流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷。
◇
人間の身体は、思っているほど頑丈ではない。
骨が折れれば動けなくなる。血を失えば意識が遠のき、臓器が傷つけば命を落とす。病に侵されれば、どれほど強靱な肉体を持っていようと衰弱することがある。
念能力者であれば、そうした限界をある程度は超えられる。
纏によって肉体を守り、練によって身体能力を引き上げる。発の性質によっては、常識では考えられないほどの再生能力を発揮する者さえいる。
俺自身、例外ではない。
転生の際に与えられた回復能力は、普通なら助からないような怪我や病気を治し、念による呪いすら取り除くことができる。
だが、その力を持っているからこそ、忘れてはいけないことがある。
傷が治ることと、その人間が救われることは、必ずしも同じではない。
霧哭きの渓谷で迎えた、調査団到着の翌朝。
俺は、そのことを改めて思い知らされることになった。
◇
目が覚めたとき、テントの外では雨が降っていた。
布地を叩く細かな雨粒の音が、一定の間隔で耳に届く。
昨夜は星がよく見えていたというのに、山の天気は変わりやすい。
俺は寝袋から身体を起こし、軽く首を回した。
肩の奥に残っていた鈍い疲労は、ほとんど消えている。
地下遺構での連戦によって蓄積した筋肉の張りも、十分な睡眠を取ったことで随分と軽くなった。
もっとも、身体が回復したからといって、気持ちまで完全に切り替わるわけではない。
目を閉じれば、今でも地下で見た光景が浮かぶ。
透明な容器の中で眠る人々。
人体に接続された無数の管。
人間を番号で管理する研究者たち。
そして、あの巨大な零号の姿。
俺は小さく息を吐いた。
考えているだけでは、何も変わらない。
まずは今日できることをするべきだ。
外套を羽織り、テントの入口を開ける。
雨は弱かった。
霧と混ざり合うような細い雨が、谷全体を白く包んでいる。
拠点では、すでに多くの人間が働いていた。
医療班が薬品や機材を運び、警備担当者が交代の報告を行っている。通信設備の近くでは、技術者たちが発電機の調整を続けていた。
昨日到着したハンター協会の調査団によって、前進拠点の雰囲気は大きく変わっている。
以前は、危険な遺跡を調査するための仮設拠点だった。
今では、救護所であり、捜査本部であり、古代文明の調査施設でもある。
それぞれの仕事が同時に進んでいるため、朝から人の出入りが絶えない。
「アオ」
声のした方を見ると、リリアが歩いてきた。
フード付きの外套を羽織り、片手には紙袋を持っている。
「おはよう」
「おはよう。早いな」
「医療班の人に頼まれて、食料を運んでたの」
彼女は紙袋を軽く持ち上げた。
「これ、朝ご飯。まだ食べてないでしょ?」
「助かる」
受け取った袋の中には、温かいパンと干し肉、それに小さな果物が入っていた。
俺はパンを一つ取り出して齧った。
焼きたてではないが、柔らかい。
地下で軍用保存食に近いものばかり口にしていたせいか、こうした普通の食事が妙にありがたかった。
「今日はどうするの?」
リリアが尋ねる。
「チードルさんたちのところへ行こうと思ってる」
「医療テント?」
「ああ。俺の能力が必要になるかもしれないからな」
彼女は頷いた。
「じゃあ、私も行く」
「いいのか?」
「うん。手伝えることがあるかもしれないし」
俺たちは並んで歩き始めた。
足元の土は雨を吸って柔らかくなっていたが、主要な通路には板が敷かれている。
昨日のうちに、ガルドたちが作業してくれたらしい。
こうした小さな工夫が、救護活動を支えている。
医療テントへ近づくにつれ、消毒薬の匂いが強くなった。
その奥から、複数の人間が話す声が聞こえてくる。
俺は入口の前で足を止めた。
そして、布を持ち上げた。
◇
テントの中では、チードルが患者の記録を確認していた。
白衣の袖を肘まで捲り、眼鏡の奥の瞳を真剣に動かしている。
その隣にはゲルがいた。
彼女は透明な小瓶を光に透かし、中の液体を観察している。
「……こちらの試料も反応は同じね」
ゲルが呟いた。
「では、薬剤そのものが原因というより、念による処理が加えられている可能性がありますね」
チードルが答える。
「ええ。ただ、まだ断定はできないわ」
二人は、俺たちに気づくと顔を上げた。
「おはようございます、アオさん。リリアさん」
「おはようございます」
「おはよう」
俺たちが挨拶すると、チードルは手元の資料を閉じた。
「ちょうど、あなたに相談したいことがありました」
「俺に?」
「はい。回復能力についてです」
俺は頷いた。
やはり、その話になるだろうとは思っていた。
チードルは机の上に三枚の診療記録を並べた。
四番。
十三番。
零号。
いずれも、今回救出した被験者の中で特に状態が複雑な者たちだ。
「昨日から二十五人全員の検査を進めています」
チードルは説明を始めた。
「現時点では、二十一人について生命維持補助を段階的に減らせる見込みがあります。ただし、これは装置をすぐに外せるという意味ではありません」
「……なるほど」
「長期間の栄養不足や筋力低下があるため、通常の生活へ戻るには相応の時間が必要です。ですが、少なくとも身体が自力で機能を維持できる可能性は高い」
俺は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
二十一人。
二十五人のうち、二十一人が回復へ向かっている。
それは、決して小さな数字ではない。
「残る四人については?」
俺が尋ねると、チードルは資料へ目を落とした。
「四番、十三番、零号。それから、もう一人は検査結果を待っています。ただ、四番目の患者については昨日より状態が改善しています」
彼女は、四番の記録を指差した。
「まず、この男性です」
俺は資料を覗き込んだ。
四番。
地下で何度か痙攣発作を起こしていた男性だ。
「神経系への負担が大きく、通常の薬物治療だけでは安定しない可能性があります」
「念が関係しているんですか?」
「その可能性が高いですね」
チードルは頷いた。
「通常の神経活動に、外部から作られたオーラの流れが干渉しているようです」
俺は、地下で見た男性の姿を思い出した。
身体を強張らせ、苦しそうに呼吸していた。
あの状態を放置するわけにはいかない。
「……俺の能力で治せるかもしれません」
そう言うと、チードルは静かに頷いた。
「私も、その可能性を考えています」
だが、彼女はすぐに続けた。
「ただし、確認したいことがあります」
「何でしょう?」
「あなたの能力は、対象の身体をどのような状態へ戻すのですか?」
俺は、少し考えた。
「……基本的には、健康な状態へ戻す感覚です」
「健康な状態、ですか」
「はい。怪我なら傷が消えますし、病気なら原因ごと取り除けます。呪いも同じです」
チードルは、さらに尋ねた。
「では、身体の構造が人工的に変えられている場合は?」
俺は、答えに詰まった。
その問題は、俺自身も考えていた。
例えば、腕を切断された人間なら、元の腕を再生させることができる。
だが、人体に新しい器官が作られていた場合はどうなるのか。
それを異常と判断して取り除くのか。
それとも、現在の身体の一部として扱うのか。
能力の働き方は、俺の意識や認識によって変わる部分がある。
以前、腕の傷だけを意識して回復能力を使ったとき、ほかの細かな傷が残ったこともあった。
つまり、対象をどう捉えるかが重要なのだ。
「……正直、まだ分かりません」
俺は答えた。
チードルは、納得したように頷いた。
「分かりました。では、慎重に進めましょう」
彼女は四番の記録を手に取った。
「まずは、身体のどこに異常があるのかを確認します。そのうえで、あなたに回復してほしい範囲を具体的に伝えます」
「……はい」
「能力を使う前に、私たちも準備します。万が一、予想外の変化が起きた場合に対応できるように」
俺は、改めてチードルを見た。
彼女は、俺の能力を疑っているわけではない。
むしろ、最大限に活用しようとしている。
そのために、危険を減らす方法を考えているのだ。
俺には、こうした専門的な判断が足りない。
だからこそ、彼女の存在はありがたかった。
「……お願いします」
俺が言うと、チードルは穏やかに頷いた。
◇
四番の男性が運ばれてきたのは、それから三十分ほど後だった。
簡易寝台に横たわった男性は、痩せ細った身体を保温布で覆われていた。
頬はこけ、目の下には深い隈がある。
年齢は三十代半ばほどだろうか。
だが、実際にはもっと若いのかもしれない。
長期間の実験によって、身体が衰弱している。
俺は、寝台の脇へ立った。
チードルとゲルが反対側にいる。
リリアは少し離れた場所で、医療班の補助をしていた。
「まず、凝で状態を確認してください」
チードルが言った。
俺は頷き、目へオーラを集中させた。
視界が変わる。
男性の身体を流れるオーラが、鮮明に見えた。
正常な流れではない。
頭部から脊髄へ向かう経路の一部に、不自然な渦がある。
そこから細いオーラが枝分かれし、神経の働きに干渉しているようだった。
「……見えます」
俺は、状態を説明した。
「頭の奥から背骨にかけて、変な流れがあります。普通のオーラとは違う」
チードルが頷く。
「検査結果とも一致しています」
ゲルが、男性の腕に取り付けられた装置を確認した。
「薬物による補助は最小限にしてあるわ。今なら、余計な干渉は少ないはず」
俺は、男性の顔を見た。
目は閉じられている。
呼吸は浅いが、一定の間隔を保っていた。
チードルが、静かに言った。
「アオさん。お願いできますか?」
俺は頷いた。
「……やってみます」
寝台の脇へ膝をつく。
そして、男性の胸元へ手をかざした。
回復能力。
一日に三回まで使える、俺に与えられた力。
怪我も病も呪いも取り除く。
ただし、その働きは俺の認識に左右される。
だからこそ、今回は慎重に意識を定める。
身体全体。
神経系。
人工的に作られた異常なオーラ経路。
そして、本来の生命活動。
余計なものを取り除き、正常な状態へ戻す。
俺は、静かに息を吸った。
「……頼むぞ」
心の中で呟き、能力を発動した。
柔らかな光が、男性の身体を包み込む。
オーラがゆっくりと広がり、全身へ染み込んでいく。
俺は、凝を維持したまま変化を観察した。
頭部に絡みついていた不自然な流れが、少しずつ解けていく。
渦を巻いていたオーラがほどけ、本来の経路へ戻っていった。
男性の身体が、一度だけ大きく震えた。
「……っ!」
俺は、思わず息を止めた。
だが、チードルは落ち着いていた。
「大丈夫です。続けてください」
俺は、意識を集中させた。
光が、さらに強くなる。
そして。
不自然なオーラの渦が、完全に消えた。
男性の呼吸が、深くなる。
胸がゆっくりと上下し、強張っていた指先が緩んだ。
俺は、能力を止めた。
しばらく、誰も声を発しなかった。
チードルが男性の脈を確認する。
ゲルが装置の数値を読み取る。
そして、チードルが小さく息を吐いた。
「……成功したようです」
俺は、肩の力を抜いた。
「……よかった」
ゲルが、少し驚いたように俺を見た。
「本当に異常なオーラ経路が消えているわね」
俺は頷いた。
「……俺にも、そう見えます」
チードルは、男性の状態を確認しながら言った。
「神経活動も安定しています。少なくとも、先ほどまでの異常は確認できません」
俺は、寝台の上の男性を見つめた。
その顔には、先ほどまでの苦しそうな表情がなかった。
まだ意識は戻っていない。
だが、呼吸は穏やかだった。
それだけで、十分に意味がある。
「……ありがとう、アオさん」
チードルが言った。
俺は首を横に振った。
「皆さんが準備してくれたおかげです」
彼女は、少しだけ笑った。
「では、共同作業の成果ですね」
俺も笑った。
その言葉が、妙に嬉しかった。
◇
四番の治療が終わると、俺たちは一度休憩を取ることになった。
回復能力の使用回数は、残り二回。
まだ十三番と零号がいる。
だが、焦って使うわけにはいかない。
特に零号については、身体の構造が通常の人間と大きく異なっている。
何を正常と判断するべきなのか。
それすら、まだ分かっていないのだ。
俺は、医療テントの外で温かい飲み物を口にした。
雨は、いつの間にか止んでいた。
谷を覆う霧が少しずつ薄れ、遠くの岩壁が見え始めている。
「アオ」
隣へリリアがやってきた。
「お疲れさま」
「ああ」
彼女は、俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「何が?」
「疲れてない?」
俺は、少し考えた。
能力を使ったことで、多少の疲労はある。
だが、動けなくなるほどではない。
「……平気だよ」
そう答えると、リリアは少しだけ眉を寄せた。
「本当に?」
「本当だ」
俺は笑った。
彼女は、しばらく俺を見つめていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……ならいいけど」
俺は、カップを両手で包み込んだ。
温かさが、指先へ伝わってくる。
「……さっきの人、助かってよかったな」
俺が言うと、リリアは頷いた。
「うん」
彼女は、医療テントへ視線を向けた。
「でも、まだたくさんいるんだよね」
「ああ」
俺は、静かに答えた。
二十五人。
その一人ひとりに、人生がある。
家族がいるかもしれない。
帰りたい場所があるかもしれない。
あるいは、もう帰る場所を失っているのかもしれない。
俺たちは、彼らの名前すら知らない。
研究施設では、番号で管理されていたからだ。
四番。
十三番。
零号。
そんな呼び方を、いつまでも続けるべきではない。
「……名前、聞けるといいな」
俺が呟くと、リリアは頷いた。
「うん。みんな、自分の名前があるはずだもんね」
俺は、彼女を見た。
リリアは、まっすぐ医療テントを見つめていた。
その横顔を見て、俺は改めて思った。
救うということは、単に命を繋ぐことではない。
その人間が、自分自身の人生を取り戻せるようにすることなのだ。
◇
午後。
俺は、ミザイストムから呼び出しを受けた。
向かった先は、拠点の一角に設けられた捜査用テントだった。
入口には、二人の警備担当者が立っている。
中へ入ると、ミザイストムとボトバイが資料を確認していた。
机の上には、拘束者たちの記録が並んでいる。
「アオ。来てくれてありがとう」
ミザイストムが顔を上げた。
「いえ。何かありましたか?」
「ああ。少し確認したいことがある」
俺は椅子へ腰を下ろした。
ミザイストムは、一枚の資料を差し出した。
そこには、三人の念能力者の警備員についての記録が書かれていた。
「彼らの事情聴取が、少しずつ進んでいる」
「……そうですか」
「三人とも、研究施設の内部で何が行われていたのか、詳しくは知らなかったと証言している」
俺は、資料へ目を落とした。
雇用契約。
警備区域。
報酬。
そして、命令系統。
ミザイストムは続けた。
「ただし、三人の証言には細かな違いがある」
「……違い?」
「ああ。一人は、研究区域への立ち入りを厳しく禁じられていたと言っている。もう一人は、被験者らしき人間を見たことがあると証言した」
俺は、眉を寄せた。
「……それなら、何か知っていた可能性もありますね」
「そうだ」
ミザイストムは頷いた。
「だが、見たことがあるのと、人体実験の実態を理解していたのとでは、意味が違う」
俺は、静かに聞いていた。
「だからこそ、証言だけで判断するわけにはいかない。契約書、監視記録、命令書。それらを照合する必要がある」
ボトバイが、低い声で口を開いた。
「問題は、施設の外部にも関係者がいる可能性だ」
俺は、顔を上げた。
「……外部?」
「ああ」
ボトバイは資料を指差した。
「研究施設の運営には、多額の資金が必要だ。あれほどの設備を維持し、被験者を集め、念能力者を雇うには、相応の支援者がいるはずだ」
俺は、ユリウスの顔を思い出した。
あの男は、古代遺構の管理権限を手に入れようとしていた。
だが、そもそも彼が率いていた研究施設は、それ以前から存在していた。
つまり。
「……ユリウス以外にも、関係者がいる」
俺が呟くと、ボトバイは頷いた。
「その可能性が高い」
ミザイストムが、資料を閉じた。
「我々は、施設の資金の流れを調べている。被験者の調達経路も含めてな」
俺は、少しだけ息を吐いた。
今回の事件は、まだ終わっていない。
むしろ、これからが本当の捜査なのかもしれない。
「……俺にできることはありますか?」
そう尋ねると、ミザイストムは少し考えた。
「まずは、君が地下で見聞きしたことを、できるだけ正確に証言してほしい」
「分かりました」
「それから、もし新しい情報を思い出したら、すぐに知らせてくれ」
「はい」
ボトバイが、俺を見た。
「君は、すでに十分な働きをした」
俺は、少しだけ目を見開いた。
「……え?」
「これから先は、我々の仕事だ」
彼は、落ち着いた声で続けた。
「もちろん、協力は歓迎する。だが、すべてを背負う必要はない」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
その言葉は、思っていた以上に胸へ響いた。
◇
夕方。
医療テントでは、十三番の女性について新しい検査結果が出ていた。
俺は、チードルとゲルに呼ばれ、再び治療区画へ向かった。
十三番の女性は、静かに眠っていた。
胸元の補助装置は、規則正しく青白い光を放っている。
チードルが、資料を差し出した。
「アオさん。十三番について、少し分かったことがあります」
「……何でしょう?」
「彼女の身体に作られた人工的なオーラ経路は、生命維持装置と連動しています」
俺は、眉を寄せた。
「……つまり?」
「装置が身体を支えているだけではなく、身体の側も装置に適応してしまっているということです」
ゲルが説明を引き継いだ。
「簡単に言えば、人工的な経路を取り除くだけでは危険なのよ」
俺は、十三番の女性を見た。
「……身体が、その経路に依存している?」
「そういうことね」
ゲルは頷いた。
「長期間の実験で、本来のオーラ循環が弱くなっている可能性があるわ」
俺は、しばらく考えた。
四番の男性とは違う。
四番の場合、異常なオーラ経路が神経活動へ干渉していた。
それを取り除けば、身体は正常な状態へ戻ることができた。
だが、十三番は違う。
人工的な経路そのものが、現在の生命活動を支えている。
それを単純に消してしまえば、身体が耐えられないかもしれない。
「……俺の能力で、元の状態へ戻せる可能性はあります」
俺は言った。
「ただし、どこまで戻せるのかは分かりません」
チードルは頷いた。
「ええ。だから、今は使わない方がいいと考えています」
俺は、少しだけ驚いた。
「……使わない?」
「はい」
彼女は、真剣な表情で続けた。
「あなたの能力が強力であることは、四番の治療で確認できました。ですが、十三番については、もう少し身体の状態を調べる必要があります」
俺は、静かに聞いていた。
「回復能力を使えば治るかもしれません。ですが、万が一、人工的な経路だけが消えてしまった場合、生命活動が急激に低下する可能性があります」
俺は、十三番の女性を見つめた。
その顔は、穏やかだった。
だが、彼女の身体は、今も機械によって支えられている。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
チードルは、少しだけ表情を和らげた。
「焦らなくて大丈夫です」
俺は、彼女を見た。
「……はい」
「治療は、急ぐことが正しいとは限りません」
その言葉を聞いて、俺は静かに息を吐いた。
確かに、その通りだ。
俺は、これまで多くの危険を力で乗り越えてきた。
だが、すべての問題を力で解決できるわけではない。
時には、待つことも必要なのだ。
◇
その日の夜。
俺は、拠点の外れにある岩場へ腰を下ろしていた。
雨は完全に止み、空には薄い雲が流れている。
遠くの山並みは、月明かりに照らされていた。
俺は、静かに息を吐いた。
今日は、いろいろなことがあった。
四番の男性の治療。
十三番の検査。
ミザイストムたちの捜査。
そして、まだ見つかっていない事件の関係者たち。
俺の能力は、確かに強い。
だが、それだけでは足りない。
医療には、医療の知識が必要だ。
捜査には、証拠と法律が必要だ。
古代遺構の調査には、歴史や言語の知識が必要になる。
俺一人では、到底すべてを扱えない。
だが、今は違う。
チードルがいる。
ゲルがいる。
ミザイストムとボトバイがいる。
ピヨンも、古代文字の解析を進めている。
そして、リリアやミレーヌ、レオン、ガルドたちもいる。
それぞれが、自分にできることをしている。
俺は、夜空を見上げた。
雲の切れ間から、星が一つ見えた。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「……やっぱり、ここにいた」
リリアだった。
彼女は、俺の隣へ腰を下ろした。
「今日は、疲れた?」
「……少しな」
俺が答えると、彼女は小さく笑った。
「珍しいね。素直に言うなんて」
「俺だって疲れることくらいある」
「知ってる」
リリアは、少しだけ肩をすくめた。
俺たちは、しばらく黙っていた。
遠くで、夜鳥が鳴いた。
「……四番の人、よかったね」
リリアが呟いた。
「ああ」
「チードルさんも、すごい人だね」
「そうだな」
俺は、今日の治療を思い出した。
彼女がいなければ、俺は能力を使うことばかり考えていたかもしれない。
だが、チードルは違った。
まず、患者の状態を調べる。
危険を予測する。
そして、最も安全な方法を選ぶ。
それは、俺がこれまで十分に考えてこなかったことだった。
「……俺も、まだまだだな」
思わず呟くと、リリアがこちらを見た。
「何が?」
「いろいろだよ」
俺は、少しだけ笑った。
「強くなることばかり考えてたけど、それだけじゃ足りないって思った」
リリアは、しばらく考えていた。
そして、静かに言った。
「でも、アオは一人で全部できなくてもいいんじゃない?」
俺は、彼女を見た。
「……そうかな」
「うん」
リリアは、夜空へ視線を向けた。
「アオができることは、アオがやればいい。ほかの人ができることは、その人に頼ればいいと思う」
俺は、黙って聞いていた。
「私だって、アオみたいに戦えないし、怪我を治すこともできない。でも、道を探したり、危険を見つけたりすることなら手伝える」
彼女は、少しだけ笑った。
「それでいいんじゃないかな」
俺は、しばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていった。
俺は、もう一度夜空を見上げた。
雲の切れ間から、少しずつ星が増えていく。
その光を眺めながら、俺は思った。
この世界には、まだ知らないことが山ほどある。
だが、それを一人で抱え込む必要はない。
仲間がいる。
頼れる人間がいる。
そして、これから出会う人々もいるだろう。
俺は、隣に座るリリアへ視線を向けた。
「……ありがとう」
彼女は、少しだけ首を傾げた。
「また?」
「……何度言ってもいいだろ」
リリアは、くすりと笑った。
「うん。そうだね」
俺たちは、しばらく夜空を眺めていた。
その頃。
拠点の資料解析室では、ピヨンが一枚の古い地図を前に、考え込んでいた。
そこには、暗黒大陸から続くと考えられる、複数の移動経路が描かれていた。
そして、その一つには、ほかとは異なる印が付けられていた。
ピヨンは、指先でその印をなぞった。
「……これ、何だろう?」
小さな呟きが、静かな部屋に落ちた。
その印が何を意味するのか。
今は、まだ誰にも分からない。
だが、遥か昔に暗黒大陸から逃げ延びた人々が残した記録は、少しずつ新たな姿を見せ始めていた。
そして、その謎に興味を持つ一人の若いハンターが、遠く離れた土地で動き始めようとしていることを、俺たちはまだ知らなかった。