流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
日が沈みかけていた。
北部工業地区を流れる水路は、夕焼けの赤を濁った水面に映している。錆びついた鉄骨、崩れかけた煙突、長年使われていない工場の壁。その隙間を縫うように吹く風には、油と泥、それに古い木材の匂いが混じっていた。
俺は煉瓦造りの倉庫を見据えた。
三階建てほどの高さがある建物だ。
正面には大型の荷車が出入りできる鉄扉。側面には人間一人が通れる通用口があり、裏手は水路に面している。
その水路には、古い荷揚げ用の桟橋が突き出していた。
現在、船は停泊していない。
だが、係船柱に巻かれた縄の一部だけが新しい。
最近まで使われていた証拠だ。
「……増えたね」
隣でリリアが呟いた。
彼女の視線は、倉庫の二階にある窓へ向けられていた。
正確には、その周囲を漂う黒い羽根へ。
「ああ」
俺は短く答えた。
最初に見つけたときは一枚だった。
それが今では、十枚を超えている。
黒い羽根は風に流されるように舞っているが、動きに不自然な規則性があった。一定の範囲から離れず、窓と屋根の間をゆっくりと巡っている。
『凝』を使えば、羽根の表面に薄くまとわりつくオーラが見えた。
念能力によって操られている。
それは間違いない。
問題は、その用途だ。
攻撃。
監視。
追跡。
あるいは、それらを組み合わせた能力かもしれない。
昨日から今日にかけて、俺たちは羽根を操る念能力者と一度接触している。
あの灰色の外套の男は、羽根を石壁へ突き刺し、地面に散らした羽根を罠として使っていた。
そして、倉庫の内部には陰獣の『黒鴉』がいる可能性が高い。
同じような羽根を使う能力者が二人。
偶然とは考えにくかった。
「アオ」
「ん?」
「屋根の上の見張り、さっきから動いてない」
俺は視線を上げた。
屋根の端に、人影が一つ。
身を隠しているつもりなのだろうが、こちらからは肩の一部が見えていた。
「こちらを探してるのか?」
「たぶん。でも、普通の見張りにしては視線が高いところへ向きすぎてる」
俺は少し考えた。
周囲の道路ではなく、建物の屋根や高所を警戒している。
つまり、相手も念能力者の接近を想定しているのかもしれない。
黒鴉がこちらの情報を集めているなら、俺の身体能力についても報告を受けているはずだ。
先ほどの男には、石を一つ投げて見せた。
その威力を見れば、普通の人間とは違うと理解しただろう。
……余計な手の内を見せたか。
いや。
あの場で無用な戦闘を避けられたのだから、結果としては間違っていない。
俺は無線機を取り出した。
「こちらアオ。倉庫周辺に変化があります」
短い雑音のあと、ヴァレン・クロフト警部補の声が返ってきた。
『こちらクロフト。状況は?』
「窓と屋根の周囲に、念能力で操作されていると思われる物体が増えています。黒い羽根です」
『……黒鴉の能力か?』
「関係はあると思います。ただし、詳細は不明です」
『了解した。こちらの部隊は五分ほどで配置につく』
「突入は待ってください。人質がいます」
『分かっている。まずは包囲だ』
通信が切れた。
俺は無線機をしまい、再び倉庫を見た。
五分。
短いようで、状況が変わるには十分な時間だ。
特に、敵が人質を移動させようとしているなら。
俺はリリアへ目を向けた。
「裏手の水路を見てきてくれ。船が来るかもしれない」
「分かった。アオは?」
「正面を監視する。何か動きがあれば連絡する」
「うん」
リリアは頷いた。
そして、建物の陰へ身を滑り込ませた。
足音はほとんど聞こえなかった。
彼女の右手の人差し指には、銀色の指輪が嵌められている。
『静寂の環』。
足音や衣服の擦れる音を抑える効果を持つ宝物だ。
ただし、完全な無音になるわけではないし、姿が見えなくなるわけでもない。
リリアはそれを理解したうえで、地形と物陰を利用して移動している。
俺は彼女の姿が消えたことを確認し、倉庫へ視線を戻した。
……さて。
黒鴉。
お前は何を狙っている?
◇
倉庫の内部では、男たちが慌ただしく動いていた。
木箱が積まれた広い空間。
その奥には、鉄格子で仕切られた部屋がある。
中に閉じ込められているのは、十一人。
男が三人。
女が四人。
子供が四人。
いずれも疲弊しており、まともに歩ける者は少なかった。
灰色の作業着を着た男が、部下へ怒鳴った。
「急げ! 荷をまとめろ!」
「ですが、船がまだ来てません!」
「来るまでに準備を終わらせるんだよ!」
男は苛立たしげに木箱を蹴った。
その音に、鉄格子の中の子供が身を竦める。
だが、作業着の男は気にも留めなかった。
「……まったく、何でこんなことに」
彼は吐き捨てた。
昨夜、南の運河で船が押収された。
その後、複数の倉庫が警察の捜査対象になった。
今朝には、取引先の一つが連絡を絶った。
さらに、帳簿が警察に渡ったという。
それだけでも十分な災難だった。
だが、もっと厄介なのは別のことだ。
十老頭直属の陰獣。
その一人が、この倉庫に来ている。
作業着の男は、部屋の奥へ視線を向けた。
黒い外套を着た男が、木箱に腰掛けていた。
黒鴉。
細い目。
無表情。
指先には一枚の黒い羽根。
彼は周囲の騒ぎを気にする様子もなく、静かに羽根を弄んでいた。
「……黒鴉様」
作業着の男が恐る恐る声を掛けた。
「何だ」
「船が来れば、すぐに出発できます」
「そうか」
「ですが……警察が近づいているという話もありまして」
黒鴉は顔を上げた。
「……だから?」
「いえ、その……」
男は言葉に詰まった。
黒鴉は小さく息を吐いた。
「慌てるな」
「ですが……」
「警察が来ることは分かっている」
黒鴉は静かに言った。
「問題は、警察と一緒に来るハンターだ」
作業着の男が息を呑んだ。
「……例の若造ですか?」
「ああ」
黒鴉は指先の羽根を回した。
「アオ。十五歳。一ツ星のブラックリストハンター」
彼は淡々と続けた。
「報告によれば、身体能力が異常に高い。念の扱いにも熟達しているらしい」
「……十五歳で?」
「年齢など関係ない」
黒鴉は冷たく答えた。
「念能力者を年齢で判断する奴は、長生きできん」
作業着の男は黙った。
黒鴉は羽根を指先で弾いた。
羽根は宙へ浮かび、ゆっくりと回転する。
「……それに、あの男は除念に近いことができる可能性がある」
「……除念?」
「留置場に仕込んだ念が消えた」
黒鴉は静かに言った。
「普通のハンターなら、ああはならない」
作業着の男は顔色を悪くした。
「……では、どうすれば」
「お前たちは予定どおり動け」
黒鴉は立ち上がった。
「ただし、荷の移動は俺の指示があるまで待て」
「……分かりました」
男は頭を下げた。
黒鴉は倉庫の高い窓へ目を向けた。
外では、黒い羽根がゆっくりと舞っている。
彼は薄く笑った。
「……さて」
その目が、細くなる。
「どこから来る?」
◇
警察の部隊が到着したのは、それから四分後だった。
車両は倉庫から離れた場所で停止し、警官たちは徒歩で配置についた。
ヴァレンは先頭に立ち、周囲の状況を確認している。
俺は物陰から姿を現した。
「警部補」
「アオ。状況は?」
「大きな変化はありません。ただ、内部で人が動いています」
「人質の移動か?」
「可能性はあります」
ヴァレンは頷いた。
「こちらは正面と裏手を押さえる。水路側には別の班を回した」
「念能力者がいます。普通の警官だけで接近するのは危険です」
「分かっている。ローデリックにも来てもらった」
その言葉と同時に、背後から大柄な男が現れた。
ローデリック・フェイン。
灰色の髪。
厚い肩。
年季の入った外套。
彼は俺を見るなり、口元を歪めた。
「……また面倒な場所を見つけたな」
「偶然ですよ」
「偶然で陰獣にぶつかる奴がいるか」
俺は肩を竦めた。
ローデリックは倉庫を見た。
「……あれが黒鴉のいる場所か」
「おそらく」
「人数は?」
「正確には分かりません。見張りは複数。内部にも十人前後はいると思います」
ローデリックは頷いた。
「人質は?」
「子供の声を確認しました。人数は不明です」
ヴァレンが口を開いた。
「無闇な突入は避けたい。だが、逃走の準備をしているなら時間もない」
俺は倉庫を見た。
正面の鉄扉。
側面の通用口。
裏手の水路。
そして、屋根の上の見張り。
敵は、こちらが包囲していることに気づいている可能性が高い。
ならば、奇襲だけに頼るのは危険だ。
「……一つ提案があります」
俺が言うと、ヴァレンが顔を向けた。
「何だ?」
「俺が先に入ります」
ローデリックが眉を上げた。
「単独でか?」
「はい」
俺は頷いた。
「ただし、無理に全員を制圧するつもりはありません。まずは人質の位置を確認します」
ヴァレンは少し考えた。
「……危険だぞ」
「分かっています」
俺は答えた。
「ですが、普通の警官が念能力者のいる場所へ踏み込む方が危険です」
ローデリックが腕を組んだ。
「……まあ、そりゃそうだ」
俺は続けた。
「人質の位置が分かれば、警察が安全に突入できる経路も判断できます」
ヴァレンはしばらく黙っていた。
そして、頷いた。
「……分かった。ただし、状況が悪ければすぐに引け」
「了解です」
俺は無線機を確認した。
そのとき、リリアから通信が入った。
『アオ、聞こえる?』
「ああ」
『水路側に船が来た』
俺は表情を引き締めた。
「どんな船だ?」
『小型の貨物船。船体は茶色。荷台に布が掛けられてる』
「人数は?」
『甲板に三人。操舵室にも一人いると思う』
俺はヴァレンへ目を向けた。
「船が来ました」
彼の顔が険しくなる。
「……移送が始まるか」
リリアの声が続いた。
『それと、アオ』
「何だ?」
『船の甲板に、黒い羽根が落ちてる』
俺は目を細めた。
……なるほど。
船にも仕込んでいるのか。
黒鴉は、倉庫の周囲だけでなく、逃走経路にも能力を配置しているらしい。
「リリア、船には近づくな」
『うん。今は離れた場所から見てる』
「そのまま監視を頼む」
『分かった』
通信が切れた。
俺はヴァレンへ状況を伝えた。
彼はすぐに水路側の班へ指示を出した。
……さて。
そろそろ、動く必要がある。
◇
倉庫への侵入経路は、正面ではなかった。
俺が選んだのは、建物の側面にある高窓だ。
地上から八メートルほど。
普通の人間なら梯子が必要だろう。
だが、俺には必要ない。
俺は壁の凹凸を確認した。
そして、軽く地面を蹴った。
身体が一気に浮き上がる。
窓枠へ指を掛け、そのまま身体を引き上げた。
音はほとんど立てていない。
俺は窓の隙間から内部を覗いた。
……いるな。
倉庫の中には、十数人の男たちがいた。
その多くは武器を持っている。
拳銃。
短銃身の散弾銃。
鉄棒。
そして、腰にナイフを下げた者もいる。
だが、俺が最初に探したのは武器ではなかった。
人質だ。
倉庫の奥。
鉄格子で仕切られた部屋。
その中に、複数の人影が見える。
……十一人か。
男が三人。
女が四人。
子供が四人。
外から見た限りでは、全員生きている。
俺は静かに息を吐いた。
……よし。
まずは位置を確認できた。
次に、見張りの配置。
正面の鉄扉に二人。
通用口に一人。
人質の部屋の前に三人。
残りは木箱の周囲で作業している。
そして。
……いた。
倉庫の中央。
黒い外套を着た男が立っている。
細い目。
黒い手袋。
指先には、黒い羽根。
……黒鴉か。
俺は『凝』を使った。
男のオーラは、かなり抑えられていた。
だが、その流れは安定している。
念の扱いに慣れていることは間違いない。
……なるほど。
確かに、そこらの用心棒とは違う。
俺は窓枠へ手を掛けたまま、内部の構造を確認した。
人質の部屋までの距離は、およそ二十メートル。
途中には木箱が積まれている。
黒鴉は、その少し手前に立っていた。
……位置が悪いな。
俺が人質へ向かえば、黒鴉と接触する可能性が高い。
それに、倉庫の中には羽根がいくつも落ちている。
罠かもしれない。
俺は無線機へ手を伸ばした。
「こちらアオ。内部を確認しました」
『クロフトだ。状況は?』
「人質は十一人。倉庫奥の鉄格子の部屋にいます」
『十一人……』
「見張りは十数人。念能力者と思われる男が一人います」
『黒鴉か?』
「おそらく」
俺は続けた。
「人質の位置は確認できました。ですが、周囲に念の罠がある可能性があります」
『了解した。こちらは待機する』
「お願いします」
通信が切れた。
俺は窓から内部を見下ろした。
……さて。
どう動く?
そのときだった。
黒鴉が、ゆっくりと顔を上げた。
視線が、こちらへ向く。
俺は動かなかった。
黒鴉は、窓の暗がりを見つめていた。
そして。
薄く笑った。
「……そこか」
俺は静かに息を吐いた。
……気づかれたな。
次の瞬間。
黒い羽根が、倉庫の床から一斉に舞い上がった。
◇
羽根は、一直線に俺へ向かってきた。
十枚以上。
鋭く加速し、窓の隙間を狙って飛んでくる。
俺は窓枠を蹴った。
身体を外側へ投げ出す。
直後、羽根が窓枠へ突き刺さった。
乾いた音。
木片が飛び散る。
俺は空中で身体を捻り、壁を蹴って地面へ着地した。
……なるほど。
攻撃速度はそれなりだ。
だが、避けられないほどではない。
俺は倉庫を見上げた。
黒鴉の姿は、窓の奥へ消えている。
……こちらを誘っているのか。
そのとき、無線機からヴァレンの声が届いた。
『アオ! 何があった!?』
「見つかりました。念能力による攻撃を受けています」
『突入するか!?』
「まだです!」
俺は即答した。
「人質の近くに敵がいます。無闇に入れば危険です」
『分かった!』
俺は倉庫の壁を見た。
内部の配置は把握した。
ならば、別の方法がある。
俺はアイテムボックスから、小さな金属片を取り出した。
以前、道具の修理に使っていたものだ。
手のひらに収まる程度の大きさ。
俺はそれを指先で挟んだ。
……狙うのは、人質の部屋じゃない。
倉庫の反対側。
木箱が積まれた場所。
そこには、男たちが作業していた。
俺は『周』で金属片を強化した。
そして、窓の外から投げ込んだ。
鋭い音。
金属片が木箱の留め金へ命中する。
次の瞬間、留め金が砕けた。
木箱の蓋が跳ね上がり、中身が床へ散らばる。
男たちが叫んだ。
「何だ!?」
「敵だ!」
俺はその混乱を確認した。
……よし。
注意が逸れた。
俺は再び壁を駆け上がった。
今度は別の窓。
先ほどより少し奥にある。
俺は窓枠を掴み、内部へ身体を滑り込ませた。
着地。
音はほとんど立てていない。
俺は木箱の陰へ身を隠した。
……さて。
ここからが本番だ。
◇
倉庫の中は、騒然としていた。
男たちが武器を構え、周囲を見回している。
だが、俺の位置はまだ特定できていないらしい。
俺は木箱の陰から、人質の部屋へ目を向けた。
距離は十五メートルほど。
途中に二人の見張り。
その奥に、黒鴉。
……まずは見張りを無力化する。
俺は床を蹴った。
身体が一気に加速する。
最初の男がこちらを向く。
「……なっ!?」
声を上げるより早く、俺は男の手首を掴んだ。
拳銃を持つ腕を外側へ捻る。
関節を極め、武器を落とさせる。
そのまま腹部へ掌底。
男の身体が折れ曲がり、床へ崩れた。
続けて二人目。
こちらは散弾銃を構えていた。
俺は銃身を掴み、射線を天井へ逸らした。
男が引き金を引く。
轟音。
散弾が天井の梁へ食い込む。
俺は銃を奪い、男の顎へ軽く拳を入れた。
男は意識を失った。
……二人。
俺は次の相手へ視線を向けた。
だが、その瞬間。
黒い羽根が、床から舞い上がった。
俺は足を止めた。
……来たか。
羽根は、俺の周囲を取り囲むように広がっていく。
一本。
二本。
三本。
数は増え続けた。
俺は静かに息を吐いた。
黒鴉が、倉庫の中央から歩いてくる。
「……なるほど」
彼は俺を見た。
「報告どおり、速いな」
俺は答えなかった。
黒鴉は薄く笑った。
「……アオ、だったか」
「そうだ」
「十五歳で一ツ星ハンター。大したものだ」
俺は男を観察した。
オーラは安定している。
動きにも無駄がない。
念能力者として、相応の経験を積んでいるのだろう。
だが、俺の目から見れば、身体能力そのものは突出していない。
少なくとも、正面から殴り合えば俺が有利だ。
問題は、羽根の能力。
そして、人質の存在だ。
黒鴉は静かに言った。
「……ここから先へは行かせん」
俺は彼を見た。
「人質を解放しろ」
「断る」
「なら、力ずくになるな」
黒鴉は笑った。
「……できるものならな」
その瞬間。
羽根が、一斉に動いた。
◇
黒い羽根が、四方から飛んできた。
俺は身体を捻った。
最初の三枚を避ける。
続いて、右側から二枚。
俺は腕を振り、オーラを纏わせた手の甲で弾いた。
硬い感触。
金属片を叩いたような音が響く。
……なるほど。
羽根そのものは、そこまで強くない。
だが、速度と数が厄介だ。
さらに、床へ落ちた羽根が再び跳ね上がる。
俺は足を運び、攻撃を避けた。
黒鴉は動かない。
指先だけをわずかに動かし、羽根を操っている。
……操作系か。
可能性は高い。
ただし、断定はできない。
俺は『凝』でオーラの流れを追った。
羽根の一部には、男の指先から伸びる細いオーラが繋がっている。
だが、すべてではない。
……別の仕組みもあるな。
俺は少し考えた。
攻撃を避け続けるだけなら、難しくない。
だが、長引けば人質が危険に晒される。
ここは、短時間で決着をつけるべきだ。
俺は床を蹴った。
黒鴉との距離が、一気に縮まる。
十五メートル。
十メートル。
五メートル。
黒鴉の目が細くなる。
彼は右手を上げた。
次の瞬間。
羽根が、俺ではなく背後へ飛んだ。
……ん?
俺は視線を動かした。
羽根の向かった先。
そこには、人質の部屋があった。
……なるほど。
そう来るか。
俺は即座に進路を変えた。
黒鴉へ向かうのをやめ、人質の部屋へ踏み込む。
羽根は鉄格子の隙間を通り抜けようとしていた。
俺は手を伸ばし、二枚を弾いた。
残る一枚。
それが、部屋の中にいる少女へ向かっていた。
俺は身体を滑り込ませた。
羽根が、俺の左腕へ触れる。
鋭い感触。
袖が裂け、皮膚に浅い傷が走った。
……問題ない。
俺は羽根を弾き飛ばした。
少女は、目を見開いていた。
俺は短く言った。
「伏せてろ」
彼女は震えながら頷いた。
俺は黒鴉へ視線を戻した。
……なるほど。
こいつは、俺を倒すことよりも、人質を利用することを優先している。
厄介な戦い方だ。
だが。
それなら、それに応じた対処をすればいい。
俺は静かに息を吐いた。
黒鴉が笑った。
「……どうした? 俺を捕まえるんじゃなかったのか?」
俺は答えなかった。
代わりに、アイテムボックスから古いナイフを取り出した。
流星街で拾った、使い慣れた武器だ。
柄は手に馴染んでいる。
俺は刃へ『周』を纏わせた。
黒鴉の目が細くなる。
「……ナイフか」
「ああ」
俺は静かに答えた。
「少し、急ぐことにした」
黒鴉が羽根を動かそうとした。
だが、その前に。
俺はナイフを投げた。
狙いは、黒鴉の身体ではない。
彼の右手。
正確には、指先で操っていた羽根の束だった。
鋭い音。
ナイフが、黒鴉の指先をかすめた。
羽根が散る。
黒鴉の表情が変わった。
その一瞬。
俺は床を蹴った。
距離が消える。
黒鴉が後退しようとした。
だが、遅い。
俺は彼の右手首を掴んだ。
関節を極める。
黒鴉の身体が傾く。
「……ぐっ!」
俺はそのまま、彼を床へ押さえつけようとした。
だが。
その瞬間。
黒鴉の外套の内側から、黒い羽根が一斉に飛び出した。
……まだあるか。
俺は腕を離し、身体を引いた。
羽根が、俺の胸元をかすめる。
黒鴉はその隙に後退した。
彼は右手首を押さえながら、俺を睨んだ。
「……なるほど」
その声から、余裕が消えていた。
「……確かに、化け物じみている」
俺は静かに答えた。
「まだ続けるか?」
黒鴉は答えなかった。
代わりに、倉庫の奥へ視線を向けた。
……ん?
俺はその動きを見逃さなかった。
何かを確認している。
あるいは、合図を送っているのか。
そのとき。
倉庫の裏手から、轟音が響いた。
◇
鉄扉が、大きく揺れた。
続いて、男たちの怒鳴り声。
「警察だ!」
「裏口を押さえられた!」
俺は一瞬、そちらへ視線を向けた。
……来たか。
ヴァレンたちが動いたらしい。
だが、突入の合図はまだ出していないはずだ。
何かが起きたのか。
俺は無線機へ手を伸ばした。
『アオ! 聞こえるか!』
リリアの声だった。
「ああ。どうした?」
『船が動いた! 人質を運ぼうとしてる!』
俺は表情を引き締めた。
「どこから?」
『裏手の通用口! 男たちが別の部屋から人を連れ出してる!』
……別の部屋?
俺は倉庫の奥へ視線を向けた。
鉄格子の部屋以外にも、人質がいたのか。
黒鴉が薄く笑った。
「……気づいたか」
俺は彼を見た。
「……まだ人がいるのか」
「さあな」
黒鴉は肩を竦めた。
俺は歯を食いしばった。
……なるほど。
最初から、こちらの注意を鉄格子の部屋へ向けるつもりだったのか。
俺が見つけた十一人は、全員ではなかった。
黒鴉は、そのことを知っていた。
俺は静かに息を吐いた。
……やられたな。
だが、まだ遅くない。
俺は無線機へ向かって言った。
「リリア! 裏手の人質を優先してくれ!」
『分かった!』
「無理に戦うな。船を出させなければいい!」
『うん!』
通信が切れた。
俺は黒鴉へ視線を戻した。
彼はまだ、薄い笑みを浮かべている。
「……どうする?」
黒鴉が言った。
「俺を捕まえるか? それとも、人質を助けに行くか?」
俺は彼を見た。
……くだらない二択だ。
俺は静かに答えた。
「両方だ」
黒鴉の目が細くなった。
次の瞬間。
俺は床を蹴った。
◇
今度は、黒鴉も反応できなかった。
俺は一瞬で距離を詰め、彼の懐へ入り込んだ。
右手で襟を掴む。
左手で腕を制する。
そのまま、身体を捻った。
黒鴉の足が床から離れる。
「……なっ!?」
俺は彼を投げた。
轟音。
黒鴉の身体が、積まれていた木箱へ叩きつけられる。
木材が砕け、破片が飛び散った。
俺は追撃した。
黒鴉が羽根を動かそうとする。
だが、その前に、俺の拳が彼の腹部へ入った。
鈍い音。
黒鴉の身体が折れ曲がる。
俺は力を加減していた。
殺すつもりはない。
だが、これ以上能力を使わせるわけにもいかなかった。
黒鴉は床へ崩れ落ちた。
俺は彼の右腕を捻り上げ、関節を極めた。
「……終わりだ」
黒鴉は苦しげに息を吐いた。
だが、その目はまだ俺を見ていた。
「……ふ、ふふ……」
俺は眉を寄せた。
……まだ何かあるのか。
黒鴉は、かすれた声で言った。
「……甘いな」
その瞬間。
倉庫の天井近くに漂っていた羽根が、一斉に動いた。
俺は即座に顔を上げた。
羽根の向かった先。
鉄格子の部屋。
……人質か!
俺は黒鴉の腕を離した。
そして、床を蹴った。
羽根が鉄格子の隙間へ飛び込む。
俺はその前へ滑り込んだ。
両腕へオーラを集中させる。
『流』。
羽根を弾く。
一本。
二本。
三本。
次々に飛んでくる黒い羽根を、俺はすべて叩き落とした。
だが、その間に。
背後から、黒鴉の気配が遠ざかった。
……逃げたか。
俺は振り返った。
黒鴉は、壊れた木箱の陰から裏手の通路へ走っていた。
右腕を押さえ、足取りも不安定だ。
まともに戦える状態ではない。
追えば、捕まえられる。
だが、俺は動かなかった。
鉄格子の中では、子供たちが震えている。
まずは、こちらだ。
俺は鍵の掛かった扉へ近づいた。
そして、鉄格子の錠前を掴んだ。
軽く力を込める。
金属が軋む。
次の瞬間、錠前が砕けた。
俺は扉を開いた。
「……もう大丈夫だ」
中の人々が、恐る恐る顔を上げる。
俺はできるだけ穏やかな声で続けた。
「警察が来てる。ここから出られるぞ」
その言葉を聞いた瞬間。
一人の女性が、声を上げて泣き始めた。
子供たちも、ようやく緊張が解けたようだった。
俺は無線機を取り出した。
「こちらアオ。人質十一人を確保しました」
『クロフトだ! 了解した!』
「倉庫奥の鉄格子の部屋です。救護班をお願いします」
『すぐに向かわせる!』
俺は通信を切った。
……まずは十一人。
だが、まだ終わっていない。
裏手にも、人質がいる。
俺は倉庫の奥へ視線を向けた。
……リリア。
頼むぞ。
◇
裏手の水路では、別の攻防が始まっていた。
リリアは古い木箱の陰に身を潜め、桟橋の様子を観察していた。
小型貨物船。
甲板には三人。
操舵室に一人。
そして、倉庫の裏口からは、武装した男たちが人質を連れ出している。
その数は、少なくとも六人。
全員が手首を縛られていた。
リリアは無線機へ手を伸ばした。
「こちらリリア。裏手の人質は六人確認。船へ移送されています」
『クロフトだ。水路側の班を向かわせる』
「お願いします。でも、今すぐ船が出るかもしれません」
『無理はするな!』
「分かっています」
通信が切れた。
リリアは船を見た。
船員たちは、係船縄を解こうとしている。
このままでは、船が出てしまう。
だが、正面から突っ込めば人質が危険だ。
彼女は周囲を見回した。
桟橋。
係船柱。
古い木箱。
そして、船の側面に垂れ下がる太い縄。
……あれなら。
リリアは静かに動き出した。
『絶』でオーラを抑え、物陰を利用して桟橋へ近づく。
足音はほとんど聞こえない。
船員たちは、倉庫の方へ注意を向けていた。
その隙に、リリアは係船縄へ手を伸ばした。
縄はすでに緩められている。
彼女はそれを引き寄せ、別の係船柱へ回した。
そして、素早く結び直す。
船が動き出せば、縄が張って進路を妨げる。
ただし、船の力で縄が切れる可能性もある。
それでも、数秒の時間は稼げるはずだ。
リリアはさらに、桟橋の端へ移動した。
そのとき。
「……おい!」
船員の一人が声を上げた。
「誰だ!」
リリアは即座に身を翻した。
男が拳銃を抜く。
だが、彼女はすでに動いていた。
低い姿勢で接近。
相手の銃口を外側へ逸らす。
そして、手首を捻った。
「……ぐっ!」
拳銃が床へ落ちる。
リリアは男の膝裏へ蹴りを入れた。
男が崩れ落ちる。
そのまま首筋へ手刀を入れ、意識を奪った。
……一人。
だが、残る船員たちが気づいた。
「敵だ!」
「撃て!」
リリアはすぐに木箱の陰へ飛び込んだ。
銃声。
木片が飛び散る。
彼女は歯を食いしばった。
……正面からは無理。
アオなら、ここにいる男たちを一瞬で制圧できるだろう。
だが、自分が同じことをする必要はない。
彼女には、彼女のやり方がある。
リリアは銀色の羅針盤を具現化した。
『迷い人の足跡(ロスト・トレイル)』。
その針が、静かに回転する。
彼女は周囲の地形を確認した。
船員たちの位置。
木箱の配置。
桟橋の幅。
そして、逃走経路。
……見えた。
リリアは羅針盤を消し、木箱の陰から飛び出した。
正面ではない。
桟橋の下側へ回り込む。
古い梁を掴み、身体を引き上げる。
そして、船員たちの背後へ出た。
男たちはまだ、先ほどの木箱を警戒している。
リリアは一人の背後へ近づいた。
そして、素早く腕を回した。
首を締め上げる。
男が抵抗する。
だが、彼女は身体の位置を変え、相手の重心を崩した。
数秒後、男の力が抜けた。
リリアは慎重に男を床へ寝かせた。
……二人。
残る一人が振り返る。
「……てめえ!」
男がナイフを抜いた。
リリアは距離を取った。
相手の動きを見る。
右足が前。
肩に力が入っている。
ナイフを持つ手が、少し高い。
……突いてくる。
男が踏み込んだ。
リリアは半歩横へ動いた。
刃が空を切る。
その瞬間、彼女は男の手首を掴み、肘を外側へ捻った。
男が呻く。
ナイフが落ちる。
リリアは足を払った。
男が桟橋へ倒れる。
そのまま腕を極め、動きを封じた。
「……動かないで」
リリアは低く言った。
男は苦しげに息を吐いた。
だが、抵抗をやめた。
……三人。
リリアは素早く周囲を確認した。
甲板の船員は、これで全員無力化した。
だが、操舵室にはまだ一人いる。
そして、倉庫から人質を連れてきた男たちもいる。
彼女は無線機へ手を伸ばした。
「こちらリリア。甲板の船員三人を制圧。船はまだ停泊しています」
『クロフトだ! よくやった! こちらもすぐに到着する!』
その声に、リリアは小さく息を吐いた。
……あと少し。
だが、そのとき。
操舵室の扉が開いた。
男が一人、姿を現した。
手には拳銃。
その銃口が、リリアへ向けられる。
「……動くな!」
リリアは足を止めた。
男の目は血走っていた。
「……武器を捨てろ!」
彼女は静かに相手を見た。
距離は七メートルほど。
遮蔽物は少ない。
無理に動けば撃たれる可能性がある。
だが、リリアは慌てなかった。
彼女は男の指先を見た。
引き金に掛かった指。
緊張で震えている。
……撃つつもりだ。
リリアはゆっくりと両手を上げた。
「……分かった」
男が少しだけ息を吐いた。
その瞬間。
背後から、別の声が響いた。
「……そこまでだ」
男が振り返る。
桟橋の入口に、警官たちが現れていた。
ヴァレンの部下たちだ。
銃口が一斉に向けられる。
「武器を捨てろ!」
男は顔を引き攣らせた。
そして、ゆっくりと拳銃を床へ置いた。
リリアは静かに息を吐いた。
……間に合った。
警官たちが船員を拘束する。
その間に、リリアは人質たちへ近づいた。
彼らは怯えた表情で、互いに身を寄せ合っていた。
リリアはできるだけ穏やかな声で言った。
「……もう大丈夫。警察が来たよ」
一人の少年が、震える声で尋ねた。
「……ほんと?」
「うん」
リリアは頷いた。
「もう、連れていかれないから」
少年の目に涙が浮かんだ。
リリアはその肩へ、そっと手を置いた。
◇
倉庫の制圧が完了したのは、日が完全に沈んだ頃だった。
警察は正面と裏手から突入し、残っていた構成員を次々に拘束した。
俺は人質の部屋を守りながら、近づいてくる武装した男たちを無力化した。
ほとんどの相手は念能力者ではなかった。
俺にとっては、戦闘と呼べるほどのものではない。
拳銃を向けられれば、射線を外して武器を奪う。
ナイフを持って近づけば、腕を制して床へ倒す。
複数人で襲ってきても、動きは容易に読めた。
必要以上に傷つけるつもりはなかった。
だが、抵抗する者には容赦なく戦闘不能になってもらった。
そして、黒鴉。
奴は、倉庫の裏手から姿を消していた。
警察が周辺を捜索したが、見つからなかった。
おそらく、事前に逃走経路を確保していたのだろう。
俺は倉庫の外へ出た。
夜風が、汗ばんだ頬を撫でる。
左腕には、黒い羽根でつけられた浅い傷が残っていた。
だが、治療が必要なほどではない。
俺は袖を軽く引き下ろした。
そのとき、リリアが近づいてきた。
「……アオ」
「リリア」
俺は彼女を見た。
「怪我は?」
「ないよ」
「よかった」
彼女は少し笑った。
「アオは?」
「こっちも問題ない」
俺は答えた。
リリアは俺の左腕へ視線を向けた。
「……袖、破れてる」
「少しかすっただけだ」
「見せて」
俺は苦笑した。
「大した傷じゃないぞ」
「それでも」
彼女は譲らなかった。
俺は仕方なく袖を捲った。
浅い切り傷。
すでに出血は止まっている。
リリアはそれを確認し、少しだけ眉を寄せた。
「……本当に浅いね」
「ああ」
「でも、ちゃんと洗って」
「分かった」
俺は頷いた。
リリアは小さく息を吐いた。
そして、倉庫へ目を向けた。
「……人質、全員助かったね」
「ああ」
俺も倉庫を見た。
今回救出されたのは、合計十七人。
倉庫奥の十一人。
そして、船へ運ばれようとしていた六人。
全員が生きていた。
その事実だけは、素直に喜んでいい。
だが、事件は終わっていない。
むしろ、これからが本番かもしれない。
「……アオ」
「ん?」
「黒鴉、逃げたんだよね」
「ああ」
俺は頷いた。
「かなり傷めつけた。しばらくは動きにくいはずだ」
「……でも、戻ってくる?」
「可能性は高い」
俺は静かに答えた。
陰獣。
十老頭直属の念能力者。
その一人が、俺たちの前で失敗した。
しかも、重要な輸送拠点を失った。
このまま引き下がるとは考えにくい。
リリアは少し考えた。
「……次は、もっと慎重に来るかもしれないね」
「ああ」
俺は頷いた。
黒鴉は、単純な力押しでは勝てないと理解したはずだ。
次は、より周到な準備をしてくるだろう。
あるいは。
別の陰獣が動く可能性もある。
俺は夜空を見上げた。
雲の切れ間から、わずかに星が見えていた。
……さて。
十老頭。
お前たちが何を守ろうとしているのかは知らない。
だが。
人間を貨物として扱う連中を、見逃すつもりはない。
◇
その夜。
街の中心部にある高級ホテルの一室では、重苦しい沈黙が続いていた。
ダリオ・ゼッカートは、椅子に座ったまま顔を青ざめさせていた。
向かいには、濃紺の背広を着た初老の男。
その手元には、一本の電話が置かれている。
受話器からは、低い声が響いていた。
『……北の中継所が落ちた』
初老の男は、静かに目を閉じた。
「……被害は?」
『人員の大半が拘束された。貨物もすべて押収された』
「……帳簿は?」
『一部が残っていたらしい』
初老の男の眉が、わずかに動いた。
「……どの程度だ?」
『まだ分からん。ただ、警察がかなりの量の書類を運び出している』
初老の男は深く息を吐いた。
そして、ダリオを見た。
その視線に、ダリオは身を縮めた。
「……黒鴉は?」
『生きている。だが、撤退した』
初老の男は目を細めた。
「……陰獣が撤退した?」
『ああ。相手のハンターに押されたらしい』
沈黙。
初老の男は、しばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で尋ねた。
「……相手は何人だ?」
『主に二人。アオとリリアという若いハンターだ』
初老の男は、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
彼は受話器を握り直した。
「……上へ報告しろ」
『何と?』
「今回の件は、単なる人身売買事件では済まなくなった」
初老の男は冷たく言った。
「輸送網の中枢が一つ失われた。帳簿も押収された。さらに、陰獣まで撤退している」
受話器の向こうで、短い沈黙があった。
初老の男は続けた。
「……十老頭の判断を仰ぐ必要がある」
『……分かった』
通信が切れた。
初老の男は受話器を置いた。
そして、ダリオへ視線を向けた。
「……お前の失態は、想像以上に大きくなった」
ダリオは何も言えなかった。
初老の男は窓の外を見た。
街の灯りが、夜の闇に浮かんでいる。
「……陰獣を何人動かすことになるか」
彼は静かに呟いた。
「……それは、上が決めることだ」
部屋には、重苦しい沈黙だけが残った。
◇
同じ頃。
街の外れにある古い屋敷の地下室。
黒鴉は、椅子に座っていた。
右腕には包帯が巻かれている。
腹部にも鈍い痛みが残っていた。
だが、その表情は落ち着いていた。
机の上には、一枚の報告書。
そこには、アオとリリアの名前が記されている。
黒鴉は静かにそれを見つめていた。
「……アオ」
彼は低く呟いた。
十五歳。
一ツ星ハンター。
異常な身体能力。
高度な念の技術。
そして、除念に近い能力。
……なるほど。
確かに、厄介な相手だ。
黒鴉は右腕を動かした。
鈍い痛みが走る。
彼は小さく笑った。
「……正面からやり合う相手じゃないな」
その言葉には、悔しさよりも冷静な分析が滲んでいた。
力で押し切ろうとしても、勝てない。
少なくとも、今の自分一人では難しい。
だが、戦い方は一つではない。
黒鴉は机の上へ、黒い羽根を一枚置いた。
「……次は、違う手を使う」
彼は静かに言った。
その目には、冷たい光が宿っていた。
そして。
地下室の扉が、ゆっくりと開いた。
灰色の外套を着た男が入ってくる。
「……黒鴉様」
「何だ」
「上から連絡です」
黒鴉は顔を上げた。
「……何と?」
男は少し緊張した様子で答えた。
「……今回の件について、十老頭が協議を始めたそうです」
黒鴉は黙った。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……そうか」
男は続けた。
「……追加の陰獣を投入するかどうか、判断するとのことです」
黒鴉は、机の上の羽根を指先で弄んだ。
「……当然だろうな」
彼は静かに呟いた。
輸送網の中枢が一つ失われた。
帳簿も押収された。
そして、十老頭直属の陰獣が、若いハンターに敗れた。
それは、単なる一組織の失態では済まない。
裏社会の秩序に、少しずつ亀裂が入り始めていた。
黒鴉は薄く笑った。
「……さて」
その指先で、黒い羽根が静かに揺れた。
「……次は、誰が来る?」
地下室に、冷たい沈黙が落ちた。
そして。
裏社会の深い場所で、次なる戦いの準備が始まっていた。