流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
夜明け前の運河は、まだ昨夜の騒ぎを引きずっていた。
第三荷揚げ場には警察の車両が並び、濡れた石畳を制服姿の男たちが行き交っている。係船柱に繋がれた黒い貨物船は、船体の白い牙の紋章を朝靄の中に浮かび上がらせていた。
船上には警官が配置され、甲板へ続く渡し板には立入禁止の札が掛けられている。
つい数時間前まで、この船は人間を貨物として運ぼうとしていた。
四つの木箱から救出された五人は、すでに医療機関へ搬送されている。幸い、全員が生きていた。衰弱や脱水、長期間の監禁による精神的な負担は深刻だったが、医師の話では、適切な治療を受ければ身体的な回復は見込めるという。
それを聞いたときは、俺も胸を撫で下ろした。
だが、安心できたのはそこまでだった。
「……思っていた以上に根が深いな」
俺は机の上に広げられた帳簿を見下ろしながら、そう呟いた。
場所は警察署の会議室。
向かいにはヴァレン・クロフト警部補。隣にはリリア、その反対側にはブラックリストハンターのローデリック・フェインが座っている。
壁際ではグレゴール・マティスが、部下の持ち込んだ報告書を確認していた。
昨夜押収した書類は、単なる貨物記録ではなかった。
人名、年齢、出身地、身体的特徴、引き渡し予定日。
それらに加えて、金額らしい数字まで記されている。
中には十歳にも満たない子供の名前があった。
俺はその欄から目を離した。
怒りが湧かないわけではない。
むしろ、胸の奥には冷たいものが沈んでいる。
ただ、ここで感情を露わにしたところで、帳簿に記された人間が救われるわけではなかった。
必要なのは情報だ。
連中が誰を、どこから、どこへ運んでいるのか。
そして、まだ生きている被害者がどこにいるのか。
「現在確認できた名前は四十三人だ」
ヴァレンが言った。
「ただし、これが四十三人の被害者を意味するとは限らない。同じ人物が複数回記載されている可能性もあるし、偽名や符丁が混じっている可能性もある」
「それでも、昨夜の五人だけでは説明がつきませんね」
「ああ」
彼は疲れた顔で頷いた。
「過去半年の輸送記録と照合しているが、かなり広い範囲で動いていたらしい。港、倉庫、陸路の中継地点……少なくとも一つの街で完結する規模じゃない」
ローデリックが太い指で机を叩いた。
「ダリオ・ゼッカートだけで回せる仕事じゃねえな」
「同感です」
俺は頷いた。
ダリオは重要人物だ。
だが、組織の頂点とは考えにくい。
昨夜、船から降りてきた灰色の背広の男は、ダリオの失態に苛立っていた。あの態度は、対等な取引相手に対するものというより、仕事をしくじった下請けを責めるようなものだった。
つまり、ダリオの背後には別の指揮系統がある。
「船員たちの供述は?」
俺が尋ねると、グレゴールが顔を上げた。
「揃って口を閉ざしている。特に船長は頑固だな。貨物の中身については何も知らなかったと言い張っている」
「木箱の中に人がいると確認していた男もいましたが」
「そこを突いても、黙秘するだけだ」
ローデリックが鼻を鳴らした。
「口を割った後の方が怖いんだろうよ」
その言葉に、会議室の空気が少し重くなった。
裏社会の人間にとって、警察に捕まることと、組織を裏切ることは別の問題だ。
前者なら刑期を終えれば外へ出られる。
後者は、本人だけでなく家族まで狙われる場合がある。
そうした恐怖を植えつけられていれば、どれだけ追及しても簡単には口を開かないだろう。
リリアが、机の上に置かれた一枚の航路図へ手を伸ばした。
「アオ、これを見て」
「ん?」
「この印。ほかの書類にもあるの」
彼女が指差したのは、航路図の端に記された小さな記号だった。
三本の斜線を重ねたような印。
黒い船に描かれていた白い牙の紋章とは異なる。
「同じ印が、こっちの帳簿にもある」
リリアは別の書類を開いた。
確かに、いくつかの名前の横に同じ記号が付けられていた。
俺は身を乗り出した。
「……全部じゃないな」
「うん。特定の記録にだけ付いてる」
「分類記号か?」
「そうかもしれない。でも、何を分類しているのかは分からない」
俺は記号の付いた項目を確認した。
年齢も性別もばらばらだ。
出身地にも共通点は見当たらない。
金額にも一定の法則がない。
少なくとも、単純な商品区分ではなさそうだった。
「この印がある記録だけ抜き出してもらえますか」
俺が言うと、ヴァレンは頷いた。
「分かった。担当に照合させよう」
リリアはもう一度航路図へ目を落とした。
その琥珀色の瞳は、細かな書き込みを一つずつ追っている。
俺はその横顔を見ながら、思考を巡らせた。
昨夜の救出は成功した。
しかし、連中にとっては大きな損失だったはずだ。
船一隻。
貨物。
人員。
帳簿。
それらを一度に失った。
裏社会の組織が、このまま何もしないとは思えない。
特に、帳簿が警察の手に渡ったことは致命的だ。
俺たちが次に警戒すべきなのは、逃げたダリオだけではない。
証拠の奪還。
証人の口封じ。
そして、捜査に関わった人間への報復。
その三つだった。
◇
午前十時を過ぎた頃、俺たちは救出された被害者の一人と面会することになった。
名前はエレナ・モーリス。
二十二歳の女性で、隣町の飲食店に勤めていたという。
仕事を終えて帰宅する途中、背後から襲われた。
目を覚ましたときには見知らぬ建物の中にいて、手足を縛られていたらしい。
本人が話をしたいと申し出たため、医師の許可を得て短時間だけ聞き取りを行うことになった。
面会室へ入ると、エレナは窓際の椅子に座っていた。
肩には毛布。
顔色はまだ青白く、指先には細かな震えが残っている。
それでも、昨夜よりは落ち着いているようだった。
「……昨日、助けてくれた方ですよね」
俺を見るなり、彼女はそう言った。
「ええ。アオです」
「私はリリア。体調はどう?」
リリアが尋ねると、エレナは小さく頷いた。
「まだ、あまり眠れなくて……でも、身体は少し楽になりました」
「無理に話さなくても大丈夫だからね」
「……いえ。話したいんです」
エレナは毛布の端を握りしめた。
その指に力が入る。
「私たち以外にも、いたんです」
俺は椅子へ腰を下ろした。
「ほかの被害者ですか?」
「はい」
彼女は頷いた。
「倉庫にいたとき、隣の部屋から声が聞こえました。男の人も、女の人も……子供の声も」
俺は黙って耳を傾けた。
「私たちが箱に入れられる前に、別の人たちが連れていかれたんです」
「いつ頃ですか?」
「……二日前、だと思います」
二日前。
俺はその日付を頭の中で確認した。
今回の船とは別の輸送があった可能性がある。
「何か、行き先について話していませんでしたか?」
エレナは少し考えた。
「……北の中継所、って」
俺は顔を上げた。
「北の中継所?」
「はい。男の人が、そう言っていたんです」
「ほかには?」
「『次の便まで置いておく』って……」
リリアが静かに息を吸った。
俺も同じことを考えていた。
まだ、どこかに監禁されている人間がいる。
それも、輸送の順番を待たされている可能性がある。
「ありがとうございます」
俺は言った。
「大切な情報です」
エレナは不安そうに顔を上げた。
「……あの人たちも、助かりますか?」
簡単に答えられる問いではなかった。
場所も分からない。
人数も分からない。
すでに別の場所へ運ばれている可能性もある。
だから、安易な約束はできない。
「必ず助けられるとは、今は言えません」
俺は正直に答えた。
「でも、探します。見つけるために、できることは全部やります」
エレナはしばらく俺を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……お願いします」
リリアが、彼女の手へそっと触れた。
「教えてくれて、ありがとう」
エレナの目から、静かに涙がこぼれた。
俺たちはそれ以上、無理に話を聞かなかった。
◇
異変が起きたのは、それから一時間ほど後だった。
警察署の廊下を歩いていると、グレゴールが慌ただしい足取りで近づいてきた。
「アオ君、リリア君。少しいいか」
「何かありましたか?」
「昨夜逮捕した男の一人が、妙な供述を始めた」
グレゴールは周囲を見回し、声を落とした。
「今朝までは黙秘していた。ところが突然、自分たちだけで貨物を運んだと言い出したんだ」
「ダリオの関与を否定したんですか?」
「そうだ。船員たちも中身を知らなかった、と」
俺は眉を寄せた。
あまりにも都合がよすぎる。
「誰かと接触しましたか?」
「記録上はない。面会も許可していない」
「留置場の職員は?」
「交代勤務の看守が数人。食事の配膳も通常どおりだ」
俺は少し考えた。
普通の犯罪事件なら、単に供述を変えただけかもしれない。
だが、相手は裏社会の組織だ。
念能力者を使っていることも、すでに確認している。
「その男に会えますか?」
「ああ。来てくれ」
グレゴールは頷いた。
俺とリリアは、その後に続いた。
留置場は警察署の地下にあった。
石造りの廊下には消毒液の匂いが漂い、鉄格子の向こうには薄暗い房が並んでいる。
問題の男は、奥の房に座っていた。
三十代ほど。
痩せた顔に無精髭。
昨夜、岸壁で捕まった船員の一人だった。
俺たちが近づくと、男はゆっくり顔を上げた。
「……何だよ」
グレゴールが尋ねた。
「今朝の供述について、もう一度確認したい」
「何度聞かれても同じだ」
男は吐き捨てるように言った。
「俺たちは普通の荷物だと思って運んだ。中に人がいるなんて知らなかった」
「昨夜、木箱から声が聞こえていたはずだが?」
「聞こえなかった」
「ダリオ・ゼッカートについては?」
「知らねえ」
男の答えは妙に滑らかだった。
質問される前から、用意された文章を繰り返しているように聞こえる。
俺は『凝』を使った。
男の身体を覆うオーラを観察する。
念能力者ではない。
少なくとも、自分の意思でオーラを扱っている様子はなかった。
だが。
……ん?
首筋の辺りに、ごく微かな違和感があった。
薄いオーラが、皮膚の一点へまとわりついている。
まるで、何かが貼り付いているような状態だ。
俺は目を細めた。
男の首筋には、小さな赤い点があった。
針で刺したような痕。
……これは。
「昨夜から今朝にかけて、誰かに触られましたか?」
俺が尋ねると、男は顔をしかめた。
「……知らねえよ」
「首筋に傷があります。いつできたものです?」
「傷?」
男が首へ手を伸ばそうとした。
その瞬間だった。
「……ぐっ!」
男の表情が歪んだ。
喉の奥から、苦しげな声が漏れる。
「……あ、ああっ……!」
身体が大きく痙攣した。
俺は即座に動いた。
「房を開けてください!」
グレゴールが叫ぶ。
「鍵だ! 早く!」
看守が鍵を回す。
鉄格子が開くと同時に、俺は男へ駆け寄った。
男は床へ倒れ、喉を掻きむしるように手を動かしていた。
首筋のオーラが、急激に濃くなっている。
……発動したのか。
何らかの条件で、仕込まれた念が作動したらしい。
俺は男の肩を押さえた。
呼吸が乱れている。
顔色も急速に悪くなっていた。
このまま放置すれば、命に関わる可能性が高い。
俺は一瞬だけ考えた。
回復能力を使うか。
昨夜、エドガー・リースの治療に一回使っている。
その後、まとまった睡眠は取っていない。
残り二回。
ここで使えば、残り一回になる。
だが、迷う理由はなかった。
この男は犯罪に加担していた。
それでも、目の前で死なせていいことにはならない。
俺は男の首筋へ手を当てた。
意識を集中させる。
身体全体。
傷。
異常。
そして、外部から干渉している念。
それらをまとめて取り除く。
……消えろ。
次の瞬間、手のひらの下で何かがほどける感覚があった。
男の身体が大きく震える。
そして、痙攣が止まった。
「……はっ、はあっ……!」
荒い呼吸。
首筋にまとわりついていたオーラは、完全に消えている。
俺は静かに息を吐いた。
……間に合った。
グレゴールが駆け寄ってきた。
「何が起きた!?」
「念能力です」
俺は答えた。
「何者かが、この男に念を仕込んでいました」
「……念?」
「ええ。おそらく、供述を操作するか、口封じをするためのものです」
グレゴールの顔色が変わった。
男はまだ呆然としている。
だが、命に別状はなさそうだった。
「医師を呼んでください。それと、ほかの拘束者にも同じ痕がないか確認を」
「分かった!」
グレゴールが看守へ指示する。
俺は男から手を離した。
……厄介なことになった。
敵は、すでに警察署の内部へ干渉している。
しかも、念能力を使って。
これは単なる証拠隠滅ではない。
組織的な反撃が始まっている。
◇
昼過ぎ。
俺たちは警察署の裏手を調べていた。
留置場へ出入りした人間の記録は、すでにグレゴールが確認を進めている。
だが、念能力者が相手なら、通常の出入口だけを警戒しても不十分だ。
遠隔操作。
媒介を使った能力。
特定の条件で発動する念。
そうした可能性も考える必要がある。
俺は建物の外壁を見上げた。
古い石造りの壁。
鉄格子の付いた窓。
そして、細い通気口。
リリアはその周囲を、丁寧に調べていた。
足跡。
壁の擦れ。
地面に落ちた小さな破片。
彼女はそうした痕跡を一つずつ確認している。
俺はその様子を少し離れた場所から見守った。
こういう調査では、彼女の観察力が頼りになる。
俺は念の痕跡を探せる。
だが、念が使われた場所を特定するには、物理的な痕跡も重要だ。
しばらくして、リリアが足を止めた。
「……アオ」
「何かあったか?」
「ここ」
彼女が示したのは、裏手の狭い路地だった。
地面には、昨夜の雨でできた薄い泥が残っている。
その上に、靴跡があった。
「警官のものじゃないのか?」
「たぶん違う。靴底の模様が、ほかの足跡と合わない」
俺はしゃがみ込んだ。
確かに、細い靴跡が残っている。
しかも、足の向きが不自然だった。
建物へ向かって歩き、同じ場所でしばらく立ち止まったような形跡がある。
「いつ頃のものだ?」
「正確には分からない。でも、雨が止んだあとについた跡だと思う」
俺は周囲を見回した。
通気口。
壁。
そして、留置場へ続く地下の窓。
……なるほど。
ここなら、建物の内部へ何かを送り込める可能性がある。
リリアが壁を指差した。
「それと、ここ」
金属製の格子の端に、小さな擦り傷があった。
俺は『凝』を使う。
……あるな。
非常に薄いが、オーラの残滓が見えた。
俺は表情を引き締めた。
「念の痕跡がある」
リリアが顔を上げた。
「やっぱり?」
「ああ。ただ、ここから直接能力を使ったのか、何かを仕込んだのかまでは分からない」
俺は通気口へ目を向けた。
誰かが、この場所へ来た。
そして、念を使った可能性が高い。
それだけでも重要な情報だ。
「警察へ報告しよう」
「うん」
リリアは頷いた。
だが、その直後。
彼女の視線が、ふと別の方向へ向いた。
向かいの建物。
三階の窓。
俺は彼女の変化に気づいた。
「……どうした?」
リリアは声を落とした。
「誰か、見てた」
俺は視線を動かさずに尋ねた。
「どこだ?」
「向かいの三階。右から二つ目の窓」
俺は気配を探った。
距離はそれほど遠くない。
だが、窓の奥にいた人物は、すでに身を引いたらしい。
……監視か。
リリアが小さく言った。
「追えると思う」
「無理はするな。相手が念能力者なら、こちらを誘っている可能性もある」
「分かってる」
彼女は頷いた。
そして、自然な足取りで路地の出口へ向かった。
俺も少し遅れて歩き出した。
相手が何者なのか。
まずは、それを確かめる必要がある。
◇
監視者は、灰色の帽子を被った男だった。
三十代半ばほど。
痩せた身体。
地味な外套。
どこにでもいそうな風貌だ。
だが、歩き方には特徴があった。
周囲の窓や金属製の看板を、さりげなく確認している。
反射を利用して背後を見ているのだろう。
尾行への警戒を怠っていない。
俺たちは距離を保ち、男の後を追った。
リリアは相手の視線の動きを読み、こちらが直接視界へ入らない位置を選んでいる。
俺も『円』は使わなかった。
念能力者が相手なら、こちらのオーラを察知する可能性がある。
今は、余計な情報を与える必要がない。
男は商店街を抜け、路面電車へ乗り込んだ。
俺たちも別の扉から乗車する。
車内には買い物客や仕事帰りの人々がいた。
男は窓際へ座り、新聞を広げた。
俺たちは少し離れた位置に立った。
リリアは窓の反射を使い、男の様子を確認している。
俺は周囲の乗客へ目を向けた。
……ほかにもいるか?
監視役が一人とは限らない。
だが、今のところ不審な気配はなかった。
路面電車は街の北西部へ向かって走り続けた。
やがて、男が降りた。
俺たちも少し遅れて下車する。
そこは古い工場と倉庫が混在する地区だった。
昼間でも人通りが少なく、建物の間には細い路地が入り組んでいる。
男は何度か角を曲がり、最後に一軒の古い建物へ入っていった。
灰色の外壁。
看板のない入口。
厚いカーテンで覆われた窓。
一見すると、使われていない倉庫のようだった。
だが、地面には新しい足跡がある。
扉の蝶番も、最近手入れされたように見えた。
「……ここ、使われてるね」
リリアが小さく言った。
「ああ」
俺は頷いた。
俺たちは建物から距離を取り、周囲を確認した。
リリアは裏手へ回る。
俺は正面側に残り、内部の気配を探った。
少なくとも数人。
念能力者がいるかどうかは、まだ分からない。
俺は壁際へ移動した。
古い窓の隙間から、男たちの声が聞こえる。
「……警察署の件は?」
「失敗した」
「何だと?」
「仕込んだ念が消えた。証人は生きている」
俺は目を細めた。
……やはり。
留置場の男に仕込まれていた念。
それは、ここの連中の仕業だったらしい。
別の男が苛立った声を上げた。
「除念師がいたってことか?」
「分からん。だが、普通のハンターじゃない」
「……ダリオは?」
「姿を消した。上からの連絡にも応じていない」
少しの沈黙。
そして、低い声が響いた。
「……使者が来る」
「使者?」
「ああ。上が直接動くそうだ」
俺は耳を澄ませた。
上。
やはり、ダリオの背後には別の組織がある。
男の一人が、緊張した声で尋ねた。
「……誰が来る?」
返答までに、少し間があった。
「……陰獣だ」
俺は目を細めた。
陰獣。
その言葉には、聞き覚えがある。
原作の知識を持つ俺にとって、決して無視できない名前だった。
マフィアの頂点に位置する十老頭。
その直属の戦闘集団。
念能力者の中でも、裏社会の実戦を生き抜いてきた連中だ。
ただし、今は1989年。
俺が知る原作本編より、十年ほど前の時代だ。
当時の構成員まで同じとは限らない。
むしろ、別の人間が所属していても不思議ではなかった。
建物の中では、会話が続いていた。
「……誰だ?」
「『黒鴉』だ」
その名前が出た途端、室内が静かになった。
「……あの黒鴉が?」
「ああ」
「……そこまでの事態なのか」
俺はその反応を記憶した。
黒鴉。
少なくとも、ここにいる連中にとっては恐ろしい存在らしい。
別の男が低い声で言った。
「警察が帳簿を押さえた。しかも、念を消せるハンターまでいる。上が黙っているわけがない」
「……で、俺たちは?」
「余計なことをするな。黒鴉が来るまで、監視を続けろ」
俺は静かに息を吐いた。
……なるほど。
敵は、こちらを警戒し始めている。
しかも、陰獣を動かすほどに。
これは少し厄介だ。
だが、恐れる理由にはならない。
陰獣がどれほどの実力者なのかは、実際に会ってみなければ分からない。
原作の知識だけで判断するつもりはなかった。
俺は壁から離れた。
そろそろ、リリアと合流するべきだろう。
◇
リリアが戻ってきたのは、それから数分後だった。
彼女は建物の裏手から現れ、俺の隣へしゃがみ込んだ。
「裏口が二つ。屋上に見張りが一人。二階にも人がいる」
「念能力者は?」
「分からない。でも、屋上の人はかなり慣れてると思う」
俺は頷いた。
「こっちでも話が聞けた」
「何て?」
「警察署の件は、ここの連中が関わっているらしい。それと、上から使者が来るそうだ」
リリアの表情が引き締まった。
「使者?」
「ああ。陰獣だ」
彼女は少し目を見開いた。
「……陰獣?」
「知ってるか?」
「名前だけ。マフィアの中でも、特別な念能力者たちなんでしょう?」
「そう聞いてる」
俺は頷いた。
リリアは少し考えた。
「誰が来るの?」
「黒鴉、という奴らしい」
「……黒鴉」
彼女はその名前を繰り返した。
俺は建物へ目を向けた。
「今ここで踏み込んでも、連中の上には辿り着けないかもしれない」
「うん」
「それに、ここが単なる連絡所なら、重要な証拠は置いてない可能性が高い」
「だったら、監視を続ける?」
「警察に任せよう。俺たちは一度戻る」
リリアは頷いた。
俺たちは建物から距離を取り、来た道を戻り始めた。
そのときだった。
「……待ちな」
背後から、低い声が聞こえた。
俺は足を止めた。
リリアも静かに振り返る。
路地の入口に、一人の男が立っていた。
黒い帽子。
灰色の外套。
年齢は四十代ほど。
頬には浅い傷があり、口元には薄い笑みが浮かんでいる。
だが、その目は笑っていなかった。
俺は男を観察した。
……念能力者か。
オーラの流れが、普通ではない。
しかも、かなり意識的に抑えている。
男はゆっくりと口を開いた。
「……随分と熱心に嗅ぎ回ってるじゃねえか」
俺は答えなかった。
男は肩を竦めた。
「安心しろ。今すぐ殺すつもりはねえ」
リリアがわずかに身体を低くした。
俺は静かに尋ねた。
「誰だ?」
男は笑った。
「……ただの伝言係さ」
「伝言?」
「ああ」
男は帽子のつばを指で押し上げた。
「これ以上、首を突っ込むな」
俺は男を見つめた。
「誰からの伝言だ?」
男は答えなかった。
代わりに、右手をゆっくりと上げる。
その指先には、小さな黒い羽根が挟まれていた。
俺は目を細めた。
……羽根?
男はそれを、指先で弄んだ。
「……次は、警告じゃ済まねえぞ」
その瞬間。
羽根から、微かなオーラが立ち上った。
俺は静かに息を吐いた。
……なるほど。
どうやら、ただの伝言係ではないらしい。
リリアが俺の隣で小さく呟いた。
「……アオ」
「ああ」
俺は男の指先を見た。
黒い羽根。
そして、先ほど聞いた名前。
黒鴉。
偶然とは考えにくい。
だが、目の前の男が本人なのか、それとも配下なのかは分からない。
男は笑みを深めた。
「……どうした? 怖くなったか?」
俺は首を横に振った。
「いや」
「……ほう?」
「一つ聞きたい」
男は眉を上げた。
「何だ?」
「お前、黒鴉の関係者か?」
その瞬間。
男の笑みが、わずかに変わった。
「……へえ」
彼はゆっくりと羽根を持ち上げた。
「どこでその名前を聞いた?」
「さあな」
俺は答えた。
男は数秒ほど俺を見つめていた。
そして、低く笑った。
「……なるほど。思っていたより耳がいいらしい」
俺は男のオーラを観察した。
羽根に込められた念は、決して弱くない。
だが、俺自身を圧倒するほどではなかった。
問題は、能力の性質だ。
操作系か。
あるいは、具現化系や放出系を組み合わせたものか。
羽根を媒介にしているなら、何らかの条件があるはずだ。
俺は半歩、位置を変えた。
リリアを背後へ隠すためではない。
彼女が自由に動ける空間を確保するためだ。
リリアも、その意図を理解したらしい。
俺とは別の角度へ、静かに足を運んだ。
男はその動きを見て、目を細めた。
「……二人とも、素人じゃねえな」
俺は答えなかった。
男は黒い羽根を指先で弾いた。
羽根が、ゆっくりと宙へ浮かぶ。
風に流されているように見える。
だが、違う。
羽根は空気の流れに逆らい、一定の高さを保っていた。
……操作しているのか。
俺は『凝』を維持した。
羽根から伸びる、ごく細いオーラ。
それが男の指先と繋がっているように見える。
男は静かに言った。
「……最後の忠告だ」
俺は男を見た。
「聞こう」
「この事件から手を引け。そうすりゃ、少なくとも今は見逃してやる」
俺は少し考えた。
そして、尋ねた。
「断ったら?」
男は笑った。
「……後悔することになる」
俺は静かに息を吐いた。
……そうか。
なら、答えは決まっている。
「断る」
男の笑みが消えた。
「……何?」
「まだ助けを待っている人間がいる」
俺は続けた。
「そいつらを放っておくつもりはない」
男はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと首を傾けた。
「……正義の味方か?」
「違う」
俺は即答した。
「俺がそうしたいだけだ」
男の目が細くなった。
その瞬間、羽根の周囲のオーラが濃くなる。
……来るか。
俺は静かに構えた。
普段なら、相手が動き出すまで待つ必要はない。
この距離なら、踏み込んで制圧することもできる。
だが、今回は事情が違った。
相手の能力が分からない。
しかも、背後には人通りのある通りがある。
不用意に動けば、第三者を巻き込む可能性があった。
俺は男の指先を見た。
黒い羽根が、わずかに震えている。
……なるほど。
念の媒介として使っているのは間違いなさそうだ。
男は低く呟いた。
「……なら、仕方ねえな」
そして。
黒い羽根が、俺たちへ向かって飛んだ。
◇
羽根は、見た目に反して速かった。
風に舞うような軌道から、突然鋭く加速する。
俺は身体をわずかに傾けた。
羽根が肩の横を通り過ぎる。
そのまま背後の壁へ突き刺さった。
石材の表面に、小さな亀裂が走る。
……なるほど。
ただの目印ではない。
攻撃にも使えるらしい。
男は笑った。
「……避けるか」
俺は壁へ目を向けた。
羽根は深く刺さっている。
オーラで強化されているのだろう。
だが、それだけなら対処は難しくない。
問題は、刺さった羽根がその後どうなるかだ。
俺は男へ視線を戻した。
「……リリア」
「うん」
「羽根には触るな」
「分かってる」
彼女は短く答えた。
男が眉を上げた。
「……へえ。気づいたか?」
俺は答えなかった。
男の右手には、すでに別の羽根が現れている。
一本。
二本。
三本。
黒い羽根が、指の間に挟まれていた。
……複数使えるのか。
俺は静かに息を吐いた。
相手の能力を見極める必要がある。
だが、長引かせるつもりもない。
俺は足元の小石へ視線を落とした。
拳ほどの大きさもない、ありふれた石だ。
……十分だな。
俺はそれを拾い上げた。
男が怪訝そうな顔をした。
「……何だ?」
俺は答えず、石へ『周』を施した。
オーラが表面を覆う。
握った指先に、硬い感触が伝わる。
相手との距離は十数メートル。
この程度なら、俺の身体能力だけでも十分な速度を出せる。
まして、念で強化した投擲なら。
男が羽根を放とうとした。
その瞬間。
俺は石を投げた。
乾いた破裂音が、路地に響いた。
男の目が大きく見開かれる。
石は、男の顔のすぐ横を通過した。
そして。
背後の石壁へ激突した。
轟音。
石材が砕け、細かな破片が周囲へ飛び散る。
男の身体が硬直した。
俺は静かに言った。
「……次は外さない」
男は、しばらく動かなかった。
頬を伝う汗。
震える指先。
その表情から、先ほどまでの余裕は消えていた。
……これで分かっただろう。
俺は、相手を殺すつもりで投げたわけではない。
あくまで警告だ。
だが、本気で命を奪うつもりなら、今の一撃だけで勝負が終わっていた可能性は高い。
男はゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
その声には、先ほどまでとは違う緊張があった。
「……確かに、普通のハンターじゃねえ」
俺は男を見た。
「もう一度聞く。誰の指示だ?」
男は答えなかった。
代わりに、口元を歪めた。
「……残念だが、俺も命が惜しいんでね」
その瞬間。
男の足元から、黒い羽根が舞い上がった。
一本ではない。
十本以上。
地面の隙間から、まるで影が剥がれるように現れた。
俺は目を細めた。
……仕込んでいたのか。
男は笑った。
「……俺を捕まえたところで、何も分からねえよ」
羽根が一斉に広がる。
そして、男の姿を覆い隠した。
俺は即座に『凝』を強めた。
オーラの流れを追う。
羽根は単なる煙幕ではない。
視界を遮ると同時に、周囲へ散らばっている。
……逃走用か。
俺は踏み込もうとした。
だが、その瞬間、リリアが声を上げた。
「アオ、待って!」
俺は足を止めた。
リリアが指差したのは、足元だった。
黒い羽根が、石畳の隙間へ落ちている。
その一本が、わずかに動いた。
……なるほど。
追撃を誘っているのか。
俺は一歩下がった。
次の瞬間、羽根が鋭く跳ね上がる。
足元を狙う軌道。
俺はそれを避けた。
男の姿は、すでに路地の奥へ消えていた。
……逃げたか。
俺は周囲を確認した。
追おうと思えば、追跡は可能かもしれない。
だが、相手が残した羽根の能力が分からない。
人通りのある場所へ逃げ込まれれば、第三者を巻き込む危険もある。
それに、リリアがいる。
彼女の能力なら、後から追跡する方法もあるだろう。
俺は無理に追わなかった。
代わりに、壁へ突き刺さった羽根を見た。
……黒鴉。
あの男が本人なのか。
それとも、その配下なのか。
まだ分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
裏社会の連中は、俺たちを明確な障害として認識した。
そして、これからは単なる犯罪者ではなく、念能力者を使って妨害してくる。
俺は静かに息を吐いた。
「……リリア」
「うん」
「怪我は?」
「ないよ」
「よかった」
彼女は少しだけ笑った。
「アオも大丈夫?」
「ああ」
俺は頷いた。
リリアは壁に突き刺さった羽根を見た。
「……あの人、かなり警戒してたね」
「そうだな」
「アオが石を投げたあと、明らかに動きが変わった」
俺は肩を竦めた。
「警告のつもりだったんだが」
「……十分すぎる警告だったと思う」
リリアは苦笑した。
俺も小さく笑った。
だが、すぐに表情を引き締める。
今の男は、少なくとも念能力者として一定の技量を持っていた。
羽根を媒介にした攻撃。
設置型の罠。
逃走用の撹乱。
能力の全容は不明だが、単純な力押しではない。
そして、もしあの男が陰獣の黒鴉本人ではないのなら。
これから現れる本物は、さらに厄介な能力を持っている可能性がある。
俺は空を見上げた。
昼の光が、古い倉庫街の屋根を照らしている。
……さて。
どうやら、事件は次の段階へ進んだらしい。
◇
同じ頃。
街の外れにある、古い石造りの屋敷。
その地下室で、一人の男が椅子に腰掛けていた。
部屋には窓がない。
天井から吊るされた裸電球が、薄暗い光を落としている。
男は黒い手袋を嵌め、指先で一枚の羽根を弄んでいた。
年齢は三十代後半ほど。
黒髪を後ろへ撫でつけ、細い目をしている。
その表情には、ほとんど感情が浮かんでいなかった。
扉が開いた。
灰色の外套を着た男が入ってくる。
先ほど、アオたちと接触した男だった。
「……戻りました」
椅子の男は顔を上げなかった。
「報告しろ」
「警告は伝えました」
「反応は?」
「……拒否されました」
短い沈黙。
椅子の男が、羽根を指先で回した。
「それだけか?」
灰色の外套の男は、少し躊躇した。
「……若い男の方ですが」
「何だ?」
「……相当な実力者です」
椅子の男が、初めて顔を上げた。
「ほう」
「こちらの羽根を避けました。それだけならまだしも……」
男は言葉を選んだ。
「……石を投げられました」
「石?」
「はい。念で強化したものです」
椅子の男は黙っていた。
灰色の外套の男は続けた。
「……もし、あれが当たっていたら」
そこで言葉が止まった。
椅子の男は、ゆっくりと口元を歪めた。
「……死んでいたか?」
灰色の外套の男は、苦い表情で頷いた。
「……おそらく」
椅子の男はしばらく考え込んだ。
そして、静かに笑った。
「……なるほど」
彼は立ち上がった。
黒い手袋の指先から、一枚の羽根が浮かび上がる。
羽根は空中で静止した。
そして、ゆっくりと回転する。
「……名前は?」
「アオ。十五歳のハンターです」
「十五歳?」
椅子の男が眉を上げた。
「……面白い」
灰色の外套の男は、何も言わなかった。
椅子の男は続けた。
「女の方は?」
「リリア。十七歳。こちらもハンターです」
「……二人とも若いな」
男は羽根を指先へ戻した。
そして、低い声で言った。
「……だが、年齢で判断するのは愚かだ」
灰色の外套の男が頷いた。
「……はい」
椅子の男は、部屋の隅に置かれた机へ歩み寄った。
そこには、複数の書類が並んでいる。
警察署の配置図。
黒い船の押収記録。
そして、アオとリリアの簡単な身元情報。
男はその一枚を手に取った。
「……一ツ星ハンター、か」
彼は静かに呟いた。
そして、薄く笑った。
「……どうやら、ただの若造じゃないらしい」
灰色の外套の男が尋ねた。
「……どうしますか、黒鴉様」
その呼び名に、椅子の男はゆっくりと振り返った。
陰獣。
黒鴉。
十老頭直属の念能力者。
裏社会では、その名前だけで恐れられる存在だった。
黒鴉は静かに言った。
「……まずは、あの二人の能力を調べる」
「直接、始末するのでは?」
「馬鹿を言うな」
黒鴉は冷たく答えた。
「相手の実力も能力も分からないまま、正面からぶつかる理由がどこにある?」
灰色の外套の男は黙った。
黒鴉は続けた。
「……特に、アオという男」
彼は書類へ目を落とした。
「十五歳で一ツ星。しかも、念を消せる可能性がある」
黒鴉の目が細くなった。
「……軽く見ていい相手じゃない」
その言葉には、先ほどまでの余裕とは異なる慎重さがあった。
彼は羽根を指先で回した。
「……まずは観察だ」
「……承知しました」
「必要なら、ほかの連中にも声を掛ける」
灰色の外套の男が顔を上げた。
「……陰獣の?」
「ああ」
黒鴉は頷いた。
「……鬼熊、毒蛾、白蛇」
その名前が、静かな地下室に響いた。
「相手が本物なら、こちらも相応の準備が必要だ」
黒鴉は書類を机へ戻した。
そして、薄暗い天井を見上げた。
「……さて」
彼の指先で、黒い羽根が静かに揺れた。
「……どこまでやれるか、見せてもらおうか」
地下室の空気が、冷たく沈んだ。
そして。
裏社会の深い場所で、新たな戦いの準備が始まっていた。