流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第七十八話 黒羽の追跡――北の中継所

黒い羽根が、石壁に突き刺さっていた。

 

 細長い羽軸は石材の表面を貫き、周囲には蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。

 

 普通の鳥の羽根なら、どれだけ強く投げてもこうはならない。

 

 俺は壁から少し離れた位置にしゃがみ込み、『凝』でその状態を観察した。

 

 羽根の周囲には、まだ微かなオーラが残っていた。

 

 ただし、その量は少ない。

 

 先ほどまで羽根を操っていた男が姿を消してから、急速に薄れているようだった。

 

「……まだ動く?」

 

 隣でリリアが尋ねた。

 

「可能性はある。触らない方がいいな」

 

「うん」

 

 彼女は頷き、壁に近づきすぎない位置へ移動した。

 

 俺は羽根の形状を改めて確認した。

 

 長さは十センチほど。

 

 黒く艶のある羽弁。

 

 根元には、ごく細い金属の芯が通っているようにも見える。

 

 念で具現化したものなのか、実物を加工したものなのか。

 

 今の段階では判断できなかった。

 

 少なくとも、羽根そのものに攻撃力を持たせる仕組みがあることは確かだ。

 

 問題は、それ以外の用途だ。

 

 先ほどの男は、逃走する際に複数の羽根を地面へ散らした。

 

 あれは単なる目眩ましではなかった。

 

 追撃しようとした俺の足元から、羽根が跳ね上がってきたのだ。

 

 設置型の罠としても使える。

 

 しかも、羽根に触れた際に別の効果が発生する可能性もある。

 

 そう考えると、安易に回収するべきではない。

 

「アオ」

 

 リリアが路地の奥へ目を向けた。

 

「逃げた人の足跡、途中までは残ってる」

 

「追えそうか?」

 

「追えると思う。でも……」

 

 彼女は少し言葉を区切った。

 

「わざと残してる気がする」

 

 俺は顔を上げた。

 

「理由は?」

 

「逃げ方が不自然なの。あの人、最初は足音を消すように走ってた。でも、途中から急に足跡が目立つ場所を選んでる」

 

 なるほど。

 

 追跡されることを前提にした動きか。

 

 俺は路地の奥を見た。

 

 灰色の外套を着た男。

 

 黒い羽根を操る念能力者。

 

 陰獣『黒鴉』の関係者である可能性が高い。

 

 ただし、本人ではない。

 

 それはまだ推測にすぎないが、男の口ぶりや行動からして、誰かの指示で動いている印象が強かった。

 

 そして、その誰かが黒鴉だとすれば。

 

 こちらを誘い込むための仕掛けが用意されていても不思議ではない。

 

「……追わない方がいいな」

 

 俺が言うと、リリアも頷いた。

 

「うん。今の足跡は信用できない」

 

「警察へ戻ろう。建物の場所は分かったし、あの男の特徴も伝えられる」

 

「分かった」

 

 俺は最後に、壁へ刺さった羽根を見た。

 

 黒い羽根。

 

 陰獣。

 

 十老頭。

 

 原作の知識があるからこそ、その名前の重みは理解している。

 

 だが、知識だけで目の前の相手を判断するつもりはなかった。

 

 今は1989年。

 

 俺が知っている物語が始まるより、ずっと前だ。

 

 この時代の陰獣が、どのような能力を持ち、どの程度の実力者なのか。

 

 それは、実際に確かめなければ分からない。

 

 俺は立ち上がった。

 

「行こう」

 

「うん」

 

 俺たちは路地を後にした。

 

 背後で、風が吹いた。

 

 壁に突き刺さった黒い羽根が、わずかに震えた。

 

     ◇

 

 警察署へ戻ったのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。

 

 ヴァレン・クロフト警部補は、会議室で複数の報告書を確認していた。

 

 俺たちが入ると、すぐに顔を上げる。

 

「戻ったか。何か分かったか?」

 

「監視していた男を追跡しました」

 

 俺は答えた。

 

「北西部の倉庫地区に、連中の連絡拠点と思われる建物があります」

 

 ヴァレンの表情が引き締まった。

 

「場所は?」

 

 リリアが地図を広げた。

 

 彼女は迷わず、一つの区画を指差した。

 

「ここです。古い紡績工場の裏手。灰色の三階建ての建物」

 

 ヴァレンはすぐにメモを取った。

 

「出入りは?」

 

「少なくとも五人。屋上にも見張りがいました。裏口が二つあります」

 

 リリアは建物の構造を簡単に説明した。

 

 俺は続けた。

 

「中で、警察署の留置場に仕込まれた念について話していました。証人への干渉は、あの拠点の人間が関与している可能性が高いです」

 

 ヴァレンは眉間に皺を寄せた。

 

「……やはりか」

 

「それと、もう一つ」

 

 俺は少し間を置いた。

 

「陰獣が動いています」

 

 その言葉を聞いた瞬間、会議室の空気が変わった。

 

 ローデリックが椅子から身を起こした。

 

「……陰獣だと?」

 

「ええ」

 

「確かなのか?」

 

「連中の会話を聞きました。十老頭側から使者が派遣されるそうです」

 

 ローデリックの顔が険しくなった。

 

「……誰だ?」

 

「黒鴉」

 

 その名前を告げると、彼はしばらく黙った。

 

「……聞いたことはねえな」

 

「俺もです」

 

 俺は頷いた。

 

「ただ、連中は相当警戒していました」

 

 ローデリックは腕を組んだ。

 

「陰獣の構成員は、表に名前が出ること自体少ねえ。俺も全員を知っているわけじゃない」

 

「どの程度の戦力なんです?」

 

 ヴァレンが尋ねた。

 

 ローデリックは少し考えた。

 

「十老頭直属の念能力者集団だ。そこらの用心棒とは格が違う。暗殺、護衛、制圧……裏社会の荒事を専門に引き受ける連中だな」

 

 俺は黙って聞いていた。

 

「ただし、陰獣だから全員が同じ強さというわけじゃねえ。念能力は相性が大きい。正面から殴り合う奴もいれば、毒や罠を使う奴もいるだろう」

 

「なるほど」

 

 ヴァレンは頷いた。

 

「警察だけで対処するのは難しい、ということか」

 

「相手次第だが、念を知らない警官を不用意にぶつけるのは危険だ」

 

 ローデリックはそう答えた。

 

 俺も同意見だった。

 

 陰獣の中に、俺と正面から互角に戦える者がいるとは限らない。

 

 だが、強さとは単純な身体能力だけでは決まらない。

 

 未知の念能力。

 

 発動条件。

 

 人質。

 

 地形。

 

 そして、相手がどこまでこちらの情報を把握しているか。

 

 そうした要素によって、戦いの難しさは大きく変わる。

 

 特に今回の敵は、警察の留置場にまで手を伸ばしてきた。

 

 正面から戦うより、間接的な手段を好む連中なのかもしれない。

 

「……一つ気になることがあります」

 

 俺は言った。

 

 ヴァレンがこちらを見た。

 

「何だ?」

 

「陰獣は、十老頭直属の戦力です。普通の人身売買事件に、わざわざ投入するとは考えにくい」

 

 ローデリックが頷いた。

 

「俺もそこが引っかかってる」

 

「つまり、今回の事件には、俺たちがまだ知らない何かがある」

 

 俺は机の上の帳簿へ視線を向けた。

 

「……おそらく、あれです」

 

 ヴァレンも帳簿を見た。

 

 船長室から押収された記録。

 

 そこには、まだ解読されていない情報が数多く残っている。

 

 俺は続けた。

 

「連中は、船を失ったことより、帳簿を押収されたことを恐れているんじゃないでしょうか」

 

 ローデリックが低く唸った。

 

「……あり得るな」

 

「もし、あの帳簿に複数の組織を繋ぐ情報が記されていたら?」

 

 俺は言葉を続けた。

 

「それが警察に渡ったことで、マフィア側に大きな損害が出る可能性があります」

 

 ヴァレンはしばらく考え込んだ。

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

「……帳簿の解析を急がせよう」

 

     ◇

 

 その日の夕方。

 

 リリアが見つけた三本の斜線の記号について、最初の手掛かりが得られた。

 

 警察の資料室で古い押収記録を調べていたグレゴールが、似た印の付いた書類を発見したのだ。

 

「これを見てくれ」

 

 彼は会議室の机へ、一枚の古い書類を置いた。

 

 紙は黄ばんでおり、端が擦り切れている。

 

 数年前に摘発された密輸事件の記録らしい。

 

「この事件では、違法な薬品と武器が運ばれていた。押収された木箱に、同じような印があったんだ」

 

 俺は書類を覗き込んだ。

 

 確かに、三本の斜線を重ねた記号がある。

 

「同じ組織ですか?」

 

「断定はできない。ただ、当時の捜査記録には、複数の運送業者が関わっていたと書かれている」

 

 グレゴールは別の書類を取り出した。

 

「そのうち一社が、現在のベルク運送商会と取引していた」

 

 俺は目を細めた。

 

 ベルク運送商会。

 

 今回の事件で、B-317の輸送に関わっていた会社だ。

 

 偶然にしては、繋がりが多い。

 

「……つまり、この印は特定の輸送網を示している可能性がある」

 

 俺が言うと、グレゴールは頷いた。

 

「そう考えている」

 

 リリアが書類へ目を落とした。

 

「この記録、輸送先の名前が消されてる」

 

「消されている?」

 

「うん。ほら」

 

 彼女が指差した部分には、黒いインクで塗り潰された箇所があった。

 

 ただし、完全には消えていない。

 

 文字の一部が、かすかに残っている。

 

 俺は『凝』を使って確認した。

 

 ……いや。

 

 これは念の問題じゃないな。

 

 単純に、紙の表面を削った痕だ。

 

「何か読めるか?」

 

 俺が尋ねると、リリアは少し顔を近づけた。

 

「……『北』、かな」

 

 俺は彼女を見た。

 

「北?」

 

「うん。その後ろは分からないけど」

 

 北。

 

 エレナが話していた、北の中継所。

 

 俺はグレゴールへ視線を向けた。

 

「この事件の輸送先、分かりますか?」

 

「当時は特定できなかったらしい。関係者が黙秘したうえ、主要な証人が行方不明になっている」

 

 ……なるほど。

 

 過去にも似たようなことが起きていたわけか。

 

 俺は少し考えた。

 

 古い密輸事件。

 

 同じ記号。

 

 ベルク運送商会との繋がり。

 

 そして、北の中継所。

 

 別々に見えていた情報が、少しずつ一つの線になり始めている。

 

「この資料、ほかにもありますか?」

 

 俺が尋ねると、グレゴールは頷いた。

 

「ああ。倉庫の所在地や、押収品の一覧も残っている」

 

「見せてください」

 

 俺は即答した。

 

 リリアも顔を上げた。

 

「私も見たい」

 

 グレゴールは頷いた。

 

「分かった。持ってこよう」

 

     ◇

 

 資料を調べ始めてから、一時間ほどが過ぎた。

 

 机の上には、古い地図と押収記録が広げられている。

 

 リリアは地図の上へ、いくつかの印を付けていた。

 

 過去の密輸事件で使われた倉庫。

 

 今回の貨物船が停泊していた岸壁。

 

 ベルク運送商会の第三倉庫。

 

 そして、旧工房。

 

 それらを線で結んでいく。

 

 俺はその様子を見ながら、少し考えた。

 

 輸送経路として見ると、妙な点がある。

 

 貨物船の岸壁から、ベルク運送商会の第三倉庫までは、比較的短い距離だ。

 

 だが、旧工房はそこから外れた場所にある。

 

 さらに、古い密輸事件で使われた倉庫は、街の北側へ偏っていた。

 

 ……北の中継所。

 

 もし、その呼び名が実際の方角を示しているなら。

 

 俺は地図の北側へ目を向けた。

 

「……リリア」

 

「うん?」

 

「この辺り、どう思う?」

 

 俺が指差したのは、街の北端にある古い工業地区だった。

 

 運河から枝分かれした細い水路が通り、その周囲には使われなくなった倉庫が並んでいる。

 

 リリアはしばらく地図を見つめた。

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

「……気になる」

 

「理由は?」

 

「ここだけ、輸送記録が途切れてるの」

 

 彼女は地図の一箇所を指差した。

 

「南側の倉庫から北へ向かう荷物はある。でも、北から出ていく記録が少ない」

 

 俺は目を細めた。

 

 確かに。

 

 通常の物流なら、搬入と搬出の記録がある程度対応するはずだ。

 

 だが、この地区では搬入ばかりが目立っている。

 

 もちろん、古い資料なので記録が不完全な可能性はある。

 

 それでも、調べる価値は十分にあった。

 

「……保管場所かもしれないな」

 

 俺が言うと、リリアは頷いた。

 

「うん。次の便まで荷物を置いておく場所」

 

 俺はエレナの証言を思い出した。

 

 ――次の便まで置いておく。

 

 その言葉と、地図の不自然な空白。

 

 偶然ではないかもしれない。

 

 俺はヴァレンへ報告した。

 

 彼は地図を確認し、しばらく考え込んだ。

 

「……北部工業地区か」

 

「ええ。確証はありませんが、調査する価値はあると思います」

 

「分かった。まずは土地の所有者と、現在の使用状況を調べよう」

 

 ヴァレンは頷いた。

 

「ただし、すぐに踏み込むわけにはいかない」

 

「もちろんです」

 

 俺も頷いた。

 

 相手が人質を抱えている可能性がある以上、無計画な突入は危険だ。

 

 それに、念能力者が警戒している。

 

 まずは周囲の状況を把握する必要があった。

 

 リリアが静かに言った。

 

「……私が見てこようか?」

 

 俺は彼女を見た。

 

「一人で?」

 

「アオも一緒でもいいけど、二人で動くと目立つ場所もあるから」

 

 俺は少し考えた。

 

 彼女の言うことには一理ある。

 

 リリアの隠密技術は非常に高い。

 

 『絶』を使い、地形を利用すれば、普通の見張りに気づかれず接近することも可能だろう。

 

 だが、相手が念能力者なら話は別だ。

 

 『絶』を使っていても、姿が消えるわけではない。

 

 物音や足跡まで完全に消せるわけでもない。

 

 それに、未知の能力が仕掛けられている可能性もある。

 

「……今回は二人で行こう」

 

 俺は答えた。

 

 リリアは頷いた。

 

「分かった」

 

「ただし、近づきすぎない。まずは外から確認するだけだ」

 

「うん」

 

 ヴァレンが俺たちを見た。

 

「無茶はするなよ」

 

「分かっています」

 

 俺は答えた。

 

 だが、内心では別のことを考えていた。

 

 ……時間がないかもしれない。

 

 敵は、こちらが帳簿を調べていることを知っている。

 

 そして、陰獣が動き始めた。

 

 もし北の中継所が実在するなら、連中が証拠や人質を移動させる可能性は高い。

 

 調査は急ぐ必要があった。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 街の中心部にある高級ホテルの一室では、二人の男が向かい合っていた。

 

 一人はダリオ・ゼッカート。

 

 もう一人は、濃紺の背広を着た初老の男だった。

 

 部屋には高価な家具が並び、窓からは街の中心部を見渡せる。

 

 だが、ダリオの表情に余裕はなかった。

 

「……申し訳ありません」

 

 彼は深く頭を下げた。

 

 初老の男は、静かに葉巻を燻らせている。

 

「謝罪は聞き飽きた」

 

 低い声だった。

 

 ダリオは顔を上げられなかった。

 

「船を失った」

 

「……はい」

 

「貨物も失った」

 

「……はい」

 

「帳簿まで警察に押収された」

 

 初老の男は葉巻を灰皿へ置いた。

 

「……それで、お前は何をしに来た?」

 

 ダリオの額に汗が浮かんだ。

 

「……ご支援をお願いしたく」

 

 初老の男は笑わなかった。

 

「支援?」

 

「このままでは、警察の捜査が広がります。私の会社だけでは対応しきれません」

 

「当然だろう」

 

 男は冷たく言った。

 

「お前がしくじったのだからな」

 

 ダリオは唇を噛んだ。

 

 初老の男は続けた。

 

「問題は、失った船でも貨物でもない」

 

 彼は机の上へ、一枚の紙を置いた。

 

 そこには、三本の斜線を重ねた記号が描かれていた。

 

「……これだ」

 

 ダリオの顔色が変わった。

 

「……それは」

 

「お前が扱っていた帳簿に、この印が残っていたそうだな」

 

 ダリオは何も答えられなかった。

 

 初老の男は静かに続けた。

 

「この印が何を意味するか、お前は知っているはずだ」

 

「……はい」

 

「ならば、どれほど愚かなことをしたかも分かるだろう」

 

 ダリオは俯いた。

 

 初老の男は葉巻を取り上げた。

 

「……あれは、単なる人身売買の記録ではない」

 

 彼は低い声で言った。

 

「複数の組織が共同で使用している輸送網の記録だ」

 

 ダリオは息を呑んだ。

 

「……ですが、帳簿にはすべての情報が記されているわけでは……」

 

「それでも十分だ」

 

 男は言葉を遮った。

 

「取引先、資金の流れ、中継地点。そこから辿れるものがある」

 

 ダリオは黙った。

 

「もし警察がそれを解読すれば、いくつもの組織が損害を受ける」

 

 初老の男は窓の外へ目を向けた。

 

「……お前一人の失態で済む話ではないのだ」

 

 部屋に沈黙が落ちた。

 

 ダリオは震える声で尋ねた。

 

「……では、どうすれば」

 

 初老の男はゆっくりと振り返った。

 

「……すでに手は打ってある」

 

「……手、ですか?」

 

「ああ」

 

 男は静かに言った。

 

「陰獣が動いている」

 

 ダリオの顔色が、さらに悪くなった。

 

「……陰獣……」

 

「まずは黒鴉が状況を調べている」

 

 初老の男は続けた。

 

「だが、現時点では大規模な戦力投入は認められていない」

 

 ダリオは顔を上げた。

 

「……なぜです?」

 

 初老の男は冷たい目で彼を見た。

 

「たかが船一隻と帳簿一冊のために、十老頭直属の戦力を何人も動かせると思うか?」

 

 ダリオは言葉を失った。

 

「陰獣は便利な用心棒ではない。必要なときにだけ使う切り札だ」

 

 男は葉巻を灰皿へ押しつけた。

 

「……だが」

 

 その声が、わずかに低くなる。

 

「警察が輸送網の中枢へ近づけば、話は変わる」

 

 ダリオは息を呑んだ。

 

「……そのときは?」

 

 初老の男は静かに答えた。

 

「……上が判断する」

 

 その言葉に、ダリオは深く頭を下げた。

 

 彼には、もう何も言えなかった。

 

     ◇

 

 北部工業地区へ向かったのは、日が傾き始めた頃だった。

 

 俺とリリアは、古い水路沿いの道を歩いていた。

 

 周囲には使われなくなった工場が並び、錆びた鉄骨や崩れかけた煙突が夕陽を受けている。

 

 水路の水は濁っており、油膜が薄く浮かんでいた。

 

 遠くでは、まだ稼働している工場の機械音が聞こえる。

 

 だが、この辺りは静かだった。

 

「……人が少ないね」

 

 リリアが呟いた。

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

 昼間でも人通りが少ない場所だ。

 

 夜になれば、さらに静かになるだろう。

 

 人質を隠すには都合がいい。

 

 俺たちは周囲を確認しながら進んだ。

 

 リリアは地面の痕跡を調べ、俺は建物の配置と気配を確認する。

 

 しばらくして、彼女が足を止めた。

 

「……アオ」

 

「何かあったか?」

 

「ここ、最近荷車が通ってる」

 

 彼女が示したのは、古い石畳の道だった。

 

 表面には車輪の痕が残っている。

 

 それ自体は珍しくない。

 

 だが、リリアはその痕を指でなぞった。

 

「同じ幅の車輪が、何度も通ってる」

 

「荷物の運搬か」

 

「うん。それに、重いものを載せてたみたい」

 

 俺は地面を見た。

 

 車輪の痕が、ほかの場所より深い。

 

 確かに、かなりの重量があったらしい。

 

 俺たちはその痕を辿った。

 

 道は水路沿いを進み、やがて一つの倉庫へ続いていた。

 

 古い煉瓦造りの建物。

 

 屋根の一部は錆びた鉄板で補修されている。

 

 窓は高い位置にあり、外から内部を覗くことは難しい。

 

 だが、入口の扉は新しかった。

 

 周囲の建物と比べて、明らかに手入れされている。

 

 ……怪しいな。

 

 俺はリリアへ目を向けた。

 

「どう思う?」

 

「……使われてる」

 

 彼女は即答した。

 

「人の出入りがある。しかも、最近かなり多い」

 

 俺は頷いた。

 

 俺たちは建物から距離を取り、周囲を観察した。

 

 倉庫の裏手には水路がある。

 

 小型の船なら接岸できそうな場所だ。

 

 正面には荷車が通れる道。

 

 そして、左右には古い工場。

 

 ……輸送拠点としては都合がいい。

 

 俺は『円』を使うか迷った。

 

 範囲内に人間がいれば、位置を把握できる。

 

 だが、相手が念能力者なら、こちらの存在を察知する可能性がある。

 

 今はまだ、こちらが来ていることを知られたくない。

 

 俺は『絶』を維持したまま、気配を探った。

 

 ……いるな。

 

 建物の中に、複数の人間がいる。

 

 ただし、正確な人数までは分からない。

 

 リリアが小さく言った。

 

「……見張りがいる」

 

 俺は彼女の視線を追った。

 

 倉庫の二階。

 

 窓の陰に、人影があった。

 

 双眼鏡のようなものを持っている。

 

 周囲を監視しているらしい。

 

 ……なるほど。

 

 ただの倉庫ではない。

 

 俺はリリアへ合図した。

 

 彼女は頷き、建物の側面へ移動する。

 

 俺も少し離れた位置から周囲を確認した。

 

 そのとき。

 

 倉庫の中から、かすかな音が聞こえた。

 

 ……ん?

 

 俺は耳を澄ませた。

 

 何かを叩くような音。

 

 続いて、弱々しい声。

 

 ……子供か?

 

 俺は表情を引き締めた。

 

 リリアも気づいたらしい。

 

 彼女がこちらを見た。

 

 俺は小さく頷いた。

 

 ……いる。

 

 この中に、人がいる。

 

 それも、自由に動ける状態ではない可能性が高い。

 

 俺は無線機へ手を伸ばした。

 

「こちらアオ。北部工業地区の倉庫で、不審な人の出入りを確認しました」

 

 雑音が混じる。

 

『こちらクロフト。続けてくれ』

 

「建物の内部から、子供と思われる声が聞こえます。監禁されている可能性があります」

 

 短い沈黙。

 

『……場所は?』

 

 俺は倉庫の位置を伝えた。

 

 ヴァレンの声が、少し低くなった。

 

『分かった。すぐに応援を向かわせる』

 

「お願いします。ただし、念能力者がいる可能性があります」

 

『了解した。突入は君たちと相談してから判断する』

 

 通信が切れた。

 

 俺は無線機をしまった。

 

 ……さて。

 

 応援が来るまで、どれくらいかかるだろう。

 

 その間に、連中が動き出さなければいいが。

 

 俺は倉庫を見た。

 

 内部から、再び小さな声が聞こえた。

 

 ……待ってろ。

 

 必ず助ける。

 

     ◇

 

 倉庫の中では、数人の男が慌ただしく動いていた。

 

 木箱が並ぶ薄暗い室内。

 

 その奥には、鉄格子で仕切られた小部屋があった。

 

 中には、十人近い人間が閉じ込められている。

 

 子供。

 

 女性。

 

 そして、数人の男性。

 

 彼らは疲れ切った表情で、壁際に座り込んでいた。

 

 その前を、灰色の作業着を着た男が歩いている。

 

「……急げ!」

 

 男が怒鳴った。

 

「今夜の便を早める!」

 

 別の男が顔を上げた。

 

「……何かあったんですか?」

 

「警察が動いてる」

 

 作業着の男は吐き捨てた。

 

「南の倉庫も押さえられた。ここも危ねえ」

 

「……じゃあ、どうするんです?」

 

「荷を移す。夜まで待ってられねえ」

 

 男は鉄格子の中を見た。

 

 怯えた人々が、身を寄せ合っている。

 

「……こいつらを全部、船へ乗せろ」

 

 別の男が頷いた。

 

「分かりました」

 

 そのとき。

 

 倉庫の奥から、黒い外套を着た男が現れた。

 

 細い目。

 

 無表情。

 

 そして、黒い手袋。

 

 男は静かに言った。

 

「……慌てるな」

 

 作業着の男が振り返った。

 

「……黒鴉様」

 

 その呼び名に、周囲の男たちが一斉に姿勢を正した。

 

 黒鴉は、ゆっくりと室内を見渡した。

 

「……警察が近づいているのか?」

 

「はい。南の拠点が押さえられました」

 

「……なるほど」

 

 黒鴉は小さく頷いた。

 

 そして、鉄格子の中へ目を向けた。

 

「……ここは、まだ使える」

 

 作業着の男が困惑した。

 

「ですが、警察が……」

 

「だからこそだ」

 

 黒鴉は静かに答えた。

 

「……相手がここへ来るなら、こちらも準備できる」

 

 男は口を閉ざした。

 

 黒鴉は指先で、一枚の黒い羽根を弄んだ。

 

「……あの若いハンターが来る可能性は高い」

 

 その声には、わずかな興味が混じっていた。

 

「……アオ、だったか」

 

 黒鴉は静かに呟いた。

 

 そして、薄く笑った。

 

「……まずは、どこまで見えているか確かめよう」

 

 羽根が、指先から離れた。

 

 それは空中で静止し、ゆっくりと回転する。

 

 やがて、倉庫の暗がりへ消えていった。

 

     ◇

 

 夕陽が、倉庫の壁を赤く染めていた。

 

 俺は建物の外から、内部の気配を探っていた。

 

 警察の応援は、まだ到着していない。

 

 リリアは少し離れた場所で、裏手の水路を監視している。

 

 そのとき。

 

 ……ん?

 

 俺は顔を上げた。

 

 何かが、窓の隙間から飛び出してきた。

 

 小さな黒い影。

 

 羽根。

 

 俺は目を細めた。

 

 ……またか。

 

 黒い羽根は、風に乗るように空中を漂っている。

 

 だが、動きが不自然だった。

 

 一定の高さを保ち、ゆっくりと周囲を旋回している。

 

 ……偵察用か。

 

 俺は『凝』を使った。

 

 羽根には、薄いオーラがまとわりついている。

 

 先ほど路地で見たものと、よく似ていた。

 

 ……黒鴉。

 

 どうやら、あの男がここにいるらしい。

 

 俺は羽根を見つめた。

 

 破壊することは簡単だろう。

 

 だが、それではこちらの存在を知らせるだけかもしれない。

 

 それに、羽根を通して周囲を感知できる能力なら、すでに見つかっている可能性もある。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……さて。

 

 どう動く?

 

 そのとき、無線機からヴァレンの声が届いた。

 

『アオ、聞こえるか』

 

「はい」

 

『応援が向かっている。到着まで十分ほどだ』

 

「了解です」

 

『それと、もう一つ』

 

 ヴァレンの声が、わずかに険しくなった。

 

『帳簿の解析が進んだ』

 

 俺は目を細めた。

 

「……何か分かりましたか?」

 

『ああ。あの三本の斜線の記号だ』

 

 俺は静かに耳を傾けた。

 

『複数の輸送会社が共同で使っていた取引網を示す印らしい。少なくとも三つの都市に関係している』

 

「……やはり」

 

『それだけじゃない』

 

 ヴァレンは続けた。

 

『帳簿に記された送金先の一部が、別の犯罪事件で押収された口座記録と一致した』

 

 俺は眉を寄せた。

 

「……つまり?」

 

『今回の人身売買事件は、単独の組織の犯行じゃない。複数のマフィア組織が関わっている可能性が高い』

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……なるほど。

 

 ようやく、全体像が見え始めた。

 

 だが、同時に別のことも理解した。

 

 この情報が警察に渡ったと知れば、マフィア側は黙っていない。

 

 すでに陰獣が動いているのも、そのためだろう。

 

「警部補」

 

『何だ?』

 

「この倉庫、重要な拠点かもしれません」

 

『……どういうことだ?』

 

「人質がいるだけじゃない。輸送網の中継地点として使われている可能性があります」

 

 ヴァレンは短く息を吸った。

 

『……分かった。応援を急がせる』

 

「お願いします」

 

 通信が切れた。

 

 俺は無線機をしまった。

 

 そして、倉庫へ視線を戻した。

 

 黒い羽根が、まだ空中を漂っている。

 

 その動きは、ゆっくりとしていた。

 

 まるで、こちらを誘っているかのように。

 

 ……なるほど。

 

 相手も、こちらの存在を察知しているらしい。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 だが、今すぐ動くつもりはなかった。

 

 人質がいる。

 

 警察の応援も向かっている。

 

 そして、相手の能力はまだ分からない。

 

 焦る理由はない。

 

 俺はリリアへ視線を向けた。

 

 彼女も、こちらを見ていた。

 

 俺は小さく頷いた。

 

 リリアも頷き返す。

 

 言葉は必要なかった。

 

 俺たちは、それぞれの位置で監視を続けた。

 

 夕陽が沈み始める。

 

 倉庫の影が、長く伸びていく。

 

 その暗がりの中で。

 

 黒い羽根が、一枚、また一枚と増えていった。

 

 俺は静かに目を細めた。

 

 ……来るか。

 

 だが。

 

 今度は、こちらも準備ができている。

 

 俺は腰のナイフへ、そっと指を添えた。

 

 流星街で拾い、長年使い続けてきた古いナイフ。

 

 幾度となく手入れを重ね、今も手元に残している武器だ。

 

 素手で済むなら、それでいい。

 

 だが、相手が人質の命を脅かすなら。

 

 必要な手段を躊躇するつもりはなかった。

 

 俺は静かに呼吸を整えた。

 

 ……さて。

 

 黒鴉。

 

 お前が何を企んでいるのかは知らない。

 

 だが。

 

 この中にいる人間を、これ以上好きにはさせない。

 

 夕暮れの倉庫街に、冷たい風が吹いた。

 

 そして。

 

 黒い羽根が、静かに舞い始めた。

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