流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
朝の光が差し込む部屋で、俺は昨夜の記録を読み返していた。
机の上には、倉庫街の見取り図が広げられている。
第三倉庫。
東側の搬出路。
南部の旧工房。
その地下へ繋がっていると思われる通気口。
そして、貨物番号B-317。
昨夜の調査で、ようやく問題の貨物がどこへ運ばれたのかを確認できた。
だが、それで事件が解決したわけではない。
むしろ、事態は一段と厄介になった。
旧工房には複数の見張りが配置されていた。貨物の移送は夜間に行われ、男たちは周囲の人目を避けるように行動していた。
さらに、地下から聞こえた不可解な物音。
明日の夜――つまり、今夜に予定されているらしい再移送。
そして、行方の分からないエドガー・リース。
それらを並べると、どうしても一つの可能性が浮かび上がってくる。
……人間を運んでいるんじゃないか。
俺は手帳を閉じた。
もちろん、まだ断定はできない。
木箱の中に人がいるとは限らないし、あの物音が何だったのかも分からない。
だが、仮に人身売買や誘拐が行われているのだとすれば、今夜の移送を見逃すわけにはいかなかった。
ダリオ・ゼッカート。
誘拐、監禁、恐喝、違法武器取引。
その男の過去の犯罪歴を考えれば、十分にあり得る話だ。
俺は椅子から立ち上がり、窓を開けた。
春の朝の空気が流れ込んでくる。
通りには荷車が行き交い、商人たちが店を開く準備を始めていた。
何も知らない人間からすれば、今日もいつもと変わらない一日なのだろう。
だが、街の南側では、今夜にも誰かの運命が大きく変わるかもしれない。
……急ぐ必要があるな。
ただし、焦ってはいけない。
相手が何を隠しているのか。
何人いるのか。
念能力者はいるのか。
そして、人質がいるなら、どこにいるのか。
それらを見極めずに踏み込めば、助けられる命まで危険に晒しかねない。
俺は窓を閉め、身支度を整えた。
今日は、これまで以上に慎重な判断が必要になるだろう。
◇
朝食を終えた俺たちは、約束どおり警察本部へ向かった。
リリアは普段と変わらない様子だったが、その表情には仕事へ向かうハンターとしての引き締まったものがある。
「アオ」
「ん?」
「昨日の音、やっぱり気になるね」
「ああ」
「地下から聞こえた、あの音」
俺は頷いた。
木材を叩くような、断続的な音。
風や建物の軋みとは違うように感じたが、それ以上のことは分からなかった。
「……もし誰かが助けを求めてたら」
リリアはそこで言葉を切った。
俺は彼女の横顔を見た。
「そうだな」
短く答える。
「だから、今日中に確かめたい」
リリアは頷いた。
そして、少し考えてから言った。
「昨日、あの建物の周囲を調べたとき、気になったことがあるの」
「何だ?」
「見張りの配置」
俺は彼女へ視線を向けた。
「正面と裏口にいた人たち?」
「うん。でも、あの人たち、建物の外へ入ってくる人を警戒しているというより、建物から出ていく人を警戒しているようにも見えた」
俺は眉を寄せた。
「……どういうことだ?」
「裏口の見張りは、通りの方をほとんど見ていなかったでしょ」
言われてみれば、確かにそうだった。
あの男は、外から近づく人間よりも、建物の扉へ頻繁に視線を向けていた。
「それに、正面の人も、ときどき扉の方を気にしてた」
「……なるほど」
俺は少し考えた。
外部からの侵入を防ぐためだけなら、通りや周囲の建物を重点的に監視するはずだ。
だが、建物の出入口を内側から警戒するような動きがあるなら。
……逃げ出す人間を警戒している可能性がある。
もちろん、単に荷物の搬出を見張っていただけかもしれない。
だが、リリアの指摘には筋が通っていた。
「よく見てたな」
俺が言うと、彼女は少し首を傾げた。
「そう?」
「ああ。俺は、あの男たちが外を警戒しているかどうかを主に見てた」
「私は、視線がどこに戻るのかが気になっただけ」
リリアはそう言って、小さく笑った。
……なるほどな。
こういうところが、彼女の強みだ。
相手の視線を単なる警戒動作として見るのではなく、その動きから何を守り、何を恐れているのかを読み取ろうとする。
それは、単純な観察力だけでは身につかない。
長い経験の中で培われた、斥候としての判断力だ。
「警察にも伝えておこう」
「うん」
俺たちは歩調を少し速めた。
◇
警察本部の応接室には、昨日と同じグレゴール・マティス主任が待っていた。
ただし、今日は一人ではなかった。
机の脇に、二人の男が立っている。
一人は三十代半ばほどの長身の男。
短く刈った金髪に、鋭い青い目。
もう一人は、五十歳前後のがっしりした体格の男だった。
グレゴールが俺たちを見た。
「来たな」
「おはようございます」
俺が挨拶すると、彼は頷いた。
「紹介しておこう。こちらは捜査課のヴァレン・クロフト警部補。それから、ハンター協会を通じて協力を依頼したローデリック・フェインだ」
長身の男が軽く頭を下げた。
「ヴァレンだ。よろしく」
続いて、がっしりした男が口を開く。
「ローデリック・フェイン。ブラックリストハンターをやっている」
低く、よく通る声だった。
俺は二人へ視線を向けた。
ヴァレンは警察官らしい落ち着いた雰囲気を持っている。
一方、ローデリックは明らかに違った。
立ち方。
重心の置き方。
周囲へ向ける意識。
身体の内側に収められたオーラの流れ。
……なるほど。
念能力者だな。
しかも、それなりに鍛えている。
俺がそう考えていると、ローデリックもこちらを観察していた。
「……お前がアオか」
「そうです」
「一ツ星ブラックリストハンター。噂は聞いている」
彼は少し目を細めた。
「随分若いな」
「よく言われます」
俺が答えると、ローデリックは口元を緩めた。
「まあ、年齢で腕を測るつもりはない」
そして、リリアへ視線を移す。
「そっちがリリアか」
「はい。よろしくお願いします」
「一ツ星ハンターが二人とは、贅沢な捜査になったもんだ」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。
こちらの実力を見極めようとしているのだろう。
俺は気にせず椅子へ腰を下ろした。
リリアも隣に座る。
グレゴールが机の上に地図を広げた。
「早速だが、昨夜の件を整理したい」
俺たちは頷いた。
◇
会議は一時間ほど続いた。
俺とリリアは、昨夜確認した情報を順番に報告した。
第三倉庫からの夜間搬出。
貨物番号B-317。
旧工房への移送。
周辺に配置された見張り。
地下室の存在を示唆する通気口。
そして、今夜に予定されているらしい再移送。
俺が説明を終えると、ヴァレンが腕を組んだ。
「……なるほど。随分と手際よく調べたな」
「事前に周辺の地形を確認していましたから」
「それにしても、見張りの配置まで把握しているとはな」
俺は隣のリリアを見た。
「その辺りは、リリアが詳しいです」
ヴァレンが彼女へ視線を向ける。
「君が?」
「はい」
リリアは落ち着いた様子で頷いた。
「正面に一人、裏手に一人。それから、建物の南側を巡回している人が一人いました。交代要員がいる可能性もありますが、昨夜確認できたのは三人です」
彼女は地図の上へ指を置いた。
「正面の見張りは、ここからここまでを重点的に見ています。裏手の人は、通りよりも扉を気にしていました」
「……扉?」
「はい。建物の内側から何かが出てくることを警戒しているようにも見えました」
ヴァレンの眉が動いた。
「……なるほど」
リリアは続けた。
「それから、南側の巡回者は、だいたい一定の経路を歩いていました。ただ、時間は少しずつずれていたので、完全に決まった巡回ではないと思います」
ローデリックが口を開いた。
「……どれくらい見ていた?」
「一時間ほどです」
「その間に、そこまで分かったのか?」
「はい」
リリアは不思議そうに首を傾げた。
「何度か同じ場所を通っていましたから」
ローデリックは少し黙った。
そして、俺を見た。
「……お前たち、どうやって近づいた?」
「普通に、見つからない経路を選んだだけです」
俺が答えると、彼は鼻を鳴らした。
「普通、ねえ」
その声には、わずかな興味が混じっていた。
グレゴールが咳払いをした。
「話を戻そう」
彼は地図の旧工房を指差した。
「昨夜の報告を受けて、こちらでも周辺を調べた。建物の所有者は、三年前に事業を停止した金属加工業者だ」
「現在の管理者は?」
俺が尋ねる。
「不動産管理会社を通じて貸し出されている。ただし、借主の名義に不自然な点がある」
「偽名ですか?」
「その可能性がある」
グレゴールは一枚の書類を取り出した。
「借主は、レオン・ヴァイスという男になっている。だが、登録住所には本人が住んでいない」
俺は眉を寄せた。
……偽装された契約か。
ヴァレンが続けた。
「それと、旧工房の地下には、以前から資材保管庫があったらしい」
「地下室は実在するんですね」
「ああ。建物の図面で確認できた」
俺は地図を見た。
……地下保管庫。
昨夜聞こえた物音の出所かもしれない。
グレゴールは表情を引き締めた。
「問題は、今夜の移送だ」
彼は机の上へ指を置いた。
「もし人間が監禁されているなら、移送を許すわけにはいかん」
ローデリックが腕を組んだ。
「だが、証拠が足りないんだろう?」
「ああ」
グレゴールは頷いた。
「建物の所有関係に不審な点はある。夜間の貨物移送も確認された。だが、それだけで強制捜索に踏み切れるかは微妙だ」
俺は少し考えた。
……時間がない。
今夜、貨物が運び出される。
それまでに、何か決定的な証拠を掴む必要がある。
「……一つ、提案があります」
俺が言うと、全員の視線が集まった。
「今夜の移送が始まる前に、建物の内部状況を確認したい」
ヴァレンが眉を寄せた。
「潜入するつもりか?」
「必要なら」
俺は答えた。
「ただし、無断で踏み込むつもりはありません。警察側で可能な手続きを進めてもらい、そのうえで協力する形が理想です」
グレゴールは少し考えた。
「……建物の監視と、移送の確認は進められる。強制捜索については、上と相談する」
「分かりました」
ローデリックが俺を見た。
「……もし内部に念能力者がいたら?」
「状況次第ですね」
「戦うか?」
「人質がいるなら、まずは安全を確保します」
俺は答えた。
「戦闘は、そのために必要な場合だけです」
ローデリックはしばらく俺を見つめていた。
やがて、口元を緩める。
「……なるほど」
それ以上は何も言わなかった。
◇
会議を終えたあと、俺たちは警察本部の中庭へ出た。
春の陽光が石畳を照らしている。
ローデリックも一緒だった。
「……アオ」
「はい?」
「一つ、聞いていいか」
「何でしょう」
彼はリリアへ視線を向けた。
「昨日の監視、あの娘が先導したのか?」
「途中からは、そうですね」
俺は答えた。
「地形の読みや、見張りの視線を避ける経路選びは、リリアの方が適任でしたから」
ローデリックは少し目を細めた。
「……ほう」
リリアがこちらを見た。
「アオ?」
「ん?」
「私、少し周囲を見てきてもいい?」
彼女は中庭の奥を指差した。
「さっきから、あの辺りに警官が何人か出入りしてるでしょ。建物の配置を確認しておきたいの」
俺は頷いた。
「分かった。遠くへは行くなよ」
「うん」
リリアは小さく笑った。
そして、歩き始めた。
ローデリックはその後ろ姿を眺めていた。
「……随分と落ち着いた娘だな」
「ええ」
俺は答えた。
「仕事中は特に」
ローデリックは頷いた。
そして、何気なく視線を俺へ戻した。
ほんの一瞬。
会話のために、こちらへ顔を向けただけだった。
だが、次に彼が中庭へ視線を戻したとき。
リリアの姿は、もうそこになかった。
「……ん?」
ローデリックが眉を寄せた。
彼は周囲を見回した。
中庭の中央。
建物の入口。
植え込みの向こう。
どこにも、栗色の髪の少女はいない。
「……おい」
俺は彼を見た。
「何でしょう?」
「……あの娘は?」
「リリアですか?」
「ああ。今、あそこを歩いていただろう」
俺は中庭の奥へ視線を向けた。
そして、少し笑った。
「もう向こうですよ」
「……は?」
俺が示した先。
中庭の端にある建物の影。
そこを、栗色の髪が一瞬だけ横切った。
次の瞬間には、再び姿が見えなくなった。
ローデリックは目を見開いた。
「……待て」
彼は周囲の気配を探った。
だが、リリアのオーラは感じ取れない。
『絶』を使っているのだろう。
もっとも、それだけでは説明できない。
彼女は、相手が視線を外す瞬間を見極め、建物の影へ移動していた。
しかも、足音をほとんど立てずに。
ローデリックは低く呟いた。
「……今の動き、見えなかったぞ」
俺は肩を竦めた。
「そうでしょうね」
「いや、そうでしょうねじゃねえだろ」
彼は俺を見た。
「お前、分かって言ってるのか?」
「何がです?」
「……あの娘の隠密技術だよ」
ローデリックは少し声を落とした。
「俺は長年、ブラックリストハンターをやってる。隠密に長けた連中とも何度も組んできた」
彼は中庭の奥へ視線を向けた。
「だが、あんな自然に視界から抜け落ちる動きは、そう何度も見たことがない」
俺は黙って聞いていた。
「速さだけじゃない。相手が気づく瞬間を、きれいに外してやがる」
ローデリックは感心したように息を吐いた。
「……あれは、かなりのものだぞ」
俺は頷いた。
「知っています」
彼は俺を見た。
そして、少し笑った。
「……なるほどな」
そのとき。
「ただいま」
背後から声がした。
ローデリックが振り返る。
「うおっ!?」
リリアが、何事もなかったように立っていた。
彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……どうしました?」
「いや、お前……」
ローデリックは言葉を失っていた。
リリアは首を傾げる。
「?」
俺は思わず笑った。
「リリア、何か分かったか?」
「うん。中庭の奥に、別の通用口があったよ。警察の人が出入りしてたから、近づかずに確認だけしてきた」
「そうか」
「それと、裏手の道は馬車が通れるくらい広かった」
彼女は落ち着いた口調で報告を続けた。
ローデリックはしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……アオ」
「はい?」
「お前の相棒、何者だ?」
俺は少し考えた。
そして、答えた。
「リリアですよ」
「名前を聞いてるんじゃねえ!」
その声に、リリアが目を丸くした。
俺は笑いを堪えた。
……まあ、初めて見れば驚くか。
だが、俺にとっては、いつものリリアだった。
◇
午後。
警察本部では、旧工房への対応を巡って慌ただしい動きが続いていた。
グレゴールは上層部との協議を進め、ヴァレンは周辺の警備体制を確認している。
ローデリックは念能力者への対処を担当することになった。
俺とリリアは、必要に応じて情報を提供しながら、作戦の準備を進めた。
ただし、まだ強制捜索の許可は下りていない。
警察側としても、慎重にならざるを得ないのだろう。
俺は会議室の窓から、街の南側を眺めていた。
……今夜か。
相手が本当に貨物を移送するなら、残された時間は少ない。
だが、こちらが焦って動けば、相手に気づかれる危険がある。
何より、人質がいるなら、その安全を最優先に考えなければならない。
俺は深く息を吐いた。
そのとき、リリアが隣へ来た。
「……アオ」
「ん?」
「ローデリックさん、さっきから私のことを見てる気がする」
俺は思わず笑った。
「そりゃ、驚いたんだろう」
「……何に?」
「リリアの隠密技術に」
彼女は少し考えた。
「……そんなに?」
「ああ」
俺は頷いた。
「熟練のハンターでも、あの動きを初めて見れば驚くと思うぞ」
リリアは少し照れたように笑った。
「……そっか」
そして、窓の外へ視線を向けた。
「でも、まだまだだよ」
「ん?」
「もっと上手くできると思う」
その声は、静かだった。
だが、確かな向上心が感じられた。
俺は彼女を見た。
……そうだな。
リリアは、今でも十分に一流の斥候だ。
だが、そこで満足するつもりはないらしい。
俺は少し笑った。
「期待してる」
彼女は俺を見た。
そして、嬉しそうに頷いた。
「うん」
◇
夕方。
ようやく警察側の方針が固まった。
旧工房への監視を強化し、今夜の貨物移送を確認する。
同時に、建物の内部で違法な監禁が行われている可能性について、必要な手続きを進める。
強制捜索の許可が下りれば、警察が正式に踏み込む。
ただし、移送が先に始まった場合は、現場の状況に応じて対応することになった。
グレゴールは俺たちを見た。
「……君たちにも協力してもらいたい」
「もちろんです」
俺が答えると、リリアも頷いた。
「はい」
ヴァレンが地図を広げた。
「まず、旧工房の周囲に監視員を配置する」
彼は建物の正面と裏手を指差した。
「正面には警官二人。裏手にも二人。さらに、少し離れた通りに待機班を置く」
ローデリックが腕を組んだ。
「念能力者が出てきたら、俺が対応する」
俺は頷いた。
「俺も必要なら加勢します」
「頼む」
ヴァレンはリリアへ視線を向けた。
「リリア、君には周辺の索敵をお願いしたい」
「分かりました」
彼女は地図を見た。
「それなら、ここから確認します」
リリアが指差したのは、旧工房の南東側だった。
古い建物が密集し、複数の路地が交差している場所だ。
ヴァレンが眉を寄せた。
「……そこは見通しが悪いぞ」
「はい。だからこそ、見張りの死角になっています」
リリアは落ち着いた声で続けた。
「相手が裏道を使って貨物を運び出すなら、ここを通る可能性があります。それに、こちらからは複数の経路を確認できます」
ヴァレンは地図を見つめた。
しばらくして、頷く。
「……なるほど」
ローデリックが口元を緩めた。
「斥候の判断は任せた方がよさそうだな」
リリアは少し驚いたように顔を上げた。
「いいんですか?」
「ああ」
彼は頷いた。
「少なくとも、隠密と索敵については、お前の方が詳しそうだ」
俺は少し笑った。
……ようやく理解したらしい。
リリアは一瞬だけ考えた。
そして、真剣な表情で頷いた。
「分かりました。任せてください」
その声には、確かな自信があった。
◇
夜。
街の南部には、冷たい風が吹いていた。
旧工房の周辺は、昨夜と変わらず静かだった。
だが、今夜は違う。
建物の外側には、警察の監視員が配置されている。
少し離れた場所には、ヴァレン率いる待機班。
ローデリックも、念能力者への対応に備えている。
俺とリリアは、建物の南東側にいた。
彼女が選んだ監視位置だ。
崩れた石壁の陰。
そこからは、旧工房の裏手へ続く通路を確認できる。
俺は周囲の気配を探った。
……今のところ、異常はない。
リリアは静かに壁へ身を寄せていた。
彼女のオーラは、ほとんど感じ取れない。
『絶』を使っているのだろう。
俺も同じように気配を抑える。
ただし、完全に無防備になるつもりはない。
必要なら、即座に『纏』へ戻れるよう意識を保っている。
しばらくして、リリアが小さく合図した。
俺は視線を向ける。
旧工房の裏手。
扉が、ゆっくりと開いた。
……来たか。
中から、二人の男が出てくる。
その後ろには、荷車。
そして、木箱。
俺は目を細めた。
……B-317。
昨夜と同じ白い布が巻かれている。
だが、今回はそれだけではなかった。
荷車には、さらに複数の木箱が積まれていた。
どれも似たような大きさだ。
俺はリリアへ視線を向けた。
彼女も、木箱を見つめていた。
その表情が、わずかに変わる。
……何か気づいたか?
リリアは小さく指を動かした。
荷車の一番奥。
そこに積まれた木箱を示している。
俺は視線を向けた。
……ん?
木箱の表面に、小さな傷があった。
内側から何かを叩いたような、細かな凹み。
そして、木材の隙間から、わずかに布の端が覗いている。
俺は息を止めた。
……まさか。
そのときだった。
木箱の中から、かすかな音がした。
……こつ。
……こつ。
昨夜と同じ音。
だが、今回ははっきりと聞こえた。
俺はリリアを見た。
彼女も、こちらを見ていた。
互いに言葉を交わす必要はなかった。
……人がいる。
少なくとも、その可能性は極めて高い。
俺は通信機へ手を伸ばした。
グレゴールへ連絡する。
だが、その直前。
荷車の脇に立っていた男が、低い声で言った。
「……急げ。今夜中に街を出るぞ」
もう一人が答える。
「……分かってる。だが、あの運び屋はどうする?」
俺は目を細めた。
……運び屋?
男は続けた。
「……リースの野郎だよ。まだ地下にいるんだろ?」
その名前を聞いた瞬間、俺の意識が鋭く研ぎ澄まされた。
エドガー・リース。
……生きているのか。
もう一人の男が、低く答えた。
「……ああ。だが、今夜の便には乗せねえ」
「……どうするつもりだ?」
「……上から指示が来てる。始末するかどうかは、あとで決めるそうだ」
俺は静かに息を吐いた。
……なるほど。
エドガーは、まだ地下にいる。
しかも、命の危険がある。
俺はリリアへ視線を向けた。
彼女の表情も、引き締まっていた。
俺は通信機を取り出し、警察へ連絡した。
「……こちらアオ。旧工房の裏手で、貨物の搬出を確認しました」
短い雑音のあと、グレゴールの声が返ってきた。
『了解。状況は?』
「木箱の中から物音がしています。さらに、男たちの会話から、エドガー・リースが地下に拘束されている可能性が高いと分かりました」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
『……確かか?』
「はい。名前をはっきり聞きました」
『……分かった』
グレゴールの声が低くなった。
『こちらでも対応する。君たちはその場で待機してくれ』
「了解しました」
俺は通信を切った。
そして、リリアへ視線を向けた。
「……エドガーは生きてる」
彼女は頷いた。
「うん」
「だが、時間がないかもしれない」
リリアは静かに息を吐いた。
そして、俺を見た。
「……アオ」
「ん?」
「もし、今すぐ助けなきゃいけなくなったら」
彼女は言葉を切った。
その瞳には、迷いがなかった。
「……私も行くよ」
俺は頷いた。
「もちろんだ」
俺たちは再び、旧工房へ視線を向けた。
荷車は、ゆっくりと動き始めていた。
その上には、複数の木箱。
そして、その中には、おそらく人間が閉じ込められている。
……ここから先は、慎重さだけでは足りない。
必要なら、力を使う。
だが、無闇に戦うつもりはない。
目的は、敵を倒すことではない。
人質を救い出すことだ。
俺は呼吸を整えた。
そして、静かに拳を握った。
……必ず助ける。
その決意だけは、揺らがなかった。
◇
同じ頃。
旧工房の地下。
薄暗いランプの光が、石造りの部屋を照らしていた。
壁際には、複数の木箱が積まれている。
その奥に、一人の男が座り込んでいた。
痩せた顔。
乱れた髪。
汚れた作業服。
両手は縄で縛られ、口元には乾いた血がこびりついている。
エドガー・リース。
数日前まで、ベルク運送商会で働いていた男だった。
彼は壁にもたれ、荒い呼吸を繰り返していた。
身体には、いくつもの傷がある。
だが、意識は失っていない。
……まだだ。
彼は心の中で呟いた。
……まだ、終わってない。
あの夜。
第三倉庫で、不審な貨物を見つけた。
送り主が不明。
受取人が変更されている。
重量が記録と合わない。
封印済みのはずなのに、封蝋が新しい。
おかしいと思った。
だから、調べようとした。
それが、間違いだったのかもしれない。
だが、後悔はしていなかった。
あの木箱の中から、確かに声が聞こえたのだ。
助けを求める、小さな声。
それを聞いてしまった以上、見なかったことにはできなかった。
エドガーは目を閉じた。
……誰か。
……誰か、気づいてくれ。
そのとき、地下室の扉が開いた。
足音が近づいてくる。
エドガーは顔を上げた。
現れたのは、黒い外套を着た男だった。
背が高く、肩幅が広い。
その顔には、冷たい表情が浮かんでいる。
「……まだ生きてたか」
男はエドガーを見下ろした。
エドガーは何も答えなかった。
男は鼻で笑った。
「……お前、余計なことをしなきゃよかったんだよ」
エドガーは唇を噛んだ。
男は続けた。
「……今夜、荷物は全部出る」
そして、少し声を落とした。
「……お前の処分も、そろそろ決まるだろうな」
エドガーは目を閉じた。
……終わりか。
そう思いかけた。
だが、その瞬間。
遠くで、何かが動く音がした。
男が眉を寄せる。
「……何だ?」
地下室の外。
建物のどこかで、扉が閉まる音が響いた。
男はしばらく耳を澄ませた。
そして、舌打ちする。
「……忙しい夜になりそうだ」
彼は踵を返し、地下室を出ていった。
扉が閉まる。
再び、静寂が戻った。
エドガーは壁にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。
……まだだ。
……まだ、諦めるな。
その瞳には、かすかな光が残っていた。