流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
黒い船が、運河を滑るように進んでいた。
水面を押し分ける船首から、細かな波紋が左右へ広がっていく。甲板には最低限の灯りしかなく、船体の大部分は夜の闇に沈んでいる。
その側面に描かれた、白い獣の牙を模した紋章。
ローデリック・フェインが、それを見て顔を険しくした。
「……面倒な連中が出てきやがった」
俺たちは運河沿いの古い製粉所、その二階部分に身を潜めていた。
屋根の一部が崩れ、壁には大きな亀裂が走っている。かつて穀物を運び込んでいたらしい搬入口からは、運河と荷揚げ場を広く見渡すことができた。
下の岸壁には、小型の貨物船が一隻。
その手前には、四つの木箱を積んだ荷車が止まっている。
B-317。
ほかの三つにも、異なる番号が振られていた。
あの箱の中には、人がいる。
エドガー・リースの証言によって、それはもはや疑いではなくなった。
しかも、子供が含まれている可能性がある。
俺は木箱から視線を外さず、ローデリックに尋ねた。
「知っている組織ですか?」
「あの紋章は見覚えがある。正式な組織名じゃなく、傘下の運送部門が使う印だ」
「どこの傘下です?」
「マフィアだ。複数の都市に手を伸ばしている連中でな。表向きは運送業や倉庫業をやっているが、裏じゃ武器も人間も扱うって噂がある」
ローデリックは声を落とした。
「ただ、あの船に乗っている奴らが全員その組織の人間とは限らん。傭われた連中もいるだろう」
「なるほど」
ダリオ・ゼッカートが単独で動いているとは、最初から思っていなかった。
だが、ここまで露骨にマフィアの影が現れるとなれば、事件の規模は想像以上かもしれない。
問題は、相手の組織力ではない。
今、この場に何人の念能力者がいるのか。
そして、木箱の中の人質を傷つけずに制圧できるか。
それが最優先だった。
隣で、リリアが静かに身を屈めた。
「アオ」
「ん?」
「船が来る前から岸壁にいた人たち、少し様子が変わった」
俺は視線を向けた。
「どんなふうに?」
「荷車の近くにいた二人が、船から距離を取ってる。さっきまでは木箱のそばを離れなかったのに」
言われてみれば、確かにそうだった。
荷車を押してきた男たちは、黒い船が近づくにつれて、少しずつ後ろへ下がっている。
まるで、船から来る人間を警戒しているかのように。
「……仲間同士にしては、妙だな」
「うん。それと、あの人」
リリアが指差したのは、荷車の前方に立つ暗い外套の男だった。
短く刈り込んだ髪。
革手袋。
先ほど旧工房の近くでも見かけた、身のこなしに隙の少ない男だ。
「右手をずっと腰の近くに置いてる」
「武器か?」
「たぶん。でも、船じゃなくて、荷車の方を気にしてる」
俺は目を細めた。
……なるほど。
あの男は、船から来る相手を全面的には信用していない。
それなら、こちらにとって利用できる隙があるかもしれない。
俺は通信機を取り出した。
「こちらアオ。荷車は運河沿いの旧製粉所南側、第三荷揚げ場に停車。黒い船が接近しています」
少しの雑音。
続いて、ヴァレンの声が返ってきた。
『確認している。水上警備隊にも連絡済みだ』
「現場の配置は?」
『南側の通りを封鎖した。東側にも警官を置いている。だが、岸壁へ一気に踏み込むと、人質を危険に晒す恐れがある』
「同感です」
『こちらはまだ相手に姿を見せていない。君たちも監視を続けてくれ』
「了解」
通信を切った。
警察はすでに周辺を押さえつつある。
だが、船が出航してしまえば話は変わる。
水上で人質を盾に取られれば、救出は格段に難しくなる。
……陸上で止めたいな。
俺はリリアへ視線を向けた。
「船の動きが分かったら教えてくれ」
「うん」
彼女は頷き、再び岸壁へ意識を向けた。
その横顔には、余計な緊張がない。
ただ静かに、必要な情報を集めている。
俺も呼吸を整えた。
戦いは、まだ始まっていない。
だが、すでに互いの駆け引きは始まっていた。
◇
黒い船が岸壁へ接近すると、甲板から縄が投げられた。
岸にいた男がそれを受け取り、係船柱へ巻きつける。
続いて、船から三人の男が降りてきた。
一人目は、灰色の背広を着た痩せた男。
年齢は三十代半ばほど。
髪をきっちりと撫でつけ、片手には革製の書類鞄を持っている。
二人目は、大柄な男だった。
短い黒髪。
厚い首。
肩幅が広く、上着の下からでも鍛えられた身体つきが分かる。
そして三人目。
細身の、長い外套を着た男。
その男が甲板から岸へ足を下ろした瞬間、俺はわずかに眉を動かした。
……こいつ。
歩き方が、ほかの二人と違う。
無駄な動きがない。
重心がほとんど上下せず、足音も小さい。
だが、リリアのように周囲へ溶け込むための歩法ではない。
むしろ、いつでも相手の懐へ踏み込めるように、身体を整えている。
戦闘を前提とした動きだった。
「アオ」
リリアも気づいたらしい。
「最後の人、強そう」
「ああ」
俺は頷いた。
「念能力者の可能性が高い」
ローデリックが低く唸った。
「……俺もそう思う」
俺たちはさらに気配を抑えた。
岸壁では、灰色の背広の男が荷車へ近づいていた。
「予定より遅れているな」
その声は、夜の水辺によく響いた。
荷車のそばにいた外套の男が答える。
「工房で問題があった」
「問題?」
「警察だ」
灰色の背広の男が足を止めた。
「……何だと?」
「旧工房に踏み込まれた。荷は予定どおり運び出したが、残っていた連中は捕まったかもしれん」
背広の男は顔をしかめた。
「聞いていないぞ」
「俺たちも、ついさっき知った」
「ダリオは何をしている?」
その名前に、俺の意識が鋭くなった。
ダリオ・ゼッカート。
ようやく、直接名前が出た。
外套の男は肩を竦めた。
「知らん。こっちは荷を運べと言われただけだ」
背広の男は舌打ちした。
「……まったく。あの男は、いつも余計な面倒を持ち込む」
その言葉を聞き、俺は考えた。
どうやら、ダリオと船の連中は完全な上下関係ではないらしい。
少なくとも、船側はダリオの失態を快く思っていない。
そのとき、長い外套の男が口を開いた。
「話は後にしろ」
低い声だった。
背広の男が振り返る。
「何だ?」
「荷を確認する」
「今ここでか?」
「警察に踏み込まれたというなら、なおさらだ」
長い外套の男は荷車へ歩み寄った。
そして、木箱の一つに手を置く。
B-317。
俺は目を細めた。
男は木箱の表面を軽く叩いた。
こつ。
乾いた音。
次いで、耳を近づける。
数秒後。
箱の内側から、かすかな物音が返ってきた。
男は頷いた。
「……生きているな」
灰色の背広の男が眉を寄せた。
「当然だ。死体を運ぶ契約じゃない」
「なら、さっさと積み込め」
その言葉を聞いた瞬間、俺の腹の底で冷たいものが動いた。
人間を荷物として扱う。
それも、何のためらいもなく。
流星街で生きていた頃から、そういう連中を見たことはある。
人間の命を、金や物と同じように数える者たち。
相手が何を感じ、何を失うのかなど、考えもしない。
……反吐が出る。
だが、怒りに任せて飛び出すわけにはいかなかった。
今は、まだ。
俺はゆっくりと息を吐いた。
その隣で、リリアが小さく手を動かした。
三本の指。
続いて、二本。
船から降りた三人のうち、二人が戦闘要員。
そういう意味だ。
俺は小さく頷いた。
同じ見立てだった。
◇
荷車から最初の木箱が下ろされた。
男たちが二人がかりで持ち上げ、船へ渡された板の上を進んでいく。
そのとき。
木箱の中から、短い悲鳴が聞こえた。
「……っ!」
女の声だった。
小さく、押し殺された声。
運び手の一人が足を止める。
「おい、今……」
「気にするな」
長い外套の男が言った。
「揺れたんだろう」
「でもよ……」
「運べ」
その声には、有無を言わせない冷たさがあった。
男たちは再び歩き始める。
俺は通信機へ手を伸ばした。
「こちらアオ。木箱の中から女性と思われる声を確認。船への積み込みが始まりました」
『こちらヴァレン。了解』
「今のうちに止める必要があります」
『分かっている。水上警備隊はまだ到着していない。陸上班を動かす』
俺は頷いた。
「こちらも支援します」
『頼む。ただし、人質への危害を防ぐことが最優先だ』
「了解」
通信を切った。
リリアが俺を見た。
「アオ」
「ああ。動く」
彼女は頷いた。
そして、岸壁の東側を指差した。
「私は、あっちから回る」
そこには、古い倉庫と荷揚げ場を繋ぐ細い通路があった。
積み上げられた木材。
壊れた荷車。
使われなくなった滑車。
遮蔽物が多く、見張りの視界も通りにくい。
「船の渡し板まで行けると思う」
「危険だぞ」
「分かってる」
リリアは落ち着いて答えた。
「でも、あそこを押さえれば、船へ荷物を運べなくなる」
俺は彼女を見た。
……確かに。
こちらが正面から動けば、敵は船へ逃げ込もうとする。
そのとき、渡し板を押さえておけば、逃走経路を一つ潰せる。
しかも、リリアなら見張りの視線を避けて近づける可能性が高い。
「分かった」
俺は頷いた。
「ただし、船には乗るな。相手の念能力が分からない」
「うん。渡し板の手前まで」
「危険だと思ったら、すぐ退け」
「アオもね」
リリアはそう言って、小さく笑った。
俺も口元を緩めた。
「了解」
彼女は一度だけ頷く。
そして、身体を低くした。
次の瞬間。
夜の景色に、溶け込んだ。
ローデリックが、隣で小さく息を吐いた。
「……何度見ても、妙な気分になるな」
「慣れますよ」
「慣れたくねえよ。あんな動き、目で追おうとすると自信をなくす」
俺は少し笑った。
だが、すぐに表情を引き締める。
「ローデリックさん」
「何だ?」
「俺は、荷車の護衛を押さえます」
「ああ」
「船から降りた大柄な男をお願いします。長い外套の男は、俺が見ます」
ローデリックは眉を寄せた。
「……そいつが一番厄介そうだぞ」
「だからです」
俺は答えた。
「木箱の近くで念能力を使われると、人質が危ない」
ローデリックは数秒、俺を見つめていた。
そして、頷いた。
「……分かった。任せる」
俺は通信機の送信ボタンを押した。
「こちらアオ。配置につきました。警察の突入に合わせて動きます」
『了解。合図を待て』
俺は静かに呼吸を整えた。
夜風が、頬を撫でる。
遠くで、船の係留索が軋んだ。
そして。
『……各班、行動開始』
ヴァレンの声が響いた。
◇
「警察だ!」
岸壁の南側から、鋭い声が響いた。
「全員、その場を動くな! 武器を捨てろ!」
同時に、複数の警官が遮蔽物の陰から姿を現した。
男たちが一斉に振り返る。
「……何だと!?」
「警察!?」
荷車の護衛が腰へ手を伸ばした。
その瞬間。
俺は動いた。
古い製粉所の二階から、崩れた壁を足場にして外へ出る。
石壁を蹴り、屋根の縁へ移る。
そして、岸壁へ向かって跳んだ。
身体が夜気を切り裂く。
着地と同時に膝を沈め、衝撃を逃がす。
荷車のそばにいた男が、こちらを見た。
「……っ!?」
驚きに目を見開く。
だが、反応するより早く、俺は男の懐へ踏み込んでいた。
拳銃を抜こうとした右手。
その手首を掴む。
肘の向きを変え、重心を崩す。
男の身体が前のめりになった。
「ぐっ!」
俺はそのまま、男を石畳へ押さえ込んだ。
拳銃が手から離れる。
すぐに警官が駆け寄り、拘束具を掛けた。
「確保!」
俺は顔を上げた。
残る護衛が、こちらへ向かってくる。
短い棍棒を持っていた。
「この野郎!」
男が振り下ろす。
俺は半歩だけ身体をずらした。
棍棒が空を切る。
その腕を取り、相手の勢いを利用して投げる。
男は荷車の脇へ転がった。
鈍い音。
呻き声。
それで終わりだった。
……二人。
俺は次の相手へ視線を向けた。
長い外套の男。
そいつは、動いていなかった。
ただ、こちらを見ていた。
そして、ゆっくりと口元を歪めた。
「……なるほど」
低い声。
「ただの警察じゃないと思ったが……ハンターか」
俺は答えなかった。
男は肩を回した。
「若いな。何歳だ?」
「答える必要はない」
「つれないねえ」
男は笑った。
だが、その目は冷たいままだった。
次の瞬間。
男の身体から、オーラが立ち上った。
……やはり。
念能力者だ。
俺は『絶』を解き、即座に『纏』へ移行した。
オーラが身体を包む。
男の目が、わずかに細くなった。
「……ほう」
その声に、少しだけ興味が混じった。
「随分と綺麗な『纏』だな」
俺は静かに構えた。
「木箱から離れろ」
「……何?」
「人質を巻き込むな」
男は一瞬、俺を見つめた。
そして、笑った。
「……ああ。なるほど」
彼はゆっくりと両手を広げた。
「お前、あの荷物を助けに来たのか」
俺は答えなかった。
男は肩を竦める。
「……仕事熱心だな、ハンターってのは」
その言葉が終わるより早く。
男が踏み込んだ。
◇
速い。
だが、見えないほどではない。
男は右足を踏み込み、身体を低くした。
次いで、左手をこちらへ伸ばす。
俺は半歩退いた。
その瞬間。
男の指先が、わずかに伸びたように見えた。
……ん?
いや。
指が伸びたわけではない。
指先から、細い何かが飛び出していた。
オーラだ。
糸のように細い、半透明の線。
それが、俺の肩へ向かって伸びてくる。
俺は身体を捻った。
線が上着の表面を掠める。
布地が、小さく裂けた。
……なるほど。
切断力を持つオーラか。
男は口元を歪めた。
「……避けるか」
俺は距離を取った。
その間に、男の右手からも細い線が伸びる。
両手の指先。
合計で数本。
糸状のオーラが、夜気の中で揺れていた。
……変化系か、あるいは放出系を組み合わせているのか。
見た目だけでは断定できない。
だが、切断力があることは分かった。
問題は、その射程と操作性だ。
俺は足元の石片を拾い、男の右側へ投げた。
男は指を動かした。
次の瞬間。
石片が、空中で二つに割れた。
……ふむ。
糸を動かせる。
しかも、かなり鋭い。
だが、男はその動作のために、右手の指をわずかに動かしていた。
完全な自動追尾ではないらしい。
「……試してるのか?」
男が笑った。
「面白いガキだ」
俺は答えなかった。
そして、足元を蹴った。
男の左側へ回り込む。
男はすぐに指を動かした。
糸が横薙ぎに走る。
俺は身体を沈め、その下を抜けた。
続いて、男の懐へ踏み込む。
右拳。
男は腕を上げて防御した。
だが、衝撃を受け止めきれず、後方へ数歩下がる。
「……っ!」
俺は追撃しなかった。
木箱との距離を確認する。
まだ近い。
ここで大きな攻撃を使えば、人質を巻き込む可能性がある。
……もう少し離したいな。
俺は男へ視線を向けた。
「こっちだ」
そう言って、岸壁の奥へ移動する。
男は目を細めた。
「……誘ってるのか?」
「どう思う?」
男は笑った。
「……いいぜ」
そして、追ってきた。
……よし。
俺は速度を上げた。
木箱から距離を取り、広い石畳の上へ出る。
そこなら、多少激しく動いても人質を巻き込む危険は少ない。
男は追いながら、指先の糸を伸ばした。
数本の線が、夜の中を走る。
俺はそれを避けながら、相手の動きを観察した。
……射程は、およそ十メートル前後か。
糸の数は、今のところ六本。
指の動きに合わせて方向を変える。
そして、一定以上離れると、糸は消える。
……なるほど。
厄介ではあるが、対処できない能力ではない。
俺は足を止めた。
男が笑う。
「……諦めたか?」
「いや」
俺は静かに答えた。
「もう十分だ」
男の表情が変わった。
その瞬間。
俺は踏み込んだ。
◇
同じ頃。
岸壁の反対側では、ローデリックが大柄な男と対峙していた。
「……でかいな、お前」
ローデリックが呟く。
相手は、彼よりさらに一回り大きかった。
厚い腕。
丸太のような首。
その身体を包むオーラは、荒々しいが力強い。
強化系の可能性が高い。
「……邪魔するな」
大柄な男が低く唸った。
「荷は運ばせてもらう」
ローデリックは肩を回した。
「悪いな」
そして、拳を握る。
「そいつは無理な相談だ」
男が踏み込んだ。
石畳が、鈍い音を立てる。
次の瞬間。
巨大な拳が、ローデリックへ向かって振り下ろされた。
ローデリックは正面から受け止めた。
衝撃。
空気が震える。
だが、彼の身体はほとんど動かなかった。
「……っ!?」
大柄な男が目を見開く。
ローデリックは口元を歪めた。
「……悪いが、力比べなら俺も得意でな」
彼は相手の腕を掴み、そのまま身体を回転させた。
巨体が宙を舞う。
次の瞬間、石畳へ叩きつけられた。
鈍い音。
男が呻く。
ローデリックは一歩下がり、構え直した。
「……立てるか?」
男は歯を食いしばり、ゆっくりと起き上がった。
その身体から、さらに強いオーラが立ち上る。
ローデリックは目を細めた。
「……なるほど」
そして、少し笑った。
「まだやる気か」
◇
一方、リリアは船の渡し板の近くにいた。
彼女は、積み上げられた木材の陰から、船と岸壁の動きを観察している。
『絶』によってオーラを抑え、呼吸を静かに整える。
船の甲板には、少なくとも四人。
そのうち二人は、積み込み作業をしている。
残る二人は、周囲を警戒していた。
リリアは目を細めた。
……まだ、船に乗せちゃ駄目。
彼女はゆっくりと視線を動かした。
渡し板。
係留索。
船の位置。
そして、荷車。
木箱は四つ。
そのうち一つは、すでに渡し板の手前まで運ばれている。
だが、警察が姿を現したことで、運び手たちは動きを止めていた。
リリアは周囲を確認した。
警官たちは、岸壁の南側から距離を詰めている。
しかし、船の甲板にいる男たちが武器を持っている可能性がある。
無闇に飛び出せば、銃撃戦になるかもしれない。
……どうする。
彼女は考えた。
船を動かさせない。
木箱を傷つけない。
そして、警察が安全に近づける状況を作る。
そのためには。
リリアは、係留索へ視線を向けた。
船は岸壁に繋がれている。
だが、船員が縄を外せば、すぐに動き出すことができる。
……先に、あそこを押さえる。
彼女は静かに移動した。
木材の陰から、壊れた荷車の裏へ。
そこから、係船柱の近くへ。
足音はない。
衣擦れもない。
見張りの視線が、警察のいる南側へ向いた瞬間。
リリアは、次の影へ滑り込んだ。
そして、気づけば係留索のすぐそばにいた。
彼女は縄の状態を確認する。
太い麻縄。
船側で解けば外せる結び方だ。
だが、岸側にも余裕がある。
リリアは腰の小さな道具袋から、細い補助索を取り出した。
それを使い、係留索が簡単には外れないよう、岸側の固定を補強する。
もちろん、船が無理に動けば切れる可能性はある。
だが、少なくとも出航までの時間は稼げる。
作業を終えたリリアは、再び周囲を確認した。
そのとき。
甲板の男が、こちらへ視線を向けた。
リリアは動かなかった。
係船柱の影。
木材の隙間。
そこに身体を収め、呼吸を止める。
男はしばらく周囲を見回した。
だが、何も見つからなかったらしい。
やがて、警察の方へ視線を戻した。
リリアは静かに息を吐いた。
……よし。
その直後。
甲板の奥から、別の男が現れた。
片手に拳銃を持っている。
「……おい! 縄を外せ!」
リリアの表情が引き締まった。
……来た。
男は船員へ怒鳴った。
「警察が来てる! すぐ出すぞ!」
船員が係留索へ手を伸ばす。
だが、縄は簡単には外れない。
「……何だ、これ!?」
男が苛立った声を上げる。
リリアは、その様子を静かに見ていた。
……もう少し。
警察が近づくまで、あとわずか。
そのとき。
拳銃を持った男が、荷車の木箱へ銃口を向けた。
「……近づくな!」
怒鳴り声が響く。
「こいつらがどうなってもいいのか!」
リリアの瞳が、鋭くなった。
……人質を盾にするつもり。
彼女はゆっくりと身体を沈めた。
相手の視線。
拳銃の向き。
指の動き。
そして、足場。
すべてを、一瞬で確認する。
……今。
リリアが動いた。
◇
拳銃を持った男は、警察へ向かって怒鳴り続けていた。
「……下がれ! 下がらねえと撃つぞ!」
警官たちが動きを止める。
その瞬間。
男の視界の端を、何かが横切った。
「……ん?」
男が顔を向ける。
だが、そこには誰もいない。
次の瞬間。
手首に、鋭い衝撃が走った。
「ぐあっ!?」
拳銃が跳ね上がる。
男が反射的に引き金を引いた。
銃声。
弾丸は夜空へ飛んだ。
その直後。
男の身体が、甲板へ倒れ込んだ。
リリアだった。
彼女は渡し板の手前から一気に距離を詰め、男の死角へ回り込んでいた。
手首を打ち、銃口を逸らす。
続いて、足を払う。
男は何が起きたのか理解する間もなく、甲板へ叩きつけられた。
「……なっ!?」
周囲の船員たちが目を見開く。
リリアは男の拳銃を蹴り飛ばし、すぐに距離を取った。
彼女は船の奥へ進まない。
あくまで、渡し板の近く。
岸へ戻れる位置を保っている。
そして、警察へ向かって叫んだ。
「今です!」
その声に、警官たちが動いた。
岸壁の南側から、一斉に距離を詰める。
船員たちは慌てて後退した。
だが、すでに遅い。
渡し板の近くは、リリアが押さえている。
係留索も、すぐには外せない。
船は、簡単には動けなかった。
◇
その頃。
俺は、長い外套の男と対峙していた。
相手の能力は、ある程度分かった。
指先から伸びる糸状のオーラ。
切断力。
十メートル前後の射程。
そして、指の動きに連動する操作。
厄介な能力ではある。
だが、相手の身体能力そのものは、俺を大きく上回るほどではない。
むしろ、近接戦闘ならこちらに分がある。
男は、俺の正面で指を広げた。
「……何を企んでる?」
俺は答えなかった。
そして、一歩踏み込んだ。
男の指が動く。
糸が走る。
俺はその軌道を見切り、身体を沈めた。
続いて、男の右側へ回り込む。
男はすぐに糸を引き戻そうとした。
だが、その瞬間。
俺はさらに一歩、踏み込んだ。
……遅い。
右拳が、男の腹部へ入る。
「ぐっ!?」
男の身体が折れた。
続けて、左手で襟を掴む。
そのまま、身体を回転させる。
男は石畳へ叩きつけられた。
鈍い音。
だが、男はすぐに起き上がろうとした。
俺はその動きを見て、足を止めた。
……まだやるか。
男の身体から、オーラが立ち上る。
そして、指先の糸が再び伸びた。
だが。
その瞬間。
俺は男の懐へ踏み込んだ。
右手首を掴む。
左手首も押さえる。
そして、膝で相手の重心を崩した。
「……っ!」
男は抵抗しようとした。
だが、俺はその動きを許さなかった。
身体を捻り、腕を背中へ回す。
男の胸が石畳へ押しつけられる。
「……ぐあっ!」
俺は低い声で言った。
「終わりだ」
男は歯を食いしばった。
だが、もう動けない。
俺は通信機へ手を伸ばした。
「こちらアオ。念能力者一名を制圧。拘束班をお願いします」
『了解! すぐ向かう!』
俺は男を押さえたまま、周囲を確認した。
ローデリックの方でも、大柄な男が倒れている。
どうやら、あちらも決着がついたらしい。
そして、船の方。
銃声が聞こえた。
俺の表情が変わった。
……リリア。
だが、すぐに彼女の声が響いた。
「今です!」
続いて、警官たちが船へ向かって動く。
俺は静かに息を吐いた。
……無事か。
それだけ確認できれば、十分だった。
俺は拘束班へ男を引き渡し、船へ向かった。
◇
岸壁では、警察が船員たちを次々に拘束していた。
リリアは渡し板の近くに立っている。
その足元には、拳銃を持っていた男が倒れていた。
警官がその男を拘束し、武器を回収する。
俺はリリアへ近づいた。
「大丈夫か?」
彼女は振り返った。
「うん。平気」
俺は彼女の身体を確認した。
目立った傷はない。
呼吸も乱れていない。
「銃声がした」
「銃口を逸らしたときに、撃たれたの。でも、誰にも当たってない」
「そうか」
俺は頷いた。
「よくやった」
リリアは少し笑った。
「アオもね」
俺たちは、短く視線を交わした。
それだけで、十分だった。
だが、まだ終わっていない。
俺は荷車へ視線を向けた。
四つの木箱。
そのうち一つは、渡し板の手前に置かれている。
残る三つは、荷車の上。
どれも、まだ開けられていない。
ヴァレンが駆け寄ってきた。
「アオ! リリア!」
「警部補」
「船員たちは確保した。船内も捜索中だ」
俺は頷いた。
「木箱を開けましょう」
「ああ」
ヴァレンは警官たちへ指示を出した。
「医療班を呼べ! 箱の中に人がいる可能性が高い! 慎重に開けろ!」
警官たちが動き始める。
俺は、B-317の前へ立った。
白い布。
黒い文字。
あの番号。
エドガーが不審に思い、調べようとした貨物。
その中に、何があるのか。
俺は静かに息を吐いた。
……ようやく、ここまで来た。
警官が工具を使い、木箱の留め具を外していく。
金属の軋む音。
木材の擦れる音。
そして。
蓋が、ゆっくりと持ち上げられた。
中は暗かった。
だが、すぐに小さな影が見えた。
……人だ。
俺は目を細めた。
木箱の中には、若い女性がいた。
手首を縛られ、口には布が当てられている。
身体を小さく丸め、怯えた目でこちらを見上げていた。
リリアがすぐにしゃがみ込んだ。
「大丈夫」
彼女は穏やかな声で言った。
「助けに来たよ」
女性の目が、大きく見開かれた。
リリアは続けた。
「もう、怖い人たちはいないから」
その声は、静かだった。
だが、確かな温かさがあった。
女性の目から、涙がこぼれ落ちる。
俺は胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。
……間に合った。
少なくとも、この人には。
俺は残る木箱へ視線を向けた。
「全部、開けましょう」
ヴァレンが頷いた。
「ああ」
警官たちが、次々に木箱を開けていく。
二つ目。
中には、十歳前後の少年。
三つ目。
若い男性。
四つ目。
少女が二人、身を寄せ合っていた。
全員、生きていた。
俺は静かに息を吐いた。
……よかった。
だが、安心するにはまだ早い。
彼らは長時間、狭い木箱の中に閉じ込められていた。
脱水や衰弱の危険がある。
医療班が到着するまで、慎重に対応する必要があった。
俺はリリアへ視線を向けた。
「手伝おう」
「うん」
俺たちは、救助活動へ加わった。
◇
救出された人々は、順番に毛布で包まれ、医療班へ引き渡された。
リリアは子供たちのそばに付き、落ち着いた声で話しかけていた。
俺は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
彼女の斥候としての技術は、確かに一流だ。
だが、それだけではない。
怯えた子供の目線に合わせ、急かさず、必要な距離を保つ。
そういう細やかな気遣いも、リリアらしい。
俺は小さく息を吐いた。
……助けられて、よかった。
そのとき。
ローデリックが隣へ来た。
「……終わったな」
「ひとまずは」
俺は答えた。
彼は岸壁を見渡した。
拘束された男たち。
警察の船。
救助された人々。
そして、黒い船。
「……だが、事件そのものは終わってねえ」
「ああ」
俺は頷いた。
「ダリオ・ゼッカートが残っています」
ローデリックは表情を険しくした。
「それだけじゃない」
俺は彼を見た。
「……どういうことです?」
彼は黒い船を指差した。
「船の紋章だ」
白い獣の牙。
その印が、月明かりの下に浮かんでいる。
「……あれを使う連中は、ただの運び屋じゃない」
ローデリックは声を落とした。
「裏社会でも、かなり深いところと繋がっている」
俺は静かに頷いた。
……やはりな。
ダリオは、あくまで一つの窓口に過ぎないのかもしれない。
人間を集める者。
運ぶ者。
買う者。
そして、それらを繋ぐ組織。
その全体像は、まだ見えていない。
俺は黒い船を見つめた。
……どこまで続いているんだ、この事件は。
そのとき。
船内を捜索していた警官が、ヴァレンへ駆け寄ってきた。
「警部補!」
「どうした?」
「船長室から、書類が見つかりました!」
ヴァレンが眉を寄せる。
「どんな書類だ?」
「……それが」
警官は一瞬、言葉を詰まらせた。
そして、声を落とした。
「……人の名前が書かれた一覧です」
俺の表情が変わった。
……名簿か。
警官は続けた。
「年齢、性別、出身地……それに、金額らしき数字まで」
ローデリックが低く舌打ちした。
「……やっぱりか」
俺は拳を握った。
人間を、商品として扱う。
その証拠が、ついに見つかった。
ヴァレンは書類を受け取り、目を通した。
そして、表情を険しくした。
「……これは」
俺は彼を見た。
「何か?」
ヴァレンは顔を上げた。
「……この名簿、今夜の四つの木箱だけじゃない」
俺は目を細めた。
「……他にも?」
「ああ」
ヴァレンは頷いた。
「……もっと多い」
その言葉に、夜風が冷たく感じられた。
俺は、リリアへ視線を向けた。
彼女も、こちらを見ていた。
互いに、何も言わなかった。
だが、考えていることは同じだった。
……まだ、助けを待っている人間がいる。
そして。
この事件は、まだ終わっていない。
◇
同じ頃。
街の中心部から少し離れた、高級住宅街。
その一角にある屋敷で、一人の男が窓辺に立っていた。
ダリオ・ゼッカート。
四十六歳。
かつて運送会社を経営し、今は裏社会で人と物を動かす仕事に関わっている男だ。
彼は、手にした酒杯を静かに傾けた。
その背後で、部下が膝をついている。
「……報告があります」
ダリオは振り返らなかった。
「何だ?」
「……運河の便が、警察に押さえられました」
酒杯を持つ手が、わずかに止まった。
「……何?」
「船も、貨物も……すべて」
ダリオはゆっくりと振り返った。
その顔から、表情が消えていた。
「……誰がやった?」
「警察です。それと……ハンターが数名」
ダリオは目を細めた。
「……ハンター?」
「はい。若い男と女、それから中年の男がいたそうです」
ダリオはしばらく黙っていた。
そして、低く呟いた。
「……なるほど」
彼は酒杯を机へ置いた。
「……余計なことをしてくれたな」
部下は何も答えなかった。
ダリオは窓の外へ視線を向けた。
街の灯りが、遠くに広がっている。
「……上には、どう報告する?」
部下が尋ねた。
ダリオは少し考えた。
そして、冷たく笑った。
「……ありのままを伝えろ」
「……よろしいのですか?」
「ああ」
彼は頷いた。
「……ただし、付け加えておけ」
部下が顔を上げる。
ダリオは低い声で言った。
「……邪魔をしたハンターがいる、とな」
その言葉とともに、屋敷の空気が冷たく沈んだ。
そして、遠く離れたどこかで。
新たな歯車が、静かに動き始めようとしていた。