流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷。
◇
地上の空気には、匂いがあった。
濡れた岩肌。春先の冷たい土。谷底を流れる水と、風に運ばれてくる若葉の青臭さ。
そんな当たり前のものが、妙に懐かしく感じられる。
俺は、朝靄の向こうに広がる空を見上げた。
灰色の雲は薄く、ところどころに青空が覗いている。山の稜線から差し込む朝日が、谷を満たしていた霧を少しずつ白く染めていた。
つい先ほどまで、俺たちは地下深くにいた。
古代の機械が唸り、壁の向こうでは何が動いているのかも分からない。人間の命を繋ぎ止める装置が並び、その一方で、人間を実験材料として扱う者たちがいた。
あの場所から、ようやく出てきたのだ。
「……アオ」
隣から声がした。
リリアだった。
栗色の髪は汗と埃で乱れ、外套の裾には地下でついた汚れが残っている。それでも、琥珀色の瞳はしっかりと前を向いていた。
「全員、出られたね」
「ああ」
俺は頷いた。
視線の先には、古代の搬送台が並んでいる。
二十五人の被験者。
四人の行方不明調査員。
そのほとんどは、まだ意識を取り戻していない。
少し離れた場所には、拘束された五人がいた。
ユリウス・ベルンハルトとエドガー・ヴァイス。そして、施設内で俺たちと戦い、捕らえられた三人の念能力者の警備員だ。
三人とも拘束具を装着したままで、うち二人はまだ意識がはっきりしていない。
レオンとガルドが、その周囲を警戒していた。
俺たち五人を含めて、三十九人。
地下から脱出した人数は、間違いなく三十九人だ。
ただし、これで終わりではない。
救出した人々を安全な場所へ運び、必要な治療を受けさせる。拘束者の身柄を引き渡し、事件の証拠を保全する。
それらを済ませて初めて、俺たちの仕事は一区切りとなる。
「アオ! 十三番の状態を見て!」
ミレーヌの声が飛んできた。
「分かりました!」
俺はリリアへ軽く手を振り、搬送台の列へ向かった。
十三番の女性は、痩せ細った身体を薄い保温布に包まれていた。
胸元の補助装置が青白い光を放っている。
その明滅が、先ほどより速い。
「オーラ循環が乱れているわ」
ミレーヌが言った。
俺は凝を使い、女性の身体を観察した。
通常の人間とは異なる流れが見える。
人体に存在するはずのない人工的なオーラの経路。それが本来の生命活動を補助する一方で、身体へ大きな負担をかけていた。
「……補助出力が足りていない」
「ええ。地下では施設側から微弱な補助供給があったみたい。でも、今は搬送台の電源だけに頼っている」
俺は、少し離れた場所にいたエドガーを見た。
「エドガー。十三番の装置について確認したい」
レオンが警戒を解かないまま、エドガーを連れてくる。
男は拘束された手を見下ろし、それから女性の装置へ目を向けた。
「……外部供給が途絶えた影響でしょう。補助経路の負荷を下げれば、一時的には安定させられます」
「できるか?」
「操作だけなら。ただし、根本的な治療にはなりません」
「それでいい。まず命を繋ぐ」
俺の言葉に、エドガーは小さく頷いた。
レオンの監視下で必要最小限の操作が許される。
俺は凝でオーラの流れを追い、装置の変化を確認した。
しばらくして、明滅が落ち着いた。
女性の呼吸も、先ほどより穏やかになる。
「……よし」
俺は、ようやく肩の力を抜いた。
回復能力を使えば、人工的に改変された身体も元に戻せるかもしれない。
だが、今ここには二十五人の被験者がいる。
俺の能力は一日に三回まで。
誰を優先するべきか。
そもそも、あの能力で人工的なオーラ経路をどこまで正常化できるのか。
それを判断するには、専門的な知識が足りない。
命の危険が差し迫っているなら迷わない。
だが、今は装置によって安定させられている。
ならば、医療の専門家へ引き継ぐべきだ。
俺は女性の顔を見つめた。
まだ若い。
実験によって奪われた時間を、取り戻すことはできないかもしれない。
それでも。
これからの時間まで奪わせるつもりはなかった。
◇
地上へ出られたとはいえ、霧哭きの渓谷は人間に優しい場所ではない。
谷底には大小の岩が転がり、足場の悪い斜面が続いている。
湿った土は崩れやすく、場所によっては深い亀裂が口を開けていた。
搬送台は多少の段差なら越えられるが、急斜面を無理に進ませれば転倒する危険がある。
まして、意識のない人間を乗せた状態だ。
俺たちは隊列を組み、慎重に前進した。
リリアが先頭で地形を確認する。
俺とガルドが障害物を取り除き、ミレーヌが患者の状態を管理する。
レオンは後方の警戒と拘束者の監視を担当した。
三人の念能力者の警備員については、専用の拘束具を外していない。
意識を取り戻している一人が、時折こちらを見ていた。
その視線には敵意というより、困惑が滲んでいる。
もっとも、だからといって警戒を緩めるわけにはいかない。
念能力者を相手にする以上、油断は禁物だ。
「アオ、ちょっと待って」
前方でリリアが足を止めた。
「どうした?」
「この先、地面が変」
彼女はしゃがみ込み、足元の土を指で押した。
表面が、ぼろりと崩れる。
その下には空洞が広がっていた。
俺は凝で地面の状態を確認した。
岩盤の一部が割れ、薄い土砂だけで形を保っている。
搬送台を通せば、崩落する可能性が高い。
「……危なかったな」
「うん。こっちに回ろう」
リリアは銀色の羅針盤を取り出した。
『迷い人の足跡(ロスト・トレイル)』。
彼女が実際に歩いてきた経路と、周囲の地形情報を照らし合わせる。
しばらくして、羅針盤の針が別の方向を示した。
「少し遠回りになるけど、あっちに通れそうな道がある」
「分かった」
俺は後方へ合図を送った。
隊列がゆっくりと方向を変える。
その様子を見ながら、俺は改めて思った。
リリアがいなければ、今回の探索はもっと困難なものになっていただろう。
危険を見つける観察力。
周囲の状況を踏まえた判断。
そして、必要なときに迷わず行動する強さ。
それらは、最初から備わっていたものばかりではない。
これまでの旅で経験を積み、失敗を重ね、少しずつ身につけてきたものだ。
俺も同じだ。
流星街へ転生したばかりの頃は、今日の食料を確保するだけで精一杯だった。
それが今では、こうして大勢の人間を連れて危険な谷を歩いている。
人生というのは、分からないものだ。
◇
前進拠点へ到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
見張りが俺たちを発見すると、拠点は一気に慌ただしくなった。
「帰還者だ!」
「医療班を呼べ!」
「搬送台が二十九台! 患者の状態を確認しろ!」
救護用のテントから医師や看護員が飛び出してくる。
ミレーヌが先頭に立ち、救出者の状態を説明した。
「被験者二十五名! うち数名は特殊な生命維持補助装置が必要よ! 不用意に外さないで!」
「了解しました!」
「調査員四名も搬送中! こちらは比較的安定しているわ!」
次々と指示が飛ぶ。
俺は搬送台を医療テントへ運び込み、患者の状態を引き継いだ。
十三番の女性については、装置の調整内容も伝える。
四番の男性には、過去に痙攣発作が確認されている。
零号については、身体が非常に大きく、通常の寝台では対応できない。
医療班はそれぞれの状況を記録し、必要な機材の手配を始めた。
その一方で、拘束者たちの身柄も引き渡された。
ユリウスとエドガー。
そして、三人の念能力者の警備員。
全員が監視下に置かれ、医療上の問題がないことを確認したうえで、個別に事情聴取を受けることになる。
なお、遺構の外周で確保されていた警備員たちは、すでに別の区画で保護されていた。
彼らの中には、念による呪いを受けていた者もいる。
以前、俺が除念した者については、その後の状態を確認する必要があるだろう。
残る者たちにも、呪いが残っていないか調べなければならない。
だが、今はまず救出者の命を守ることが最優先だった。
俺は、医療テントの外でようやく一息ついた。
すると、見覚えのある二人が駆け寄ってきた。
「アオ!」
ダリオとエマだった。
二人とも以前より顔色が良くなっている。
だが、その表情には不安が滲んでいた。
「……四人は?」
ダリオが尋ねた。
俺は頷いた。
「全員、生きています」
その瞬間、二人の表情が変わった。
「……本当に?」
「はい。まだ治療は必要ですが、全員救出できました」
エマが口元を押さえた。
その目から、涙がこぼれ落ちる。
ダリオは、何度も頷いた。
「……そうか……」
彼は、震える声で呟いた。
「……よかった」
俺は、二人を医療テントへ案内した。
そこには、眠ったままの仲間たちがいた。
ダリオは一人ずつ顔を確認していった。
マルク。
そして、残る三人。
最後の一人を見たところで、彼は膝をついた。
両手で顔を覆い、長い間動かなかった。
エマも、仲間の手を握ったまま涙を流していた。
俺は、少し離れた場所からその様子を見守った。
声をかける必要はないだろう。
今は、彼らだけの時間だ。
◇
夕方。
ミレーヌは、前進拠点の通信室からハンター協会へ正式な報告を送っていた。
俺も呼ばれ、地下で起きた出来事について証言した。
古代遺構の構造。
中央統括機構との接触。
ユリウスによる施設の不正利用。
エドガーが関与していた人体実験。
被験者の救出。
そして、遺構の封鎖。
話しているうちに、改めて途方もない事件だったのだと実感した。
「……以上が、俺の確認した内容です」
俺が説明を終えると、ミレーヌは資料を整理した。
「ありがとう。これで報告書の主要部分は揃ったわ」
「……まだ何か必要ですか?」
「ええ。でも、残りは専門家の仕事ね」
彼女は、机の上に置かれた記録媒体へ目を向けた。
中央統括機構から提供されたものだ。
施設が封鎖された後も、外部の緊急通信回線だけは維持されているらしい。
ただし、通常の出入口はすべて閉ざされ、地下への再侵入はできない。
「今回の発見については、協会として大規模な調査を行うことになるでしょうね」
「……そうでしょうね」
「遺跡ハンターだけでは足りないわ。古文書の専門家、医療の専門家、犯罪捜査の専門家。それに、法的な処理を担当できる人間も必要になる」
俺は頷いた。
それぞれの分野で、優秀な人材が必要になるだろう。
ミレーヌは、少し考えるように言った。
「会長にも直接報告するつもりよ」
「ネテロ会長に?」
「ええ。これほどの事件なら、協会の上層部が動かないわけにはいかないもの」
俺は、少しだけ笑った。
ネテロ会長なら、どう反応するだろう。
未知の古代遺構。
現代の技術を超えた装置。
そして、まだ誰も知らない歴史。
きっと、興味を示すに違いない。
◇
翌朝。
俺は、ミレーヌに呼び出された。
指揮用テントへ入ると、彼女は小さな金属製の容器を机の上に置いていた。
「アオ。これを覚えている?」
俺は、容器を見つめた。
「……深紅の星髄石ですか?」
「ええ」
ミレーヌは頷いた。
「中央統括機構から、追加の記録が届いたの」
彼女は資料を広げた。
そこには、遺構内部の整備区画で見つけた三個の結晶について記されていた。
鶏卵ほどの大きさ。
深紅の内部に走る金色の筋。
そして、極めて安定したオーラ伝導能力。
俺は、地下で見た光景を思い出した。
あの結晶には、普通の鉱物とは異なる何かがあった。
「……何か分かったんですか?」
「少しだけね」
ミレーヌは資料を指差した。
「この石は、施設の建造時に持ち込まれた特殊な素材らしいわ。長期間にわたってオーラを蓄積し、安定した状態で保持できる性質があるみたい」
「……なるほど」
「ただし、詳しい原理は不明。現代の念能力研究では、まだ説明できない部分が多いわ」
俺は、思わず身を乗り出した。
「……それで、その石は?」
ミレーヌは微笑んだ。
「あなたに一個、譲渡されることになったの」
「……え?」
思わず、聞き返してしまった。
「俺に?」
「ええ」
彼女は、記録媒体を操作した。
空中に青白い文字が浮かび上がる。
『観測対象一』
『生命保護行動を確認』
『不正管理権限の排除を確認』
『施設基本目的への適合を確認』
『未使用予備資材の譲渡を承認』
俺は、しばらくその表示を見つめていた。
「……随分と大袈裟ですね」
ミレーヌが笑った。
「あなたがしたことを考えれば、そうでもないわ」
彼女は、少し真剣な表情になった。
「もちろん、無条件というわけではないわ。発見場所や形状、性質については正式な記録を残す必要がある。それに、残りの二個は調査資料として保管する」
「……分かりました」
「あなたが受け取る一個についても、危険性が判明した場合には協会へ報告してほしいの」
俺は頷いた。
「それは当然です」
ミレーヌは、金属製の容器を俺の前へ押し出した。
「受け取って」
俺は、慎重に蓋を開いた。
中には、深紅の結晶が収められていた。
内部を走る金色の筋が、淡い光を反射している。
凝を使うと、結晶の中に極めて安定したオーラの流れが見えた。
まるで、小さな心臓が静かに鼓動しているようだった。
「……すごいな」
俺は、思わず呟いた。
ミレーヌは、少しだけ笑った。
「あなたへの正式な報酬よ」
「……ありがとうございます」
俺は、深く頭を下げた。
そして、容器を閉じた。
施設が封鎖されている以上、どうやってこの石を取り出したのか気になったが、ミレーヌが説明してくれた。
中央統括機構には、緊急時に外部へ物資を受け渡すための小規模な搬送経路が残されていたらしい。
施設内部の危険区域を開放することなく、保管庫から外部の受け渡し口へ物資を移送できる仕組みだという。
昨夜、その経路を使って三個のうち一個だけが搬出された。
残りの二個は、引き続き遺構内部に保管されている。
俺は、容器をアイテムボックスへ収納した。
ふと、頭の片隅に『愚か者の宝物庫』のことが浮かんだ。
もし、この石を供物にしたら。
どれほどの価値があるのだろう。
だが、その考えはすぐに打ち消した。
まだ、あの石について何も分かっていない。
供物にした品物は永久に失われる。
焦って使う必要はない。
今は、調べることが先だ。
◇
その日の午後。
前進拠点の通信室へ、ハンター協会から連絡が入った。
ミレーヌに呼ばれ、俺とリリアも同席する。
通信機の向こうから、聞き覚えのある声が響いた。
『ほっほっほ。久しぶりじゃのう、アオ』
俺は、思わず口元を緩めた。
「……ネテロ会長」
『元気そうで何よりじゃ』
アイザック=ネテロ。
ハンター協会会長。
そして、俺がこれまで出会った中でも、間違いなく最強格の念能力者。
その声を聞くだけで、妙に安心してしまう。
「お久しぶりです」
『それにしても、随分と派手なことをしたようじゃな』
「……必要だったんですよ」
『分かっておる、分かっておる』
ネテロは愉快そうに笑った。
『二十五人の被験者と四人の調査員を救出し、研究者たちを拘束した。しかも、未知の古代遺構を発見したとなれば、十分すぎる成果じゃ』
俺は、少しだけ肩をすくめた。
「皆で協力した結果です」
『ほう。よい仲間に恵まれたようじゃな』
「……はい」
俺は、素直に頷いた。
リリアが隣で小さく笑った。
しばらくして、ネテロの声が少しだけ真剣なものに変わった。
『さて、本題じゃ』
テントの空気が引き締まる。
『今回の件について、協会として正式な調査団を派遣することにした』
ミレーヌが頷いた。
「予想はしていました」
『うむ。遺構の調査と犯罪捜査、それに救出者の治療を同時に進めねばならん』
俺は、静かに聞いていた。
『まず、クライムハンターのミザイストム=ナナを向かわせる』
俺は、内心で少し驚いた。
(……ミザイストム)
原作で知っている名前だ。
未来のハンター協会で重要な立場を担う人物。
だが、今は一九八九年。
彼がどのような経歴を積んでいるのかは分からない。
『さらに、古文書の調査にはピヨンを呼んでおる』
(……ピヨンまで)
俺は、驚きを顔に出さないようにした。
ネテロは続けた。
『医療面ではチードル=ヨークシャーとゲルに協力を要請した』
俺は、思わず背筋を伸ばした。
チードル。
ゲル。
どちらも、原作で知っている人物だ。
特にチードルは、医療の分野で優れた能力を持つハンターとして知られている。
彼女が来てくれるなら、被験者たちの治療にも大きな希望が生まれるだろう。
『それから、警備体制と事件の法的な処理については、ボトバイ=ギガンテにも協力してもらう』
俺は、思わず息を止めた。
(……ボトバイまで来るのか)
名前だけでも、相当な顔ぶれだ。
ネテロは、こちらの反応を楽しむように笑った。
『どうじゃ。頼もしいじゃろう?』
「……ええ。かなり」
俺は、素直に答えた。
『ほっほっほ』
ネテロは満足そうに笑った。
そして、少しだけ声を落とした。
『もう一人、興味を持ちそうな男がおる』
俺は、眉を上げた。
「……誰ですか?」
『ジン=フリークスじゃ』
その名前を聞いた瞬間、俺は思わず目を見開いた。
(……ジン!?)
ジン=フリークス。
原作主人公ゴンの父親。
そして、世界でも屈指の才能を持つハンター。
もっとも、今はまだ若いはずだ。
原作の未来で見せるような実績を、すべて積み上げているわけではない。
だが、それでも。
あのジンが、今回の遺構に興味を持つかもしれない。
そう考えるだけで、胸の奥が少し騒いだ。
「……ジンさんも来るんですか?」
『まだ分からん』
ネテロは、あっさりと答えた。
『あやつは、わしが呼んだからといって素直に来る男ではないからのう』
俺は、思わず笑ってしまった。
確かに、そうだろう。
『ただ、未知の古代遺構と聞けば、放っておくとも思えん』
「……なるほど」
『興味を持てば、自分から現れるかもしれんのう』
ネテロは、楽しそうに笑った。
そして、最後に少しだけ声を柔らかくした。
『アオ。お主らは、まず休め』
「……はい」
『後始末は、わしら大人の仕事じゃ』
俺は、少しだけ笑った。
「……会長にそう言われると、妙な感じですね」
『何じゃと?』
「いえ、何でもありません」
通信機の向こうで、ネテロが大きく笑った。
その声を聞いて、ミレーヌも表情を和らげた。
やがて、通信が終了した。
俺は、椅子へ深く腰を下ろした。
どうやら、今回の発見は本当に大きな問題になりそうだった。
◇
夕方。
俺は、前進拠点の外れにある岩場へ腰を下ろしていた。
霧哭きの渓谷は、夕陽を受けて淡い橙色に染まっている。
遠くの山並みには、まだ雪が残っていた。
風が吹くたび、草の葉が擦れ合う音がする。
俺は、しばらくその景色を眺めていた。
ようやく、静かな時間が訪れた。
地下では、常に何かに追われているような感覚があった。
罠。
研究者。
未知の機械。
そして、救出を待つ人々。
気を抜けば、誰かが死ぬかもしれない。
そんな緊張が、ずっと続いていた。
今は違う。
少なくとも、目の前に差し迫った危険はない。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ここにいたんだ」
背後から声がした。
振り返ると、リリアが立っていた。
片手には、二つの金属製のカップを持っている。
「探したよ」
「悪い。ちょっと外の空気を吸いたくて」
「うん。分かるよ」
彼女は隣へ腰を下ろした。
そして、カップを一つ差し出してくる。
中には、温かい飲み物が入っていた。
薄い茶色の液体から、甘い香りが立ち上っている。
「……何これ?」
「拠点の人が作ってくれた。蜂蜜入りのお茶だって」
「へえ」
俺は一口飲んだ。
温かい。
そして、思っていた以上に甘い。
疲れた身体に、じんわりと染み込んでいくようだった。
「……美味いな」
「でしょ?」
リリアは、少し得意そうに笑った。
俺たちは、しばらく黙ってお茶を飲んでいた。
夕陽が、ゆっくりと山の向こうへ沈んでいく。
谷を覆う霧は、昼間よりも薄くなっていた。
「……終わったね」
リリアが呟いた。
俺は、カップを両手で包み込んだ。
「……ああ」
今度は、素直に頷けた。
まだ後処理は残っている。
被験者たちの治療も、研究者たちの捜査も、遺構の調査も。
だが、俺たちが地下へ入った目的は果たした。
行方不明者を見つけ、閉じ込められていた人々を救い、研究者たちの暴走を止めた。
少なくとも、探索そのものは終わったのだ。
「……長かったな」
「うん」
リリアは、膝を抱えた。
「でも、みんな帰ってこられた」
「そうだな」
俺は、彼女を見た。
夕陽に照らされた栗色の髪が、柔らかく光っている。
琥珀色の瞳は、遠くの山並みを見つめていた。
「……リリア」
「ん?」
「ありがとう」
彼女が、こちらを向いた。
「何が?」
「いろいろだよ」
俺は、少しだけ笑った。
「お前がいなかったら、ここまでうまくいかなかった」
リリアは、一瞬だけ目を丸くした。
そして、頬を少し赤くした。
「……急に何言ってるの」
「本当のことだ」
「……もう」
彼女は、カップへ視線を落とした。
だが、その口元には笑みが浮かんでいた。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、隣に座って夕陽を眺めていた。
こういう時間が、もっとあってもいい。
そんなことを、ふと思った。
◇
その夜。
前進拠点の記録解析室では、ミレーヌが一人、古代の記録媒体を調べていた。
中央統括機構から送られてきた資料は膨大だった。
その多くは、現代の文字体系では解読できない。
だが、一部には対訳記録が残されている。
ミレーヌは、その断片を繋ぎ合わせていた。
避難。
生存者。
帰還。
そして、故郷。
その言葉が、何度も現れる。
ミレーヌは、眉を寄せた。
「……故郷?」
彼女は、別の資料を開いた。
そこには、古い地図が描かれていた。
見慣れない大陸。
未知の海岸線。
そして、巨大な湖。
ミレーヌは、しばらくその地図を見つめていた。
何かが、引っかかる。
以前、調査員のマルクが話していた地図。
あの遺構で見つかったもの。
それと、よく似ている。
彼女は、通信端末を操作した。
ハンター協会の資料庫へ接続し、古い地理情報を検索する。
いくつもの地図が表示された。
だが、どれも一致しない。
ミレーヌは、さらに検索範囲を広げた。
既知の大陸。
周辺海域。
そして、一般にはほとんど公開されていない、特殊な地理資料。
その中に、一枚の古い地図があった。
ミレーヌは、画面を見つめた。
ゆっくりと、古代の地図を重ねる。
山脈。
海岸線。
巨大な湖。
それらが、少しずつ一致していく。
彼女の表情が変わった。
「……まさか」
ミレーヌは、椅子から立ち上がった。
そして、通信機へ手を伸ばした。
◇
俺とリリアが呼び出されたのは、それから少し後のことだった。
記録解析室へ入ると、ミレーヌは真剣な表情で机の前に立っていた。
「二人とも、来て」
俺たちは、彼女の隣へ移動した。
机の上には、二枚の地図が並んでいる。
一枚は、古代遺構から送られてきたもの。
もう一枚は、ハンター協会の資料庫に保管されていたものだった。
「……何か分かったんですか?」
俺が尋ねると、ミレーヌは頷いた。
「ええ。かなり重要なことが」
彼女は、二枚の地図を重ねた。
俺は、目を細めた。
地形が一致している。
完全ではない。
だが、山脈の位置や海岸線の形が、明らかに似ていた。
「……これ、どこの地図ですか?」
リリアが尋ねた。
ミレーヌは、しばらく答えなかった。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……暗黒大陸よ」
その言葉が、静かな部屋に響いた。
俺は、息を止めた。
暗黒大陸。
原作の知識を持つ俺にとって、その名前は特別な意味を持っていた。
人類が知る世界の外側に広がる、途方もない大地。
未知の生物。
危険な環境。
そして、人間の常識では測れない存在たち。
そんな場所の地図が、あの遺構に残されていた。
「……本当ですか?」
俺が尋ねると、ミレーヌは頷いた。
「まだ完全な確証はない。でも、地形の一致だけじゃないの」
彼女は、別の資料を開いた。
そこには、古代文字の翻訳結果が表示されていた。
「中央統括機構の対訳記録を使って、ようやく意味が分かった文章があるの」
ミレーヌは、ゆっくりと読み上げた。
『我々は、故郷を失った』
次の行。
『生き残った者たちは、海を越え、新たな土地へ辿り着いた』
そして。
『いつの日か、子孫たちが再び故郷を知ることを願い、この記録を残す』
俺は、言葉を失った。
ミレーヌは、さらに資料を確認した。
「……この遺構は、ただの研究施設ではなかったのよ」
彼女は、静かに続けた。
「遥か昔、暗黒大陸から逃げ延びた人々が造った避難施設だった可能性が高い」
俺は、拳を握った。
胸の奥が、熱くなる。
地下で見たものが、次々と頭に浮かんだ。
あの古い壁。
読めない文字。
生命を守ろうとする中央統括機構。
そして、最後に聞いた言葉。
『帰還を、確認しました』
あれは、単なる機械の応答ではなかったのかもしれない。
遥か昔、故郷を失った人々が残した願い。
その一部が、長い年月を経てもなお、あの場所で生き続けていたのだ。
リリアが、静かに呟いた。
「……そんな場所から、来た人たちがいたんだ」
俺は頷いた。
「ああ」
そして、ふと思い出した。
アイテムボックスに収めた、深紅の星髄石。
あの結晶も、遺構の建造時に持ち込まれたものだ。
つまり。
俺は、ミレーヌへ視線を向けた。
「……あの石も?」
ミレーヌは、ゆっくりと頷いた。
「ええ。記録が正しければ、深紅の星髄石も暗黒大陸から持ち込まれたものよ」
俺は、言葉を失った。
暗黒大陸。
その名を知る俺にとって、あの場所は決して軽い好奇心だけで踏み込める土地ではない。
人間の常識が通用しない世界。
原作で語られていた、数々の災厄。
そして、未知の存在たち。
そんな場所から、遥か昔に人々が逃げ延びてきた。
しかも、その痕跡が、今の世界の地下に残されていた。
(……とんでもないものを見つけたな)
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
今回の探索は、これで終わりだ。
だが、あの遺構が残した謎は、まだ始まったばかりだった。
暗黒大陸から逃げ延びた人々。
彼らが故郷を捨てなければならなかった理由。
封印された技術。
そして、深紅の星髄石。
そのすべてが、これからハンター協会の専門家たちによって調べられていくことになる。
俺は、窓の外へ目を向けた。
霧哭きの渓谷には、夜の闇が広がっていた。
だが、遠くの空には、無数の星が輝いている。
長い地下探索は終わった。
そして、俺たちの前には、想像もしなかったほど広大な世界が広がり始めていた。
俺は、静かに呟いた。
「……暗黒大陸、か」
その名前が、これから俺の人生にどんな影響を与えるのか。
今は、まだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
俺たちは、世界のほんの一部しか知らない。
そして、その先には、まだ数えきれないほどの未知が眠っている。
俺は、ゆっくりと息を吸った。
胸の奥に、久しく感じていなかった高揚が生まれていた。
恐怖ではない。
不安でもない。
未知の世界へ踏み出す前に感じる、あの感覚。
俺は、口元を緩めた。
霧哭きの渓谷での探索は、確かに終わった。
だが、俺たちの物語は、まだまだ続いていく。