流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
朝の光が、窓辺に置かれた水差しを透かしていた。
薄い硝子の中で光が屈折し、白い漆喰の壁に小さな虹を作っている。
窓の外からは、街路樹の葉擦れと、遠くを走る荷馬車の音が聞こえていた。
俺は寝台に腰掛けたまま、しばらくその光景を眺めていた。
昨日に続いて、今日も休みだ。
朝から仕事に追われる必要はない。
誰かとの待ち合わせに遅れる心配もなければ、夜明け前に野営地を撤収する必要もない。
それなのに、身体はいつもと同じ時間に目を覚ましてしまった。
長年染みついた習慣というのは、そう簡単に変わらないらしい。
「……さて」
軽く肩を回す。
関節に違和感はない。
霧哭きの渓谷での探索によって蓄積していた疲労も、すでにほとんど抜けている。
俺は窓を開け、春の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
少し湿り気を含んだ風が頬を撫でる。
宿の裏庭では、女中が洗濯物を干していた。
白い布が風に膨らみ、縄の上でゆっくりと揺れている。
昨日、リリアと歩いた街。
市場で食べた甘い焼き菓子。
川沿いの食堂。
丘の上から見下ろした赤茶色の屋根の海。
そんな光景が、自然と頭に浮かんだ。
考えてみれば、随分と久しぶりだった。
何かを成し遂げるためではなく、ただ一日を楽しむために街を歩いたのは。
流星街で暮らしていた頃には、そんな余裕などなかった。
食料や水の確保、寝床の整備、身体を鍛えること。
生きるために必要なことが、常に優先された。
ハンターになってからも、仕事や修行、探索に費やす時間が多かった。
もちろん、それらを苦痛だと思ったことはない。
自分で選んだ道だ。
それでも、昨日のような一日を過ごしてみると、今まで見落としていたものが随分と多かったことに気づかされる。
……リリアのおかげ、か。
俺は小さく笑った。
あいつが街の案内冊子を持ってこなければ、昨日も宿で地図を広げていたかもしれない。
今日は何をするのだろう。
昨日の夕方、リリアは洗濯や荷物の整理をしたいと言っていた。
俺も装備の手入れを済ませるつもりだ。
それが終わったら、買ってきた果物でも食べよう。
そんなことを考えながら、俺は顔を洗い、着替えを始めた。
◇
宿の食堂へ下りると、リリアはすでに窓際の席に座っていた。
昨日と同じ場所だ。
ただ、今日は案内冊子ではなく、小さな手帳を開いている。
栗色の髪は緩く結ばれ、薄い生成り色の上着を着ていた。
胸元には、深紅の宝石を抱いた銀のペンダント。
右手の人差し指には、繊細な模様の刻まれた銀の指輪。
どちらも、昨日と変わらず身につけている。
「おはよう、リリア」
声をかけると、彼女は顔を上げた。
「あ、おはよう、アオ」
「今日も早いな」
「アオもね」
リリアは笑って、向かいの椅子を指した。
「ここ、空いてるよ」
「ありがとう」
腰を下ろすと、彼女は手帳を閉じた。
「何を書いてたんだ?」
「昨日のこと」
「昨日?」
「うん。行ったお店とか、食べたものとか。忘れないように」
そう言って、彼女は手帳の頁を少しだけ見せてくれた。
整った文字が並んでいる。
市場の名前。
蜜鈴果という果物。
川沿いの食堂。
丘の公園。
それぞれの横には、短い感想が添えられていた。
「随分細かいな」
「そうかな?」
「ああ。俺だったら、そこまで書かないかもしれない」
「でも、あとで読み返すと楽しいよ」
リリアは手帳を閉じ、指先で表紙を撫でた。
「何年か経ってから、こんなことがあったなって思い出せるでしょ?」
俺は少し考えた。
確かに、そうかもしれない。
記憶というものは、思っている以上に曖昧だ。
強烈な出来事は覚えていても、何気ない日常の細部は少しずつ薄れていく。
昨日食べた焼き菓子の味も、数年後にははっきり思い出せなくなっているかもしれない。
「……なるほどな」
「アオも書いてみる?」
「俺が?」
「うん。旅の日記」
リリアは楽しそうに言った。
「アオなら、すごく詳しく書きそう」
「調査記録みたいになりそうだな」
「ふふっ。確かに」
彼女は笑った。
「でも、それはそれで読んでみたいかも」
「何年後かに見せたら、呆れられそうだ」
「どうして?」
「食べ物の感想より、地形や移動距離の記録が多そうだから」
「ああ……」
リリアは納得したように頷いた。
そして、少し間を置いて笑い出した。
「それ、すごくアオらしい」
俺もつられて笑った。
そんな会話をしているうちに、朝食が運ばれてきた。
温かいパンに卵料理。
野菜のスープと、薄く切った燻製肉。
昨日と大きく変わらない献立だが、焼きたてのパンの香りは食欲を誘う。
俺たちは食事を取りながら、今日の予定を話し合った。
「午前中は洗濯と荷物の整理をしたいんだよね」
リリアが言った。
「俺も装備の手入れをするつもりだ」
「じゃあ、お昼くらいまでは別々かな」
「そうだな」
「……あ、でも」
彼女は何かを思い出したように顔を上げた。
「昨日買った果物、一緒に食べない?」
「ああ。ちょうど俺もそう思ってた」
「本当?」
「昼過ぎにでも切ろうか」
「うん!」
リリアは嬉しそうに頷いた。
それから、少しだけ考える。
「……あと、木彫りの鳥も見せたい」
「昨日買ったやつか」
「うん。部屋に飾ったんだけど、結構いい感じなの」
「それは楽しみだ」
俺が答えると、彼女は満足そうに笑った。
今日も、穏やかな一日になりそうだった。
◇
朝食のあと、俺は自分の部屋へ戻り、装備の点検を始めた。
まずは普段使っている衣服。
縫い目のほつれや、生地の傷みを確認する。
次に靴。
昨日は街歩き用の靴を履いていたが、探索用のものは別に保管してある。
靴底の摩耗、紐の状態、革の乾燥具合。
小さな不具合でも、長距離を歩くうちに大きな問題へ変わることがある。
だから、こうした点検は欠かせない。
もっとも、今日は急ぐ必要がなかった。
窓を開け、風を通しながら、一つずつ丁寧に確認していく。
アイテムボックスから取り出した道具を机へ並べ、汚れを落とし、必要な箇所に油を差す。
途中、何度か窓の外へ目を向けた。
通りでは、荷馬車がゆっくりと走っている。
子供たちが何かを追いかけていた。
遠くから、教会らしい建物の鐘が聞こえてくる。
いつもなら、こうした音は意識の片隅へ追いやってしまう。
だが今日は、妙に耳へ残った。
……平和だな。
俺は布で道具の表面を拭きながら思った。
もちろん、この街にも犯罪はあるだろう。
どんな土地にも、人間の欲望や悪意は存在する。
ブラックリストハンターとして仕事をしていれば、そうしたものと向き合う機会は避けられない。
だが、それが街のすべてではない。
昨日見た市場の賑わいも、今日聞こえる子供たちの笑い声も、同じ街の一部なのだ。
俺たちが守ろうとしているものは、案外こういう何気ない日常なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、装備の点検は終わった。
時計を見る。
まだ昼前だった。
「……思ったより早く終わったな」
俺は道具を片づけ、洗濯物をまとめた。
宿の裏庭には洗濯場がある。
そこで衣服を洗い、干しておけば、今日の陽気なら夕方までには乾くだろう。
洗濯物を抱えて階段を下りる。
すると、廊下の向こうからリリアが現れた。
「あ、アオ」
「リリア」
彼女も洗濯物を抱えていた。
互いの手元を見て、思わず笑ってしまう。
「同じこと考えてたみたいだね」
「そうらしいな」
「一緒に行く?」
「ああ」
俺たちは並んで裏庭へ向かった。
◇
洗濯場には、石造りの大きな水槽が二つ並んでいた。
片方には綺麗な水が溜められ、もう片方はすすぎ用になっている。
近くには木製の洗濯板と石鹸が置かれていた。
宿の女中に声をかけ、使用料を払う。
俺たちは水槽の前に並び、洗濯を始めた。
「……こういうの、久しぶりだね」
リリアが言った。
「宿で洗濯するのが?」
「うん。野営中は川で洗うことも多かったから」
「確かにな」
俺は石鹸を泡立てながら答えた。
旅の途中では、水を確保するだけでも苦労することがある。
洗濯に十分な水を使える環境は、それだけでありがたい。
リリアは手慣れた動作で衣服を洗っていた。
布を傷めないように力を調整し、汚れのひどい箇所だけ丁寧に擦っている。
俺も自分の洗濯物を処理しながら、ふと彼女の手元を見た。
右手の人差し指に、銀色の指輪がある。
「……リリア」
「ん?」
「指輪、外しておいた方がいいんじゃないか?」
彼女は自分の手を見た。
「あ……」
少し考えたあと、笑った。
「そうだね。石鹸がついちゃう」
リリアは指輪を外し、清潔な布で包んでから、上着の内ポケットへしまった。
その仕草が、妙に丁寧だった。
「……随分大事にしてくれてるんだな」
俺が言うと、リリアは顔を上げた。
「当たり前でしょ?」
「いや、そうなんだが」
「アオがくれたものだもん」
彼女は何でもないことのように言った。
だが、その言葉に俺は一瞬返事を忘れた。
……そうか。
能力の便利さだけじゃなく、俺から渡したものだから大切にしてくれているのか。
昨日も似たようなことを言われた気がする。
それでも、改めて聞くと少し照れくさかった。
「……ありがとう」
俺が言うと、リリアは首を傾げた。
「どうしてアオがお礼を言うの?」
「大事にしてくれてるから」
彼女は目を瞬かせた。
それから、少しだけ頬を赤くした。
「……うん」
小さく頷き、再び洗濯物へ目を落とす。
俺も手元へ視線を戻した。
しばらく、二人の間には水の音だけが続いた。
気まずいわけではない。
ただ、何となく互いに次の言葉を探しているような沈黙だった。
やがて、リリアが小さく笑った。
「……何だか、変な感じ」
「何が?」
「こうして二人で洗濯してるの」
「そうか?」
「うん。旅の途中では普通にやってたことなのに、宿の庭だとちょっと違うね」
俺は周囲を見回した。
陽光の差す裏庭。
洗濯物を干す縄。
水槽の脇に置かれた木桶。
確かに、野営地での作業とは雰囲気が違う。
「……生活してるって感じがするな」
俺が言うと、リリアは嬉しそうに笑った。
「そう、それ!」
彼女は頷いた。
「何だか、普通に暮らしてるみたい」
その言葉に、俺は少しだけ考え込んだ。
普通に暮らす。
俺たちは旅をしている。
いずれこの街を離れ、別の土地へ向かうだろう。
だが、だからといって、今ここで過ごしている時間が仮のものになるわけではない。
食事をして、洗濯をして、眠る。
そうした積み重ねも、確かに俺たちの生活なのだ。
「……そうだな」
俺は答えた。
「今は、ここが俺たちの暮らしてる場所なんだろうな」
リリアは少し驚いたように俺を見た。
それから、柔らかく笑った。
「……うん」
◇
昼過ぎ。
洗濯物を干し終えた俺たちは、リリアの部屋へ集まった。
彼女が昨日買った木彫りの鳥を見せたいと言ったからだ。
部屋の間取りは、俺の部屋とほとんど変わらない。
寝台が一つ。
小さな机と椅子。
窓際には水差しと花瓶が置かれている。
ただ、リリアの部屋には、俺の部屋にはないものがいくつかあった。
机の端に置かれた手帳。
丁寧に畳まれた外套。
窓辺に飾られた、小さな木彫りの鳥。
「あれか」
「うん」
リリアは嬉しそうに窓辺へ歩いた。
木彫りの鳥は、窓から差し込む光を受けて、柔らかな影を落としている。
昨日、市場で見たときよりも、随分と馴染んで見えた。
「いい場所だな」
「でしょ?」
リリアは満足そうに頷いた。
「朝起きたとき、最初に目に入るんだ」
「なるほど」
「何だか、それだけでちょっと嬉しくなる」
俺は木彫りの鳥を眺めた。
小さな置物だ。
戦闘に役立つわけでも、旅の荷物を軽くしてくれるわけでもない。
だが、彼女にとっては確かな価値がある。
……昨日、買ってよかったな。
俺はそう思った。
「さて」
俺は持ってきた布袋を机へ置いた。
「約束の果物だ」
「あ、蜜鈴果!」
リリアが顔を輝かせた。
袋から取り出した赤い果実は、昨日と変わらず甘い香りを放っている。
俺は宿から借りた小さな皿と果物用のナイフを並べた。
「切るぞ」
「お願い」
皮を薄く剥き、果肉を食べやすい大きさに切り分ける。
瑞々しい果汁が刃を伝い、皿へ落ちた。
リリアは椅子に座り、期待に満ちた目で見ている。
「……そんなに楽しみだったのか?」
「うん」
即答だった。
「昨日食べたとき、すごく美味しかったから」
「確かにな」
「それに、アオと一緒に食べようと思ってたし」
俺は手を止めかけた。
……最近、こういう言葉に妙に反応してしまう。
以前なら、何の気なしに聞き流していたかもしれない。
だが、昨日の指輪の件があってから、どうにも意識してしまうことが増えた。
俺は何事もなかったように果物を切り終えた。
「ほら」
「ありがとう」
リリアは一切れ摘まみ、口へ運んだ。
途端に、目を細める。
「……やっぱり美味しい」
「昨日のより甘い気がするな」
「そう?」
「ああ。熟し具合の違いかもしれない」
俺も一切れ食べた。
濃厚な甘味が口いっぱいに広がる。
後味には爽やかな酸味が残った。
確かに、昨日食べたものより少し甘い。
「……当たりだったな」
俺が言うと、リリアは得意げに笑った。
「私が選んだやつだからね」
「そうだったな」
「ふふっ」
俺たちは果物を食べながら、昨日買った冊子を広げた。
周辺の街や村について書かれた、薄い旅行案内だ。
湖畔の街。
山あいの温泉地。
古い石橋の残る村。
どこへ行くかは、まだ決めていない。
だが、こうして候補を眺めるだけでも楽しかった。
「……ここ、やっぱり行ってみたいな」
リリアが指差したのは、昨日も気にしていた湖畔の街だった。
白い建物が水面に映る、美しい挿絵が載っている。
「湖の街か」
「うん。舟にも乗れるんだって」
「観光用の舟か」
「そうみたい」
リリアは少し笑った。
「アオ、舟に乗るのは好き?」
「嫌いじゃないな」
「じゃあ、いつか一緒に乗ろうよ」
「ああ。いいぞ」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに頷いた。
それから、ふと窓の外へ目を向ける。
「……今日はいい天気だね」
「そうだな」
「午後、少しだけ外に出ない?」
「構わないぞ」
「昨日みたいに遠くまで行かなくていいから」
リリアは少し考えた。
「……お茶でも飲みに行きたいな」
「喫茶店か」
「うん。昨日、市場の帰りに見かけたお店が気になってて」
「じゃあ、行ってみようか」
俺が答えると、リリアは嬉しそうに笑った。
◇
午後三時を少し過ぎた頃。
俺たちは宿を出て、街の中心部へ向かった。
午前中に洗濯を済ませたおかげで、気分もすっきりしている。
リリアは昨日と同じ新しい靴を履き、薄手の外套を羽織っていた。
右手の人差し指には、再び銀色の指輪が輝いている。
胸元のペンダントも、春の日差しを受けて小さく光っていた。
通りには、午後の穏やかな空気が漂っていた。
市場の喧騒から少し離れた住宅街。
石畳の道沿いには、小さな商店や工房が並んでいる。
パン屋。
花屋。
仕立屋。
古い時計を修理する店。
どの店も大通りほど賑やかではないが、それぞれに落ち着いた雰囲気があった。
「……この辺り、いいね」
リリアが言った。
「ああ。静かだな」
「昨日は人が多かったから、余計にそう感じるのかも」
彼女は通りの向こうを指差した。
「あ、あそこ」
目当ての喫茶店は、二階建ての古い建物の一階にあった。
外壁には蔦が這い、木製の看板には花と茶器の絵が描かれている。
窓辺には小さな鉢植えが並び、入口の脇には手書きの品書きが置かれていた。
焼き菓子と紅茶が自慢らしい。
「……雰囲気のいい店だな」
「でしょ?」
リリアは少し嬉しそうに笑った。
「入ろうか」
「ああ」
俺たちは扉を開けた。
小さな鈴が、澄んだ音を立てる。
店内には、温かな紅茶と焼き菓子の香りが漂っていた。
木製の卓がいくつか並び、壁には風景画が飾られている。
窓際には花柄の布が掛けられ、午後の日差しが柔らかく差し込んでいた。
客は三組ほど。
年配の夫婦らしい二人連れ。
本を読んでいる若い女性。
そして、奥の席で談笑している二人の男性。
静かな音楽が流れていた。
「いらっしゃいませ」
声をかけてきたのは、五十代ほどの女性だった。
ふっくらとした体格で、柔らかな笑みを浮かべている。
「お二人ですね?」
「はい」
リリアが答える。
女性は窓際の席へ案内してくれた。
「こちらへどうぞ。今日は焼きたての木の実のタルトがおすすめですよ」
「ありがとうございます」
俺たちは席に着き、品書きを開いた。
紅茶の種類が思った以上に多い。
果実の香りをつけたもの。
花を乾燥させて混ぜたもの。
少し苦味の強いもの。
俺は香りの穏やかな紅茶を選んだ。
リリアは果実の香りがする紅茶と、木の実のタルトを注文する。
俺も同じタルトを頼んだ。
「……アオも甘いもの、好きなんだね」
リリアが言った。
「嫌いじゃないぞ」
「昨日も焼き菓子食べてたし」
「美味かったからな」
「ふふっ」
彼女は笑った。
「何だか、ちょっと意外」
「そうか?」
「うん。アオって、食べ物にあまりこだわらない印象があったから」
「昔はそうだったな」
俺は少し考えた。
流星街で暮らしていた頃は、食べられるものがあるだけでありがたかった。
味を選ぶ余裕など、ほとんどなかった。
だが、今は違う。
食べ物を楽しむことができる。
それは、思っていた以上に贅沢なことなのだろう。
「……最近は、少し変わったのかもしれない」
俺が言うと、リリアは首を傾げた。
「どうして?」
「美味いものを食べる機会が増えたからな」
「……そっか」
彼女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これからもいろんなもの食べようね」
「ああ」
そんな話をしているうちに、紅茶とタルトが運ばれてきた。
焼きたてのタルトからは、香ばしい木の実の匂いが立ち上っている。
表面には薄く蜜が塗られ、細かく砕いた木の実が散らされていた。
「……美味しそう」
リリアが呟いた。
「いただこうか」
「うん」
俺たちはフォークを手に取った。
タルトの生地はさくりと軽く、中には甘さを抑えた木の実の餡が詰まっている。
香ばしさとほのかな塩気が、紅茶によく合った。
「……これは当たりだな」
俺が言うと、リリアは嬉しそうに頷いた。
「うん!」
そのときだった。
「あらまあ」
先ほどの女性店主が、追加の湯を入れた小さなポットを持って近づいてきた。
「お二人、本当に仲がいいのねえ」
俺は顔を上げた。
「……え?」
女性はにこにこと笑っている。
「さっきから楽しそうにお話ししてるから、つい見ちゃったわ」
「あ、ありがとうございます」
リリアが少し照れたように答えた。
女性の視線が、彼女の右手へ向く。
「あら、その指輪」
リリアは自分の手を見た。
銀色の指輪が、午後の日差しを受けて輝いている。
「素敵ねえ。細工も綺麗だし、とても似合ってるわ」
「あ……ありがとうございます」
リリアは少し頬を赤くした。
女性は嬉しそうに目を細める。
「もしかして、彼からの贈り物?」
「えっ?」
リリアが一瞬、俺を見た。
それから、小さく頷く。
「……はい」
「あらあら!」
女性の笑顔がさらに深くなった。
「やっぱり。ふふっ、仲のいい恋人さんたちなのね」
「「……え?」」
声が重なった。
俺とリリアは、ほとんど同時に顔を上げていた。
女性は気づいていないのか、楽しそうに続ける。
「いいわねえ。若いって。うちにも昔、あなたたちみたいなお客さんがよく来てくれたのよ」
「い、いえ、その……」
リリアが何か言おうとした。
だが、言葉が続かない。
頬が、みるみる赤くなっていく。
俺もすぐには返事ができなかった。
……恋人?
俺たちが?
いや、待て。
確かに、二人で喫茶店へ来ている。
同じ卓で紅茶を飲み、焼き菓子を食べている。
リリアの指には、俺が贈った銀の指輪。
事情を知らない人間から見れば、そう思われても不思議ではない。
むしろ、そう見える要素が揃いすぎている。
……なるほど。
昨日、指輪を渡したときのリリアの反応も、こういうことだったのか。
今さらながら、妙に納得してしまった。
だが、問題はそこではない。
どう説明するべきか。
俺たちは恋人同士ではない。
だから、普通に否定すればいい。
それだけの話だ。
……それだけのはずなのだが。
俺は隣のリリアを見た。
彼女は頬を赤くしたまま、指輪へ視線を落としている。
困っているようにも見える。
だが、嫌がっている様子ではなかった。
むしろ、どこか嬉しそうにも見える。
その表情を見た瞬間、俺は否定の言葉を飲み込んでしまった。
……何をしているんだ、俺は。
「ふふっ。ごめんなさいね、余計なことを言っちゃって」
女性は楽しそうに笑った。
「どうぞ、ごゆっくり」
そう言って、奥へ戻っていく。
俺たちは、その背中を見送った。
しばらく沈黙が続いた。
店内には静かな音楽が流れている。
紅茶の湯気が、二人の間をゆっくりと立ち上っていた。
「…………」
「…………」
先に口を開いたのは、リリアだった。
「……びっくりしたね」
「……ああ」
俺は頷いた。
「そうだな」
「……恋人、だって」
「……そう言ってたな」
リリアは小さく笑った。
だが、その頬はまだ赤い。
「……私たち、そんなふうに見えるのかな」
俺は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「……見えるのかもしれないな」
「……そっか」
リリアは紅茶のカップへ視線を落とした。
指先で取っ手を軽く撫でる。
俺もカップを持ち上げた。
紅茶は、少し冷めていた。
……参ったな。
普段なら、もっと簡単に言葉が出てくるはずなのに。
強敵と向き合うときでさえ、ここまで考え込むことは少ない。
だが、今は何を言えばいいのか分からなかった。
妙なことを口にして、リリアを困らせたくない。
かといって、何も言わずにいるのも不自然だ。
結局、俺たちはしばらく無言でタルトを食べた。
ただ、その沈黙は決して不快ではなかった。
◇
喫茶店を出た頃には、午後の日差しが少し傾いていた。
通りには柔らかな風が吹き、街路樹の葉が静かに揺れている。
俺たちは並んで歩き始めた。
いつもなら、自然と次の話題が出てくる。
だが今日は、しばらく互いに黙っていた。
リリアは時折、右手の指輪へ視線を落としている。
俺も、何となくその手元が気になっていた。
……さっきのこと、まだ気にしてるんだろうか。
そう思ったところで、リリアが口を開いた。
「……ねえ、アオ」
「ん?」
「さっきの人、勘違いしてたね」
「ああ」
「……恋人同士だって」
「そうだな」
リリアは少しだけ歩く速度を落とした。
俺も、それに合わせる。
彼女はしばらく黙っていた。
それから、小さな声で尋ねてきた。
「……アオ、嫌じゃなかった?」
俺は足を止めかけた。
「……何が?」
「その……」
リリアは少し俯いた。
栗色の髪が頬へかかる。
「……私と、恋人だって思われたこと」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
俺は彼女を見た。
リリアは視線を合わせようとしない。
だが、返事を待っていることは分かった。
……嫌だったか。
俺は自分の気持ちを確かめるように考えた。
突然のことだったから、驚いた。
戸惑いもした。
だが、不快だったかと聞かれれば――。
答えは、違う。
むしろ。
……少し、嬉しかったのかもしれない。
そのことに気づいて、俺は内心で驚いた。
だが、ここで誤魔化すのも違うだろう。
「……嫌じゃなかったよ」
俺は答えた。
リリアが顔を上げる。
「……本当?」
「ああ」
俺は少し笑った。
「驚きはしたけどな」
「……うん」
彼女は小さく頷いた。
その表情が、少し柔らかくなる。
俺は続けた。
「リリアは?」
「……え?」
「俺と恋人だと思われて、嫌じゃなかったか?」
今度は、彼女が言葉に詰まった。
頬が、また赤くなっていく。
「……その」
リリアは視線を泳がせた。
俺は急かさずに待った。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……私も」
声は、風に紛れそうなほど小さかった。
「……嫌じゃなかったよ」
俺は、しばらく返事ができなかった。
リリアは少し恥ずかしそうに笑った。
「……何だか、変だね」
「……そうだな」
「いつも一緒にいるのに、急にそんなこと言われると……」
彼女は言葉を探すように、少し間を置いた。
「……意識しちゃう」
俺は小さく息を吐いた。
……それは、俺も同じだ。
だが、口に出すには少し勇気が必要だった。
「……俺も、似たようなものだよ」
そう答えると、リリアは目を丸くした。
「……アオも?」
「ああ」
俺は苦笑した。
「こういうことには、あまり慣れてないからな」
リリアは一瞬きょとんとした。
それから、ふっと笑った。
「……そっか」
彼女の笑顔を見て、俺も少し肩の力が抜けた。
何だ。
お互い、同じようなことを考えていたのか。
それが分かると、先ほどまでの妙な緊張が少しだけ和らいだ。
俺たちは再び歩き始めた。
並んだ肩の距離は、いつもより少し近かった。
◇
通りの角を曲がると、小さな花屋があった。
店先には色とりどりの花が並び、春らしい甘い香りが漂っている。
リリアが足を止めた。
「……綺麗」
彼女の視線の先には、淡い青色の花があった。
細い茎の先に、小さな花弁が幾重にも重なっている。
前世で見た勿忘草に少し似ていた。
「気になるのか?」
「うん。あまり見たことない花だから」
店主の若い女性が声をかけてきた。
「それは春霞草ですよ。この地方では、春の終わり頃まで咲くんです」
「春霞草……」
リリアは名前を繰り返した。
「綺麗な名前ですね」
「ありがとうございます。花束にもよく使われるんですよ」
女性は笑った。
「贈り物にも人気です」
その言葉を聞いて、リリアがちらりと俺を見た。
俺も彼女を見る。
目が合った。
リリアは慌てて視線を戻した。
……何だろう。
さっきの出来事があってから、どうにも互いの反応が気になってしまう。
俺は少し考えた。
花束か。
旅の途中では、長く持ち歩くのは難しい。
だが、今は宿に滞在している。
部屋に飾るくらいなら、問題ないだろう。
「……一本、もらえますか」
俺が言うと、リリアが顔を上げた。
「え?」
店主は笑顔で頷いた。
「はい。どなたへの贈り物ですか?」
俺は少しだけ迷った。
それから、リリアを見た。
「……彼女に」
言ってから、妙に照れくさくなった。
リリアは目を見開いている。
「……アオ?」
「気に入ってたみたいだから」
俺はそう言って、店主へ視線を戻した。
女性はにこりと笑った。
「素敵ですね。では、綺麗なものを選びますね」
彼女は花を一本選び、薄い紙で丁寧に包んでくれた。
俺は代金を払い、花を受け取る。
そして、リリアへ差し出した。
「ほら」
リリアはしばらく花を見つめていた。
それから、両手でそっと受け取る。
「……ありがとう」
声が、少しだけ震えていた。
「大したものじゃないけどな」
「……ううん」
彼女は首を横に振った。
「……すごく嬉しい」
淡い青色の花を見つめるその表情は、昨日指輪を渡したときと少し似ていた。
だが、今はどこか穏やかだった。
リリアは花を胸元へ寄せ、嬉しそうに笑った。
「……大事にするね」
「ああ」
俺も笑った。
店を離れると、彼女は何度も花を眺めていた。
そのたびに、口元が少し緩んでいる。
……そんなに喜んでもらえるとは思わなかったな。
俺は少しだけ照れくさくなった。
◇
宿へ戻る途中、小さな橋を渡った。
下を流れる川には、夕陽が映り込んでいる。
水面は金色に輝き、岸辺の柳が長い影を落としていた。
橋の上には、俺たち以外に人影がなかった。
リリアは花を片手に持ち、ゆっくりと歩いている。
俺も、その隣を歩いた。
風が吹いた。
彼女の栗色の髪が揺れ、肩へかかる。
リリアは空いている手で髪を押さえた。
その指先が、俺の手に触れた。
「……あ」
彼女が小さく声を漏らした。
俺も、思わず視線を落とす。
ほんの一瞬の接触だった。
だが、互いに手を引くタイミングを失ってしまった。
リリアは少しだけ頬を赤くしている。
俺も、何となく落ち着かない。
……どうしたものか。
手を繋ぐ。
そんな簡単なことが、なぜか今は難しく感じられた。
戦闘なら、相手の動きを見て瞬時に判断できる。
だが、こういう場面では、どうにも勝手が違う。
俺は一度、リリアの顔を見た。
彼女もこちらを見ていた。
目が合う。
しばらく、互いに何も言わなかった。
やがて、リリアが小さく笑った。
「……変だね、今日」
「……ああ」
俺も笑った。
「いつもと同じように歩いてるだけなのにな」
「うん」
彼女は頷いた。
そして、少しだけ俺の方へ近づいた。
肩が触れそうになる。
俺は歩幅を緩めた。
結局、手を繋ぐことはなかった。
だが、離れることもなかった。
その距離のまま、俺たちは橋を渡り切った。
◇
宿へ戻ると、夕食にはまだ少し早かった。
俺たちは一度それぞれの部屋へ戻り、荷物を置くことにした。
階段を上がる途中、リリアが言った。
「……アオ」
「ん?」
「夜、少し話せる?」
「ああ。構わないぞ」
「……よかった」
彼女は嬉しそうに笑った。
「夕食のあと、私の部屋に来てくれる?」
「分かった」
リリアは頷き、自分の部屋へ入っていった。
俺も部屋へ戻り、窓を開けた。
夕暮れの街並みが広がっている。
遠くで鐘が鳴り、通りには夕食の支度をする匂いが漂っていた。
俺は椅子へ腰を下ろし、しばらく考え込んだ。
……今日は、妙な一日だったな。
朝は普通に始まった。
洗濯をして、果物を食べて、旅先の話をした。
それだけなら、昨日と変わらない穏やかな休日だった。
だが、喫茶店で恋人同士と勘違いされてから、何かが少し変わった気がする。
いや。
変わったというより、今まで意識していなかったことに気づかされたのかもしれない。
リリアと一緒にいる時間は、心地よい。
彼女が笑っていると、俺まで嬉しくなる。
危険な場所へ向かうときは、彼女の安全が気になる。
そして、今日。
恋人だと思われたことを、嫌だとは感じなかった。
むしろ、少し嬉しかった。
……恋愛感情、か。
俺は窓の外へ目を向けた。
前世では三十二歳まで生きた。
だからといって、恋愛について何もかも理解しているわけではない。
人間関係は、知識や経験だけで割り切れるものではない。
まして、今の俺は十五歳だ。
リリアは十七歳。
互いにハンターとして旅を続け、危険な仕事をこなしている。
だが、そうした立場とは別に、俺たちはまだ若い。
これから先、どんな関係になっていくのか。
今すぐ答えを出す必要はないのだろう。
ただ。
……リリアと一緒にいたい。
その気持ちだけは、はっきりしていた。
◇
夕食を終えたあと、俺はリリアの部屋を訪ねた。
扉を軽く叩く。
「リリア、俺だ」
「うん。入って」
扉を開けると、部屋には温かな灯りが点っていた。
机の上には小さな茶器が並び、窓辺には昨日買った木彫りの鳥が置かれている。
その隣には、今日贈った春霞草が小さな花瓶に生けられていた。
淡い青色の花弁が、灯りを受けて柔らかく浮かび上がっている。
「……飾ったんだな」
俺が言うと、リリアは嬉しそうに笑った。
「うん。どう?」
「よく似合ってる」
「よかった」
彼女は椅子を引いた。
「座って」
「ありがとう」
俺は椅子へ腰を下ろした。
リリアは温かい茶を注ぎ、向かいに座る。
窓の外には、夜の街並みが広がっていた。
家々の窓から漏れる灯りが、暗い通りに小さな光を落としている。
遠くでは、誰かが楽器を弾いていた。
静かな夜だった。
「……今日は、ありがとう」
リリアが言った。
「また礼を言うのか?」
「だって、楽しかったから」
彼女は笑った。
「昨日も今日も、すごく楽しかった」
「俺もだよ」
「……本当?」
「ああ」
俺は頷いた。
「こういう時間も、いいものだな」
リリアは嬉しそうに目を細めた。
「……うん」
しばらく、二人で茶を飲んだ。
温かな香りが、部屋に広がっていく。
やがて、リリアが口を開いた。
「……ねえ、アオ」
「ん?」
「これから、どんなところへ行きたい?」
俺は少し考えた。
「そうだな……」
まだ見たことのない土地。
未知の遺跡。
強い念能力者。
珍しい生物。
興味のあるものはいくらでもある。
だが、今夜はそれだけではなかった。
「……いろんな場所へ行きたいな」
俺は答えた。
「山も、海も、砂漠も。まだ知らない街も」
「うん」
「それから、その土地の人たちがどんな暮らしをしてるのかも知りたい」
リリアは少し驚いたように俺を見た。
「……アオがそういうこと言うの、珍しいね」
「昨日、今日で少し考えが変わったのかもしれない」
「……そっか」
彼女は嬉しそうに笑った。
「私も、いろんな場所へ行きたい」
「ああ」
「でも……」
リリアは少しだけ声を落とした。
「……ただ、旅を続けるだけじゃなくて」
俺は彼女を見た。
リリアは胸元のペンダントへ触れた。
「……もっと、ちゃんとしたハンターになりたい」
その表情は、先ほどまでとは少し違っていた。
真剣な眼差しだった。
「今までは、アオについていくことで精一杯だったところもあるから」
「そんなことはないと思うぞ」
「……ありがとう」
彼女は小さく笑った。
「でも、私自身がもっとできることを増やしたいの」
俺は黙って耳を傾けた。
「誰かが困っているとき、ちゃんと助けられるようになりたい」
リリアは続けた。
「危険な場所でも、自分で考えて動けるようになりたいし……」
少しだけ間を置く。
「……アオが困ってるときには、私が助けたい」
俺は彼女を見た。
リリアは真剣だった。
その言葉には、迷いがなかった。
俺はゆっくりと頷いた。
「……頼りにしてるよ」
彼女が目を瞬かせる。
「……え?」
「今までも、何度も助けられてる」
俺は言った。
「お前がいなかったら、もっと苦労してた仕事もある。危険を見落としてたことだってあったかもしれない」
リリアは少し驚いたようだった。
俺は続けた。
「だから、これからも頼りにしてる」
彼女はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……うん」
その笑顔には、どこか誇らしげなものがあった。
◇
夜が更けていく。
窓の外では、街の灯りが一つ、また一つと消えていった。
俺たちは、これからの旅について話し続けた。
湖畔の街。
山あいの温泉地。
まだ訪れたことのない国々。
仕事のことも、少しだけ話した。
ブラックリストハンターとして、いずれまた犯罪者を追うことになるだろう。
リリアも、それを理解している。
だが、今夜は具体的な仕事の予定を立てることはしなかった。
ただ、これから先のことを、ゆっくりと語り合った。
やがて、リリアが小さく欠伸をした。
「……眠いか?」
俺が尋ねると、彼女は少し照れたように笑った。
「……ちょっと」
「もう遅いしな」
時計を見ると、かなり時間が経っていた。
「そろそろ戻るよ」
「……うん」
俺は椅子から立ち上がった。
リリアも立ち上がり、扉の方へ歩く。
その途中、彼女がふと足を止めた。
「……アオ」
「ん?」
リリアは少しだけ俯いていた。
右手の指輪が、灯りを受けて小さく輝いている。
「……今日のことなんだけど」
俺は彼女を見た。
「喫茶店のこと?」
「……うん」
リリアは小さく頷いた。
それから、少しだけ顔を上げる。
「……あの人、私たちのこと、恋人だって思ってたよね」
「ああ」
「……でも、私たち、まだそういう関係じゃないでしょ?」
俺は頷いた。
「そうだな」
リリアは少しだけ唇を噛んだ。
何かを言おうとしている。
だが、言葉がなかなか出てこないらしい。
俺は急かさずに待った。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……でもね」
声が、少し震えていた。
「……嫌じゃなかったの」
俺は黙って聞いていた。
「むしろ……」
リリアは頬を赤くした。
「……ちょっと、嬉しかった」
胸の奥が、静かに熱くなる。
俺はしばらく言葉を探した。
そして、正直に答えた。
「……俺もだよ」
リリアが顔を上げた。
「……え?」
「俺も、嫌じゃなかった」
俺は少し笑った。
「むしろ、嬉しかったのかもしれない」
彼女は目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そっか」
「ああ」
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
だが、その沈黙は温かかった。
リリアは指輪へ視線を落とした。
そして、小さく呟いた。
「……じゃあ、よかった」
俺は彼女を見た。
胸の奥に、言葉にならない感情が広がっていた。
今すぐ何かを決める必要はない。
焦って答えを出す必要もない。
ただ、互いに同じような気持ちを抱いていることが分かった。
それだけで、十分だった。
「……おやすみ、リリア」
俺が言うと、彼女は顔を上げた。
「……うん」
柔らかな笑顔だった。
「おやすみ、アオ」
俺は扉を開け、廊下へ出た。
背後で、扉が静かに閉まる。
しばらく、その場に立っていた。
……参ったな。
今日一日で、随分といろんなことを考えさせられた。
恋人。
その言葉が、頭の中に残っている。
今まで、リリアとの関係にそんな名前をつけようとは思っていなかった。
だが、今日。
他人からそう見られたことで、初めて意識した。
そして、嫌ではなかった。
むしろ、嬉しかった。
……そういうこと、なんだろうな。
俺は小さく息を吐いた。
前世の記憶を持ち、数え切れないほどの経験を積んできたつもりだった。
だが、こういう感情だけは、どうにも簡単に整理できない。
それでも。
……急ぐ必要はないか。
俺は自分の部屋へ戻った。
窓の外には、星が瞬いている。
遠くで夜風が木々を揺らし、街は静かな眠りにつこうとしていた。
俺は寝台へ横になり、天井を見上げた。
今日の出来事が、次々と頭に浮かぶ。
喫茶店での勘違い。
リリアの赤くなった頬。
花を受け取ったときの笑顔。
橋の上で触れた指先。
そして、夜の部屋で交わした言葉。
『……ちょっと、嬉しかった』
俺は思わず笑ってしまった。
……俺もだよ。
声には出さず、心の中で答える。
明日から、またいつもの旅が始まる。
仕事もあるだろう。
危険な場所へ向かうこともあるだろう。
だが、今日という一日は、きっと忘れない。
リリアと過ごした、穏やかな休日。
そして、互いの距離がほんの少しだけ近づいた日。
俺は目を閉じた。
窓の外で、春の夜風が静かに吹いていた。
その音を聞きながら、ゆっくりと眠りへ落ちていった。