流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
一九八九年、春。
霧哭きの渓谷。
◇
人は、故郷を失ったとき、何を残そうとするのだろう。
財産か。
知識か。
それとも、かつて自分たちがそこに存在していたという証か。
俺には、故郷と呼べる場所が二つある。
一つは、前世で暮らしていた世界。
もう一つは、この世界で最初に生きる場所となった流星街だ。
もっとも、どちらも一般的な意味での故郷とは少し違う。
前世の世界へ帰る方法など知らないし、そもそも帰りたいのかと問われれば、簡単には答えられない。
流星街についても、懐かしい思い出ばかりではなかった。
腐敗した廃棄物の臭い。
飢えと渇き。
夜になれば容赦なく身体を冷やす風。
力のない者が、明日を迎えられる保証すらない場所。
それでも、あそこには俺が生きた時間がある。
クロウがいて、世話になった人々がいて、守りたいと思ったものがある。
だからこそ、故郷という言葉を軽く扱う気にはなれなかった。
暗黒大陸から逃げ延びた人々も、同じだったのだろうか。
彼らは何を失い、何を守ろうとしたのか。
そして、なぜ何百年、あるいは何千年という時間を越えてまで、帰還のための計画を残したのか。
その答えが、ようやく見え始めていた。
◇
朝。
俺が資料解析室へ向かうと、入口の前に見慣れた人影があった。
リリアだ。
栗色の髪を短くまとめ、フード付きの外套を羽織っている。手には薄い革袋を持ち、何やら中身を確かめていた。
「おはよう、リリア」
「あ、アオ。おはよう」
「何してるんだ?」
「昨日の地図を写したものを見てたの」
彼女は革袋から数枚の紙を取り出した。
そこには、古代遺構の周辺地形と、暗黒大陸からの避難経路が描かれている。
「気になるところでもあったか?」
「うん。少しだけ」
リリアは紙を広げた。
「この線なんだけど」
指差されたのは、暗黒大陸の地図に描かれた細い移動経路だった。
問題の記号を境に、線の太さが変わっている。
昨日、ジンが指摘した部分だ。
「ジンさんは、移動経路の切り替わりかもしれないって言ってたよね」
「ああ」
「でも、これ……道が変わったんじゃなくて、記録の仕方が変わっただけじゃないかな」
俺は、少しだけ眉を寄せた。
「……どういうことだ?」
「こっちを見て」
リリアは、別の紙を重ねた。
それは霧哭きの渓谷周辺の測量図だった。
彼女は二枚の地図を並べ、細い線を指先でなぞる。
「普通の道なら、地形に合わせて曲がるでしょ?」
「そうだな」
「でも、この線は違う。途中から、地形の形と関係なく描かれてる」
俺は、目を細めた。
確かに。
前半の経路は、山脈や海岸線を避けるように描かれている。
だが、記号の先では、地形との対応が曖昧になっていた。
まるで、実際の道筋を示すことをやめたかのように。
「……道そのものじゃなく、別の情報を記録している?」
「うん。そうかもしれない」
リリアは頷いた。
「ただ、私もまだ分からないけど」
俺は、地図を見つめた。
移動経路。
帰還計画。
そして、奇妙な記号。
何かが繋がりそうで、まだ繋がらない。
「……これ、ジンさんたちにも見せよう」
「うん」
俺たちは、資料解析室の扉を開けた。
◇
室内では、すでにジンとピヨンが作業を始めていた。
机の上には相変わらず大量の資料が広がっている。
ただし、昨日とは違い、いくつかの紙束が用途ごとに分けられていた。
どうやらピヨンが整理し直したらしい。
「お、来たな」
ジンが顔を上げた。
無造作な黒髪。
使い込まれた服。
そして、朝から妙に生き生きとした表情。
昨日も夜遅くまで作業していたはずだが、疲れた様子は見えない。
「おはようございます」
「おう」
ピヨンも手を振った。
「おはよー。ちょうどいいところに来たね」
「何か分かったんですか?」
俺が尋ねると、彼女は得意げに笑った。
「かなり!」
その横で、ジンが口を開いた。
「まずは、昨日の記号についてだ」
俺たちは机へ近づいた。
そこには、問題の記号を拡大した図が三枚並んでいた。
一枚目は、暗黒大陸の地図。
二枚目は、地下遺構の構造図。
三枚目は、中央統括機構の端末に表示されていた記号の再現図だ。
「三つとも、基本の形は同じだった」
ジンは説明を始めた。
「ただし、周囲についてる線の数が違う」
俺は頷いた。
「昨日も話してましたね」
「ああ。で、ピヨンが別の資料から似た記号を見つけた」
ピヨンが一枚の紙を差し出した。
そこには、古代文字と記号が並んでいる。
「これは、遺構の外壁に刻まれていた文章の一部だよ」
彼女は記号の下に書かれた文字を指差した。
「最初は意味が分からなかったんだけど、ほかの文章と照合して、ようやく読み方の候補が絞れたの」
「……何て書いてあるんですか?」
俺が尋ねると、ピヨンは少しだけ表情を引き締めた。
「『境界を越えた者を記録せよ』」
俺は、思わず息を止めた。
境界。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
ピヨンは続けた。
「ただし、ここでいう境界が何なのかは分からない。国境かもしれないし、海を越えることかもしれない」
ジンが頷いた。
「あるいは、もっと別の意味かもしれねえ」
俺は、記号を見つめた。
境界を越えた者。
記録。
そして、観測対象一。
何かが繋がりそうだった。
そのとき、リリアが口を開いた。
「……あの」
ジンとピヨンが彼女を見た。
「この地図、道が途中から変わってるんじゃなくて、記録の仕方が変わってるのかもしれません」
リリアは、先ほど俺に見せた二枚の地図を広げた。
そして、細い線の変化について説明した。
ジンは黙って聞いていた。
途中で一度だけ、地図へ身を乗り出す。
やがて、彼は小さく笑った。
「……なるほど」
ピヨンも目を細めた。
「確かに、そう考えると変だね」
ジンは、地図の線を指でなぞった。
「前半は実際の移動経路。後半は……」
そこで言葉を切る。
しばらく考えた後、彼は別の資料を取り上げた。
中央統括機構の構造図だった。
「……これか」
俺は、彼を見た。
「何か分かったんですか?」
「まだ仮説だけどな」
ジンは、二枚の図面を重ねた。
「この記号の先は、実際の道じゃなくて、施設同士の接続関係を示してるんじゃねえか?」
俺は、目を見開いた。
「……施設同士?」
「ああ」
ジンは頷いた。
「例えば、通信網とか、記録の保管場所とか。そういうものだ」
ピヨンが、ゆっくりと頷いた。
「……それなら、地形と一致しなくてもおかしくない」
俺は、地図へ視線を戻した。
確かに、その考え方なら説明できる。
前半は、暗黒大陸から逃れてきた人々の移動経路。
後半は、彼らが新天地で築いた施設の繋がり。
つまり、この地図は単なる避難経路ではない。
生存者たちが築いた、何らかのネットワークを示している可能性がある。
「……ほかにも遺構がある?」
俺が呟くと、ジンは笑った。
「そういうことだ」
ピヨンは、少しだけ興奮した様子で資料を持ち上げた。
「しかも、この記号の形が違う理由も説明できるかもしれない!」
彼女は、三枚の図を並べた。
「線の数が、施設の役割や階層を示しているとしたら?」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
暗黒大陸から逃れた人々。
彼らが築いた複数の施設。
そして、それらを結ぶ記録網。
霧哭きの渓谷にある遺構は、その一つに過ぎないのかもしれない。
ただし、まだ仮説だ。
確かめる必要がある。
ジンは、中央統括機構の通信端末へ視線を向けた。
「……聞いてみるか」
◇
中央統括機構への問い合わせは、昨日と同じ方法で行われた。
ピヨンが端末を操作し、質問を入力する。
『本施設以外に、同系統の施設は存在しますか』
数秒後。
画面に青白い文字が浮かび上がった。
『同系統施設、存在記録あり』
俺は、思わず身を乗り出した。
ジンの口元が、わずかに上がる。
「……当たりか」
ピヨンは、すぐに次の質問を入力した。
『同系統施設の数を回答してください』
『記録上、七施設』
室内が静まり返った。
七施設。
つまり、この遺構を含めて七つの施設が存在していたということだ。
「……七つ」
リリアが小さく呟いた。
俺は、地図へ視線を向けた。
確かに、問題の記号は複数存在する。
ただし、すべてが同じ形ではない。
ピヨンが続けて質問する。
『七施設の現在の稼働状況を回答してください』
返答は、少し遅れた。
『第一施設、限定稼働』
『第二施設、通信途絶』
『第三施設、通信途絶』
『第四施設、状態不明』
『第五施設、通信途絶』
『第六施設、状態不明』
『第七施設、記録上存在』
俺は、画面を見つめた。
第一施設。
おそらく、ここだろう。
だが、残る六施設については、ほとんど情報がない。
ジンが、静かに言った。
「……なるほどな」
ピヨンが、彼を見た。
「何?」
「帰還計画ってのは、この施設一つで完結するもんじゃなかったんだろ」
俺は、顔を上げた。
ジンは、地図を指差した。
「七つの施設が、それぞれ役割を持ってた。少なくとも、そう考えると筋が通る」
俺は、ゆっくりと頷いた。
中央統括機構は、帰還計画の維持を目的としている。
だが、ほかの施設との通信は途絶えている。
それなら、計画が進まない理由も説明できる。
「……帰還計画は、今も途中なんですね」
俺が言うと、ジンは少し考えた。
「途中というより、止まってるんだろうな」
その言葉に、俺は静かに息を吐いた。
何百年、あるいは何千年という時間。
その間、古代の機械は、果たされない計画を維持し続けていた。
それは、どこか物悲しい話だった。
◇
午前中の調査結果は、すぐにミレーヌとミザイストムへ報告された。
会議室には、ボトバイも同席していた。
ジンが説明を終えると、ミザイストムは資料へ目を落とした。
「……七施設か」
彼は、少し考え込んだ。
「つまり、今回発見された遺構は、より大きな施設群の一部だった可能性があるということだな」
「そういうことです」
ピヨンが答えた。
「ただし、残りの施設が今も存在しているかどうかは分かりません」
ミレーヌが腕を組んだ。
「場所も不明なのね?」
「はい」
ジンが口を開いた。
「地図から候補地を絞れるかもしれねえけど、今すぐは無理だな」
ミザイストムは頷いた。
「ならば、今回の調査報告にはそのように記載しよう」
ボトバイが、低い声で言った。
「問題は、帰還計画の内容だ」
俺たちは、彼を見た。
「もし、その計画が危険な技術を含んでいるなら、慎重に扱う必要がある」
その言葉は、もっともだった。
暗黒大陸に関わる技術。
未知の移動経路。
そして、長い年月を越えて稼働する施設群。
それらが何を可能にするのか、まだ分からない。
ミザイストムは、俺へ視線を向けた。
「アオ。君は中央統括機構から特別な識別を受けている」
「……はい」
「その理由について、何か心当たりはあるか?」
俺は、少しだけ考えた。
前世。
転生。
そして、与えられた能力。
それらが関係している可能性はある。
だが、今の段階で話しても、証明できるものは何もない。
「……分かりません」
俺は答えた。
「ただ、俺自身にも理由は分かっていません」
ミザイストムは、しばらく俺を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「分かった」
彼は、それ以上追及しなかった。
俺は、少しだけ肩の力を抜いた。
ボトバイが口を開く。
「それで、遺構への再入場は可能なのか?」
ピヨンが首を横に振った。
「まだ許可は出ていません。管理権限の照合が必要みたいです」
ミザイストムは頷いた。
「ならば、現時点では封鎖を維持する」
ジンが、少しだけ不満そうな顔をした。
だが、何も言わなかった。
俺は、その様子を見て少し安心した。
少なくとも、勝手に地下へ入ろうとはしていないらしい。
◇
午後。
俺たちは、中央統括機構への問い合わせを続けた。
ただし、今回は少し方法を変えた。
ジンの提案で、帰還計画そのものではなく、施設の建造目的を細かく確認することにしたのだ。
『帰還計画の対象を回答してください』
『対象、生存者およびその継承者』
ピヨンが、画面を見つめた。
「……継承者」
俺も、その言葉を繰り返した。
生存者。
そして、その継承者。
つまり、帰還計画は、当時の人々だけのものではなかった。
子孫たちへ引き継ぐことを前提としていたのだ。
ジンが、次の質問を提案した。
「帰還の意味を聞いてみろ」
ピヨンが入力する。
『帰還とは何を意味しますか』
返答が表示された。
『故郷の情報を継承し、帰還の可能性を保持すること』
俺は、思わず目を見開いた。
「……可能性を保持する?」
ジンが、ゆっくりと頷いた。
「なるほど」
ピヨンも、真剣な表情で画面を見つめていた。
「……必ず帰る計画じゃなかったんだ」
その言葉に、俺は静かに息を吸った。
帰還計画。
その名前から、俺は実際に暗黒大陸へ戻るための移動手段や技術を想像していた。
だが、中央統括機構の説明は違った。
故郷の情報を継承する。
帰還の可能性を保持する。
つまり、彼らは子孫たちに選択肢を残そうとしていたのだ。
ジンが、静かに言った。
「……そういうことか」
俺は、彼を見た。
「……何がですか?」
ジンは、地図を指差した。
「この施設を造った連中は、必ず暗黒大陸へ戻るつもりだったわけじゃねえ」
彼は続けた。
「戻りたい奴もいれば、戻りたくねえ奴もいたはずだ。そもそも、戻れるかどうかも分からなかった」
俺は、黙って聞いていた。
「だから、決めなかったんだろ」
ジンは、少しだけ笑った。
「未来の連中が、自分で決められるようにした」
俺は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
未来の人々へ、選択肢を残す。
それが、帰還計画の本質だったのかもしれない。
ピヨンが、次の質問を入力した。
『帰還計画の最終目的を回答してください』
今度は、少し長い沈黙が続いた。
そして、画面に文字が浮かび上がった。
『最終目的、継承者の自由意思による選択』
俺は、息を止めた。
自由意思。
その言葉が、胸の奥へ深く沈んでいった。
◇
しばらく、誰も口を開かなかった。
古代の機械が示した答えは、想像していたものとは違っていた。
帰還計画。
それは、暗黒大陸へ戻るための命令ではない。
未来の人々が、故郷へ戻るかどうかを自分で決められるようにするための計画だった。
地図。
記録。
施設。
そして、失われた技術。
それらは、未来へ選択肢を残すために保存されていた。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……すごいですね」
思わず、そんな言葉が漏れた。
ジンが、こちらを見た。
「何が?」
「……何百年も先の人間のために、こんなものを残したことです」
ジンは、少しだけ笑った。
「そうだな」
彼は、地図へ視線を戻した。
「自分たちが帰れなくても、子孫なら帰れるかもしれねえ」
俺は頷いた。
「……はい」
「でも、帰りたくねえなら、それでもいい」
ジンは、静かに続けた。
「だから、記録だけは残した」
俺は、机の上の地図を見つめた。
暗黒大陸から逃げ延びた人々。
彼らは、故郷を失った。
だが、未来まで奪われたわけではない。
その未来を、自分たちの子孫へ託したのだ。
俺は、少しだけ目を閉じた。
流星街。
前世の世界。
そして、今の俺が生きている場所。
どこへ帰るのか。
どこで生きるのか。
それを決めるのは、俺自身だ。
その当たり前のことを、遥か昔の人々が教えてくれたような気がした。
◇
だが、まだ一つ大きな疑問が残っていた。
俺が『観測対象一』と呼ばれた理由だ。
ジンも、そこを気にしていたらしい。
「……で、問題はこっちだな」
彼は、通信記録を指差した。
『観測対象一』
『帰還記録、保持』
俺は、静かに頷いた。
「……はい」
ピヨンが、端末へ質問を入力した。
『観測対象一とは何ですか』
返答は、昨日と同じだった。
『該当情報へのアクセス権限がありません』
ジンは、少し考えた。
「聞き方を変えよう」
ピヨンが顔を上げた。
「どうするの?」
「観測対象って言葉の意味を聞いてみろ」
彼女は頷き、入力する。
『観測対象の定義を回答してください』
数秒後。
『観測対象、境界通過記録を有する存在』
俺は、息を止めた。
境界通過記録。
それは、先ほど解読された古代文字と同じ言葉だった。
ピヨンが、さらに質問する。
『境界通過とは何ですか』
『登録された境界を越えた事象』
俺は、少しだけ眉を寄せた。
抽象的な説明だ。
だが、少なくとも一つ分かったことがある。
観測対象とは、特別な血筋や能力を持つ人間を意味するわけではない。
何らかの境界を越えた記録を持つ存在。
それが、中央統括機構の定義らしい。
ジンが、静かに言った。
「……つまり、アオが何者かを知ってるわけじゃねえのかもしれない」
俺は、彼を見た。
「……どういうことですか?」
「機械は、お前の正体を知ってるんじゃなくて、何かの記録と一致したから反応しただけかもしれねえ」
俺は、少し考えた。
確かに、その可能性はある。
中央統括機構が俺の前世や転生の事情を知っているとは限らない。
単に、何らかの条件を満たした存在として認識しているだけかもしれない。
ピヨンが、さらに質問した。
『観測対象一の識別理由を回答してください』
返答は、少し遅れた。
『識別条件、境界通過記録との照合』
『照合結果、一致』
『詳細情報、閲覧権限不足』
俺は、画面を見つめた。
境界通過記録との一致。
それが、俺を観測対象一と呼ぶ理由だった。
だが、何の境界を越えたのかは分からない。
前世からこの世界への転生。
その可能性が、頭をよぎる。
しかし、ここで断定することはできなかった。
ジンが、俺を見た。
「……どう思う?」
俺は、少し考えた。
「……まだ分かりません」
正直に答える。
「ただ、俺自身について何かを知っているわけではないのかもしれませんね」
ジンは頷いた。
「そうだな」
そして、少しだけ笑った。
「ま、今すぐ答えが出なくてもいいだろ」
俺は、彼を見た。
「……そうですね」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
◇
夕方。
中央統括機構から、予想外の通信が届いた。
俺たちは、資料解析室で最後の記録整理をしていたところだった。
突然、端末が青白く点滅したのだ。
ピヨンが顔を上げる。
「……あれ?」
画面に文字が浮かび上がる。
『外部調査記録、受領』
『帰還計画、記録継承条件を確認』
俺は、思わず立ち上がった。
「……何だ?」
ジンが端末へ近づいた。
「向こうから通信してきたのか」
ピヨンが頷いた。
「うん。こっちからは何も送ってない」
画面に、次の文字が表示された。
『継承者の自由意思を確認』
『記録保存処理、開始』
俺は、息を止めた。
継承者の自由意思。
それは、先ほど解読した帰還計画の最終目的だった。
だが、俺たちはまだ何も選んでいない。
ジンも、同じ疑問を抱いたらしい。
「……何を確認したんだ?」
ピヨンが質問を入力する。
『自由意思の確認内容を回答してください』
返答が表示された。
『帰還計画への強制参加、拒否』
『記録の継承、受諾』
『継承者の選択権、保持』
俺は、画面を見つめた。
なるほど。
俺たちは、暗黒大陸へ帰ると約束したわけではない。
だが、記録を調べ、保存し、未来へ残そうとしている。
その行動を、中央統括機構は記録の継承として認識したのだろう。
ジンが、静かに笑った。
「……そういうことか」
ピヨンも、少しだけ目を細めた。
「私たちが、記録を残すって選んだことを確認したんだね」
俺は、ゆっくりと頷いた。
そのとき、画面に新しい文字が浮かび上がった。
『記録継承処理、完了』
『第一施設、長期保全へ移行』
『外部閲覧用記録、転送準備完了』
俺は、思わず息を呑んだ。
ジンが、画面を見つめたまま呟いた。
「……終わった、のか?」
ピヨンが、静かに答えた。
「……たぶん」
その直後。
端末の下部に設けられた小さな搬送口が開いた。
中から、薄い金属板が一枚現れる。
表面には、細かな文字と記号が刻まれていた。
ピヨンが慎重に取り出す。
金属板は、手のひらほどの大きさだった。
だが、その表面には、肉眼では読み取れないほど細かな文字が並んでいる。
ジンが、目を輝かせた。
「……へえ」
ピヨンも、興奮した様子で言った。
「これ、記録媒体だよ!」
俺は、金属板を見つめた。
古代の人々が残した記録。
何百年、あるいは何千年という時間を越えて、今ここへ届けられたもの。
その重みを、俺は静かに感じていた。
◇
金属板は、すぐにミザイストムとミレーヌのもとへ運ばれた。
ボトバイも同席し、正式な記録の引き渡し手続きが行われる。
ピヨンが説明を終えると、ミザイストムは静かに頷いた。
「……なるほど」
彼は、金属板を慎重に確認した。
「つまり、中央統括機構は調査記録の一部を、正式に外部へ引き渡したということだな」
「はい」
ピヨンが答えた。
「ただし、すべての情報が入っているわけではないと思います」
ジンが頷いた。
「重要な部分は、まだ施設の内部に残ってるだろうな」
ミザイストムは、少し考えた。
「それでも、今回の調査としては大きな成果だ」
彼は、金属板を保護容器へ収めた。
「今後は、協会の専門機関で解析を進める。記録の保存と管理についても、正式な手続きを取る」
俺は、静かに頷いた。
これで、古代遺構の記録は失われずに済む。
少なくとも、今すぐ誰かが勝手に持ち出したり、破壊したりすることはないだろう。
ミレーヌが、俺たちを見た。
「……よくやったわね」
俺は、少しだけ笑った。
「みんなのおかげです」
彼女は、穏やかに頷いた。
ボトバイが、低い声で言った。
「遺構については、当面の間、立ち入りを制限する」
俺たちは、彼を見た。
「安全性が完全に確認されるまで、無断での調査は認められない。今後の調査は、協会の管理下で進める」
ジンが、少しだけ不満そうな顔をした。
だが、今回は何も言わなかった。
俺は、その様子を見て小さく笑った。
どうやら、彼も今回ばかりは納得しているらしい。
◇
夜。
俺は、前進拠点の外れにある岩場へ腰を下ろしていた。
空には、薄い雲が流れている。
遠くの山並みは、月明かりに照らされていた。
俺は、静かに息を吐いた。
長かった探索も、ようやく終わりが見えてきた。
地下遺構での戦い。
ユリウスとの決着。
二十五人の被験者の救出。
そして、暗黒大陸から逃げ延びた人々が残した記録。
それらは、すべて一つの場所で起きた出来事だった。
だが、俺にとっては、それぞれが大きな意味を持っている。
人を助けること。
未知のものを知ること。
そして、自分自身の選択を大切にすること。
今回の探索で、俺は多くのことを学んだ。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「……ここにいたのか」
ジンだった。
彼は、俺の隣へ腰を下ろした。
「何してんだ?」
「……少し考え事を」
「ふうん」
ジンは、夜空を見上げた。
しばらく、沈黙が続く。
やがて、彼が口を開いた。
「……なあ、アオ」
「はい?」
「お前、今回の遺構で何が一番印象に残った?」
俺は、少し考えた。
古代の技術。
深紅の星髄石。
中央統括機構。
暗黒大陸の地図。
どれも、強く印象に残っている。
だが。
「……人ですね」
俺は答えた。
ジンが、こちらを見た。
「人?」
「はい」
俺は、静かに続けた。
「地下で助けた人たちもそうですし、昔この遺構を造った人たちも」
ジンは、黙って聞いていた。
「……結局、何のために遺構を造ったのかって考えると、人を生かすためだったんですよね」
俺は、少しだけ笑った。
「それが、一番印象に残りました」
ジンは、しばらく俺を見つめていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そうか」
彼は、夜空へ視線を戻した。
「俺も、似たようなもんだ」
俺は、少し驚いた。
「……ジンさんも?」
「ああ」
ジンは頷いた。
「遺跡ってのは、造った奴らの考えが残る場所だからな」
彼は、少しだけ笑った。
「それを知るのが、俺は好きなんだよ」
俺は、静かに頷いた。
ジン=フリークス。
原作で知っていた人物。
だが、実際に会ってみると、想像していた以上に人間らしい。
好奇心が強く、自由奔放で、時には周囲を振り回す。
それでも、目の前の人間や、遥か昔に生きた人々の思いを軽く扱わない。
俺は、少しだけ笑った。
「……ジンさん」
「ん?」
「今回、会えてよかったです」
ジンは、一瞬だけ目を丸くした。
そして、楽しそうに笑った。
「何だよ、急に」
「……何となくです」
「変な奴だな、お前」
俺も笑った。
「ジンさんに言われたくないですよ」
「ははっ! そりゃそうだ!」
彼の笑い声が、静かな谷へ響いた。
俺は、夜空を見上げた。
古代遺構の謎は、すべて解けたわけではない。
だが、今回の探索で追いかけていた問いには、一つの答えが出た。
暗黒大陸から逃げ延びた人々は、未来の子孫へ選択肢を残そうとした。
帰るか。
帰らないか。
どこで生きるか。
その答えを、誰かに強制される必要はない。
自分自身で決めればいい。
俺は、静かに息を吸った。
今の俺にも、選ぶべき道がある。
そして、その道を一緒に歩いてくれる仲間がいる。
それだけで、十分だった。
◇
同じ頃。
霧哭きの渓谷の地下深く。
封鎖された中央統括機構では、青白い光が静かに明滅していた。
長い年月を越えて稼働し続けてきた古代の機械。
その内部で、一つの処理が完了する。
『外部記録継承、完了』
『帰還計画、保存継続』
『第一施設、長期保全状態へ移行』
続いて、別の表示が浮かび上がった。
『観測対象一、識別記録保持』
『境界通過記録、照合済み』
『詳細情報、封印継続』
そして、最後に。
『継承者の自由意思を尊重』
その文字が消えると、中央区画の照明が一つずつ落ちていった。
施設は、静かな眠りへと移行する。
何百年、あるいは何千年という時間を越えて。
未来の誰かが、再びその扉を開く日まで。
そして、地上では。
俺たちが、新しい旅へ向かう準備を始めていた。