流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む   作:アイエオ

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第八話 新しい名前と、未来予想図

流星街の中心地を見つけてから、数日が経った。

 俺は今、崩れかけた建物の陰に腰を下ろし、一冊の本を睨みつけている。

 先日、雑貨屋で保存食と交換した、子供向けの絵本だ。

 表紙は擦り切れ、角は丸まり、何枚かのページには茶色い染みが広がっている。前世なら古本屋の値引き棚に置かれていてもおかしくない代物だが、ここでは立派な教材候補だった。

 問題は、その中身である。

「……さっぱりわからん」

 犬らしき動物の絵。

 その下に、見慣れない文字が並んでいる。

 絵が犬なのだから、おそらく文字も犬を意味しているのだろう。そこまでは推測できる。

 だが、読み方がわからない。

 文字を構成する線の意味も、発音との対応も、単語の区切りもわからない。

 要するに、何もわからない。

「……これ、ハンター文字だよな」

 俺はページに顔を近づけた。

 独特な形をした文字。

 前世で読んでいた『HUNTER×HUNTER』の作中に登場していた文字体系だ。

 ハンター文字。

 この世界で広く使われている共通の文字。

 原作の知識を持っている俺なら、その存在自体は知っている。

 しかし、知っていることと、読めることは別問題だった。

 前世で漫画を読んでいたとき、作中に登場する文字を一つひとつ暗記していたわけではない。

 文字の対応表を見た記憶も、どこかにあるような気がする。

 だが、肝心の内容を思い出せない。

 何となく見覚えがある。

 それだけだ。

「……知識チート、万能じゃねえな」

 思わず苦笑する。

 原作の出来事を知っている。

 念の仕組みを知っている。

 将来有名になる人物や、危険な事件についても、ある程度は知っている。

 しかし、今この瞬間に必要な文字の読み方は知らない。

 実に情けない話だった。

 もっとも、原作知識を持っているだけで生き延びられるほど、この世界は甘くない。

 それは、この半年間で嫌というほど思い知らされていた。

 俺は本を閉じ、空を見上げた。

 灰色の雲が、流星街の上をゆっくりと流れている。

 この街に来てから、およそ半年。

 ゴミ山の中で目覚めたときは、明日の食事すら確保できなかった。

 今では寝床があり、食料を蓄え、念の基礎も身につけた。

 だが、それでも足りないものは山ほどある。

 文字。

 社会常識。

 金銭感覚。

 身分を証明する手段。

 そして、何より。

 自分を鍛えてくれる師匠だ。

「……やっぱり、いずれは流星街を出ないとな」

 俺は小さく呟いた。

 ただし、今すぐではない。

 最低限、文字を読めるようになるまでは、この街に留まるつもりだった。

 そのためにも、まずは教えてくれる人間を探さなければならない。

 俺は本を抱え、立ち上がった。

 向かう先は、あの雑貨屋だ。

     ◇

 流星街での半年間は、俺に多くのものを与えてくれた。

 もちろん、最初から順調だったわけではない。

 野犬との戦闘。

 荒くれ者たちとの争い。

 そして、未熟な念能力者による洗礼。

 どれか一つでも対応を間違えていれば、俺は死んでいたかもしれない。

 特に、あの大男に腹を殴られたときのことは忘れられない。

 肉体の内側を破壊される感覚。

 呼吸ができなくなる恐怖。

 そして、強引に精孔を開かれたことで、突然見えるようになったオーラ。

 あれが、俺にとって念能力者としての始まりだった。

 その後、三か月間を基礎修行に費やした。

 纏。

 絶。

 練。

 そして、初歩的な攻防力移動。

 水見式によって、自分が特質系だということも判明した。

 あのとき、コップの上に浮かべた葉っぱが十枚ほど増えた光景は、今でも鮮明に覚えている。

 水面から溢れた葉っぱが、まるでスロットマシンから吐き出されるコインのように散らばっていった。

 あれは、いったい何を意味しているのだろう。

 俺の念が持つ性質なのか。

 それとも、転生という特殊な経験が影響した結果なのか。

 現時点では、わからない。

 だから、発については保留している。

 焦って能力を決めるよりも、まずは念そのものを理解するべきだと思ったからだ。

 そして、さらに三か月。

 物資の探索を再開し、行動範囲を広げた。

 その間も修行は続けたが、以前のように一日の大半を念に費やすことはなくなった。

 食料を探す。

 水を確保する。

 使える道具を回収する。

 拠点を維持する。

 そして、周囲の危険を確認する。

 そんな生活の中で、念を使い続けた。

 結果として、修行時間は減ったものの、オーラの扱いは以前よりも洗練されてきていた。

 特に纏は、ほとんど無意識に維持できる。

 絶への切り替えも、以前より滑らかになった。

 練についても、ただ長時間維持するだけではなく、無駄なオーラの放出を抑えることを意識している。

 ただし、独学には限界があった。

 俺には、ゴンやキルアに匹敵する念の才能がある。

 戦闘の才能もある。

 さらに、伏黒甚爾のようなフィジカルギフテッドまで与えられている。

 だが、才能があるからといって、正しい技術を自動的に習得できるわけではない。

 原作のゴンやキルアだって、ウイングやビスケの指導を受けていた。

 優れた師匠の存在は、それほど大きい。

 自分の動きのどこが悪いのか。

 オーラの配分に無駄があるのか。

 もっと効率的な鍛え方があるのか。

 一人では、判断できないことが多すぎた。

 武術も同じだ。

 身体能力が高くても、相手との間合いや崩し方、技の組み立てを知らなければ、熟練した武術家には通用しないだろう。

 実戦経験を積むという方法もある。

 だが、命を懸けた戦闘を繰り返すのは、修行方法として危険すぎる。

 しかも、ここは流星街だ。

 強い人間はいるだろう。

 念能力者だって存在するはずだ。

 しかし、信頼できる師匠を見つけられるかは別問題だった。

 俺は五歳ほどの子供だ。

 身寄りもない。

 そして、他人に知られたくない能力を複数持っている。

 そんな俺が、正体もわからない念能力者に弟子入りを頼む。

 ……どう考えても、危険だった。

「……外に出てから、探した方がいいよな」

 流星街の外には、武術道場もあれば、念能力者もいる。

 もちろん、簡単に師匠が見つかるとは限らない。

 だが、少なくとも選択肢は増える。

 そして、外の世界へ出るなら、目指したいものがあった。

 ハンター。

 この世界に存在する、特殊な資格を持つ職業だ。

 プロハンターになれば、社会的な信用を得られる。

 ハンターライセンスには、非常に大きな価値がある。

 そして何より、出自が不明でも挑戦できる。

 住所がなくても。

 戸籍がなくても。

 学歴や経歴がなくても。

 ハンター試験を受ける道は閉ざされていない。

 もちろん、受験することと合格することは別だ。

 試験会場に辿り着くだけでも困難だし、試験そのものも危険極まりない。

 だが、俺には挑戦する理由があった。

 アイテムボックス。

 そして、完全回復能力。

 この二つの特典だ。

 どちらも便利すぎる。

 一般人が持っていれば、間違いなく注目される能力だろう。

 だが、ハンターなら話が変わる。

 特殊な念能力を持つハンターは、珍しくない。

 アイテムボックスなら、運搬や補給、貴重品の保管に使える。

 完全回復能力なら、怪我人の治療や病気の回復、さらには除念にも使える。

 どちらか一つを表向きの能力として扱えば、仕事に利用できるかもしれない。

 もちろん、両方を公開するつもりはない。

 特に完全回復能力は、危険すぎる。

 あらゆる傷や病気を治せると知られれば、厄介な連中に目をつけられる可能性がある。

 アイテムボックスも、悪用しようとする人間はいるだろう。

 だから、公開するなら慎重に。

 自分の実力と立場を確保してから。

 それが、俺の考えだった。

 ただし、その前に。

「……まず、文字だな」

 俺は苦笑した。

 どれほど大きな目標を立てても、看板一つ読めないのでは話にならない。

 だから、今は勉強だ。

 ハンター文字を覚える。

 それが、流星街を出るための最初の条件だった。

     ◇

 雑貨屋は、相変わらず雑然としていた。

 古い本。

 錆びた工具。

 欠けた食器。

 使い道のわからない機械部品。

 そして、何かの帳簿。

 それらが、狭い台の上に所狭しと並べられている。

 店主は、いつものように椅子に座り、古い金属部品を磨いていた。

 痩せた中年の男だ。

 髪はぼさぼさで、服も古い。

 だが、目つきだけは鋭い。

 俺が近づくと、男は顔を上げた。

「……おう。また来たのか、坊主」

「うん」

「今度は何だ?」

 俺は、抱えていた絵本を見せた。

「この本、文字を覚えるために買ったんだけど」

「それが?」

「……やっぱり、一人じゃ難しい」

 男は、鼻で笑った。

「そりゃそうだろ。字を知らねえ奴が、本だけ見て覚えられるなら苦労しねえ」

「……だよね」

「で?」

 男は、俺を見た。

「何が言いてえ?」

 俺は、一度息を整えた。

 そして、正直に頼んだ。

「文字を教えてくれる人、知らない?」

 男は、しばらく黙っていた。

 それから、磨いていた金属部品を台の上に置いた。

「……字を覚えたいのか」

「うん」

「何のために?」

「……いつか、流星街の外に出たいから」

 男の目が、わずかに細くなった。

「外?」

「うん」

「何しに行くんだ?」

 俺は少し迷った。

 ハンターになりたい。

 そう答えてもよかった。

 だが、まだ俺は、この男を信用していいのかわからない。

 だから、少しだけぼかした。

「……いろんなことを勉強したいんだ」

 男は、俺をじっと見つめた。

 その視線には、値踏みするようなものがあった。

 だが、敵意は感じない。

「……変わったガキだな」

「よく言われる」

「誰にだよ」

「……まあ、いろいろ」

 男は、呆れたように鼻を鳴らした。

 そして、突然尋ねてきた。

「そういや、坊主。名前は?」

「……え?」

「名前だよ。何て呼べばいいんだ?」

 俺は、思わず固まった。

 名前。

 そうだ。

 名前だ。

 今まで、まったく考えていなかった。

 この世界へ転生してから、半年。

 俺は、自分の名前を誰かに名乗ったことがなかった。

 そもそも、まともに会話した人間がほとんどいない。

 最初に出会った荒くれ者たちは、名前を尋ねるような相手ではなかった。

 そして、今まで一人で生活してきた。

 だから、自分の名前について考える機会がなかったのだ。

「……名前、か」

 俺は、小さく呟いた。

 もちろん、前世の名前は覚えている。

 日本で生まれ、三十二年間使っていた名前だ。

 家族にも、友人にも、職場の人間にも、その名前で呼ばれていた。

 だが。

 その名前を、この世界でも使う気にはなれなかった。

 嫌いなわけではない。

 むしろ、大切な名前だ。

 前世の自分を証明する、数少ないものの一つだからだ。

 だからこそ、そのまま使いたくなかった。

 あの名前は、前世の俺のものだ。

 この世界で生きる俺には、別の名前があってもいい。

 そんなことを考えた。

 では、何と名乗るか。

 俺は、前世の記憶を辿った。

 仕事。

 趣味。

 漫画。

 アニメ。

 ゲーム。

 そして、ネット。

 そういえば、ゲームやネット上で使っていたハンドルネームがあった。

 前世の実名の一部を取り入れた、短い名前。

 アオ。

 昔から、何となく使っていた名前だった。

 ゲームのキャラクター名。

 オンラインでのユーザー名。

 掲示板やSNSでの名前。

 いろいろな場所で使っていた。

 前世の自分とつながっている。

 それでいて、実名そのものではない。

 新しい人生で使うには、ちょうどいい名前かもしれない。

「……アオ」

 俺は、静かに呟いた。

 男が眉を上げた。

「ん?」

「……俺の名前。アオ」

 男は、少しだけ考えるような顔をした。

「アオ、か」

「うん」

「短え名前だな」

「覚えやすいでしょ」

「まあな」

 男は、口元をわずかに緩めた。

「俺はハザだ」

「……ハザ?」

「ああ。この店の店主だ。覚えとけ」

 俺は頷いた。

「よろしく、ハザ」

「呼び捨てかよ」

「……駄目?」

「別に構わねえよ」

 ハザは、面倒くさそうに手を振った。

 だが、その表情はどこか楽しそうだった。

 俺は、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。

 アオ。

 それが、この世界での俺の名前になった。

 前世の記憶を持ちながら。

 新しい人生を生きるための名前。

 誰かに名乗ったことで、初めて実感が湧いた。

 俺は、もう前世の自分ではない。

 今は、流星街で生きる五歳ほどの子供。

 アオだ。

     ◇

「で、アオ」

 ハザが、俺の名前を呼んだ。

「字を覚えたいんだったな」

「うん」

「……役に立つものを持ってこれるなら、俺が教えてやる」

 俺は、思わず目を見開いた。

「……え?」

「聞こえなかったのか?」

「いや、聞こえたけど」

 ハザは、肩をすくめた。

「俺だって暇じゃねえ。店もあるし、物資の整理もしなきゃならねえ。だから、ただで教えるつもりはねえよ」

「……うん」

「だが、お前が役に立つものを持ってこれるなら、話は別だ」

 俺は、少し考えた。

 物資と引き換えに、文字を教えてもらう。

 単純な取引だ。

 そして、俺にとっては非常にありがたい提案だった。

 この街では、何かを得るためには対価が必要になる。

 それは、当然のことだ。

 むしろ、見知らぬ子供に無償で教えてくれると言われるよりも、よほど信用できる。

「……何を持ってくればいい?」

 俺が尋ねると、ハザは少しだけ笑った。

「食い物でも、水でも、使える道具でもいい。こっちが価値を認めるものならな」

「毎日?」

「毎日じゃなくてもいい。持ってきた分だけ教えてやる」

 なるほど。

 物資の価値に応じて、勉強の時間をもらえるわけだ。

 俺は、アイテムボックスの中身を思い浮かべた。

 食料。

 水。

 布。

 金属片。

 工具。

 そして、探索中に見つけた雑多な物資。

 それらを少しずつ持ってくれば、十分に取引できるだろう。

 もちろん、アイテムボックスの存在は隠す。

 大量の物資を持っていることも、知られないようにする。

 そのためには、毎回持ち込む量を調整する必要がある。

 だが、それくらいなら問題ない。

「……わかった」

 俺は頷いた。

「その条件でお願いしたい」

 ハザは、少しだけ眉を上げた。

「即決か」

「うん。文字を覚えたいから」

「……変わったガキだな、本当に」

 ハザは、呆れたように笑った。

 そして、台の下から古い紙束を取り出した。

「じゃあ、今日から始めるか」

「……いいの?」

「最初くらいはな。どの程度わかってるのか、確認しねえと教えようがねえ」

 俺は、思わず笑顔になった。

「ありがとう!」

「礼はいい。次からはちゃんと物を持ってこいよ」

「わかった!」

 こうして。

 俺は、流星街で初めての師匠を得た。

 念の師匠ではない。

 武術の師匠でもない。

 文字を教えてくれる、雑貨屋の店主。

 ハザ。

 それが、俺の新しい生活の始まりだった。

     ◇

 最初の授業は、散々だった。

「……これが、基本の文字だ」

 ハザは、古い紙の上にいくつかの文字を書いた。

 そして、一つずつ読み上げる。

 俺は、その音を聞きながら、文字の形を覚えようとした。

 だが、難しい。

 前世で使っていた日本語とは、まったく違う文字体系だ。

 見慣れない線。

 独特な形。

 そして、発音との対応。

 最初は、何が何だかわからなかった。

「……おい、アオ」

「うん?」

「さっき教えた文字、読んでみろ」

 俺は、紙を見た。

 そして、固まった。

「…………」

「どうした?」

「……忘れた」

 ハザは、深いため息をついた。

「お前なあ……」

「ごめん」

「謝る暇があったら覚えろ」

 俺は、慌てて頷いた。

 だが、次の文字も間違えた。

 その次も。

 さらに、その次も。

 ハザは、何度もため息をついた。

「……本当に、字を知らねえんだな」

「うん」

「会話は普通にできるのにな」

「……不思議だよね」

「他人事みてえに言うな」

 俺は、苦笑した。

 それでも、ハザは根気よく教えてくれた。

 文字の形。

 読み方。

 簡単な単語。

 そして、書き順。

 俺は、何度も紙に書いた。

 間違えたら、書き直す。

 覚えたと思ったら、次の日には忘れている。

 それでも、繰り返した。

 前世では、三十二歳まで生きていた。

 仕事もしていた。

 勉強も、それなりにしてきた。

 だから、学習そのものには慣れている。

 だが、新しい文字体系を一から覚えるのは、想像以上に大変だった。

 特に、読み方と意味を結びつける作業が難しい。

 それでも、少しずつ進歩していった。

 最初の一週間。

 基本的な文字の一部を覚えた。

 二週間目。

 簡単な単語を読めるようになった。

 三週間目。

 短い文章なら、時間をかければ意味を理解できるようになった。

 そして、一か月が過ぎる頃には、絵本の内容を少しずつ読めるようになっていた。

「……読める」

 俺は、思わず呟いた。

 以前は、ただの記号にしか見えなかった文字。

 それが、今は意味を持っている。

 犬。

 猫。

 水。

 食べ物。

 家。

 人。

 簡単な単語ばかりだ。

 だが、確かに読める。

「……すげえな」

 俺は、少しだけ感動していた。

 前世では、文字が読めることなど当たり前だった。

 だが、今は違う。

 一つの文字を覚えるだけでも、大きな進歩だ。

 俺は、改めて実感した。

 知識とは、力だ。

 念や武術とは違う。

 だが、この世界で生きるためには、間違いなく必要な力だった。

     ◇

 それから、俺の生活は大きく変わった。

 朝。

 拠点で目を覚ます。

 周囲の安全を確認する。

 食事を取り、念の状態を確認する。

 そして、軽い修行。

 纏の維持。

 絶への切り替え。

 練の持続。

 オーラの攻防力移動。

 それらを、毎日繰り返す。

 その後、物資の探索へ向かう。

 以前よりも、探索範囲は広がっていた。

 流星街の中心地周辺。

 そこから伸びるゴミ山。

 人々が物資を探している場所。

 そして、まだ手つかずの廃棄物が残っている区域。

 俺は、できるだけ危険を避けながら、使えるものを回収していった。

 食料。

 水。

 布。

 工具。

 金属部品。

 そして、紙や本。

 特に、文字を覚え始めてからは、紙類にも注意を向けるようになった。

 以前なら、ただのゴミだと思っていたもの。

 古い新聞。

 破れた雑誌。

 説明書。

 包装紙。

 それらも、今では貴重な教材だった。

 俺は、状態のいいものを見つけると、アイテムボックスへ収納した。

 そして、夕方。

 ハザの店へ向かう。

 物資を渡す。

 その代わりに、文字を教えてもらう。

 授業は、店の仕事が落ち着いた時間に行われた。

 ハザは、決して優しい教師ではなかった。

 間違えれば、容赦なく指摘する。

 覚えていなければ、呆れた顔をする。

 だが、教え方は意外と丁寧だった。

 特に、実際の生活で使う言葉を中心に教えてくれた。

 食料の名前。

 道具の名前。

 値段。

 数量。

 簡単な取引の言葉。

 そして、看板の読み方。

 それらは、すぐに役立った。

 俺は、少しずつ街の文字を読めるようになっていった。

 そして、夜。

 拠点へ戻る。

 食事を取る。

 その日の修行記録を確認する。

 そして、ハザに教わった文字を復習する。

 眠る前には、絵本を開く。

 以前は、まったく読めなかった本。

 それが、少しずつ理解できるようになっていく。

 その変化は、何とも嬉しかった。

 もちろん、修行も続けていた。

 念の修行時間は、以前よりもさらに減った。

 だが、完全にやめたわけではない。

 むしろ、日常生活の中で念を使う機会は増えていた。

 物資を運ぶとき。

 危険な足場を越えるとき。

 人の気配を察知したとき。

 そして、身体を鍛えるとき。

 俺は、常に念を意識していた。

 特に、纏と絶。

 この二つは、生活の中で自然と使えるようになっていた。

 練についても、以前より効率がよくなっている。

 ただ大量のオーラを出すのではなく、無駄を減らす。

 必要な量を、必要な時間だけ維持する。

 それを意識するようになった。

 そして、回復能力。

 これも、修行の中で使い続けていた。

 ただし、以前のように毎日三回使い切ることはなくなった。

 人の多い中心地へ向かう日や、危険な区域を探索する日は、使用回数を温存する。

 逆に、安全な拠点で修行に集中する日は、三回使い切る。

 その使い分けが、今の俺の基本方針だった。

 回復能力の使用回数は、十分な睡眠を取って目覚めたときに補充される。

 短い仮眠では駄目だ。

 体感では、六時間以上の睡眠が必要らしい。

 この性質を理解してからは、無理な修行を避けるようになった。

 回復能力を使い切った状態で、危険な場所へ向かうことはしない。

 それを徹底した。

 こうして。

 修行。

 物資集め。

 文字の習得。

 その三つを中心とした生活が、始まった。

     ◇

 三か月が過ぎた。

 俺は、ハザの店で古い新聞を読んでいた。

 もちろん、まだすべてを理解できるわけではない。

 難しい単語はわからない。

 知らない表現も多い。

 だが、簡単な記事なら、時間をかければ意味を追えるようになっていた。

「……おい、アオ」

 ハザが、台の向こうから声をかけてきた。

「そこ、何て書いてある?」

 俺は、新聞を見た。

 そして、ゆっくりと読み上げた。

 内容は、どこかの都市で起こった小さな事件についてだった。

 細かい部分はわからない。

 だが、大まかな意味は理解できる。

 俺が読み終えると、ハザは頷いた。

「……まあ、そんなもんだな」

「合ってた?」

「大体な。だが、ここは違う」

 ハザは、指で文字を示した。

「こいつは、そう読むんじゃねえ」

「あ、そっか」

 俺は、慌てて訂正した。

 ハザは、呆れたように鼻を鳴らした。

「まだまだだな」

「……うん」

「だが、最初に比べりゃ、ずいぶんマシになった」

 俺は、少しだけ笑った。

「ありがとう」

「礼はいい。ちゃんと物を持ってこい」

「わかってるよ」

 そんなやり取りも、すっかり日常になっていた。

 ハザは、相変わらず無愛想だ。

 だが、俺が文字を覚えることについては、意外と真剣に付き合ってくれていた。

 時には、店の帳簿を見せてくれることもある。

 もちろん、重要な部分は隠しているようだったが。

 それでも、数字や取引の記録を読む練習にはなった。

 俺は、少しずつ、この世界の文字と社会の仕組みを理解し始めていた。

     ◇

 さらに三か月。

 転生してから、およそ一年が経過した。

 その頃には、俺の文字の理解力は、かなり向上していた。

 簡単な本なら、一人で読める。

 看板も、ほとんど理解できる。

 短い文章なら、書くこともできる。

 もちろん、難しい専門用語や複雑な文章は、まだ苦手だ。

 だが、日常生活で困ることは、かなり減っていた。

 そして、ある日。

 俺は、ハザの店で古い新聞を読んでいた。

 その新聞は、比較的新しいものだった。

 流星街へ廃棄された物資の中から、ハザが見つけたらしい。

 俺は、いつものように記事を読んでいた。

 政治。

 経済。

 事件。

 事故。

 知らない地名。

 知らない人名。

 そのほとんどは、前世の知識とは直接結びつかない内容だった。

 だが。

 ある部分で、俺の目が止まった。

「……ん?」

 新聞の上部。

 そこに、日付が書かれていた。

 俺は、ゆっくりと読み上げた。

「……一九八〇年?」

 思わず、声が漏れた。

 1980年。

 その数字を見た瞬間。

 俺の頭の中で、何かがつながった。

「……待てよ」

 俺は、新聞を持つ手に力を込めた。

 1980年。

 年明け。

 そして、原作の開始時期。

 俺は、前世の記憶を必死に辿った。

 原作『HUNTER×HUNTER』。

 ゴンがハンター試験を受けた年。

 その時期は、1999年。

 つまり。

「……十九年前?」

 俺は、思わず呟いた。

 1980年。

 原作開始から、およそ十九年前。

 そういうことになる。

 俺は、しばらく新聞を見つめていた。

 転生してから一年。

 その間、正確な年代を知る手段がなかった。

 流星街のゴミ山には、古い物資が大量に存在する。

 だから、物に書かれている日付を見ても、それが現在の年代とは限らない。

 しかし、この新聞は比較的新しい。

 しかも、年明けの記事が載っている。

 少なくとも、今が1980年の年明け頃である可能性は高かった。

 もちろん、新聞が数週間、あるいは数か月遅れて流星街へ届いた可能性はある。

 だから、完全に断定することはできない。

 だが、これまでの情報を考えれば、かなり有力な手がかりだった。

「……そうか」

 俺は、静かに息を吐いた。

 原作開始まで、約十九年。

 思っていたよりも、ずっと時間がある。

 いや。

 正確には、時間があるように見えるだけかもしれない。

 この世界では、強い人間が何十年も修行を続けている。

 念能力者の実力差は、非常に大きい。

 俺がどれほど才能を持っていても、数年で最強になれるわけではない。

 それに、原作開始まで十九年ということは、まだ多くの出来事が起こる前だ。

 幻影旅団。

 クルタ族。

 ハンター協会。

 さまざまな人物や事件が、これから歴史の中に現れてくる。

 俺は、その一部を知っている。

 だが、すべてを知っているわけではない。

 原作で描かれなかった出来事も、当然存在する。

 そして、俺自身が行動すれば、未来が変わる可能性もある。

 だから、原作知識を過信するつもりはない。

 それでも。

 時間がわかったことは、大きかった。

 今後の計画を立てられる。

 いつ、何をするのか。

 どのくらい修行するのか。

 そして、いつ流星街を出るのか。

 それらを、具体的に考えられるようになった。

「……四年」

 俺は、静かに呟いた。

 四年後。

 1984年。

 その頃、俺の身体は、およそ九歳になっているはずだ。

 もちろん、正確な年齢はわからない。

 転生時の身体が五歳程度だったというだけで、誕生日も知らない。

 だが、今よりは確実に成長している。

 身体も大きくなる。

 筋力も増える。

 念の扱いも、さらに上達するだろう。

 そして、四年間あれば、文字の習得も進む。

 武術の基礎も、ある程度は鍛えられる。

 念の応用技も、独学で習得できるものがあるはずだ。

 俺は、ゆっくりと拳を握った。

 四年後のハンター試験。

 それを、最初の大きな目標にしよう。

     ◇

 ハンター試験。

 原作で、ゴンたちが挑戦した試験。

 あの試験は、決して簡単なものではない。

 むしろ、命を落とす可能性すらある。

 だが、合格すれば、ハンターライセンスを得られる。

 社会的な信用。

 さまざまな特権。

 そして、世界を自由に歩くための手段。

 俺にとっては、非常に魅力的だった。

 特に、流星街出身という立場を考えれば、その価値は大きい。

 俺には、住所がない。

 戸籍もない。

 身元を証明するものもない。

 だが、ハンターになれば、少なくともハンターライセンスという、強力な身分証明を得られる。

 それは、外の世界で生きる上で、大きな助けになるだろう。

 もちろん、ハンターになったからといって、すべての問題が解決するわけではない。

 危険な仕事もある。

 強い敵もいる。

 そして、念能力者同士の争いに巻き込まれる可能性もある。

 だが、俺には目指す理由がある。

 この世界を知りたい。

 もっと強くなりたい。

 自分の能力を活かしたい。

 そして、誰かに利用されるのではなく、自分の意思で生きたい。

 そのためには、ハンターという立場は非常に都合がいい。

 俺は、新聞を閉じた。

 そして、頭の中で今後の計画を整理した。

 まず、文字。

 ハンター文字を、日常生活で困らない程度まで習得する。

 読むだけではなく、書くこともできるようになる。

 地図。

 書類。

 契約。

 そして、専門書。

 それらを理解できるようになることが目標だ。

 次に、念の基礎。

 纏。

 絶。

 練。

 この三つを、さらに洗練させる。

 特に、練の持続時間とオーラの制御精度を高める。

 回復能力を使えば、効率的な修行ができる。

 ただし、無理はしない。

 そして、念の応用技。

 凝。

 堅。

 周。

 隠。

 円。

 硬。

 流。

 原作で登場した技術を、少しずつ習得していく。

 もちろん、独学では難しいものもあるだろう。

 特に、円や流のような高度な技術は、簡単には身につかないはずだ。

 だが、少しずつ挑戦することはできる。

 そして、系統別修行。

 これは、今後の大きな課題だった。

 俺の念系統は、特質系。

 水見式で判明した。

 しかし、特質系だからといって、他の系統の修行が不要になるわけではない。

 強化系。

 変化系。

 放出系。

 具現化系。

 操作系。

 それぞれの基本的な技術を理解し、できる範囲で鍛えていく。

 特質系は特殊だ。

 他の系統との相性も、単純には判断できない。

 だからこそ、実際に試して、自分の得意不得意を把握する必要がある。

 そして、最後に。

 発。

 自分固有の念能力。

 これについては、まだ決めない。

 四年間の修行を通して、自分の念の性質を理解する。

 その上で、必要な能力を考える。

 焦って決める必要はない。

 俺には、すでにアイテムボックスと完全回復能力がある。

 それらだけでも、十分に強力だ。

 だから、発は慎重に考える。

 自分の戦闘スタイル。

 得意な系統。

 そして、今後の生き方。

 それらを踏まえて、決めればいい。

「……よし」

 俺は、静かに頷いた。

 四年。

 長いようで、短い時間だ。

 だが、目標があれば、無駄にはならない。

 俺は、その四年間を、できる限り有効に使うつもりだった。

     ◇

「……おい、アオ」

 ハザの声で、俺は我に返った。

 顔を上げると、ハザがこちらを見ていた。

「何だ、さっきから難しい顔して」

「……ちょっと、考え事」

「新聞一枚で、そんなに考えることがあるのか?」

「……まあね」

 ハザは、鼻を鳴らした。

「変わったガキだな」

「それ、何回目?」

「数えてねえよ」

 俺は、思わず笑った。

 ハザも、口元をわずかに緩めた。

 そして、俺が読んでいた新聞へ目を向けた。

「……それ、読めるようになったのか」

「全部じゃないけど、大体は」

「ふん」

 ハザは、少しだけ満足そうに頷いた。

「最初は、文字一つ読めなかったくせにな」

「……そうだね」

「半年で、ずいぶん覚えたもんだ」

 俺は、少しだけ胸が温かくなった。

 ハザ。

 この男がいなければ、俺はまだ文字を読めなかったかもしれない。

 もちろん、物資と引き換えの取引だ。

 無償で教えてもらっているわけではない。

 だが、それでも感謝していた。

 俺は、静かに頭を下げた。

「……ありがとう、ハザ」

 ハザは、少しだけ目を細めた。

「何だ、急に」

「文字を教えてくれて」

「……対価はもらってる」

「それでも、助かったから」

 ハザは、しばらく黙っていた。

 そして、面倒くさそうに手を振った。

「……いいから、次の物資を持ってこい」

「うん」

 俺は、笑って頷いた。

 そのとき。

 ふと、思った。

 この世界へ来てから、初めてかもしれない。

 誰かに、心から感謝したのは。

 前世では、当たり前だったこと。

 人と話す。

 名前を呼ばれる。

 何かを教えてもらう。

 そして、礼を言う。

 そんな日常が、今の俺には、とても貴重だった。

     ◇

 その日の夜。

 俺は、拠点へ戻っていた。

 以前見つけた、半ば地面に埋もれた倉庫のような建物。

 屋根は一部しか残っていない。

 壁も傷んでいる。

 だが、半年以上使い続けたことで、かなり住みやすくなっていた。

 床の危険な金属片は片づけた。

 寝床も整えた。

 出入口には、簡単な警報装置を設置してある。

 そして、アイテムボックスには、生活に必要な物資が収納されている。

 俺は、毛布の上に座り、今日の修行記録を確認した。

 文字。

 念。

 物資。

 そして、今後の計画。

 それらを、少しずつ書き留めている。

 以前は、金属片に傷を刻むだけだった。

 だが、今は違う。

 紙に文字を書ける。

 それだけでも、大きな進歩だった。

 俺は、古い紙を一枚取り出した。

 そして、覚えたばかりのハンター文字で、ゆっくりと書いた。

 四年後。

 ハンター試験。

 その文字を、しばらく見つめた。

「……四年後、か」

 今の俺は、六歳ほど。

 四年後には、十歳程度になっているはずだ。

 もちろん、正確な年齢はわからない。

 だが、今よりも身体は成長しているだろう。

 念も、さらに上達しているはずだ。

 そして、文字も。

 今よりずっと自由に読めるようになっているだろう。

 俺は、静かに拳を握った。

 四年間。

 決して短くない時間だ。

 だが、無駄にはしない。

 毎日、少しずつ。

 確実に、強くなる。

 そして、いつか。

 流星街を出る。

 外の世界へ向かう。

 ハンター試験を受ける。

 そして、自分の意思で、自分の未来を選ぶ。

 俺は、紙を折りたたみ、アイテムボックスへ収納した。

 その後、立ち上がり、軽く身体を動かした。

 纏。

 身体の周囲に、薄いオーラが留まる。

 安定している。

 次に、絶。

 オーラが消える。

 気配が薄くなる。

 そして、再び纏。

 オーラが戻る。

 最後に、練。

 身体の周囲に、力強いオーラが膨らんだ。

 俺は、その状態をしばらく維持した。

 呼吸は安定している。

 身体も軽い。

 半年間の修行の成果は、確かに現れている。

 だが、まだまだ足りない。

 もっと強くなる必要がある。

 もっと多くのことを学ぶ必要がある。

 俺は、練を解除した。

 そして、静かに息を吐いた。

「……よし」

 明日も、修行だ。

 物資を探す。

 文字を覚える。

 念を鍛える。

 そして、少しずつ外の世界へ近づいていく。

 俺は、毛布に横になった。

 灰色の空は、すでに暗くなっている。

 流星街。

 捨てられたものが集まる場所。

 その片隅で。

 俺は、新しい名前を得た。

 アオ。

 そして、新しい目標を得た。

 四年後のハンター試験。

 そのために、これからの四年間を使う。

 俺は、静かに目を閉じた。

 前世では、漫画の中でしか知らなかった世界。

 その世界で、俺は今、生きている。

 そして。

 この先、どんな未来が待っているのかは、まだわからない。

 だが、一つだけ確かなことがある。

 俺は、もうただ生き延びるだけでは満足しない。

 自分の意思で。

 自分の力で。

 この世界を歩いていく。

 そのための準備が、今、始まった。

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