流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
街へ戻る頃には、太陽がすっかり高く昇っていた。
石畳の大通りには荷馬車が行き交い、軒先に色とりどりの布を吊るした商店が、昼の客を迎え入れている。
焼きたてのパンの匂いに混じって、香辛料と炭火の香りが漂ってきた。
つい数時間前まで、俺たちは街外れの岩場で、俺の特質系の発を使っていた。
『愚か者の宝物庫(ジャンキージャンクスロットマシーン)』。
深紅の星髄石を供物に捧げ、三つのリールに七を揃えた。
あのときの光景は、今でも鮮明に思い出せる。
最初の二つが七で止まり、最後の一つが外れた瞬間の落胆。
そこから始まった逆回転。
そして、黄金の光に包まれた三つの七。
あれほどの希少品を失う覚悟をしていただけに、当たった瞬間は柄にもなく興奮してしまった。
だが、今になって思えば、あの派手な演出など些細なことだったのかもしれない。
重要なのは、その結果として手に入れたものだ。
『生命の灯火(ライフ・ビーコン)』。
致命的な危機に陥った人間の命を、最大三十分間繋ぎ止める宝物。
アイテムボックスの中に収められた銀のペンダントは、今も静かに金色の光を宿しているはずだった。
そして俺は、その使い道について、ほとんど結論を出していた。
「アオ、こっち」
前方からリリアの声が聞こえた。
顔を上げると、彼女が靴屋の軒先で手招きしている。
明るい栗色の髪が、春風に揺れていた。
「見て。旅用の靴、種類が多いよ」
「本当だな」
店先には、革製の長靴や軽量の短靴、山道用の厚底靴などが並んでいた。
棚の奥には、登山家や探検家向けに作られた高価な靴も置かれている。丈夫な革と特殊な繊維を組み合わせたものや、岩場での滑りにくさを重視したものなど、用途に応じて様々な工夫が凝らされていた。
もっとも、どれほど優れた靴でも、履く人間の足に合っていなければ意味がない。
特に長距離を移動する探索では、わずかな違和感が積み重なり、思わぬ怪我や疲労に繋がることもある。
「これ、どうかな」
リリアが手に取ったのは、暗褐色の革で作られた短靴だった。
足首までしっかり覆う形状で、靴底には滑り止めの細かな溝が刻まれている。
「履いてみたらどうだ?」
「うん」
彼女は店員に声をかけ、試着用の椅子に腰を下ろした。
古い靴を脱ぎ、新しい靴へ足を通す。
立ち上がって数歩歩くと、軽く膝を曲げ、つま先へ体重を乗せた。
さらに踵を浮かせ、足首の動きを確かめる。
単に見た目を確認しているわけではない。
長距離を歩くことを前提に、細かな感触を調べているのだ。
「……少し、右の踵が浮くかな」
リリアは呟き、別の大きさを店員に頼んだ。
俺はその様子を眺めながら、近くに並んでいた靴底用の補修材へ目を向ける。
渓谷の岩場は、靴を傷めやすい地形だった。
今後も遺跡や山岳地帯へ向かう可能性がある以上、予備の補修材を持っておいて損はない。
いくつか選んでいると、リリアが再び声をかけてきた。
「アオ」
「ん?」
「今度のはどう?」
振り返る。
彼女は新しい靴を履き、こちらへ片足を少し差し出していた。
先ほどより足首の収まりがよく、立ち姿も自然だ。
「歩きやすそうだな」
「うん。今度はぴったり」
「なら、それがいいんじゃないか」
「そうする」
満足そうに笑うリリアを見て、俺も少し口元を緩めた。
霧哭きの渓谷では、彼女は常に周囲を警戒していた。
足跡を調べ、地形を読み、危険な場所へ誰よりも先に踏み込むこともあった。
そんな彼女が、今は新しい靴を選ぶことに夢中になっている。
その光景が、妙に嬉しかった。
◇
買い物は昼過ぎまで続いた。
靴屋の次は衣料品店。
そのあとは道具屋へ立ち寄り、消耗品や旅に必要な細かな品を買い足した。
リリアは新しい靴のほかに、丈夫な手袋と薄手の外套を購入した。
俺も予備の衣服と補修用品を揃える。
もっとも、俺の場合はアイテムボックスがあるため、荷物の量をそれほど気にする必要はない。
店を出たところで、リリアがこちらを見た。
「……アオ」
「何だ?」
「本当に服、買ったんだね」
「買うって言っただろ」
「うん。でも、ちょっと意外」
「俺はそんなに物を買わない人間に見えるのか?」
「必要になったら買うけど、まだ使えるものはずっと使ってそう」
的確な指摘だった。
「……否定はしない」
「ふふっ」
リリアは楽しそうに笑った。
そのまま二人で大通りを歩く。
やがて、街の中心部にある小さな広場へ出た。
中央には噴水があり、周囲には木陰を作る大きな樹木が植えられている。
子供たちが水辺で遊び、年配の人々が石造りの長椅子に腰を下ろしていた。
穏やかな午後だった。
「少し休むか?」
「うん。ちょうど喉が渇いてた」
俺たちは広場の端にある露店で果実水を買い、木陰の長椅子へ腰を下ろした。
冷たい飲み物が喉を通る。
甘酸っぱい果実の風味が、歩き回って火照った身体に心地よかった。
「……平和だね」
リリアが呟いた。
「ああ」
「昨日まで、あんな場所にいたのが不思議なくらい」
俺は噴水の向こうで遊ぶ子供たちを見た。
霧哭きの渓谷。
古代遺構。
地下に囚われていた人々。
崩落する通路と、念能力者たちとの戦闘。
あの場所で見たものは、決して簡単に忘れられるものではない。
だが、今ここにいる人々は、その出来事を知らない。
知らないまま、今日という一日を過ごしている。
それでいいのだと思う。
世界のどこかで危険が起きているからといって、誰もが怯えて暮らす必要はない。
「……こういう時間があるから、また頑張れるんだろうな」
俺が言うと、リリアは静かに頷いた。
「うん。私もそう思う」
しばらく、二人で噴水を眺めた。
水音が絶え間なく響いている。
木々の葉が風に揺れ、地面に落ちた木漏れ日がゆっくりと形を変えていく。
俺は果実水を飲み干し、杯を膝の上に置いた。
そろそろ、話しておくべきだろう。
「……リリア」
「なに?」
「昨日から考えてたことがある」
彼女がこちらを向いた。
「昨日?」
「ああ。今日手に入れた宝物のことも含めてな」
「ライフ・ビーコン?」
「そうだ」
リリアの表情が少し引き締まる。
俺は周囲を見回した。
人通りは多く、ここで宝物を取り出すのは適切ではない。
そもそも、念能力は一般に知られた技術ではない。
ハンター協会の関係者や裏社会の一部には、その存在を知る者もいるが、普通の人々にとっては縁遠いものだ。
人前で不用意に能力の話をするのは避けた方がいい。
「宿に戻ってから、少し話せるか?」
「うん。もちろん」
「できれば、落ち着いた場所で話したい」
彼女は一瞬、不思議そうな顔をした。
だが、すぐに頷いた。
「分かった」
◇
宿へ戻ったのは、午後も半ばを過ぎた頃だった。
買い物で手に入れた品をそれぞれの部屋へ置き、少し休んでから、リリアが俺の部屋を訪ねてきた。
扉を叩く音がする。
「アオ、入ってもいい?」
「ああ」
扉が開き、リリアが顔を覗かせた。
新しく買った靴に履き替えている。
歩き心地が気に入ったのだろう。
「お邪魔します」
「適当に座ってくれ」
「うん」
彼女は窓際の椅子に腰を下ろした。
俺は向かいの席に座り、机の上へ水差しと二つの杯を置く。
窓の外では、街の屋根が午後の日差しを受けて輝いていた。
しばらくの間、俺たちは今日の買い物について話した。
新しい靴の履き心地。
道具屋で見つけた珍しい器具。
次の旅へ出る前に揃えておきたいもの。
やがて会話が落ち着いたところで、俺は本題へ入った。
「……さて」
リリアが顔を上げる。
「今朝手に入れた宝物のことなんだけどな」
「うん」
「もう一度、詳しく確認しておきたい」
俺はアイテムボックスから、小さな布包みを取り出した。
机の上に置き、ゆっくりと開く。
現れたのは、銀色のペンダントだった。
『生命の灯火(ライフ・ビーコン)』。
細い銀の鎖。
燭台を思わせる繊細な装飾。
中央には深紅の宝石が嵌め込まれ、その内部で小さな金色の光が揺れている。
リリアは思わず身を乗り出した。
「……やっぱり綺麗だね」
「ああ」
俺はペンダントを持ち上げた。
「能力については今朝説明した通りだ。登録した人間が致命的な危機に陥ったとき、自動的に発動する」
「最大三十分間、命を繋ぎ止めるんだよね」
「そう。ただし、怪我そのものを治すわけじゃない」
リリアは頷いた。
「発動したあとも、治療が必要なんだね」
「ああ。それと、一度発動すると三十日間は再使用できない」
「登録できるのは一人だけ」
「その通り」
俺はペンダントを机の上へ戻した。
「もう一つ、重要なことがある」
「なに?」
「登録した人間が危険な状態になったとき、俺がそれを察知できるのは、十キロ以内にいる場合だけだ」
リリアは少し考え込んだ。
「……十キロより離れていたら?」
「宝物自体の救命効果は働く。ただ、俺に危険を知らせる機能は届かない」
「じゃあ、遠くで発動しても、アオが気づけないことがあるんだね」
「ああ」
俺は頷いた。
「しかも、危険を察知できたからといって、俺が瞬間移動できるわけじゃない。距離や地形によっては、三十分以内に辿り着けない可能性もある」
リリアは真剣な顔で聞いていた。
「だから、これを持っているから絶対に助かる、なんて考え方は危険だ」
「……うん」
「逆に言えば、治療を受けられる場所にいれば、生存の可能性を大きく高められる」
俺はペンダントへ目を落とした。
金色の光が、静かに揺れている。
「俺の回復能力とも相性がいい。発動から三十分以内に俺が治療できれば、助けられる可能性は高い」
「そうだね」
リリアは小さく頷いた。
そして、少しだけ眉を寄せた。
「でも、アオ」
「ん?」
「それなら、やっぱりアオが登録した方がいいんじゃない?」
今朝も同じことを言われた。
彼女なりに、ずっと考えていたのだろう。
「俺が?」
「うん。アオは危険な場所へ行くことが多いし、回復能力も持ってる。もしアオが倒れたら、私だけじゃどうにもできないこともあると思う」
その言葉には、俺を案じる気持ちが込められていた。
俺は少し考えてから答えた。
「確かに、それも一つの使い方だ」
「でしょ?」
「ただ、俺にはほかにも身を守る手段がある」
リリアが口を開きかける。
俺は続けた。
「念による防御もできるし、身体そのものも普通より頑丈だ。もちろん、それで絶対に死なないわけじゃない。でも、致命傷を負う可能性を減らす手段は多い」
「……うん」
「それに、俺が倒れたとき、宝物が命を繋いでくれたとしても、意識がなければ回復能力を使えないかもしれない」
リリアは黙り込んだ。
俺は彼女を見た。
「だから、俺は別の使い方を考えてる」
「別の……?」
「ああ」
俺はペンダントを手に取った。
そして、彼女の前へ差し出した。
「リリア。これを、お前に持っていてほしい」
彼女の動きが止まった。
「……え?」
「ライフ・ビーコンだ」
「それは分かるけど……」
リリアは俺の顔とペンダントを交互に見た。
「……私に?」
「ああ」
「でも、これ……」
彼女は言葉を探すように視線を揺らした。
「すごく貴重な宝物なんでしょ?」
「そうだな」
「深紅の星髄石を使って、ようやく手に入れたものだよ?」
「分かってる」
「だったら、なおさら……」
俺は静かに首を横に振った。
「だからこそ、必要な人間に使ってほしいんだ」
リリアが口を閉じた。
俺は続ける。
「お前はこれからも、危険な場所へ先行することがあるだろう」
「……うん」
「道を調べたり、敵の動きを探ったり。俺がすぐに駆けつけられない場所へ行くこともある」
彼女の琥珀色の瞳が、俺を見つめている。
「そのとき、何かが起きたら……俺が助けに行くまでの時間が必要になる」
「……」
「この宝物は、その時間を作ってくれる」
俺は差し出した手を動かさずに言った。
「俺は、お前が無事に戻ってこられる可能性を少しでも増やしたい」
リリアは何も言わなかった。
ただ、ペンダントを見つめていた。
しばらくして、彼女が小さく息を吸う。
「……アオ」
「ん?」
「それって、私が危ない目に遭うと思ってるから?」
「危険な仕事をしてるのは事実だろ」
「……そうだけど」
「それに、俺はお前の判断を信じてる」
リリアが顔を上げた。
「だから、無茶をするためじゃなく、無事に帰るために使ってほしい」
彼女はしばらく俺を見つめた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
その声は、少しだけ震えていた。
「ありがとう、アオ」
「ああ」
「大切にする」
リリアは両手を差し出し、ペンダントを受け取った。
銀の鎖が、彼女の指先で静かに揺れる。
深紅の宝石の奥に灯る金色の光が、琥珀色の瞳へ映り込んだ。
「……本当に、綺麗」
彼女は小さく呟いた。
俺はその様子を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
受け取ってもらえてよかった。
◇
ペンダントを渡したあと、俺たちは登録方法について確認した。
宝物に意識を向けると、能力の情報が再び浮かび上がる。
登録できる対象は一人。
本人の同意が必要。
登録を変更する場合は、二十四時間の待機が必要になる。
俺はリリアへ、その内容を改めて説明した。
「……本当に、私でいいの?」
彼女が尋ねた。
「ああ」
「あとで後悔しない?」
「しない」
即答すると、リリアは少し困ったように笑った。
「……アオって、こういうときは本当に迷わないよね」
「迷ってないわけじゃないぞ」
「そうなの?」
「ああ。昨日からずっと考えてた」
リリアは少し驚いた顔をした。
俺は続けた。
「どう使うのが一番いいか。俺が持つべきか、誰かに託すべきか。いろいろ考えた」
「……それで、私?」
「ああ」
彼女は視線を落とした。
その頬が、ほんの少し赤くなったように見えた。
「……そっか」
小さな声だった。
俺はペンダントへ意識を向け、登録の操作を進める。
すると、中央の宝石が淡く輝き始めた。
金色の光がゆっくりと広がり、リリアの指先を照らす。
「……温かい」
彼女が呟いた。
「痛みは?」
「ないよ。少し、手の中が温かくなる感じ」
俺は頷いた。
「これから登録する。リリア、同意してくれるか?」
「……うん」
彼女はペンダントを両手で包み込んだ。
「私を、登録して」
その瞬間。
宝石の内部にあった金色の光が、ひときわ強く輝いた。
小さな炎が、風を受けたように揺れる。
そして、ゆっくりと落ち着いていった。
俺の視界に、新しい情報が浮かぶ。
登録対象。
リリア。
登録完了。
「……できた」
俺が言うと、リリアは目を見開いた。
「本当に?」
「ああ。登録された」
彼女はペンダントを見つめた。
その表情には、驚きと安堵が入り混じっていた。
「……なんだか、不思議な感じ」
「何か変化はあるか?」
「ううん。身体はいつも通り。ただ……」
「ただ?」
「少し、安心する」
彼女はそう言って笑った。
俺も自然と笑みを返した。
登録は無事に終わった。
あとは、宝物を正しく使うことだ。
もちろん、実際に発動するような状況は、できれば訪れてほしくない。
このペンダントが一度も働かないまま、長い旅を終えられるなら、それが一番いい。
「鎖の長さは合うか?」
「うん。大丈夫そう」
リリアはペンダントを首へかけた。
銀の鎖が胸元へ落ち、深紅の宝石が静かに揺れる。
彼女は指先で宝石に触れた。
金色の光が、ほんのわずかに明滅した。
「……似合うな」
何気なく言うと、リリアの動きが止まった。
「……え?」
「いや、ペンダント」
「あ、うん……」
彼女は少し俯いた。
「……ありがとう」
その声が、妙に小さかった。
俺は首を傾げたが、深く考えなかった。
まだ、もう一つ渡したいものがあったからだ。
◇
「……それと、もう一つある」
俺が言うと、リリアが顔を上げた。
「もう一つ?」
「ああ。こっちも、以前手に入れた宝物なんだ」
俺はアイテムボックスへ意識を向けた。
収納してある品の中から、目的のものを探す。
そして、小さな布袋を取り出した。
机の上に置き、紐を解く。
中から現れたのは、一つの指輪だった。
銀色の細い輪。
表面には繊細な模様が刻まれ、光の角度によって淡い輝きが走る。
派手な宝石が飾られているわけではない。
それでも、丁寧に作り込まれた意匠には、どこか気品があった。
俺は指輪を掌に載せた。
「これは『静寂の環』っていう宝物だ」
そう言って顔を上げる。
すると。
リリアが、固まっていた。
「……リリア?」
「…………え?」
彼女の視線は、俺の掌にある指輪へ釘付けになっている。
「どうした?」
「……ゆ、指輪?」
「ああ」
「……指輪、だよね?」
「そうだが」
何を確認しているのだろう。
見れば分かると思うのだが。
俺が不思議に思っていると、リリアはゆっくりと俺の顔を見た。
その頬が、みるみる赤くなっていく。
「……アオ」
「ん?」
「それ……」
「ああ。リリアに持っていてほしいと思ってな」
「……っ!」
彼女が息を呑んだ。
そして、なぜか視線を逸らした。
「……えっと、その……」
「どうした?」
「……い、いや、別に……」
リリアは指先で髪を整えた。
だが、その手つきは普段より落ち着きがない。
何か言おうとしては口を閉じ、また俺を見る。
……何だ?
俺は一瞬、考え込んだ。
指輪。
男性から女性へ。
贈り物。
…………あ。
そこでようやく、俺は気づいた。
なるほど。
そういうことか。
前世の記憶があるくせに、どうして今まで思い至らなかったのだろう。
男が女に指輪を贈る。
状況によっては、特別な意味を持つ行為だ。
しかも、今の俺は、二人きりの部屋で、わざわざ指輪を差し出している。
……これは。
誤解されても仕方がない。
「……あー」
俺は思わず声を漏らした。
リリアがびくりと肩を揺らす。
「な、なに?」
「いや、その……」
俺は少し言葉を探した。
「指輪って、そういう意味じゃなくてだな」
「わ、分かってる!」
思った以上に大きな声が返ってきた。
俺は目を瞬かせる。
リリア自身も驚いたらしく、慌てて口元を押さえた。
「……ご、ごめん」
「いや、俺の方こそ」
何とも言えない沈黙が落ちる。
窓の外から、遠くの鐘の音が聞こえた。
……どうしたものか。
俺は少し困った。
指輪を渡すだけのつもりだった。
それなのに、なぜか部屋の空気が妙なことになっている。
リリアは俯いたまま、指先を落ち着きなく動かしていた。
耳まで赤い。
……まったく。
こういうことには、どうにも慣れない。
俺は小さく咳払いをした。
「……とりあえず、能力の説明をしてもいいか?」
リリアが顔を上げた。
「……うん」
まだ少し頬が赤い。
だが、彼女は椅子へ座り直し、真面目な表情を作った。
「聞かせて」
俺は内心で安堵した。
これなら、いつもの調子に戻れるだろう。
……たぶん。
◇
「まず、この指輪は俺の特質系の発――『愚か者の宝物庫(ジャンキージャンクスロットマシーン)』で、以前777を揃えたときに獲得した宝物だ」
俺は指輪を机の上へ置いた。
「今日のライフ・ビーコンと同じように、特殊な効果を持っている」
「……うん」
リリアは頷いた。
今度は、しっかり指輪を見つめている。
「名前は『静寂の環』。隠密行動を補助するための宝物だ」
「隠密行動……」
「ああ。装備した人間の動きによって生じる音を、大幅に抑えることができる」
リリアの目が、わずかに見開かれた。
「……音?」
「そうだ。足音や衣擦れの音みたいに、身体を動かすことで生じる物理的な音だ」
俺は指輪を指先で持ち上げた。
「例えば、森の中を歩くとき。落ち葉を踏む音や、枝に服が擦れる音は、どれだけ注意しても完全には消しきれない」
「……うん」
「この指輪は、そういう音を抑えてくれる」
リリアは少し考えた。
「じゃあ、敵に気づかれにくくなるんだね」
「そういうことだ。ただし、万能じゃない」
俺は続けた。
「まず、姿が見えなくなるわけじゃない。相手の視界に入れば、普通に見つかる」
「……透明になる能力じゃないんだ」
「ああ。それに、匂いや足跡まで消してくれるわけでもない」
リリアは静かに頷いた。
「それは大事だね」
「そうだな。足音が消えても、地面に残る痕跡までは消えない。追跡に慣れた相手なら、音以外の情報からこちらの存在に気づく可能性がある」
俺は指輪を机へ戻した。
「それと、もう一つ重要なことがある」
「なに?」
「念の気配そのものを消す能力じゃない」
リリアの表情が引き締まった。
「……じゃあ、敵が『円』を使っていたら?」
「指輪だけで防ぐことはできない」
俺は頷いた。
「音を抑えられても、オーラの存在を消せるわけじゃないからな。相手の円に触れれば、感知される可能性がある」
「……なるほど」
「だから、念能力者を相手にするときは、普通の隠密行動と同じように『絶』や地形の利用も考える必要がある」
リリアは顎に指を当てた。
「音を抑えるのと、気配を消すのは別なんだね」
「ああ」
俺は続けた。
「たとえば、普通の人間が警戒している場所なら、かなり役立つと思う。見張りの背後を通ったり、音を立てずに移動したりするときにな」
「でも、念能力者が相手なら、別の対策も必要」
「その通りだ」
リリアは指輪を見つめた。
そして、少しだけ目を輝かせた。
「……それでも、すごく便利だね」
「ああ。特にリリアの能力とは相性がいいと思う」
「私の『迷い人の足跡』と?」
「そうだ」
俺は頷いた。
「お前は、足跡や地形を調べるために先行することがあるだろ。敵に見つからずに周囲を確認したい場面も多い」
「……うん」
「そういうとき、音を抑えられるだけでも行動の選択肢が増える」
リリアは少し考えたあと、ゆっくりと頷いた。
「確かに……」
彼女は机の上の指輪へ視線を落とした。
「森の中で足跡を追うときとか、崩れた建物の中を調べるときとか……音を立てないようにするだけで、かなり気を使うから」
「そうだろ」
「それに、敵の位置を確認したあと、見つからずに戻るときにも使えそう」
「ああ」
俺は少し笑った。
やはり、リリアはこういう話になると理解が早い。
能力の説明を聞きながら、すでに具体的な使用場面を考えている。
俺が一から使い道を教える必要はなさそうだった。
「ただし、使用条件には注意してほしい」
そう言うと、リリアは顔を上げた。
「……条件?」
「ああ。この指輪は装備型の宝物だ。身につけている間に効果を発揮する」
「……じゃあ、外したら?」
「効果は終了する」
リリアは頷いた。
「なるほど。使ってる途中で落としたりしたら、そこで終わりなんだね」
「そういうことだ」
俺は指輪を指先で回した。
「それに、一度使用したあとは、すぐにもう一度使えるわけじゃない」
「……再使用の制限があるの?」
「ああ」
俺は指輪を机の上へ戻した。
「一度使ったら、睡眠を取って起床するまで再使用できない」
リリアは少し考え込んだ。
「……じゃあ、使うタイミングが大切なんだね」
「そうだな」
「例えば、敵の拠点へ入るときに使って、途中で指輪を外したら……」
「その時点で効果は終了する。もう一度使いたくても、休息するまでは使えない」
「……なるほど」
彼女は真剣な顔で頷いた。
「だったら、最初から使うんじゃなくて、本当に必要な場所まで取っておいた方がいい場合もあるね」
「俺もそう思う」
俺は続けた。
「それと、効果があるからって、わざと大きな音を立てるような行動は避けた方がいい」
「どうして?」
「指輪が抑えるのは、あくまで装備者の動きによって生じる音だ。周囲のものを壊したり、離れた場所で物を落としたりした場合まで、何でも消せると考えるのは危険だからな」
リリアはすぐに理解したようだった。
「……つまり、音が出ないように動くこと自体は、今まで通り必要なんだね」
「ああ。指輪は補助だ。頼り切るものじゃない」
「分かった」
彼女は頷いた。
それから、少し考えて尋ねた。
「……持続時間は?」
「効果を使っている間は続く。ただ、外せば終了するし、使用後は休息するまで再使用できない。だから、使い始める前に行動経路を決めておく方がいい」
「……うん」
リリアは指輪を見つめた。
「だったら、私が使うときは、まず『迷い人の足跡』で経路を調べて……」
彼女は指先で机の上に簡単な地図を描き始めた。
「危険な場所に入る前に、どこから進んで、どこへ戻るかを決めておく。指輪を使うのは、そのあと」
「いいと思う」
「もし敵の円が広がってたら、無理に近づかない」
「ああ」
「それと、指輪を使ったからって、一人で奥まで行きすぎない」
俺は少し目を細めた。
「……そこまで考えてくれるなら安心だ」
リリアは顔を上げた。
「だって、アオが心配するでしょ?」
「まあな」
「……私だって、アオが無茶したら心配するんだから」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
俺も笑みを返した。
互いに心配をかけない。
言葉にすれば簡単だが、実際には難しいことだ。
危険な場所へ向かう以上、何も起きない保証はない。
それでも、できるだけ無事に帰るための準備はできる。
この指輪も、そのための一つの手段になるだろう。
◇
「……で、どうだ?」
俺は指輪を持ち上げた。
「リリアが使ってくれるなら、俺としてはありがたいんだけどな」
彼女は少し驚いたように俺を見た。
「……本当に、もらっていいの?」
「ああ」
「でも、これも貴重な宝物なんでしょ?」
「そうだな。普通に手に入るものじゃない」
「……だったら」
「だから、必要な人間に使ってほしいんだ」
俺は先ほどと同じ言葉を繰り返した。
リリアは一瞬、口を閉じた。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
「……アオ」
「ん?」
「……ありがとう」
その声は、先ほどよりも少し小さかった。
俺は指輪を差し出した。
リリアは両手を伸ばし、慎重に受け取った。
銀色の輪が、彼女の掌に収まる。
しばらく、彼女はそれを見つめていた。
そして。
「……ねえ、アオ」
「何だ?」
「これ……どの指につければいいのかな」
俺は一瞬、考えた。
装備型の宝物とはいえ、特定の指でなければ効果が出ないという条件はなかったはずだ。
「……つけやすい指でいいと思うぞ」
「そ、そう?」
「ああ。邪魔にならないところがいいだろうな」
「……うん」
リリアは指輪を持ち上げた。
そして、左手へ目を向ける。
その瞬間。
彼女の動きが止まった。
……ん?
何だ?
リリアはなぜか、左手の薬指を見つめている。
それから、慌てたように右手へ視線を移した。
……ああ。
なるほど。
俺は思わず苦笑しそうになった。
どうやら、まだ少し意識しているらしい。
リリアは右手の人差し指へ、そっと指輪を通した。
銀色の輪が、細い指に収まる。
大きすぎることも、小さすぎることもなかった。
まるで、最初から彼女のために作られていたかのようだった。
「……ぴったり」
リリアが呟いた。
「そうだな」
俺は彼女の手元を見た。
銀色の指輪。
繊細な模様。
そして、胸元には深紅のペンダント。
どちらも派手すぎず、彼女の雰囲気によく合っていた。
「……似合ってるな」
何気なく言った。
すると。
「……っ!」
リリアが、びくりと肩を揺らした。
俺は目を瞬かせる。
「……リリア?」
「……な、何でもない!」
彼女は慌てて顔を逸らした。
だが、耳まで赤い。
……しまった。
また何か変なことを言っただろうか。
いや、似合っていると思ったからそう言っただけなのだが。
俺が少し困っていると、リリアは右手を胸元へ引き寄せた。
指輪をつけた手を、もう片方の手で包み込む。
「……ありがとう」
小さな声だった。
俺は頷いた。
「ああ」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
部屋の中に、静かな時間が流れる。
窓の外からは、街のざわめきが聞こえていた。
遠くで子供たちが笑っている。
荷車の車輪が石畳を叩く音がする。
そんな日常の音が、今は妙にはっきりと耳に届いた。
◇
しばらくして、リリアが顔を上げた。
「……アオ」
「ん?」
「この指輪、試してみてもいい?」
「ああ。もちろん」
俺は頷いた。
「ただし、使用後は休息するまで再使用できないからな。試すなら、そのつもりで」
「……うん」
リリアは少し考えた。
そして、指輪を見つめたまま首を横に振った。
「……やっぱり、今日はやめておく」
「どうして?」
「今すぐ必要なわけじゃないし、使える状態のまま持っておいた方がいいと思うから」
俺は思わず笑った。
「賢明だな」
「それに、せっかくもらったんだから、最初はちゃんと使う場面で試したい」
「そうか」
彼女は指輪を指先でそっと撫でた。
「……大切に使うね」
「ああ」
俺は頷いた。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「ただ、一つだけ約束してほしい」
リリアが顔を上げた。
「なに?」
「宝物があるからって、無理はしないこと」
彼女は少し驚いたような顔をした。
「……うん」
「ライフ・ビーコンも、静寂の環も、万能じゃない。使い方を間違えれば、助かるはずの場面で危険に陥ることもある」
「分かってる」
リリアは頷いた。
「ちゃんと考えて使うよ」
「それならいい」
「……でも」
彼女が少しだけ笑った。
「その約束、アオにも守ってほしいな」
「俺にも?」
「うん」
リリアは俺をまっすぐ見た。
「アオだって、無茶することがあるでしょ」
俺は言葉に詰まった。
……まったく。
よく見ている。
「……努力する」
「努力じゃなくて、約束」
リリアは少しだけ頬を膨らませた。
俺は苦笑する。
「分かった。約束する」
「……うん」
彼女は満足そうに笑った。
そして、右手を差し出した。
「じゃあ、約束」
俺はその手を見た。
人差し指には、銀色の指輪が輝いている。
少し迷ったあと、俺も手を伸ばした。
彼女の手を握る。
温かかった。
指先に、確かな体温が伝わってくる。
「……約束だ」
俺が言うと、リリアは小さく頷いた。
その表情は、どこか嬉しそうだった。
◇
夕方が近づく頃、俺たちは宿の一階で早めの夕食を取ることにした。
リリアは新しい靴を履き、胸元にはライフ・ビーコンを下げている。
右手の人差し指には、静寂の環。
どちらも、すでに彼女の装備の一部になっていた。
階段を下りながら、俺はふと尋ねた。
「指輪、邪魔にならないか?」
「ううん。全然」
リリアは右手を軽く動かしてみせた。
「思ったより軽いし、指にもちゃんと合ってる」
「それならよかった」
「……それに」
「ん?」
彼女は少しだけ視線を逸らした。
「……気に入ってるから」
その声は、ひどく小さかった。
俺は一瞬、返事に迷った。
だが、すぐに笑った。
「そうか。なら、渡した甲斐があったな」
「……うん」
リリアは頷いた。
その頬が、また少し赤くなったように見えた。
俺は気づかないふりをして、階段を下りた。
食堂には、すでに数人の客が集まっていた。
温かい料理の匂いが漂い、木製の卓にはランプの光が揺れている。
俺たちは窓際の席に腰を下ろした。
注文を済ませると、リリアがふと口を開いた。
「ねえ、アオ」
「何だ?」
「次は、どこへ行くの?」
俺は少し考えた。
霧哭きの渓谷での仕事は終わった。
古代遺構の調査は、協会の専門家たちへ引き継がれている。
ジンやピヨンも、しばらくはあの場所に残るだろう。
ミレーヌも、救出された人々の今後や、協会の調査体制について忙しくなるはずだ。
俺たちは、次の目的地を自由に選べる立場にある。
もちろん、古代遺構で見つかった記録には、まだ多くの謎が残されている。
七つの施設。
失われた連絡網。
暗黒大陸から逃れてきた人々。
そして、『境界通過記録』。
それらを放置するつもりはない。
だが、今すぐ答えを求めて動く必要もなかった。
「……そうだな」
俺は窓の外へ目を向けた。
街の屋根の向こうに、夕焼けが広がっている。
「少しの間、ゆっくり旅をするのもいいかもしれない」
「ゆっくり?」
「ああ。仕事ばかりじゃなくて、行ってみたい場所へ行く。知らない街を見たり、珍しいものを食べたりな」
リリアは目を丸くした。
「……アオがそんなこと言うなんて」
「何だよ」
「ううん。ちょっと嬉しい」
彼女は笑った。
「私も、そういう旅をしてみたい」
「じゃあ、決まりだな」
「うん」
リリアは頷いた。
そして、少し考えてから言った。
「……でも、たまには危険な場所も調べたいな」
「結局、そうなるのか」
「だって、ハンターだもん」
彼女は楽しそうに笑った。
俺も笑う。
確かに、その通りだ。
未知の土地。
失われた遺跡。
誰も歩いたことのない道。
そうしたものに惹かれるからこそ、俺たちはハンターになった。
危険があると分かっていても、知りたいと思う。
見てみたいと思う。
その気持ちは、簡単には消えない。
「……まあ、ほどほどにな」
「アオこそ」
リリアが即座に返した。
俺は苦笑する。
「分かってるよ」
「本当に?」
「本当だ」
彼女は少し疑わしそうに俺を見たあと、笑った。
◇
夕食を終え、部屋へ戻る途中。
リリアが、ふと足を止めた。
「……アオ」
「ん?」
振り返ると、彼女は階段の途中に立っていた。
窓から差し込む夕陽が、栗色の髪を柔らかく照らしている。
胸元のペンダントが、淡い金色の光を宿していた。
右手には、銀色の指輪。
彼女は少しだけ迷ったような表情を浮かべていた。
「……今日は、本当にありがとう」
「さっきも聞いたぞ」
「うん。でも、もう一回言いたくて」
リリアは小さく笑った。
「ライフ・ビーコンも、静寂の環も……すごく大切なものなんでしょ?」
「ああ」
「それを、私に渡してくれたことが嬉しかった」
俺は黙って聞いていた。
彼女は続けた。
「でも、それ以上に……」
そこで、少し言葉を切った。
琥珀色の瞳が、俺を見つめる。
「……私を信頼してくれてるんだって、分かったから」
その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。
「当然だろ」
「……当然?」
「ああ」
俺は頷いた。
「今まで何度も、一緒に危険な場所を歩いてきた。お前に助けられたことだって、数え切れない」
リリアは静かに聞いている。
「だから、これからも頼りにしてる」
彼女の目が、わずかに見開かれた。
そして。
「……うん」
ゆっくりと頷いた。
「私も、アオを頼りにしてる」
その声は、まっすぐだった。
俺は笑った。
「じゃあ、これからもよろしくな」
「……うん。よろしく」
リリアも笑った。
夕陽の中で、その表情が柔らかく輝いて見えた。
俺たちは再び歩き始めた。
廊下の先には、それぞれの部屋がある。
今日という一日も、もうすぐ終わる。
明日になれば、また新しい旅の準備を始めるのだろう。
どこへ向かうかは、まだ決めていない。
だが、それでいい。
行き先を決めるのも、道を選ぶのも、これからは二人で相談すればいいのだから。
◇
その夜。
俺は部屋の窓辺に腰を下ろし、街の灯りを眺めていた。
昼間の出来事を思い返す。
ライフ・ビーコンを渡したときの、リリアの驚いた顔。
静寂の環を取り出したときの、妙に慌てた様子。
そして、指輪を身につけたあと、嬉しそうに笑った表情。
……指輪、か。
俺は小さく息を吐いた。
あのときは、少し焦った。
単に探索用の装備として渡すつもりだったのだが、どうやらリリアには別の意味に受け取られかけたらしい。
考えてみれば、当然かもしれない。
指輪というものには、昔から特別な意味が込められることがある。
前世でも、そうだった。
それを、何の説明もなく差し出したのだから。
……もう少し、渡し方を考えるべきだったな。
俺は苦笑した。
ただ。
彼女が指輪を受け取ってくれたことは、素直に嬉しかった。
ライフ・ビーコンも、静寂の環も。
どちらも、彼女がこれから危険な場所へ向かうときの助けになるはずだ。
もちろん、それだけで安全が保証されるわけではない。
俺たちが歩く道には、これからも危険が待っているだろう。
未知の念能力者。
古代文明の遺構。
人間の欲望が生み出す争い。
そして、まだ見ぬ世界の謎。
だが、俺たちは一人ではない。
互いの能力を理解し、役割を分け、必要なときには助け合える。
それは、どんな宝物にも劣らない強みだ。
俺は窓の外へ目を向けた。
夜空には、いくつもの星が瞬いている。
霧哭きの渓谷では、あれほど深い霧に覆われていた空。
今は、何の遮りもなく広がっていた。
……さて。
次は、どこへ行こうか。
俺はそんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じた。
隣の部屋からは、かすかに床板の軋む音が聞こえた。
リリアも、そろそろ休む頃だろう。
今日渡した二つの宝物が、これからどれほど役に立つのかは分からない。
できることなら、ライフ・ビーコンが発動するような事態には遭遇したくない。
静寂の環も、危険な敵から逃れるために使わずに済むなら、それに越したことはない。
それでも、備えがあることには意味がある。
命を守るための時間。
危険を避けるための静寂。
それらを、リリア自身が選んで使えるようになった。
その事実が、俺には何より心強かった。
俺は窓を閉め、灯りを落とした。
明日になれば、また新しい一日が始まる。
行き先は、まだ決まっていない。
だが、急ぐ必要もない。
霧哭きの渓谷での仕事は終わった。
俺たちは今、ようやく自分たちの時間を取り戻したのだから。
そして、これからの旅路は。
一人ではなく、二人で選んでいけばいい。