流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第七十九話 北部倉庫制圧戦――黒羽の包囲網

日が沈みかけていた。

 

 北部工業地区を流れる水路は、夕焼けの赤を濁った水面に映している。錆びついた鉄骨、崩れかけた煙突、長年使われていない工場の壁。その隙間を縫うように吹く風には、油と泥、それに古い木材の匂いが混じっていた。

 

 俺は煉瓦造りの倉庫を見据えた。

 

 三階建てほどの高さがある建物だ。

 

 正面には大型の荷車が出入りできる鉄扉。側面には人間一人が通れる通用口があり、裏手は水路に面している。

 

 その水路には、古い荷揚げ用の桟橋が突き出していた。

 

 現在、船は停泊していない。

 

 だが、係船柱に巻かれた縄の一部だけが新しい。

 

 最近まで使われていた証拠だ。

 

「……増えたね」

 

 隣でリリアが呟いた。

 

 彼女の視線は、倉庫の二階にある窓へ向けられていた。

 

 正確には、その周囲を漂う黒い羽根へ。

 

「ああ」

 

 俺は短く答えた。

 

 最初に見つけたときは一枚だった。

 

 それが今では、十枚を超えている。

 

 黒い羽根は風に流されるように舞っているが、動きに不自然な規則性があった。一定の範囲から離れず、窓と屋根の間をゆっくりと巡っている。

 

 『凝』を使えば、羽根の表面に薄くまとわりつくオーラが見えた。

 

 念能力によって操られている。

 

 それは間違いない。

 

 問題は、その用途だ。

 

 攻撃。

 

 監視。

 

 追跡。

 

 あるいは、それらを組み合わせた能力かもしれない。

 

 昨日から今日にかけて、俺たちは羽根を操る念能力者と一度接触している。

 

 あの灰色の外套の男は、羽根を石壁へ突き刺し、地面に散らした羽根を罠として使っていた。

 

 そして、倉庫の内部には陰獣の『黒鴉』がいる可能性が高い。

 

 同じような羽根を使う能力者が二人。

 

 偶然とは考えにくかった。

 

「アオ」

 

「ん?」

 

「屋根の上の見張り、さっきから動いてない」

 

 俺は視線を上げた。

 

 屋根の端に、人影が一つ。

 

 身を隠しているつもりなのだろうが、こちらからは肩の一部が見えていた。

 

「こちらを探してるのか?」

 

「たぶん。でも、普通の見張りにしては視線が高いところへ向きすぎてる」

 

 俺は少し考えた。

 

 周囲の道路ではなく、建物の屋根や高所を警戒している。

 

 つまり、相手も念能力者の接近を想定しているのかもしれない。

 

 黒鴉がこちらの情報を集めているなら、俺の身体能力についても報告を受けているはずだ。

 

 先ほどの男には、石を一つ投げて見せた。

 

 その威力を見れば、普通の人間とは違うと理解しただろう。

 

 ……余計な手の内を見せたか。

 

 いや。

 

 あの場で無用な戦闘を避けられたのだから、結果としては間違っていない。

 

 俺は無線機を取り出した。

 

「こちらアオ。倉庫周辺に変化があります」

 

 短い雑音のあと、ヴァレン・クロフト警部補の声が返ってきた。

 

『こちらクロフト。状況は?』

 

「窓と屋根の周囲に、念能力で操作されていると思われる物体が増えています。黒い羽根です」

 

『……黒鴉の能力か?』

 

「関係はあると思います。ただし、詳細は不明です」

 

『了解した。こちらの部隊は五分ほどで配置につく』

 

「突入は待ってください。人質がいます」

 

『分かっている。まずは包囲だ』

 

 通信が切れた。

 

 俺は無線機をしまい、再び倉庫を見た。

 

 五分。

 

 短いようで、状況が変わるには十分な時間だ。

 

 特に、敵が人質を移動させようとしているなら。

 

 俺はリリアへ目を向けた。

 

「裏手の水路を見てきてくれ。船が来るかもしれない」

 

「分かった。アオは?」

 

「正面を監視する。何か動きがあれば連絡する」

 

「うん」

 

 リリアは頷いた。

 

 そして、建物の陰へ身を滑り込ませた。

 

 足音はほとんど聞こえなかった。

 

 彼女の右手の人差し指には、銀色の指輪が嵌められている。

 

 『静寂の環』。

 

 足音や衣服の擦れる音を抑える効果を持つ宝物だ。

 

 ただし、完全な無音になるわけではないし、姿が見えなくなるわけでもない。

 

 リリアはそれを理解したうえで、地形と物陰を利用して移動している。

 

 俺は彼女の姿が消えたことを確認し、倉庫へ視線を戻した。

 

 ……さて。

 

 黒鴉。

 

 お前は何を狙っている?

 

     ◇

 

 倉庫の内部では、男たちが慌ただしく動いていた。

 

 木箱が積まれた広い空間。

 

 その奥には、鉄格子で仕切られた部屋がある。

 

 中に閉じ込められているのは、十一人。

 

 男が三人。

 

 女が四人。

 

 子供が四人。

 

 いずれも疲弊しており、まともに歩ける者は少なかった。

 

 灰色の作業着を着た男が、部下へ怒鳴った。

 

「急げ! 荷をまとめろ!」

 

「ですが、船がまだ来てません!」

 

「来るまでに準備を終わらせるんだよ!」

 

 男は苛立たしげに木箱を蹴った。

 

 その音に、鉄格子の中の子供が身を竦める。

 

 だが、作業着の男は気にも留めなかった。

 

「……まったく、何でこんなことに」

 

 彼は吐き捨てた。

 

 昨夜、南の運河で船が押収された。

 

 その後、複数の倉庫が警察の捜査対象になった。

 

 今朝には、取引先の一つが連絡を絶った。

 

 さらに、帳簿が警察に渡ったという。

 

 それだけでも十分な災難だった。

 

 だが、もっと厄介なのは別のことだ。

 

 十老頭直属の陰獣。

 

 その一人が、この倉庫に来ている。

 

 作業着の男は、部屋の奥へ視線を向けた。

 

 黒い外套を着た男が、木箱に腰掛けていた。

 

 黒鴉。

 

 細い目。

 

 無表情。

 

 指先には一枚の黒い羽根。

 

 彼は周囲の騒ぎを気にする様子もなく、静かに羽根を弄んでいた。

 

「……黒鴉様」

 

 作業着の男が恐る恐る声を掛けた。

 

「何だ」

 

「船が来れば、すぐに出発できます」

 

「そうか」

 

「ですが……警察が近づいているという話もありまして」

 

 黒鴉は顔を上げた。

 

「……だから?」

 

「いえ、その……」

 

 男は言葉に詰まった。

 

 黒鴉は小さく息を吐いた。

 

「慌てるな」

 

「ですが……」

 

「警察が来ることは分かっている」

 

 黒鴉は静かに言った。

 

「問題は、警察と一緒に来るハンターだ」

 

 作業着の男が息を呑んだ。

 

「……例の若造ですか?」

 

「ああ」

 

 黒鴉は指先の羽根を回した。

 

「アオ。十五歳。一ツ星のブラックリストハンター」

 

 彼は淡々と続けた。

 

「報告によれば、身体能力が異常に高い。念の扱いにも熟達しているらしい」

 

「……十五歳で?」

 

「年齢など関係ない」

 

 黒鴉は冷たく答えた。

 

「念能力者を年齢で判断する奴は、長生きできん」

 

 作業着の男は黙った。

 

 黒鴉は羽根を指先で弾いた。

 

 羽根は宙へ浮かび、ゆっくりと回転する。

 

「……それに、あの男は除念に近いことができる可能性がある」

 

「……除念?」

 

「留置場に仕込んだ念が消えた」

 

 黒鴉は静かに言った。

 

「普通のハンターなら、ああはならない」

 

 作業着の男は顔色を悪くした。

 

「……では、どうすれば」

 

「お前たちは予定どおり動け」

 

 黒鴉は立ち上がった。

 

「ただし、荷の移動は俺の指示があるまで待て」

 

「……分かりました」

 

 男は頭を下げた。

 

 黒鴉は倉庫の高い窓へ目を向けた。

 

 外では、黒い羽根がゆっくりと舞っている。

 

 彼は薄く笑った。

 

「……さて」

 

 その目が、細くなる。

 

「どこから来る?」

 

     ◇

 

 警察の部隊が到着したのは、それから四分後だった。

 

 車両は倉庫から離れた場所で停止し、警官たちは徒歩で配置についた。

 

 ヴァレンは先頭に立ち、周囲の状況を確認している。

 

 俺は物陰から姿を現した。

 

「警部補」

 

「アオ。状況は?」

 

「大きな変化はありません。ただ、内部で人が動いています」

 

「人質の移動か?」

 

「可能性はあります」

 

 ヴァレンは頷いた。

 

「こちらは正面と裏手を押さえる。水路側には別の班を回した」

 

「念能力者がいます。普通の警官だけで接近するのは危険です」

 

「分かっている。ローデリックにも来てもらった」

 

 その言葉と同時に、背後から大柄な男が現れた。

 

 ローデリック・フェイン。

 

 灰色の髪。

 

 厚い肩。

 

 年季の入った外套。

 

 彼は俺を見るなり、口元を歪めた。

 

「……また面倒な場所を見つけたな」

 

「偶然ですよ」

 

「偶然で陰獣にぶつかる奴がいるか」

 

 俺は肩を竦めた。

 

 ローデリックは倉庫を見た。

 

「……あれが黒鴉のいる場所か」

 

「おそらく」

 

「人数は?」

 

「正確には分かりません。見張りは複数。内部にも十人前後はいると思います」

 

 ローデリックは頷いた。

 

「人質は?」

 

「子供の声を確認しました。人数は不明です」

 

 ヴァレンが口を開いた。

 

「無闇な突入は避けたい。だが、逃走の準備をしているなら時間もない」

 

 俺は倉庫を見た。

 

 正面の鉄扉。

 

 側面の通用口。

 

 裏手の水路。

 

 そして、屋根の上の見張り。

 

 敵は、こちらが包囲していることに気づいている可能性が高い。

 

 ならば、奇襲だけに頼るのは危険だ。

 

「……一つ提案があります」

 

 俺が言うと、ヴァレンが顔を向けた。

 

「何だ?」

 

「俺が先に入ります」

 

 ローデリックが眉を上げた。

 

「単独でか?」

 

「はい」

 

 俺は頷いた。

 

「ただし、無理に全員を制圧するつもりはありません。まずは人質の位置を確認します」

 

 ヴァレンは少し考えた。

 

「……危険だぞ」

 

「分かっています」

 

 俺は答えた。

 

「ですが、普通の警官が念能力者のいる場所へ踏み込む方が危険です」

 

 ローデリックが腕を組んだ。

 

「……まあ、そりゃそうだ」

 

 俺は続けた。

 

「人質の位置が分かれば、警察が安全に突入できる経路も判断できます」

 

 ヴァレンはしばらく黙っていた。

 

 そして、頷いた。

 

「……分かった。ただし、状況が悪ければすぐに引け」

 

「了解です」

 

 俺は無線機を確認した。

 

 そのとき、リリアから通信が入った。

 

『アオ、聞こえる?』

 

「ああ」

 

『水路側に船が来た』

 

 俺は表情を引き締めた。

 

「どんな船だ?」

 

『小型の貨物船。船体は茶色。荷台に布が掛けられてる』

 

「人数は?」

 

『甲板に三人。操舵室にも一人いると思う』

 

 俺はヴァレンへ目を向けた。

 

「船が来ました」

 

 彼の顔が険しくなる。

 

「……移送が始まるか」

 

 リリアの声が続いた。

 

『それと、アオ』

 

「何だ?」

 

『船の甲板に、黒い羽根が落ちてる』

 

 俺は目を細めた。

 

 ……なるほど。

 

 船にも仕込んでいるのか。

 

 黒鴉は、倉庫の周囲だけでなく、逃走経路にも能力を配置しているらしい。

 

「リリア、船には近づくな」

 

『うん。今は離れた場所から見てる』

 

「そのまま監視を頼む」

 

『分かった』

 

 通信が切れた。

 

 俺はヴァレンへ状況を伝えた。

 

 彼はすぐに水路側の班へ指示を出した。

 

 ……さて。

 

 そろそろ、動く必要がある。

 

     ◇

 

 倉庫への侵入経路は、正面ではなかった。

 

 俺が選んだのは、建物の側面にある高窓だ。

 

 地上から八メートルほど。

 

 普通の人間なら梯子が必要だろう。

 

 だが、俺には必要ない。

 

 俺は壁の凹凸を確認した。

 

 そして、軽く地面を蹴った。

 

 身体が一気に浮き上がる。

 

 窓枠へ指を掛け、そのまま身体を引き上げた。

 

 音はほとんど立てていない。

 

 俺は窓の隙間から内部を覗いた。

 

 ……いるな。

 

 倉庫の中には、十数人の男たちがいた。

 

 その多くは武器を持っている。

 

 拳銃。

 

 短銃身の散弾銃。

 

 鉄棒。

 

 そして、腰にナイフを下げた者もいる。

 

 だが、俺が最初に探したのは武器ではなかった。

 

 人質だ。

 

 倉庫の奥。

 

 鉄格子で仕切られた部屋。

 

 その中に、複数の人影が見える。

 

 ……十一人か。

 

 男が三人。

 

 女が四人。

 

 子供が四人。

 

 外から見た限りでは、全員生きている。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……よし。

 

 まずは位置を確認できた。

 

 次に、見張りの配置。

 

 正面の鉄扉に二人。

 

 通用口に一人。

 

 人質の部屋の前に三人。

 

 残りは木箱の周囲で作業している。

 

 そして。

 

 ……いた。

 

 倉庫の中央。

 

 黒い外套を着た男が立っている。

 

 細い目。

 

 黒い手袋。

 

 指先には、黒い羽根。

 

 ……黒鴉か。

 

 俺は『凝』を使った。

 

 男のオーラは、かなり抑えられていた。

 

 だが、その流れは安定している。

 

 念の扱いに慣れていることは間違いない。

 

 ……なるほど。

 

 確かに、そこらの用心棒とは違う。

 

 俺は窓枠へ手を掛けたまま、内部の構造を確認した。

 

 人質の部屋までの距離は、およそ二十メートル。

 

 途中には木箱が積まれている。

 

 黒鴉は、その少し手前に立っていた。

 

 ……位置が悪いな。

 

 俺が人質へ向かえば、黒鴉と接触する可能性が高い。

 

 それに、倉庫の中には羽根がいくつも落ちている。

 

 罠かもしれない。

 

 俺は無線機へ手を伸ばした。

 

「こちらアオ。内部を確認しました」

 

『クロフトだ。状況は?』

 

「人質は十一人。倉庫奥の鉄格子の部屋にいます」

 

『十一人……』

 

「見張りは十数人。念能力者と思われる男が一人います」

 

『黒鴉か?』

 

「おそらく」

 

 俺は続けた。

 

「人質の位置は確認できました。ですが、周囲に念の罠がある可能性があります」

 

『了解した。こちらは待機する』

 

「お願いします」

 

 通信が切れた。

 

 俺は窓から内部を見下ろした。

 

 ……さて。

 

 どう動く?

 

 そのときだった。

 

 黒鴉が、ゆっくりと顔を上げた。

 

 視線が、こちらへ向く。

 

 俺は動かなかった。

 

 黒鴉は、窓の暗がりを見つめていた。

 

 そして。

 

 薄く笑った。

 

「……そこか」

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……気づかれたな。

 

 次の瞬間。

 

 黒い羽根が、倉庫の床から一斉に舞い上がった。

 

     ◇

 

 羽根は、一直線に俺へ向かってきた。

 

 十枚以上。

 

 鋭く加速し、窓の隙間を狙って飛んでくる。

 

 俺は窓枠を蹴った。

 

 身体を外側へ投げ出す。

 

 直後、羽根が窓枠へ突き刺さった。

 

 乾いた音。

 

 木片が飛び散る。

 

 俺は空中で身体を捻り、壁を蹴って地面へ着地した。

 

 ……なるほど。

 

 攻撃速度はそれなりだ。

 

 だが、避けられないほどではない。

 

 俺は倉庫を見上げた。

 

 黒鴉の姿は、窓の奥へ消えている。

 

 ……こちらを誘っているのか。

 

 そのとき、無線機からヴァレンの声が届いた。

 

『アオ! 何があった!?』

 

「見つかりました。念能力による攻撃を受けています」

 

『突入するか!?』

 

「まだです!」

 

 俺は即答した。

 

「人質の近くに敵がいます。無闇に入れば危険です」

 

『分かった!』

 

 俺は倉庫の壁を見た。

 

 内部の配置は把握した。

 

 ならば、別の方法がある。

 

 俺はアイテムボックスから、小さな金属片を取り出した。

 

 以前、道具の修理に使っていたものだ。

 

 手のひらに収まる程度の大きさ。

 

 俺はそれを指先で挟んだ。

 

 ……狙うのは、人質の部屋じゃない。

 

 倉庫の反対側。

 

 木箱が積まれた場所。

 

 そこには、男たちが作業していた。

 

 俺は『周』で金属片を強化した。

 

 そして、窓の外から投げ込んだ。

 

 鋭い音。

 

 金属片が木箱の留め金へ命中する。

 

 次の瞬間、留め金が砕けた。

 

 木箱の蓋が跳ね上がり、中身が床へ散らばる。

 

 男たちが叫んだ。

 

「何だ!?」

 

「敵だ!」

 

 俺はその混乱を確認した。

 

 ……よし。

 

 注意が逸れた。

 

 俺は再び壁を駆け上がった。

 

 今度は別の窓。

 

 先ほどより少し奥にある。

 

 俺は窓枠を掴み、内部へ身体を滑り込ませた。

 

 着地。

 

 音はほとんど立てていない。

 

 俺は木箱の陰へ身を隠した。

 

 ……さて。

 

 ここからが本番だ。

 

     ◇

 

 倉庫の中は、騒然としていた。

 

 男たちが武器を構え、周囲を見回している。

 

 だが、俺の位置はまだ特定できていないらしい。

 

 俺は木箱の陰から、人質の部屋へ目を向けた。

 

 距離は十五メートルほど。

 

 途中に二人の見張り。

 

 その奥に、黒鴉。

 

 ……まずは見張りを無力化する。

 

 俺は床を蹴った。

 

 身体が一気に加速する。

 

 最初の男がこちらを向く。

 

「……なっ!?」

 

 声を上げるより早く、俺は男の手首を掴んだ。

 

 拳銃を持つ腕を外側へ捻る。

 

 関節を極め、武器を落とさせる。

 

 そのまま腹部へ掌底。

 

 男の身体が折れ曲がり、床へ崩れた。

 

 続けて二人目。

 

 こちらは散弾銃を構えていた。

 

 俺は銃身を掴み、射線を天井へ逸らした。

 

 男が引き金を引く。

 

 轟音。

 

 散弾が天井の梁へ食い込む。

 

 俺は銃を奪い、男の顎へ軽く拳を入れた。

 

 男は意識を失った。

 

 ……二人。

 

 俺は次の相手へ視線を向けた。

 

 だが、その瞬間。

 

 黒い羽根が、床から舞い上がった。

 

 俺は足を止めた。

 

 ……来たか。

 

 羽根は、俺の周囲を取り囲むように広がっていく。

 

 一本。

 

 二本。

 

 三本。

 

 数は増え続けた。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 黒鴉が、倉庫の中央から歩いてくる。

 

「……なるほど」

 

 彼は俺を見た。

 

「報告どおり、速いな」

 

 俺は答えなかった。

 

 黒鴉は薄く笑った。

 

「……アオ、だったか」

 

「そうだ」

 

「十五歳で一ツ星ハンター。大したものだ」

 

 俺は男を観察した。

 

 オーラは安定している。

 

 動きにも無駄がない。

 

 念能力者として、相応の経験を積んでいるのだろう。

 

 だが、俺の目から見れば、身体能力そのものは突出していない。

 

 少なくとも、正面から殴り合えば俺が有利だ。

 

 問題は、羽根の能力。

 

 そして、人質の存在だ。

 

 黒鴉は静かに言った。

 

「……ここから先へは行かせん」

 

 俺は彼を見た。

 

「人質を解放しろ」

 

「断る」

 

「なら、力ずくになるな」

 

 黒鴉は笑った。

 

「……できるものならな」

 

 その瞬間。

 

 羽根が、一斉に動いた。

 

     ◇

 

 黒い羽根が、四方から飛んできた。

 

 俺は身体を捻った。

 

 最初の三枚を避ける。

 

 続いて、右側から二枚。

 

 俺は腕を振り、オーラを纏わせた手の甲で弾いた。

 

 硬い感触。

 

 金属片を叩いたような音が響く。

 

 ……なるほど。

 

 羽根そのものは、そこまで強くない。

 

 だが、速度と数が厄介だ。

 

 さらに、床へ落ちた羽根が再び跳ね上がる。

 

 俺は足を運び、攻撃を避けた。

 

 黒鴉は動かない。

 

 指先だけをわずかに動かし、羽根を操っている。

 

 ……操作系か。

 

 可能性は高い。

 

 ただし、断定はできない。

 

 俺は『凝』でオーラの流れを追った。

 

 羽根の一部には、男の指先から伸びる細いオーラが繋がっている。

 

 だが、すべてではない。

 

 ……別の仕組みもあるな。

 

 俺は少し考えた。

 

 攻撃を避け続けるだけなら、難しくない。

 

 だが、長引けば人質が危険に晒される。

 

 ここは、短時間で決着をつけるべきだ。

 

 俺は床を蹴った。

 

 黒鴉との距離が、一気に縮まる。

 

 十五メートル。

 

 十メートル。

 

 五メートル。

 

 黒鴉の目が細くなる。

 

 彼は右手を上げた。

 

 次の瞬間。

 

 羽根が、俺ではなく背後へ飛んだ。

 

 ……ん?

 

 俺は視線を動かした。

 

 羽根の向かった先。

 

 そこには、人質の部屋があった。

 

 ……なるほど。

 

 そう来るか。

 

 俺は即座に進路を変えた。

 

 黒鴉へ向かうのをやめ、人質の部屋へ踏み込む。

 

 羽根は鉄格子の隙間を通り抜けようとしていた。

 

 俺は手を伸ばし、二枚を弾いた。

 

 残る一枚。

 

 それが、部屋の中にいる少女へ向かっていた。

 

 俺は身体を滑り込ませた。

 

 羽根が、俺の左腕へ触れる。

 

 鋭い感触。

 

 袖が裂け、皮膚に浅い傷が走った。

 

 ……問題ない。

 

 俺は羽根を弾き飛ばした。

 

 少女は、目を見開いていた。

 

 俺は短く言った。

 

「伏せてろ」

 

 彼女は震えながら頷いた。

 

 俺は黒鴉へ視線を戻した。

 

 ……なるほど。

 

 こいつは、俺を倒すことよりも、人質を利用することを優先している。

 

 厄介な戦い方だ。

 

 だが。

 

 それなら、それに応じた対処をすればいい。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 黒鴉が笑った。

 

「……どうした? 俺を捕まえるんじゃなかったのか?」

 

 俺は答えなかった。

 

 代わりに、アイテムボックスから古いナイフを取り出した。

 

 流星街で拾った、使い慣れた武器だ。

 

 柄は手に馴染んでいる。

 

 俺は刃へ『周』を纏わせた。

 

 黒鴉の目が細くなる。

 

「……ナイフか」

 

「ああ」

 

 俺は静かに答えた。

 

「少し、急ぐことにした」

 

 黒鴉が羽根を動かそうとした。

 

 だが、その前に。

 

 俺はナイフを投げた。

 

 狙いは、黒鴉の身体ではない。

 

 彼の右手。

 

 正確には、指先で操っていた羽根の束だった。

 

 鋭い音。

 

 ナイフが、黒鴉の指先をかすめた。

 

 羽根が散る。

 

 黒鴉の表情が変わった。

 

 その一瞬。

 

 俺は床を蹴った。

 

 距離が消える。

 

 黒鴉が後退しようとした。

 

 だが、遅い。

 

 俺は彼の右手首を掴んだ。

 

 関節を極める。

 

 黒鴉の身体が傾く。

 

「……ぐっ!」

 

 俺はそのまま、彼を床へ押さえつけようとした。

 

 だが。

 

 その瞬間。

 

 黒鴉の外套の内側から、黒い羽根が一斉に飛び出した。

 

 ……まだあるか。

 

 俺は腕を離し、身体を引いた。

 

 羽根が、俺の胸元をかすめる。

 

 黒鴉はその隙に後退した。

 

 彼は右手首を押さえながら、俺を睨んだ。

 

「……なるほど」

 

 その声から、余裕が消えていた。

 

「……確かに、化け物じみている」

 

 俺は静かに答えた。

 

「まだ続けるか?」

 

 黒鴉は答えなかった。

 

 代わりに、倉庫の奥へ視線を向けた。

 

 ……ん?

 

 俺はその動きを見逃さなかった。

 

 何かを確認している。

 

 あるいは、合図を送っているのか。

 

 そのとき。

 

 倉庫の裏手から、轟音が響いた。

 

     ◇

 

 鉄扉が、大きく揺れた。

 

 続いて、男たちの怒鳴り声。

 

「警察だ!」

 

「裏口を押さえられた!」

 

 俺は一瞬、そちらへ視線を向けた。

 

 ……来たか。

 

 ヴァレンたちが動いたらしい。

 

 だが、突入の合図はまだ出していないはずだ。

 

 何かが起きたのか。

 

 俺は無線機へ手を伸ばした。

 

『アオ! 聞こえるか!』

 

 リリアの声だった。

 

「ああ。どうした?」

 

『船が動いた! 人質を運ぼうとしてる!』

 

 俺は表情を引き締めた。

 

「どこから?」

 

『裏手の通用口! 男たちが別の部屋から人を連れ出してる!』

 

 ……別の部屋?

 

 俺は倉庫の奥へ視線を向けた。

 

 鉄格子の部屋以外にも、人質がいたのか。

 

 黒鴉が薄く笑った。

 

「……気づいたか」

 

 俺は彼を見た。

 

「……まだ人がいるのか」

 

「さあな」

 

 黒鴉は肩を竦めた。

 

 俺は歯を食いしばった。

 

 ……なるほど。

 

 最初から、こちらの注意を鉄格子の部屋へ向けるつもりだったのか。

 

 俺が見つけた十一人は、全員ではなかった。

 

 黒鴉は、そのことを知っていた。

 

 俺は静かに息を吐いた。

 

 ……やられたな。

 

 だが、まだ遅くない。

 

 俺は無線機へ向かって言った。

 

「リリア! 裏手の人質を優先してくれ!」

 

『分かった!』

 

「無理に戦うな。船を出させなければいい!」

 

『うん!』

 

 通信が切れた。

 

 俺は黒鴉へ視線を戻した。

 

 彼はまだ、薄い笑みを浮かべている。

 

「……どうする?」

 

 黒鴉が言った。

 

「俺を捕まえるか? それとも、人質を助けに行くか?」

 

 俺は彼を見た。

 

 ……くだらない二択だ。

 

 俺は静かに答えた。

 

「両方だ」

 

 黒鴉の目が細くなった。

 

 次の瞬間。

 

 俺は床を蹴った。

 

     ◇

 

 今度は、黒鴉も反応できなかった。

 

 俺は一瞬で距離を詰め、彼の懐へ入り込んだ。

 

 右手で襟を掴む。

 

 左手で腕を制する。

 

 そのまま、身体を捻った。

 

 黒鴉の足が床から離れる。

 

「……なっ!?」

 

 俺は彼を投げた。

 

 轟音。

 

 黒鴉の身体が、積まれていた木箱へ叩きつけられる。

 

 木材が砕け、破片が飛び散った。

 

 俺は追撃した。

 

 黒鴉が羽根を動かそうとする。

 

 だが、その前に、俺の拳が彼の腹部へ入った。

 

 鈍い音。

 

 黒鴉の身体が折れ曲がる。

 

 俺は力を加減していた。

 

 殺すつもりはない。

 

 だが、これ以上能力を使わせるわけにもいかなかった。

 

 黒鴉は床へ崩れ落ちた。

 

 俺は彼の右腕を捻り上げ、関節を極めた。

 

「……終わりだ」

 

 黒鴉は苦しげに息を吐いた。

 

 だが、その目はまだ俺を見ていた。

 

「……ふ、ふふ……」

 

 俺は眉を寄せた。

 

 ……まだ何かあるのか。

 

 黒鴉は、かすれた声で言った。

 

「……甘いな」

 

 その瞬間。

 

 倉庫の天井近くに漂っていた羽根が、一斉に動いた。

 

 俺は即座に顔を上げた。

 

 羽根の向かった先。

 

 鉄格子の部屋。

 

 ……人質か!

 

 俺は黒鴉の腕を離した。

 

 そして、床を蹴った。

 

 羽根が鉄格子の隙間へ飛び込む。

 

 俺はその前へ滑り込んだ。

 

 両腕へオーラを集中させる。

 

 『流』。

 

 羽根を弾く。

 

 一本。

 

 二本。

 

 三本。

 

 次々に飛んでくる黒い羽根を、俺はすべて叩き落とした。

 

 だが、その間に。

 

 背後から、黒鴉の気配が遠ざかった。

 

 ……逃げたか。

 

 俺は振り返った。

 

 黒鴉は、壊れた木箱の陰から裏手の通路へ走っていた。

 

 右腕を押さえ、足取りも不安定だ。

 

 まともに戦える状態ではない。

 

 追えば、捕まえられる。

 

 だが、俺は動かなかった。

 

 鉄格子の中では、子供たちが震えている。

 

 まずは、こちらだ。

 

 俺は鍵の掛かった扉へ近づいた。

 

 そして、鉄格子の錠前を掴んだ。

 

 軽く力を込める。

 

 金属が軋む。

 

 次の瞬間、錠前が砕けた。

 

 俺は扉を開いた。

 

「……もう大丈夫だ」

 

 中の人々が、恐る恐る顔を上げる。

 

 俺はできるだけ穏やかな声で続けた。

 

「警察が来てる。ここから出られるぞ」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 一人の女性が、声を上げて泣き始めた。

 

 子供たちも、ようやく緊張が解けたようだった。

 

 俺は無線機を取り出した。

 

「こちらアオ。人質十一人を確保しました」

 

『クロフトだ! 了解した!』

 

「倉庫奥の鉄格子の部屋です。救護班をお願いします」

 

『すぐに向かわせる!』

 

 俺は通信を切った。

 

 ……まずは十一人。

 

 だが、まだ終わっていない。

 

 裏手にも、人質がいる。

 

 俺は倉庫の奥へ視線を向けた。

 

 ……リリア。

 

 頼むぞ。

 

     ◇

 

 裏手の水路では、別の攻防が始まっていた。

 

 リリアは古い木箱の陰に身を潜め、桟橋の様子を観察していた。

 

 小型貨物船。

 

 甲板には三人。

 

 操舵室に一人。

 

 そして、倉庫の裏口からは、武装した男たちが人質を連れ出している。

 

 その数は、少なくとも六人。

 

 全員が手首を縛られていた。

 

 リリアは無線機へ手を伸ばした。

 

「こちらリリア。裏手の人質は六人確認。船へ移送されています」

 

『クロフトだ。水路側の班を向かわせる』

 

「お願いします。でも、今すぐ船が出るかもしれません」

 

『無理はするな!』

 

「分かっています」

 

 通信が切れた。

 

 リリアは船を見た。

 

 船員たちは、係船縄を解こうとしている。

 

 このままでは、船が出てしまう。

 

 だが、正面から突っ込めば人質が危険だ。

 

 彼女は周囲を見回した。

 

 桟橋。

 

 係船柱。

 

 古い木箱。

 

 そして、船の側面に垂れ下がる太い縄。

 

 ……あれなら。

 

 リリアは静かに動き出した。

 

 『絶』でオーラを抑え、物陰を利用して桟橋へ近づく。

 

 足音はほとんど聞こえない。

 

 船員たちは、倉庫の方へ注意を向けていた。

 

 その隙に、リリアは係船縄へ手を伸ばした。

 

 縄はすでに緩められている。

 

 彼女はそれを引き寄せ、別の係船柱へ回した。

 

 そして、素早く結び直す。

 

 船が動き出せば、縄が張って進路を妨げる。

 

 ただし、船の力で縄が切れる可能性もある。

 

 それでも、数秒の時間は稼げるはずだ。

 

 リリアはさらに、桟橋の端へ移動した。

 

 そのとき。

 

「……おい!」

 

 船員の一人が声を上げた。

 

「誰だ!」

 

 リリアは即座に身を翻した。

 

 男が拳銃を抜く。

 

 だが、彼女はすでに動いていた。

 

 低い姿勢で接近。

 

 相手の銃口を外側へ逸らす。

 

 そして、手首を捻った。

 

「……ぐっ!」

 

 拳銃が床へ落ちる。

 

 リリアは男の膝裏へ蹴りを入れた。

 

 男が崩れ落ちる。

 

 そのまま首筋へ手刀を入れ、意識を奪った。

 

 ……一人。

 

 だが、残る船員たちが気づいた。

 

「敵だ!」

 

「撃て!」

 

 リリアはすぐに木箱の陰へ飛び込んだ。

 

 銃声。

 

 木片が飛び散る。

 

 彼女は歯を食いしばった。

 

 ……正面からは無理。

 

 アオなら、ここにいる男たちを一瞬で制圧できるだろう。

 

 だが、自分が同じことをする必要はない。

 

 彼女には、彼女のやり方がある。

 

 リリアは銀色の羅針盤を具現化した。

 

 『迷い人の足跡(ロスト・トレイル)』。

 

 その針が、静かに回転する。

 

 彼女は周囲の地形を確認した。

 

 船員たちの位置。

 

 木箱の配置。

 

 桟橋の幅。

 

 そして、逃走経路。

 

 ……見えた。

 

 リリアは羅針盤を消し、木箱の陰から飛び出した。

 

 正面ではない。

 

 桟橋の下側へ回り込む。

 

 古い梁を掴み、身体を引き上げる。

 

 そして、船員たちの背後へ出た。

 

 男たちはまだ、先ほどの木箱を警戒している。

 

 リリアは一人の背後へ近づいた。

 

 そして、素早く腕を回した。

 

 首を締め上げる。

 

 男が抵抗する。

 

 だが、彼女は身体の位置を変え、相手の重心を崩した。

 

 数秒後、男の力が抜けた。

 

 リリアは慎重に男を床へ寝かせた。

 

 ……二人。

 

 残る一人が振り返る。

 

「……てめえ!」

 

 男がナイフを抜いた。

 

 リリアは距離を取った。

 

 相手の動きを見る。

 

 右足が前。

 

 肩に力が入っている。

 

 ナイフを持つ手が、少し高い。

 

 ……突いてくる。

 

 男が踏み込んだ。

 

 リリアは半歩横へ動いた。

 

 刃が空を切る。

 

 その瞬間、彼女は男の手首を掴み、肘を外側へ捻った。

 

 男が呻く。

 

 ナイフが落ちる。

 

 リリアは足を払った。

 

 男が桟橋へ倒れる。

 

 そのまま腕を極め、動きを封じた。

 

「……動かないで」

 

 リリアは低く言った。

 

 男は苦しげに息を吐いた。

 

 だが、抵抗をやめた。

 

 ……三人。

 

 リリアは素早く周囲を確認した。

 

 甲板の船員は、これで全員無力化した。

 

 だが、操舵室にはまだ一人いる。

 

 そして、倉庫から人質を連れてきた男たちもいる。

 

 彼女は無線機へ手を伸ばした。

 

「こちらリリア。甲板の船員三人を制圧。船はまだ停泊しています」

 

『クロフトだ! よくやった! こちらもすぐに到着する!』

 

 その声に、リリアは小さく息を吐いた。

 

 ……あと少し。

 

 だが、そのとき。

 

 操舵室の扉が開いた。

 

 男が一人、姿を現した。

 

 手には拳銃。

 

 その銃口が、リリアへ向けられる。

 

「……動くな!」

 

 リリアは足を止めた。

 

 男の目は血走っていた。

 

「……武器を捨てろ!」

 

 彼女は静かに相手を見た。

 

 距離は七メートルほど。

 

 遮蔽物は少ない。

 

 無理に動けば撃たれる可能性がある。

 

 だが、リリアは慌てなかった。

 

 彼女は男の指先を見た。

 

 引き金に掛かった指。

 

 緊張で震えている。

 

 ……撃つつもりだ。

 

 リリアはゆっくりと両手を上げた。

 

「……分かった」

 

 男が少しだけ息を吐いた。

 

 その瞬間。

 

 背後から、別の声が響いた。

 

「……そこまでだ」

 

 男が振り返る。

 

 桟橋の入口に、警官たちが現れていた。

 

 ヴァレンの部下たちだ。

 

 銃口が一斉に向けられる。

 

「武器を捨てろ!」

 

 男は顔を引き攣らせた。

 

 そして、ゆっくりと拳銃を床へ置いた。

 

 リリアは静かに息を吐いた。

 

 ……間に合った。

 

 警官たちが船員を拘束する。

 

 その間に、リリアは人質たちへ近づいた。

 

 彼らは怯えた表情で、互いに身を寄せ合っていた。

 

 リリアはできるだけ穏やかな声で言った。

 

「……もう大丈夫。警察が来たよ」

 

 一人の少年が、震える声で尋ねた。

 

「……ほんと?」

 

「うん」

 

 リリアは頷いた。

 

「もう、連れていかれないから」

 

 少年の目に涙が浮かんだ。

 

 リリアはその肩へ、そっと手を置いた。

 

     ◇

 

 倉庫の制圧が完了したのは、日が完全に沈んだ頃だった。

 

 警察は正面と裏手から突入し、残っていた構成員を次々に拘束した。

 

 俺は人質の部屋を守りながら、近づいてくる武装した男たちを無力化した。

 

 ほとんどの相手は念能力者ではなかった。

 

 俺にとっては、戦闘と呼べるほどのものではない。

 

 拳銃を向けられれば、射線を外して武器を奪う。

 

 ナイフを持って近づけば、腕を制して床へ倒す。

 

 複数人で襲ってきても、動きは容易に読めた。

 

 必要以上に傷つけるつもりはなかった。

 

 だが、抵抗する者には容赦なく戦闘不能になってもらった。

 

 そして、黒鴉。

 

 奴は、倉庫の裏手から姿を消していた。

 

 警察が周辺を捜索したが、見つからなかった。

 

 おそらく、事前に逃走経路を確保していたのだろう。

 

 俺は倉庫の外へ出た。

 

 夜風が、汗ばんだ頬を撫でる。

 

 左腕には、黒い羽根でつけられた浅い傷が残っていた。

 

 だが、治療が必要なほどではない。

 

 俺は袖を軽く引き下ろした。

 

 そのとき、リリアが近づいてきた。

 

「……アオ」

 

「リリア」

 

 俺は彼女を見た。

 

「怪我は?」

 

「ないよ」

 

「よかった」

 

 彼女は少し笑った。

 

「アオは?」

 

「こっちも問題ない」

 

 俺は答えた。

 

 リリアは俺の左腕へ視線を向けた。

 

「……袖、破れてる」

 

「少しかすっただけだ」

 

「見せて」

 

 俺は苦笑した。

 

「大した傷じゃないぞ」

 

「それでも」

 

 彼女は譲らなかった。

 

 俺は仕方なく袖を捲った。

 

 浅い切り傷。

 

 すでに出血は止まっている。

 

 リリアはそれを確認し、少しだけ眉を寄せた。

 

「……本当に浅いね」

 

「ああ」

 

「でも、ちゃんと洗って」

 

「分かった」

 

 俺は頷いた。

 

 リリアは小さく息を吐いた。

 

 そして、倉庫へ目を向けた。

 

「……人質、全員助かったね」

 

「ああ」

 

 俺も倉庫を見た。

 

 今回救出されたのは、合計十七人。

 

 倉庫奥の十一人。

 

 そして、船へ運ばれようとしていた六人。

 

 全員が生きていた。

 

 その事実だけは、素直に喜んでいい。

 

 だが、事件は終わっていない。

 

 むしろ、これからが本番かもしれない。

 

「……アオ」

 

「ん?」

 

「黒鴉、逃げたんだよね」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「かなり傷めつけた。しばらくは動きにくいはずだ」

 

「……でも、戻ってくる?」

 

「可能性は高い」

 

 俺は静かに答えた。

 

 陰獣。

 

 十老頭直属の念能力者。

 

 その一人が、俺たちの前で失敗した。

 

 しかも、重要な輸送拠点を失った。

 

 このまま引き下がるとは考えにくい。

 

 リリアは少し考えた。

 

「……次は、もっと慎重に来るかもしれないね」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

 黒鴉は、単純な力押しでは勝てないと理解したはずだ。

 

 次は、より周到な準備をしてくるだろう。

 

 あるいは。

 

 別の陰獣が動く可能性もある。

 

 俺は夜空を見上げた。

 

 雲の切れ間から、わずかに星が見えていた。

 

 ……さて。

 

 十老頭。

 

 お前たちが何を守ろうとしているのかは知らない。

 

 だが。

 

 人間を貨物として扱う連中を、見逃すつもりはない。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 街の中心部にある高級ホテルの一室では、重苦しい沈黙が続いていた。

 

 ダリオ・ゼッカートは、椅子に座ったまま顔を青ざめさせていた。

 

 向かいには、濃紺の背広を着た初老の男。

 

 その手元には、一本の電話が置かれている。

 

 受話器からは、低い声が響いていた。

 

『……北の中継所が落ちた』

 

 初老の男は、静かに目を閉じた。

 

「……被害は?」

 

『人員の大半が拘束された。貨物もすべて押収された』

 

「……帳簿は?」

 

『一部が残っていたらしい』

 

 初老の男の眉が、わずかに動いた。

 

「……どの程度だ?」

 

『まだ分からん。ただ、警察がかなりの量の書類を運び出している』

 

 初老の男は深く息を吐いた。

 

 そして、ダリオを見た。

 

 その視線に、ダリオは身を縮めた。

 

「……黒鴉は?」

 

『生きている。だが、撤退した』

 

 初老の男は目を細めた。

 

「……陰獣が撤退した?」

 

『ああ。相手のハンターに押されたらしい』

 

 沈黙。

 

 初老の男は、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、低い声で尋ねた。

 

「……相手は何人だ?」

 

『主に二人。アオとリリアという若いハンターだ』

 

 初老の男は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……なるほど」

 

 彼は受話器を握り直した。

 

「……上へ報告しろ」

 

『何と?』

 

「今回の件は、単なる人身売買事件では済まなくなった」

 

 初老の男は冷たく言った。

 

「輸送網の中枢が一つ失われた。帳簿も押収された。さらに、陰獣まで撤退している」

 

 受話器の向こうで、短い沈黙があった。

 

 初老の男は続けた。

 

「……十老頭の判断を仰ぐ必要がある」

 

『……分かった』

 

 通信が切れた。

 

 初老の男は受話器を置いた。

 

 そして、ダリオへ視線を向けた。

 

「……お前の失態は、想像以上に大きくなった」

 

 ダリオは何も言えなかった。

 

 初老の男は窓の外を見た。

 

 街の灯りが、夜の闇に浮かんでいる。

 

「……陰獣を何人動かすことになるか」

 

 彼は静かに呟いた。

 

「……それは、上が決めることだ」

 

 部屋には、重苦しい沈黙だけが残った。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 街の外れにある古い屋敷の地下室。

 

 黒鴉は、椅子に座っていた。

 

 右腕には包帯が巻かれている。

 

 腹部にも鈍い痛みが残っていた。

 

 だが、その表情は落ち着いていた。

 

 机の上には、一枚の報告書。

 

 そこには、アオとリリアの名前が記されている。

 

 黒鴉は静かにそれを見つめていた。

 

「……アオ」

 

 彼は低く呟いた。

 

 十五歳。

 

 一ツ星ハンター。

 

 異常な身体能力。

 

 高度な念の技術。

 

 そして、除念に近い能力。

 

 ……なるほど。

 

 確かに、厄介な相手だ。

 

 黒鴉は右腕を動かした。

 

 鈍い痛みが走る。

 

 彼は小さく笑った。

 

「……正面からやり合う相手じゃないな」

 

 その言葉には、悔しさよりも冷静な分析が滲んでいた。

 

 力で押し切ろうとしても、勝てない。

 

 少なくとも、今の自分一人では難しい。

 

 だが、戦い方は一つではない。

 

 黒鴉は机の上へ、黒い羽根を一枚置いた。

 

「……次は、違う手を使う」

 

 彼は静かに言った。

 

 その目には、冷たい光が宿っていた。

 

 そして。

 

 地下室の扉が、ゆっくりと開いた。

 

 灰色の外套を着た男が入ってくる。

 

「……黒鴉様」

 

「何だ」

 

「上から連絡です」

 

 黒鴉は顔を上げた。

 

「……何と?」

 

 男は少し緊張した様子で答えた。

 

「……今回の件について、十老頭が協議を始めたそうです」

 

 黒鴉は黙った。

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

「……そうか」

 

 男は続けた。

 

「……追加の陰獣を投入するかどうか、判断するとのことです」

 

 黒鴉は、机の上の羽根を指先で弄んだ。

 

「……当然だろうな」

 

 彼は静かに呟いた。

 

 輸送網の中枢が一つ失われた。

 

 帳簿も押収された。

 

 そして、十老頭直属の陰獣が、若いハンターに敗れた。

 

 それは、単なる一組織の失態では済まない。

 

 裏社会の秩序に、少しずつ亀裂が入り始めていた。

 

 黒鴉は薄く笑った。

 

「……さて」

 

 その指先で、黒い羽根が静かに揺れた。

 

「……次は、誰が来る?」

 

 地下室に、冷たい沈黙が落ちた。

 

 そして。

 

 裏社会の深い場所で、次なる戦いの準備が始まっていた。

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