流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第七十一話 黒い手配書――狩人の仕事

朝食の席で、リリアはいつもより少しだけ静かだった。

 

 機嫌が悪いわけではない。

 

 むしろ、時折こちらへ向けられる視線には、どこか柔らかなものがあった。

 

 ただ、目が合うと、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。

 

 そして、何事もなかったように紅茶を飲む。

 

 ……さて、どうしたものか。

 

 俺は焼きたてのパンを千切りながら、内心で苦笑した。

 

 原因は分かっている。

 

 昨日のことだ。

 

 喫茶店で恋人同士と間違えられたこと。

 

 帰り道で交わした会話。

 

 そして、夜にリリアの部屋で話したこと。

 

 思い返せば、俺も随分と妙な反応をしていた気がする。

 

 普段なら、もう少し落ち着いて話せるはずなのだが。

 

 ……まあ、仕方ないか。

 

 相手がリリアなのだから。

 

 そこまで考えて、俺は手を止めた。

 

 ……いや、待て。

 

 今のは、どういう意味だ?

 

 自分で考えたことなのに、妙に引っかかった。

 

 俺は紅茶を一口飲み、考えを切り替える。

 

 向かいの席では、リリアが小さな手帳を開いていた。

 

 昨日も見せてもらった、旅の記録を書き留めている手帳だ。

 

 右手の人差し指には銀色の指輪。

 

 胸元には深紅の宝石を抱いたペンダント。

 

 どちらも、昨日と変わらず身につけている。

 

「……何を書いてるんだ?」

 

 俺が尋ねると、リリアは顔を上げた。

 

「あ、昨日のこと」

 

「昨日も書いてなかったか?」

 

「昨日の夜は、途中までだったから」

 

「なるほど」

 

 俺は頷いた。

 

 リリアは少し笑った。

 

「アオは日記、始めないの?」

 

「まだ考え中だ」

 

「ふふっ。絶対、地図とか挟みそう」

 

「それはありそうだな」

 

 俺たちは笑った。

 

 以前と同じような会話だ。

 

 だが、どこか違う。

 

 昨日までなら、何も考えずに交わしていた言葉の一つひとつが、今日は少しだけ意識に残る。

 

 それでも、不思議と居心地は悪くなかった。

 

 むしろ、こうして向かい合って朝食を取っている時間が、いつも以上に穏やかに感じられた。

 

 リリアがパンへ果実の蜜を塗りながら言った。

 

「今日はどうする?」

 

「そうだな……」

 

 俺は少し考えた。

 

 昨日、一昨日と休息に充てた。

 

 身体の疲労は十分に抜けている。

 

 装備の点検も終わった。

 

 協会への報告も済ませてある。

 

 そろそろ、次の行動を決めてもいい頃合いだった。

 

「まずは、協会から新しい連絡が来てないか確認してみるつもりだ」

 

「仕事?」

 

「急ぎの案件がなければ、次の旅先を考えるだけでもいい」

 

 リリアは頷いた。

 

「そっか」

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「……また忙しくなるかもしれないね」

 

「ああ」

 

「でも、昨日と一昨日は楽しかった」

 

「俺もだよ」

 

 そう答えると、リリアは嬉しそうに目を細めた。

 

「……うん」

 

 その表情を見て、俺は思った。

 

 また、ああいう日を作ろう。

 

 仕事を終えたあとでもいい。

 

 旅の途中でもいい。

 

 何も特別なことをしなくても、二人でゆっくり過ごせる時間を。

 

 そんなことを考えながら、俺は朝食を終えた。

 

     ◇

 

 ハンター協会からの連絡を確認するため、俺は宿の部屋へ戻った。

 

 机の上には、携帯用の通信端末が置かれている。

 

 一般向けの通信機器と外見は大きく変わらないが、ハンターライセンスによる本人認証を経て、協会の情報網へ接続できる。

 

 もちろん、誰でもすべての情報を閲覧できるわけではない。

 

 閲覧権限は資格や担当案件によって異なる。

 

 俺が確認するのは、ブラックリストハンター向けに配信されている指名手配情報だ。

 

 端末を起動し、認証を済ませる。

 

 画面にはいくつかの通知が並んでいた。

 

 協会からの一般連絡。

 

 調査報告に関する事務的な確認。

 

 そして、未読の犯罪者情報が三件。

 

「……さて」

 

 俺は椅子へ腰を下ろした。

 

 一件目は、遠方の都市で発生した宝石強盗事件。

 

 二件目は、国境付近で活動する密輸組織に関する情報。

 

 どちらも現在地からかなり離れている。

 

 今すぐ関わる必要はなさそうだった。

 

 問題は、三件目だった。

 

 件名の横に、黒い印が付いている。

 

 協会が一定以上の危険性を認めた、要注意の指名手配情報だ。

 

 俺は画面を開いた。

 

 そこには、一人の男の顔写真が表示されていた。

 

 四十代半ばほど。

 

 痩せた頬。

 

 薄くなった頭髪を後ろへ撫でつけ、細い口髭を生やしている。

 

 写真の男は、無表情だった。

 

 だが、目だけが妙に落ち着いていた。

 

 犯罪者の顔写真を見ただけで性格が分かるわけではない。

 

 ただ、撮影された状況に対して、必要以上に動揺していないようには見えた。

 

 名前は――。

 

ダリオ・ゼッカート。四十六歳。

 

 元運送業者。

 

 現在は複数の都市で指名手配中。

 

 容疑は、組織的な誘拐、監禁、恐喝、違法な武器取引への関与。

 

 さらに、証人二名の失踪事件にも関係している疑いがある。

 

「……誘拐、か」

 

 俺は小さく呟いた。

 

 その文字を見ると、どうしても流星街での出来事を思い出す。

 

 人間を荷物のように扱う連中。

 

 子供を攫い、売り飛ばし、利益のためなら平然と命を踏みにじる連中。

 

 俺は、そうした人間が嫌いだった。

 

 だが、感情だけで仕事を進めるつもりはない。

 

 まずは情報だ。

 

 俺は画面を下へ送った。

 

 ダリオは、数年前まで正規の運送会社を経営していた。

 

 表向きは穀物や織物、工業製品などを扱う中規模の商会。

 

 しかし、その裏では違法な取引の仲介を行っていた疑いがある。

 

 数か月前、別の都市で関係者が逮捕されたことをきっかけに、商会の不正が発覚。

 

 ダリオは捜査の直前に姿を消した。

 

 その後、複数の都市で目撃情報が寄せられている。

 

 だが、いずれも警察が到着した頃には姿を消していた。

 

 協会の資料には、いくつかの補足が添えられていた。

 

 偽造身分証の使用歴。

 

 運送業界に残る協力者。

 

 複数の偽名。

 

 そして、逃亡に際して組織的な支援を受けている可能性。

 

 俺は眉を寄せた。

 

「……ただの逃亡犯じゃなさそうだな」

 

 写真の下には、最後に確認された目撃情報が記されていた。

 

 場所は、現在俺たちが滞在している街。

 

 正確には、南部の貨物集積地区。

 

 三日前の夕方。

 

 荷馬車の積み替え作業が行われている場所で、ダリオに似た男が目撃されたという。

 

 ただし、確認したのは一般の作業員一名。

 

 本人確認は取れていない。

 

 その後の足取りも不明。

 

 街の警察は情報を把握しているが、現時点で居場所を特定できていない。

 

 俺は腕を組んだ。

 

 ……なるほど。

 

 確度は高くない。

 

 だが、無視するには気になる情報だ。

 

 特に、ダリオが元運送業者だという点。

 

 貨物集積地区に現れたという目撃証言。

 

 そして、逃亡を支援する協力者が存在する可能性。

 

 これらが偶然重なっただけとは限らない。

 

 もっとも、現段階で決めつけるのは危険だ。

 

 ダリオが実際に街へ入ったのかどうかさえ、まだ確定していない。

 

 俺は資料の続きを確認した。

 

 手配情報には、協会の連絡窓口と担当部署が記されている。

 

 報奨金も設定されていた。

 

 ただし、金額は現時点では二次的な問題だ。

 

 重要なのは、容疑者を確保できるかどうか。

 

 そして、被害者や関係者が現在も危険に晒されていないかどうかだ。

 

 俺は端末の画面を閉じずに、しばらく考えた。

 

 ……調べてみる価値はあるな。

 

 そのとき、扉を叩く音がした。

 

「アオ、いる?」

 

 リリアの声だった。

 

「ああ。入ってくれ」

 

 扉が開き、彼女が顔を覗かせた。

 

「何か分かった?」

 

「一件、気になる手配情報があった」

 

 リリアは表情を引き締めた。

 

「……仕事になりそう?」

 

「まだ分からない。ただ、少し調べたい」

 

「どんな事件?」

 

 俺は彼女へ端末の画面を向けた。

 

     ◇

 

 リリアは椅子を引き寄せ、俺の隣へ座った。

 

 画面に表示されたダリオの写真を見つめる。

 

「……この人?」

 

「ああ。ダリオ・ゼッカート。複数の都市で指名手配されてる」

 

 俺は概要を説明した。

 

 元運送業者であること。

 

 誘拐や違法取引に関与している疑いがあること。

 

 現在も逃亡中であること。

 

 そして、三日前にこの街で目撃された可能性があること。

 

 リリアは黙って聞いていた。

 

 説明を終えると、彼女は画面へ目を戻した。

 

「……最後に見られたのが、南の貨物集積地区なんだね」

 

「ああ」

 

「運送業者だった人が、荷物の集まる場所に現れた」

 

「そこが気になってる」

 

 リリアは少し考えた。

 

「でも、そこなら人も多いよね」

 

「そうだな」

 

「顔を隠してたら、見間違える可能性もある」

 

「ああ。だから、まずは目撃証言の確認からだ」

 

 彼女は頷いた。

 

 それから、資料の一部分を指差した。

 

「……ここ」

 

「ん?」

 

「目撃した作業員の話。男は荷物を運んでいたんじゃなくて、誰かを待っているように見えたって」

 

 俺は画面を確認した。

 

 確かに、補足欄に短い記述があった。

 

 男は荷車の近くに立ち、何度も時計を確認していた。

 

 その後、別の人物と短く話して立ち去ったらしい。

 

 ただし、相手の顔は確認されていない。

 

「……よく見つけたな」

 

「だって、気になったから」

 

 リリアは少しだけ眉を寄せた。

 

「逃げてる人なら、そんな目立つ場所で誰かを待つかなって」

 

「なるほど」

 

 俺は考えた。

 

 確かに、指名手配犯が人の多い貨物集積地区で堂々と待ち合わせをするのは危険だ。

 

 もっとも、顔が知られていない地域なら、逆に人混みへ紛れることもできる。

 

 あるいは、本人ではなかったのかもしれない。

 

「……目撃者の認識も確認した方がよさそうだな」

 

 俺が言うと、リリアは頷いた。

 

「うん」

 

 彼女はしばらく画面を眺めていた。

 

 それから、俺を見た。

 

「アオ」

 

「何だ?」

 

「私も行くよ」

 

 予想していた言葉だった。

 

 俺は少し笑った。

 

「もちろん、そのつもりだ」

 

 リリアは目を瞬かせた。

 

「……本当?」

 

「ああ。追跡や現場の観察なら、お前の方が気づくことも多いだろ」

 

 彼女は嬉しそうに笑った。

 

「……うん」

 

 だが、すぐに表情を引き締める。

 

「ただ、もし相手が危険な人だったら……」

 

「分かってる」

 

 俺は頷いた。

 

「まずは情報を集める。居場所も分からない段階で、無理に踏み込むつもりはない」

 

「……うん」

 

「それに、今回は普通の犯罪者だけとは限らない」

 

 リリアがこちらを見る。

 

 俺は画面の資料へ目を向けた。

 

「組織的な支援があるなら、護衛や協力者がいる可能性もある」

 

「念能力者も?」

 

「否定はできない」

 

 ただし、資料に念能力者の存在を示す確実な情報はなかった。

 

 だから、現段階では可能性の一つにすぎない。

 

「……もしそうなら、慎重に動かないとね」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

 念能力者が相手なら、見た目や人数だけで危険度を判断することはできない。

 

 どんな能力を持っているのか。

 

 発動条件は何か。

 

 どの距離で最も危険なのか。

 

 それらが分からないまま戦闘へ入れば、どれほど身体能力に優れていても不意を突かれる。

 

 特に、裏社会で生き残ってきた念能力者は厄介だ。

 

 正面からの戦闘だけでなく、罠や奇襲を得意とする者もいる。

 

 ……まあ、今から考えすぎても仕方ないか。

 

 まずは現場だ。

 

「昼過ぎに、南の貨物集積地区へ行ってみよう」

 

 俺が言うと、リリアは頷いた。

 

「分かった」

 

「その前に、協会の担当窓口へ確認を取る」

 

「警察との連携?」

 

「ああ。現地で勝手に捜査を始めて、警察と揉めるのは避けたい」

 

 リリアは小さく笑った。

 

「アオ、そういうところはちゃんとしてるよね」

 

「仕事だからな」

 

「うん。知ってる」

 

 彼女は嬉しそうに頷いた。

 

     ◇

 

 協会の担当窓口へ連絡すると、しばらく待たされたあと、落ち着いた声の男性職員が応答した。

 

『ハンター協会、犯罪者情報管理部門です』

 

「一ツ星ハンターのアオです。手配番号の確認と、現地での捜査状況について問い合わせたい」

 

 俺は必要な情報を伝えた。

 

 本人認証を終えると、職員は資料を確認した。

 

『ダリオ・ゼッカートの件ですね』

 

「ああ。現在、この街に滞在している。目撃情報の確認を考えているんだが、現地警察との調整状況を知りたい」

 

『少々お待ちください』

 

 短い沈黙。

 

 紙をめくるような音が聞こえた。

 

『現地警察には手配情報が共有されています。ただし、現在のところ、確実な所在情報は得られていません』

 

「目撃者への聞き取りは?」

 

『一度実施されています。記録はありますが、本人確認には至っていません』

 

「追加の聞き取りをする場合、何か制限は?」

 

『一般の聞き取りについては、通常の法令と現地の規則に従ってください。警察の捜査資料を閲覧する場合は、担当部署との調整が必要です』

 

「了解した」

 

 俺は続けた。

 

「ダリオの逮捕状は有効か?」

 

『はい。複数の容疑について有効な手配が出ています。ただし、身柄の引き渡し先については現地警察との協議が必要です』

 

「分かった」

 

 俺は必要な情報を控えた。

 

 最後に、職員が言った。

 

『なお、ダリオには組織的な協力者がいる可能性があります。単独での強行突入は推奨されません』

 

「承知している」

 

『それでは、何か進展があればご連絡ください』

 

「ああ。ありがとう」

 

 通信を切った。

 

 俺は椅子の背にもたれ、短く息を吐いた。

 

 ……さて。

 

 これで、最低限の確認は済んだ。

 

 現地警察の捜査を妨げないように動く必要はあるが、目撃情報の確認や周辺の聞き込みは可能だ。

 

 まずは、貨物集積地区の様子を見てみよう。

 

 その後、必要なら警察の担当者と接触する。

 

 リリアが尋ねた。

 

「どうだった?」

 

「現時点では、確実な所在情報はないらしい」

 

「そっか」

 

「ただ、目撃者への聞き取りはできそうだ」

 

「じゃあ、まずはそこからだね」

 

「ああ」

 

 俺は立ち上がった。

 

「準備しよう」

 

     ◇

 

 昼過ぎ。

 

 俺たちは宿を出て、街の南部へ向かった。

 

 昨日までの休日とは違い、今日は動きやすい服装だ。

 

 リリアも軽い外套を羽織り、荷物を最小限にまとめている。

 

 右手の指輪と胸元のペンダントは、変わらず身につけていた。

 

 俺は腰の位置を確かめ、歩き始めた。

 

 必要な道具はアイテムボックスに収めてある。

 

 ただし、人前で不用意に取り出すつもりはない。

 

 街の中心部を抜けると、通りの雰囲気が少しずつ変わっていった。

 

 商店の数が減り、代わりに倉庫や作業場が増えていく。

 

 道幅は広くなり、石畳には荷馬車の車輪が刻んだ細かな傷が残っていた。

 

 大きな木箱を積んだ荷車。

 

 麻袋を担ぐ作業員。

 

 荷札を確認する商人。

 

 周囲には、乾いた木材と油、革製品の匂いが漂っている。

 

 さらに進むと、貨物集積地区が見えてきた。

 

 大きな倉庫が何棟も並び、その間を荷馬車が行き交っている。

 

 積み下ろしのための広場には、木箱や樽が山のように積まれていた。

 

 人の出入りも多い。

 

 作業員だけでなく、商人、荷運び人、警備員らしい男たちもいる。

 

「……思ったより広いね」

 

 リリアが言った。

 

「ああ」

 

 俺は周囲を見回した。

 

 ここなら、人混みに紛れることは難しくない。

 

 ただし、逆に言えば、目立たず長時間留まるには何らかの理由が必要だ。

 

 作業員として働く。

 

 商人として荷物を確認する。

 

 あるいは、誰かを待つ。

 

 目撃情報にあった男が本当にダリオだったなら、ここへ来た目的があるはずだ。

 

「まずは、目撃された場所を確認しよう」

 

 俺が言うと、リリアは頷いた。

 

「うん」

 

 協会の資料には、目撃場所の大まかな位置が記されていた。

 

 南側の積み替え広場。

 

 そこには、複数の倉庫へ繋がる通路がある。

 

 俺たちは人の流れを妨げないように歩き、広場の端へ向かった。

 

 作業員たちは忙しそうに荷物を運んでいる。

 

 怒鳴り声が飛び交い、車輪が石畳を軋ませる。

 

 俺は周囲を観察した。

 

 倉庫の入口。

 

 荷車の停車位置。

 

 作業員の動線。

 

 警備員の配置。

 

 そして、広場を見渡せる場所。

 

 目撃者がどこに立っていたのか。

 

 その位置から、何が見えたのか。

 

 それを確認する必要がある。

 

 リリアも、周囲を静かに見ていた。

 

 彼女の視線は、俺とは少し違うところへ向いている。

 

 人の流れ。

 

 足元の痕跡。

 

 荷車が通る道。

 

 そうしたものを、自然と確認しているようだった。

 

「……アオ」

 

 リリアが小さく声をかけた。

 

「ん?」

 

「ここ、荷車の出入りが多いけど……」

 

 彼女は広場の一角を指差した。

 

「あっちの通路だけ、少し人が少ないね」

 

 俺は視線を向けた。

 

 確かに、広場の東側には細い通路があった。

 

 倉庫と倉庫の間を抜ける道だ。

 

 荷車が通るには狭い。

 

 だが、人が歩くには十分な幅がある。

 

「……なるほど」

 

 俺は周囲の配置を確認した。

 

 広場から離れるための経路としては、使いやすいかもしれない。

 

 ただし、それだけで何かを判断することはできない。

 

 俺はリリアへ頷いた。

 

「覚えておこう」

 

「うん」

 

 俺たちは広場の端にある小さな詰所へ向かった。

 

 そこには、作業員の出入りを管理しているらしい中年の男がいた。

 

 厚手の作業着を着て、帳簿を開いている。

 

 俺は声をかけた。

 

「すみません。少し話を聞いてもいいですか」

 

 男は顔を上げた。

 

「何だい?」

 

「三日前、この広場で不審な男が目撃されたという話を聞いたんですが」

 

 男の表情が少し変わった。

 

「……ああ」

 

 彼は帳簿を閉じた。

 

「警察が来た件か」

 

「そうです」

 

「また何かあったのか?」

 

「いえ。確認したいことがあって」

 

 俺は必要な範囲で身分を示した。

 

 男はハンターライセンスを見ると、少し驚いたようだった。

 

「……ハンターさんか」

 

「ええ。捜査の妨げにならない範囲で、話を聞かせてもらえればと思っています」

 

 男はしばらく考えた。

 

 それから、頷いた。

 

「……まあ、いいだろう。俺が知ってることならな」

 

 俺は礼を言った。

 

「ありがとうございます」

 

 男は椅子を引き、広場の方へ目を向けた。

 

「三日前の夕方だったな。うちの若い作業員が、変な男を見たって言い出したんだ」

 

「変な男?」

 

「ああ。荷物を運ぶわけでもない。商人らしい荷札も持ってない。ただ、ずっと誰かを待ってるように立ってたらしい」

 

 俺は頷いた。

 

「その作業員の方は、今もここに?」

 

「今日は午後の仕事に出てるはずだ」

 

「話を聞くことはできますか?」

 

「……少し待ってくれ」

 

 男は立ち上がり、外へ向かった。

 

 俺とリリアは詰所の前で待つことにした。

 

 広場では、相変わらず荷物の積み下ろしが続いている。

 

 木箱が運ばれ、樽が転がされ、商人たちが帳簿を確認していた。

 

 リリアが小さく言った。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「今の人、少し緊張してたね」

 

「ああ」

 

 俺も気づいていた。

 

 ハンターライセンスを見せたとき、男の表情が一瞬強張った。

 

 だが、それだけで何かを疑うことはできない。

 

 ハンターが訪ねてくれば、普通の人間でも緊張することはある。

 

「……何か知ってるのかな」

 

「可能性はある。ただ、今は決めつけない方がいい」

 

「うん」

 

 リリアは頷いた。

 

 そのとき、詰所の扉が開いた。

 

 先ほどの男が、若い作業員を連れて戻ってきた。

 

 二十歳前後だろうか。

 

 日焼けした顔に、短く刈った髪。

 

 厚手の作業着を着ている。

 

 男は俺たちを見ると、少し戸惑った表情を浮かべた。

 

「……この人たちが?」

 

「ああ。三日前のことを聞きたいそうだ」

 

 俺は一歩前へ出た。

 

「こんにちは。少し話を聞かせてもらえますか」

 

 若い作業員は、俺とリリアを交互に見た。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「……はい」

 

     ◇

 

 若い作業員の名前は、トーマスといった。

 

 彼は三日前の夕方、南側の積み替え広場で荷物を運んでいた。

 

 そのとき、倉庫の壁際に立つ男を見かけたという。

 

「……最初は、商人かと思ったんです」

 

 トーマスは言った。

 

「でも、荷札も持ってないし、誰かに声をかけるわけでもなくて」

 

「どれくらいの時間、そこにいましたか?」

 

 俺が尋ねると、彼は少し考えた。

 

「……十五分くらい、かな」

 

「ずっと同じ場所に?」

 

「はい。時々、時計を見てました」

 

「服装は覚えていますか?」

 

「灰色の上着に、黒っぽい帽子。あとは……」

 

 トーマスは眉を寄せた。

 

「……革の手袋をしてました」

 

 俺は頷いた。

 

「顔は?」

 

「少しだけ見えました。口髭があって、痩せた感じの男でした」

 

 資料の写真と一致する部分はある。

 

 だが、まだ十分ではない。

 

「その男が、誰かと話していたそうですね」

 

「……はい」

 

 トーマスは少し声を落とした。

 

「別の男が来て、何か話してました」

 

「相手の特徴は?」

 

「背が高くて、肩幅が広かったです。帽子を深く被ってて、顔はよく見えませんでした」

 

「服装は?」

 

「濃い色の外套だったと思います」

 

 俺は頭の中で情報を整理した。

 

 痩せた中年男。

 

 口髭。

 

 灰色の上着。

 

 黒い帽子。

 

 革手袋。

 

 そして、背の高い別の男。

 

 ……なるほど。

 

 少なくとも、目撃者の話は具体的だ。

 

 ただし、三日前の出来事だ。

 

 記憶違いが混じっている可能性もある。

 

「その二人は、どちらへ向かいましたか?」

 

 俺が尋ねると、トーマスは広場の東側を指差した。

 

「あっちです」

 

 リリアが先ほど気にしていた、細い通路だった。

 

「……倉庫の間の道ですね」

 

「はい。二人で歩いていきました」

 

「そのあと、戻ってきたところは見ましたか?」

 

「いえ。俺は仕事に戻ったので」

 

 俺は頷いた。

 

「分かりました。ありがとうございます」

 

 トーマスは少し安心したように息を吐いた。

 

 だが、そこでリリアが口を開いた。

 

「……一つ、聞いてもいいですか?」

 

 トーマスは彼女を見た。

 

「はい」

 

「その二人が話していたとき、何か聞こえましたか?」

 

 彼は少し考えた。

 

「……声は聞こえました。でも、何を話してたかまでは……」

 

「言葉の一部だけでも?」

 

 リリアの声は穏やかだった。

 

 責めるような響きはない。

 

 トーマスは眉を寄せ、記憶を探るように視線を落とした。

 

「……そういえば」

 

 彼は顔を上げた。

 

「背の高い方が、何か言ってました」

 

「何と?」

 

「……『今夜は無理だ』とか、そんな感じだったと思います」

 

 俺は目を細めた。

 

「今夜は無理?」

 

「はい。たぶん……」

 

 トーマスは自信なさそうに続けた。

 

「……そのあと、『明日の便』って言葉が聞こえた気がします」

 

 俺はリリアと視線を交わした。

 

 彼女も、何かを考えているようだった。

 

「……ありがとうございます」

 

 俺はトーマスへ礼を言った。

 

「とても参考になりました」

 

 彼は少し照れたように笑った。

 

「いえ。大したことじゃないですけど」

 

「そんなことはありません」

 

 俺は言った。

 

「小さな情報でも、重要な手がかりになることがあります」

 

 トーマスは頷いた。

 

 その後、俺たちは詰所の男にも礼を言い、広場を離れた。

 

     ◇

 

 貨物集積地区の外れに、小さな休憩所があった。

 

 木製の長椅子が二つ置かれ、近くには水飲み場がある。

 

 俺たちはそこへ腰を下ろした。

 

 周囲には人が少ない。

 

 少なくとも、普通の声量で話しても聞き耳を立てられる心配はなさそうだった。

 

「……どう思う?」

 

 リリアが尋ねた。

 

 俺は少し考えた。

 

「目撃証言は、ある程度具体的だった」

 

「うん」

 

「ただ、ダリオ本人だったかどうかはまだ分からない」

 

「そうだね」

 

 リリアは頷いた。

 

「でも、『明日の便』って言葉は気になる」

 

「ああ」

 

 俺は広場の方へ目を向けた。

 

 貨物集積地区。

 

 運送業者。

 

 荷馬車。

 

 そして、明日の便。

 

 これらが繋がる可能性はある。

 

 だが、まだ推測の段階だ。

 

「……三日前の夕方に『明日の便』と言っていたなら、二日前の便を指していた可能性がある」

 

 俺が言うと、リリアは頷いた。

 

「その便を調べれば、何か分かるかもしれないね」

 

「そうだな」

 

 俺は続けた。

 

「ただし、便の数は多い。どの荷物か、どの運送会社かも分からない」

 

「……全部調べるのは大変そう」

 

「ああ」

 

 俺は少し笑った。

 

「だから、まずは絞り込む必要がある」

 

 リリアは考え込んだ。

 

 そして、ふと顔を上げた。

 

「……あの通路」

 

「ん?」

 

「二人が歩いていった道。あそこを調べてみない?」

 

 俺は彼女を見た。

 

「理由は?」

 

「荷馬車が通れないくらい狭いのに、二人はそっちへ行ったんでしょ?」

 

「ああ」

 

「だったら、広場の中で誰かに会うんじゃなくて、別の場所へ移動するつもりだったのかもしれない」

 

 俺は少し考えた。

 

 確かに、その可能性はある。

 

 通路の先に何があるのか。

 

 どの倉庫へ繋がっているのか。

 

 そこを確認するだけでも、情報は増える。

 

「……行ってみよう」

 

 俺が言うと、リリアは頷いた。

 

「うん」

 

 俺たちは立ち上がり、再び貨物集積地区へ向かった。

 

     ◇

 

 東側の通路は、広場から少し離れた場所にあった。

 

 両側には高い倉庫の壁が続いている。

 

 石畳は古く、ところどころに欠けた部分があった。

 

 昼間だというのに、建物の影が濃い。

 

 通路の入口には、古い木箱がいくつか積まれていた。

 

 人の出入りは少ない。

 

 俺は足を止め、周囲を確認した。

 

 壁。

 

 窓。

 

 屋根の高さ。

 

 逃走経路。

 

 念の気配。

 

 ……今のところ、特に異常はない。

 

 ただし、ここで『円』を広げる必要はないだろう。

 

 一般人が多い場所で、むやみにオーラを使う理由はない。

 

 俺は普通に周囲を観察した。

 

 リリアも、足元へ視線を落としている。

 

「……三日前、か」

 

 彼女が小さく呟いた。

 

「追跡には少し時間が経ちすぎてるな」

 

 俺が言うと、リリアは頷いた。

 

「うん。私の能力でも、条件が厳しい」

 

 彼女の『迷い人の足跡(ロスト・トレイル)』には、痕跡を追跡する能力がある。

 

 だが、万能ではない。

 

 痕跡の鮮度や距離には限界がある。

 

 特に、三日前の足跡を、これほど人の出入りがある場所で正確に追うのは難しい。

 

 だから、今回は無理に使う必要はなかった。

 

「……まずは普通に調べよう」

 

 俺が言うと、リリアは頷いた。

 

「うん」

 

 俺たちは通路を進んだ。

 

 壁際には、古い樽や壊れた木箱が置かれている。

 

 地面には荷車の車輪跡や靴跡が入り混じっていた。

 

 しばらく進むと、通路は二つに分かれていた。

 

 左は別の倉庫の裏手へ。

 

 右は、さらに奥の小さな広場へ続いている。

 

 俺は立ち止まった。

 

「……分岐か」

 

「うん」

 

 リリアは周囲を見回した。

 

 そして、右側の道へ視線を向けた。

 

「……あっち、少し気になる」

 

「何か見つけたか?」

 

「ううん。まだ何も」

 

 彼女は少し考えた。

 

「でも、人の通りが少ないのに、地面が結構踏み固められてる」

 

 俺は足元を見た。

 

 確かに、右側の通路は左側より狭い。

 

 だが、地面には比較的新しい靴跡が複数残っている。

 

 荷車の跡はない。

 

 人だけが頻繁に通っているらしい。

 

 ……なるほど。

 

 倉庫の裏手へ続く道としては、少し不自然かもしれない。

 

 もっとも、従業員の通用路である可能性もある。

 

 俺は周囲の建物を確認した。

 

 右側の通路の先には、古い倉庫が一棟見えている。

 

 外壁はくすんだ灰色。

 

 窓は高い位置に小さく設けられ、入口には厚い木製の扉があった。

 

 扉の上には、古びた看板が掛けられている。

 

 文字はかすれていたが、何とか読めた。

 

『ベルク運送商会・第三倉庫』

 

 俺は看板を見つめた。

 

 ……運送商会、か。

 

 偶然かもしれない。

 

 だが、少し気になる。

 

 俺はリリアへ目を向けた。

 

「……今日は、ここまでにしておこう」

 

 彼女は少し驚いたようだった。

 

「え?」

 

「これ以上、勝手に近づく理由がない」

 

 俺は倉庫を見た。

 

「まだ、ここが事件に関係してる証拠はないからな」

 

 リリアは少し考えた。

 

 それから、頷いた。

 

「……そうだね」

 

「まずは、この商会について調べよう」

 

「うん」

 

 俺たちは踵を返した。

 

 そのときだった。

 

 背後で、重い扉が開く音がした。

 

 俺は振り返らず、耳だけを澄ませた。

 

 靴音が二つ。

 

 男たちの低い話し声。

 

 木箱を引きずるような音。

 

 ……倉庫の作業員か。

 

 それだけなら、何も不思議ではない。

 

 だが、次に聞こえた言葉が、俺の注意を引いた。

 

「……次の便は、いつだ?」

 

「明後日だ。今度は遅らせるなよ」

 

 低い声だった。

 

 俺は歩調を変えず、リリアと並んで通路を進んだ。

 

 背後の男たちは、こちらに気づいている様子はない。

 

 あるいは、気づいていても気にしていないのかもしれない。

 

 リリアが、ほんの少しだけ俺を見た。

 

 俺は小さく頷いた。

 

 ……聞こえたな。

 

 彼女も、目だけで答えた。

 

 俺たちは何も言わず、通路を抜けた。

 

     ◇

 

 貨物集積地区を離れた頃には、夕方が近づいていた。

 

 街の南側には、仕事を終えた作業員たちが増え始めている。

 

 荷馬車の往来も、少しずつ減っていた。

 

 俺たちは人通りの少ない通りへ入り、歩きながら今日の情報を整理した。

 

「……ベルク運送商会」

 

 リリアが小さく呟いた。

 

「ああ」

 

「調べてみる?」

 

「もちろん」

 

 俺は頷いた。

 

「ただし、今のところは普通の運送会社だ。何か問題があると決まったわけじゃない」

 

「うん」

 

「まずは、会社の規模や取引先、倉庫の用途を確認する」

 

 リリアは少し考えた。

 

「……それと、三日前に目撃された二人が、本当にあそこへ行ったかどうか」

 

「そうだな」

 

 俺は彼女を見た。

 

「今日の時点では、まだそこが繋がってない」

 

 リリアは頷いた。

 

 そして、少し笑った。

 

「……でも、手がかりは増えたね」

 

「ああ」

 

 俺も小さく笑った。

 

 確かに、最初の情報だけでは何も分からなかった。

 

 だが、現場へ足を運び、目撃者の話を聞いたことで、いくつかの新しい疑問が生まれた。

 

 ダリオらしき男は、誰と会っていたのか。

 

 なぜ貨物集積地区にいたのか。

 

 『明日の便』とは何を指していたのか。

 

 そして、ベルク運送商会は事件と関係しているのか。

 

 まだ答えは出ていない。

 

 だが、調べるべき方向は少しずつ見えてきた。

 

 ……こういう仕事は、久しぶりだな。

 

 俺は歩きながら思った。

 

 ブラックリストハンターの仕事は、単に犯罪者を倒すことではない。

 

 情報を集め、足取りを追い、証拠を確保し、必要なら戦闘によって身柄を拘束する。

 

 強さだけでは務まらない。

 

 むしろ、戦う前の段階でどれだけ正確に状況を把握できるかが重要になる。

 

 俺は、こうした仕事が嫌いではなかった。

 

 ……いや。

 

 自分の力を使って、誰かの被害を食い止められるなら。

 

 それは、俺がハンターになった理由の一つでもある。

 

 隣を歩くリリアが、ふと口を開いた。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「今日は、ちょっと楽しかった」

 

 俺は彼女を見た。

 

「仕事なのに?」

 

「うん」

 

 リリアは少し笑った。

 

「危険なことは、まだ何もなかったし」

 

「ああ」

 

「でも、少しずつ情報が繋がっていく感じがして」

 

 彼女は前を向いた。

 

「……こういう仕事も、好きかもしれない」

 

 俺は小さく頷いた。

 

「そうか」

 

「うん」

 

 リリアは嬉しそうに笑った。

 

 その横顔を見て、俺は思った。

 

 昨日までの穏やかな休日。

 

 そして、今日から始まる仕事。

 

 どちらも、俺たちの旅の一部なのだ。

 

 これから先、どんな事件が待っているのかは分からない。

 

 だが、今は一つずつ進めばいい。

 

 目の前の手がかりを追い、必要な情報を集める。

 

 そして、もし本当にダリオがこの街に潜伏しているのなら――。

 

 ……必ず見つけ出す。

 

 俺は静かにそう決めた。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 宿の部屋で、俺は机に向かっていた。

 

 昼間に集めた情報を、手帳へ書き留めている。

 

 ダリオ・ゼッカート。

 

 四十六歳。

 

 元運送業者。

 

 複数の都市で指名手配。

 

 三日前、南部貨物集積地区で目撃された可能性。

 

 背の高い男との接触。

 

 『今夜は無理』『明日の便』という会話。

 

 東側の通路。

 

 ベルク運送商会・第三倉庫。

 

 そして、倉庫から聞こえた『次の便は明後日』という言葉。

 

 俺は最後の一行を書き終え、ペンを置いた。

 

 ……さて。

 

 明日は、ベルク運送商会について調べる必要がある。

 

 まずは公開されている情報からだ。

 

 会社の登記。

 

 倉庫の所有者。

 

 主要な取引先。

 

 可能なら、最近の貨物便の運行状況。

 

 それらを確認してから、次の行動を決めよう。

 

 俺は手帳を閉じた。

 

 そのとき、扉を叩く音がした。

 

「アオ、起きてる?」

 

 リリアの声だった。

 

「ああ」

 

 扉を開けると、彼女が立っていた。

 

 手には、小さな包みを持っている。

 

「……これ」

 

 リリアは包みを差し出した。

 

「何だ?」

 

「昨日の蜜鈴果。まだ少し残ってたから」

 

 俺は思わず笑った。

 

「……そうだったな」

 

「一緒に食べようと思って」

 

 リリアは少し照れたように笑った。

 

 俺は扉を大きく開けた。

 

「入ってくれ」

 

「うん」

 

 彼女は嬉しそうに頷いた。

 

 俺たちは机を挟んで向かい合い、果物を切り分けた。

 

 甘い香りが部屋に広がる。

 

 窓の外では、夜風が静かに吹いていた。

 

 仕事は始まった。

 

 だが、だからといって、昨日までの穏やかな時間が消えるわけではない。

 

 俺たちは果物を食べながら、今日の出来事を少しだけ話した。

 

 そして、明日の予定を確認する。

 

 その合間に、昨日の喫茶店の話が出て、リリアが少し頬を赤くした。

 

 俺も、何となく照れくさくなった。

 

 ……まったく。

 

 こういうところは、まだ慣れそうにない。

 

 だが、それでいいのだろう。

 

 仕事も、旅も、日常も。

 

 すべてを急ぐ必要はない。

 

 俺たちは、まだこれからなのだから。

 

 やがてリリアが自分の部屋へ戻り、俺は再び机へ向かった。

 

 手帳を開き、最後の頁に一行だけ書き加える。

 

『明日、ベルク運送商会について調査する』

 

 俺はペンを置いた。

 

 窓の外には、静かな夜の街が広がっている。

 

 そのどこかに、ダリオ・ゼッカートが潜んでいるのかもしれない。

 

 あるいは、すでに別の街へ逃げているのかもしれない。

 

 まだ何も分からない。

 

 だが、確かなことが一つある。

 

 ……狩りは、始まった。

 

 俺は灯りを落とし、寝台へ横になった。

 

 明日は、もう少し深く調べてみよう。

 

 そう考えながら、静かに目を閉じた。

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