を集中させた。

 

 赤い光が強まる。

 

 直後、床から突き上げるような力が生じた。

 

「――っ!」

 

 身体が浮く。

 

 俺は空中で腰を捻り、ユリウスの腕を引き寄せた。

 

 男の足が床から離れる。

 

 その瞬間、床へ繋がっていた糸が一斉に張った。

 

 ユリウスの身体が、不自然な姿勢で空中に固定される。

 

(……なるほど)

 

 糸は単なる拘束具ではない。

 

 自分の身体を支え、力の向きを変えることもできるらしい。

 

 俺は握っていた腕を捻った。

 

 関節を極める。

 

 しかし、ユリウスの身体が横へ滑った。

 

 関節に掛かるはずだった力が、床と壁へ分散される。

 

 俺は舌打ちした。

 

 相手の身体を直接掴んでいるのに、手応えが薄い。

 

 まるで、巨大な建造物そのものを相手にしているようだった。

 

「……素晴らしい反応速度です」

 

 ユリウスが言った。

 

 眼鏡の奥にある灰色の瞳は、異様なほど落ち着いていた。

 

「その身体能力は、強化系の念能力によるものですか? それとも、生まれつきの――」

 

「黙ってろ」

 

 俺は腕を引いた。

 

 同時に、右足を踏み込む。

 

 床板が軋んだ。

 

 体重を乗せた拳を、ユリウスの腹部へ叩き込む。

 

 だが、拳が届く寸前。

 

 男の身体が後方へ引かれた。

 

 空中を滑るように、三メートルほど離れる。

 

 俺の拳は空を切った。

 

 ユリウスは床へ着地し、白衣の裾を整えた。

 

「……危険ですね」

 

「そう思うなら、降参しろ」

 

「それはできません」

 

 男の背後で、赤い光が脈打った。

 

 俺は視線を動かさず、円の範囲を調整した。

 

 広場全体を覆う必要はない。

 

 今、把握すべきなのは三つ。

 

 ユリウスの位置。

 

 糸の接続先。

 

 そして、搬送台の安全だ。

 

 四人の調査員が横たわる寝台は、広場の入口付近にある。

 

 その後ろには、二十三組の生命維持補助装置。

 

 どちらも失うわけにはいかない。

 

「リリア!」

 

「わかってる!」

 

 返事と同時に、搬送台が動き始めた。

 

 リリアが操作盤へ手を伸ばし、列の先頭を入口側へ向けている。

 

 だが、床の赤い光が搬送台の進路を横切った。

 

 低い音が響く。

 

 通路の奥で、隔壁が動き始めた。

 

「……逃がしませんよ」

 

 ユリウスが静かに告げた。

 

 俺は男を睨んだ。

 

「人質を取るつもりか」

 

「彼らを傷つけるつもりはありません」

 

「なら道を開けろ」

 

「あなたが協力してくだされば」

 

 俺は答えず、床を蹴った。

 

     ◇

 

 距離は六メートル。

 

 俺にとっては、一歩に近い。

 

 踏み込みと同時に、ユリウスの周囲へ張られた糸が動いた。

 

 左から三本。

 

 右から二本。

 

 足元から四本。

 

 俺は身体を低く沈め、最初の糸を避けた。

 

 二本目を前腕で受ける。

 

 周で強化した皮膚の上を、鋭いものが滑った。

 

 浅い痛み。

 

 袖が裂け、血が滲む。

 

(……切断能力もあるのか)

 

 糸は見た目ほど脆くない。

 

 念で強化された刃物に近い。

 

 だが、斬ることだけが目的ではなかった。

 

 避けた糸が床へ突き刺さり、俺の背後で張り直される。

 

 逃げ道を狭めるつもりらしい。

 

 俺はそのまま踏み込んだ。

 

 拳を振るう。

 

 ユリウスは後方へ退く。

 

 だが、今度は逃がさない。

 

 拳の軌道を途中で変え、左手で男の襟を掴んだ。

 

 同時に膝を上げる。

 

 腹部へ打ち込む寸前、ユリウスの身体を支える糸が一斉に張った。

 

 俺の膝が止まる。

 

 いや。

 

 止められたのではない。

 

 衝撃が、別の場所へ逃げた。

 

 床の赤い線が明滅する。

 

 離れた壁から、鈍い衝撃音が響いた。

 

(……力を流している?)

 

 ガルドの防御とは違う。

 

 あいつは自身の身体を地面へ固定し、衝撃を逃がしていた。

 

 ユリウスの場合、身体へ掛かる力そのものを、糸を通じて別の場所へ移している。

 

 しかも、床の機構まで利用しているらしい。

 

 俺は一度距離を取った。

 

 ユリウスは眼鏡を押し上げる。

 

「……あなたなら、すぐに気づくと思っていました」

 

「随分と余裕だな」

 

「観察は私の仕事ですから」

 

 俺は男の足元を見た。

 

 糸が繋がっている場所は、一定ではない。

 

 床の模様。

 

 壁の継ぎ目。

 

 柱の表面。

 

 オーラが流れている部分へ、優先的に接続している。

 

 つまり、糸そのものが無限に力を生み出しているわけではない。

 

 施設の構造を利用しているのだ。

 

「……統括機構!」

 

 俺は声を張った。

 

『応答』

 

「こいつが使っている床の機構を停止できるか!」

 

『暫定管理権限による命令を隔離中』

 

「どれくらいかかる!」

 

『外部接続が維持されているため、完了時刻は未確定』

 

 俺は奥歯を噛んだ。

 

 ユリウスが笑った。

 

「残念ながら、中央統括機構も万能ではありません」

 

「お前のせいだろ」

 

「ええ。私が用意した接続経路です」

 

 男は否定しなかった。

 

「この遺構の研究を始めてから、長い時間をかけて作りました。統括機構が閉ざした機能へ、外側から干渉するための経路を」

 

 俺は理解した。

 

 先ほどから男が使っているのは、単純な念能力ではない。

 

 念能力によって、遺構の機構を間接的に動かしている。

 

 だから、拘束具で右手首の端末を封じても、完全には止まらなかった。

 

 操作の一部を、身体から伸びる糸で代行しているのだ。

 

「……ずいぶん手の込んだ仕掛けだな」

 

「必要でしたから」

 

 ユリウスは柱へ視線を向けた。

 

「私は、この場所へ辿り着くために人生の大半を費やしたのです」

 

 その声には、初めて抑えきれない感情が混じっていた。

 

     ◇

 

 ユリウス・ベルンハルト。

 

 俺は、この男のことをほとんど知らない。

 

 四十代ほどの外見。

 

 研究部門の責任者。

 

 高い念能力を持ち、遺構の技術を解析してきた人物。

 

 それだけだ。

 

 だが、今の言葉には、単なる研究欲とは違うものがあった。

 

 執着。

 

 焦燥。

 

 そして、長年積み重ねてきた努力を、誰にも理解されなかった人間のような響き。

 

「……人生の大半、か」

 

 俺が呟くと、ユリウスは頷いた。

 

「若いあなたには、想像もできないでしょう」

 

「かもしれないな」

 

 俺は答えた。

 

「だが、時間をかけたからって、何をしてもいいわけじゃない」

 

 ユリウスの表情が変わった。

 

「……あなたは、私が何を目指しているのか理解していない」

 

「人間を犠牲にしてでも、遺構を掌握することだろ」

 

「違います」

 

 男の声が、わずかに強まった。

 

「私は、この技術を人類のものにしたいのです」

 

 俺は黙った。

 

 ユリウスは続けた。

 

「この遺構には、現代の医学では救えない患者を救う技術があります。身体機能の補助、神経の修復、長期間の生命維持。さらには、念能力の制御を補助する機構まで存在する」

 

 男は、広場の中央にある柱へ手を向けた。

 

「これほどの技術が、誰にも使われず眠っていたのですよ」

 

 俺は男の言葉を聞いていた。

 

 確かに、技術そのものには価値がある。

 

 その点だけは否定できない。

 

 だが。

 

「……お前は、その技術を使って何をした?」

 

 ユリウスが黙る。

 

「第七観測区にいた人間たちは、実験材料にされた。零号は自分の意思を奪われた。助けを求める人間がいたのに、お前は研究を続けた」

 

「……犠牲なしに進歩はありません」

 

「それを決めるのは、犠牲になる本人だ」

 

 俺は言った。

 

「少なくとも、お前じゃない」

 

 ユリウスの顔から笑みが消えた。

 

「……理想論です」

 

「そうかもしれないな」

 

 俺は肩をすくめた。

 

「でも、俺はその理想論を捨てるつもりはない」

 

 男は、しばらく俺を見つめていた。

 

 やがて、低く呟いた。

 

「……残念です」

 

 その瞬間、糸の流れが変わった。

 

     ◇

 

 ユリウスの背後から伸びた糸が、広場の柱へ集中する。

 

 柱の表面に刻まれた文字が、赤く光った。

 

 俺は即座に円を広げた。

 

 床の内部で、オーラが急速に集まっている。

 

 嫌な予感がした。

 

「リリア! 搬送台を下げろ!」

 

「もう動かしてる!」

 

 彼女の声が返ってくる。

 

 だが、通路の隔壁は閉じかけていた。

 

 搬送台の列が、出口を通り抜けるには時間が足りない。

 

 俺は一瞬だけ迷った。

 

 ユリウスを攻撃するか。

 

 隔壁を破壊するか。

 

 その判断を下すより早く、リリアが叫んだ。

 

「アオ! 右側!」

 

 俺は視線を向けた。

 

 広場の右側。

 

 壁と床の境目に、細い継ぎ目があった。

 

 そこだけ、赤い光が通っていない。

 

「……なるほど」

 

 俺は床を蹴った。

 

 ユリウスへ向かう。

 

 男は迎撃のために糸を広げた。

 

 だが、俺は途中で進路を変えた。

 

 右側の壁へ。

 

 そして、継ぎ目へ拳を叩き込んだ。

 

 轟音。

 

 黒い石材が砕ける。

 

 床の一部が持ち上がり、内部の機構が露出した。

 

 そこには、複数の金属製の腕が組み合わさった装置があった。

 

 隔壁を動かしている駆動部だ。

 

 俺は、その一本を掴んだ。

 

 周で強化した指を食い込ませる。

 

 そして、力任せに引き抜いた。

 

 金属が悲鳴を上げた。

 

 駆動部が破損し、隔壁の動きが止まる。

 

 完全には開いていない。

 

 だが、人が通るには十分な隙間が残った。

 

「リリア! 通せ!」

 

「うん!」

 

 搬送台が動き始める。

 

 四人の調査員を載せた寝台が、順番に隔壁の向こうへ進んでいく。

 

 続いて、生命維持補助装置を積んだ搬送台。

 

 俺は、その様子を確認しながらユリウスへ視線を戻した。

 

 男は、静かに俺を見ていた。

 

「……やはり、素晴らしい」

 

 俺は眉を寄せた。

 

「何が?」

 

「その判断です」

 

 ユリウスは、穏やかに答えた。

 

「あなたは、私を倒すことよりも、他者の安全を優先した」

 

「当たり前だろ」

 

「……当たり前ではありませんよ」

 

 男の目が細くなる。

 

「強大な力を持つ者ほど、自分の意思を通すことを優先するものです」

 

 俺は、ユリウスを見据えた。

 

「……それで?」

 

「あなたの行動は、非常に興味深い」

 

 男の周囲で、糸がゆっくりと動いた。

 

「力だけではない。判断力、反応速度、他者への配慮。そして、何より――」

 

 ユリウスは、俺を見た。

 

「……未知の状況に対する適応能力」

 

 俺は、静かに息を吐いた。

 

「……まだ観察してるのか」

 

「ええ」

 

 男は、微笑んだ。

 

「研究者ですから」

 

 俺は、拳を握った。

 

 どうやら、この男は最後まで変わらないらしい。

 

     ◇

 

 搬送台がすべて隔壁の向こうへ出た。

 

 リリアが、こちらを振り返る。

 

「アオ! 全員通れた!」

 

「よし!」

 

 俺は頷いた。

 

「エドガーもそっちへ行け!」

 

 エドガーは、一瞬だけ躊躇した。

 

 だが、すぐに隔壁へ向かった。

 

 その背中を見届けたところで、俺はユリウスへ向き直った。

 

 これで、少なくとも人質を取られる危険は減った。

 

 残る問題は、目の前の男だけだ。

 

「……ユリウス」

 

「はい」

 

「最後に聞く」

 

 俺は、男を見据えた。

 

「……降参する気はないか?」

 

 ユリウスは、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……ありません」

 

 俺は頷いた。

 

「そうか」

 

 それなら、もう遠慮する必要はない。

 

 俺は、ゆっくりと構えた。

 

 足を肩幅に開く。

 

 重心を落とす。

 

 オーラを全身へ巡らせる。

 

 纏。

 

 練。

 

 そして、流。

 

 必要な部位へ、必要なだけオーラを集中させる。

 

 身体の内側で、力が静かに満ちていく。

 

 ユリウスの表情が変わった。

 

「……なるほど」

 

 男は、低く呟いた。

 

「これが、あなたの本気ですか」

 

「……まだだ」

 

 俺は答えた。

 

「本気で殺すつもりなら、こんな構えはしない」

 

 ユリウスの目が細くなった。

 

 俺は続けた。

 

「……お前は生かして連れていく」

 

 男は、しばらく黙っていた。

 

 そして、微笑んだ。

 

「……できるものなら」

 

 その瞬間。

 

 無数の糸が、一斉に襲いかかってきた。

 

     ◇

 

 左から五本。

 

 右から七本。

 

 上から三本。

 

 俺は、すべてを見ていた。

 

 凝で糸の動きを捉え、円で接続先を把握する。

 

 最初の糸を避ける。

 

 二本目を手刀で弾く。

 

 三本目を踏みつける。

 

 四本目は、身体を捻って通り抜けた。

 

 糸は速い。

 

 だが、動きそのものは単純だった。

 

 問題は、その先だ。

 

 ユリウスは糸を使って攻撃しているだけではない。

 

 俺の回避方向を予測し、次の糸を配置している。

 

 まるで、盤上の駒を動かすように。

 

(……戦術は悪くない)

 

 俺は、足を止めた。

 

 その瞬間、周囲の糸が一斉に張った。

 

 前後左右。

 

 逃げ道を塞ぐ。

 

 ユリウスが、わずかに笑った。

 

「……捕らえました」

 

 俺は、静かに答えた。

 

「……そうか?」

 

 次の瞬間。

 

 俺は、足元の床を踏み砕いた。

 

 轟音。

 

 石材が割れ、細かな破片が飛び散る。

 

 糸の一部が、接続先を失った。

 

 同時に、俺は前へ踏み込んだ。

 

 ユリウスの目が見開かれる。

 

 男は、身体を後方へ引こうとした。

 

 だが。

 

 その前に、俺の拳が届いた。

 

 腹部。

 

 流によって強化した拳が、ユリウスの身体を捉える。

 

 衝撃が糸を通じて床へ逃げる。

 

 だが、今度は完全には逃がせなかった。

 

 接続先が減っている。

 

 衝撃を受け止めるための経路が足りない。

 

 ユリウスの身体が折れた。

 

「……ぐっ!」

 

 男が息を吐く。

 

 俺は、そのまま襟を掴んだ。

 

 引き寄せる。

 

 膝を上げる。

 

 今度は、確かな手応えがあった。

 

 ユリウスの身体が浮き上がる。

 

 俺は、さらに一歩踏み込んだ。

 

 だが。

 

 男の右手首が、赤く光った。

 

(……まだ何かある!)

 

 俺は、即座に距離を取った。

 

 次の瞬間。

 

 ユリウスの周囲に、赤い光の輪が現れた。

 

 床から伸びた糸が、輪へ吸い込まれていく。

 

 そして。

 

 男の身体を中心に、巨大な網が形成された。

 

 俺は、目を細めた。

 

 糸の数が、明らかに増えている。

 

 しかも、今までとは違う。

 

 糸の一本一本が、赤い光を帯びていた。

 

 ユリウスが、苦しそうに笑った。

 

「……ここまで追い詰められるとは」

 

 男は、ゆっくりと身体を起こした。

 

「……ですが、まだ終わりではありません」

 

 俺は、構えを崩さなかった。

 

 ユリウスは、静かに告げた。

 

「……私の念能力を、お見せしましょう」

 

 男の背後で、赤い光が大きく広がった。

 

 そして。

 

「『万象の接続者(リンク・マスター)』」

 

 その言葉と同時に、無数の糸が空間を満たした。

 

 俺は、静かに息を吸った。

 

 どうやら、ここからが本当の勝負らしい。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。