流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第七十五話 闇を裂く一撃――救出作戦開始

木箱の中から、音がした。

 

 こつ。

 

 こつ、こつ。

 

 乾いた木材を叩く、弱々しい音だった。

 

 南部倉庫街の夜は静かだ。昼間には荷車や人足の声が絶えないこの一帯も、日が落ちれば、遠くの港から届く汽笛と、時折吹き抜ける風の音ばかりになる。

 

 だからこそ、その音は妙にはっきりと耳に残った。

 

 旧工房の裏手。

 

 俺とリリアは崩れた石壁の陰から、荷車の動きを見守っていた。

 

 積まれているのは四つの木箱。

 

 そのうち一つには、白い布に書かれた貨物番号がある。

 

 B-317。

 

 エドガー・リースが不審に思い、行方をくらます原因となった貨物だ。

 

 昨夜は地下から聞こえた物音を、今夜は木箱そのものから聞いた。

 

 そして、男たちの会話。

 

 エドガーは地下にいる。

 

 今夜の便には乗せない。

 

 処分するかどうかは、上の指示待ち。

 

 断片的な言葉を繋ぎ合わせるだけでも、状況は十分に危険だった。

 

 俺は通信機を握り直した。

 

『アオ、聞こえるか』

 

 グレゴール主任の声が、低い雑音に混じって届く。

 

「聞こえています」

 

『今、クロフト警部補から連絡が入った。捜索令状の発付が確認された。担当班が原本を持って現場へ向かっている』

 

 俺は小さく息を吐いた。

 

 朝から積み重ねてきた捜査が、ようやく形になったらしい。

 

 借主の虚偽申告。

 

 第三倉庫からの不自然な搬出。

 

 行方不明者との関係。

 

 そして、今夜の監視で得られた、監禁を強く疑わせる新たな情報。

 

 警察はそれらを揃え、旧工房の捜索に踏み切る判断を得た。

 

 ただし、問題は残っている。

 

「貨物はもう動き始めています」

 

『分かっている。ヴァレンの班が搬出路を押さえる。君たちは見失わないようにしてくれ。ただし、現時点で無理に接触するな』

 

「了解」

 

『それと、もう一つ』

 

 グレゴールの声が硬くなった。

 

『エドガー・リースについては、生命に危険が迫っている可能性がある。現場で緊急の救助が必要になった場合は、警察側も即応する。だが、独断で建物全体を刺激するような行動は避けてほしい』

 

「承知しています」

 

 通信を切る。

 

 俺はリリアへ視線を向けた。

 

 彼女は石壁の向こうを見つめたまま、右手の指を二本立てた。

 

 二人。

 

 荷車を押している男と、その後方を歩く男。

 

 続いて、指を一本折る。

 

 裏口の見張りが建物の中へ戻ったらしい。

 

 俺が確認するよりわずかに早い。

 

 視線を向けると、確かに裏口の扉が閉まるところだった。

 

 リリアはさらに、荷車の前方へ顎を向けた。

 

 路地の出口。

 

 そこに、昨夜はいなかった男が立っている。

 

 暗い外套。

 

 短く刈り込んだ髪。

 

 右手には革手袋。

 

 街灯の届かない場所で、周囲を見渡していた。

 

 俺は目を細めた。

 

 あの立ち方。

 

 腰を落としすぎず、いつでも踏み込めるように足を開いている。

 

 ただの見張りにしては、妙に隙が少ない。

 

 リリアが口元を俺の耳へ寄せた。

 

「アオ。あの人、さっきから一度も荷車を見てない」

 

「……ああ」

 

「ずっと、周囲の建物を見てる。特に高いところ」

 

 なるほど。

 

 貨物の護衛というより、外部からの接近を警戒している。

 

 しかも、普通の警備員が注意を向ける路地の入口だけではない。

 

 屋根。

 

 窓。

 

 建物同士の隙間。

 

 視線の動かし方が、少し違う。

 

 俺は『絶』を解かないまま、男の動作を観察した。

 

 今の距離では、相手のオーラを直接確かめることはできない。

 

 だが、身体の使い方だけでも、ある程度の判断はつく。

 

 ……念能力者かもしれないな。

 

 リリアも同じ結論に近づいているのだろう。

 

 その瞳は、荷車ではなく男の足元を追っていた。

 

「どうする?」

 

 小さな問い。

 

 俺は一拍だけ考えた。

 

「貨物は警察に任せる。俺たちは建物を見よう」

 

「エドガーさん?」

 

「ああ。あの男たちの話が本当なら、まだ地下にいる」

 

 リリアは頷いた。

 

「じゃあ、裏の見張りが戻った理由を確かめるね」

 

「頼む」

 

 彼女は一度だけ、俺の目を見た。

 

 そして。

 

 夜の風景から、姿を消した。

 

     ◇

 

 消えた、としか言いようがない。

 

 だが、俺には何が起きたのか分かっていた。

 

 リリアは石壁の端から身体を滑らせ、崩れた建物の影へ移ったのだ。

 

 足音はない。

 

 衣服の擦れる音もない。

 

 月明かりが途切れるわずかな場所を選び、見張りの視線が別の方向へ向いた瞬間だけ動いている。

 

 その移動は、ひどく自然だった。

 

 夜の中を駆け抜けたというより、もともとそこにあった影が、別の影へ繋がったように見える。

 

 特殊な念能力による透明化ではない。

 

 『絶』によってオーラを抑え、身体操作と地形の把握を徹底した結果だ。

 

 それを知っている俺でさえ、視線を外せば次の位置を見失いかねない。

 

 ……本当に、大したものだ。

 

 俺は彼女の移動を最後まで追わず、正面へ意識を戻した。

 

 俺には俺の仕事がある。

 

 荷車の前方に立つ男。

 

 そいつが何を警戒しているのか、確かめる必要があった。

 

 やがて、荷車が動き始めた。

 

 木製の車輪が石畳を軋ませる。

 

 その瞬間だった。

 

 路地の出口にいた男が、わずかに顔を上げた。

 

 何かを感じ取ったような動き。

 

 次いで、彼の右手が腰の辺りへ下がる。

 

 ……ん?

 

 男は数秒間、周囲を見回した。

 

 だが、何も見つからなかったらしい。

 

 やがて、荷車へ向き直る。

 

 俺はその動きを見ながら、考えた。

 

 今の反応。

 

 こちらに気づいたわけではない。

 

 俺たちは十分に距離を取り、遮蔽物の陰にいる。

 

 ただ、男は何らかの警戒を強めていた。

 

 その理由は、すぐに分かった。

 

 路地の反対側から、別の男が現れたのだ。

 

 小柄な男だった。

 

 片手に煙草を持ち、帽子を深く被っている。

 

「遅いぞ」

 

 外套の男が言った。

 

「道を確認してたんだよ」

 

「余計なことはするな。荷を運ぶだけでいい」

 

「へいへい」

 

 小柄な男は肩を竦めた。

 

 その声には、軽薄な響きがあった。

 

 だが、歩き方は妙に静かだ。

 

 ……こいつもか。

 

 俺は目を細めた。

 

 少なくとも、二人とも普通の運び屋ではない。

 

 貨物の移送に、念能力者を護衛として付けている可能性が高くなった。

 

 ダリオ・ゼッカート。

 

 あの男が関わっているなら、不思議な話ではない。

 

 俺は通信機の送信ボタンを押した。

 

「こちらアオ。貨物の護衛に、訓練された戦闘員と思われる男が二人います。念能力者の可能性あり」

 

『こちらローデリック』

 

 返ってきたのは、グレゴールではなかった。

 

『位置は?』

 

「旧工房東側の路地出口。荷車と一緒に移動するようです」

 

『了解。俺が近くまで行く』

 

「無理に接触しないでください。貨物の中に人がいる可能性があります」

 

『分かってるよ』

 

 短い返答。

 

 だが、その声には冗談めいた響きがなかった。

 

 俺は通信を切った。

 

 そして、旧工房へ視線を戻す。

 

 リリアは、まだ戻っていない。

 

 彼女なら、必要な情報を持ち帰るだろう。

 

 そう信じて待つことにした。

 

     ◇

 

 リリアが戻ってきたのは、それから三分ほど後だった。

 

 正確には、俺が彼女の接近に気づいたのが、そのときだった。

 

 背後の石壁に落ちた影が、わずかに濃くなる。

 

 次の瞬間、リリアが俺の隣へしゃがみ込んでいた。

 

「戻ったよ」

 

「ああ。どうだった?」

 

「裏口から入った人、地下へ降りていった」

 

 彼女は声を落とした。

 

「扉が開いたとき、階段が見えたの。地下から灯りが漏れてた」

 

「中には?」

 

「少なくとも二人。足音が重なってた。それと、何かを引きずる音がした」

 

 俺は眉を寄せた。

 

「人間か?」

 

「分からない。でも、金属の音じゃなかった」

 

 リリアは少し考えてから続けた。

 

「それから、裏口の鍵が変わってた」

 

「鍵?」

 

「昨日は外側に古い錠前が付いてたけど、今夜は内側から閂を掛けてるみたい。扉を閉めたときの音が違った」

 

 俺は彼女を見た。

 

 よくそこまで気づいたものだ。

 

 昨日の時点で、扉の構造まで覚えていたらしい。

 

「地下へ降りた男は、何を持ってた?」

 

「短い棒みたいなもの。片手で持ってた」

 

 警棒か。

 

 あるいは、別の道具か。

 

 俺は考えた。

 

 エドガーを地下に残しているという話。

 

 裏口の見張りが戻ったこと。

 

 そして、地下へ降りる男が持っていた棒。

 

 ……嫌な組み合わせだ。

 

「リリア」

 

「うん」

 

「エドガーのところへ行った可能性がある」

 

「私もそう思った」

 

 彼女の声が少し硬くなった。

 

「だから、階段の位置を確認してきた」

 

 リリアは小さな紙片を取り出した。

 

 建物の簡単な見取り図。

 

 旧工房の外壁と裏口。

 

 そこから地下へ降りる階段の位置。

 

 さらに、壁の厚さや窓の位置まで書き込まれている。

 

 俺は図を見つめた。

 

「……いつ描いた?」

 

「戻ってくる途中」

 

 彼女は当然のように答えた。

 

 俺は思わず笑いそうになった。

 

 ……なるほど。

 

 さっきまで彼女の動きに驚いていたローデリックがこれを見たら、また何か言いそうだな。

 

 だが、今は感心している場合ではない。

 

 俺は通信機を取り出した。

 

「こちらアオ。旧工房の裏口から地下へ降りる階段を確認しました。内部に複数名。行方不明者への危害が差し迫っている可能性があります」

 

 数秒後、グレゴールの声が返ってきた。

 

『了解。こちらでも新しい情報が入った』

 

「何でしょう?」

 

『ベルク運送商会の従業員から追加証言が取れた。エドガーが失踪した夜、第三倉庫で争うような声を聞いた者がいる』

 

 俺は目を細めた。

 

『さらに、旧工房の借主名義に使われた身分証が、盗難届の出ていたものと一致した』

 

「……なるほど」

 

『令状を持った班は間もなく到着する。だが、現場の状況が変わった。エドガーの生命に差し迫った危険があると判断すれば、緊急の救助に移る』

 

「分かりました」

 

『アオ、リリア。二人は地下への経路を把握しているな?』

 

「はい」

 

『なら、現場班との合流地点を伝える。こちらの指揮下で救出に協力してほしい』

 

「了解しました」

 

 通信が切れた。

 

 俺はリリアを見た。

 

「動くぞ」

 

「うん」

 

 彼女は静かに頷いた。

 

 その瞳には、すでに迷いがなかった。

 

     ◇

 

 旧工房から二本離れた路地。

 

 廃材置き場の陰に、警察の現場班が集まっていた。

 

 ヴァレン・クロフト警部補。

 

 ローデリック・フェイン。

 

 それに、武装した警官が六人。

 

 さらに、建物の周囲には別の監視員が配置されている。

 

 俺たちが到着すると、ヴァレンが顔を上げた。

 

「来たな」

 

「状況は?」

 

 俺が尋ねると、彼は地図を広げた。

 

「荷車は東側の通りへ出た。今はローデリックの協力者が距離を取って追跡している」

 

 俺は頷いた。

 

「建物の方は?」

 

「裏口の見張りが一人、戻ってきた。正面にも一人残っている」

 

 ヴァレンは声を落とした。

 

「令状を持った班が合流した。建物の捜索を開始する」

 

 ローデリックが俺を見た。

 

「アオ。お前は地下へ向かうつもりなんだろ?」

 

「必要なら」

 

「なら、俺も行く」

 

 彼はそう言って、肩を回した。

 

「人質がいるかもしれない場所に、警官だけを送り込むのは危険だ」

 

 俺は頷いた。

 

「同感です」

 

 ヴァレンがリリアへ視線を向けた。

 

「君には先導を頼みたい。建物の構造を把握しているのは、こちらでは君が一番だ」

 

「分かりました」

 

 リリアは落ち着いた声で答えた。

 

「ただ、地下の構造までは確認できていません。階段の先に何があるかは分からないので、そこからは慎重に進む必要があります」

 

「もちろんだ」

 

 ヴァレンは頷いた。

 

 ローデリックが口元を緩める。

 

「……頼もしいな」

 

 リリアは小さく会釈した。

 

 俺はその様子を見ながら、内心で少し感心していた。

 

 彼女は、自分が分かっていることと、分かっていないことを明確に分けている。

 

 それは、偵察において重要なことだ。

 

 曖昧な情報を確信として伝えれば、作戦全体が危険に晒される。

 

 リリアは、その危うさをよく理解している。

 

 ヴァレンが全員を見回した。

 

「作戦を確認する」

 

 彼は地図の正面入口を指差した。

 

「第一班は正面から入る。身分を明らかにし、捜索令状を提示する。相手が抵抗した場合は、必要な範囲で制圧する」

 

 続いて、裏口を指差す。

 

「第二班は裏手を押さえる。逃走者が出た場合に備え、建物の外周を封鎖する」

 

 そして、俺たちを見る。

 

「アオ、リリア、ローデリックは第二班に同行。地下への経路が確保でき次第、救助に向かう」

 

 俺は頷いた。

 

「了解です」

 

「人質を発見した場合、最優先は安全確保だ。無理な追跡はしない」

 

「分かっています」

 

 ヴァレンは深く息を吸った。

 

 そして、通信機へ手を伸ばした。

 

「……各班、配置につけ」

 

 その声とともに、警官たちが動き始めた。

 

 俺はリリアを見た。

 

 彼女は、すでに周囲の地形を確認していた。

 

 建物の影。

 

 石壁の高さ。

 

 足場の状態。

 

 見張りの視線。

 

 そして、退路。

 

 その目は、静かにすべてを捉えている。

 

「……リリア」

 

「うん?」

 

「先導は任せる」

 

 彼女は一瞬だけ俺を見た。

 

 そして、微笑んだ。

 

「任せて」

 

     ◇

 

 作戦開始から、数分後。

 

 旧工房の正面で、警察官の声が響いた。

 

「警察だ! 捜索令状がある! 扉を開けろ!」

 

 夜の静寂を破る、鋭い声。

 

 建物の中で、何かが動く気配がした。

 

 続いて、怒鳴り声。

 

「何だと!?」

 

「警察だって!?」

 

 俺たちは裏手の路地にいた。

 

 リリアが先頭。

 

 その後ろに俺。

 

 さらにローデリックと警官たちが続く。

 

 裏口の見張りは、正面の騒ぎに気を取られていた。

 

 だが、すぐにこちらへ気づく。

 

「……おい!」

 

 男が声を上げた。

 

 その瞬間、ヴァレンの部下が前へ出た。

 

「警察だ! 動くな!」

 

 男は一瞬だけ動きを止めた。

 

 だが、次の瞬間。

 

 腰の辺りへ手を伸ばした。

 

 ……まずい。

 

 俺は一歩踏み込んだ。

 

 男の右手が、上着の内側へ入る。

 

 そこに何があるのかは分からない。

 

 だが、武器を取り出そうとしている可能性は高い。

 

 俺は男の手首を掴んだ。

 

 そのまま、身体の向きを変える。

 

 男の重心が崩れた。

 

「ぐっ!?」

 

 俺は必要以上の力を加えず、腕を背中へ回した。

 

 男の膝が石畳へ落ちる。

 

 警官が素早く駆け寄り、拘束具を掛けた。

 

「確保!」

 

 男の上着から、小型の拳銃が取り出された。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……やっぱりか。

 

 ヴァレンがこちらへ視線を向けた。

 

「助かった」

 

「いえ」

 

 俺は答えた。

 

「地下へ急ぎましょう」

 

 リリアが扉を確認した。

 

「内側に閂があるみたい」

 

 ローデリックが前へ出る。

 

「なら、俺が――」

 

「待って」

 

 リリアが小さく言った。

 

 彼は動きを止めた。

 

「どうした?」

 

「扉の下」

 

 リリアは足元を指差した。

 

 俺は目を細めた。

 

 扉の下端。

 

 そこに、細い金属線が見えた。

 

 ……罠か。

 

 リリアは小さく頷いた。

 

「扉を無理に開けたら、何かが動く仕組みだと思う」

 

 ローデリックの表情が変わった。

 

「……なるほど」

 

 彼はしゃがみ込み、金属線を確認した。

 

 その先は、扉の内側へ続いている。

 

 何に繋がっているのかは分からない。

 

 だが、無理に扉を破れば危険だ。

 

 俺はヴァレンを見た。

 

「別の入口から入れますか?」

 

「正面班が中へ入った。そちらから地下へ回れるはずだ」

 

「なら、そっちへ」

 

 リリアは頷いた。

 

「私が案内する」

 

 彼女はすぐに進路を変えた。

 

 俺たちはその後ろを追う。

 

 ローデリックが歩きながら、低く呟いた。

 

「……あの細い線、よく見つけたな」

 

 リリアは振り返らずに答えた。

 

「扉の下に、昨日はなかった傷があったから」

 

「……傷?」

 

「金属が擦れた跡です」

 

 ローデリックは一瞬黙った。

 

 そして、苦笑した。

 

「……参ったな」

 

 俺はその声を聞きながら、少しだけ口元を緩めた。

 

 だが、すぐに意識を切り替える。

 

 まだ、救出は始まったばかりだ。

 

     ◇

 

 旧工房の内部は、外から見た以上に広かった。

 

 かつて金属加工に使われていたらしい作業台が並び、壁には古い工具が掛けられている。

 

 床には錆びた鉄片や木屑が散らばっていた。

 

 正面から入った警官たちは、すでに一階の一部を確保していた。

 

 だが、奥の扉の向こうから、怒鳴り声が聞こえている。

 

「下がれ!」

 

「警察だ! 抵抗するな!」

 

 続いて、鈍い衝撃音。

 

 俺は眉を寄せた。

 

 ……まだ抵抗しているのか。

 

 ヴァレンが通信機へ声を掛ける。

 

「第一班、状況を報告しろ!」

 

『一階を確保中! 男二名が抵抗! 一名拘束、もう一名は奥へ逃走!』

 

「地下への階段は?」

 

『建物の西側! ただし、扉が閉鎖されています!』

 

 俺はリリアを見た。

 

 彼女はすでに動いていた。

 

 作業台の間を、音もなく抜けていく。

 

 俺たちが後を追う。

 

 ローデリックも、さすがに熟練のハンターだけあって動きが速い。

 

 だが、リリアの足運びはそれとは質が違った。

 

 床に散らばる鉄片を避ける。

 

 影の濃い場所を選ぶ。

 

 足を置く瞬間に、身体の重心を滑らせる。

 

 まるで、床の上を流れていくような動きだった。

 

 そして、次の角。

 

 リリアが突然、片手を上げた。

 

 俺たちは足を止める。

 

 彼女は壁際へ身体を寄せた。

 

 その直後。

 

 奥の通路から、男が飛び出してきた。

 

 短い棍棒を持っている。

 

「どけぇ!」

 

 男は叫びながら、こちらへ突っ込んできた。

 

 だが。

 

 リリアは、そこにいなかった。

 

 男の視線が彼女を捉えた瞬間には、もう身体が壁の影へ移っている。

 

 棍棒が空を切った。

 

「……なっ!?」

 

 男が驚愕する。

 

 次の瞬間、リリアの足が男の足首を払った。

 

 重心を崩した男が前のめりになる。

 

 その腕を、俺が掴んだ。

 

 軽く捻り、床へ押さえ込む。

 

「ぐあっ!」

 

 警官が駆け寄り、拘束した。

 

 ローデリックがリリアを見た。

 

「……今の、見えなかったぞ」

 

 彼女は少し首を傾げた。

 

「そうですか?」

 

「……いや、そうですかじゃねえ」

 

 ローデリックは苦笑した。

 

「お前、本当に何者なんだ?」

 

 リリアは困ったように笑った。

 

「……ハンターです」

 

 俺は思わず笑いそうになった。

 

 だが、次の瞬間。

 

 奥の扉の向こうから、声が聞こえた。

 

「……やめろ!」

 

 男の声。

 

 続いて、鈍い打撃音。

 

 俺の表情が変わった。

 

 ……地下だ。

 

 俺はリリアを見た。

 

 彼女も、すでに気づいていた。

 

「アオ」

 

「ああ」

 

 俺たちは奥へ向かった。

 

     ◇

 

 地下へ続く階段の前には、頑丈な鉄扉があった。

 

 その向こうから、複数の声が聞こえてくる。

 

「……早くしろ!」

 

「分かってる!」

 

「警察が来てるんだぞ!」

 

 そして。

 

「……ぐっ!」

 

 苦しげな声。

 

 俺は扉へ近づいた。

 

 ……エドガーか。

 

 その可能性は高い。

 

 だが、無理に扉を破れば、向こうにいる人間を危険に晒すかもしれない。

 

 俺はローデリックを見た。

 

「中の人数、分かりますか?」

 

 彼は目を細めた。

 

「……少なくとも三人。だが、正確には分からん」

 

 俺は頷いた。

 

 俺自身も、扉越しの音だけでは判断しきれない。

 

 『円』を使えば、周囲の配置をある程度把握できる。

 

 だが、厚い壁や複雑な構造がある場所では、感知の精度が落ちる。

 

 何より、こちらが念能力者であることを相手に知らせる危険もある。

 

 俺は慎重に考えた。

 

 ……どうする。

 

 そのとき、リリアが小さく言った。

 

「アオ」

 

「ん?」

 

「階段の位置、覚えてる?」

 

「ああ」

 

「地下室は、建物の南側まで続いてると思う」

 

 俺は彼女を見た。

 

「……通気口か」

 

「うん」

 

 昨夜、旧工房の外壁で見つけた通気口。

 

 地面に近い位置に設けられた、新しい金属製の格子。

 

 あれが地下室へ繋がっているなら。

 

「……中を確認できるかもしれない」

 

 俺が言うと、リリアは頷いた。

 

「私が行く」

 

 ローデリックが眉を寄せた。

 

「待て。外へ回るのか?」

 

「はい」

 

「時間がないぞ」

 

「分かっています」

 

 リリアは落ち着いた声で答えた。

 

「だから、急ぎます」

 

 そう言った瞬間。

 

 彼女の姿が、通路の影へ溶けた。

 

 ローデリックが目を見開く。

 

「……またかよ」

 

 俺は少し笑った。

 

「すぐ戻りますよ」

 

 彼は俺を見た。

 

「……お前、あれに慣れてるのか?」

 

「ええ」

 

 俺は答えた。

 

「リリアですから」

 

 ローデリックは、何とも言えない表情を浮かべた。

 

     ◇

 

 リリアが戻るまでの間、俺たちは扉の前で待機した。

 

 地下からは、時折怒鳴り声が聞こえてくる。

 

 だが、銃声はない。

 

 まだ、決定的な事態には至っていないらしい。

 

 俺は呼吸を整えた。

 

 相手が念能力者である可能性もある。

 

 だが、こちらにはローデリックがいる。

 

 警察の支援もある。

 

 そして、リリアがいる。

 

 ……焦るな。

 

 今は、情報を待つ。

 

 その判断が正しいと信じるしかなかった。

 

 数分後。

 

 通路の奥から、リリアが戻ってきた。

 

 彼女は俺たちの前へしゃがみ込む。

 

「確認できた」

 

「どうだった?」

 

「地下室に四人いる」

 

 俺は目を細めた。

 

「内訳は?」

 

「立ってる人が三人。床に座ってる人が一人」

 

 ……エドガーか。

 

 リリアは続けた。

 

「座ってる人は、両手を縛られてた。顔まではよく見えなかったけど、作業服を着てた」

 

 俺は頷いた。

 

「他の三人は?」

 

「一人は背が高くて、黒い外套。もう一人は顔に傷がある男。最後の一人は、少し若い男だった」

 

 昨夜、荷車を運んでいた連中と同じかもしれない。

 

 リリアはさらに続けた。

 

「それから、背の高い人は拳銃を持ってた」

 

 俺の表情が引き締まった。

 

「……人質へ向けていたか?」

 

「今は向けてなかった。でも、近くに立ってた」

 

 なるほど。

 

 まだ撃つつもりはないらしい。

 

 だが、いつ状況が変わるか分からない。

 

 俺はローデリックを見た。

 

「……動きましょう」

 

 彼は頷いた。

 

「ああ」

 

 ヴァレンが通信機へ連絡した。

 

「地下室に拘束された人物を確認。武装した男三名。これより救助に入る」

 

 短い返答。

 

 そして、許可。

 

 ヴァレンは俺たちを見た。

 

「……頼む」

 

 俺は頷いた。

 

 リリアも、静かに息を吐いた。

 

 そして、鉄扉へ向き直る。

 

     ◇

 

 地下室の中。

 

 エドガー・リースは、壁にもたれながら荒い呼吸を繰り返していた。

 

 目の前には、三人の男。

 

 そのうち一人が、拳銃を握っている。

 

「……警察が来てるぞ」

 

 若い男が震える声で言った。

 

「分かってる!」

 

 顔に傷のある男が怒鳴る。

 

「……どうするんだよ!」

 

 黒い外套の男は、苛立ったように舌打ちした。

 

「……黙れ」

 

 彼はエドガーを見下ろした。

 

「……こいつを使う」

 

 エドガーの顔から、血の気が引いた。

 

「……何を」

 

 男は拳銃を持ち上げた。

 

 銃口が、エドガーへ向けられる。

 

「……警察に言え。入ってきたら、こいつを撃つってな」

 

 エドガーは息を呑んだ。

 

 そのとき。

 

 地下室の扉の向こうから、声が響いた。

 

「警察だ! 中にいる者は武器を置け!」

 

 男たちが一斉に扉へ視線を向けた。

 

 黒い外套の男が怒鳴る。

 

「……入ってくるな!」

 

 彼はエドガーの肩を掴み、無理やり立たせた。

 

「……こいつを撃つぞ!」

 

 エドガーは苦痛に顔を歪めた。

 

 男の拳銃が、こめかみに押し当てられる。

 

 ……終わりだ。

 

 そう思った瞬間。

 

 地下室の灯りが、わずかに揺れた。

 

 男が眉を寄せる。

 

「……ん?」

 

 そして。

 

 扉の向こうで、短い衝撃音が響いた。

 

 次の瞬間。

 

 鉄扉が、内側へ開いた。

 

 黒い外套の男が、反射的に銃口を向ける。

 

 だが。

 

 その先には、誰もいなかった。

 

「……なっ!?」

 

 男が目を見開いた。

 

 次の瞬間。

 

 視界の端を、黒い影が横切った。

 

 アオだった。

 

 彼は、扉が開いた瞬間に低く踏み込み、男の死角へ滑り込んでいた。

 

 拳銃を握る右手。

 

 その手首へ、鋭い一撃が入る。

 

「ぐあっ!」

 

 男の指から、拳銃が弾かれた。

 

 続いて、アオの左手が男の襟を掴む。

 

 重心を崩し、エドガーから引き剥がす。

 

 男の身体が、床へ叩きつけられた。

 

 鈍い音。

 

 息を詰まらせる声。

 

 その間、わずか一瞬。

 

 だが、地下室にはまだ二人の男がいた。

 

「てめえ!」

 

 顔に傷のある男が、腰のナイフへ手を伸ばす。

 

 その瞬間。

 

 彼の視界から、栗色の髪の少女が消えた。

 

「……あ?」

 

 次の瞬間には、リリアが男の側面へ回り込んでいた。

 

 男の腕を払う。

 

 ナイフを持つ手首を捻る。

 

 身体を回転させ、その勢いで男を床へ倒す。

 

「ぐっ!?」

 

 ナイフが石床を滑った。

 

 ローデリックが踏み込む。

 

 最後の若い男が、慌てて逃げようとした。

 

 だが、ローデリックの大きな手が、その肩を掴む。

 

「……どこへ行く?」

 

「ひっ!?」

 

 男は抵抗する間もなく、床へ押さえ込まれた。

 

 すべてが終わるまで、数秒。

 

 地下室には、男たちの呻き声だけが残った。

 

     ◇

 

 俺は黒い外套の男を押さえ込んだまま、周囲を確認した。

 

 ……三人、制圧。

 

 エドガーと思われる男は、壁際に座り込んでいる。

 

 リリアがすぐに駆け寄った。

 

「大丈夫ですか?」

 

 男は、呆然と彼女を見上げた。

 

「……あ、あんたたちは……」

 

「ハンターです。警察と一緒に来ました」

 

 リリアは穏やかな声で答えた。

 

「もう大丈夫。助けに来ました」

 

 男の目が、大きく見開かれた。

 

「……助け……?」

 

「はい」

 

 リリアは頷いた。

 

「エドガー・リースさん、ですよね?」

 

 男は震える唇を動かした。

 

「……そう、です……」

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……見つけた。

 

 行方不明になっていた、エドガー・リース。

 

 生きていた。

 

 それだけでも、大きな前進だった。

 

 ヴァレンたちが地下室へ入ってくる。

 

 警官が男たちを拘束し、武器を回収した。

 

 ローデリックは周囲を確認しながら、俺を見た。

 

「……やるな、アオ」

 

「そちらこそ」

 

 俺が答えると、彼は鼻で笑った。

 

「いや、俺は最後の一人を押さえただけだ」

 

 そして、リリアへ視線を向ける。

 

「……あの娘も、とんでもねえな」

 

 俺は少し笑った。

 

「でしょう?」

 

 ローデリックは肩を竦めた。

 

「……まったくだ」

 

 そのとき、リリアが俺を呼んだ。

 

「アオ」

 

「ん?」

 

「エドガーさん、かなり弱ってる」

 

 俺はすぐに近づいた。

 

 エドガーの顔色は悪い。

 

 唇は乾き、頬には打撲の跡がある。

 

 手首には、縄で擦れた傷。

 

 呼吸も浅かった。

 

 ……脱水と衰弱か。

 

 俺は彼の前へしゃがみ込んだ。

 

「エドガーさん。俺はアオ。ハンターです」

 

 男はゆっくりと顔を上げた。

 

「……ハンター……」

 

「はい。あなたを探していました」

 

 エドガーの目に、涙が浮かんだ。

 

「……本当に……?」

 

「ええ」

 

 俺は頷いた。

 

「もう、ここから出られます」

 

 彼は唇を震わせた。

 

 そして、何度も小さく頷いた。

 

「……ありがとう……」

 

 その声は、かすれていた。

 

 俺は彼の身体へ手を伸ばした。

 

 ……回復を使うか。

 

 今日の使用回数は、まだ残っている。

 

 ただし、警察やローデリックの前で能力の詳細を見せる必要はない。

 

 俺はエドガーの肩へ手を置き、低い声で言った。

 

「少し、楽になると思います」

 

 意識を集中する。

 

 対象は、エドガーの身体全体。

 

 傷だけではない。

 

 衰弱。

 

 脱水。

 

 打撲。

 

 拘束による損傷。

 

 そして、長時間の監禁によって受けた精神的な負担。

 

 それらを、可能な限り正常な状態へ戻す。

 

 ……回復。

 

 静かな感覚が、手のひらから広がった。

 

 エドガーの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。

 

 顔色が戻る。

 

 手首の傷が薄れ、腫れが引いていく。

 

 彼は驚いたように目を見開いた。

 

「……あれ……?」

 

 俺は手を離した。

 

「どうですか?」

 

「……身体が……」

 

 エドガーは自分の手を見つめた。

 

 そして、信じられないというように呟いた。

 

「……痛く、ない……」

 

 俺は頷いた。

 

「よかった」

 

 リリアが小さく微笑んだ。

 

「もう少し休んでください。すぐに外へ出られますから」

 

 エドガーは、何度も頷いた。

 

 その目から、涙がこぼれ落ちた。

 

     ◇

 

 地下室の捜索は、その後も続いた。

 

 壁際に積まれていた木箱。

 

 古い作業台。

 

 書類の入った鞄。

 

 そして、床に残された複数の足跡。

 

 警察官たちは、それらを一つずつ確認していった。

 

 俺はエドガーの様子を見ながら、周囲を観察していた。

 

 ……妙だな。

 

 地下室にいたのは、エドガー一人。

 

 だが、木箱はもっとあったはずだ。

 

 昨夜、旧工房へ運び込まれた貨物。

 

 そして、今夜運び出された四つの木箱。

 

 その中から、確かに物音が聞こえた。

 

 ……つまり。

 

 エドガーだけではない。

 

 他にも、誰かがいる。

 

 俺はヴァレンへ視線を向けた。

 

「警部補」

 

「何だ?」

 

「荷車の追跡は?」

 

 ヴァレンは通信機を確認した。

 

「まだ続いている。東側の通りを抜け、南の運河沿いへ向かっているそうだ」

 

 俺は眉を寄せた。

 

 ……運河か。

 

 船を使うつもりかもしれない。

 

 そのとき、エドガーが顔を上げた。

 

「……荷車……?」

 

 俺は彼を見た。

 

「何か知っていますか?」

 

 エドガーは唇を震わせた。

 

「……あの、木箱……」

 

 彼は苦しそうに息を吸った。

 

「……中に……人が……」

 

 俺は静かに頷いた。

 

「やはり、そうなんですね」

 

 エドガーは目を見開いた。

 

「……知って……?」

 

「物音を聞きました」

 

 俺は答えた。

 

「でも、まだ中身を確認できていません」

 

 エドガーは震える声で続けた。

 

「……子供も……いた……」

 

 その言葉に、地下室の空気が変わった。

 

 ヴァレンが顔を上げる。

 

 ローデリックの表情が険しくなる。

 

 リリアは、静かにエドガーの手を握った。

 

「……何人くらいですか?」

 

 エドガーは首を振った。

 

「……分からない……でも……声が……何人も……」

 

 俺は目を閉じた。

 

 ……そうか。

 

 人身売買。

 

 それも、子供を含む複数の被害者。

 

 予想していた可能性が、現実のものになった。

 

 俺はゆっくりと立ち上がった。

 

「ヴァレン警部補」

 

「ああ」

 

 彼は頷いた。

 

「追跡班へ連絡する。貨物の中に人質がいることが確認された。慎重に停止させる必要がある」

 

 俺は頷いた。

 

「俺たちも向かいます」

 

 ローデリックが口を開いた。

 

「俺も行く」

 

 ヴァレンは一瞬考えた。

 

 そして、頷いた。

 

「分かった。ただし、現場の指揮は警察が執る。人質の安全を最優先にしてくれ」

 

「もちろんです」

 

 俺は答えた。

 

 リリアも立ち上がる。

 

「アオ」

 

「ん?」

 

「運河沿いなら、近道がある」

 

 俺は彼女を見た。

 

「分かるのか?」

 

「昨日、倉庫街を調べたときに見た道があるの。荷車が通れない細い路地だけど、私たちなら抜けられる」

 

 俺は頷いた。

 

「案内してくれ」

 

 彼女は微笑んだ。

 

「うん」

 

 そして、地下室の出口へ向かった。

 

     ◇

 

 旧工房の外へ出ると、夜風が頬を撫でた。

 

 遠くから、運河を行き交う船の汽笛が聞こえてくる。

 

 俺たちは建物の影を抜け、南側の路地へ向かった。

 

 リリアが先導する。

 

 その動きは、相変わらず静かだった。

 

 だが、今度は俺も速度を上げる。

 

 屋根の低い建物。

 

 崩れかけた石壁。

 

 狭い通路。

 

 それらを利用しながら、最短の経路を進んでいく。

 

 ローデリックも後ろからついてくる。

 

 さすがに熟練のハンターだけあって、速度を落とす必要はなかった。

 

 ただし、リリアの動きには何度も目を向けていた。

 

 彼女は、角を曲がるたびに一瞬だけ足を止める。

 

 周囲の気配を確認し、次の経路を選ぶ。

 

 そして、再び動き出す。

 

 その判断に、迷いがない。

 

 俺は彼女の背中を追いながら、思った。

 

 ……頼もしいな。

 

 戦闘なら、俺が前に出る。

 

 だが、こういう場面では、リリアに任せる方が速い。

 

 それを、俺たちはよく知っている。

 

 しばらくして、運河沿いの建物が見えてきた。

 

 水面には、街灯の光が揺れている。

 

 遠くで、荷車の車輪が軋む音がした。

 

 俺は足を止めた。

 

 リリアも、同時に動きを止める。

 

 彼女が小さく指を差した。

 

 運河沿いの道。

 

 そこに、荷車が見えた。

 

 四つの木箱。

 

 そして、複数の男たち。

 

 その先には、小型の貨物船が停泊している。

 

 ……間に合ったか。

 

 俺は目を細めた。

 

 だが、次の瞬間。

 

 荷車の脇に立つ男が、ゆっくりと顔を上げた。

 

 暗い外套。

 

 短く刈り込んだ髪。

 

 先ほど、路地の出口にいた男だ。

 

 彼は周囲を見回した。

 

 そして、低く呟いた。

 

「……来たか」

 

 俺は眉を寄せた。

 

 ……ん?

 

 その言葉は、こちらに向けられたものではなかった。

 

 男は、運河の向こう側を見ていた。

 

 そこには、別の船が近づいている。

 

 黒い船体。

 

 灯りを落とした甲板。

 

 そして、その上に立つ人影。

 

 俺は目を細めた。

 

 ……何だ、あれは。

 

 ローデリックが低く呟いた。

 

「……おいおい」

 

 俺は彼を見た。

 

「知っているんですか?」

 

 彼は表情を険しくした。

 

「……あの船の印」

 

 俺は視線を戻した。

 

 黒い船体の側面。

 

 そこには、白い獣の牙を模した紋章が描かれていた。

 

 ローデリックは低い声で続けた。

 

「……マフィアの連中だ」

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……なるほど。

 

 ダリオ・ゼッカートの背後には、やはり組織がいるらしい。

 

 だが、今はそれを追及している場合ではない。

 

 俺たちの目の前には、四つの木箱がある。

 

 その中には、助けを待つ人間がいる。

 

 俺は拳を握った。

 

 ……ここからが本番だ。

 

 リリアが隣で、静かに息を整えた。

 

「アオ」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「今度こそ、全員助ける」

 

 彼女は俺を見た。

 

 そして、力強く頷いた。

 

「うん」

 

 運河の水面を、冷たい風が渡っていく。

 

 その向こうで、黒い船がゆっくりと近づいていた。

 

 夜は、まだ終わらない。

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