流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷、地下深部。
中央環状区画。
◇
床を走る赤い光が、幾何学模様を描いた。
その中心に立つユリウス・ベルンハルトの身体から、無数の細い糸が伸びている。
凝を使わなければ見落としてしまいそうな、極めて細いオーラの糸。
一本一本は頼りなく見えた。
だが、床や壁へ繋がったそれらは、巨大な蜘蛛の巣のように広場全体へ張り巡らされている。
俺はユリウスの右腕を掴んだまま、足元に意識を集中させた。
赤い光が強まる。
直後、床から突き上げるような力が生じた。
「――っ!」
身体が浮く。
俺は空中で腰を捻り、ユリウスの腕を引き寄せた。
男の足が床から離れる。
その瞬間、床へ繋がっていた糸が一斉に張った。
ユリウスの身体が、不自然な姿勢で空中に固定される。
(……なるほど)
糸は単なる拘束具ではない。
自分の身体を支え、力の向きを変えることもできるらしい。
俺は握っていた腕を捻った。
関節を極める。
しかし、ユリウスの身体が横へ滑った。
関節に掛かるはずだった力が、床と壁へ分散される。
俺は舌打ちした。
相手の身体を直接掴んでいるのに、手応えが薄い。
まるで、巨大な建造物そのものを相手にしているようだった。
「……素晴らしい反応速度です」
ユリウスが言った。
眼鏡の奥にある灰色の瞳は、異様なほど落ち着いていた。
「その身体能力は、強化系の念能力によるものですか? それとも、生まれつきの――」
「黙ってろ」
俺は腕を引いた。
同時に、右足を踏み込む。
床板が軋んだ。
体重を乗せた拳を、ユリウスの腹部へ叩き込む。
だが、拳が届く寸前。
男の身体が後方へ引かれた。
空中を滑るように、三メートルほど離れる。
俺の拳は空を切った。
ユリウスは床へ着地し、白衣の裾を整えた。
「……危険ですね」
「そう思うなら、降参しろ」
「それはできません」
男の背後で、赤い光が脈打った。
俺は視線を動かさず、円の範囲を調整した。
広場全体を覆う必要はない。
今、把握すべきなのは三つ。
ユリウスの位置。
糸の接続先。
そして、搬送台の安全だ。
四人の調査員が横たわる寝台は、広場の入口付近にある。
その後ろには、二十三組の生命維持補助装置。
どちらも失うわけにはいかない。
「リリア!」
「わかってる!」
返事と同時に、搬送台が動き始めた。
リリアが操作盤へ手を伸ばし、列の先頭を入口側へ向けている。
だが、床の赤い光が搬送台の進路を横切った。
低い音が響く。
通路の奥で、隔壁が動き始めた。
「……逃がしませんよ」
ユリウスが静かに告げた。
俺は男を睨んだ。
「人質を取るつもりか」
「彼らを傷つけるつもりはありません」
「なら道を開けろ」
「あなたが協力してくだされば」
俺は答えず、床を蹴った。
◇
距離は六メートル。
俺にとっては、一歩に近い。
踏み込みと同時に、ユリウスの周囲へ張られた糸が動いた。
左から三本。
右から二本。
足元から四本。
俺は身体を低く沈め、最初の糸を避けた。
二本目を前腕で受ける。
周で強化した皮膚の上を、鋭いものが滑った。
浅い痛み。
袖が裂け、血が滲む。
(……切断能力もあるのか)
糸は見た目ほど脆くない。
念で強化された刃物に近い。
だが、斬ることだけが目的ではなかった。
避けた糸が床へ突き刺さり、俺の背後で張り直される。
逃げ道を狭めるつもりらしい。
俺はそのまま踏み込んだ。
拳を振るう。
ユリウスは後方へ退く。
だが、今度は逃がさない。
拳の軌道を途中で変え、左手で男の襟を掴んだ。
同時に膝を上げる。
腹部へ打ち込む寸前、ユリウスの身体を支える糸が一斉に張った。
俺の膝が止まる。
いや。
止められたのではない。
衝撃が、別の場所へ逃げた。
床の赤い線が明滅する。
離れた壁から、鈍い衝撃音が響いた。
(……力を流している?)
ガルドの防御とは違う。
あいつは自身の身体を地面へ固定し、衝撃を逃がしていた。
ユリウスの場合、身体へ掛かる力そのものを、糸を通じて別の場所へ移している。
しかも、床の機構まで利用しているらしい。
俺は一度距離を取った。
ユリウスは眼鏡を押し上げる。
「……あなたなら、すぐに気づくと思っていました」
「随分と余裕だな」
「観察は私の仕事ですから」
俺は男の足元を見た。
糸が繋がっている場所は、一定ではない。
床の模様。
壁の継ぎ目。
柱の表面。
オーラが流れている部分へ、優先的に接続している。
つまり、糸そのものが無限に力を生み出しているわけではない。
施設の構造を利用しているのだ。
「……統括機構!」
俺は声を張った。
『応答』
「こいつが使っている床の機構を停止できるか!」
『暫定管理権限による命令を隔離中』
「どれくらいかかる!」
『外部接続が維持されているため、完了時刻は未確定』
俺は奥歯を噛んだ。
ユリウスが笑った。
「残念ながら、中央統括機構も万能ではありません」
「お前のせいだろ」
「ええ。私が用意した接続経路です」
男は否定しなかった。
「この遺構の研究を始めてから、長い時間をかけて作りました。統括機構が閉ざした機能へ、外側から干渉するための経路を」
俺は理解した。
先ほどから男が使っているのは、単純な念能力ではない。
念能力によって、遺構の機構を間接的に動かしている。
だから、拘束具で右手首の端末を封じても、完全には止まらなかった。
操作の一部を、身体から伸びる糸で代行しているのだ。
「……ずいぶん手の込んだ仕掛けだな」
「必要でしたから」
ユリウスは柱へ視線を向けた。
「私は、この場所へ辿り着くために人生の大半を費やしたのです」
その声には、初めて抑えきれない感情が混じっていた。
◇
ユリウス・ベルンハルト。
俺は、この男のことをほとんど知らない。
四十代ほどの外見。
研究部門の責任者。
高い念能力を持ち、遺構の技術を解析してきた人物。
それだけだ。
だが、今の言葉には、単なる研究欲とは違うものがあった。
執着。
焦燥。
そして、長年積み重ねてきた努力を、誰にも理解されなかった人間のような響き。
「……人生の大半、か」
俺が呟くと、ユリウスは頷いた。
「若いあなたには、想像もできないでしょう」
「かもしれないな」
俺は答えた。
「だが、時間をかけたからって、何をしてもいいわけじゃない」
ユリウスの表情が変わった。
「……あなたは、私が何を目指しているのか理解していない」
「人間を犠牲にしてでも、遺構を掌握することだろ」
「違います」
男の声が、わずかに強まった。
「私は、この技術を人類のものにしたいのです」
俺は黙った。
ユリウスは続けた。
「この遺構には、現代の医学では救えない患者を救う技術があります。身体機能の補助、神経の修復、長期間の生命維持。さらには、念能力の制御を補助する機構まで存在する」
男は、広場の中央にある柱へ手を向けた。
「これほどの技術が、誰にも使われず眠っていたのですよ」
俺は男の言葉を聞いていた。
確かに、技術そのものには価値がある。
その点だけは否定できない。
だが。
「……お前は、その技術を使って何をした?」
ユリウスが黙る。
「第七観測区にいた人間たちは、実験材料にされた。零号は自分の意思を奪われた。助けを求める人間がいたのに、お前は研究を続けた」
「……犠牲なしに進歩はありません」
「それを決めるのは、犠牲になる本人だ」
俺は言った。
「少なくとも、お前じゃない」
ユリウスの顔から笑みが消えた。
「……理想論です」
「そうかもしれないな」
俺は肩をすくめた。
「でも、俺はその理想論を捨てるつもりはない」
男は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、低く呟いた。
「……残念です」
その瞬間、糸の流れが変わった。
◇
ユリウスの背後から伸びた糸が、広場の柱へ集中する。
柱の表面に刻まれた文字が、赤く光った。
俺は即座に円を広げた。
床の内部で、オーラが急速に集まっている。
嫌な予感がした。
「リリア! 搬送台を下げろ!」
「もう動かしてる!」
彼女の声が返ってくる。
だが、通路の隔壁は閉じかけていた。
搬送台の列が、出口を通り抜けるには時間が足りない。
俺は一瞬だけ迷った。
ユリウスを攻撃するか。
隔壁を破壊するか。
その判断を下すより早く、リリアが叫んだ。
「アオ! 右側!」
俺は視線を向けた。
広場の右側。
壁と床の境目に、細い継ぎ目があった。
そこだけ、赤い光が通っていない。
「……なるほど」
俺は床を蹴った。
ユリウスへ向かう。
男は迎撃のために糸を広げた。
だが、俺は途中で進路を変えた。
右側の壁へ。
そして、継ぎ目へ拳を叩き込んだ。
轟音。
黒い石材が砕ける。
床の一部が持ち上がり、内部の機構が露出した。
そこには、複数の金属製の腕が組み合わさった装置があった。
隔壁を動かしている駆動部だ。
俺は、その一本を掴んだ。
周で強化した指を食い込ませる。
そして、力任せに引き抜いた。
金属が悲鳴を上げた。
駆動部が破損し、隔壁の動きが止まる。
完全には開いていない。
だが、人が通るには十分な隙間が残った。
「リリア! 通せ!」
「うん!」
搬送台が動き始める。
四人の調査員を載せた寝台が、順番に隔壁の向こうへ進んでいく。
続いて、生命維持補助装置を積んだ搬送台。
俺は、その様子を確認しながらユリウスへ視線を戻した。
男は、静かに俺を見ていた。
「……やはり、素晴らしい」
俺は眉を寄せた。
「何が?」
「その判断です」
ユリウスは、穏やかに答えた。
「あなたは、私を倒すことよりも、他者の安全を優先した」
「当たり前だろ」
「……当たり前ではありませんよ」
男の目が細くなる。
「強大な力を持つ者ほど、自分の意思を通すことを優先するものです」
俺は、ユリウスを見据えた。
「……それで?」
「あなたの行動は、非常に興味深い」
男の周囲で、糸がゆっくりと動いた。
「力だけではない。判断力、反応速度、他者への配慮。そして、何より――」
ユリウスは、俺を見た。
「……未知の状況に対する適応能力」
俺は、静かに息を吐いた。
「……まだ観察してるのか」
「ええ」
男は、微笑んだ。
「研究者ですから」
俺は、拳を握った。
どうやら、この男は最後まで変わらないらしい。
◇
搬送台がすべて隔壁の向こうへ出た。
リリアが、こちらを振り返る。
「アオ! 全員通れた!」
「よし!」
俺は頷いた。
「エドガーもそっちへ行け!」
エドガーは、一瞬だけ躊躇した。
だが、すぐに隔壁へ向かった。
その背中を見届けたところで、俺はユリウスへ向き直った。
これで、少なくとも人質を取られる危険は減った。
残る問題は、目の前の男だけだ。
「……ユリウス」
「はい」
「最後に聞く」
俺は、男を見据えた。
「……降参する気はないか?」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……ありません」
俺は頷いた。
「そうか」
それなら、もう遠慮する必要はない。
俺は、ゆっくりと構えた。
足を肩幅に開く。
重心を落とす。
オーラを全身へ巡らせる。
纏。
練。
そして、流。
必要な部位へ、必要なだけオーラを集中させる。
身体の内側で、力が静かに満ちていく。
ユリウスの表情が変わった。
「……なるほど」
男は、低く呟いた。
「これが、あなたの本気ですか」
「……まだだ」
俺は答えた。
「本気で殺すつもりなら、こんな構えはしない」
ユリウスの目が細くなった。
俺は続けた。
「……お前は生かして連れていく」
男は、しばらく黙っていた。
そして、微笑んだ。
「……できるものなら」
その瞬間。
無数の糸が、一斉に襲いかかってきた。
◇
左から五本。
右から七本。
上から三本。
俺は、すべてを見ていた。
凝で糸の動きを捉え、円で接続先を把握する。
最初の糸を避ける。
二本目を手刀で弾く。
三本目を踏みつける。
四本目は、身体を捻って通り抜けた。
糸は速い。
だが、動きそのものは単純だった。
問題は、その先だ。
ユリウスは糸を使って攻撃しているだけではない。
俺の回避方向を予測し、次の糸を配置している。
まるで、盤上の駒を動かすように。
(……戦術は悪くない)
俺は、足を止めた。
その瞬間、周囲の糸が一斉に張った。
前後左右。
逃げ道を塞ぐ。
ユリウスが、わずかに笑った。
「……捕らえました」
俺は、静かに答えた。
「……そうか?」
次の瞬間。
俺は、足元の床を踏み砕いた。
轟音。
石材が割れ、細かな破片が飛び散る。
糸の一部が、接続先を失った。
同時に、俺は前へ踏み込んだ。
ユリウスの目が見開かれる。
男は、身体を後方へ引こうとした。
だが。
その前に、俺の拳が届いた。
腹部。
流によって強化した拳が、ユリウスの身体を捉える。
衝撃が糸を通じて床へ逃げる。
だが、今度は完全には逃がせなかった。
接続先が減っている。
衝撃を受け止めるための経路が足りない。
ユリウスの身体が折れた。
「……ぐっ!」
男が息を吐く。
俺は、そのまま襟を掴んだ。
引き寄せる。
膝を上げる。
今度は、確かな手応えがあった。
ユリウスの身体が浮き上がる。
俺は、さらに一歩踏み込んだ。
だが。
男の右手首が、赤く光った。
(……まだ何かある!)
俺は、即座に距離を取った。
次の瞬間。
ユリウスの周囲に、赤い光の輪が現れた。
床から伸びた糸が、輪へ吸い込まれていく。
そして。
男の身体を中心に、巨大な網が形成された。
俺は、目を細めた。
糸の数が、明らかに増えている。
しかも、今までとは違う。
糸の一本一本が、赤い光を帯びていた。
ユリウスが、苦しそうに笑った。
「……ここまで追い詰められるとは」
男は、ゆっくりと身体を起こした。
「……ですが、まだ終わりではありません」
俺は、構えを崩さなかった。
ユリウスは、静かに告げた。
「……私の念能力を、お見せしましょう」
男の背後で、赤い光が大きく広がった。
そして。
「『万象の接続者(リンク・マスター)』」
その言葉と同時に、無数の糸が空間を満たした。
俺は、静かに息を吸った。
どうやら、ここからが本当の勝負らしい。