流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷。
◇
朝靄の向こうから、低いエンジン音が聞こえてきた。
最初は、遠くの山道を走る車の音だと思った。
だが、やがてその音は複数に増え、谷間に反響しながら近づいてくる。湿った岩肌を伝う振動が、足元の小石を微かに揺らした。
俺は手にしていた金属製のカップを置き、宿泊用テントの外へ出た。
空はまだ薄青い。
夜明けから一時間ほどしか経っていないのだろう。谷を覆う霧は深く、対岸の岩壁さえ輪郭が曖昧だった。
そんな中、拠点へ続く山道から大型車両が姿を現した。
一台、二台、三台。
先頭は装甲を施した四輪駆動車。後ろには医療設備を積んだ大型輸送車が続き、最後尾には通信機器らしい装置を載せた車両が走っている。
車体の側面には、見慣れた紋章が描かれていた。
ハンター協会。
「……本当に来たな」
昨日、ネテロ会長から連絡があったばかりだ。
専門家を派遣するとは聞いていたが、まさかこれほど早く到着するとは思わなかった。
もっとも、地下遺構から救出した人々の状態を考えれば、一刻も早い対応が必要なのは確かだった。
「アオ?」
背後から声がした。
振り返ると、リリアがテントから顔を覗かせていた。
まだ眠そうな目をしている。栗色の髪も少し跳ねていた。
「起こしたか?」
「ううん。車の音で目が覚めた」
彼女は外套を羽織りながら、山道へ視線を向けた。
「協会の人たち?」
「ああ。昨日言ってた調査団だろう」
リリアは車列を眺め、少しだけ目を丸くした。
「ずいぶん大勢だね」
「それだけ大きな事件ってことだ」
俺は、朝霧の向こうに並ぶ車両を見つめた。
地下遺構の探索は終わった。
だが、事件そのものは終わっていない。
二十五人の被験者。
六人の調査員。
ユリウスとエドガー。
三人の念能力者の警備員。
そして、呪いによって行動を制限されていた外部警備員たち。
さらに、暗黒大陸から逃れてきた人々が築いたという古代遺構。
考えるべきことは山ほどある。
俺たちだけで扱える問題ではなかった。
「行ってみようか」
俺が言うと、リリアは頷いた。
「うん」
俺たちは並んで、拠点の中央へ向かった。
◇
車両が停止すると、周囲はたちまち慌ただしくなった。
医療班が機材を降ろし、通信担当者が発電設備の確認を始める。
護衛の念能力者たちは周囲へ散開し、拠点の警備担当者と連絡を取り合っていた。
その中心に、一人の男性が立っていた。
きちんと整えられた黒髪。
落ち着いた色合いの服装に、端正で生真面目そうな顔立ち。
その眼差しには、物事を冷静に見極めようとする鋭さがあった。
彼は手元の資料を確認しながら、次々と指示を出していた。
「拘束者の移送は、医療班の確認が済んでからにしてください。念能力者については能力の詳細が不明なため、監視を二重に」
「了解しました!」
「救出者の診療記録は原本を保全し、医療班には写しを渡してください。証拠と治療情報を混同しないように」
無駄のない指示だった。
俺は、その姿を見て一人の人物を思い浮かべた。
(……ミザイストム=ナナ)
原作で知っている人物だ。
もっとも、今は一九八九年。
俺が知る未来の彼とは、立場も経験も異なるはずだ。
少なくとも、今の彼を未来の肩書きで呼ぶつもりはない。
その男性が、こちらに気づいた。
「君がアオか?」
「はい」
彼は資料を閉じ、歩み寄ってきた。
「ミザイストム=ナナだ。クライムハンターとして、今回の事件の捜査に参加する」
差し出された手を握る。
力強い握手だった。
「アオです。よろしくお願いします」
「ああ。君の報告書は読ませてもらった」
ミザイストムは俺を見つめた。
その視線は鋭いが、不快なものではない。
「十五歳とは思えない働きだな」
「……仲間に助けられましたから」
「その点も報告に記されている」
彼は頷いた。
「救出活動については、改めて詳しく話を聞かせてもらいたい」
「分かりました」
隣にいたリリアも挨拶する。
ミザイストムは彼女にも丁寧に応じた。
そのときだった。
「ちょっとちょっと! その子たちが例の探索者?」
明るい声が割り込んできた。
振り返ると、桃色を基調とした衣服を身につけた女性が、資料の束を抱えて歩いてきた。
うさぎの耳を思わせる飾りが、頭の上で揺れている。
彼女は俺とリリアを見比べ、目を輝かせた。
「へえ! 本当に若いんだ!」
「ピヨン」
ミザイストムが少しだけ眉を寄せた。
「まず挨拶を」
「分かってるってば」
女性は笑顔で手を振った。
「私はピヨン。古文書や古い文字を研究してるハンターだよ。よろしく!」
「アオです」
「リリアです。よろしくお願いします」
「うんうん!」
ピヨンは満足そうに頷いた。
「それでね、早速なんだけど!」
彼女は資料を一枚取り出した。
そこには、地下遺構の壁に刻まれていた文字が写されていた。
「この文字、どこで見つけたの?」
「……中央区画へ向かう途中の壁です」
「へえ! その壁って、ほかの場所と材質が違った?」
俺は、少し考えた。
「……確かに、周囲より古そうでした」
「やっぱり!」
ピヨンは嬉しそうに資料へ何かを書き込んだ。
ミザイストムが小さく咳払いする。
「ピヨン。詳しい聞き取りは、後で時間を取る」
「えー、今ちょっとだけ!」
「後でだ」
「……はーい」
彼女は不満そうに頬を膨らませた。
俺は、そのやり取りを見て思わず笑いそうになった。
どうやら、これから賑やかになりそうだ。
◇
続いて車両から降りてきたのは、白衣を羽織った二人の女性だった。
一人は眼鏡をかけ、知的で落ち着いた雰囲気をまとっている。
もう一人は、鋭い目つきと独特の気配を持つ女性だった。
どちらも、医療関係者らしい。
俺は、すぐに二人の名前を思い浮かべた。
(……チードルとゲル)
原作で知っている人物たちだ。
チードル=ヨークシャー。
そして、ゲル。
未来のハンター協会で重要な立場を担う二人。
だが、今はまだ若い。
そのため、俺の知識だけで現在の実力や立場を決めつけるわけにはいかない。
チードルがミレーヌへ歩み寄った。
「あなたが今回の探索を指揮されたミレーヌさんですね?」
「ええ。よろしくお願いします」
「チードル=ヨークシャーです。医療班の調整を担当します」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「救出者の状態について、事前に送られた資料は確認しました。ただ、実際に診察しなければ判断できないことも多いと思います」
「その通りね」
ミレーヌは頷いた。
「特に四番と十三番、それから零号については慎重に扱ってほしいわ」
「分かりました」
チードルはすぐに医療テントへ向かおうとした。
その隣で、ゲルが資料へ目を落とす。
「人工的なオーラ経路……ね」
彼女の声は低く、落ち着いていた。
「普通の人体実験ではないようね」
「ええ」
ミレーヌが答える。
「念能力を利用して、身体の構造そのものを改変している可能性があるわ」
ゲルは、少しだけ目を細めた。
「厄介なことをしてくれたものね」
その言葉には、明確な不快感が滲んでいた。
俺は、少し安心した。
少なくとも、彼女たちは被験者を研究材料として見るつもりはなさそうだ。
チードルが俺へ視線を向けた。
「あなたがアオさんですね?」
「はい」
「報告書に、特殊な回復能力を持っているとありました」
俺は頷いた。
「ええ。怪我や病気、それに念による呪いも治せます」
チードルの表情が変わった。
「……呪いも?」
「はい。ただし、一日に三回までです」
彼女は、少し考え込んだ。
「興味深い能力ですね」
そして、すぐに付け加えた。
「ですが、まずは私たちで患者の状態を確認します。あなたの能力を使う必要がある場合も、十分に相談したうえで判断しましょう」
俺は頷いた。
「お願いします」
その対応は、ありがたかった。
俺の能力は強力だ。
だが、万能ではない。
何を治すべきか。
どの患者を優先するべきか。
その判断には、専門的な知識が必要になる。
チードルとゲルなら、俺には分からないことも見抜いてくれるだろう。
◇
さらに、最後尾の車両から大柄な男性が降りてきた。
堂々とした体格。
厳格な表情。
周囲を見渡す視線には、長年の経験を感じさせる落ち着きがあった。
その姿を見た瞬間、俺は内心で驚いた。
(……ボトバイ=ギガンテ)
原作で知っている人物だ。
彼もまた、未来のハンター協会で重要な役割を担うことになる。
だが、今はまだその未来を知らない。
目の前にいるのは、現在のボトバイだ。
彼はミザイストムのところへ歩み寄った。
「状況は?」
「拘束者五名の身柄は確保されています。外部警備員については、別途保護と調査を進めています」
「よし」
ボトバイは短く頷いた。
「被験者の安全を最優先にしろ。証拠の保全も必要だが、治療を妨げるようなことはするな」
「承知しています」
「それから、拘束者については個別に責任を確認する。全員を一括りにするな」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ目を見開いた。
どうやら、事件の処理については慎重に進めるつもりらしい。
ボトバイは、こちらへ視線を向けた。
「君がアオか」
「はい」
「今回の救出活動については報告を受けている」
彼は、俺をじっと見つめた。
「大勢の命を救ったことは評価に値する」
「……ありがとうございます」
「だが、事件はまだ終わっていない」
俺は頷いた。
「分かっています」
ボトバイは、少しだけ表情を和らげた。
「ならばいい。今後も協力を頼む」
「はい」
短いやり取りだった。
だが、不思議と信頼できる人物だと感じた。
少なくとも、目の前の問題から逃げるような人間ではなさそうだ。
◇
調査団の到着から数時間後。
前進拠点では、正式な会議が開かれた。
出席者は、ミザイストム、ボトバイ、チードル、ゲル、ピヨン、ミレーヌ。
そして、俺とリリア。
レオンとガルドも、必要な証言を求められるため同席していた。
机の上には、地下遺構の構造図と救出者の名簿が広げられている。
ミザイストムが、会議の進行を始めた。
「まず、救出者の状態について確認したい」
チードルが資料を取り出した。
「被験者二十五名のうち、多くは生命維持補助装置によって状態を保っています。ただし、長期間の実験による身体機能の低下が見られます」
彼女は、患者ごとの記録を確認した。
「四番の男性には、神経系への負担が残っています。十三番の女性については、人工的なオーラ経路の影響が強く、装置を急に外すことはできません」
俺は、黙って聞いていた。
チードルは続けた。
「零号については、身体の構造そのものが通常の人間と大きく異なっています。現時点で覚醒の兆候はありませんが、生命活動は安定しています」
ゲルが資料を一枚持ち上げた。
「薬物の残留についても調べているわ。通常の医薬品では説明できない成分がいくつか見つかっている」
「……危険なものですか?」
俺が尋ねると、ゲルは頷いた。
「少なくとも、人体へ長期間投与していいものではないでしょうね」
その言葉に、俺は拳を握った。
ユリウスとエドガー。
あの二人が何をしてきたのか。
改めて、その重さを感じた。
チードルは、少しだけ声を柔らかくした。
「ですが、救出されたことで治療の選択肢は増えました。今後は一人ずつ状態を確認し、無理のない回復計画を立てます」
俺は頷いた。
「……お願いします」
チードルは、静かに頷き返した。
◇
医療報告が終わると、ミザイストムが資料を取り出した。
「次に、拘束者の処遇について確認する」
彼は机の上に五人の記録を並べた。
ユリウス。
エドガー。
そして、三人の念能力者の警備員。
「まず、ユリウスとエドガーについては、研究の指揮と実施に深く関与していたことが確認されている」
ミザイストムは淡々と続けた。
「被験者の監禁や違法な人体実験について、重大な責任を問われる可能性が高い」
誰も異論を挟まなかった。
俺たちは、地下で彼らが何をしていたのかを見ている。
ただし、エドガーが救出活動に協力したことも事実だ。
ミザイストムは、その点にも触れた。
「救出への協力は記録する。しかし、それによって過去の行為が消えるわけではない」
彼は資料をめくった。
「問題は、三人の警備員たちだ」
俺は顔を上げた。
三人の念能力者。
施設内で俺たちと戦い、捕らえられた傭兵たち。
彼らの扱いについては、俺も気になっていた。
「三人とも、研究施設の警備を請け負った傭兵だ。契約内容は、施設内への不法侵入者への対処、設備の防衛、研究員の護衛」
ミザイストムは資料を確認した。
「現時点では、研究の核心を知っていた証拠はない」
俺は、少しだけ肩の力を抜いた。
だが、彼はすぐに続けた。
「もっとも、知らなかったと言えば責任を免れるわけではない。三人は君たちと戦闘になっている。侵入者と判断した理由や、命令内容について確認する必要がある」
「……そうですね」
「ただし、施設の実態を知らずに雇われていたのであれば、研究者たちと同じ処遇にするのは適切ではない」
彼は、資料を一枚取り上げた。
「現在、三人には個別の事情聴取を行っている。意識が十分に回復していない者については、医師の許可が出るまで本格的な取り調べを控える」
俺は頷いた。
念能力者であることと、怪我人であることは別の問題だ。
拘束が必要でも、治療を受ける権利まで奪っていいわけではない。
「処遇については、いくつか選択肢がある」
ミザイストムは言った。
「重大な犯罪への関与が認められなければ、関係当局と協議したうえで、協会の監督下で社会奉仕に従事する方法も考えられる」
「社会奉仕、ですか?」
「ああ。危険地域の物資輸送、災害時の救助活動、公共施設の復旧支援などだ」
彼は少し考えてから付け加えた。
「三年程度を基本に、個々の責任に応じて期間を調整する案だ。ただし、これはまだ決定ではない」
俺は、その説明を聞きながら考えた。
彼らは確かに、俺たちへ攻撃してきた。
だが、研究の実態を知らず、ただ雇われた仕事を遂行していたのであれば、ユリウスたちと同じ重罪人として扱うのは違うだろう。
それでも、何の責任も負わなくていいとは思わない。
ミザイストムの案は、その両方を考慮したものだった。
「……俺は、それでいいと思います」
俺が言うと、彼は静かに頷いた。
「君の意見も記録しておこう。ただし、最終的には証拠に基づいて判断する」
「はい」
その言葉に、不思議と安心した。
俺の感情だけで、人の処遇が決まるわけではない。
それは、当然のことだった。
◇
次に議題となったのは、外部警備員たちだった。
地下へ同行した三人とは異なり、彼らは遺構の外周警備を担当していた人間たちだ。
そして、その一部には、念による呪いがかけられていた。
ミザイストムは、別の資料を取り出した。
「外部警備員については、事情がさらに複雑だ」
彼は資料を机へ置いた。
「一部の者に、念能力による強制の痕跡が確認されている。命令への服従を促す仕組みだった可能性があるが、詳しい発動条件はまだ分かっていない」
俺は、以前見た呪いの状態を思い出した。
人間の身体へ絡みつく、不自然なオーラ。
本人の意思とは関係なく、行動を縛ろうとする力。
あれを受けた人間が、自由に判断できたとは思えない。
「……呪いは、まだ残っているんですか?」
俺が尋ねると、ミザイストムは頷いた。
「君が以前に解除した対象については、再発の兆候は確認されていない。だが、ほかの者については、まだ完全な検査が終わっていない」
俺は、少し考えた。
「……必要なら、俺も協力できます」
「その申し出はありがたい」
ミザイストムは、真剣な表情で俺を見た。
「ただし、君の能力だけに頼るつもりはない。協会にも除念を専門とする人材がいる。まずは全員の状態を確認し、生命の危険がある者から優先的に処置する」
「分かりました」
ゲルが口を開いた。
「呪いによる身体への影響も調べる必要があるわね。除念した後も、症状が残る可能性はある」
チードルも頷いた。
「精神的な負担も無視できません。強制された経験が長ければ、治療には時間がかかるでしょう」
俺は、二人の言葉を聞きながら考えた。
呪いを解除すれば、すべてが元通りになるわけではない。
身体に残った傷。
恐怖。
そして、自分の意思を奪われた記憶。
それらは、簡単には消えないのだろう。
ミザイストムは、資料を閉じた。
「呪いを受けていたという事実だけで、彼らを犯罪者と判断してはならない」
俺は顔を上げた。
「……はい」
「もし、命令に逆らえば命を奪われるような状況だったなら、その行動には強制が働いている。自由意思で行った行為と、そうでない行為を区別する必要がある」
彼は続けた。
「強制された行為しか確認されなければ、処罰する理由はない。逆に、呪いとは無関係に違法行為へ加担していたなら、その部分について責任を調べる」
俺は、ゆっくりと頷いた。
それが正しいのだろう。
誰かに命令され、逆らえない状態に置かれていた人間まで、一律に罰するべきではない。
「……呪いをかけた人間については?」
俺が尋ねると、ミザイストムの表情が引き締まった。
「当然、調べる」
短い返答だった。
だが、その声には明確な意思があった。
「術者が誰なのか。誰の命令で呪いをかけたのか。そして、その呪いを使って何をさせたのか」
ボトバイが、低い声で言った。
「その件は、外部の協力者へ繋がる可能性もある」
俺は、二人を見た。
ミザイストムが頷く。
「研究施設の資金提供者や、被験者の調達に関わった者たち。そこまで調べなければ、この事件は終わらない」
俺は、静かに息を吸った。
呪いをかけた人物。
ユリウスの協力者。
施設の外部にいるかもしれない関係者。
まだ、見えていないものがある。
だが、それを追うのは、今度はミザイストムたちの仕事だ。
◇
会議の後半では、レオンとガルドについても話し合われた。
二人は現在、正式な証言を求められている。
レオンは施設の警備責任者として、警備体制や命令系統について説明できる立場にあった。
一方、ガルドは現場での警備や護衛を担当しており、研究の運営には関わっていなかったという。
ミザイストムは、二人の資料を並べた。
「レオンについては、警備責任者だった以上、三人の傭兵よりも詳しい確認が必要だ」
俺は頷いた。
「……そうですね」
「ただし、現時点で人体実験への直接的な関与を示す証拠はない。むしろ、実態を知った後は君たちに協力し、被験者の救出へ尽力している」
俺は、地下での出来事を思い出した。
レオンがいなければ、拘束者たちの監視は難しかっただろう。
彼の念能力も、何度も俺たちを助けてくれた。
「……レオンさんは、最後まで一緒に戦ってくれました」
「その証言は、すでに記録している」
ミザイストムは頷いた。
「ただし、救出に協力したからといって、過去の行為を調べなくていいわけではない。警備責任者として何を知っていたのか、何を見逃していたのか。それを確認する」
「分かっています」
「ガルドについては、現場での護衛業務が中心だったようだ。こちらも、現時点で重大犯罪への関与は確認されていない」
俺は、少し安心した。
ミザイストムは、資料をまとめた。
「二人とも、証言と記録に矛盾がなければ、刑事責任を問う必要はないと考えている」
俺は頷いた。
「……よかった」
「ただし、正式な判断は調査を終えてからだ」
ミザイストムは、少しだけ表情を和らげた。
「それに、二人とも優秀な人材らしい。今後、協会の仕事に協力してもらうことも考えられる」
「……レオンさんとガルドさんが?」
「ああ。もちろん、本人たちの意思次第だが」
俺は、少しだけ笑った。
確かに、二人なら協会の仕事でも十分に活躍できるだろう。
レオンの冷静な判断力。
ガルドの頑丈な身体と、仲間を守ろうとする姿勢。
どちらも、今回の探索で何度も助けられた。
だが、彼らがこれから何を選ぶのかは、本人たちが決めることだ。
俺は、そのことを忘れないようにしようと思った。
◇
午後。
俺とリリアは、拠点の一角に設けられた資料整理室を訪れていた。
ピヨンが、古代文字の解析を進めていると聞いたからだ。
部屋へ入ると、机の上には大量の紙が広がっていた。
古代文字の写し。
地図。
遺構の構造図。
そして、中央統括機構から提供された記録の翻訳結果。
その中心で、ピヨンが真剣な表情を浮かべていた。
「……あ、来た!」
俺たちに気づくと、彼女は顔を上げた。
「ちょうどいいところに来たね!」
「……何か分かったんですか?」
俺が尋ねると、ピヨンは大きく頷いた。
「うん! まだ少しだけだけど!」
彼女は、机の上の資料を一枚持ち上げた。
「まず、この遺構の文字ね。完全に未知の文字体系ってわけじゃなさそう」
「……どういうことですか?」
「古い言語が、いくつか混ざってるみたいなの」
ピヨンは、文字の一部を指差した。
「ここは、古い交易語に近い形。こっちは、もっと古い記号体系に似てる」
俺は、資料を覗き込んだ。
確かに、文字の形が統一されていない。
同じ文章の中に、異なる文化の記号が混ざっているように見える。
「……複数の民族が使っていた言葉、ということですか?」
「可能性はあるね」
ピヨンは頷いた。
「でも、それだけじゃないかも」
彼女は、別の資料を取り出した。
そこには、昨日見た古代の地図が描かれていた。
暗黒大陸。
その一部と考えられる、未知の地形。
ピヨンは、地図の端を指差した。
「この地図、すごく変なの」
「……変?」
「うん。普通、地図っていうのは、自分たちが知っている場所を描くものでしょ?」
俺は頷いた。
「でも、この地図には、明らかに違う種類の情報が重なってる」
彼女は、地図の一部を拡大した。
そこには、細い線がいくつも走っている。
「地形の記録と、移動経路の記録。それから、何かの危険区域を示す記号」
俺は、目を細めた。
確かに、単なる地理情報には見えない。
「……避難経路、ですか?」
俺が呟くと、ピヨンは目を輝かせた。
「そう! 私もその可能性を考えてた!」
彼女は、別の資料を広げた。
「昨日の翻訳で『避難』『生存者』『帰還』って言葉が出てきたでしょ?」
「はい」
「それと、この地図を組み合わせるとね……」
ピヨンは、少しだけ声を落とした。
「この遺構を造った人たちは、ただ逃げてきただけじゃないのかもしれない」
俺は、眉を寄せた。
「……どういうことですか?」
「分からない」
彼女は、あっさりと言った。
「でも、逃げた先で何かを残そうとしていたのは確かだと思う」
俺は、資料へ目を落とした。
暗黒大陸から逃げ延びた人々。
彼らが、何を恐れていたのか。
何を守ろうとしていたのか。
そして、なぜあれほど高度な施設を造ったのか。
まだ、答えは見つかっていない。
ピヨンは、俺たちを見比べた。
「ねえ。中央統括機構って、どんな感じだった?」
「……どんな感じ、ですか?」
「うん。機械っぽかった? それとも、人間みたいだった?」
俺は、少し考えた。
中央統括機構。
あの青白い光。
淡々とした声。
そして、最後に聞いた言葉。
『帰還を、確認しました』
俺は、ゆっくりと答えた。
「……基本的には機械でした」
ピヨンが頷く。
「でも、時々……人間みたいに感じることがありました」
「へえ」
彼女は、興味深そうに身を乗り出した。
「例えば?」
俺は、最後の言葉について説明した。
すると、ピヨンはしばらく黙り込んだ。
そして、机の上の記録へ目を向けた。
「……帰還、か」
彼女は、小さく呟いた。
「それ、かなり重要な言葉かもしれないね」
俺は、何も言わなかった。
だが、同じことを考えていた。
◇
夕方。
俺は、レオンとガルドのいるテントを訪れた。
二人は、簡易的な食事を取っているところだった。
「おう、アオ!」
ガルドが大きな声で迎えてくれた。
「ちょうどいい。飯でも食うか?」
「いや、さっき食べたばかりなので」
「そうか。残念だな」
ガルドは笑いながら、皿の上の肉を口へ運んだ。
レオンは、いつもの落ち着いた表情で俺を見た。
「何か用か?」
「……今日の調査について、少し」
俺が言うと、レオンは頷いた。
「ミザイストムから話は聞いている」
「……そうですか」
「我々の立場についても、正式に調べるそうだ」
俺は、少しだけ言葉を選んだ。
「……大丈夫だと思います」
レオンは、静かに笑った。
「そうだといいがな」
彼は、カップを机へ置いた。
「警備責任者だった以上、知らなかったでは済まない部分もあるだろう」
俺は、黙って聞いていた。
「施設の研究内容について、私はすべてを知っていたわけではない。だが、不審な点がなかったと言えば嘘になる」
レオンは、少しだけ目を伏せた。
「もっと早く調べるべきだったのかもしれん」
俺は、彼を見つめた。
責任を感じているのだろう。
だが、俺には彼を責める気にはなれなかった。
「……レオンさん」
「何だ?」
「俺は、あなたが最後まで一緒に戦ってくれたことを覚えています」
レオンは、こちらを見た。
「それだけは、忘れません」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、レオンは小さく笑った。
「……ありがとう」
俺は頷いた。
隣で、ガルドが豪快に笑った。
「まったく、二人とも真面目だな!」
俺たちは、思わず顔を向けた。
ガルドは、皿を置いて立ち上がった。
「俺は難しいことは分からん! だが、あの地下でやったことに後悔はねえ!」
大きな拳を握る。
「人を助けた。それで十分だ!」
俺は、少しだけ笑った。
「……ガルドさんらしいですね」
「おう!」
彼は、俺の肩を軽く叩いた。
「それに、お前さんとはまた一緒に仕事してみたいもんだ」
「……俺もです」
ガルドは満足そうに頷いた。
レオンも、穏やかな表情を浮かべていた。
その姿を見て、俺は少しだけ安心した。
この二人とは、きっとまたどこかで会うことになるだろう。
◇
夜。
俺は、宿泊用テントの中で一人、アイテムボックスから小さな金属製の容器を取り出していた。
中には、深紅の星髄石が収められている。
蓋を開くと、淡い赤色の光が暗い室内へ広がった。
俺は、しばらくその結晶を見つめた。
暗黒大陸から持ち込まれたという、未知の鉱物。
高度なオーラ伝導能力を持ち、長い年月を経ても性質を失わない。
もし、これを『愚か者の宝物庫』へ捧げたら。
どんな結果が出るのだろう。
そんな考えが、再び頭をよぎった。
だが、俺は首を横に振った。
今は、まだ早い。
この石の性質は、ほとんど分かっていない。
しかも、現存する三個のうち一個が俺の手元にある。
軽い気持ちで失うわけにはいかない。
俺は、容器の蓋を閉じた。
そして、再びアイテムボックスへ収納した。
そのとき、テントの外から声が聞こえた。
「アオ、起きてる?」
リリアだった。
「起きてるよ」
俺が答えると、彼女が入口から顔を覗かせた。
「ちょっと外、歩かない?」
「……今から?」
「うん。星が綺麗なんだ」
俺は、少しだけ笑った。
「分かった」
外套を羽織り、テントを出る。
夜の霧哭きの渓谷は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
遠くで虫が鳴き、風が草を揺らしている。
空には、無数の星が輝いていた。
俺とリリアは、並んで歩き始めた。
「……今日、いろんな人に会ったね」
リリアが呟いた。
「ああ」
「ミザイストムさんも、ピヨンさんも、チードルさんも、ゲルさんも、ボトバイさんも」
彼女は、少しだけ笑った。
「みんな、すごい人たちなんだね」
「……そうだな」
俺は頷いた。
それぞれの分野で、優れた能力を持つハンターたち。
今回の事件を任せるには、頼もしい人材だ。
「……ジンって人も来るのかな?」
リリアが尋ねた。
俺は、少し考えた。
「さあな。会長も分からないって言ってたし」
「どんな人なんだろうね」
「……変わった人だと思う」
俺が答えると、リリアは首を傾げた。
「会ったことあるの?」
「いや」
俺は、少しだけ笑った。
「何となく、そんな気がするだけだ」
リリアは、不思議そうな顔をした。
だが、それ以上は追及しなかった。
俺たちは、しばらく黙って歩いた。
谷の向こうには、暗い山並みが広がっている。
そのさらに向こうには、まだ知らない土地がある。
そして、世界の遥か外側には、暗黒大陸が存在している。
俺は、静かに息を吸った。
未知の世界への興味は、確かにある。
だが、今はそれ以上に大切なものがあった。
隣を歩く仲間。
帰る場所。
そして、これから生きていく時間。
俺は、リリアへ視線を向けた。
「……リリア」
「ん?」
「次の旅も、一緒に来るか?」
彼女は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、すぐに笑った。
「……もちろん」
その返事は、迷いのないものだった。
俺は頷いた。
「……そうか」
夜空には、無数の星が輝いていた。
霧哭きの渓谷での探索は終わった。
だが、そこで出会った人々との縁は、これからも続いていくだろう。
そして、古代遺構に残された謎も、ハンター協会の手によって少しずつ解き明かされていくはずだ。
俺たちは、まだ知らない。
この事件が、どれほど多くの人間の運命を変えることになるのか。
そして、暗黒大陸から持ち込まれた深紅の星髄石が、いつか俺自身の選択を試すことになるとも。
ただ、今夜だけは。
静かな星空の下で、次の旅を思い描いていたかった。