流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第六十八話 託された灯火と銀の指輪――二人の旅路に結ぶ約束

街へ戻る頃には、太陽がすっかり高く昇っていた。

 

 石畳の大通りには荷馬車が行き交い、軒先に色とりどりの布を吊るした商店が、昼の客を迎え入れている。

 

 焼きたてのパンの匂いに混じって、香辛料と炭火の香りが漂ってきた。

 

 つい数時間前まで、俺たちは街外れの岩場で、俺の特質系の発を使っていた。

 

『愚か者の宝物庫(ジャンキージャンクスロットマシーン)』。

 

 深紅の星髄石を供物に捧げ、三つのリールに七を揃えた。

 

 あのときの光景は、今でも鮮明に思い出せる。

 

 最初の二つが七で止まり、最後の一つが外れた瞬間の落胆。

 

 そこから始まった逆回転。

 

 そして、黄金の光に包まれた三つの七。

 

 あれほどの希少品を失う覚悟をしていただけに、当たった瞬間は柄にもなく興奮してしまった。

 

 だが、今になって思えば、あの派手な演出など些細なことだったのかもしれない。

 

 重要なのは、その結果として手に入れたものだ。

 

『生命の灯火(ライフ・ビーコン)』。

 

 致命的な危機に陥った人間の命を、最大三十分間繋ぎ止める宝物。

 

 アイテムボックスの中に収められた銀のペンダントは、今も静かに金色の光を宿しているはずだった。

 

 そして俺は、その使い道について、ほとんど結論を出していた。

 

「アオ、こっち」

 

 前方からリリアの声が聞こえた。

 

 顔を上げると、彼女が靴屋の軒先で手招きしている。

 

 明るい栗色の髪が、春風に揺れていた。

 

「見て。旅用の靴、種類が多いよ」

 

「本当だな」

 

 店先には、革製の長靴や軽量の短靴、山道用の厚底靴などが並んでいた。

 

 棚の奥には、登山家や探検家向けに作られた高価な靴も置かれている。丈夫な革と特殊な繊維を組み合わせたものや、岩場での滑りにくさを重視したものなど、用途に応じて様々な工夫が凝らされていた。

 

 もっとも、どれほど優れた靴でも、履く人間の足に合っていなければ意味がない。

 

 特に長距離を移動する探索では、わずかな違和感が積み重なり、思わぬ怪我や疲労に繋がることもある。

 

「これ、どうかな」

 

 リリアが手に取ったのは、暗褐色の革で作られた短靴だった。

 

 足首までしっかり覆う形状で、靴底には滑り止めの細かな溝が刻まれている。

 

「履いてみたらどうだ?」

 

「うん」

 

 彼女は店員に声をかけ、試着用の椅子に腰を下ろした。

 

 古い靴を脱ぎ、新しい靴へ足を通す。

 

 立ち上がって数歩歩くと、軽く膝を曲げ、つま先へ体重を乗せた。

 

 さらに踵を浮かせ、足首の動きを確かめる。

 

 単に見た目を確認しているわけではない。

 

 長距離を歩くことを前提に、細かな感触を調べているのだ。

 

「……少し、右の踵が浮くかな」

 

 リリアは呟き、別の大きさを店員に頼んだ。

 

 俺はその様子を眺めながら、近くに並んでいた靴底用の補修材へ目を向ける。

 

 渓谷の岩場は、靴を傷めやすい地形だった。

 

 今後も遺跡や山岳地帯へ向かう可能性がある以上、予備の補修材を持っておいて損はない。

 

 いくつか選んでいると、リリアが再び声をかけてきた。

 

「アオ」

 

「ん?」

 

「今度のはどう?」

 

 振り返る。

 

 彼女は新しい靴を履き、こちらへ片足を少し差し出していた。

 

 先ほどより足首の収まりがよく、立ち姿も自然だ。

 

「歩きやすそうだな」

 

「うん。今度はぴったり」

 

「なら、それがいいんじゃないか」

 

「そうする」

 

 満足そうに笑うリリアを見て、俺も少し口元を緩めた。

 

 霧哭きの渓谷では、彼女は常に周囲を警戒していた。

 

 足跡を調べ、地形を読み、危険な場所へ誰よりも先に踏み込むこともあった。

 

 そんな彼女が、今は新しい靴を選ぶことに夢中になっている。

 

 その光景が、妙に嬉しかった。

 

     ◇

 

 買い物は昼過ぎまで続いた。

 

 靴屋の次は衣料品店。

 

 そのあとは道具屋へ立ち寄り、消耗品や旅に必要な細かな品を買い足した。

 

 リリアは新しい靴のほかに、丈夫な手袋と薄手の外套を購入した。

 

 俺も予備の衣服と補修用品を揃える。

 

 もっとも、俺の場合はアイテムボックスがあるため、荷物の量をそれほど気にする必要はない。

 

 店を出たところで、リリアがこちらを見た。

 

「……アオ」

 

「何だ?」

 

「本当に服、買ったんだね」

 

「買うって言っただろ」

 

「うん。でも、ちょっと意外」

 

「俺はそんなに物を買わない人間に見えるのか?」

 

「必要になったら買うけど、まだ使えるものはずっと使ってそう」

 

 的確な指摘だった。

 

「……否定はしない」

 

「ふふっ」

 

 リリアは楽しそうに笑った。

 

 そのまま二人で大通りを歩く。

 

 やがて、街の中心部にある小さな広場へ出た。

 

 中央には噴水があり、周囲には木陰を作る大きな樹木が植えられている。

 

 子供たちが水辺で遊び、年配の人々が石造りの長椅子に腰を下ろしていた。

 

 穏やかな午後だった。

 

「少し休むか?」

 

「うん。ちょうど喉が渇いてた」

 

 俺たちは広場の端にある露店で果実水を買い、木陰の長椅子へ腰を下ろした。

 

 冷たい飲み物が喉を通る。

 

 甘酸っぱい果実の風味が、歩き回って火照った身体に心地よかった。

 

「……平和だね」

 

 リリアが呟いた。

 

「ああ」

 

「昨日まで、あんな場所にいたのが不思議なくらい」

 

 俺は噴水の向こうで遊ぶ子供たちを見た。

 

 霧哭きの渓谷。

 

 古代遺構。

 

 地下に囚われていた人々。

 

 崩落する通路と、念能力者たちとの戦闘。

 

 あの場所で見たものは、決して簡単に忘れられるものではない。

 

 だが、今ここにいる人々は、その出来事を知らない。

 

 知らないまま、今日という一日を過ごしている。

 

 それでいいのだと思う。

 

 世界のどこかで危険が起きているからといって、誰もが怯えて暮らす必要はない。

 

「……こういう時間があるから、また頑張れるんだろうな」

 

 俺が言うと、リリアは静かに頷いた。

 

「うん。私もそう思う」

 

 しばらく、二人で噴水を眺めた。

 

 水音が絶え間なく響いている。

 

 木々の葉が風に揺れ、地面に落ちた木漏れ日がゆっくりと形を変えていく。

 

 俺は果実水を飲み干し、杯を膝の上に置いた。

 

 そろそろ、話しておくべきだろう。

 

「……リリア」

 

「なに?」

 

「昨日から考えてたことがある」

 

 彼女がこちらを向いた。

 

「昨日?」

 

「ああ。今日手に入れた宝物のことも含めてな」

 

「ライフ・ビーコン?」

 

「そうだ」

 

 リリアの表情が少し引き締まる。

 

 俺は周囲を見回した。

 

 人通りは多く、ここで宝物を取り出すのは適切ではない。

 

 そもそも、念能力は一般に知られた技術ではない。

 

 ハンター協会の関係者や裏社会の一部には、その存在を知る者もいるが、普通の人々にとっては縁遠いものだ。

 

 人前で不用意に能力の話をするのは避けた方がいい。

 

「宿に戻ってから、少し話せるか?」

 

「うん。もちろん」

 

「できれば、落ち着いた場所で話したい」

 

 彼女は一瞬、不思議そうな顔をした。

 

 だが、すぐに頷いた。

 

「分かった」

 

     ◇

 

 宿へ戻ったのは、午後も半ばを過ぎた頃だった。

 

 買い物で手に入れた品をそれぞれの部屋へ置き、少し休んでから、リリアが俺の部屋を訪ねてきた。

 

 扉を叩く音がする。

 

「アオ、入ってもいい?」

 

「ああ」

 

 扉が開き、リリアが顔を覗かせた。

 

 新しく買った靴に履き替えている。

 

 歩き心地が気に入ったのだろう。

 

「お邪魔します」

 

「適当に座ってくれ」

 

「うん」

 

 彼女は窓際の椅子に腰を下ろした。

 

 俺は向かいの席に座り、机の上へ水差しと二つの杯を置く。

 

 窓の外では、街の屋根が午後の日差しを受けて輝いていた。

 

 しばらくの間、俺たちは今日の買い物について話した。

 

 新しい靴の履き心地。

 

 道具屋で見つけた珍しい器具。

 

 次の旅へ出る前に揃えておきたいもの。

 

 やがて会話が落ち着いたところで、俺は本題へ入った。

 

「……さて」

 

 リリアが顔を上げる。

 

「今朝手に入れた宝物のことなんだけどな」

 

「うん」

 

「もう一度、詳しく確認しておきたい」

 

 俺はアイテムボックスから、小さな布包みを取り出した。

 

 机の上に置き、ゆっくりと開く。

 

 現れたのは、銀色のペンダントだった。

 

『生命の灯火(ライフ・ビーコン)』。

 

 細い銀の鎖。

 

 燭台を思わせる繊細な装飾。

 

 中央には深紅の宝石が嵌め込まれ、その内部で小さな金色の光が揺れている。

 

 リリアは思わず身を乗り出した。

 

「……やっぱり綺麗だね」

 

「ああ」

 

 俺はペンダントを持ち上げた。

 

「能力については今朝説明した通りだ。登録した人間が致命的な危機に陥ったとき、自動的に発動する」

 

「最大三十分間、命を繋ぎ止めるんだよね」

 

「そう。ただし、怪我そのものを治すわけじゃない」

 

 リリアは頷いた。

 

「発動したあとも、治療が必要なんだね」

 

「ああ。それと、一度発動すると三十日間は再使用できない」

 

「登録できるのは一人だけ」

 

「その通り」

 

 俺はペンダントを机の上へ戻した。

 

「もう一つ、重要なことがある」

 

「なに?」

 

「登録した人間が危険な状態になったとき、俺がそれを察知できるのは、十キロ以内にいる場合だけだ」

 

 リリアは少し考え込んだ。

 

「……十キロより離れていたら?」

 

「宝物自体の救命効果は働く。ただ、俺に危険を知らせる機能は届かない」

 

「じゃあ、遠くで発動しても、アオが気づけないことがあるんだね」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「しかも、危険を察知できたからといって、俺が瞬間移動できるわけじゃない。距離や地形によっては、三十分以内に辿り着けない可能性もある」

 

 リリアは真剣な顔で聞いていた。

 

「だから、これを持っているから絶対に助かる、なんて考え方は危険だ」

 

「……うん」

 

「逆に言えば、治療を受けられる場所にいれば、生存の可能性を大きく高められる」

 

 俺はペンダントへ目を落とした。

 

 金色の光が、静かに揺れている。

 

「俺の回復能力とも相性がいい。発動から三十分以内に俺が治療できれば、助けられる可能性は高い」

 

「そうだね」

 

 リリアは小さく頷いた。

 

 そして、少しだけ眉を寄せた。

 

「でも、アオ」

 

「ん?」

 

「それなら、やっぱりアオが登録した方がいいんじゃない?」

 

 今朝も同じことを言われた。

 

 彼女なりに、ずっと考えていたのだろう。

 

「俺が?」

 

「うん。アオは危険な場所へ行くことが多いし、回復能力も持ってる。もしアオが倒れたら、私だけじゃどうにもできないこともあると思う」

 

 その言葉には、俺を案じる気持ちが込められていた。

 

 俺は少し考えてから答えた。

 

「確かに、それも一つの使い方だ」

 

「でしょ?」

 

「ただ、俺にはほかにも身を守る手段がある」

 

 リリアが口を開きかける。

 

 俺は続けた。

 

「念による防御もできるし、身体そのものも普通より頑丈だ。もちろん、それで絶対に死なないわけじゃない。でも、致命傷を負う可能性を減らす手段は多い」

 

「……うん」

 

「それに、俺が倒れたとき、宝物が命を繋いでくれたとしても、意識がなければ回復能力を使えないかもしれない」

 

 リリアは黙り込んだ。

 

 俺は彼女を見た。

 

「だから、俺は別の使い方を考えてる」

 

「別の……?」

 

「ああ」

 

 俺はペンダントを手に取った。

 

 そして、彼女の前へ差し出した。

 

「リリア。これを、お前に持っていてほしい」

 

 彼女の動きが止まった。

 

「……え?」

 

「ライフ・ビーコンだ」

 

「それは分かるけど……」

 

 リリアは俺の顔とペンダントを交互に見た。

 

「……私に?」

 

「ああ」

 

「でも、これ……」

 

 彼女は言葉を探すように視線を揺らした。

 

「すごく貴重な宝物なんでしょ?」

 

「そうだな」

 

「深紅の星髄石を使って、ようやく手に入れたものだよ?」

 

「分かってる」

 

「だったら、なおさら……」

 

 俺は静かに首を横に振った。

 

「だからこそ、必要な人間に使ってほしいんだ」

 

 リリアが口を閉じた。

 

 俺は続ける。

 

「お前はこれからも、危険な場所へ先行することがあるだろう」

 

「……うん」

 

「道を調べたり、敵の動きを探ったり。俺がすぐに駆けつけられない場所へ行くこともある」

 

 彼女の琥珀色の瞳が、俺を見つめている。

 

「そのとき、何かが起きたら……俺が助けに行くまでの時間が必要になる」

 

「……」

 

「この宝物は、その時間を作ってくれる」

 

 俺は差し出した手を動かさずに言った。

 

「俺は、お前が無事に戻ってこられる可能性を少しでも増やしたい」

 

 リリアは何も言わなかった。

 

 ただ、ペンダントを見つめていた。

 

 しばらくして、彼女が小さく息を吸う。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「それって、私が危ない目に遭うと思ってるから?」

 

「危険な仕事をしてるのは事実だろ」

 

「……そうだけど」

 

「それに、俺はお前の判断を信じてる」

 

 リリアが顔を上げた。

 

「だから、無茶をするためじゃなく、無事に帰るために使ってほしい」

 

 彼女はしばらく俺を見つめた。

 

 やがて、ゆっくりと頷いた。

 

「……分かった」

 

 その声は、少しだけ震えていた。

 

「ありがとう、アオ」

 

「ああ」

 

「大切にする」

 

 リリアは両手を差し出し、ペンダントを受け取った。

 

 銀の鎖が、彼女の指先で静かに揺れる。

 

 深紅の宝石の奥に灯る金色の光が、琥珀色の瞳へ映り込んだ。

 

「……本当に、綺麗」

 

 彼女は小さく呟いた。

 

 俺はその様子を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 受け取ってもらえてよかった。

 

     ◇

 

 ペンダントを渡したあと、俺たちは登録方法について確認した。

 

 宝物に意識を向けると、能力の情報が再び浮かび上がる。

 

 登録できる対象は一人。

 

 本人の同意が必要。

 

 登録を変更する場合は、二十四時間の待機が必要になる。

 

 俺はリリアへ、その内容を改めて説明した。

 

「……本当に、私でいいの?」

 

 彼女が尋ねた。

 

「ああ」

 

「あとで後悔しない?」

 

「しない」

 

 即答すると、リリアは少し困ったように笑った。

 

「……アオって、こういうときは本当に迷わないよね」

 

「迷ってないわけじゃないぞ」

 

「そうなの?」

 

「ああ。昨日からずっと考えてた」

 

 リリアは少し驚いた顔をした。

 

 俺は続けた。

 

「どう使うのが一番いいか。俺が持つべきか、誰かに託すべきか。いろいろ考えた」

 

「……それで、私?」

 

「ああ」

 

 彼女は視線を落とした。

 

 その頬が、ほんの少し赤くなったように見えた。

 

「……そっか」

 

 小さな声だった。

 

 俺はペンダントへ意識を向け、登録の操作を進める。

 

 すると、中央の宝石が淡く輝き始めた。

 

 金色の光がゆっくりと広がり、リリアの指先を照らす。

 

「……温かい」

 

 彼女が呟いた。

 

「痛みは?」

 

「ないよ。少し、手の中が温かくなる感じ」

 

 俺は頷いた。

 

「これから登録する。リリア、同意してくれるか?」

 

「……うん」

 

 彼女はペンダントを両手で包み込んだ。

 

「私を、登録して」

 

 その瞬間。

 

 宝石の内部にあった金色の光が、ひときわ強く輝いた。

 

 小さな炎が、風を受けたように揺れる。

 

 そして、ゆっくりと落ち着いていった。

 

 俺の視界に、新しい情報が浮かぶ。

 

 登録対象。

 

 リリア。

 

 登録完了。

 

「……できた」

 

 俺が言うと、リリアは目を見開いた。

 

「本当に?」

 

「ああ。登録された」

 

 彼女はペンダントを見つめた。

 

 その表情には、驚きと安堵が入り混じっていた。

 

「……なんだか、不思議な感じ」

 

「何か変化はあるか?」

 

「ううん。身体はいつも通り。ただ……」

 

「ただ?」

 

「少し、安心する」

 

 彼女はそう言って笑った。

 

 俺も自然と笑みを返した。

 

 登録は無事に終わった。

 

 あとは、宝物を正しく使うことだ。

 

 もちろん、実際に発動するような状況は、できれば訪れてほしくない。

 

 このペンダントが一度も働かないまま、長い旅を終えられるなら、それが一番いい。

 

「鎖の長さは合うか?」

 

「うん。大丈夫そう」

 

 リリアはペンダントを首へかけた。

 

 銀の鎖が胸元へ落ち、深紅の宝石が静かに揺れる。

 

 彼女は指先で宝石に触れた。

 

 金色の光が、ほんのわずかに明滅した。

 

「……似合うな」

 

 何気なく言うと、リリアの動きが止まった。

 

「……え?」

 

「いや、ペンダント」

 

「あ、うん……」

 

 彼女は少し俯いた。

 

「……ありがとう」

 

 その声が、妙に小さかった。

 

 俺は首を傾げたが、深く考えなかった。

 

 まだ、もう一つ渡したいものがあったからだ。

 

     ◇

 

「……それと、もう一つある」

 

 俺が言うと、リリアが顔を上げた。

 

「もう一つ?」

 

「ああ。こっちも、以前手に入れた宝物なんだ」

 

 俺はアイテムボックスへ意識を向けた。

 

 収納してある品の中から、目的のものを探す。

 

 そして、小さな布袋を取り出した。

 

 机の上に置き、紐を解く。

 

 中から現れたのは、一つの指輪だった。

 

 銀色の細い輪。

 

 表面には繊細な模様が刻まれ、光の角度によって淡い輝きが走る。

 

 派手な宝石が飾られているわけではない。

 

 それでも、丁寧に作り込まれた意匠には、どこか気品があった。

 

 俺は指輪を掌に載せた。

 

「これは『静寂の環』っていう宝物だ」

 

 そう言って顔を上げる。

 

 すると。

 

 リリアが、固まっていた。

 

「……リリア?」

 

「…………え?」

 

 彼女の視線は、俺の掌にある指輪へ釘付けになっている。

 

「どうした?」

 

「……ゆ、指輪?」

 

「ああ」

 

「……指輪、だよね?」

 

「そうだが」

 

 何を確認しているのだろう。

 

 見れば分かると思うのだが。

 

 俺が不思議に思っていると、リリアはゆっくりと俺の顔を見た。

 

 その頬が、みるみる赤くなっていく。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「それ……」

 

「ああ。リリアに持っていてほしいと思ってな」

 

「……っ!」

 

 彼女が息を呑んだ。

 

 そして、なぜか視線を逸らした。

 

「……えっと、その……」

 

「どうした?」

 

「……い、いや、別に……」

 

 リリアは指先で髪を整えた。

 

 だが、その手つきは普段より落ち着きがない。

 

 何か言おうとしては口を閉じ、また俺を見る。

 

 ……何だ?

 

 俺は一瞬、考え込んだ。

 

 指輪。

 

 男性から女性へ。

 

 贈り物。

 

 …………あ。

 

 そこでようやく、俺は気づいた。

 

 なるほど。

 

 そういうことか。

 

 前世の記憶があるくせに、どうして今まで思い至らなかったのだろう。

 

 男が女に指輪を贈る。

 

 状況によっては、特別な意味を持つ行為だ。

 

 しかも、今の俺は、二人きりの部屋で、わざわざ指輪を差し出している。

 

 ……これは。

 

 誤解されても仕方がない。

 

「……あー」

 

 俺は思わず声を漏らした。

 

 リリアがびくりと肩を揺らす。

 

「な、なに?」

 

「いや、その……」

 

 俺は少し言葉を探した。

 

「指輪って、そういう意味じゃなくてだな」

 

「わ、分かってる!」

 

 思った以上に大きな声が返ってきた。

 

 俺は目を瞬かせる。

 

 リリア自身も驚いたらしく、慌てて口元を押さえた。

 

「……ご、ごめん」

 

「いや、俺の方こそ」

 

 何とも言えない沈黙が落ちる。

 

 窓の外から、遠くの鐘の音が聞こえた。

 

 ……どうしたものか。

 

 俺は少し困った。

 

 指輪を渡すだけのつもりだった。

 

 それなのに、なぜか部屋の空気が妙なことになっている。

 

 リリアは俯いたまま、指先を落ち着きなく動かしていた。

 

 耳まで赤い。

 

 ……まったく。

 

 こういうことには、どうにも慣れない。

 

 俺は小さく咳払いをした。

 

「……とりあえず、能力の説明をしてもいいか?」

 

 リリアが顔を上げた。

 

「……うん」

 

 まだ少し頬が赤い。

 

 だが、彼女は椅子へ座り直し、真面目な表情を作った。

 

「聞かせて」

 

 俺は内心で安堵した。

 

 これなら、いつもの調子に戻れるだろう。

 

 ……たぶん。

 

     ◇

 

「まず、この指輪は俺の特質系の発――『愚か者の宝物庫(ジャンキージャンクスロットマシーン)』で、以前777を揃えたときに獲得した宝物だ」

 

 俺は指輪を机の上へ置いた。

 

「今日のライフ・ビーコンと同じように、特殊な効果を持っている」

 

「……うん」

 

 リリアは頷いた。

 

 今度は、しっかり指輪を見つめている。

 

「名前は『静寂の環』。隠密行動を補助するための宝物だ」

 

「隠密行動……」

 

「ああ。装備した人間の動きによって生じる音を、大幅に抑えることができる」

 

 リリアの目が、わずかに見開かれた。

 

「……音?」

 

「そうだ。足音や衣擦れの音みたいに、身体を動かすことで生じる物理的な音だ」

 

 俺は指輪を指先で持ち上げた。

 

「例えば、森の中を歩くとき。落ち葉を踏む音や、枝に服が擦れる音は、どれだけ注意しても完全には消しきれない」

 

「……うん」

 

「この指輪は、そういう音を抑えてくれる」

 

 リリアは少し考えた。

 

「じゃあ、敵に気づかれにくくなるんだね」

 

「そういうことだ。ただし、万能じゃない」

 

 俺は続けた。

 

「まず、姿が見えなくなるわけじゃない。相手の視界に入れば、普通に見つかる」

 

「……透明になる能力じゃないんだ」

 

「ああ。それに、匂いや足跡まで消してくれるわけでもない」

 

 リリアは静かに頷いた。

 

「それは大事だね」

 

「そうだな。足音が消えても、地面に残る痕跡までは消えない。追跡に慣れた相手なら、音以外の情報からこちらの存在に気づく可能性がある」

 

 俺は指輪を机へ戻した。

 

「それと、もう一つ重要なことがある」

 

「なに?」

 

「念の気配そのものを消す能力じゃない」

 

 リリアの表情が引き締まった。

 

「……じゃあ、敵が『円』を使っていたら?」

 

「指輪だけで防ぐことはできない」

 

 俺は頷いた。

 

「音を抑えられても、オーラの存在を消せるわけじゃないからな。相手の円に触れれば、感知される可能性がある」

 

「……なるほど」

 

「だから、念能力者を相手にするときは、普通の隠密行動と同じように『絶』や地形の利用も考える必要がある」

 

 リリアは顎に指を当てた。

 

「音を抑えるのと、気配を消すのは別なんだね」

 

「ああ」

 

 俺は続けた。

 

「たとえば、普通の人間が警戒している場所なら、かなり役立つと思う。見張りの背後を通ったり、音を立てずに移動したりするときにな」

 

「でも、念能力者が相手なら、別の対策も必要」

 

「その通りだ」

 

 リリアは指輪を見つめた。

 

 そして、少しだけ目を輝かせた。

 

「……それでも、すごく便利だね」

 

「ああ。特にリリアの能力とは相性がいいと思う」

 

「私の『迷い人の足跡』と?」

 

「そうだ」

 

 俺は頷いた。

 

「お前は、足跡や地形を調べるために先行することがあるだろ。敵に見つからずに周囲を確認したい場面も多い」

 

「……うん」

 

「そういうとき、音を抑えられるだけでも行動の選択肢が増える」

 

 リリアは少し考えたあと、ゆっくりと頷いた。

 

「確かに……」

 

 彼女は机の上の指輪へ視線を落とした。

 

「森の中で足跡を追うときとか、崩れた建物の中を調べるときとか……音を立てないようにするだけで、かなり気を使うから」

 

「そうだろ」

 

「それに、敵の位置を確認したあと、見つからずに戻るときにも使えそう」

 

「ああ」

 

 俺は少し笑った。

 

 やはり、リリアはこういう話になると理解が早い。

 

 能力の説明を聞きながら、すでに具体的な使用場面を考えている。

 

 俺が一から使い道を教える必要はなさそうだった。

 

「ただし、使用条件には注意してほしい」

 

 そう言うと、リリアは顔を上げた。

 

「……条件?」

 

「ああ。この指輪は装備型の宝物だ。身につけている間に効果を発揮する」

 

「……じゃあ、外したら?」

 

「効果は終了する」

 

 リリアは頷いた。

 

「なるほど。使ってる途中で落としたりしたら、そこで終わりなんだね」

 

「そういうことだ」

 

 俺は指輪を指先で回した。

 

「それに、一度使用したあとは、すぐにもう一度使えるわけじゃない」

 

「……再使用の制限があるの?」

 

「ああ」

 

 俺は指輪を机の上へ戻した。

 

「一度使ったら、睡眠を取って起床するまで再使用できない」

 

 リリアは少し考え込んだ。

 

「……じゃあ、使うタイミングが大切なんだね」

 

「そうだな」

 

「例えば、敵の拠点へ入るときに使って、途中で指輪を外したら……」

 

「その時点で効果は終了する。もう一度使いたくても、休息するまでは使えない」

 

「……なるほど」

 

 彼女は真剣な顔で頷いた。

 

「だったら、最初から使うんじゃなくて、本当に必要な場所まで取っておいた方がいい場合もあるね」

 

「俺もそう思う」

 

 俺は続けた。

 

「それと、効果があるからって、わざと大きな音を立てるような行動は避けた方がいい」

 

「どうして?」

 

「指輪が抑えるのは、あくまで装備者の動きによって生じる音だ。周囲のものを壊したり、離れた場所で物を落としたりした場合まで、何でも消せると考えるのは危険だからな」

 

 リリアはすぐに理解したようだった。

 

「……つまり、音が出ないように動くこと自体は、今まで通り必要なんだね」

 

「ああ。指輪は補助だ。頼り切るものじゃない」

 

「分かった」

 

 彼女は頷いた。

 

 それから、少し考えて尋ねた。

 

「……持続時間は?」

 

「効果を使っている間は続く。ただ、外せば終了するし、使用後は休息するまで再使用できない。だから、使い始める前に行動経路を決めておく方がいい」

 

「……うん」

 

 リリアは指輪を見つめた。

 

「だったら、私が使うときは、まず『迷い人の足跡』で経路を調べて……」

 

 彼女は指先で机の上に簡単な地図を描き始めた。

 

「危険な場所に入る前に、どこから進んで、どこへ戻るかを決めておく。指輪を使うのは、そのあと」

 

「いいと思う」

 

「もし敵の円が広がってたら、無理に近づかない」

 

「ああ」

 

「それと、指輪を使ったからって、一人で奥まで行きすぎない」

 

 俺は少し目を細めた。

 

「……そこまで考えてくれるなら安心だ」

 

 リリアは顔を上げた。

 

「だって、アオが心配するでしょ?」

 

「まあな」

 

「……私だって、アオが無茶したら心配するんだから」

 

 彼女はそう言って、少しだけ笑った。

 

 俺も笑みを返した。

 

 互いに心配をかけない。

 

 言葉にすれば簡単だが、実際には難しいことだ。

 

 危険な場所へ向かう以上、何も起きない保証はない。

 

 それでも、できるだけ無事に帰るための準備はできる。

 

 この指輪も、そのための一つの手段になるだろう。

 

     ◇

 

「……で、どうだ?」

 

 俺は指輪を持ち上げた。

 

「リリアが使ってくれるなら、俺としてはありがたいんだけどな」

 

 彼女は少し驚いたように俺を見た。

 

「……本当に、もらっていいの?」

 

「ああ」

 

「でも、これも貴重な宝物なんでしょ?」

 

「そうだな。普通に手に入るものじゃない」

 

「……だったら」

 

「だから、必要な人間に使ってほしいんだ」

 

 俺は先ほどと同じ言葉を繰り返した。

 

 リリアは一瞬、口を閉じた。

 

 そして、ゆっくりと視線を落とした。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「……ありがとう」

 

 その声は、先ほどよりも少し小さかった。

 

 俺は指輪を差し出した。

 

 リリアは両手を伸ばし、慎重に受け取った。

 

 銀色の輪が、彼女の掌に収まる。

 

 しばらく、彼女はそれを見つめていた。

 

 そして。

 

「……ねえ、アオ」

 

「何だ?」

 

「これ……どの指につければいいのかな」

 

 俺は一瞬、考えた。

 

 装備型の宝物とはいえ、特定の指でなければ効果が出ないという条件はなかったはずだ。

 

「……つけやすい指でいいと思うぞ」

 

「そ、そう?」

 

「ああ。邪魔にならないところがいいだろうな」

 

「……うん」

 

 リリアは指輪を持ち上げた。

 

 そして、左手へ目を向ける。

 

 その瞬間。

 

 彼女の動きが止まった。

 

 ……ん?

 

 何だ?

 

 リリアはなぜか、左手の薬指を見つめている。

 

 それから、慌てたように右手へ視線を移した。

 

 ……ああ。

 

 なるほど。

 

 俺は思わず苦笑しそうになった。

 

 どうやら、まだ少し意識しているらしい。

 

 リリアは右手の人差し指へ、そっと指輪を通した。

 

 銀色の輪が、細い指に収まる。

 

 大きすぎることも、小さすぎることもなかった。

 

 まるで、最初から彼女のために作られていたかのようだった。

 

「……ぴったり」

 

 リリアが呟いた。

 

「そうだな」

 

 俺は彼女の手元を見た。

 

 銀色の指輪。

 

 繊細な模様。

 

 そして、胸元には深紅のペンダント。

 

 どちらも派手すぎず、彼女の雰囲気によく合っていた。

 

「……似合ってるな」

 

 何気なく言った。

 

 すると。

 

「……っ!」

 

 リリアが、びくりと肩を揺らした。

 

 俺は目を瞬かせる。

 

「……リリア?」

 

「……な、何でもない!」

 

 彼女は慌てて顔を逸らした。

 

 だが、耳まで赤い。

 

 ……しまった。

 

 また何か変なことを言っただろうか。

 

 いや、似合っていると思ったからそう言っただけなのだが。

 

 俺が少し困っていると、リリアは右手を胸元へ引き寄せた。

 

 指輪をつけた手を、もう片方の手で包み込む。

 

「……ありがとう」

 

 小さな声だった。

 

 俺は頷いた。

 

「ああ」

 

 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。

 

 部屋の中に、静かな時間が流れる。

 

 窓の外からは、街のざわめきが聞こえていた。

 

 遠くで子供たちが笑っている。

 

 荷車の車輪が石畳を叩く音がする。

 

 そんな日常の音が、今は妙にはっきりと耳に届いた。

 

     ◇

 

 しばらくして、リリアが顔を上げた。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「この指輪、試してみてもいい?」

 

「ああ。もちろん」

 

 俺は頷いた。

 

「ただし、使用後は休息するまで再使用できないからな。試すなら、そのつもりで」

 

「……うん」

 

 リリアは少し考えた。

 

 そして、指輪を見つめたまま首を横に振った。

 

「……やっぱり、今日はやめておく」

 

「どうして?」

 

「今すぐ必要なわけじゃないし、使える状態のまま持っておいた方がいいと思うから」

 

 俺は思わず笑った。

 

「賢明だな」

 

「それに、せっかくもらったんだから、最初はちゃんと使う場面で試したい」

 

「そうか」

 

 彼女は指輪を指先でそっと撫でた。

 

「……大切に使うね」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

 それから、少しだけ真面目な顔になる。

 

「ただ、一つだけ約束してほしい」

 

 リリアが顔を上げた。

 

「なに?」

 

「宝物があるからって、無理はしないこと」

 

 彼女は少し驚いたような顔をした。

 

「……うん」

 

「ライフ・ビーコンも、静寂の環も、万能じゃない。使い方を間違えれば、助かるはずの場面で危険に陥ることもある」

 

「分かってる」

 

 リリアは頷いた。

 

「ちゃんと考えて使うよ」

 

「それならいい」

 

「……でも」

 

 彼女が少しだけ笑った。

 

「その約束、アオにも守ってほしいな」

 

「俺にも?」

 

「うん」

 

 リリアは俺をまっすぐ見た。

 

「アオだって、無茶することがあるでしょ」

 

 俺は言葉に詰まった。

 

 ……まったく。

 

 よく見ている。

 

「……努力する」

 

「努力じゃなくて、約束」

 

 リリアは少しだけ頬を膨らませた。

 

 俺は苦笑する。

 

「分かった。約束する」

 

「……うん」

 

 彼女は満足そうに笑った。

 

 そして、右手を差し出した。

 

「じゃあ、約束」

 

 俺はその手を見た。

 

 人差し指には、銀色の指輪が輝いている。

 

 少し迷ったあと、俺も手を伸ばした。

 

 彼女の手を握る。

 

 温かかった。

 

 指先に、確かな体温が伝わってくる。

 

「……約束だ」

 

 俺が言うと、リリアは小さく頷いた。

 

 その表情は、どこか嬉しそうだった。

 

     ◇

 

 夕方が近づく頃、俺たちは宿の一階で早めの夕食を取ることにした。

 

 リリアは新しい靴を履き、胸元にはライフ・ビーコンを下げている。

 

 右手の人差し指には、静寂の環。

 

 どちらも、すでに彼女の装備の一部になっていた。

 

 階段を下りながら、俺はふと尋ねた。

 

「指輪、邪魔にならないか?」

 

「ううん。全然」

 

 リリアは右手を軽く動かしてみせた。

 

「思ったより軽いし、指にもちゃんと合ってる」

 

「それならよかった」

 

「……それに」

 

「ん?」

 

 彼女は少しだけ視線を逸らした。

 

「……気に入ってるから」

 

 その声は、ひどく小さかった。

 

 俺は一瞬、返事に迷った。

 

 だが、すぐに笑った。

 

「そうか。なら、渡した甲斐があったな」

 

「……うん」

 

 リリアは頷いた。

 

 その頬が、また少し赤くなったように見えた。

 

 俺は気づかないふりをして、階段を下りた。

 

 食堂には、すでに数人の客が集まっていた。

 

 温かい料理の匂いが漂い、木製の卓にはランプの光が揺れている。

 

 俺たちは窓際の席に腰を下ろした。

 

 注文を済ませると、リリアがふと口を開いた。

 

「ねえ、アオ」

 

「何だ?」

 

「次は、どこへ行くの?」

 

 俺は少し考えた。

 

 霧哭きの渓谷での仕事は終わった。

 

 古代遺構の調査は、協会の専門家たちへ引き継がれている。

 

 ジンやピヨンも、しばらくはあの場所に残るだろう。

 

 ミレーヌも、救出された人々の今後や、協会の調査体制について忙しくなるはずだ。

 

 俺たちは、次の目的地を自由に選べる立場にある。

 

 もちろん、古代遺構で見つかった記録には、まだ多くの謎が残されている。

 

 七つの施設。

 

 失われた連絡網。

 

 暗黒大陸から逃れてきた人々。

 

 そして、『境界通過記録』。

 

 それらを放置するつもりはない。

 

 だが、今すぐ答えを求めて動く必要もなかった。

 

「……そうだな」

 

 俺は窓の外へ目を向けた。

 

 街の屋根の向こうに、夕焼けが広がっている。

 

「少しの間、ゆっくり旅をするのもいいかもしれない」

 

「ゆっくり?」

 

「ああ。仕事ばかりじゃなくて、行ってみたい場所へ行く。知らない街を見たり、珍しいものを食べたりな」

 

 リリアは目を丸くした。

 

「……アオがそんなこと言うなんて」

 

「何だよ」

 

「ううん。ちょっと嬉しい」

 

 彼女は笑った。

 

「私も、そういう旅をしてみたい」

 

「じゃあ、決まりだな」

 

「うん」

 

 リリアは頷いた。

 

 そして、少し考えてから言った。

 

「……でも、たまには危険な場所も調べたいな」

 

「結局、そうなるのか」

 

「だって、ハンターだもん」

 

 彼女は楽しそうに笑った。

 

 俺も笑う。

 

 確かに、その通りだ。

 

 未知の土地。

 

 失われた遺跡。

 

 誰も歩いたことのない道。

 

 そうしたものに惹かれるからこそ、俺たちはハンターになった。

 

 危険があると分かっていても、知りたいと思う。

 

 見てみたいと思う。

 

 その気持ちは、簡単には消えない。

 

「……まあ、ほどほどにな」

 

「アオこそ」

 

 リリアが即座に返した。

 

 俺は苦笑する。

 

「分かってるよ」

 

「本当に?」

 

「本当だ」

 

 彼女は少し疑わしそうに俺を見たあと、笑った。

 

     ◇

 

 夕食を終え、部屋へ戻る途中。

 

 リリアが、ふと足を止めた。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

 振り返ると、彼女は階段の途中に立っていた。

 

 窓から差し込む夕陽が、栗色の髪を柔らかく照らしている。

 

 胸元のペンダントが、淡い金色の光を宿していた。

 

 右手には、銀色の指輪。

 

 彼女は少しだけ迷ったような表情を浮かべていた。

 

「……今日は、本当にありがとう」

 

「さっきも聞いたぞ」

 

「うん。でも、もう一回言いたくて」

 

 リリアは小さく笑った。

 

「ライフ・ビーコンも、静寂の環も……すごく大切なものなんでしょ?」

 

「ああ」

 

「それを、私に渡してくれたことが嬉しかった」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

 彼女は続けた。

 

「でも、それ以上に……」

 

 そこで、少し言葉を切った。

 

 琥珀色の瞳が、俺を見つめる。

 

「……私を信頼してくれてるんだって、分かったから」

 

 その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。

 

「当然だろ」

 

「……当然?」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「今まで何度も、一緒に危険な場所を歩いてきた。お前に助けられたことだって、数え切れない」

 

 リリアは静かに聞いている。

 

「だから、これからも頼りにしてる」

 

 彼女の目が、わずかに見開かれた。

 

 そして。

 

「……うん」

 

 ゆっくりと頷いた。

 

「私も、アオを頼りにしてる」

 

 その声は、まっすぐだった。

 

 俺は笑った。

 

「じゃあ、これからもよろしくな」

 

「……うん。よろしく」

 

 リリアも笑った。

 

 夕陽の中で、その表情が柔らかく輝いて見えた。

 

 俺たちは再び歩き始めた。

 

 廊下の先には、それぞれの部屋がある。

 

 今日という一日も、もうすぐ終わる。

 

 明日になれば、また新しい旅の準備を始めるのだろう。

 

 どこへ向かうかは、まだ決めていない。

 

 だが、それでいい。

 

 行き先を決めるのも、道を選ぶのも、これからは二人で相談すればいいのだから。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 俺は部屋の窓辺に腰を下ろし、街の灯りを眺めていた。

 

 昼間の出来事を思い返す。

 

 ライフ・ビーコンを渡したときの、リリアの驚いた顔。

 

 静寂の環を取り出したときの、妙に慌てた様子。

 

 そして、指輪を身につけたあと、嬉しそうに笑った表情。

 

 ……指輪、か。

 

 俺は小さく息を吐いた。

 

 あのときは、少し焦った。

 

 単に探索用の装備として渡すつもりだったのだが、どうやらリリアには別の意味に受け取られかけたらしい。

 

 考えてみれば、当然かもしれない。

 

 指輪というものには、昔から特別な意味が込められることがある。

 

 前世でも、そうだった。

 

 それを、何の説明もなく差し出したのだから。

 

 ……もう少し、渡し方を考えるべきだったな。

 

 俺は苦笑した。

 

 ただ。

 

 彼女が指輪を受け取ってくれたことは、素直に嬉しかった。

 

 ライフ・ビーコンも、静寂の環も。

 

 どちらも、彼女がこれから危険な場所へ向かうときの助けになるはずだ。

 

 もちろん、それだけで安全が保証されるわけではない。

 

 俺たちが歩く道には、これからも危険が待っているだろう。

 

 未知の念能力者。

 

 古代文明の遺構。

 

 人間の欲望が生み出す争い。

 

 そして、まだ見ぬ世界の謎。

 

 だが、俺たちは一人ではない。

 

 互いの能力を理解し、役割を分け、必要なときには助け合える。

 

 それは、どんな宝物にも劣らない強みだ。

 

 俺は窓の外へ目を向けた。

 

 夜空には、いくつもの星が瞬いている。

 

 霧哭きの渓谷では、あれほど深い霧に覆われていた空。

 

 今は、何の遮りもなく広がっていた。

 

 ……さて。

 

 次は、どこへ行こうか。

 

 俺はそんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じた。

 

 隣の部屋からは、かすかに床板の軋む音が聞こえた。

 

 リリアも、そろそろ休む頃だろう。

 

 今日渡した二つの宝物が、これからどれほど役に立つのかは分からない。

 

 できることなら、ライフ・ビーコンが発動するような事態には遭遇したくない。

 

 静寂の環も、危険な敵から逃れるために使わずに済むなら、それに越したことはない。

 

 それでも、備えがあることには意味がある。

 

 命を守るための時間。

 

 危険を避けるための静寂。

 

 それらを、リリア自身が選んで使えるようになった。

 

 その事実が、俺には何より心強かった。

 

 俺は窓を閉め、灯りを落とした。

 

 明日になれば、また新しい一日が始まる。

 

 行き先は、まだ決まっていない。

 

 だが、急ぐ必要もない。

 

 霧哭きの渓谷での仕事は終わった。

 

 俺たちは今、ようやく自分たちの時間を取り戻したのだから。

 

 そして、これからの旅路は。

 

 一人ではなく、二人で選んでいけばいい。

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