流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
翌朝、窓を開けると、湿った風が部屋へ流れ込んできた。
夜のうちに雨が降ったらしい。
石畳は黒く濡れ、向かいの建物の屋根からは、まだ時折、溜まった水が滴り落ちている。通りを行く荷馬車が車輪で水溜まりを踏むたび、泥混じりの水が低く跳ねた。
空には薄い雲が残っていたが、西の方角から少しずつ青空が広がり始めている。
俺は窓枠に片手を置き、しばらく街を眺めていた。
昨日までの穏やかな休日は終わった。
今日からは、ブラックリストハンターとしての仕事だ。
もっとも、現段階では正式な依頼を受けたわけではない。協会が公開している指名手配情報をもとに、俺自身の判断で調査を始めただけだ。
対象は、ダリオ・ゼッカート。
四十六歳。
元運送業者で、現在は誘拐、監禁、恐喝、違法な武器取引などの容疑で指名手配されている男。
そのダリオらしき人物が、三日前、この街の南部貨物集積地区で目撃されている。
昨日、俺とリリアは現地へ足を運び、目撃者から話を聞いた。
そこで浮かび上がったのが、ベルク運送商会という会社だった。
ただし、現時点では何も確定していない。
目撃された男が本当にダリオだったのか。
ベルク運送商会が事件に関係しているのか。
そもそも、ダリオがまだこの街にいるのか。
いずれも不明だ。
だからこそ、調べる必要がある。
俺は窓を閉め、机へ向かった。
昨夜まとめた手帳を開く。
ページには、昨日確認した事実と推測が分けて記されていた。
こういうとき、頭の中だけで情報を整理するのは危険だ。
人間は、思い込みに引っ張られる。
一度「こいつが怪しい」と考えてしまうと、それを裏づける情報ばかり集めたくなるものだ。
前世でも、そういう話は何度となく耳にした。
この世界でも、事情は変わらないだろう。
俺は手帳の端に、短く書き加えた。
『ベルク運送商会とダリオの関係は未確認』
ペンを置く。
……よし。
まずは、会社そのものを調べよう。
登記情報。
倉庫の所有関係。
運送業の許可。
可能なら、最近の貨物便の記録。
そして、昨日聞いた「明日の便」という言葉。
三日前の夕方に交わされた会話なら、該当するのは二日前の便だ。
ただし、目撃者の記憶が正しければ、という条件がつく。
俺が通信端末へ手を伸ばしたところで、扉を叩く音がした。
「アオ、起きてる?」
リリアだった。
「ああ。入ってくれ」
扉が開き、栗色の髪を揺らした彼女が顔を覗かせた。
今日は動きやすい服装に、先日買った外套を羽織っている。
胸元には、深紅の宝石を抱いた銀のペンダント。
右手の人差し指には、細い銀色の指輪。
昨日と変わらない姿だった。
「おはよう」
「おはよう。早いな」
「アオもでしょ?」
「まあな」
リリアは机の上に広げられた手帳を見て、少し笑った。
「もう仕事してたんだ」
「頭の整理だけだよ」
「朝ご飯は?」
「まだだ」
「じゃあ、先に食べない?」
俺は時計を見た。
まだ朝食には十分な時間がある。
「そうするか」
「うん」
リリアは嬉しそうに頷いた。
その様子を見ていると、昨日までの休日の余韻が、まだ少し残っているような気がした。
……まあ、仕事だからといって、四六時中気を張り詰めている必要もない。
俺は手帳を閉じ、彼女と一緒に食堂へ向かった。
◇
朝食を終えた俺たちは、街の中央区へ向かった。
目指すのは、商業登記と運送業の許可情報を扱う行政庁舎だ。
街の中心部は、南の貨物集積地区とは随分と雰囲気が違う。
白っぽい石造りの建物が並び、道端には花を植えた鉢が置かれている。朝の市場を抜けると、焼き菓子の甘い匂いが漂ってきた。
昨日なら、きっとリリアが足を止めていただろう。
そう思って横を見ると、案の定、彼女の視線が焼き菓子屋の方へ向いていた。
「……気になるか?」
「え?」
「店」
リリアは一瞬だけ目を丸くしたあと、照れくさそうに笑った。
「ちょっとだけ」
「帰りに寄ろう」
「いいの?」
「仕事が片づいたらな」
「じゃあ、頑張らないと」
彼女は冗談めかして言った。
俺は肩を竦める。
「菓子が報酬なら、安上がりな依頼だ」
「失礼だなあ。ちゃんと真面目に働くよ」
「期待してる」
「もう」
リリアが軽く肘で俺の腕を突いた。
そのやり取りに、思わず笑みがこぼれる。
こんなふうに会話を交わしながら歩けることが、今ではすっかり自然になっていた。
ただ、以前と違うのは――。
ふと彼女の指輪へ目が向いたとき、妙に意識してしまうことだろうか。
……仕事に集中しよう。
俺は前方へ視線を戻した。
ほどなくして、目的の行政庁舎が見えてきた。
古い時計塔を備えた三階建ての建物だ。
入口には市の紋章が掲げられ、階段の両側には制服姿の警備員が立っている。
俺たちは受付で用件を伝え、商業登記の閲覧窓口へ案内された。
窓口にいたのは、眼鏡をかけた中年の女性職員だった。
「ベルク運送商会についてお調べになりたいんですね」
「はい。公開されている登記情報を確認したいんです」
俺は必要な書類を記入した。
女性は書類を受け取り、奥の棚へ向かった。
しばらくして、厚い台帳を抱えて戻ってくる。
「こちらが該当する記録です。閲覧できる範囲は、印の付いた部分になります」
「ありがとうございます」
俺は礼を言い、リリアと並んで閲覧席へ座った。
台帳を開く。
ベルク運送商会。
設立は十五年前。
代表者は、オスカー・ベルク。
五十二歳。
主な事業は、一般貨物の運送と倉庫保管。
市内に三つの倉庫を所有し、近隣都市にも複数の取引先がある。
許可の更新状況に目立った問題はない。
税務上の重大な処分歴も記載されていなかった。
俺はページをめくった。
……表向きは、ごく普通の運送会社だな。
むしろ、経営は安定しているように見える。
長年営業を続け、取引先も多い。
昨日見た第三倉庫も、正式に登録された施設だった。
「……ねえ、アオ」
隣からリリアが声をかけた。
「どうした?」
「ここ、見て」
彼女が指差したのは、数年前の事業変更に関する記録だった。
ベルク運送商会は四年前、倉庫保管業務を拡大している。
それに伴い、第三倉庫の使用目的が変更されていた。
以前は農産物の一時保管。
現在は、一般貨物の混載と積み替え。
「……混載か」
俺は呟いた。
混載輸送とは、複数の荷主の貨物を一つの便にまとめて運ぶ方式だ。
効率はいい。
だが、管理がずさんなら、荷物の出所や行き先が分かりにくくなる。
もちろん、それ自体は犯罪ではない。
むしろ、運送業では普通に行われていることだろう。
「何か気になる?」
リリアが尋ねた。
「第三倉庫の用途が分かったのは収穫だ。ただ、これだけじゃ判断できないな」
「そっか」
「次は、便の記録だ」
俺は台帳を閉じた。
女性職員へ礼を言い、運送業の管理窓口へ移動する。
そこで確認できたのは、事業者ごとの運行許可と定期便の概要だった。
個々の荷物の中身や荷主の情報までは公開されていない。
当然といえば当然だ。
誰でも他人の荷物を調べられるようでは、商売にならない。
それでも、いくつか分かったことがある。
ベルク運送商会は、週に三度、南部貨物集積地区から近隣都市へ向けて定期便を出していた。
そのうち一便は、二日前に出発している。
出発時刻は、午前六時。
目的地は、南東に位置する商業都市ラウゼン。
途中で二か所の中継所を経由する予定だった。
俺は時刻を手帳へ書き込んだ。
……三日前の「明日の便」と、日付は一致する。
だが、これだけなら偶然でもおかしくない。
定期便なのだから、出発していて当然だ。
問題は、その便に何が積まれていたか。
そして、誰が関わっていたかだ。
俺は職員へ尋ねた。
「この便の運行記録は、どこで確認できますか?」
「詳細な記録は運送会社が保管しています。事故や行政処分に関する報告なら、こちらにもありますが」
「最近、ベルク運送商会に事故報告は?」
職員は少し考えた。
「公開されている範囲では、大きな事故はありませんね。ただ……」
「ただ?」
「二日前の便について、出発後に担当者変更の届出がありました」
俺は目を細めた。
「担当者変更?」
「はい。運行責任者の補助として登録されていた方が、出発前に交代したという内容です」
「理由は?」
「体調不良と記載されています」
職員は記録を確認した。
「変更された方のお名前は……エドガー・リースさん。二十九歳です」
俺は、その名前を手帳に記した。
エドガー・リース。
二十九歳。
ベルク運送商会の運行補助担当。
二日前の便から、出発直前に外された人物。
……さて。
偶然か。
それとも、何かあるのか。
俺はさらに尋ねた。
「その方は、現在も会社に在籍しているんでしょうか?」
「そこまでは、こちらでは分かりません」
「分かりました。ありがとうございます」
俺は礼を言った。
窓口を離れると、リリアが小さく声をかけてきた。
「……アオ」
「ああ」
「エドガーさん、気になるね」
「そうだな」
ただし、現時点では体調不良による交代という説明に矛盾はない。
病気で仕事を休むことは、誰にでもある。
だが、調べる価値はあった。
俺たちは庁舎を出た。
空はすっかり晴れていた。
◇
昼食は、庁舎の近くにある小さな食堂で取ることにした。
店内には木製のテーブルが並び、壁には古い風景画が掛けられている。
俺は煮込み料理とパンを注文した。
リリアは野菜の入った温かいスープと、薄く焼いた肉料理を選んだ。
料理が届くまでの間、俺たちは今日の情報を整理した。
「……つまり、ベルク運送商会は十五年前から営業している普通の会社で、第三倉庫は混載貨物の積み替えに使われている」
リリアが手帳を見ながら言った。
「ああ」
「それで、二日前にラウゼン行きの便が出発してる」
「そうだな」
「でも、その便に乗るはずだったエドガー・リースさんが、出発前に交代してる」
「体調不良という理由でな」
リリアは少し考えた。
「……本当に病気だったのかな」
「分からない」
俺は答えた。
「ただ、今のところ疑う理由もない。本人に確認できれば一番いいんだが」
「会社に聞いてみる?」
「そうするつもりだ」
俺は窓の外へ目を向けた。
昼の街は賑やかだった。
行商人が荷車を押し、子供たちが広場を走り回っている。
平和な光景だ。
その一方で、この街のどこかに、犯罪者が潜んでいる可能性がある。
もっとも、今見えているものが街のすべてではない。
表通りで商売をする人間。
裏通りで日雇い仕事を探す人間。
夜の倉庫で荷物を動かす人間。
同じ街に暮らしていても、互いの生活をほとんど知らない者は多い。
流星街で育った俺には、そのことがよく分かる。
表から見える姿と、裏側にある現実。
その二つが一致するとは限らない。
「……アオ?」
リリアの声で、俺は顔を戻した。
「どうした?」
「考え事?」
「ああ。少しな」
「ダリオのこと?」
「それもある」
俺は笑った。
「まずはエドガーという男を探してみようと思ってる」
リリアは頷いた。
「うん。私も手伝う」
「頼む」
そのとき、料理が運ばれてきた。
温かな湯気が立ち上り、香草の匂いが鼻をくすぐる。
リリアがスープを一口飲み、ほっとしたように息を吐いた。
「……おいしい」
「そりゃよかった」
「アオのも?」
「ああ。なかなかだ」
俺はパンを煮込み料理へ浸した。
濃厚な肉の旨味が染み込んでいる。
朝から動き回っていた身体には、ちょうどいい。
しばらくは、仕事の話をせずに食事を楽しんだ。
こういう切り替えも大切だ。
張り詰めたままでは、いざというときに判断を誤る。
食事を終えたあと、リリアがふと思い出したように言った。
「そういえば、帰りに焼き菓子を買う約束だったよね」
「覚えてたのか」
「もちろん」
彼女は楽しそうに笑った。
「忘れるわけないでしょ」
「分かった。帰りに寄ろう」
「約束だよ」
「ああ」
俺たちは席を立った。
◇
午後。
俺たちは再び南部貨物集積地区へ向かった。
昨日と違い、今日はベルク運送商会の事務所を訪ねる。
目的は、エドガー・リースについて確認することだ。
もちろん、いきなり犯罪の疑いを突きつけるつもりはない。
まずは、普通に話を聞く。
相手の反応を見るのは、そのあとだ。
ベルク運送商会の本社事務所は、第三倉庫から少し離れた場所にあった。
二階建ての石造りの建物で、入口には会社の紋章が掲げられている。
敷地内には荷馬車が数台停まり、作業員たちが忙しそうに動いていた。
俺たちは受付へ向かった。
中には若い女性が一人、帳簿を整理していた。
「こんにちは」
俺が声をかけると、女性は顔を上げた。
「いらっしゃいませ。ご用件は?」
「少しお尋ねしたいことがありまして」
俺はハンターライセンスを提示した。
女性の表情がわずかに変わった。
「……ハンターの方ですか?」
「ええ。現在、ある指名手配事件について調査しています」
その言葉を聞いた瞬間、女性の指が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、俺は見逃さなかった。
「……事件、ですか?」
「はい。ただ、こちらの会社が何か問題を起こしたと決めつけているわけではありません」
俺は落ち着いた声で続けた。
「二日前の定期便について、確認したいことがあるんです」
女性は少し迷った様子を見せた。
そして、奥の扉へ視線を向けた。
「……少々お待ちください。責任者を呼んできます」
「お願いします」
女性が奥へ消える。
俺は何気ない様子で事務所内を見回した。
壁には運行予定表が掛けられている。
机には帳簿と荷札の束。
棚には、取引先ごとに分けられた書類が並んでいた。
特に不自然なものは見当たらない。
リリアも、静かに周囲を観察している。
しばらくすると、奥から中年の男が現れた。
四十代後半ほど。
短く刈った黒髪に、整えられた口髭。
少し太った体格で、濃紺の上着を着ている。
男は俺たちを見ると、営業用らしい笑みを浮かべた。
「お待たせしました。私は事務長のマルセル・ドランです」
「アオです。こちらはリリア」
俺たちは簡単に自己紹介した。
マルセルは俺たちを応接用の小さな部屋へ案内した。
部屋には木製の机と椅子が置かれ、壁には運送経路を示した地図が掛けられている。
「それで、どのようなご用件でしょう?」
マルセルが尋ねた。
「二日前に出発したラウゼン行きの便について、確認したいことがあります」
「……ラウゼン行き、ですか」
「はい。出発直前に担当者が変更されたと聞きました」
マルセルは少し考えた。
「ああ、エドガーの件ですね」
「エドガー・リースさんですね」
「ええ」
彼は頷いた。
「彼は体調を崩してしまいまして。急遽、別の者に交代させたんです」
「現在は出勤されていますか?」
俺が尋ねると、マルセルは一瞬だけ口を閉じた。
そして、困ったように眉を寄せた。
「……実は、それが」
「何か?」
「エドガーは、あの日から出勤していないんです」
俺は表情を変えずに聞いた。
「病欠が続いているということですか?」
「そういうことになります。ただ……」
マルセルは言葉を濁した。
リリアが静かに尋ねる。
「連絡は取れているんでしょうか?」
マルセルは彼女を見た。
それから、小さく息を吐いた。
「……取れていません」
部屋に短い沈黙が落ちた。
「自宅へ人をやったんですが、留守でしてね」
「家族の方は?」
「彼は独り暮らしです」
「警察には?」
俺が尋ねると、マルセルは少し気まずそうな表情になった。
「……まだです」
「理由を聞いても?」
「正直に申し上げますと、最初はただの無断欠勤だと思っていたんです」
彼は肩を落とした。
「若い連中には、たまにあることでして。仕事が嫌になって、そのまま姿を消す者もいます」
「エドガーさんも、そういう方だったんですか?」
リリアが尋ねた。
マルセルは首を横に振った。
「いや……彼は真面目な男でした」
その言葉には、少しだけ重みがあった。
「五年ほど勤めていますが、無断欠勤なんて一度もなかった。仕事も丁寧で、荷物の扱いにうるさいくらいでしたよ」
「……それなら、なおさら気になりますね」
リリアが言った。
マルセルは頷いた。
「ええ。私も、少し心配になってきまして」
俺は考えた。
出発直前の担当者変更。
その理由は体調不良。
だが、本人とは連絡が取れていない。
自宅にもいない。
しかも、普段は真面目に働いていた人物だという。
……少なくとも、確認すべき事案ではあるな。
「エドガーさんが最後に出勤したのは、いつですか?」
「三日前の夕方です」
俺は目を細めた。
三日前。
ダリオらしき男が目撃された日だ。
「何時頃まで?」
「確か……午後六時頃だったと思います」
「その日の様子に、変わったところは?」
マルセルはしばらく考えた。
「……そういえば」
彼は眉を寄せた。
「少し、落ち着かない様子でした」
「落ち着かない?」
「何度も帳簿を確認していましたね。何か気になることがあったようです」
「何の帳簿ですか?」
「第三倉庫の貨物記録です」
俺は内心で息を止めた。
第三倉庫。
昨日、俺たちが調べた場所だ。
「……その帳簿を見せてもらうことはできますか?」
俺が尋ねると、マルセルは困った顔をした。
「申し訳ありませんが、取引先の情報が含まれていますので……」
「もちろん、無理にとは言いません」
俺はすぐに引いた。
現時点では、会社が犯罪に関与している証拠はない。
無関係な取引先の情報を、こちらの都合で開示させるわけにはいかない。
「ただ、エドガーさんが行方不明になっている可能性があります。警察へ相談することをおすすめします」
マルセルは頷いた。
「……そうですね。私も、その方がいいと思います」
「最後に、エドガーさんの自宅を教えていただくことはできますか?」
彼は少し迷った。
「……本人の住所ですから、簡単には」
「分かっています。では、こちらの連絡先を警察へ伝えてください。必要なら、警察を通じて確認します」
俺は協会の連絡窓口を記した紙を渡した。
マルセルはそれを受け取った。
「……承知しました」
俺たちは礼を言い、事務所を出た。
◇
建物の外へ出ると、リリアが小さく息を吐いた。
「……エドガーさん、いなくなってるんだね」
「ああ」
「偶然なのかな」
「まだ分からない」
俺は答えた。
「ただ、時期が重なりすぎている」
三日前。
ダリオらしき男が貨物集積地区で目撃された。
同じ日、エドガーは第三倉庫の帳簿を何度も確認していた。
そして、翌日の便から外され、そのまま姿を消している。
これらが一つの事件に繋がっている可能性はある。
だが、確証はない。
「……まずは警察へ連絡しよう」
俺が言うと、リリアは頷いた。
「うん」
俺たちは近くの公衆通信所へ向かった。
協会を通じて現地警察の担当部署へ連絡を取り、エドガーの件を伝える。
応対した警察官は、こちらの身分と情報を確認したうえで、行方不明の可能性について調べると答えた。
ただし、会社からの正式な届出がない段階では、すぐに捜索へ移るとは限らないらしい。
俺は必要な情報を伝え、通信を終えた。
……さて。
これで、最低限の手続きは済んだ。
次は、エドガーが最後に何をしていたのかを調べたい。
ただし、第三倉庫へ勝手に立ち入るわけにはいかない。
ならば、周辺で話を聞くしかない。
「リリア」
「うん?」
「昨日の詰所へ行ってみよう」
「トーマスさんのところ?」
「ああ。エドガーのことを知っているかもしれない」
リリアは頷いた。
「分かった」
俺たちは貨物集積地区へ向かった。
◇
昨日訪ねた詰所には、同じ中年の男がいた。
俺たちを見ると、少し驚いたように眉を上げた。
「おや、昨日のハンターさんじゃないか」
「こんにちは。昨日はありがとうございました」
「今日はどうした?」
「少し、別のことを聞きたくて」
俺はエドガー・リースの名前を出した。
すると、男の表情が変わった。
「……エドガー?」
「ご存じですか?」
「ああ。ベルクのところの若い運び屋だろ」
男は頷いた。
「真面目な奴だよ。仕事で何度も顔を合わせてる」
「最後に見たのは?」
「……そうだな」
彼は考え込んだ。
「三日前の夕方だったと思う」
俺は手帳を開いた。
「どこで?」
「第三倉庫の近くだ」
……やはり、そこか。
「そのとき、何をしていましたか?」
「何か書類を抱えて、うろうろしてたな」
「書類?」
「ああ。帳簿みたいなものだった」
男は少し眉を寄せた。
「……そういえば、妙に顔色が悪かった」
リリアが尋ねた。
「何かあったんでしょうか?」
「さあな。ただ、いつものあいつらしくなかった」
男は腕を組んだ。
「普段は気さくな奴なんだが、その日は誰かを避けてるみたいだった」
俺は視線を上げた。
「誰かを?」
「いや、そう見えただけだ。確かなことは分からん」
「分かりました」
俺は礼を言った。
そのとき、男がふと思い出したように言った。
「……ああ、そうだ」
「何ですか?」
「エドガー、あの日、何か落としていったんだよ」
俺は目を細めた。
「落とし物?」
「ああ。小さな手帳だったかな」
「今もありますか?」
「いや。本人に返そうと思って、事務所へ届けた」
……事務所か。
俺は考えた。
マルセルは、その手帳について何も言っていなかった。
単に知らないのかもしれない。
あるいは、重要なものではなかったのかもしれない。
「中身は見ましたか?」
男は首を横に振った。
「いや。他人の手帳だからな」
「そうですか」
俺は頷いた。
そのとき、リリアが尋ねた。
「……エドガーさん、どこで手帳を落としたんですか?」
男は広場の東側を指差した。
「第三倉庫へ続く通路の入口だ」
俺はリリアと視線を交わした。
昨日、俺たちが通った場所だった。
「……ありがとうございます」
俺は男へ礼を言った。
そして、再び第三倉庫の方へ向かった。
◇
昨日と同じ通路。
だが、今日は少し様子が違っていた。
昨夜の雨で石畳が濡れ、壁際には水溜まりが残っている。
木箱の位置も、昨日とは少し変わっていた。
俺は周囲を見回した。
……三日前の痕跡を探すには、条件が悪いな。
雨が降ったことで、足跡や細かな痕跡の多くは失われているだろう。
リリアも同じことを考えていたらしい。
「……雨、降っちゃったね」
「ああ」
「三日前の足跡は、ほとんど残ってないと思う」
「そうだな」
俺は通路の奥を見た。
第三倉庫の扉は閉じられている。
周囲には作業員の姿がない。
ただし、遠くから荷車の音が聞こえていた。
俺たちは通路の入口付近で立ち止まった。
「……どうする?」
リリアが尋ねた。
「まずは、エドガーが手帳を落とした場所を確認しよう」
「うん」
彼女は足元へ視線を落とした。
石畳の隙間。
壁際の泥。
木箱の下。
そうした場所を丁寧に観察していく。
俺も反対側を調べた。
しばらくして、リリアが小さく声を上げた。
「……アオ」
「何かあったか?」
「これ」
彼女が指差したのは、壁際の石畳だった。
そこには、細い溝が刻まれていた。
長さは十センチほど。
何か硬いものが擦れたような傷だ。
俺はしゃがみ込んだ。
……新しい傷か?
石の表面は、周囲より少しだけ白くなっている。
だが、いつ付いたものかは分からない。
荷物を引きずった跡かもしれないし、金属製の道具が当たっただけかもしれない。
「……これだけじゃ、判断できないな」
俺が言うと、リリアは頷いた。
「うん。でも、少し気になる」
「覚えておこう」
俺は手帳に位置を記した。
そのときだった。
通路の奥から、靴音が聞こえた。
俺は顔を上げた。
第三倉庫の方から、一人の男が歩いてくる。
年齢は三十代後半ほど。
背が高く、肩幅が広い。
濃い色の外套を羽織り、帽子を深く被っていた。
……ん?
俺は男を観察した。
昨日、トーマスが話していた人物の特徴と似ている。
ただし、それだけで同一人物とは限らない。
男は俺たちを見ると、わずかに歩調を緩めた。
そして、低い声で言った。
「……ここで何をしている?」
俺は立ち上がった。
「少し、道を確認していただけです」
男は俺とリリアを交互に見た。
視線が、俺の腰元へ一瞬だけ落ちる。
それから、リリアの顔へ向いた。
「……ここは仕事場だ。用がないなら、出ていけ」
声には、露骨な敵意こそない。
だが、歓迎されていないことは明らかだった。
俺は軽く頭を下げた。
「失礼しました」
リリアも小さく会釈した。
俺たちは男の横を通り、広場の方へ向かった。
その間、俺は相手の動きを意識していた。
歩幅。
呼吸。
重心。
腕の位置。
男は、俺たちが通り過ぎるまで身体をほとんど動かさなかった。
ただし、右手が外套の内側に近い位置へ置かれていた。
……武器を持っているのかもしれない。
あるいは、単なる癖か。
判断する材料は足りない。
俺たちは通路を抜けた。
背後で、男の靴音が遠ざかっていく。
リリアが小さく息を吐いた。
「……ちょっと怖かったね」
「ああ」
俺は頷いた。
「だが、今のところ何もされてない」
「うん」
「ただ、あの男のことは覚えておこう」
リリアは頷いた。
「……トーマスさんが言ってた人に似てた」
「俺もそう思った」
俺は手帳を開いた。
背が高い。
肩幅が広い。
濃い色の外套。
深く被った帽子。
ただし、これらは珍しい特徴ではない。
それに、昨日の目撃証言も、三日前の記憶だ。
決めつけるのは危険だった。
「……次は、エドガーの手帳だな」
俺が言うと、リリアは頷いた。
「事務所に戻る?」
「ああ。ただし、見せてもらえるかどうかは分からない」
「そうだね」
俺たちは再びベルク運送商会の事務所へ向かった。
◇
受付の女性は、俺たちを見ると少し驚いたようだった。
「……またいらしたんですね」
「何度もすみません」
俺は軽く頭を下げた。
「先ほどの件で、追加の確認をしたくて」
女性は奥へ向かい、再びマルセルを呼んできた。
マルセルは少し困ったような表情を浮かべたが、応接室へ案内してくれた。
「……今度は、何でしょう?」
「エドガーさんの落とし物についてです」
俺が言うと、マルセルの眉が動いた。
「落とし物?」
「三日前、第三倉庫へ続く通路で、小さな手帳を落としたそうです」
マルセルはしばらく考えた。
「……ああ」
彼は何かを思い出したように頷いた。
「確かに、そんなものが届いていました」
「今もありますか?」
「ええ。本人に返そうと思って、預かってあります」
俺は静かに尋ねた。
「中身を確認することはできますか?」
マルセルは少し迷った。
「……私物ですからね」
「もちろん、無理にとは言いません」
俺は答えた。
「ただ、エドガーさんが行方不明になっている可能性があります。何か手がかりがあるかもしれません」
マルセルは考え込んだ。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。ただし、私も同席します」
「構いません」
彼は部屋を出た。
しばらくして、小さな革張りの手帳を持って戻ってきた。
表紙は使い込まれ、角が擦り切れている。
俺はそれを受け取った。
手帳は、掌に収まるほどの大きさだった。
開くと、細かな文字がびっしりと並んでいる。
日付。
貨物番号。
荷主の略称。
積み込み時刻。
どうやら、仕事用の個人メモらしい。
俺は慎重にページをめくった。
リリアも隣から覗き込んでいる。
数ページ進んだところで、彼女が小さく声を上げた。
「……アオ」
「ん?」
「ここ」
リリアが指差したのは、三日前の日付が記されたページだった。
そこには、いくつかの貨物番号が並んでいた。
だが、そのうち一つだけ、赤い線で囲まれている。
『貨物番号:B-317』
その下には、短い文章が書かれていた。
『送り主不明。受取人変更。重量が合わない』
俺は目を細めた。
……重量が合わない?
さらに下を見る。
『封印確認済みのはず。だが、封蝋が新しい』
俺はページをめくった。
次のページには、同じ貨物番号が再び記されていた。
そして、その横に一行。
『中身を確認する必要あり。今夜、第三倉庫』
俺は手を止めた。
……なるほど。
エドガーは、何かに気づいていたのかもしれない。
貨物の重量が記録と一致しない。
送り主が不明。
受取人が変更されている。
さらに、封印が新しい。
これだけなら、単なる事務処理のミスという可能性もある。
だが、複数の不自然な点が重なっている。
しかも、エドガーはその貨物を自分で確認しようとしていた。
そして、その夜を最後に姿を消した。
俺はマルセルへ視線を向けた。
「……この貨物番号に心当たりはありますか?」
マルセルは手帳を覗き込んだ。
「B-317……?」
彼は眉を寄せた。
「少々お待ちください」
そう言って、机の上に置かれた書類を確認する。
だが、すぐに首を横に振った。
「……今は分かりません。正式な貨物台帳を確認しないと」
「確認をお願いできますか?」
マルセルは少し考えた。
「……分かりました。ただし、会社の記録ですので、すべてをお見せすることはできません」
「必要な部分だけで構いません」
俺は答えた。
マルセルは頷き、部屋を出た。
俺は手帳を閉じず、リリアと視線を交わした。
「……どう思う?」
彼女が小さく尋ねた。
「エドガーが何かを調べていたのは確かだな」
「うん」
「ただ、その貨物が犯罪に関係しているかは分からない」
リリアは頷いた。
そして、少し考えたあと、手帳の一行を指差した。
「……でも、気になることがある」
「何だ?」
「『今夜、第三倉庫』って書いてある」
「ああ」
「三日前の夜に確認するつもりだったなら……」
彼女は言葉を切った。
俺も、その先を考えていた。
三日前。
ダリオらしき男が、貨物集積地区で誰かと会っていた。
同じ日、エドガーは不審な貨物を調べようとしていた。
そして、翌日の便から外され、姿を消した。
……偶然で片づけるには、少し引っかかる。
だが、まだ証拠は足りない。
俺は手帳を閉じた。
「……まずは、B-317の記録を確認しよう」
リリアは頷いた。
「うん」
◇
マルセルが戻ってきたのは、それから十五分ほど経ってからだった。
彼の手には、一枚の書類が握られていた。
だが、その表情は先ほどより硬い。
「……お待たせしました」
俺は顔を上げた。
「何か分かりましたか?」
マルセルは椅子へ腰を下ろした。
そして、書類を机の上に置いた。
「……妙なんです」
「妙?」
「B-317という貨物番号は、確かに登録されています」
俺は頷いた。
「ですが……」
マルセルは言葉を選ぶように続けた。
「その貨物は、二日前の便に積まれていないことになっています」
俺は眉を寄せた。
「……どういうことですか?」
「出発前に、積載予定から外された記録があるんです」
「理由は?」
「荷主の都合による取り消し、と」
マルセルは書類を指差した。
そこには、確かに取り消しの記録があった。
ただし、変更処理が行われた時刻は、出発前日の夜遅くだった。
俺は手帳を開き、エドガーの記録と照らし合わせた。
……なるほど。
エドガーが「今夜、第三倉庫」と書いた日。
その夜に、B-317の積載が取り消されている。
そして、翌朝の便からエドガー自身も外されている。
……これは。
俺は慎重に言葉を選んだ。
「この貨物は、現在どこにありますか?」
マルセルは首を横に振った。
「分かりません」
「取り消されたなら、荷主へ返却されたのでは?」
「普通なら、そうです」
彼は書類を見つめた。
「ですが、返却の受領記録が見当たらないんです」
部屋に沈黙が落ちた。
リリアが静かに尋ねた。
「……つまり、荷物がどこへ行ったのか分からないんですか?」
「……そういうことになります」
マルセルは苦い顔をした。
「本来なら、こんなことはあってはならないんですが……」
俺は考えた。
貨物番号B-317。
送り主不明。
受取人変更。
重量の不一致。
封印の異常。
積載予定の取り消し。
返却記録の欠落。
そして、その貨物を調べようとしていたエドガーの失踪。
……さすがに、無視できる話ではなくなってきたな。
「マルセルさん」
俺は静かに言った。
「この件は、警察へ正式に相談した方がいいと思います」
マルセルは顔を上げた。
「……やはり、そうですか」
「ええ。少なくとも、従業員の行方が分からなくなっていることと、貨物の管理記録に不自然な点があることは事実です」
彼は深く息を吐いた。
「……分かりました」
俺は続けた。
「それと、エドガーさんの手帳は、警察へ渡してください。こちらでは持ち帰りません」
「承知しました」
マルセルは手帳を受け取った。
そのとき、俺はふと気になったことを尋ねた。
「……ところで、B-317の取り消し処理をしたのは誰ですか?」
マルセルは書類へ視線を落とした。
「……担当者の印がありますね」
彼は指先で一部分をなぞった。
そこには、短い署名が記されていた。
『K・ハルト』
俺はその文字を見た。
「……この方は?」
マルセルは少し考えた。
「第三倉庫の夜間管理責任者です」
「名前は?」
「カイゼル・ハルト」
俺は手帳へ書き込んだ。
カイゼル・ハルト。
第三倉庫の夜間管理責任者。
B-317の積載取り消し処理を行った人物。
……新しい名前が出てきたな。
「その方は、今も第三倉庫に?」
俺が尋ねると、マルセルは頷いた。
「ええ。夜間の管理を任せています」
「分かりました」
俺は礼を言った。
ただし、すぐに第三倉庫へ向かうつもりはなかった。
現時点で、カイゼルが何か不正を行ったと決まったわけではない。
正式な業務として、貨物の取り消し処理をしただけかもしれない。
だからこそ、慎重に調べる必要がある。
俺たちはマルセルへ礼を言い、事務所を後にした。
◇
夕方。
街の中心部へ戻る途中、リリアが口を開いた。
「……アオ」
「ん?」
「エドガーさん、生きてるかな」
その声には、いつもの明るさがなかった。
俺は少し考えた。
正直に言えば、分からない。
行方不明になってから三日。
犯罪に巻き込まれている可能性がある。
もし本当にダリオのような人間が関わっているなら、楽観はできない。
だが、まだ死亡を示す情報は何もない。
「……生きている可能性はある」
俺は答えた。
「ただ、早く見つけた方がいいのは確かだ」
リリアは頷いた。
「……うん」
彼女は少し俯いた。
「もし、何かを見つけちゃったせいで捕まってるなら……」
「そうかもしれない」
俺は静かに言った。
「だから、調べる」
リリアが顔を上げた。
「俺たちが今できるのは、手がかりを追うことだ。焦って動けば、かえって危険になる」
「……うん」
「エドガーが生きているなら、助ける。そのためにも、まずは居場所を突き止めよう」
リリアはしばらく俺を見ていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
その表情には、先ほどまでの不安とは違うものが宿っていた。
静かな決意。
俺はそれを見て、少しだけ安心した。
リリアは優しい。
だが、優しさだけで動くわけではない。
必要なときには、感情を抑えて状況を見ようとする。
それは、ハンターとして大切なことだ。
俺たちは歩き続けた。
やがて、朝に通った市場が見えてきた。
焼き菓子屋の前には、まだ数人の客が並んでいる。
リリアが店を見た。
そして、俺を見た。
「……アオ」
「約束だったな」
俺が言うと、彼女は少し驚いたように瞬いた。
「覚えてた?」
「もちろん」
リリアは、ふっと笑った。
「……うん」
俺たちは店へ向かった。
店先には、蜂蜜を塗った焼き菓子や、木の実を混ぜ込んだ小さなパンが並んでいる。
リリアはしばらく迷ったあと、二種類の焼き菓子を選んだ。
「アオは?」
「同じのでいい」
「じゃあ、半分ずつにしよう」
「ああ」
包みを受け取り、俺たちは近くの広場へ向かった。
石造りの噴水のそばに腰を下ろす。
夕日が建物の壁を赤く染めていた。
リリアは包みを開き、焼き菓子を一つ取り出した。
それを半分に割って、俺へ差し出す。
「はい」
「ありがとう」
受け取って一口食べる。
外側は香ばしく、中には甘い木の実が入っていた。
「……うまいな」
「でしょ?」
リリアは嬉しそうに笑った。
俺も自然と笑みを返した。
事件のことを忘れたわけではない。
だが、こういう時間まで失う必要はない。
目の前にある温かなものを、大切にしたい。
それは、俺が流星街で生きてきた中で、少しずつ学んだことでもあった。
しばらくして、リリアが小さく言った。
「……明日も、頑張ろうね」
「ああ」
俺は頷いた。
「明日は、もう少し踏み込んで調べる」
「カイゼル・ハルトさん?」
「それもある」
俺は夕暮れの空を見上げた。
「ただ、まずは警察の動きを確認したい。エドガーの失踪と、B-317の件を正式に扱ってもらえるなら、調べられる範囲も広がる」
「そっか」
「それに、第三倉庫の夜間管理責任者が関係しているなら、昼間より夜の方が動きがあるかもしれない」
リリアは少し考えた。
「……夜に見張る?」
「必要ならな」
「分かった」
彼女は頷いた。
そして、右手の人差し指にある銀色の指輪へ、そっと触れた。
俺が贈った『静寂の環』だ。
動作に伴う音を抑える、特殊な宝物。
ただし、一度発動すると、眠って目覚めるまで再使用できない。
リリアはまだ、一度も使っていない。
彼女は指輪を見つめたあと、俺へ視線を向けた。
「……必要になったら、これも使えるね」
「ああ。ただ、無理はするなよ」
「分かってる」
リリアは微笑んだ。
「でも、ちゃんと役に立てたいから」
俺は彼女を見た。
その言葉には、贈り物を大切にしたいという気持ちだけでなく、ハンターとしての意志も感じられた。
「……頼りにしてる」
俺がそう言うと、リリアは少し頬を赤くした。
「……うん」
夕風が、彼女の栗色の髪を揺らした。
◇
その夜。
宿へ戻った俺は、机に向かっていた。
今日集めた情報を整理する。
ベルク運送商会。
十五年前に設立された運送会社。
第三倉庫は、混載貨物の積み替えに使用されている。
二日前、ラウゼン行きの定期便が出発。
その便の担当者だったエドガー・リースが、出発直前に交代。
理由は体調不良。
だが、本人は三日前の夕方を最後に行方不明。
同じ日、エドガーは第三倉庫の貨物記録を調べていた。
彼の手帳には、貨物番号B-317について不審な記述が残されている。
送り主不明。
受取人変更。
重量不一致。
封印の異常。
そして、三日前の夜に第三倉庫で確認する予定だったこと。
その夜、B-317は積載予定から取り消されている。
取り消し処理をしたのは、第三倉庫の夜間管理責任者カイゼル・ハルト。
だが、貨物の返却記録は存在しない。
俺はペンを止めた。
……ここまで来ると、偶然とは考えにくい。
もちろん、まだ証拠は足りない。
ダリオ・ゼッカートとの直接的な繋がりも確認できていない。
だが、少なくとも、ベルク運送商会の第三倉庫で何か不自然なことが起きている可能性は高い。
問題は、その「何か」が何なのかだ。
密輸。
横領。
違法な貨物の移動。
あるいは、もっと別のもの。
俺は手帳の最後に、新しい項目を書き加えた。
『貨物番号B-317の所在確認』
その下に、もう一行。
『エドガー・リースの捜索』
……まずは、この二つだな。
俺は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
頭の中で、昨日からの出来事を順番に辿る。
三日前の夕方。
ダリオらしき男が、貨物集積地区で背の高い男と会っていた。
その男たちは、東側の通路へ向かった。
同じ日、エドガーは第三倉庫の帳簿を調べていた。
そして、夜に貨物B-317を確認するつもりだった。
翌朝、エドガーは便から外され、姿を消した。
B-317も、記録上は積載予定から取り消されている。
……もし。
もしエドガーが、何か見てはいけないものを見たのだとしたら。
そして、そのせいで姿を消したのだとしたら。
……時間は、あまり残されていないかもしれない。
俺は目を開けた。
机の上には、ハンターライセンスが置かれている。
小さな一枚のカード。
だが、それが与える権限と責任は、決して小さくない。
俺はそれを手に取った。
ブラックリストハンター。
犯罪者を追い、捕らえることを専門とするハンター。
俺がこの道を選んだのは、単に強い相手と戦いたかったからではない。
流星街で見てきたもの。
助けられなかった人間。
守れなかったもの。
そうした記憶が、今の俺を動かしている。
……エドガー。
まだ会ったこともない男だ。
だが、もし彼が本当に事件へ巻き込まれているなら。
俺は、見過ごすつもりはなかった。
そのとき、窓の外から遠く鐘の音が聞こえた。
夜の街へ、低く響く音。
俺はライセンスを机へ置いた。
そして、静かに呟いた。
「……明日だな」
調査は、まだ始まったばかりだ。
だが、少しずつ輪郭が見え始めている。
第三倉庫。
貨物番号B-317。
消えた運び屋。
そして、指名手配犯ダリオ・ゼッカート。
これらが一本の線で繋がるのか。
それとも、まったく別の事件なのか。
答えは、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
……誰かが、何かを隠している。
俺は手帳を閉じ、灯りを落とした。
窓の外では、夜風が静かに吹いていた。
その風の向こう。
街の南に広がる倉庫街では、今も誰かが働いているのだろう。
荷物を運ぶ者。
帳簿をつける者。
夜の倉庫を見張る者。
そして、もしかすると。
その暗がりのどこかで、俺たちが追っているものが動いているのかもしれない。
俺は寝台へ横になった。
明日は、今日より慎重に動く必要がある。
相手がただの犯罪者とは限らない。
もし念能力者が関わっているなら、わずかな油断が命取りになる。
だが、恐れる必要はない。
必要なのは、正確な情報と、冷静な判断。
そして、いざというときに動ける準備だ。
俺は静かに目を閉じた。
……さて。
明日、何が見つかるか。
それはまだ分からない。
だが、狩人の仕事は、こうして一歩ずつ進んでいくものなのだろう。