流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷。
◇
知らないことがある。
ただそれだけで、人間は随分と落ち着かなくなるものらしい。
それが自分の命に関わることであれば、なおさらだ。
ましてや、何百年、あるいは何千年という時間を経てなお稼働し続ける古代遺構が、俺を名指しで認識していたとなれば、気にするなという方が無理な話だった。
『観測対象一』
『帰還を、確認しました』
あの言葉を思い返すたびに、胸の奥へ小さな棘が刺さるような感覚がある。
俺はこの世界の人間ではない。
前世では、ごく普通の社会人だった。
三十二歳まで生き、漫画やアニメ、ゲームを楽しみ、特別な使命もなければ、世界の秘密を解き明かそうと考えたこともない。
それが、死を境にこの世界へ転生した。
幼い身体で流星街に放り出され、そこで生き延び、念を学び、人と出会い、今日まで歩いてきた。
その過程で手に入れたものは多い。
だが、自分がなぜこの世界へ送られたのかという根本的な疑問については、ほとんど何も分かっていない。
転生の際に出会った、あの得体の知れない存在。
そして、今回の古代遺構。
両者に関係があるという証拠はない。
それでも、無関係だと断言できる材料もなかった。
だからといって、今ここで答えが出るわけではない。
俺にできるのは、目の前の事実を一つずつ確かめることだけだ。
幸い、今回は俺一人ではなかった。
考古学に通じた若いハンター。
古代文字を読み解く専門家。
そして、未知の道を見つけ出すことに長けた少女。
それぞれが異なる視点を持っている。
俺が見落としていたものも、彼らなら見つけられるかもしれない。
問題があるとすれば――。
「おい、アオ! 早く来い!」
朝から人を呼びつけている、あの男の存在だろう。
俺は小さく息を吐いた。
「……朝飯くらい、ゆっくり食わせてくれよ」
誰に聞かせるでもなく呟き、残っていたパンを口へ放り込んだ。
◇
資料解析室へ入ると、ジン=フリークスが机の上に大量の紙を広げていた。
昨日まで整理されていた資料は、今や見る影もない。
古代文字の写し。
遺構の構造図。
地形の測量記録。
中央統括機構から送られてきた断片的な情報。
それらが複雑に重なり合い、机の端から床へ落ちそうになっている。
そして、その惨状の中心で、ピヨンが不機嫌そうな顔をしていた。
「だから! 勝手に順番を変えないでって言ってるでしょ!」
「別にいいだろ。全部ここにあるんだから」
「よくない! 整理するのに何時間かかったと思ってるの!」
「また並べりゃいいじゃねえか」
「そういう問題じゃなーい!」
俺は入口で立ち止まった。
隣にいたリリアも、室内を見回して苦笑している。
「……昨日より散らかってるね」
「そうだな」
ジンが俺たちに気づいた。
「お、来たな」
彼は机の上の一枚を持ち上げた。
「ちょっと見てくれ」
「その前に片付けを手伝ってください」
ピヨンが即座に言った。
ジンは聞こえなかったふりをした。
「昨日の印について、少し考えてみた」
俺は諦めて机へ近づいた。
ジンが差し出したのは、暗黒大陸からの避難経路が描かれた地図だった。
問題の記号は、細い移動経路が途切れる地点に記されている。
その先では、線の太さと描き方が変わっていた。
「この印、ただの目印じゃないと思うんだよな」
「昨日もそう言ってましたね」
「ああ。で、こっちを見ろ」
ジンは別の紙を並べた。
地下遺構の中央区画を描いた構造図だ。
中央統括機構の制御室。
その隣には、俺たちが立ち入れなかった封鎖区画がある。
ジンは、その境界部分を指差した。
「同じ形だ」
俺は目を細めた。
確かに、似ている。
ただし、完全に一致しているわけではない。
地図の記号には三本の短い線があり、構造図には四本ある。
「……少し違いませんか?」
「そこが重要なんだよ」
ジンは楽しそうに笑った。
「同じ意味の記号なら、何で違う?」
俺は考えた。
「……種類が違う?」
「あるいは、段階が違う」
ジンが答える。
「例えば、扉を示す記号だとしても、普通の扉と非常用の扉じゃ区別するだろ?」
ピヨンが腕を組んだ。
「でも、まだ扉を示すって決まったわけじゃないよ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
ジンは軽く笑った。
その態度に、ピヨンは不満そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
俺は二枚の図面を見比べた。
地図の記号。
中央区画の記号。
そして、中央統括機構の端末に表示されたもの。
似た記号が三か所に存在する。
偶然で片付けるには、少し引っかかる。
「……中央統括機構に確認できないんですか?」
俺が尋ねると、ピヨンが顔を上げた。
「それを試そうと思ってたの」
「外部通信はまだ生きてるんですよね?」
「うん。ただし、使える機能はかなり制限されてるみたい」
彼女は机の端に置かれた通信装置を指差した。
「昨日、技術班が専用回線を繋いでくれたんだけど、問い合わせても定型的な返答しか来ないんだよね」
俺は装置を見た。
小型の端末に、古い形式の文字列が表示されている。
中央統括機構の通信方式を、現代の機器へ変換しているらしい。
ジンが口を開いた。
「だったら、聞き方を変えりゃいい」
ピヨンが眉を寄せる。
「どういうこと?」
「向こうが答えられる質問を探すんだよ」
彼は端末を指差した。
「知らねえことを教えろって言っても、権限がなけりゃ答えねえ。なら、まず何を答えられるか確かめる」
俺は、その言葉に納得した。
古代の機械とはいえ、相手は管理システムだ。
質問の内容や権限によって、返答が変わる可能性は十分にある。
「……試してみましょうか」
俺が言うと、ジンは頷いた。
「おう」
◇
通信端末の操作は、ピヨンが担当した。
俺たちは机を囲み、画面へ視線を向ける。
最初の質問は単純なものだった。
『中央統括機構の現在の稼働状況を報告してください』
数秒後。
画面に文字が浮かび上がった。
『中央統括機構、限定稼働中』
『生命維持系統、停止』
『施設防衛系統、待機』
『外部通信系統、制限稼働』
俺は、少しだけ眉を寄せた。
生命維持系統は停止。
地下で救出した被験者たちが使用していた装置とは、別の系統なのだろうか。
ピヨンも同じ疑問を抱いたらしい。
「生命維持系統って、何を維持してたの?」
彼女が質問を入力する。
返答は短かった。
『該当情報へのアクセス権限がありません』
「やっぱりね」
ピヨンは肩を落とした。
ジンは、すぐに別の質問を提案した。
「施設の建造目的を聞いてみろ」
ピヨンが入力する。
『本施設の建造目的を回答してください』
今度は、少し長い返答が表示された。
『第一目的、生存者の保護』
『第二目的、記録の保存』
『第三目的、帰還計画の維持』
室内が静まり返った。
俺は、最後の一行を見つめた。
帰還計画。
これまで、遺構に残されていた文章には、故郷へ戻ることを願う言葉があった。
だが、それは遠い未来への希望だと思っていた。
単なる願いではなかったのか。
「……帰還計画?」
リリアが小さく呟いた。
ジンの目が鋭くなる。
「やっぱり、何かあるな」
ピヨンは急いで次の質問を入力した。
『帰還計画とは何ですか』
『該当情報へのアクセス権限がありません』
「もう!」
彼女は机を軽く叩いた。
ジンは笑った。
「まあ、そうなるよな」
「笑い事じゃないってば」
「でも、一つ分かっただろ」
ジンは画面を指差した。
「帰還計画ってもんが、実際に存在した」
俺は頷いた。
確かに、それは大きな収穫だった。
これまで、古代の人々が故郷へ戻りたがっていたことは分かっていた。
だが、中央統括機構が今なお『帰還計画の維持』を目的としているなら、話は変わってくる。
何かを実行するための仕組みが、遺構の内部に残されている可能性がある。
ジンが、俺を見た。
「アオ」
「はい?」
「お前が端末に触れたとき、向こうは何て言った?」
「……『観測対象一』と」
「それから?」
「『帰還を確認しました』です」
ジンは、しばらく考えた。
「だったら、お前の識別情報が何なのか聞いてみろ」
俺は少し迷った。
中央統括機構が俺を特別な存在として認識している。
その理由を知りたい気持ちはある。
だが、今ここで余計な情報を引き出してしまえば、俺の秘密に関わる可能性もあった。
ジンは、そんな俺の様子を見て肩をすくめた。
「嫌なら別にいいぞ」
俺は顔を上げた。
「……え?」
「お前のことだろ。無理に聞く必要はねえ」
その言葉に、少しだけ驚いた。
ジンは、未知のものに対して強い好奇心を持っている。
それでも、他人の秘密を無理やり暴こうとはしないらしい。
俺は、少し考えた。
そして、首を横に振った。
「……いえ。聞いてみましょう」
ピヨンが頷いた。
「分かった」
彼女は、端末へ質問を入力した。
『観測対象一の識別条件を回答してください』
数秒。
十秒。
いつもより長い沈黙が続いた。
そして。
『観測対象一、識別情報照合中』
画面の文字が変わった。
『照合対象の存在を確認』
『詳細情報、閲覧権限不足』
『帰還記録、保持』
俺は、息を止めた。
帰還記録。
何だ、それは。
俺は、前世の記憶を思い浮かべた。
現代社会。
仕事。
漫画やゲーム。
そして、死。
その後に出会った、得体の知れない存在。
まさか、あれと関係があるのか。
だが、証拠はない。
俺は、慎重に考えた。
ジンが画面を見つめたまま呟いた。
「……面倒な仕組みだな」
ピヨンが頷く。
「情報そのものは残ってるのに、見せてくれない」
「つまり、権限を持ってる奴がいたってことだ」
ジンは、机の上の構造図を見た。
「この施設を造った連中は、誰に何を見せるかまで決めてたんだろうな」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
答えは出なかった。
だが、謎が一つ増えた。
そして、その謎は俺自身に関わっている。
◇
昼前。
俺たちは、ミレーヌとミザイストムを交えて話し合うことになった。
中央統括機構から得られた新しい情報を、正式に共有するためだ。
会議室には、ジン、ピヨン、ミレーヌ、ミザイストム、俺、リリアが集まった。
机の上には、通信記録が並んでいる。
ミザイストムは、資料を確認しながら眉を寄せた。
「帰還計画……か」
彼は、慎重に言葉を選んだ。
「これは、遺構の建造目的に関わる重要な情報だな」
ミレーヌも頷いた。
「ええ。ただし、何を意味しているのかはまだ分からないわ」
ジンが口を開いた。
「俺は、施設の内部に何か残ってると思う」
ミザイストムが顔を上げる。
「根拠は?」
「建造目的に『帰還計画の維持』がある。それに、地図の記号と中央区画の記号が似てる」
ジンは構造図を指差した。
「少なくとも、調べる価値はある」
ミザイストムは、少し考えた。
「だが、遺構は封鎖されている」
「ああ」
「無断で再侵入することは認められない」
ジンは肩をすくめた。
「分かってるよ」
その返事に、ミザイストムは少しだけ目を細めた。
「……本当に理解しているのか?」
「してるって」
俺は、思わず苦笑した。
どうやら、ジンの行動力はミザイストムにとって頭痛の種らしい。
ミレーヌが口を開いた。
「そもそも、今の遺構へ入る方法があるのかしら」
俺は、中央統括機構の封鎖を思い出した。
地下の主要通路は閉じられ、通常の出入口は使用できなくなっている。
ただし、外部通信回線は残されていた。
さらに、深紅の星髄石を俺へ届けた緊急搬送機構も稼働していた。
完全に機能を停止したわけではない。
「……中央統括機構に、再入場を申請することはできるかもしれません」
俺が言うと、ミザイストムがこちらを見た。
「可能なのか?」
「分かりません。ただ、通信回線は生きています」
ジンが笑った。
「試すだけならタダだろ」
ミザイストムは、しばらく考えた。
そして、静かに頷いた。
「問い合わせは許可する。ただし、再入場については別途判断する」
「分かりました」
俺が答えると、ジンも頷いた。
「それでいい」
ミザイストムは、念を押すように続けた。
「今回の事件では、二十五人の被験者が救出されたばかりだ。遺構の内部に新たな危険が残っている可能性もある」
俺は、静かに聞いていた。
「未知の施設を調べることと、人命を危険に晒すことは別だ」
ジンの表情が少しだけ真剣になった。
「……分かってる」
その返事は、先ほどよりも落ち着いていた。
◇
午後。
俺とリリアは、医療区画へ向かった。
チードルから、四番の男性の状態について連絡があったからだ。
医療テントへ入ると、チードルが寝台の脇に立っていた。
その隣にはゲルがいる。
四番の男性は、上半身を少し起こした状態で横たわっていた。
昨日までとは違う。
目が開いている。
俺は、思わず足を止めた。
「……意識が戻ったんですか?」
チードルが頷いた。
「ええ。今朝から少しずつ反応がありました」
俺は、寝台へ近づいた。
男性は、ゆっくりとこちらを見た。
まだ焦点が定まりきっていない。
だが、確かに意識がある。
「……ここは……」
掠れた声だった。
チードルが、穏やかに答えた。
「安全な場所です。あなたは、研究施設から救出されました」
男性は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
「……そう、ですか」
その声には、疲労と安堵が混ざっていた。
俺は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
あの地下で見たとき、この男性は意識を失い、何度も痙攣を起こしていた。
それが今、自分の意思で言葉を発している。
チードルが、俺を紹介した。
「こちらはアオさん。あなたの治療を手伝ってくれた方です」
男性は、ゆっくりと俺を見た。
「……あなたが……」
「……はい」
俺は、少しだけ緊張した。
何を言えばいいのか分からなかった。
助かってよかった。
それだけでは、足りない気がした。
だが、余計な言葉を並べるのも違う。
「……もう、安全です」
俺は、静かに言った。
男性は、しばらく俺を見つめていた。
そして、掠れた声で答えた。
「……ありがとう」
その一言で、十分だった。
俺は、ゆっくりと頷いた。
チードルが、男性の肩へ手を添えた。
「まだ無理に話さなくて大丈夫です。今は身体を休めましょう」
男性は頷き、再び目を閉じた。
俺たちは、静かに寝台から離れた。
◇
テントの外へ出ると、リリアが小さく息を吐いた。
「……よかったね」
「ああ」
俺は、空を見上げた。
午後の陽射しが、薄い雲の間から差し込んでいる。
四番の男性は、まだ完全に回復したわけではない。
長期間の実験によって失われた体力も、これから取り戻していかなければならない。
それでも、彼は自分の意思で言葉を発することができた。
それは、確かな前進だった。
「……名前、聞けるといいね」
リリアが呟いた。
俺は頷いた。
「ああ」
今はまだ、四番と呼ばれている。
だが、彼には本来の名前があるはずだ。
その名前を取り戻すことも、きっと大切なのだろう。
俺は、静かに息を吐いた。
古代遺構の謎。
暗黒大陸の記録。
そして、俺自身に関わる不可解な言葉。
気になることは山ほどある。
だが、目の前で人が回復していく姿を見ると、そんなことは一時的にどうでもよくなる。
少なくとも、今は。
◇
夕方。
資料解析室では、再び中央統括機構への問い合わせが行われていた。
今回の質問は、遺構への再入場についてだった。
ピヨンが端末を操作する。
『中央統括機構へ問い合わせ』
『外部調査員による再入場は可能ですか』
数秒後。
『通常入場経路、封鎖中』
『緊急搬送経路、制限稼働』
『再入場申請、受付可能』
俺は、思わず身を乗り出した。
「……申請できるんですか?」
ピヨンも驚いた様子だった。
「みたいだね」
ジンが笑った。
「ほらな」
ミザイストムは、画面を見つめたまま口を開いた。
「申請条件を確認してくれ」
ピヨンが入力する。
『再入場申請の条件を回答してください』
返答が表示された。
『第一条件、施設安全確認』
『第二条件、申請者識別』
『第三条件、管理権限照合』
俺は、ゆっくりと息を吸った。
管理権限。
その言葉に、嫌な予感がした。
ユリウスは、古代遺構の管理権限を手に入れようとしていた。
だが、彼の権限はすでに失効している。
つまり、現在の施設には、正規の管理権限を持つ人間がいない可能性がある。
ジンが、静かに言った。
「……申請者識別ってのが気になるな」
俺は、彼を見た。
ジンは、画面を指差した。
「お前、観測対象一って呼ばれてたんだろ?」
「……はい」
「なら、お前の識別情報が使えるかもしれねえ」
俺は、少し考えた。
確かに、その可能性はある。
だが、観測対象であることと、管理権限を持っていることは別だ。
「……分かりません」
俺は答えた。
「試してみないと」
ジンは頷いた。
「だな」
ピヨンが、次の質問を入力した。
『観測対象一による再入場申請は可能ですか』
画面が、一瞬だけ暗くなった。
そして、青白い文字が浮かび上がった。
『観測対象一、識別情報照合中』
『照合完了』
『再入場申請、仮受付』
室内が静まり返った。
俺は、画面を見つめた。
仮受付。
つまり、俺の識別情報は有効なのだ。
だが、まだ入場が許可されたわけではない。
続いて、文字が表示された。
『管理権限照合、未完了』
『施設安全確認、未完了』
『再入場許可、保留』
俺は、静かに息を吐いた。
やはり、簡単にはいかないらしい。
ミザイストムが、腕を組んだ。
「……現時点では入場できないということだな」
「そうですね」
俺が答える。
ジンは、画面を見つめたまま考えていた。
そして、突然口を開いた。
「なあ」
俺たちは、彼を見た。
「管理権限って、誰が持ってたんだ?」
ピヨンが答えた。
「元々は施設の管理者じゃない?」
「そりゃそうだろ」
ジンは頷いた。
「でも、そいつらはもういねえ」
俺は、少しだけ眉を寄せた。
ジンは続けた。
「だったら、今の施設は誰の命令で動いてんだ?」
その言葉に、俺は息を止めた。
中央統括機構は、今も稼働している。
だが、管理者は存在しない。
少なくとも、俺たちが知る限りでは。
それでも、施設は封鎖を維持し、通信を続け、俺の識別情報を照合している。
つまり。
「……過去の命令を、ずっと守っている?」
俺が呟くと、ジンは頷いた。
「そういう可能性もある」
ピヨンが、静かに言った。
「……帰還計画の維持」
俺は、画面へ視線を戻した。
そこには、先ほどの文字が残っている。
『再入場許可、保留』
俺は、胸の奥に小さな緊張を感じた。
何百年、あるいは何千年も前に下された命令。
その命令を、今も守り続ける古代の機械。
そして、俺を『帰還者』として認識する不可解な仕組み。
これらは、どこかで繋がっているのだろうか。
答えは、まだ分からない。
だが、少しずつ近づいている気がした。
◇
夜。
俺は、宿泊用テントの中で深紅の星髄石を眺めていた。
金属製の容器を開くと、暗赤色の結晶が淡い光を放っている。
表面を走る金色の筋は、まるで内部に細い血管があるようだった。
俺は、指先で結晶へ触れた。
冷たい。
だが、その奥に微かな熱を感じる。
オーラを流し込もうとはしなかった。
まだ、性質が十分に分かっていないからだ。
この石が何に使われていたのか。
なぜ、中央統括機構が俺へ一つを渡したのか。
そして、残る二つが遺構の内部に保管されている理由。
すべてが謎のままだ。
俺は、容器の蓋を閉じた。
そして、アイテムボックスへ収納する。
そのとき、テントの外から声が聞こえた。
「アオ、いる?」
リリアだった。
「いるよ」
俺が答えると、彼女が入口から顔を覗かせた。
「ちょっと話せる?」
「ああ」
リリアは中へ入り、俺の向かいに座った。
その表情は、いつもより少し真剣だった。
「……今日のことなんだけど」
「中央統括機構の話か?」
「うん」
彼女は頷いた。
「アオ、あの機械に何か言われてたんだよね」
「……ああ」
「帰還って、どういう意味なんだろう」
俺は、少し考えた。
正直、俺にも分からない。
だが、リリアには余計な不安を与えたくなかった。
「……まだ分からない」
俺は、そう答えた。
「ただ、俺が何か特別な存在だって決まったわけじゃない」
リリアは、静かに聞いていた。
「単に、機械が勘違いしてる可能性もあるしな」
「……そうだね」
彼女は頷いた。
だが、その表情には少しだけ心配そうな色が残っていた。
俺は、彼女を見た。
「……どうした?」
リリアは、少し迷ったように口を開いた。
「アオが、どこか遠くへ行っちゃうんじゃないかって」
俺は、思わず目を見開いた。
「……え?」
「帰還って言葉を聞いて、何となく」
彼女は、少しだけ笑った。
「変なこと言ってるよね」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……変じゃないよ」
リリアは、俺を見た。
「俺だって、あの言葉の意味は気になってる」
俺は続けた。
「でも、今すぐどこかへ行くつもりはない」
彼女は、静かに聞いていた。
「それに、もし何か分かったとしても、一人で勝手に決めたりはしない」
俺は、少しだけ笑った。
「……約束する」
リリアは、しばらく俺を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……うん」
その声には、少しだけ安堵が混ざっていた。
俺は、静かに息を吐いた。
自分がどこから来たのか。
なぜこの世界へ転生したのか。
その答えを知りたい気持ちはある。
だが、今の俺には、この世界で積み重ねてきたものがある。
流星街で出会った人々。
ネテロ会長。
ビスケ。
クロウ。
ミレーヌ。
レオンとガルド。
そして、リリア。
それらを捨ててまで、未知の答えを追いかけるつもりはなかった。
少なくとも、今は。
◇
同じ頃。
前進拠点の資料解析室では、ジンが一人で地図を眺めていた。
机の上には、暗黒大陸から続く移動経路が描かれている。
そして、その途中に記された奇妙な記号。
ジンは、指先でその印をなぞった。
「……帰還計画、ね」
彼は、少しだけ笑った。
だが、その表情はいつもより真剣だった。
「逃げてきた連中が、何で帰るための計画を残した?」
誰に聞かせるでもなく呟く。
答えはない。
ただ、机の上の地図が静かに広がっているだけだった。
ジンは、別の資料を取り上げた。
そこには、中央統括機構の通信記録が書かれていた。
『観測対象一』
『帰還記録、保持』
『再入場申請、仮受付』
彼は、しばらく文字を見つめていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……アオ、か」
その名前を口にすると、ジンは少しだけ目を細めた。
十五歳の少年。
高い念の技量。
異質なオーラ。
そして、古代遺構に特別な識別情報を持つ存在。
普通なら、何かを隠していると疑うだろう。
だが、ジンはすぐに首を横に振った。
「ま、本人が話したくねえなら、それでいいか」
彼は、再び地図へ視線を戻した。
知りたいことは山ほどある。
だが、他人の秘密を暴くことと、未知の歴史を解き明かすことは違う。
ジンにとって重要なのは、遺構を造った人々が何を残そうとしたのかだった。
そして、その答えはまだ見つかっていない。
彼は、机の上の地図を丁寧に畳んだ。
「……さて」
口元に、楽しそうな笑みが浮かぶ。
「明日は、もう少し詳しく調べてみるか」
霧哭きの渓谷には、夜の静けさが戻っていた。
だが、その地下では、古代の機械が今も動き続けている。
何百年、あるいは何千年という時間を越えて。
誰かの帰還を待ちながら。
そして、その記録の中には、まだ誰にも知られていない一つの事実が眠っていた。
それが明らかになる日は、そう遠くないのかもしれない。