流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第七十三話 夜の第三倉庫――闇に潜む監視者

夜の倉庫街には、独特の匂いがある。

 

 乾いた木材。古い鉄。荷馬車の車輪に塗られた油。長年の雨風を吸い込んだ石壁から漂う湿気。

 

 昼間なら、そこに人間の汗や積み荷の匂いが混じるのだろう。

 

 だが、夜明け前の倉庫街は違う。

 

 働く人間の姿はほとんどなく、建物と建物の隙間には、まだ夜の冷たさが沈んでいる。

 

 俺は窓を開け、薄青い空を眺めていた。

 

 遠くで鐘が鳴った。

 

 午前五時。

 

 まだ街の大半が眠っている時間だ。

 

 机の上には、昨夜まとめた調査記録が置かれている。

 

 俺は窓を閉め、椅子に腰を下ろした。

 

 手帳を開く。

 

 指名手配犯、ダリオ・ゼッカート。

 

 消えた運び屋、エドガー・リース。

 

 ベルク運送商会。

 

 第三倉庫。

 

 そして、貨物番号B-317。

 

 ここ数日で集まった情報は、決して少なくない。

 

 だが、その大半は状況証拠に過ぎなかった。

 

 ダリオらしき男が倉庫街で目撃されたこと。

 

 エドガーが不審な貨物について調べていたこと。

 

 その直後、彼が姿を消したこと。

 

 問題の貨物が、記録上は積載予定から取り消されていること。

 

 これらは、確かに気になる。

 

 しかし、俺たちが追っているものの正体を示す決定的な証拠にはなっていない。

 

 ……だからこそ、今日が重要になる。

 

 昨夜の段階で、俺は一つの方針を決めていた。

 

 第三倉庫を夜間に監視する。

 

 目的は、貨物の動きを確認すること。

 

 そして、できるならB-317の所在を突き止めることだ。

 

 もっとも、倉庫を見張れば必ず何かが起きるとは限らない。

 

 一晩待って、何の成果も得られない可能性もある。

 

 それでも構わなかった。

 

 調査というのは、そういうものだ。

 

 何も起きなかったという事実にも、時には意味がある。

 

 俺は手帳を閉じた。

 

 さて。

 

 まずは警察との情報共有だな。

 

     ◇

 

 朝食の席で、リリアは俺の顔を見るなり小さく笑った。

 

「今日は、いつもより早く起きたでしょ」

 

「よく分かったな」

 

「だって、朝の中庭で身体を動かしてたじゃない」

 

「見られてたか」

 

「うん。窓から少しだけ」

 

 リリアは焼きたてのパンを千切り、温かなスープに浸した。

 

 栗色の髪が頬へ落ちる。

 

 彼女はそれを耳に掛け、俺の方を見た。

 

「今日、第三倉庫を調べるんだよね?」

 

「ああ。夜にな」

 

「昼間は?」

 

「警察へ行く。そのあと、倉庫街の周辺をもう一度確認したい」

 

「地形の確認?」

 

「それもある。人の流れや、夜間でも使われていそうな道を見ておきたい」

 

 リリアは頷いた。

 

「じゃあ、私も一緒に見て回るよ」

 

「頼む」

 

 彼女はスープを飲み、少し考えてから言った。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「エドガーさん、まだ生きてると思う?」

 

 俺はすぐには答えなかった。

 

 エドガーが最後に確認されたのは三日前。

 

 その直前、彼は貨物B-317の不自然な点に気づいていた。

 

 もし犯罪組織の秘密に触れたのだとすれば、身柄を拘束されている可能性がある。

 

 そして、もっと悪い可能性も。

 

「分からない」

 

 俺は正直に答えた。

 

「ただ、生きている可能性は十分ある」

 

「……うん」

 

「見つけるまでは、そう考えて動くつもりだ」

 

 リリアは俺を見つめた。

 

 それから、静かに頷いた。

 

「私も」

 

 その声には、迷いがなかった。

 

 俺はパンを口に運んだ。

 

 香ばしい小麦の匂いが広がる。

 

 こうして普通に朝食を取れる時間があることを、俺はありがたく思っていた。

 

 これから先、何が起こるかは分からない。

 

 だが、今できることを一つずつ進めればいい。

 

 それだけだ。

 

     ◇

 

 午前九時過ぎ。

 

 俺たちは街の警察本部を訪れた。

 

 昨日、ベルク運送商会の事務長マルセル・ドランには、エドガーの失踪と貨物記録の不備について警察へ相談するよう勧めている。

 

 まずは、その後の状況を確認する必要があった。

 

 受付でハンターライセンスを提示すると、しばらく待たされたあと、二階の応接室へ通された。

 

 現れたのは、四十代ほどの男だった。

 

 短く刈った茶髪。

 

 疲れの残る目元。

 

 だが、こちらを見る視線には、長年捜査に携わってきた人間特有の鋭さがある。

 

「待たせたな。捜査課主任のグレゴール・マティスだ」

 

「アオです。こちらはリリア」

 

「よろしくお願いします」

 

 リリアが頭を下げる。

 

 グレゴールは椅子に腰を下ろし、手元の書類を開いた。

 

「ベルク運送商会の件だな」

 

「はい」

 

「昨日、事務長のマルセル・ドランから相談があった」

 

 俺は頷いた。

 

「エドガー・リースについてですね」

 

「ああ。現時点では行方不明者として扱っている」

 

「自宅は確認されましたか?」

 

「昨夜、警官を向かわせた。本人はいなかった」

 

 グレゴールは書類へ視線を落とした。

 

「室内に争った形跡はない。だが、衣類や生活用品の大半が残されていた。遠出する準備をした様子もない」

 

「本人の意思で姿を消した可能性は?」

 

「否定はできん。ただ、勤め先の話を聞く限り、無断欠勤を繰り返すような男ではなかったらしい」

 

 俺は考えた。

 

 エドガーは五年間、真面目に働いていた。

 

 それが、突然姿を消した。

 

 しかも、不審な貨物を調べようとした直後に。

 

 ……やはり、気になるな。

 

「貨物B-317については?」

 

 俺が尋ねると、グレゴールは少し眉を寄せた。

 

「そちらも調べ始めている」

 

 彼は一枚の書類を取り出した。

 

「会社側から提出された記録によれば、B-317は二日前の定期便に積載される予定だった。だが、出発前夜に取り消されている」

 

「その処理をしたのは、カイゼル・ハルトですね」

 

「ああ。第三倉庫の夜間管理責任者だ」

 

 グレゴールは続けた。

 

「本人には今朝、話を聞いた。取り消しは上司からの指示だったと説明している」

 

「上司の名前は?」

 

「確認中だ」

 

 俺は頷いた。

 

「貨物そのものは?」

 

「まだ所在を確認できていない」

 

 グレゴールは苦い表情を浮かべた。

 

「本来なら、積載を取り消した貨物は荷主へ返却するか、倉庫に保管される。だが、返却記録が見当たらん」

 

「倉庫の在庫記録は?」

 

「そこにも問題がある」

 

 グレゴールは別の書類を取り出した。

 

「同じ夜、第三倉庫で貨物を移動した記録がある。だが、貨物番号が記されていない」

 

「……なるほど」

 

 俺は腕を組んだ。

 

 積載を取り消した貨物。

 

 返却記録の欠落。

 

 番号のない貨物移動。

 

 それらが、同じ夜に起きている。

 

 偶然かもしれない。

 

 だが、調べる価値は十分にあった。

 

「今夜、第三倉庫の周辺を監視したいと思っています」

 

 俺が言うと、グレゴールは顔を上げた。

 

「監視?」

 

「はい。公道から、夜間の貨物の動きを確認します」

 

「倉庫への立ち入りは?」

 

「許可なく入るつもりはありません」

 

 グレゴールは少し考えた。

 

「……構わん。ただし、何か見つけても独断で踏み込むな。こちらへ連絡してほしい」

 

「分かりました」

 

「それと、相手が組織的に動いている可能性もある」

 

 彼は声を落とした。

 

「ダリオ・ゼッカートの名前も、こちらでは把握している」

 

 俺は目を細めた。

 

「何か新しい情報が?」

 

「確証はない。だが、最近、南部の運送業者に対して不自然な圧力がかかっているという話がある」

 

「圧力?」

 

「特定の荷物を優先して運ばせたり、取引先を変更させたりしているらしい」

 

 ……運送経路を押さえているのか。

 

 ダリオは元運送業者だ。

 

 もし昔の人脈を利用しているなら、そうした動きも不思議ではない。

 

「気をつけろよ」

 

 グレゴールが言った。

 

「相手がただの密輸業者ならまだしも、ゼッカートのような男が関わっているなら話は別だ」

 

「承知しています」

 

 俺は立ち上がった。

 

 リリアも続く。

 

 部屋を出る前、グレゴールがもう一度声をかけた。

 

「アオ」

 

「はい」

 

「君たちがハンターであることは分かっている。だが、エドガーの命が懸かっている可能性もある。慎重にな」

 

 俺は頷いた。

 

「そのつもりです」

 

     ◇

 

 午後。

 

 俺たちは南部貨物集積地区の外周を歩いていた。

 

 第三倉庫の周囲は、昨日と変わらず荷馬車と作業員で賑わっている。

 

 大きな木箱が運ばれ、積み荷の確認をする声が飛び交う。

 

 馬の蹄が石畳を叩き、荷車の車輪が軋んだ。

 

 俺たちは買い物帰りの通行人のような自然な歩調で、通りを進んだ。

 

 目的は、夜間監視のための地形確認。

 

 ただし、地図に書かれた道を覚えるだけでは不十分だ。

 

 重要なのは、実際に人がどう動いているか。

 

 どの道が使われているか。

 

 どの建物に人が出入りしているか。

 

 どこに立てば周囲から見え、どこなら視線を遮れるか。

 

 そうした細かな情報だ。

 

 俺が建物の配置を確認していると、リリアが小さく声をかけた。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「東側の通路、昨日より荷車が多い」

 

 俺はそちらを見た。

 

 第三倉庫の裏手へ続く細い道。

 

 昨日は二台ほどしか見かけなかった荷車が、今日は短い時間に三台通っていた。

 

「……確かに」

 

「それと、あそこの石畳」

 

 リリアは視線だけで場所を示した。

 

 通路の入口付近。

 

 地面には、車輪が何度も通ったような黒い筋が残っている。

 

 古い汚れの上に、新しい泥が重なっていた。

 

「昨夜の雨のあとにも、荷車が通ってると思う」

 

「そうだな」

 

 俺は頷いた。

 

 ……よく見ている。

 

 もっとも、彼女にとっては特別なことではないのだろう。

 

 長い旅の中で身につけた観察の習慣。

 

 地形を読み、人の痕跡を見つける技術。

 

 それらは、念能力を使わなくても十分に役立つ。

 

 俺たちは東側の通路へ向かった。

 

 道幅は荷馬車一台がぎりぎり通れる程度。

 

 両側には古い倉庫と工房が並び、壁の上部には小さな窓が設けられている。

 

 昼間でも薄暗い。

 

 夜になれば、街灯の光が届く範囲はさらに限られるだろう。

 

 リリアは周囲を見回しながら歩いていた。

 

 だが、その視線は落ち着いている。

 

 必要以上に首を動かさない。

 

 建物の窓や扉を露骨に見つめることもない。

 

 普通に歩いているように見せながら、視界の端で情報を拾っている。

 

 ……こういうところは、昔から上手い。

 

 俺は小さく笑った。

 

「何?」

 

 リリアがこちらを見た。

 

「いや。頼りになるなと思って」

 

 彼女は一瞬だけ目を丸くした。

 

 それから、少し照れくさそうに笑う。

 

「……急にどうしたの?」

 

「思ったことを言っただけだ」

 

「そっか」

 

 彼女は前を向いた。

 

 その横顔が、ほんの少し嬉しそうに見えた。

 

 俺も視線を戻す。

 

 ……さて。

 

 仕事だ。

 

 通路の奥には、古い石造りの工房があった。

 

 窓は板で塞がれ、扉には錆びた錠前が掛かっている。

 

 その向かいには低い石壁。

 

 壁の向こうには、使われていない空き地が広がっていた。

 

 俺は周囲を確認した。

 

 ……ここなら、第三倉庫の裏手を見渡せる。

 

 ただし、長時間同じ場所に留まれば、巡回する人間に気づかれる可能性はある。

 

 俺がそう考えていると、リリアが小さく言った。

 

「……あの壁の向こう」

 

「ん?」

 

「空き地の奥に、崩れた建物があるでしょ」

 

 俺は視線を向けた。

 

 確かに、石壁の向こうには半壊した小さな建物があった。

 

 屋根の一部が落ち、壁も崩れている。

 

「……あそこなら、通路から見えにくいと思う」

 

「なるほど」

 

「それに、第三倉庫の裏手へ続く道も見える」

 

 俺は位置関係を頭の中で組み立てた。

 

 ……確かに。

 

 通路を直接見下ろすには少し角度が悪い。

 

 だが、監視場所としては十分使える。

 

 さらに、崩れた壁を利用すれば、複数の方向から視線を遮れる。

 

「いい場所を見つけたな」

 

「でしょ?」

 

 リリアは小さく笑った。

 

「でも、夜になると暗いから、足元は気をつけないとね」

 

「ああ」

 

 俺たちは周辺をさらに調べた。

 

 建物の裏側へ抜ける道。

 

 隣接する倉庫の屋根。

 

 石壁の高さ。

 

 街灯の位置。

 

 そして、見張りが巡回するとしたら通りそうな経路。

 

 確認を終えた頃には、午後四時を回っていた。

 

 俺は地図を折り畳んだ。

 

「……準備はできたな」

 

 リリアは頷いた。

 

「うん」

 

「今夜は、まず監視に徹する。何か動きがあっても、すぐには手を出さない」

 

「分かってる」

 

 彼女は少し考えた。

 

「……もし、エドガーさんを見つけたら?」

 

 俺は答えた。

 

「状況次第だ。すぐに命の危険があるなら、救出を優先する」

 

「うん」

 

「ただし、相手の人数も能力も分からない段階で突っ込むのは避けたい」

 

 リリアは真剣な表情で頷いた。

 

「……そうだね」

 

 俺たちは倉庫街を後にした。

 

     ◇

 

 夜。

 

 街の南側には、昼間とは異なる静けさが広がっていた。

 

 荷馬車の往来は減り、通りを照らす街灯の間には濃い影が落ちている。

 

 遠くで犬が吠えた。

 

 どこかの工房から、金属を叩く音が断続的に響いてくる。

 

 俺たちは宿を出る前に、装備を確認していた。

 

 暗い色の外套。

 

 滑りにくい靴。

 

 必要な道具は、アイテムボックスに収めてある。

 

 リリアも動きやすい服装に着替えていた。

 

 胸元には『生命の灯火』。

 

 右手の人差し指には『静寂の環』。

 

 ただし、どちらも今夜使う予定はない。

 

 あくまで備えだ。

 

 俺たちは倉庫街へ近づくにつれ、歩調を落とした。

 

 人通りのある場所では、ごく普通の通行人として振る舞う。

 

 だが、建物の影が濃くなり、周囲に人の姿がなくなったところで、俺はリリアへ小さく合図した。

 

 彼女は頷いた。

 

 ここから先は、隠密行動だ。

 

 俺は呼吸を整え、全身のオーラを閉じた。

 

 ――『絶』。

 

 身体を覆っていたオーラの流れが、静かに内側へ収束する。

 

 気配が薄れる。

 

 ただし、『絶』は万能ではない。

 

 姿が消えるわけではないし、足音も消えない。

 

 念能力者がオーラを感知できなくなるだけで、視覚や聴覚による発見まで防げるわけではない。

 

 だからこそ、隠密には技術が必要になる。

 

 俺は建物の影へ身を滑り込ませた。

 

 足裏の接地位置を選び、体重をゆっくり移す。

 

 砂利を踏まない。

 

 衣服が壁へ擦れないよう、身体の向きを調整する。

 

 視線の届く範囲を読み、移動する瞬間を選ぶ。

 

 そうした動作は、すでに身体へ染みついていた。

 

 リリアも、すぐ後ろに続いている。

 

 彼女は『絶』だけに頼っていない。

 

 風向き。

 

 周囲の物音。

 

 建物の影。

 

 人間の視線が向きやすい場所。

 

 それらを自然に組み合わせながら、俺とほとんど同じ速度で移動していた。

 

 俺が振り返ると、彼女は二本の指を軽く立てた。

 

 前方に二人。

 

 見張りらしい人影がいる、という合図だ。

 

 俺は頷いた。

 

 通路の先。

 

 街灯の下に、二人の男が立っている。

 

 一人は煙草を吸い、もう一人は壁にもたれていた。

 

 俺たちは立ち止まった。

 

 男たちの視線は、通りの反対側へ向いている。

 

 俺は周囲を確認した。

 

 ……今なら通れる。

 

 だが、急ぐ必要はない。

 

 俺たちは建物の影に留まり、男たちの動きを観察した。

 

 数分後。

 

 煙草を吸っていた男が、もう一人へ何かを言った。

 

 二人はゆっくりと歩き始める。

 

 その背中が角を曲がった瞬間、俺はリリアへ合図した。

 

 彼女が先に動く。

 

 音もなく石畳を渡り、反対側の壁へ身を寄せた。

 

 続いて俺も移動する。

 

 数秒後には、二人とも通路を抜けていた。

 

 見張りたちは、何も気づかなかった。

 

 ……当然といえば当然だ。

 

 あの程度の警戒で、俺たちを見つけられるはずがない。

 

 もっとも、相手が念能力者なら話は別だ。

 

 特別な探知能力や、周囲に仕掛けられた罠がある可能性も考えなければならない。

 

 だからこそ、慎重に進む。

 

 俺たちは昼間に確認した空き地へ向かった。

 

     ◇

 

 監視場所へ到着したのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。

 

 崩れた建物の内側。

 

 そこからは、第三倉庫の裏手へ続く通路を斜めに見渡せる。

 

 俺は周囲を確認した。

 

 風は弱い。

 

 月は雲に隠れている。

 

 街灯の光も、ここまではほとんど届かない。

 

 ……条件はいい。

 

 リリアは崩れた壁の陰に身を寄せ、通路へ視線を向けた。

 

 俺も少し離れた位置に腰を下ろす。

 

 互いに視界が重ならないよう、監視方向を分担した。

 

 しばらくは、何も起きなかった。

 

 遠くで荷馬車が通る。

 

 犬が一度だけ吠える。

 

 倉庫のどこかで扉が閉まる音がした。

 

 俺は呼吸を整えながら、周囲の変化を拾っていく。

 

 ……こういう時間は、嫌いじゃない。

 

 戦闘とは違う緊張感がある。

 

 相手を倒すことではなく、相手に気づかれずに情報を集めることが目的だ。

 

 必要なのは、忍耐と観察。

 

 そして、動くべき瞬間を見極める判断力。

 

 流星街で生きていた頃、こうした技術には何度も助けられた。

 

 あの場所では、見つからないことが生き残る条件になる場面も多かった。

 

 だが、今は一人ではない。

 

 少し離れたところに、リリアがいる。

 

 彼女は微動だにせず、通路を見つめていた。

 

 時折、視線だけを動かして周囲を確認する。

 

 呼吸は静かだ。

 

 無駄な動きもない。

 

 ……頼もしい限りだ。

 

 俺は再び通路へ目を向けた。

 

 そして、一時間ほど経った頃。

 

 リリアが小さく指を動かした。

 

 合図だ。

 

 俺は視線を向ける。

 

 第三倉庫の裏手。

 

 閉じられていた扉が、ゆっくりと開いた。

 

 ……来たか。

 

     ◇

 

 最初に出てきたのは、背の高い男だった。

 

 肩幅が広く、濃い色の外套を羽織っている。

 

 その後ろから、小柄な男が続く。

 

 二人は周囲を確認すると、扉の脇へ移動した。

 

 しばらくして、倉庫の中から木箱が運び出された。

 

 大きさは、成人男性が両腕で抱えられる程度。

 

 だが、運んでいる男の動きからすると、かなり重いらしい。

 

 木箱は裏手に停められた小型の荷車へ積まれていく。

 

 俺は目を細めた。

 

 ……夜間の搬出。

 

 それ自体は珍しくない。

 

 運送会社なら、夜に荷物を動かすこともあるだろう。

 

 だが、気になる点があった。

 

 男たちは、積み荷を運ぶたびに周囲を確認している。

 

 しかも、倉庫の扉は必要なときにしか開かない。

 

 荷車の灯りも、通常より暗く抑えられていた。

 

 ……人目を避けているように見えるな。

 

 もちろん、それだけで違法行為と決めつけることはできない。

 

 俺は手帳を取り出し、時刻と人数を記した。

 

 荷車の特徴。

 

 木箱の数。

 

 運搬に関わっている男たちの服装。

 

 そして、周辺の見張りの位置。

 

 そのとき、リリアが小さく手を動かした。

 

 彼女が示したのは、荷車の一番奥に積まれた木箱だった。

 

 白い布が巻かれている。

 

 その表面には、黒い文字が記されていた。

 

 俺は視線を集中させた。

 

 ……B。

 

 続いて数字が見える。

 

 三。

 

 一。

 

 七。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

『B-317』

 

 ……見つけた。

 

 エドガーが不審に思い、調べようとしていた貨物。

 

 記録上は取り消されたことになっている荷物。

 

 それが、今、第三倉庫から運び出されている。

 

 俺はリリアへ視線を向けた。

 

 彼女も、こちらを見ていた。

 

 言葉は必要なかった。

 

 互いに小さく頷く。

 

 ……これで、一つ繋がった。

 

 ただし、まだ中身は分からない。

 

 俺たちは引き続き監視を続けた。

 

     ◇

 

 積み込みが終わると、荷車はゆっくりと動き始めた。

 

 向かう先は、東側の細い通路。

 

 昼間、俺たちが確認した道だ。

 

 俺はリリアへ合図した。

 

 追跡する。

 

 ただし、距離を詰めすぎない。

 

 荷車の速度は遅い。

 

 しかも、道は限られている。

 

 わざわざ真後ろを歩く必要はなかった。

 

 俺たちは事前に確認した別の経路を使い、荷車の進行方向へ回り込むことにした。

 

 リリアが先導する。

 

 彼女は通路の角で一度立ち止まり、周囲を確認した。

 

 その後、壁際の影を利用して移動する。

 

 俺も続いた。

 

 途中、巡回する男が一人、前方から歩いてきた。

 

 リリアはすぐに動きを止めた。

 

 そして、建物の窪みへ身を寄せる。

 

 俺も反対側の影へ入った。

 

 男は何も気づかず、通り過ぎていった。

 

 俺たちは再び移動を始める。

 

 ……実に滑らかだ。

 

 リリアの動きには、無駄がない。

 

 彼女は相手の視線だけでなく、歩調や足音から次の動きを予測している。

 

 だから、見張りが角を曲がる前に隠れられる。

 

 そして、相手が完全に通り過ぎたあとで動く。

 

 俺はその後ろ姿を見ながら、少し感心していた。

 

 ……一緒に旅を始めた頃より、ずっと洗練されている。

 

 もちろん、今さら驚くことでもない。

 

 彼女は長い時間をかけて、こうした技術を磨いてきたのだから。

 

 俺たちは荷車の進路を先回りし、別の通りへ出た。

 

 そこから少し離れた場所で、荷車が再び姿を現した。

 

 ……予定通りだ。

 

 俺は地図の記憶と照らし合わせた。

 

 この先は、古い倉庫が並ぶ一角。

 

 昼間でも人通りが少ない場所だ。

 

 夜になれば、ほとんど無人に近い。

 

 荷車はその一角へ入り、やがて一棟の古い石造りの建物の前で止まった。

 

 以前は工房だったらしい。

 

 窓には板が打ちつけられ、看板も外されている。

 

 だが、建物の周囲には新しい車輪の跡が残っていた。

 

 ……ここか。

 

 俺は建物の位置を記憶した。

 

 男たちは扉を開け、木箱を運び込み始めた。

 

 B-317も、その中に含まれている。

 

 俺たちは離れた場所から、その様子を確認した。

 

 ……移送先は分かった。

 

 あとは、中身と関係者だな。

 

 そのとき、リリアが小さく指を動かした。

 

 俺は彼女の視線を追った。

 

 建物の反対側。

 

 暗い路地の入口に、一人の男が立っている。

 

 三十代ほど。

 

 短い黒髪。

 

 痩せた顔。

 

 目元には古い傷があった。

 

 男は周囲を見回している。

 

 ……見張りか。

 

 俺はその動きを観察した。

 

 男の視線は、通りの入口と建物の扉を交互に行き来していた。

 

 ときどき、外套の内側へ手を入れる。

 

 武器を確認しているのかもしれない。

 

 だが、こちらへ視線が向くことはなかった。

 

 俺たちは、そもそも男の視界に入る位置にはいない。

 

 リリアが事前に確認していた、石壁と建物の影が重なる場所を使っているからだ。

 

 ……なるほど。

 

 見張りはいる。

 

 だが、警戒の仕方は普通だ。

 

 少なくとも、今見えている範囲では、念能力による探知を行っている様子はない。

 

 俺はリリアへ小さく合図した。

 

 もう少し周囲を確認する。

 

 彼女は頷いた。

 

     ◇

 

 俺たちは建物の外周を慎重に調べた。

 

 正面には、先ほどの見張りが一人。

 

 裏手には、荷車を出し入れできる小さな扉がある。

 

 その近くにも、別の男が立っていた。

 

 建物の窓は、ほとんど板で塞がれている。

 

 だが、二階の一部には細い隙間が残っていた。

 

 そこから、わずかな灯りが漏れている。

 

 ……内部に人がいるな。

 

 俺は周囲の気配を探った。

 

 『絶』を維持している以上、こちらから広範囲の『円』を使うことはできない。

 

 だが、気配を読む方法は念だけではない。

 

 建物の中から聞こえる足音。

 

 床板の軋み。

 

 扉の開閉音。

 

 人間の声。

 

 そうしたものを拾えば、ある程度の人数や動きは推測できる。

 

 俺は耳を澄ませた。

 

 ……少なくとも、複数人。

 

 ただし、正確な人数は分からない。

 

 地下があるなら、さらに多い可能性もある。

 

 そのとき、リリアが俺の袖へ軽く触れた。

 

 彼女は建物の側面を指差した。

 

 そこには、地面に近い位置へ設けられた小さな通気口があった。

 

 金属製の格子がはめ込まれている。

 

 周囲の石壁には、古い苔が生えていた。

 

 だが、格子の一部だけが妙に新しい。

 

 ……交換したのか。

 

 俺は通気口を観察した。

 

 そこから、かすかな空気の流れを感じる。

 

 地下室がある可能性は高い。

 

 リリアは小さく唇を動かした。

 

「……地下」

 

 声にならないほどの囁きだった。

 

 俺は頷いた。

 

 ……そうだな。

 

 建物の外観からは分からないが、地下に空間があるのかもしれない。

 

 俺たちはさらに周囲を確認した。

 

 見張りの巡回経路。

 

 扉の位置。

 

 荷車の出入り口。

 

 建物の周囲にある遮蔽物。

 

 そして、もし何か起きた場合の退路。

 

 必要な情報を集め終えたところで、俺はリリアへ合図した。

 

 ……引くぞ。

 

 彼女は頷いた。

 

 だが、その直後だった。

 

 建物の内側から、微かな音が聞こえた。

 

 ……こつ。

 

 俺は動きを止めた。

 

 リリアも、すぐに気づいたらしい。

 

 俺たちは視線を交わした。

 

 ……今のは?

 

 再び、音がした。

 

 ……こつ。

 

 ……こつ。

 

 何か硬いものが、木材を叩くような音。

 

 風で建物が軋んだ音とは違う。

 

 一定の間隔がある。

 

 俺は耳を澄ませた。

 

 音は、地下の方から聞こえてくるようだった。

 

 ……まさか。

 

 俺は一瞬、B-317の木箱を思い浮かべた。

 

 だが、すぐに考えを抑えた。

 

 まだ、音の正体は分からない。

 

 木箱の中に何かがいると決まったわけではない。

 

 それでも、気になる。

 

 俺はリリアへ視線を向けた。

 

 彼女も、真剣な表情をしていた。

 

 ……もう少しだけ、様子を見るか。

 

 俺たちは通気口から少し離れた場所へ移動した。

 

 そこなら、建物の側面と裏手を同時に確認できる。

 

 しばらく待つ。

 

 やがて、建物の中から男たちの声が聞こえてきた。

 

 距離があるため、すべては聞き取れない。

 

 だが、断片的な言葉が耳に届いた。

 

「……明日の夜……」

 

「……全部、運び出す……」

 

「……余計なことを……」

 

 俺は目を細めた。

 

 ……明日の夜。

 

 全部運び出す。

 

 その言葉が、妙に引っかかった。

 

 もしB-317を含む貨物が、明日の夜に別の場所へ移されるのだとしたら。

 

 今夜、移送先を確認できたことには大きな意味がある。

 

 俺は手帳に短く記した。

 

『明日の夜、再移送の可能性』

 

 リリアも、聞こえた言葉を記憶しているようだった。

 

 俺たちはそれ以上近づかなかった。

 

 建物の中身を確認したい気持ちはある。

 

 だが、今はまだ情報が足りない。

 

 それに、もし人質がいるなら、下手に踏み込むことで相手を刺激する危険がある。

 

 ……ここは、引くべきだな。

 

 俺はリリアへ合図した。

 

 彼女は頷いた。

 

 俺たちは来た道を戻らず、事前に確認していた別の経路を使って、その場を離れた。

 

 見張りたちは、最後まで俺たちの存在に気づかなかった。

 

     ◇

 

 倉庫街を離れたのは、午後十一時を過ぎた頃だった。

 

 人通りのある通りへ出てから、俺たちは歩調を戻した。

 

 リリアが小さく息を吐いた。

 

「……見つからなかったね」

 

「ああ」

 

「でも、思ったより見張りが多かった」

 

「そうだな」

 

 俺は頷いた。

 

「普通の倉庫にしては、少し警戒が厳しい」

 

「うん」

 

 リリアは少し考えた。

 

「……あの建物、地下がありそうだった」

 

「ああ。通気口があった」

 

「それに、変な音も聞こえたよね」

 

「……聞こえた」

 

 俺は答えた。

 

 木材を叩くような音。

 

 一定の間隔。

 

 地下から響いてきたように感じた。

 

 だが、まだ正体は分からない。

 

「……何か、閉じ込められてるのかな」

 

 リリアが呟いた。

 

 俺は少し考えた。

 

「可能性はある」

 

 彼女が顔を上げた。

 

「ただ、まだ断定はできない。貨物の中身も確認していないからな」

 

「……うん」

 

「でも、明日の夜に何かを運び出すらしいことは分かった」

 

 俺は続けた。

 

「それまでに、警察へ情報を渡しておきたい」

 

 リリアは頷いた。

 

「そうだね」

 

 俺たちは近くの公衆通信所へ向かった。

 

     ◇

 

 警察本部の夜間窓口を通じて、グレゴール主任へ連絡を取った。

 

 しばらく待たされたあと、本人が通信に出た。

 

『……アオか』

 

「夜分にすみません」

 

『構わん。何か分かったのか?』

 

「第三倉庫から、貨物番号B-317が搬出されるところを確認しました」

 

 通信の向こうで、短い沈黙があった。

 

『……確かか?』

 

「はい。木箱にB-317の表示がありました」

 

『どこへ運ばれた?』

 

「南側の古い工房跡です。場所は――」

 

 俺は地図上の位置を説明した。

 

 グレゴールは短く返事をしながら、情報を書き留めているようだった。

 

『……分かった。こちらでも確認する』

 

「それと、建物の周囲には複数の見張りがいました」

 

『見張り?』

 

「はい。正面と裏手に配置され、周辺を巡回していました」

 

『……なるほど』

 

 俺は続けた。

 

「建物には地下室がある可能性があります。地下へ通じる通気口を確認しました」

 

『内部は見たのか?』

 

「いいえ。無断で立ち入ることは避けました」

 

『賢明だ』

 

 グレゴールは低く息を吐いた。

 

『ほかには?』

 

「建物の中から、明日の夜に何かを運び出すという会話が聞こえました」

 

『……明日の夜?』

 

「はい。ただし、何を運ぶのかまでは分かりません」

 

 俺は少し間を置いた。

 

「それと、地下の方から、何かを叩くような音が聞こえました」

 

『……音?』

 

「ええ。木材を叩くような音です」

 

 グレゴールはしばらく黙っていた。

 

 そして、低い声で言った。

 

『……分かった。こちらでも急いで確認する』

 

「お願いします」

 

『君たちは、今夜はもう引き上げてくれ』

 

「了解しました」

 

『それと、アオ』

 

「はい」

 

『もしその建物に人が閉じ込められているなら、時間がないかもしれん』

 

 俺は表情を引き締めた。

 

「……同感です」

 

『明日の朝、もう一度こちらへ来てくれ。状況を整理して、対応を決めたい』

 

「分かりました」

 

 俺は通信を切った。

 

 リリアがこちらを見た。

 

「……警察、動いてくれる?」

 

「ああ。明日の朝、もう一度話すことになった」

 

「そっか」

 

 彼女は少し安心したように息を吐いた。

 

 俺も頷いた。

 

 ……さて。

 

 これで、最低限の報告は済んだ。

 

 ただし、問題はここからだ。

 

 相手が明日の夜に貨物を移すつもりなら、こちらが動ける時間は限られている。

 

 警察がどこまで対応できるか。

 

 そして、相手がどれほど危険な組織なのか。

 

 その見極めが必要になる。

 

     ◇

 

 宿へ戻った頃には、日付が変わろうとしていた。

 

 俺たちは廊下で足を止めた。

 

「……今日は長かったね」

 

 リリアが言った。

 

「ああ」

 

「でも、かなり分かったことが増えた」

 

「そうだな」

 

 俺は頷いた。

 

「B-317が第三倉庫に残っていたこと。夜間に別の建物へ運ばれたこと。そして、その建物に見張りが配置されていること」

 

「うん」

 

「少なくとも、貨物の所在については一歩進んだ」

 

 リリアは少し考えた。

 

「……エドガーさんも、あそこにいるのかな」

 

「可能性はある」

 

 俺は答えた。

 

「ただ、まだ分からない。明日、もう少し調べる必要がある」

 

 リリアは頷いた。

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「今日、見張りのところを通ったとき、私の動き、どうだった?」

 

 俺は一瞬考えた。

 

「……完璧に近かったと思う」

 

 リリアは目を丸くした。

 

「本当?」

 

「ああ。見張りの視線をよく読んでたし、動くタイミングも正確だった」

 

 俺は続けた。

 

「途中からは、俺の方が合わせてたくらいだ」

 

 リリアは少し照れたように笑った。

 

「……そんなことないよ」

 

「いや、本当だ」

 

 俺は肩を竦めた。

 

「俺は気配を消すのは得意だが、周囲の細かな変化を拾うのは、リリアの方が上手いところもある」

 

 彼女はしばらく俺を見ていた。

 

 そして、嬉しそうに微笑んだ。

 

「……ありがとう」

 

「礼を言うことじゃないさ」

 

「でも、嬉しいから」

 

 そう言って、彼女は右手の指輪へそっと触れた。

 

 銀色の『静寂の環』。

 

 今夜は使わなかった。

 

 だが、それでいい。

 

 道具は、必要なときに使えばいいのだ。

 

「……じゃあ、おやすみ」

 

 リリアが言った。

 

「ああ。おやすみ」

 

 彼女は自分の部屋へ向かった。

 

 だが、扉を開ける前に振り返った。

 

「……明日も、一緒に頑張ろうね」

 

「もちろん」

 

 俺が答えると、リリアは嬉しそうに笑った。

 

 そして、部屋へ入っていった。

 

 俺はしばらく廊下に立っていた。

 

 ……さて。

 

 仕事は、まだ終わっていない。

 

 むしろ、これからが本番だろう。

 

     ◇

 

 部屋へ戻った俺は、机の上に今日の記録を広げた。

 

 第三倉庫。

 

 B-317。

 

 夜間搬出。

 

 古い工房跡。

 

 複数の見張り。

 

 地下室の可能性。

 

 そして、明日の夜に予定されているらしい再移送。

 

 俺は一つずつ確認した。

 

 ……少しずつ、輪郭が見えてきた。

 

 だが、まだ中心にいる人間が見えない。

 

 ダリオ・ゼッカート。

 

 この男が、どこまで関わっているのか。

 

 ベルク運送商会の内部に協力者がいるのか。

 

 エドガーは、何を見たのか。

 

 そして、B-317の中身は何なのか。

 

 俺は手帳を閉じた。

 

 ……明日、警察が動けば、何か分かるかもしれない。

 

 ただし、相手も馬鹿ではない。

 

 これほど厳重に見張りを置いている以上、何かを隠している可能性は高い。

 

 そして、もし人質がいるなら。

 

 ……時間は、あまり残されていないかもしれない。

 

 俺は椅子から立ち上がり、窓へ向かった。

 

 街の南側には、暗い倉庫街が広がっている。

 

 そのどこかで、今も誰かが動いているのだろう。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……もし、本当に犯罪組織が関わっているなら。

 

 そして、念能力者がいるなら。

 

 いずれ、戦闘になる可能性は高い。

 

 だが、今はまだその段階ではない。

 

 必要なのは、情報。

 

 そして、相手の動きを見極めることだ。

 

 俺は窓を閉め、灯りを落とした。

 

 寝台へ横になる。

 

 身体を休めながら、頭の中で明日の行動を整理した。

 

 警察との情報共有。

 

 古い工房跡の確認。

 

 B-317の中身。

 

 エドガーの行方。

 

 そして、ダリオ・ゼッカート。

 

 ……必ず、繋がるはずだ。

 

 そう考えながら、俺は目を閉じた。

 

 夜の静けさが、ゆっくりと部屋を包んでいった。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 街の南部。

 

 古い工房跡の地下では、薄暗いランプが一つ、揺れていた。

 

 石造りの部屋には、木箱がいくつも積まれている。

 

 その一つには、白い布が巻かれていた。

 

 黒い文字で記された貨物番号。

 

『B-317』

 

 部屋の奥には、二人の男がいた。

 

 一人は、背の高い男。

 

 もう一人は、痩せた顔に古い傷のある男だった。

 

「……今夜は何もなかったな」

 

 傷のある男が言った。

 

 背の高い男は、黙って頷いた。

 

「見張りも異常なしだ」

 

「……まあ、そうだろうな」

 

 傷のある男は肩を竦めた。

 

「こんな場所まで、わざわざ来る奴はいねえよ」

 

 背の高い男は木箱へ視線を向けた。

 

「……油断するな。明日の夜には全部運び出すんだ」

 

「分かってる」

 

 傷のある男は鼻で笑った。

 

「ゼッカートの旦那も、随分と慎重だな」

 

「……あの人の指示だ。余計なことは考えるな」

 

 その言葉に、傷のある男は肩を竦めた。

 

「へいへい」

 

 背の高い男は答えなかった。

 

 ただ、木箱の一つへ視線を向けた。

 

 その箱の内側から、かすかな音が聞こえた。

 

 ……こつ。

 

 ……こつ。

 

 まるで、何かが内側から叩いているような音だった。

 

 傷のある男が眉を寄せた。

 

「……またか」

 

 背の高い男は、低く言った。

 

「放っておけ」

 

「……中の奴ら、まだ生きてるんだろ?」

 

「だからこそ、余計なことをするな」

 

 男は冷たく答えた。

 

「……明日の夜には、全部運び出す」

 

 ランプの火が揺れた。

 

 木箱の中から、再び小さな音がした。

 

 だが、誰もそれに応えなかった。

 

 地下室には、重苦しい沈黙だけが残った。

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