流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
木箱の中から、音がした。
こつ。
こつ、こつ。
乾いた木材を叩く、弱々しい音だった。
南部倉庫街の夜は静かだ。昼間には荷車や人足の声が絶えないこの一帯も、日が落ちれば、遠くの港から届く汽笛と、時折吹き抜ける風の音ばかりになる。
だからこそ、その音は妙にはっきりと耳に残った。
旧工房の裏手。
俺とリリアは崩れた石壁の陰から、荷車の動きを見守っていた。
積まれているのは四つの木箱。
そのうち一つには、白い布に書かれた貨物番号がある。
B-317。
エドガー・リースが不審に思い、行方をくらます原因となった貨物だ。
昨夜は地下から聞こえた物音を、今夜は木箱そのものから聞いた。
そして、男たちの会話。
エドガーは地下にいる。
今夜の便には乗せない。
処分するかどうかは、上の指示待ち。
断片的な言葉を繋ぎ合わせるだけでも、状況は十分に危険だった。
俺は通信機を握り直した。
『アオ、聞こえるか』
グレゴール主任の声が、低い雑音に混じって届く。
「聞こえています」
『今、クロフト警部補から連絡が入った。捜索令状の発付が確認された。担当班が原本を持って現場へ向かっている』
俺は小さく息を吐いた。
朝から積み重ねてきた捜査が、ようやく形になったらしい。
借主の虚偽申告。
第三倉庫からの不自然な搬出。
行方不明者との関係。
そして、今夜の監視で得られた、監禁を強く疑わせる新たな情報。
警察はそれらを揃え、旧工房の捜索に踏み切る判断を得た。
ただし、問題は残っている。
「貨物はもう動き始めています」
『分かっている。ヴァレンの班が搬出路を押さえる。君たちは見失わないようにしてくれ。ただし、現時点で無理に接触するな』
「了解」
『それと、もう一つ』
グレゴールの声が硬くなった。
『エドガー・リースについては、生命に危険が迫っている可能性がある。現場で緊急の救助が必要になった場合は、警察側も即応する。だが、独断で建物全体を刺激するような行動は避けてほしい』
「承知しています」
通信を切る。
俺はリリアへ視線を向けた。
彼女は石壁の向こうを見つめたまま、右手の指を二本立てた。
二人。
荷車を押している男と、その後方を歩く男。
続いて、指を一本折る。
裏口の見張りが建物の中へ戻ったらしい。
俺が確認するよりわずかに早い。
視線を向けると、確かに裏口の扉が閉まるところだった。
リリアはさらに、荷車の前方へ顎を向けた。
路地の出口。
そこに、昨夜はいなかった男が立っている。
暗い外套。
短く刈り込んだ髪。
右手には革手袋。
街灯の届かない場所で、周囲を見渡していた。
俺は目を細めた。
あの立ち方。
腰を落としすぎず、いつでも踏み込めるように足を開いている。
ただの見張りにしては、妙に隙が少ない。
リリアが口元を俺の耳へ寄せた。
「アオ。あの人、さっきから一度も荷車を見てない」
「……ああ」
「ずっと、周囲の建物を見てる。特に高いところ」
なるほど。
貨物の護衛というより、外部からの接近を警戒している。
しかも、普通の警備員が注意を向ける路地の入口だけではない。
屋根。
窓。
建物同士の隙間。
視線の動かし方が、少し違う。
俺は『絶』を解かないまま、男の動作を観察した。
今の距離では、相手のオーラを直接確かめることはできない。
だが、身体の使い方だけでも、ある程度の判断はつく。
……念能力者かもしれないな。
リリアも同じ結論に近づいているのだろう。
その瞳は、荷車ではなく男の足元を追っていた。
「どうする?」
小さな問い。
俺は一拍だけ考えた。
「貨物は警察に任せる。俺たちは建物を見よう」
「エドガーさん?」
「ああ。あの男たちの話が本当なら、まだ地下にいる」
リリアは頷いた。
「じゃあ、裏の見張りが戻った理由を確かめるね」
「頼む」
彼女は一度だけ、俺の目を見た。
そして。
夜の風景から、姿を消した。
◇
消えた、としか言いようがない。
だが、俺には何が起きたのか分かっていた。
リリアは石壁の端から身体を滑らせ、崩れた建物の影へ移ったのだ。
足音はない。
衣服の擦れる音もない。
月明かりが途切れるわずかな場所を選び、見張りの視線が別の方向へ向いた瞬間だけ動いている。
その移動は、ひどく自然だった。
夜の中を駆け抜けたというより、もともとそこにあった影が、別の影へ繋がったように見える。
特殊な念能力による透明化ではない。
『絶』によってオーラを抑え、身体操作と地形の把握を徹底した結果だ。
それを知っている俺でさえ、視線を外せば次の位置を見失いかねない。
……本当に、大したものだ。
俺は彼女の移動を最後まで追わず、正面へ意識を戻した。
俺には俺の仕事がある。
荷車の前方に立つ男。
そいつが何を警戒しているのか、確かめる必要があった。
やがて、荷車が動き始めた。
木製の車輪が石畳を軋ませる。
その瞬間だった。
路地の出口にいた男が、わずかに顔を上げた。
何かを感じ取ったような動き。
次いで、彼の右手が腰の辺りへ下がる。
……ん?
男は数秒間、周囲を見回した。
だが、何も見つからなかったらしい。
やがて、荷車へ向き直る。
俺はその動きを見ながら、考えた。
今の反応。
こちらに気づいたわけではない。
俺たちは十分に距離を取り、遮蔽物の陰にいる。
ただ、男は何らかの警戒を強めていた。
その理由は、すぐに分かった。
路地の反対側から、別の男が現れたのだ。
小柄な男だった。
片手に煙草を持ち、帽子を深く被っている。
「遅いぞ」
外套の男が言った。
「道を確認してたんだよ」
「余計なことはするな。荷を運ぶだけでいい」
「へいへい」
小柄な男は肩を竦めた。
その声には、軽薄な響きがあった。
だが、歩き方は妙に静かだ。
……こいつもか。
俺は目を細めた。
少なくとも、二人とも普通の運び屋ではない。
貨物の移送に、念能力者を護衛として付けている可能性が高くなった。
ダリオ・ゼッカート。
あの男が関わっているなら、不思議な話ではない。
俺は通信機の送信ボタンを押した。
「こちらアオ。貨物の護衛に、訓練された戦闘員と思われる男が二人います。念能力者の可能性あり」
『こちらローデリック』
返ってきたのは、グレゴールではなかった。
『位置は?』
「旧工房東側の路地出口。荷車と一緒に移動するようです」
『了解。俺が近くまで行く』
「無理に接触しないでください。貨物の中に人がいる可能性があります」
『分かってるよ』
短い返答。
だが、その声には冗談めいた響きがなかった。
俺は通信を切った。
そして、旧工房へ視線を戻す。
リリアは、まだ戻っていない。
彼女なら、必要な情報を持ち帰るだろう。
そう信じて待つことにした。
◇
リリアが戻ってきたのは、それから三分ほど後だった。
正確には、俺が彼女の接近に気づいたのが、そのときだった。
背後の石壁に落ちた影が、わずかに濃くなる。
次の瞬間、リリアが俺の隣へしゃがみ込んでいた。
「戻ったよ」
「ああ。どうだった?」
「裏口から入った人、地下へ降りていった」
彼女は声を落とした。
「扉が開いたとき、階段が見えたの。地下から灯りが漏れてた」
「中には?」
「少なくとも二人。足音が重なってた。それと、何かを引きずる音がした」
俺は眉を寄せた。
「人間か?」
「分からない。でも、金属の音じゃなかった」
リリアは少し考えてから続けた。
「それから、裏口の鍵が変わってた」
「鍵?」
「昨日は外側に古い錠前が付いてたけど、今夜は内側から閂を掛けてるみたい。扉を閉めたときの音が違った」
俺は彼女を見た。
よくそこまで気づいたものだ。
昨日の時点で、扉の構造まで覚えていたらしい。
「地下へ降りた男は、何を持ってた?」
「短い棒みたいなもの。片手で持ってた」
警棒か。
あるいは、別の道具か。
俺は考えた。
エドガーを地下に残しているという話。
裏口の見張りが戻ったこと。
そして、地下へ降りる男が持っていた棒。
……嫌な組み合わせだ。
「リリア」
「うん」
「エドガーのところへ行った可能性がある」
「私もそう思った」
彼女の声が少し硬くなった。
「だから、階段の位置を確認してきた」
リリアは小さな紙片を取り出した。
建物の簡単な見取り図。
旧工房の外壁と裏口。
そこから地下へ降りる階段の位置。
さらに、壁の厚さや窓の位置まで書き込まれている。
俺は図を見つめた。
「……いつ描いた?」
「戻ってくる途中」
彼女は当然のように答えた。
俺は思わず笑いそうになった。
……なるほど。
さっきまで彼女の動きに驚いていたローデリックがこれを見たら、また何か言いそうだな。
だが、今は感心している場合ではない。
俺は通信機を取り出した。
「こちらアオ。旧工房の裏口から地下へ降りる階段を確認しました。内部に複数名。行方不明者への危害が差し迫っている可能性があります」
数秒後、グレゴールの声が返ってきた。
『了解。こちらでも新しい情報が入った』
「何でしょう?」
『ベルク運送商会の従業員から追加証言が取れた。エドガーが失踪した夜、第三倉庫で争うような声を聞いた者がいる』
俺は目を細めた。
『さらに、旧工房の借主名義に使われた身分証が、盗難届の出ていたものと一致した』
「……なるほど」
『令状を持った班は間もなく到着する。だが、現場の状況が変わった。エドガーの生命に差し迫った危険があると判断すれば、緊急の救助に移る』
「分かりました」
『アオ、リリア。二人は地下への経路を把握しているな?』
「はい」
『なら、現場班との合流地点を伝える。こちらの指揮下で救出に協力してほしい』
「了解しました」
通信が切れた。
俺はリリアを見た。
「動くぞ」
「うん」
彼女は静かに頷いた。
その瞳には、すでに迷いがなかった。
◇
旧工房から二本離れた路地。
廃材置き場の陰に、警察の現場班が集まっていた。
ヴァレン・クロフト警部補。
ローデリック・フェイン。
それに、武装した警官が六人。
さらに、建物の周囲には別の監視員が配置されている。
俺たちが到着すると、ヴァレンが顔を上げた。
「来たな」
「状況は?」
俺が尋ねると、彼は地図を広げた。
「荷車は東側の通りへ出た。今はローデリックの協力者が距離を取って追跡している」
俺は頷いた。
「建物の方は?」
「裏口の見張りが一人、戻ってきた。正面にも一人残っている」
ヴァレンは声を落とした。
「令状を持った班が合流した。建物の捜索を開始する」
ローデリックが俺を見た。
「アオ。お前は地下へ向かうつもりなんだろ?」
「必要なら」
「なら、俺も行く」
彼はそう言って、肩を回した。
「人質がいるかもしれない場所に、警官だけを送り込むのは危険だ」
俺は頷いた。
「同感です」
ヴァレンがリリアへ視線を向けた。
「君には先導を頼みたい。建物の構造を把握しているのは、こちらでは君が一番だ」
「分かりました」
リリアは落ち着いた声で答えた。
「ただ、地下の構造までは確認できていません。階段の先に何があるかは分からないので、そこからは慎重に進む必要があります」
「もちろんだ」
ヴァレンは頷いた。
ローデリックが口元を緩める。
「……頼もしいな」
リリアは小さく会釈した。
俺はその様子を見ながら、内心で少し感心していた。
彼女は、自分が分かっていることと、分かっていないことを明確に分けている。
それは、偵察において重要なことだ。
曖昧な情報を確信として伝えれば、作戦全体が危険に晒される。
リリアは、その危うさをよく理解している。
ヴァレンが全員を見回した。
「作戦を確認する」
彼は地図の正面入口を指差した。
「第一班は正面から入る。身分を明らかにし、捜索令状を提示する。相手が抵抗した場合は、必要な範囲で制圧する」
続いて、裏口を指差す。
「第二班は裏手を押さえる。逃走者が出た場合に備え、建物の外周を封鎖する」
そして、俺たちを見る。
「アオ、リリア、ローデリックは第二班に同行。地下への経路が確保でき次第、救助に向かう」
俺は頷いた。
「了解です」
「人質を発見した場合、最優先は安全確保だ。無理な追跡はしない」
「分かっています」
ヴァレンは深く息を吸った。
そして、通信機へ手を伸ばした。
「……各班、配置につけ」
その声とともに、警官たちが動き始めた。
俺はリリアを見た。
彼女は、すでに周囲の地形を確認していた。
建物の影。
石壁の高さ。
足場の状態。
見張りの視線。
そして、退路。
その目は、静かにすべてを捉えている。
「……リリア」
「うん?」
「先導は任せる」
彼女は一瞬だけ俺を見た。
そして、微笑んだ。
「任せて」
◇
作戦開始から、数分後。
旧工房の正面で、警察官の声が響いた。
「警察だ! 捜索令状がある! 扉を開けろ!」
夜の静寂を破る、鋭い声。
建物の中で、何かが動く気配がした。
続いて、怒鳴り声。
「何だと!?」
「警察だって!?」
俺たちは裏手の路地にいた。
リリアが先頭。
その後ろに俺。
さらにローデリックと警官たちが続く。
裏口の見張りは、正面の騒ぎに気を取られていた。
だが、すぐにこちらへ気づく。
「……おい!」
男が声を上げた。
その瞬間、ヴァレンの部下が前へ出た。
「警察だ! 動くな!」
男は一瞬だけ動きを止めた。
だが、次の瞬間。
腰の辺りへ手を伸ばした。
……まずい。
俺は一歩踏み込んだ。
男の右手が、上着の内側へ入る。
そこに何があるのかは分からない。
だが、武器を取り出そうとしている可能性は高い。
俺は男の手首を掴んだ。
そのまま、身体の向きを変える。
男の重心が崩れた。
「ぐっ!?」
俺は必要以上の力を加えず、腕を背中へ回した。
男の膝が石畳へ落ちる。
警官が素早く駆け寄り、拘束具を掛けた。
「確保!」
男の上着から、小型の拳銃が取り出された。
俺は静かに息を吐いた。
……やっぱりか。
ヴァレンがこちらへ視線を向けた。
「助かった」
「いえ」
俺は答えた。
「地下へ急ぎましょう」
リリアが扉を確認した。
「内側に閂があるみたい」
ローデリックが前へ出る。
「なら、俺が――」
「待って」
リリアが小さく言った。
彼は動きを止めた。
「どうした?」
「扉の下」
リリアは足元を指差した。
俺は目を細めた。
扉の下端。
そこに、細い金属線が見えた。
……罠か。
リリアは小さく頷いた。
「扉を無理に開けたら、何かが動く仕組みだと思う」
ローデリックの表情が変わった。
「……なるほど」
彼はしゃがみ込み、金属線を確認した。
その先は、扉の内側へ続いている。
何に繋がっているのかは分からない。
だが、無理に扉を破れば危険だ。
俺はヴァレンを見た。
「別の入口から入れますか?」
「正面班が中へ入った。そちらから地下へ回れるはずだ」
「なら、そっちへ」
リリアは頷いた。
「私が案内する」
彼女はすぐに進路を変えた。
俺たちはその後ろを追う。
ローデリックが歩きながら、低く呟いた。
「……あの細い線、よく見つけたな」
リリアは振り返らずに答えた。
「扉の下に、昨日はなかった傷があったから」
「……傷?」
「金属が擦れた跡です」
ローデリックは一瞬黙った。
そして、苦笑した。
「……参ったな」
俺はその声を聞きながら、少しだけ口元を緩めた。
だが、すぐに意識を切り替える。
まだ、救出は始まったばかりだ。
◇
旧工房の内部は、外から見た以上に広かった。
かつて金属加工に使われていたらしい作業台が並び、壁には古い工具が掛けられている。
床には錆びた鉄片や木屑が散らばっていた。
正面から入った警官たちは、すでに一階の一部を確保していた。
だが、奥の扉の向こうから、怒鳴り声が聞こえている。
「下がれ!」
「警察だ! 抵抗するな!」
続いて、鈍い衝撃音。
俺は眉を寄せた。
……まだ抵抗しているのか。
ヴァレンが通信機へ声を掛ける。
「第一班、状況を報告しろ!」
『一階を確保中! 男二名が抵抗! 一名拘束、もう一名は奥へ逃走!』
「地下への階段は?」
『建物の西側! ただし、扉が閉鎖されています!』
俺はリリアを見た。
彼女はすでに動いていた。
作業台の間を、音もなく抜けていく。
俺たちが後を追う。
ローデリックも、さすがに熟練のハンターだけあって動きが速い。
だが、リリアの足運びはそれとは質が違った。
床に散らばる鉄片を避ける。
影の濃い場所を選ぶ。
足を置く瞬間に、身体の重心を滑らせる。
まるで、床の上を流れていくような動きだった。
そして、次の角。
リリアが突然、片手を上げた。
俺たちは足を止める。
彼女は壁際へ身体を寄せた。
その直後。
奥の通路から、男が飛び出してきた。
短い棍棒を持っている。
「どけぇ!」
男は叫びながら、こちらへ突っ込んできた。
だが。
リリアは、そこにいなかった。
男の視線が彼女を捉えた瞬間には、もう身体が壁の影へ移っている。
棍棒が空を切った。
「……なっ!?」
男が驚愕する。
次の瞬間、リリアの足が男の足首を払った。
重心を崩した男が前のめりになる。
その腕を、俺が掴んだ。
軽く捻り、床へ押さえ込む。
「ぐあっ!」
警官が駆け寄り、拘束した。
ローデリックがリリアを見た。
「……今の、見えなかったぞ」
彼女は少し首を傾げた。
「そうですか?」
「……いや、そうですかじゃねえ」
ローデリックは苦笑した。
「お前、本当に何者なんだ?」
リリアは困ったように笑った。
「……ハンターです」
俺は思わず笑いそうになった。
だが、次の瞬間。
奥の扉の向こうから、声が聞こえた。
「……やめろ!」
男の声。
続いて、鈍い打撃音。
俺の表情が変わった。
……地下だ。
俺はリリアを見た。
彼女も、すでに気づいていた。
「アオ」
「ああ」
俺たちは奥へ向かった。
◇
地下へ続く階段の前には、頑丈な鉄扉があった。
その向こうから、複数の声が聞こえてくる。
「……早くしろ!」
「分かってる!」
「警察が来てるんだぞ!」
そして。
「……ぐっ!」
苦しげな声。
俺は扉へ近づいた。
……エドガーか。
その可能性は高い。
だが、無理に扉を破れば、向こうにいる人間を危険に晒すかもしれない。
俺はローデリックを見た。
「中の人数、分かりますか?」
彼は目を細めた。
「……少なくとも三人。だが、正確には分からん」
俺は頷いた。
俺自身も、扉越しの音だけでは判断しきれない。
『円』を使えば、周囲の配置をある程度把握できる。
だが、厚い壁や複雑な構造がある場所では、感知の精度が落ちる。
何より、こちらが念能力者であることを相手に知らせる危険もある。
俺は慎重に考えた。
……どうする。
そのとき、リリアが小さく言った。
「アオ」
「ん?」
「階段の位置、覚えてる?」
「ああ」
「地下室は、建物の南側まで続いてると思う」
俺は彼女を見た。
「……通気口か」
「うん」
昨夜、旧工房の外壁で見つけた通気口。
地面に近い位置に設けられた、新しい金属製の格子。
あれが地下室へ繋がっているなら。
「……中を確認できるかもしれない」
俺が言うと、リリアは頷いた。
「私が行く」
ローデリックが眉を寄せた。
「待て。外へ回るのか?」
「はい」
「時間がないぞ」
「分かっています」
リリアは落ち着いた声で答えた。
「だから、急ぎます」
そう言った瞬間。
彼女の姿が、通路の影へ溶けた。
ローデリックが目を見開く。
「……またかよ」
俺は少し笑った。
「すぐ戻りますよ」
彼は俺を見た。
「……お前、あれに慣れてるのか?」
「ええ」
俺は答えた。
「リリアですから」
ローデリックは、何とも言えない表情を浮かべた。
◇
リリアが戻るまでの間、俺たちは扉の前で待機した。
地下からは、時折怒鳴り声が聞こえてくる。
だが、銃声はない。
まだ、決定的な事態には至っていないらしい。
俺は呼吸を整えた。
相手が念能力者である可能性もある。
だが、こちらにはローデリックがいる。
警察の支援もある。
そして、リリアがいる。
……焦るな。
今は、情報を待つ。
その判断が正しいと信じるしかなかった。
数分後。
通路の奥から、リリアが戻ってきた。
彼女は俺たちの前へしゃがみ込む。
「確認できた」
「どうだった?」
「地下室に四人いる」
俺は目を細めた。
「内訳は?」
「立ってる人が三人。床に座ってる人が一人」
……エドガーか。
リリアは続けた。
「座ってる人は、両手を縛られてた。顔まではよく見えなかったけど、作業服を着てた」
俺は頷いた。
「他の三人は?」
「一人は背が高くて、黒い外套。もう一人は顔に傷がある男。最後の一人は、少し若い男だった」
昨夜、荷車を運んでいた連中と同じかもしれない。
リリアはさらに続けた。
「それから、背の高い人は拳銃を持ってた」
俺の表情が引き締まった。
「……人質へ向けていたか?」
「今は向けてなかった。でも、近くに立ってた」
なるほど。
まだ撃つつもりはないらしい。
だが、いつ状況が変わるか分からない。
俺はローデリックを見た。
「……動きましょう」
彼は頷いた。
「ああ」
ヴァレンが通信機へ連絡した。
「地下室に拘束された人物を確認。武装した男三名。これより救助に入る」
短い返答。
そして、許可。
ヴァレンは俺たちを見た。
「……頼む」
俺は頷いた。
リリアも、静かに息を吐いた。
そして、鉄扉へ向き直る。
◇
地下室の中。
エドガー・リースは、壁にもたれながら荒い呼吸を繰り返していた。
目の前には、三人の男。
そのうち一人が、拳銃を握っている。
「……警察が来てるぞ」
若い男が震える声で言った。
「分かってる!」
顔に傷のある男が怒鳴る。
「……どうするんだよ!」
黒い外套の男は、苛立ったように舌打ちした。
「……黙れ」
彼はエドガーを見下ろした。
「……こいつを使う」
エドガーの顔から、血の気が引いた。
「……何を」
男は拳銃を持ち上げた。
銃口が、エドガーへ向けられる。
「……警察に言え。入ってきたら、こいつを撃つってな」
エドガーは息を呑んだ。
そのとき。
地下室の扉の向こうから、声が響いた。
「警察だ! 中にいる者は武器を置け!」
男たちが一斉に扉へ視線を向けた。
黒い外套の男が怒鳴る。
「……入ってくるな!」
彼はエドガーの肩を掴み、無理やり立たせた。
「……こいつを撃つぞ!」
エドガーは苦痛に顔を歪めた。
男の拳銃が、こめかみに押し当てられる。
……終わりだ。
そう思った瞬間。
地下室の灯りが、わずかに揺れた。
男が眉を寄せる。
「……ん?」
そして。
扉の向こうで、短い衝撃音が響いた。
次の瞬間。
鉄扉が、内側へ開いた。
黒い外套の男が、反射的に銃口を向ける。
だが。
その先には、誰もいなかった。
「……なっ!?」
男が目を見開いた。
次の瞬間。
視界の端を、黒い影が横切った。
アオだった。
彼は、扉が開いた瞬間に低く踏み込み、男の死角へ滑り込んでいた。
拳銃を握る右手。
その手首へ、鋭い一撃が入る。
「ぐあっ!」
男の指から、拳銃が弾かれた。
続いて、アオの左手が男の襟を掴む。
重心を崩し、エドガーから引き剥がす。
男の身体が、床へ叩きつけられた。
鈍い音。
息を詰まらせる声。
その間、わずか一瞬。
だが、地下室にはまだ二人の男がいた。
「てめえ!」
顔に傷のある男が、腰のナイフへ手を伸ばす。
その瞬間。
彼の視界から、栗色の髪の少女が消えた。
「……あ?」
次の瞬間には、リリアが男の側面へ回り込んでいた。
男の腕を払う。
ナイフを持つ手首を捻る。
身体を回転させ、その勢いで男を床へ倒す。
「ぐっ!?」
ナイフが石床を滑った。
ローデリックが踏み込む。
最後の若い男が、慌てて逃げようとした。
だが、ローデリックの大きな手が、その肩を掴む。
「……どこへ行く?」
「ひっ!?」
男は抵抗する間もなく、床へ押さえ込まれた。
すべてが終わるまで、数秒。
地下室には、男たちの呻き声だけが残った。
◇
俺は黒い外套の男を押さえ込んだまま、周囲を確認した。
……三人、制圧。
エドガーと思われる男は、壁際に座り込んでいる。
リリアがすぐに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
男は、呆然と彼女を見上げた。
「……あ、あんたたちは……」
「ハンターです。警察と一緒に来ました」
リリアは穏やかな声で答えた。
「もう大丈夫。助けに来ました」
男の目が、大きく見開かれた。
「……助け……?」
「はい」
リリアは頷いた。
「エドガー・リースさん、ですよね?」
男は震える唇を動かした。
「……そう、です……」
俺は静かに息を吐いた。
……見つけた。
行方不明になっていた、エドガー・リース。
生きていた。
それだけでも、大きな前進だった。
ヴァレンたちが地下室へ入ってくる。
警官が男たちを拘束し、武器を回収した。
ローデリックは周囲を確認しながら、俺を見た。
「……やるな、アオ」
「そちらこそ」
俺が答えると、彼は鼻で笑った。
「いや、俺は最後の一人を押さえただけだ」
そして、リリアへ視線を向ける。
「……あの娘も、とんでもねえな」
俺は少し笑った。
「でしょう?」
ローデリックは肩を竦めた。
「……まったくだ」
そのとき、リリアが俺を呼んだ。
「アオ」
「ん?」
「エドガーさん、かなり弱ってる」
俺はすぐに近づいた。
エドガーの顔色は悪い。
唇は乾き、頬には打撲の跡がある。
手首には、縄で擦れた傷。
呼吸も浅かった。
……脱水と衰弱か。
俺は彼の前へしゃがみ込んだ。
「エドガーさん。俺はアオ。ハンターです」
男はゆっくりと顔を上げた。
「……ハンター……」
「はい。あなたを探していました」
エドガーの目に、涙が浮かんだ。
「……本当に……?」
「ええ」
俺は頷いた。
「もう、ここから出られます」
彼は唇を震わせた。
そして、何度も小さく頷いた。
「……ありがとう……」
その声は、かすれていた。
俺は彼の身体へ手を伸ばした。
……回復を使うか。
今日の使用回数は、まだ残っている。
ただし、警察やローデリックの前で能力の詳細を見せる必要はない。
俺はエドガーの肩へ手を置き、低い声で言った。
「少し、楽になると思います」
意識を集中する。
対象は、エドガーの身体全体。
傷だけではない。
衰弱。
脱水。
打撲。
拘束による損傷。
そして、長時間の監禁によって受けた精神的な負担。
それらを、可能な限り正常な状態へ戻す。
……回復。
静かな感覚が、手のひらから広がった。
エドガーの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
顔色が戻る。
手首の傷が薄れ、腫れが引いていく。
彼は驚いたように目を見開いた。
「……あれ……?」
俺は手を離した。
「どうですか?」
「……身体が……」
エドガーは自分の手を見つめた。
そして、信じられないというように呟いた。
「……痛く、ない……」
俺は頷いた。
「よかった」
リリアが小さく微笑んだ。
「もう少し休んでください。すぐに外へ出られますから」
エドガーは、何度も頷いた。
その目から、涙がこぼれ落ちた。
◇
地下室の捜索は、その後も続いた。
壁際に積まれていた木箱。
古い作業台。
書類の入った鞄。
そして、床に残された複数の足跡。
警察官たちは、それらを一つずつ確認していった。
俺はエドガーの様子を見ながら、周囲を観察していた。
……妙だな。
地下室にいたのは、エドガー一人。
だが、木箱はもっとあったはずだ。
昨夜、旧工房へ運び込まれた貨物。
そして、今夜運び出された四つの木箱。
その中から、確かに物音が聞こえた。
……つまり。
エドガーだけではない。
他にも、誰かがいる。
俺はヴァレンへ視線を向けた。
「警部補」
「何だ?」
「荷車の追跡は?」
ヴァレンは通信機を確認した。
「まだ続いている。東側の通りを抜け、南の運河沿いへ向かっているそうだ」
俺は眉を寄せた。
……運河か。
船を使うつもりかもしれない。
そのとき、エドガーが顔を上げた。
「……荷車……?」
俺は彼を見た。
「何か知っていますか?」
エドガーは唇を震わせた。
「……あの、木箱……」
彼は苦しそうに息を吸った。
「……中に……人が……」
俺は静かに頷いた。
「やはり、そうなんですね」
エドガーは目を見開いた。
「……知って……?」
「物音を聞きました」
俺は答えた。
「でも、まだ中身を確認できていません」
エドガーは震える声で続けた。
「……子供も……いた……」
その言葉に、地下室の空気が変わった。
ヴァレンが顔を上げる。
ローデリックの表情が険しくなる。
リリアは、静かにエドガーの手を握った。
「……何人くらいですか?」
エドガーは首を振った。
「……分からない……でも……声が……何人も……」
俺は目を閉じた。
……そうか。
人身売買。
それも、子供を含む複数の被害者。
予想していた可能性が、現実のものになった。
俺はゆっくりと立ち上がった。
「ヴァレン警部補」
「ああ」
彼は頷いた。
「追跡班へ連絡する。貨物の中に人質がいることが確認された。慎重に停止させる必要がある」
俺は頷いた。
「俺たちも向かいます」
ローデリックが口を開いた。
「俺も行く」
ヴァレンは一瞬考えた。
そして、頷いた。
「分かった。ただし、現場の指揮は警察が執る。人質の安全を最優先にしてくれ」
「もちろんです」
俺は答えた。
リリアも立ち上がる。
「アオ」
「ん?」
「運河沿いなら、近道がある」
俺は彼女を見た。
「分かるのか?」
「昨日、倉庫街を調べたときに見た道があるの。荷車が通れない細い路地だけど、私たちなら抜けられる」
俺は頷いた。
「案内してくれ」
彼女は微笑んだ。
「うん」
そして、地下室の出口へ向かった。
◇
旧工房の外へ出ると、夜風が頬を撫でた。
遠くから、運河を行き交う船の汽笛が聞こえてくる。
俺たちは建物の影を抜け、南側の路地へ向かった。
リリアが先導する。
その動きは、相変わらず静かだった。
だが、今度は俺も速度を上げる。
屋根の低い建物。
崩れかけた石壁。
狭い通路。
それらを利用しながら、最短の経路を進んでいく。
ローデリックも後ろからついてくる。
さすがに熟練のハンターだけあって、速度を落とす必要はなかった。
ただし、リリアの動きには何度も目を向けていた。
彼女は、角を曲がるたびに一瞬だけ足を止める。
周囲の気配を確認し、次の経路を選ぶ。
そして、再び動き出す。
その判断に、迷いがない。
俺は彼女の背中を追いながら、思った。
……頼もしいな。
戦闘なら、俺が前に出る。
だが、こういう場面では、リリアに任せる方が速い。
それを、俺たちはよく知っている。
しばらくして、運河沿いの建物が見えてきた。
水面には、街灯の光が揺れている。
遠くで、荷車の車輪が軋む音がした。
俺は足を止めた。
リリアも、同時に動きを止める。
彼女が小さく指を差した。
運河沿いの道。
そこに、荷車が見えた。
四つの木箱。
そして、複数の男たち。
その先には、小型の貨物船が停泊している。
……間に合ったか。
俺は目を細めた。
だが、次の瞬間。
荷車の脇に立つ男が、ゆっくりと顔を上げた。
暗い外套。
短く刈り込んだ髪。
先ほど、路地の出口にいた男だ。
彼は周囲を見回した。
そして、低く呟いた。
「……来たか」
俺は眉を寄せた。
……ん?
その言葉は、こちらに向けられたものではなかった。
男は、運河の向こう側を見ていた。
そこには、別の船が近づいている。
黒い船体。
灯りを落とした甲板。
そして、その上に立つ人影。
俺は目を細めた。
……何だ、あれは。
ローデリックが低く呟いた。
「……おいおい」
俺は彼を見た。
「知っているんですか?」
彼は表情を険しくした。
「……あの船の印」
俺は視線を戻した。
黒い船体の側面。
そこには、白い獣の牙を模した紋章が描かれていた。
ローデリックは低い声で続けた。
「……マフィアの連中だ」
俺は静かに息を吐いた。
……なるほど。
ダリオ・ゼッカートの背後には、やはり組織がいるらしい。
だが、今はそれを追及している場合ではない。
俺たちの目の前には、四つの木箱がある。
その中には、助けを待つ人間がいる。
俺は拳を握った。
……ここからが本番だ。
リリアが隣で、静かに息を整えた。
「アオ」
「ああ」
俺は頷いた。
「今度こそ、全員助ける」
彼女は俺を見た。
そして、力強く頷いた。
「うん」
運河の水面を、冷たい風が渡っていく。
その向こうで、黒い船がゆっくりと近づいていた。
夜は、まだ終わらない。