流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第七十七話 裏社会の使者――黒鴉の影

夜明け前の運河は、まだ昨夜の騒ぎを引きずっていた。

 

 第三荷揚げ場には警察の車両が並び、濡れた石畳を制服姿の男たちが行き交っている。係船柱に繋がれた黒い貨物船は、船体の白い牙の紋章を朝靄の中に浮かび上がらせていた。

 

 船上には警官が配置され、甲板へ続く渡し板には立入禁止の札が掛けられている。

 

 つい数時間前まで、この船は人間を貨物として運ぼうとしていた。

 

 四つの木箱から救出された五人は、すでに医療機関へ搬送されている。幸い、全員が生きていた。衰弱や脱水、長期間の監禁による精神的な負担は深刻だったが、医師の話では、適切な治療を受ければ身体的な回復は見込めるという。

 

 それを聞いたときは、俺も胸を撫で下ろした。

 

 だが、安心できたのはそこまでだった。

 

「……思っていた以上に根が深いな」

 

 俺は机の上に広げられた帳簿を見下ろしながら、そう呟いた。

 

 場所は警察署の会議室。

 

 向かいにはヴァレン・クロフト警部補。隣にはリリア、その反対側にはブラックリストハンターのローデリック・フェインが座っている。

 

 壁際ではグレゴール・マティスが、部下の持ち込んだ報告書を確認していた。

 

 昨夜押収した書類は、単なる貨物記録ではなかった。

 

 人名、年齢、出身地、身体的特徴、引き渡し予定日。

 

 それらに加えて、金額らしい数字まで記されている。

 

 中には十歳にも満たない子供の名前があった。

 

 俺はその欄から目を離した。

 

 怒りが湧かないわけではない。

 

 むしろ、胸の奥には冷たいものが沈んでいる。

 

 ただ、ここで感情を露わにしたところで、帳簿に記された人間が救われるわけではなかった。

 

 必要なのは情報だ。

 

 連中が誰を、どこから、どこへ運んでいるのか。

 

 そして、まだ生きている被害者がどこにいるのか。

 

「現在確認できた名前は四十三人だ」

 

 ヴァレンが言った。

 

「ただし、これが四十三人の被害者を意味するとは限らない。同じ人物が複数回記載されている可能性もあるし、偽名や符丁が混じっている可能性もある」

 

「それでも、昨夜の五人だけでは説明がつきませんね」

 

「ああ」

 

 彼は疲れた顔で頷いた。

 

「過去半年の輸送記録と照合しているが、かなり広い範囲で動いていたらしい。港、倉庫、陸路の中継地点……少なくとも一つの街で完結する規模じゃない」

 

 ローデリックが太い指で机を叩いた。

 

「ダリオ・ゼッカートだけで回せる仕事じゃねえな」

 

「同感です」

 

 俺は頷いた。

 

 ダリオは重要人物だ。

 

 だが、組織の頂点とは考えにくい。

 

 昨夜、船から降りてきた灰色の背広の男は、ダリオの失態に苛立っていた。あの態度は、対等な取引相手に対するものというより、仕事をしくじった下請けを責めるようなものだった。

 

 つまり、ダリオの背後には別の指揮系統がある。

 

「船員たちの供述は?」

 

 俺が尋ねると、グレゴールが顔を上げた。

 

「揃って口を閉ざしている。特に船長は頑固だな。貨物の中身については何も知らなかったと言い張っている」

 

「木箱の中に人がいると確認していた男もいましたが」

 

「そこを突いても、黙秘するだけだ」

 

 ローデリックが鼻を鳴らした。

 

「口を割った後の方が怖いんだろうよ」

 

 その言葉に、会議室の空気が少し重くなった。

 

 裏社会の人間にとって、警察に捕まることと、組織を裏切ることは別の問題だ。

 

 前者なら刑期を終えれば外へ出られる。

 

 後者は、本人だけでなく家族まで狙われる場合がある。

 

 そうした恐怖を植えつけられていれば、どれだけ追及しても簡単には口を開かないだろう。

 

 リリアが、机の上に置かれた一枚の航路図へ手を伸ばした。

 

「アオ、これを見て」

 

「ん?」

 

「この印。ほかの書類にもあるの」

 

 彼女が指差したのは、航路図の端に記された小さな記号だった。

 

 三本の斜線を重ねたような印。

 

 黒い船に描かれていた白い牙の紋章とは異なる。

 

「同じ印が、こっちの帳簿にもある」

 

 リリアは別の書類を開いた。

 

 確かに、いくつかの名前の横に同じ記号が付けられていた。

 

 俺は身を乗り出した。

 

「……全部じゃないな」

 

「うん。特定の記録にだけ付いてる」

 

「分類記号か?」

 

「そうかもしれない。でも、何を分類しているのかは分からない」

 

 俺は記号の付いた項目を確認した。

 

 年齢も性別もばらばらだ。

 

 出身地にも共通点は見当たらない。

 

 金額にも一定の法則がない。

 

 少なくとも、単純な商品区分ではなさそうだった。

 

「この印がある記録だけ抜き出してもらえますか」

 

 俺が言うと、ヴァレンは頷いた。

 

「分かった。担当に照合させよう」

 

 リリアはもう一度航路図へ目を落とした。

 

 その琥珀色の瞳は、細かな書き込みを一つずつ追っている。

 

 俺はその横顔を見ながら、思考を巡らせた。

 

 昨夜の救出は成功した。

 

 しかし、連中にとっては大きな損失だったはずだ。

 

 船一隻。

 

 貨物。

 

 人員。

 

 帳簿。

 

 それらを一度に失った。

 

 裏社会の組織が、このまま何もしないとは思えない。

 

 特に、帳簿が警察の手に渡ったことは致命的だ。

 

 俺たちが次に警戒すべきなのは、逃げたダリオだけではない。

 

 証拠の奪還。

 

 証人の口封じ。

 

 そして、捜査に関わった人間への報復。

 

 その三つだった。

 

     ◇

 

 午前十時を過ぎた頃、俺たちは救出された被害者の一人と面会することになった。

 

 名前はエレナ・モーリス。

 

 二十二歳の女性で、隣町の飲食店に勤めていたという。

 

 仕事を終えて帰宅する途中、背後から襲われた。

 

 目を覚ましたときには見知らぬ建物の中にいて、手足を縛られていたらしい。

 

 本人が話をしたいと申し出たため、医師の許可を得て短時間だけ聞き取りを行うことになった。

 

 面会室へ入ると、エレナは窓際の椅子に座っていた。

 

 肩には毛布。

 

 顔色はまだ青白く、指先には細かな震えが残っている。

 

 それでも、昨夜よりは落ち着いているようだった。

 

「……昨日、助けてくれた方ですよね」

 

 俺を見るなり、彼女はそう言った。

 

「ええ。アオです」

 

「私はリリア。体調はどう?」

 

 リリアが尋ねると、エレナは小さく頷いた。

 

「まだ、あまり眠れなくて……でも、身体は少し楽になりました」

 

「無理に話さなくても大丈夫だからね」

 

「……いえ。話したいんです」

 

 エレナは毛布の端を握りしめた。

 

 その指に力が入る。

 

「私たち以外にも、いたんです」

 

 俺は椅子へ腰を下ろした。

 

「ほかの被害者ですか?」

 

「はい」

 

 彼女は頷いた。

 

「倉庫にいたとき、隣の部屋から声が聞こえました。男の人も、女の人も……子供の声も」

 

 俺は黙って耳を傾けた。

 

「私たちが箱に入れられる前に、別の人たちが連れていかれたんです」

 

「いつ頃ですか?」

 

「……二日前、だと思います」

 

 二日前。

 

 俺はその日付を頭の中で確認した。

 

 今回の船とは別の輸送があった可能性がある。

 

「何か、行き先について話していませんでしたか?」

 

 エレナは少し考えた。

 

「……北の中継所、って」

 

 俺は顔を上げた。

 

「北の中継所?」

 

「はい。男の人が、そう言っていたんです」

 

「ほかには?」

 

「『次の便まで置いておく』って……」

 

 リリアが静かに息を吸った。

 

 俺も同じことを考えていた。

 

 まだ、どこかに監禁されている人間がいる。

 

 それも、輸送の順番を待たされている可能性がある。

 

「ありがとうございます」

 

 俺は言った。

 

「大切な情報です」

 

 エレナは不安そうに顔を上げた。

 

「……あの人たちも、助かりますか?」

 

 簡単に答えられる問いではなかった。

 

 場所も分からない。

 

 人数も分からない。

 

 すでに別の場所へ運ばれている可能性もある。

 

 だから、安易な約束はできない。

 

「必ず助けられるとは、今は言えません」

 

 俺は正直に答えた。

 

「でも、探します。見つけるために、できることは全部やります」

 

 エレナはしばらく俺を見つめていた。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「……お願いします」

 

 リリアが、彼女の手へそっと触れた。

 

「教えてくれて、ありがとう」

 

 エレナの目から、静かに涙がこぼれた。

 

 俺たちはそれ以上、無理に話を聞かなかった。

 

     ◇

 

 異変が起きたのは、それから一時間ほど後だった。

 

 警察署の廊下を歩いていると、グレゴールが慌ただしい足取りで近づいてきた。

 

「アオ君、リリア君。少しいいか」

 

「何かありましたか?」

 

「昨夜逮捕した男の一人が、妙な供述を始めた」

 

 グレゴールは周囲を見回し、声を落とした。

 

「今朝までは黙秘していた。ところが突然、自分たちだけで貨物を運んだと言い出したんだ」

 

「ダリオの関与を否定したんですか?」

 

「そうだ。船員たちも中身を知らなかった、と」

 

 俺は眉を寄せた。

 

 あまりにも都合がよすぎる。

 

「誰かと接触しましたか?」

 

「記録上はない。面会も許可していない」

 

「留置場の職員は?」

 

「交代勤務の看守が数人。食事の配膳も通常どおりだ」

 

 俺は少し考えた。

 

 普通の犯罪事件なら、単に供述を変えただけかもしれない。

 

 だが、相手は裏社会の組織だ。

 

 念能力者を使っていることも、すでに確認している。

 

「その男に会えますか?」

 

「ああ。来てくれ」

 

 グレゴールは頷いた。

 

 俺とリリアは、その後に続いた。

 

 留置場は警察署の地下にあった。

 

 石造りの廊下には消毒液の匂いが漂い、鉄格子の向こうには薄暗い房が並んでいる。

 

 問題の男は、奥の房に座っていた。

 

 三十代ほど。

 

 痩せた顔に無精髭。

 

 昨夜、岸壁で捕まった船員の一人だった。

 

 俺たちが近づくと、男はゆっくり顔を上げた。

 

「……何だよ」

 

 グレゴールが尋ねた。

 

「今朝の供述について、もう一度確認したい」

 

「何度聞かれても同じだ」

 

 男は吐き捨てるように言った。

 

「俺たちは普通の荷物だと思って運んだ。中に人がいるなんて知らなかった」

 

「昨夜、木箱から声が聞こえていたはずだが?」

 

「聞こえなかった」

 

「ダリオ・ゼッカートについては?」

 

「知らねえ」

 

 男の答えは妙に滑らかだった。

 

 質問される前から、用意された文章を繰り返しているように聞こえる。

 

 俺は『凝』を使った。

 

 男の身体を覆うオーラを観察する。

 

 念能力者ではない。

 

 少なくとも、自分の意思でオーラを扱っている様子はなかった。

 

 だが。

 

 ……ん?

 

 首筋の辺りに、ごく微かな違和感があった。

 

 薄いオーラが、皮膚の一点へまとわりついている。

 

 まるで、何かが貼り付いているような状態だ。

 

 俺は目を細めた。

 

 男の首筋には、小さな赤い点があった。

 

 針で刺したような痕。

 

 ……これは。

 

「昨夜から今朝にかけて、誰かに触られましたか?」

 

 俺が尋ねると、男は顔をしかめた。

 

「……知らねえよ」

 

「首筋に傷があります。いつできたものです?」

 

「傷?」

 

 男が首へ手を伸ばそうとした。

 

 その瞬間だった。

 

「……ぐっ!」

 

 男の表情が歪んだ。

 

 喉の奥から、苦しげな声が漏れる。

 

「……あ、ああっ……!」

 

 身体が大きく痙攣した。

 

 俺は即座に動いた。

 

「房を開けてください!」

 

 グレゴールが叫ぶ。

 

「鍵だ! 早く!」

 

 看守が鍵を回す。

 

 鉄格子が開くと同時に、俺は男へ駆け寄った。

 

 男は床へ倒れ、喉を掻きむしるように手を動かしていた。

 

 首筋のオーラが、急激に濃くなっている。

 

 ……発動したのか。

 

 何らかの条件で、仕込まれた念が作動したらしい。

 

 俺は男の肩を押さえた。

 

 呼吸が乱れている。

 

 顔色も急速に悪くなっていた。

 

 このまま放置すれば、命に関わる可能性が高い。

 

 俺は一瞬だけ考えた。

 

 回復能力を使うか。

 

 昨夜、エドガー・リースの治療に一回使っている。

 

 その後、まとまった睡眠は取っていない。

 

 残り二回。

 

 ここで使えば、残り一回になる。

 

 だが、迷う理由はなかった。

 

 この男は犯罪に加担していた。

 

 それでも、目の前で死なせていいことにはならない。

 

 俺は男の首筋へ手を当てた。

 

 意識を集中させる。

 

 身体全体。

 

 傷。

 

 異常。

 

 そして、外部から干渉している念。

 

 それらをまとめて取り除く。

 

 ……消えろ。

 

 次の瞬間、手のひらの下で何かがほどける感覚があった。

 

 男の身体が大きく震える。

 

 そして、痙攣が止まった。

 

「……はっ、はあっ……!」

 

 荒い呼吸。

 

 首筋にまとわりついていたオーラは、完全に消えている。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……間に合った。

 

 グレゴールが駆け寄ってきた。

 

「何が起きた!?」

 

「念能力です」

 

 俺は答えた。

 

「何者かが、この男に念を仕込んでいました」

 

「……念?」

 

「ええ。おそらく、供述を操作するか、口封じをするためのものです」

 

 グレゴールの顔色が変わった。

 

 男はまだ呆然としている。

 

 だが、命に別状はなさそうだった。

 

「医師を呼んでください。それと、ほかの拘束者にも同じ痕がないか確認を」

 

「分かった!」

 

 グレゴールが看守へ指示する。

 

 俺は男から手を離した。

 

 ……厄介なことになった。

 

 敵は、すでに警察署の内部へ干渉している。

 

 しかも、念能力を使って。

 

 これは単なる証拠隠滅ではない。

 

 組織的な反撃が始まっている。

 

     ◇

 

 昼過ぎ。

 

 俺たちは警察署の裏手を調べていた。

 

 留置場へ出入りした人間の記録は、すでにグレゴールが確認を進めている。

 

 だが、念能力者が相手なら、通常の出入口だけを警戒しても不十分だ。

 

 遠隔操作。

 

 媒介を使った能力。

 

 特定の条件で発動する念。

 

 そうした可能性も考える必要がある。

 

 俺は建物の外壁を見上げた。

 

 古い石造りの壁。

 

 鉄格子の付いた窓。

 

 そして、細い通気口。

 

 リリアはその周囲を、丁寧に調べていた。

 

 足跡。

 

 壁の擦れ。

 

 地面に落ちた小さな破片。

 

 彼女はそうした痕跡を一つずつ確認している。

 

 俺はその様子を少し離れた場所から見守った。

 

 こういう調査では、彼女の観察力が頼りになる。

 

 俺は念の痕跡を探せる。

 

 だが、念が使われた場所を特定するには、物理的な痕跡も重要だ。

 

 しばらくして、リリアが足を止めた。

 

「……アオ」

 

「何かあったか?」

 

「ここ」

 

 彼女が示したのは、裏手の狭い路地だった。

 

 地面には、昨夜の雨でできた薄い泥が残っている。

 

 その上に、靴跡があった。

 

「警官のものじゃないのか?」

 

「たぶん違う。靴底の模様が、ほかの足跡と合わない」

 

 俺はしゃがみ込んだ。

 

 確かに、細い靴跡が残っている。

 

 しかも、足の向きが不自然だった。

 

 建物へ向かって歩き、同じ場所でしばらく立ち止まったような形跡がある。

 

「いつ頃のものだ?」

 

「正確には分からない。でも、雨が止んだあとについた跡だと思う」

 

 俺は周囲を見回した。

 

 通気口。

 

 壁。

 

 そして、留置場へ続く地下の窓。

 

 ……なるほど。

 

 ここなら、建物の内部へ何かを送り込める可能性がある。

 

 リリアが壁を指差した。

 

「それと、ここ」

 

 金属製の格子の端に、小さな擦り傷があった。

 

 俺は『凝』を使う。

 

 ……あるな。

 

 非常に薄いが、オーラの残滓が見えた。

 

 俺は表情を引き締めた。

 

「念の痕跡がある」

 

 リリアが顔を上げた。

 

「やっぱり?」

 

「ああ。ただ、ここから直接能力を使ったのか、何かを仕込んだのかまでは分からない」

 

 俺は通気口へ目を向けた。

 

 誰かが、この場所へ来た。

 

 そして、念を使った可能性が高い。

 

 それだけでも重要な情報だ。

 

「警察へ報告しよう」

 

「うん」

 

 リリアは頷いた。

 

 だが、その直後。

 

 彼女の視線が、ふと別の方向へ向いた。

 

 向かいの建物。

 

 三階の窓。

 

 俺は彼女の変化に気づいた。

 

「……どうした?」

 

 リリアは声を落とした。

 

「誰か、見てた」

 

 俺は視線を動かさずに尋ねた。

 

「どこだ?」

 

「向かいの三階。右から二つ目の窓」

 

 俺は気配を探った。

 

 距離はそれほど遠くない。

 

 だが、窓の奥にいた人物は、すでに身を引いたらしい。

 

 ……監視か。

 

 リリアが小さく言った。

 

「追えると思う」

 

「無理はするな。相手が念能力者なら、こちらを誘っている可能性もある」

 

「分かってる」

 

 彼女は頷いた。

 

 そして、自然な足取りで路地の出口へ向かった。

 

 俺も少し遅れて歩き出した。

 

 相手が何者なのか。

 

 まずは、それを確かめる必要がある。

 

     ◇

 

 監視者は、灰色の帽子を被った男だった。

 

 三十代半ばほど。

 

 痩せた身体。

 

 地味な外套。

 

 どこにでもいそうな風貌だ。

 

 だが、歩き方には特徴があった。

 

 周囲の窓や金属製の看板を、さりげなく確認している。

 

 反射を利用して背後を見ているのだろう。

 

 尾行への警戒を怠っていない。

 

 俺たちは距離を保ち、男の後を追った。

 

 リリアは相手の視線の動きを読み、こちらが直接視界へ入らない位置を選んでいる。

 

 俺も『円』は使わなかった。

 

 念能力者が相手なら、こちらのオーラを察知する可能性がある。

 

 今は、余計な情報を与える必要がない。

 

 男は商店街を抜け、路面電車へ乗り込んだ。

 

 俺たちも別の扉から乗車する。

 

 車内には買い物客や仕事帰りの人々がいた。

 

 男は窓際へ座り、新聞を広げた。

 

 俺たちは少し離れた位置に立った。

 

 リリアは窓の反射を使い、男の様子を確認している。

 

 俺は周囲の乗客へ目を向けた。

 

 ……ほかにもいるか?

 

 監視役が一人とは限らない。

 

 だが、今のところ不審な気配はなかった。

 

 路面電車は街の北西部へ向かって走り続けた。

 

 やがて、男が降りた。

 

 俺たちも少し遅れて下車する。

 

 そこは古い工場と倉庫が混在する地区だった。

 

 昼間でも人通りが少なく、建物の間には細い路地が入り組んでいる。

 

 男は何度か角を曲がり、最後に一軒の古い建物へ入っていった。

 

 灰色の外壁。

 

 看板のない入口。

 

 厚いカーテンで覆われた窓。

 

 一見すると、使われていない倉庫のようだった。

 

 だが、地面には新しい足跡がある。

 

 扉の蝶番も、最近手入れされたように見えた。

 

「……ここ、使われてるね」

 

 リリアが小さく言った。

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

 俺たちは建物から距離を取り、周囲を確認した。

 

 リリアは裏手へ回る。

 

 俺は正面側に残り、内部の気配を探った。

 

 少なくとも数人。

 

 念能力者がいるかどうかは、まだ分からない。

 

 俺は壁際へ移動した。

 

 古い窓の隙間から、男たちの声が聞こえる。

 

「……警察署の件は?」

 

「失敗した」

 

「何だと?」

 

「仕込んだ念が消えた。証人は生きている」

 

 俺は目を細めた。

 

 ……やはり。

 

 留置場の男に仕込まれていた念。

 

 それは、ここの連中の仕業だったらしい。

 

 別の男が苛立った声を上げた。

 

「除念師がいたってことか?」

 

「分からん。だが、普通のハンターじゃない」

 

「……ダリオは?」

 

「姿を消した。上からの連絡にも応じていない」

 

 少しの沈黙。

 

 そして、低い声が響いた。

 

「……使者が来る」

 

「使者?」

 

「ああ。上が直接動くそうだ」

 

 俺は耳を澄ませた。

 

 上。

 

 やはり、ダリオの背後には別の組織がある。

 

 男の一人が、緊張した声で尋ねた。

 

「……誰が来る?」

 

 返答までに、少し間があった。

 

「……陰獣だ」

 

 俺は目を細めた。

 

 陰獣。

 

 その言葉には、聞き覚えがある。

 

 原作の知識を持つ俺にとって、決して無視できない名前だった。

 

 マフィアの頂点に位置する十老頭。

 

 その直属の戦闘集団。

 

 念能力者の中でも、裏社会の実戦を生き抜いてきた連中だ。

 

 ただし、今は1989年。

 

 俺が知る原作本編より、十年ほど前の時代だ。

 

 当時の構成員まで同じとは限らない。

 

 むしろ、別の人間が所属していても不思議ではなかった。

 

 建物の中では、会話が続いていた。

 

「……誰だ?」

 

「『黒鴉』だ」

 

 その名前が出た途端、室内が静かになった。

 

「……あの黒鴉が?」

 

「ああ」

 

「……そこまでの事態なのか」

 

 俺はその反応を記憶した。

 

 黒鴉。

 

 少なくとも、ここにいる連中にとっては恐ろしい存在らしい。

 

 別の男が低い声で言った。

 

「警察が帳簿を押さえた。しかも、念を消せるハンターまでいる。上が黙っているわけがない」

 

「……で、俺たちは?」

 

「余計なことをするな。黒鴉が来るまで、監視を続けろ」

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……なるほど。

 

 敵は、こちらを警戒し始めている。

 

 しかも、陰獣を動かすほどに。

 

 これは少し厄介だ。

 

 だが、恐れる理由にはならない。

 

 陰獣がどれほどの実力者なのかは、実際に会ってみなければ分からない。

 

 原作の知識だけで判断するつもりはなかった。

 

 俺は壁から離れた。

 

 そろそろ、リリアと合流するべきだろう。

 

     ◇

 

 リリアが戻ってきたのは、それから数分後だった。

 

 彼女は建物の裏手から現れ、俺の隣へしゃがみ込んだ。

 

「裏口が二つ。屋上に見張りが一人。二階にも人がいる」

 

「念能力者は?」

 

「分からない。でも、屋上の人はかなり慣れてると思う」

 

 俺は頷いた。

 

「こっちでも話が聞けた」

 

「何て?」

 

「警察署の件は、ここの連中が関わっているらしい。それと、上から使者が来るそうだ」

 

 リリアの表情が引き締まった。

 

「使者?」

 

「ああ。陰獣だ」

 

 彼女は少し目を見開いた。

 

「……陰獣?」

 

「知ってるか?」

 

「名前だけ。マフィアの中でも、特別な念能力者たちなんでしょう?」

 

「そう聞いてる」

 

 俺は頷いた。

 

 リリアは少し考えた。

 

「誰が来るの?」

 

「黒鴉、という奴らしい」

 

「……黒鴉」

 

 彼女はその名前を繰り返した。

 

 俺は建物へ目を向けた。

 

「今ここで踏み込んでも、連中の上には辿り着けないかもしれない」

 

「うん」

 

「それに、ここが単なる連絡所なら、重要な証拠は置いてない可能性が高い」

 

「だったら、監視を続ける?」

 

「警察に任せよう。俺たちは一度戻る」

 

 リリアは頷いた。

 

 俺たちは建物から距離を取り、来た道を戻り始めた。

 

 そのときだった。

 

「……待ちな」

 

 背後から、低い声が聞こえた。

 

 俺は足を止めた。

 

 リリアも静かに振り返る。

 

 路地の入口に、一人の男が立っていた。

 

 黒い帽子。

 

 灰色の外套。

 

 年齢は四十代ほど。

 

 頬には浅い傷があり、口元には薄い笑みが浮かんでいる。

 

 だが、その目は笑っていなかった。

 

 俺は男を観察した。

 

 ……念能力者か。

 

 オーラの流れが、普通ではない。

 

 しかも、かなり意識的に抑えている。

 

 男はゆっくりと口を開いた。

 

「……随分と熱心に嗅ぎ回ってるじゃねえか」

 

 俺は答えなかった。

 

 男は肩を竦めた。

 

「安心しろ。今すぐ殺すつもりはねえ」

 

 リリアがわずかに身体を低くした。

 

 俺は静かに尋ねた。

 

「誰だ?」

 

 男は笑った。

 

「……ただの伝言係さ」

 

「伝言?」

 

「ああ」

 

 男は帽子のつばを指で押し上げた。

 

「これ以上、首を突っ込むな」

 

 俺は男を見つめた。

 

「誰からの伝言だ?」

 

 男は答えなかった。

 

 代わりに、右手をゆっくりと上げる。

 

 その指先には、小さな黒い羽根が挟まれていた。

 

 俺は目を細めた。

 

 ……羽根?

 

 男はそれを、指先で弄んだ。

 

「……次は、警告じゃ済まねえぞ」

 

 その瞬間。

 

 羽根から、微かなオーラが立ち上った。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……なるほど。

 

 どうやら、ただの伝言係ではないらしい。

 

 リリアが俺の隣で小さく呟いた。

 

「……アオ」

 

「ああ」

 

 俺は男の指先を見た。

 

 黒い羽根。

 

 そして、先ほど聞いた名前。

 

 黒鴉。

 

 偶然とは考えにくい。

 

 だが、目の前の男が本人なのか、それとも配下なのかは分からない。

 

 男は笑みを深めた。

 

「……どうした? 怖くなったか?」

 

 俺は首を横に振った。

 

「いや」

 

「……ほう?」

 

「一つ聞きたい」

 

 男は眉を上げた。

 

「何だ?」

 

「お前、黒鴉の関係者か?」

 

 その瞬間。

 

 男の笑みが、わずかに変わった。

 

「……へえ」

 

 彼はゆっくりと羽根を持ち上げた。

 

「どこでその名前を聞いた?」

 

「さあな」

 

 俺は答えた。

 

 男は数秒ほど俺を見つめていた。

 

 そして、低く笑った。

 

「……なるほど。思っていたより耳がいいらしい」

 

 俺は男のオーラを観察した。

 

 羽根に込められた念は、決して弱くない。

 

 だが、俺自身を圧倒するほどではなかった。

 

 問題は、能力の性質だ。

 

 操作系か。

 

 あるいは、具現化系や放出系を組み合わせたものか。

 

 羽根を媒介にしているなら、何らかの条件があるはずだ。

 

 俺は半歩、位置を変えた。

 

 リリアを背後へ隠すためではない。

 

 彼女が自由に動ける空間を確保するためだ。

 

 リリアも、その意図を理解したらしい。

 

 俺とは別の角度へ、静かに足を運んだ。

 

 男はその動きを見て、目を細めた。

 

「……二人とも、素人じゃねえな」

 

 俺は答えなかった。

 

 男は黒い羽根を指先で弾いた。

 

 羽根が、ゆっくりと宙へ浮かぶ。

 

 風に流されているように見える。

 

 だが、違う。

 

 羽根は空気の流れに逆らい、一定の高さを保っていた。

 

 ……操作しているのか。

 

 俺は『凝』を維持した。

 

 羽根から伸びる、ごく細いオーラ。

 

 それが男の指先と繋がっているように見える。

 

 男は静かに言った。

 

「……最後の忠告だ」

 

 俺は男を見た。

 

「聞こう」

 

「この事件から手を引け。そうすりゃ、少なくとも今は見逃してやる」

 

 俺は少し考えた。

 

 そして、尋ねた。

 

「断ったら?」

 

 男は笑った。

 

「……後悔することになる」

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……そうか。

 

 なら、答えは決まっている。

 

「断る」

 

 男の笑みが消えた。

 

「……何?」

 

「まだ助けを待っている人間がいる」

 

 俺は続けた。

 

「そいつらを放っておくつもりはない」

 

 男はしばらく黙っていた。

 

 そして、ゆっくりと首を傾けた。

 

「……正義の味方か?」

 

「違う」

 

 俺は即答した。

 

「俺がそうしたいだけだ」

 

 男の目が細くなった。

 

 その瞬間、羽根の周囲のオーラが濃くなる。

 

 ……来るか。

 

 俺は静かに構えた。

 

 普段なら、相手が動き出すまで待つ必要はない。

 

 この距離なら、踏み込んで制圧することもできる。

 

 だが、今回は事情が違った。

 

 相手の能力が分からない。

 

 しかも、背後には人通りのある通りがある。

 

 不用意に動けば、第三者を巻き込む可能性があった。

 

 俺は男の指先を見た。

 

 黒い羽根が、わずかに震えている。

 

 ……なるほど。

 

 念の媒介として使っているのは間違いなさそうだ。

 

 男は低く呟いた。

 

「……なら、仕方ねえな」

 

 そして。

 

 黒い羽根が、俺たちへ向かって飛んだ。

 

     ◇

 

 羽根は、見た目に反して速かった。

 

 風に舞うような軌道から、突然鋭く加速する。

 

 俺は身体をわずかに傾けた。

 

 羽根が肩の横を通り過ぎる。

 

 そのまま背後の壁へ突き刺さった。

 

 石材の表面に、小さな亀裂が走る。

 

 ……なるほど。

 

 ただの目印ではない。

 

 攻撃にも使えるらしい。

 

 男は笑った。

 

「……避けるか」

 

 俺は壁へ目を向けた。

 

 羽根は深く刺さっている。

 

 オーラで強化されているのだろう。

 

 だが、それだけなら対処は難しくない。

 

 問題は、刺さった羽根がその後どうなるかだ。

 

 俺は男へ視線を戻した。

 

「……リリア」

 

「うん」

 

「羽根には触るな」

 

「分かってる」

 

 彼女は短く答えた。

 

 男が眉を上げた。

 

「……へえ。気づいたか?」

 

 俺は答えなかった。

 

 男の右手には、すでに別の羽根が現れている。

 

 一本。

 

 二本。

 

 三本。

 

 黒い羽根が、指の間に挟まれていた。

 

 ……複数使えるのか。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 相手の能力を見極める必要がある。

 

 だが、長引かせるつもりもない。

 

 俺は足元の小石へ視線を落とした。

 

 拳ほどの大きさもない、ありふれた石だ。

 

 ……十分だな。

 

 俺はそれを拾い上げた。

 

 男が怪訝そうな顔をした。

 

「……何だ?」

 

 俺は答えず、石へ『周』を施した。

 

 オーラが表面を覆う。

 

 握った指先に、硬い感触が伝わる。

 

 相手との距離は十数メートル。

 

 この程度なら、俺の身体能力だけでも十分な速度を出せる。

 

 まして、念で強化した投擲なら。

 

 男が羽根を放とうとした。

 

 その瞬間。

 

 俺は石を投げた。

 

 乾いた破裂音が、路地に響いた。

 

 男の目が大きく見開かれる。

 

 石は、男の顔のすぐ横を通過した。

 

 そして。

 

 背後の石壁へ激突した。

 

 轟音。

 

 石材が砕け、細かな破片が周囲へ飛び散る。

 

 男の身体が硬直した。

 

 俺は静かに言った。

 

「……次は外さない」

 

 男は、しばらく動かなかった。

 

 頬を伝う汗。

 

 震える指先。

 

 その表情から、先ほどまでの余裕は消えていた。

 

 ……これで分かっただろう。

 

 俺は、相手を殺すつもりで投げたわけではない。

 

 あくまで警告だ。

 

 だが、本気で命を奪うつもりなら、今の一撃だけで勝負が終わっていた可能性は高い。

 

 男はゆっくりと息を吐いた。

 

「……なるほど」

 

 その声には、先ほどまでとは違う緊張があった。

 

「……確かに、普通のハンターじゃねえ」

 

 俺は男を見た。

 

「もう一度聞く。誰の指示だ?」

 

 男は答えなかった。

 

 代わりに、口元を歪めた。

 

「……残念だが、俺も命が惜しいんでね」

 

 その瞬間。

 

 男の足元から、黒い羽根が舞い上がった。

 

 一本ではない。

 

 十本以上。

 

 地面の隙間から、まるで影が剥がれるように現れた。

 

 俺は目を細めた。

 

 ……仕込んでいたのか。

 

 男は笑った。

 

「……俺を捕まえたところで、何も分からねえよ」

 

 羽根が一斉に広がる。

 

 そして、男の姿を覆い隠した。

 

 俺は即座に『凝』を強めた。

 

 オーラの流れを追う。

 

 羽根は単なる煙幕ではない。

 

 視界を遮ると同時に、周囲へ散らばっている。

 

 ……逃走用か。

 

 俺は踏み込もうとした。

 

 だが、その瞬間、リリアが声を上げた。

 

「アオ、待って!」

 

 俺は足を止めた。

 

 リリアが指差したのは、足元だった。

 

 黒い羽根が、石畳の隙間へ落ちている。

 

 その一本が、わずかに動いた。

 

 ……なるほど。

 

 追撃を誘っているのか。

 

 俺は一歩下がった。

 

 次の瞬間、羽根が鋭く跳ね上がる。

 

 足元を狙う軌道。

 

 俺はそれを避けた。

 

 男の姿は、すでに路地の奥へ消えていた。

 

 ……逃げたか。

 

 俺は周囲を確認した。

 

 追おうと思えば、追跡は可能かもしれない。

 

 だが、相手が残した羽根の能力が分からない。

 

 人通りのある場所へ逃げ込まれれば、第三者を巻き込む危険もある。

 

 それに、リリアがいる。

 

 彼女の能力なら、後から追跡する方法もあるだろう。

 

 俺は無理に追わなかった。

 

 代わりに、壁へ突き刺さった羽根を見た。

 

 ……黒鴉。

 

 あの男が本人なのか。

 

 それとも、その配下なのか。

 

 まだ分からない。

 

 だが、一つだけ確かなことがある。

 

 裏社会の連中は、俺たちを明確な障害として認識した。

 

 そして、これからは単なる犯罪者ではなく、念能力者を使って妨害してくる。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

「……リリア」

 

「うん」

 

「怪我は?」

 

「ないよ」

 

「よかった」

 

 彼女は少しだけ笑った。

 

「アオも大丈夫?」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

 リリアは壁に突き刺さった羽根を見た。

 

「……あの人、かなり警戒してたね」

 

「そうだな」

 

「アオが石を投げたあと、明らかに動きが変わった」

 

 俺は肩を竦めた。

 

「警告のつもりだったんだが」

 

「……十分すぎる警告だったと思う」

 

 リリアは苦笑した。

 

 俺も小さく笑った。

 

 だが、すぐに表情を引き締める。

 

 今の男は、少なくとも念能力者として一定の技量を持っていた。

 

 羽根を媒介にした攻撃。

 

 設置型の罠。

 

 逃走用の撹乱。

 

 能力の全容は不明だが、単純な力押しではない。

 

 そして、もしあの男が陰獣の黒鴉本人ではないのなら。

 

 これから現れる本物は、さらに厄介な能力を持っている可能性がある。

 

 俺は空を見上げた。

 

 昼の光が、古い倉庫街の屋根を照らしている。

 

 ……さて。

 

 どうやら、事件は次の段階へ進んだらしい。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 街の外れにある、古い石造りの屋敷。

 

 その地下室で、一人の男が椅子に腰掛けていた。

 

 部屋には窓がない。

 

 天井から吊るされた裸電球が、薄暗い光を落としている。

 

 男は黒い手袋を嵌め、指先で一枚の羽根を弄んでいた。

 

 年齢は三十代後半ほど。

 

 黒髪を後ろへ撫でつけ、細い目をしている。

 

 その表情には、ほとんど感情が浮かんでいなかった。

 

 扉が開いた。

 

 灰色の外套を着た男が入ってくる。

 

 先ほど、アオたちと接触した男だった。

 

「……戻りました」

 

 椅子の男は顔を上げなかった。

 

「報告しろ」

 

「警告は伝えました」

 

「反応は?」

 

「……拒否されました」

 

 短い沈黙。

 

 椅子の男が、羽根を指先で回した。

 

「それだけか?」

 

 灰色の外套の男は、少し躊躇した。

 

「……若い男の方ですが」

 

「何だ?」

 

「……相当な実力者です」

 

 椅子の男が、初めて顔を上げた。

 

「ほう」

 

「こちらの羽根を避けました。それだけならまだしも……」

 

 男は言葉を選んだ。

 

「……石を投げられました」

 

「石?」

 

「はい。念で強化したものです」

 

 椅子の男は黙っていた。

 

 灰色の外套の男は続けた。

 

「……もし、あれが当たっていたら」

 

 そこで言葉が止まった。

 

 椅子の男は、ゆっくりと口元を歪めた。

 

「……死んでいたか?」

 

 灰色の外套の男は、苦い表情で頷いた。

 

「……おそらく」

 

 椅子の男はしばらく考え込んだ。

 

 そして、静かに笑った。

 

「……なるほど」

 

 彼は立ち上がった。

 

 黒い手袋の指先から、一枚の羽根が浮かび上がる。

 

 羽根は空中で静止した。

 

 そして、ゆっくりと回転する。

 

「……名前は?」

 

「アオ。十五歳のハンターです」

 

「十五歳?」

 

 椅子の男が眉を上げた。

 

「……面白い」

 

 灰色の外套の男は、何も言わなかった。

 

 椅子の男は続けた。

 

「女の方は?」

 

「リリア。十七歳。こちらもハンターです」

 

「……二人とも若いな」

 

 男は羽根を指先へ戻した。

 

 そして、低い声で言った。

 

「……だが、年齢で判断するのは愚かだ」

 

 灰色の外套の男が頷いた。

 

「……はい」

 

 椅子の男は、部屋の隅に置かれた机へ歩み寄った。

 

 そこには、複数の書類が並んでいる。

 

 警察署の配置図。

 

 黒い船の押収記録。

 

 そして、アオとリリアの簡単な身元情報。

 

 男はその一枚を手に取った。

 

「……一ツ星ハンター、か」

 

 彼は静かに呟いた。

 

 そして、薄く笑った。

 

「……どうやら、ただの若造じゃないらしい」

 

 灰色の外套の男が尋ねた。

 

「……どうしますか、黒鴉様」

 

 その呼び名に、椅子の男はゆっくりと振り返った。

 

 陰獣。

 

 黒鴉。

 

 十老頭直属の念能力者。

 

 裏社会では、その名前だけで恐れられる存在だった。

 

 黒鴉は静かに言った。

 

「……まずは、あの二人の能力を調べる」

 

「直接、始末するのでは?」

 

「馬鹿を言うな」

 

 黒鴉は冷たく答えた。

 

「相手の実力も能力も分からないまま、正面からぶつかる理由がどこにある?」

 

 灰色の外套の男は黙った。

 

 黒鴉は続けた。

 

「……特に、アオという男」

 

 彼は書類へ目を落とした。

 

「十五歳で一ツ星。しかも、念を消せる可能性がある」

 

 黒鴉の目が細くなった。

 

「……軽く見ていい相手じゃない」

 

 その言葉には、先ほどまでの余裕とは異なる慎重さがあった。

 

 彼は羽根を指先で回した。

 

「……まずは観察だ」

 

「……承知しました」

 

「必要なら、ほかの連中にも声を掛ける」

 

 灰色の外套の男が顔を上げた。

 

「……陰獣の?」

 

「ああ」

 

 黒鴉は頷いた。

 

「……鬼熊、毒蛾、白蛇」

 

 その名前が、静かな地下室に響いた。

 

「相手が本物なら、こちらも相応の準備が必要だ」

 

 黒鴉は書類を机へ戻した。

 

 そして、薄暗い天井を見上げた。

 

「……さて」

 

 彼の指先で、黒い羽根が静かに揺れた。

 

「……どこまでやれるか、見せてもらおうか」

 

 地下室の空気が、冷たく沈んだ。

 

 そして。

 

 裏社会の深い場所で、新たな戦いの準備が始まっていた。

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