流星街の異邦人 ― その魂は二度目の人生を歩む 作:アイエオ
北部工業地区の夜は、騒がしかった。
倉庫の前には警察車両が並び、赤色灯が古い煉瓦壁を断続的に照らしている。救急車の扉が閉まる音、無線機から漏れる声、押収品を運ぶ警官たちの足音。それらが入り交じり、普段なら人影もまばらな水路沿いの道を、まるで別の場所に変えていた。
俺は倉庫の入口から少し離れた場所で、その光景を眺めていた。
救出した人質は十七人。
倉庫奥の鉄格子に閉じ込められていた十一人と、裏手の桟橋から船へ運ばれようとしていた六人だ。
全員、生存している。
衰弱の激しい者もいたが、現場で確認された限り、直ちに命を落とすような重傷者はいなかった。
それだけは救いだった。
だが、事件は終わっていない。
倉庫の中では、警官たちが書類や木箱を運び出している。
押収品の中には、帳簿だけでなく、複数の輸送会社の印が押された書類、封印された金属製の箱、偽造された身分証明書まであった。
そして、それらの一部には、例の記号が記されていた。
三本の斜線を重ねた印。
リリアが最初に気づいたものだ。
「……思ったより多いね」
隣に立つリリアが、警官たちの運ぶ木箱を見ながら言った。
「ああ」
俺は頷いた。
「帳簿だけじゃない。ここは相当重要な場所だったらしい」
彼女は少し考えた。
「でも、ここで全部じゃないんでしょう?」
「おそらくな」
俺は倉庫の奥へ視線を向けた。
人質を保管する部屋。
荷物を積み替えるための広い空間。
水路に繋がる桟橋。
そして、複数の輸送記録。
ここは単なる監禁場所ではない。
人間を含む違法な貨物を集め、別の経路へ送り出す中継拠点だった。
それも、かなり長い間使われていた可能性がある。
……よくもまあ。
胸の奥に、冷たい怒りが湧いた。
流星街で暮らしていた頃から、俺は人間がどれほど簡単に他人を踏みにじれるのか知っている。
力のない者を狙う。
抵抗できない者を選ぶ。
誰にも見つからない場所へ連れていく。
そして、人間として扱わなくなる。
そうした連中を、何度も見てきた。
だが、慣れることはなかった。
慣れたくもなかった。
「アオ」
リリアの声で、思考が途切れた。
「ん?」
「警部補が呼んでる」
見ると、ヴァレン・クロフト警部補がこちらへ歩いてきていた。
手には厚い封筒を持っている。
「二人とも、少しいいか」
「何か分かりましたか?」
俺が尋ねると、ヴァレンは頷いた。
「倉庫から押収した書類について、現場で確認できた範囲の報告だ」
彼は封筒から数枚の紙を取り出した。
「……予想以上に大きな事件になりそうだ」
◇
倉庫の一角に設けられた臨時の捜査室。
古い作業机の上には、押収された書類が分類されていた。
俺とリリア、ヴァレン、そしてローデリック・フェインが、その机を囲んでいる。
ヴァレンは一枚の帳簿を開いた。
「まず、今回の北部倉庫だが、少なくとも三つの都市を結ぶ輸送網の中継地点だった可能性が高い」
「三つですか」
「ああ。しかも、現在確認できた範囲だけでだ」
彼は地図を広げた。
街を中心に、北東と西、それに南側へ伸びる線が引かれている。
「この記号が付いた書類を照合したところ、複数の運送会社が同じ管理番号を使用していた」
リリアが顔を近づけた。
「……会社は違うのに?」
「そうだ」
ヴァレンは頷いた。
「表向きは無関係の企業だ。だが、輸送番号と荷受人の符丁が一致している」
俺は地図を見た。
別々の会社が、同じ仕組みで貨物を管理している。
偶然では説明できない。
「……共通の管理者がいるわけですね」
「その可能性が高い」
ヴァレンは続けた。
「さらに、帳簿には送金記録もあった。まだ全容は分からないが、一部は過去の密輸事件で押収した口座記録と一致している」
ローデリックが低く唸った。
「……こりゃ、人身売買だけじゃ済まねえな」
「ええ」
ヴァレンは頷いた。
「武器、薬品、偽造書類、それに人身売買。複数の違法取引が、同じ輸送網を利用していた可能性がある」
俺は静かに息を吐いた。
……なるほど。
ようやく、陰獣が動いた理由が見えてきた。
黒い船一隻が押収されたからではない。
その船に積まれていた帳簿が、広域犯罪網の一部を露わにしてしまったからだ。
そして、俺たちは北部倉庫まで辿り着いた。
つまり、組織の末端ではなく、内部へ踏み込み始めている。
「……問題は、ここからですね」
俺が言うと、ヴァレンが頷いた。
「ああ。これだけの規模なら、地元警察だけでは手に負えない」
「広域捜査になる?」
リリアが尋ねた。
「そうだ。すでに上級機関へ報告を上げている。隣接する都市の警察にも、照会を始めた」
ローデリックが腕を組んだ。
「ハンター協会にも正式な協力要請を出した方がいいな」
「そのつもりです」
ヴァレンは答えた。
俺は机の上の帳簿へ目を落とした。
そこには、人間の名前と金額が並んでいる。
だが、今はそれだけではない。
輸送網。
資金。
組織。
それらを繋ぐ記録でもある。
……連中が恐れるわけだ。
この帳簿を辿れば、複数のマフィア組織に捜査が及ぶ。
場合によっては、裏社会の資金源そのものが危険に晒される。
そして、その事態を防ぐためなら、連中はどこまでやるか分からない。
「警部補」
「何だ?」
「押収品の保管場所は、厳重に管理してください」
ヴァレンが俺を見た。
「……襲撃を警戒しているのか?」
「ええ」
俺は頷いた。
「連中はすでに、警察署の留置場へ念能力で干渉しています。次は証拠そのものを狙ってくる可能性があります」
ローデリックが頷いた。
「同感だ」
ヴァレンは少し考えた。
「……分かった。押収品は分散して保管する。移送経路も限定した人数にしか知らせない」
「お願いします」
俺は答えた。
リリアが、帳簿の一部を指差した。
「それと、ここ」
俺たちは彼女の指先を見た。
三本の斜線。
その横に、小さな数字が記されている。
「同じ記号があるのに、数字が違うものがある」
ヴァレンが覗き込んだ。
「……確かに」
「これ、拠点ごとの番号かもしれない」
リリアは続けた。
「もしそうなら、まだ見つかってない場所があるはず」
俺は彼女の指差す数字を確認した。
一。
三。
四。
そして、七。
……二と五と六がない。
単純な連番とは限らない。
だが、調べる価値はある。
「……照合してみましょう」
俺が言うと、ヴァレンは頷いた。
「そうだな」
そのときだった。
部屋の外から、慌ただしい足音が聞こえた。
「警部補!」
グレゴール・マティスが入ってきた。
表情が険しい。
「……どうした?」
「南側の倉庫から連絡です」
ヴァレンが顔を上げた。
「何かあったのか?」
「……別の拠点が見つかりました」
俺は目を細めた。
グレゴールは続けた。
「帳簿に記されていた番号と一致する倉庫です。現在、捜索令状を請求しています」
ヴァレンが息を吸った。
「……場所は?」
「港の西側です」
グレゴールは地図を広げた。
「それと、もう一つ」
彼は言葉を区切った。
「……隣町の警察からも連絡がありました」
会議室が静かになった。
「同じ記号の付いた書類が、過去の密輸事件で押収されていたそうです」
俺はゆっくりと息を吐いた。
……繋がり始めたな。
これまで別々の事件として扱われていた犯罪が、一つの輸送網へ結びついていく。
そして、その情報が警察の間で共有され始めている。
もう、ダリオ一人を捕まえれば済む事件ではない。
マフィア側にとっては、相当厄介な事態だろう。
◇
翌朝。
街の中心部から離れた高級住宅街に、一台の黒い車が停まった。
車から降りたのは、濃紺の背広を着た初老の男だった。
名を、オルフェン・バルザックという。
この地域の裏社会で、複数の組織を取りまとめる立場にある男だ。
彼は大きな屋敷の門を潜り、奥へ進んだ。
屋敷の内部は静かだった。
厚い絨毯。
高価な絵画。
磨き上げられた木製の家具。
表向きは、裕福な実業家の邸宅に見える。
だが、ここで行われる会議は、一般の商取引とは無縁だった。
オルフェンは案内役に従い、地下へ続く階段を降りた。
重い扉の前で足を止める。
案内役が扉を開いた。
その向こうには、長い会議机があった。
席に着いているのは、数人の男たち。
いずれも、この地域のマフィア組織に強い影響力を持つ人物だった。
そして、机の奥には通信装置が置かれている。
遠隔地の上層部と連絡を取るためのものだ。
オルフェンは深く頭を下げた。
「……お待たせしました」
机の奥に座る白髪の男が、ゆっくりと顔を上げた。
「座れ」
「失礼します」
オルフェンは席に着いた。
白髪の男は、机の上へ一冊の報告書を置いた。
「……北部倉庫が落ちたそうだな」
「……はい」
「船に続いて、二つ目か」
オルフェンは答えられなかった。
白髪の男は続けた。
「しかも、今回は陰獣が現場にいた」
「……黒鴉です」
「結果は?」
「……撤退しました」
会議室に、重苦しい沈黙が落ちた。
別の男が口を開いた。
「……陰獣が、たかが二人のハンターに押されたというのか?」
オルフェンは慎重に答えた。
「……そのようです」
「情けない話だな」
男が吐き捨てた。
だが、白髪の男は首を横に振った。
「……軽く見るな」
その声に、会議室が静まった。
「陰獣が撤退したということは、それだけの理由があったということだ」
白髪の男は報告書を開いた。
「……アオ。十五歳。一ツ星ブラックリストハンター」
彼は淡々と読み上げた。
「……リリア。十七歳。同じくハンター」
別の男が眉を寄せた。
「……子供ではないか」
「だからどうした」
白髪の男は冷たく言った。
「年齢で念能力者を判断するな」
男は口を閉ざした。
白髪の男は続けた。
「問題は、二人の年齢ではない」
彼は机を指で叩いた。
「……我々の輸送網が、どこまで露見したかだ」
オルフェンが顔を上げた。
「……現時点では、三つの都市に関係する記録が押収されたと見られています」
「三つ?」
「はい」
「……それだけでは済まんだろう」
白髪の男は低く言った。
「この輸送網は、複数の組織が共同で使っている」
会議室の空気が、さらに重くなった。
「武器、薬品、人身売買、資金移動……それらの記録が繋がれば、どこまで捜査が広がるか分からん」
別の男が口を開いた。
「……だが、警察がそこまで動けるとは思えん」
白髪の男は首を横に振った。
「警察だけならな」
彼は報告書へ目を落とした。
「……ハンター協会が関わっている」
その言葉に、数人の男が顔をしかめた。
「しかも、今回の中心にいるのはブラックリストハンターだ。犯罪組織の追跡を専門とする連中だぞ」
オルフェンは黙っていた。
白髪の男は続けた。
「……このまま放置すれば、ほかの都市へ捜査が波及する」
彼は机の上へ、一枚の紙を置いた。
そこには、三本の斜線を重ねた記号が描かれていた。
「……この印が、警察の手に渡った」
オルフェンの表情が強張った。
「……はい」
「つまり、我々の共同輸送網を示す手掛かりが、外部へ流出したということだ」
白髪の男は静かに言った。
「……これは、単なる人身売買事件ではない」
会議室に沈黙が落ちた。
そのとき。
通信装置から、低い声が響いた。
『……報告は聞いた』
全員が姿勢を正した。
通信の向こうにいるのは、十老頭の一人だった。
名は明かされていない。
だが、その声だけで、会議室の空気が変わった。
『……状況を整理しろ』
白髪の男が答えた。
「はい」
『船一隻。中継拠点一つ。人員の拘束。帳簿の押収』
「……そのとおりです」
『さらに、警察が広域捜査を始めた』
「はい」
短い沈黙。
通信の向こうの男は、ゆっくりと言った。
『……損害は、すでに一組織の範囲を超えている』
誰も口を開かなかった。
『問題は金ではない』
その声が、わずかに低くなる。
『……秩序だ』
会議室の空気が張り詰めた。
『我々の管理する輸送網が警察に暴かれれば、ほかの組織も動揺する。取引先は離れ、協力者は口を閉ざし、敵対組織は隙を突く』
オルフェンは深く頭を下げた。
『……それを許すわけにはいかん』
通信の向こうで、何かが置かれる音がした。
『陰獣を動かせ』
白髪の男が顔を上げた。
「……何名でしょうか」
短い沈黙。
そして。
『……四人だ』
その言葉が、会議室に響いた。
オルフェンは息を呑んだ。
四人。
陰獣を四人同時に動かす。
それは、通常の犯罪事件では考えられない規模の対応だった。
通信の向こうの男は続けた。
『黒鴉を含め、四人を投入する』
白髪の男が頷いた。
「……承知しました」
『任務は三つだ』
全員が耳を傾けた。
『第一に、押収された帳簿と関連資料の回収、または破棄』
『第二に、捜査に協力する重要人物の確保』
『第三に、輸送網の残存拠点を守り、これ以上の摘発を防ぐこと』
白髪の男は深く頭を下げた。
「……承知しました」
通信の向こうの男は、最後に付け加えた。
『……ハンターについては、必要なら排除しろ』
その声には、何の感情もなかった。
『ただし、無駄な戦闘は避けろ。目的は復讐ではない』
通信が切れた。
会議室には、しばらく沈黙が残った。
やがて、白髪の男がゆっくりと息を吐いた。
「……決まったな」
オルフェンは頷いた。
「……はい」
白髪の男は、机の上の報告書を閉じた。
「……陰獣四人」
彼は低く呟いた。
「……これで収まればいいがな」
◇
同じ日の午後。
街の外れにある古い屋敷の地下室。
黒鴉は、椅子に座っていた。
右腕には包帯が巻かれている。
腹部の痛みも、まだ完全には引いていなかった。
だが、念の扱いに支障が出るほどではない。
彼は机の上に置かれた報告書を読んでいた。
北部倉庫の押収品。
警察の動き。
ハンター協会への協力要請。
そして、アオとリリアの行動。
黒鴉は静かに息を吐いた。
「……予想より早いな」
警察が動く速度だ。
通常なら、押収品の整理と関係者の取り調べだけで数日は掛かる。
だが、今回は違った。
帳簿の解析。
過去の事件との照合。
隣接する都市への連絡。
それらが、すでに始まっている。
……面倒なことになった。
黒鴉は机の上へ、黒い羽根を一枚置いた。
そのとき。
地下室の扉が開いた。
灰色の外套を着た男が入ってくる。
「……黒鴉様」
「何だ」
「上から正式な命令が届きました」
黒鴉は顔を上げた。
「……内容は?」
男は一枚の封筒を差し出した。
黒鴉はそれを受け取り、中身を確認した。
数秒後。
彼は小さく笑った。
「……なるほど」
封筒には、三人の名前が記されていた。
鬼熊。
毒蛾。
白蛇。
いずれも、陰獣の一員。
黒鴉は静かに呟いた。
「……四人か」
灰色の外套の男が頷いた。
「……はい」
「……上も本気になったらしいな」
黒鴉は封筒を机へ置いた。
そして、右腕を軽く動かした。
まだ痛みが残っている。
アオとの戦闘で負ったものだ。
……あの小僧。
黒鴉は静かに目を細めた。
正面から戦えば、勝てない。
それはすでに理解している。
だが、戦い方は一つではない。
そして、今回の任務は、アオを倒すことではない。
帳簿を取り戻す。
重要人物を確保する。
輸送網を守る。
そのために必要なら、戦う。
ただ、それだけだ。
黒鴉は立ち上がった。
「……迎えの準備をしろ」
「……承知しました」
灰色の外套の男が頭を下げる。
黒鴉は机の上の羽根を指先で拾い上げた。
「……さて」
彼は静かに笑った。
「……久しぶりに、あいつらの顔を見ることになるな」
◇
最初に到着したのは、鬼熊だった。
翌日の朝。
古い屋敷の門を潜ってきたのは、巨大な男だった。
身長は二メートルを超えている。
肩幅は広く、腕は丸太のように太い。
短く刈り込まれた髪。
無精髭。
そして、分厚い首。
外套の下には、筋肉で膨れ上がった身体が見えていた。
男は門の前で立ち止まり、屋敷を見上げた。
「……相変わらず陰気な場所だな」
低い声だった。
案内役の男が近づいた。
「……鬼熊様ですね」
「ああ」
鬼熊は頷いた。
「黒鴉は?」
「地下室でお待ちです」
「……そうか」
鬼熊は大きな足音を立てて屋敷へ入った。
地下室へ降りると、黒鴉が椅子に座っていた。
鬼熊はその姿を見るなり、眉を上げた。
「……おい」
「何だ」
「……腕、どうした?」
黒鴉は包帯を巻いた右腕を見た。
「……少し失敗した」
鬼熊は目を細めた。
「……お前が?」
「ああ」
鬼熊はしばらく黙っていた。
そして、低く笑った。
「……珍しいこともあるもんだな」
黒鴉は答えなかった。
鬼熊は椅子へ腰を下ろした。
その重量で、木製の椅子が軋む。
「……で、相手は誰だ?」
「アオというハンターだ」
「……強いのか?」
「少なくとも、正面から戦う相手じゃない」
鬼熊は眉を上げた。
「……お前がそう言うとはな」
黒鴉は静かに答えた。
「忠告しておく。力比べをするつもりなら、やめておけ」
鬼熊は口元を歪めた。
「……俺に力比べをするなって?」
「ああ」
黒鴉は頷いた。
「……死にたくなければな」
鬼熊の笑みが、少しだけ消えた。
黒鴉は続けた。
「今回の任務は、ハンターを倒すことじゃない」
「……分かってるよ」
鬼熊は腕を組んだ。
「拠点を守るんだろ?」
「ああ」
「なら、俺の仕事は分かりやすい」
鬼熊は低く笑った。
「……近づく奴を止めりゃいい」
黒鴉は小さく息を吐いた。
……相変わらずだな。
だが、鬼熊は単なる力任せの男ではない。
見た目に反して、戦場での判断は早い。
そして、強化系の念能力者として、相応の実力を持っている。
今回のような拠点防衛では、頼りになる存在だった。
◇
二人目は、毒蛾だった。
午後になって現れたのは、細身の女だった。
年齢は三十歳前後。
淡い紫色の髪を肩まで伸ばし、黒い手袋を嵌めている。
顔立ちは整っているが、表情はどこか冷たい。
彼女は屋敷へ入るなり、鼻を鳴らした。
「……嫌な匂い」
案内役が困惑した。
「……何か?」
「血と薬品。あと、古い煙草」
女は淡々と答えた。
「……地下にいるんでしょう?」
案内役は慌てて頷いた。
「……はい」
毒蛾はそのまま階段を降りた。
地下室へ入ると、鬼熊が顔を上げた。
「……おう、毒蛾」
「……相変わらず大きいわね」
「お前は相変わらず細いな」
「余計なお世話」
毒蛾は冷たく返した。
そして、黒鴉へ目を向けた。
「……腕、どうしたの?」
「……少しな」
「……ふうん」
毒蛾は近づき、包帯を見た。
その目が、わずかに細くなる。
「……骨まではいってないみたいね」
「ああ」
「でも、筋肉は傷めてる」
黒鴉は頷いた。
「……そのとおりだ」
毒蛾は小さく息を吐いた。
「……相手、相当強いのね」
「……ああ」
彼女はそれ以上、何も聞かなかった。
代わりに、机の上の報告書を手に取った。
「……今回の任務は?」
「帳簿の回収と、重要人物の確保だ」
「……なるほど」
毒蛾は書類をめくった。
「……警察署に潜り込む必要がありそうね」
黒鴉は頷いた。
「可能性はある」
毒蛾は薄く笑った。
「……なら、私の仕事ね」
鬼熊が鼻を鳴らした。
「……また薬か?」
「薬だけじゃないわ」
毒蛾は静かに答えた。
「……人間は、眠っているときが一番扱いやすいのよ」
その言葉に、鬼熊は肩を竦めた。
「……相変わらず気味が悪い女だ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
毒蛾は微笑んだ。
◇
最後に現れたのは、白蛇だった。
夕暮れ。
屋敷の門を潜ったのは、長身の男だった。
年齢は二十代後半。
白に近い銀髪。
細い目。
そして、異様に白い肌。
黒い長衣を纏い、手には細い革手袋を嵌めている。
歩き方は静かだった。
足音がほとんど聞こえない。
案内役が声を掛ける前に、男は口を開いた。
「……黒鴉は地下か?」
「……はい」
「案内は要らない」
白蛇はそのまま屋敷へ入った。
地下室へ降りると、三人がすでに揃っていた。
鬼熊が顔を上げる。
「……遅かったな」
「道が混んでいた」
白蛇は淡々と答えた。
毒蛾が薄く笑った。
「……あなたが遅れるなんて珍しいわね」
「急ぐ理由がなかった」
白蛇は椅子へ腰を下ろした。
そして、黒鴉を見た。
「……で、何が起きた?」
黒鴉は机の上の報告書を差し出した。
「読め」
白蛇はそれを受け取り、静かに目を通した。
数分後。
彼は顔を上げた。
「……なるほど」
その声には、ほとんど感情がなかった。
「……輸送網の一部が露見したわけか」
「ああ」
「しかも、警察が広域捜査を始めている」
「そうだ」
白蛇は報告書を閉じた。
「……面倒だな」
鬼熊が笑った。
「……お前もそう思うか」
「当然だ」
白蛇は淡々と答えた。
「我々が動くということは、それだけ上が危機を感じているということだ」
黒鴉は頷いた。
「……そのとおりだ」
白蛇は続けた。
「……なら、余計な戦闘は避けるべきだ」
鬼熊が眉を寄せた。
「……おいおい」
「目的は、帳簿の回収と重要人物の確保だろう?」
「……まあな」
「なら、ハンターを倒すことに固執する理由はない」
白蛇は静かに言った。
「……必要なら殺す。必要なければ、無視する」
黒鴉は薄く笑った。
「……話が早いな」
白蛇は机の上へ目を落とした。
「……問題は、相手の能力だ」
黒鴉は頷いた。
「アオについては、まだ不明な点が多い」
「……身体能力が高いだけではないのか?」
「それだけなら、まだ対処のしようがある」
黒鴉は静かに答えた。
「だが、あの男は念を消せる可能性がある」
白蛇の目が細くなった。
「……除念師か?」
「分からん」
黒鴉は首を横に振った。
「ただ、留置場に仕込んだ念が消えた。それは事実だ」
毒蛾が小さく息を吐いた。
「……厄介ね」
鬼熊も、さすがに黙った。
白蛇は少し考えた。
「……なら、直接接触する前に調べる必要がある」
黒鴉は頷いた。
「そのつもりだ」
四人の視線が、机の上の報告書へ集まった。
そこには、二人の若いハンターの名前が記されていた。
アオ。
リリア。
そして、その下には、今回の事件で押収された証拠の一覧。
黒鴉は静かに口を開いた。
「……まず、役割を分ける」
鬼熊が顔を上げた。
「……どうする?」
「鬼熊。お前は残存拠点の防衛だ」
「……分かった」
「毒蛾。警察側の動きを探れ。必要なら証拠の移送を妨害しろ」
「……了解」
「白蛇。重要人物の確保を頼む」
「……誰だ?」
黒鴉は報告書の一枚を指差した。
「……ダリオ・ゼッカートだ」
白蛇が眉を上げた。
「……あの男か」
「ああ。奴はまだ警察に捕まっていない」
黒鴉は続けた。
「だが、上は奴の身柄を確保したがっている。口を割られる前に、こちらで押さえる必要がある」
白蛇は頷いた。
「……分かった」
毒蛾が尋ねた。
「……あなたは?」
黒鴉は静かに答えた。
「……俺は、アオとリリアを監視する」
鬼熊が笑った。
「……またやり合うのか?」
「必要ならな」
黒鴉は頷いた。
「だが、今度は正面から戦うつもりはない」
彼は机の上の羽根を指先で拾い上げた。
「……まずは、あの二人の行動を制限する」
白蛇が目を細めた。
「……どうやって?」
黒鴉は薄く笑った。
「……捜査が進まなければ、奴らも動けん」
その言葉に、毒蛾が小さく頷いた。
「……なるほど」
黒鴉は続けた。
「警察の動きを止める。証拠を消す。協力者を奪う」
彼は静かに言った。
「……それだけで、奴らの手足は鈍る」
四人の陰獣は、それぞれの任務を確認した。
彼らにとって、これは単なる復讐ではない。
十老頭から与えられた仕事だ。
裏社会の秩序を守るための、実務だった。
◇
その夜。
俺とリリアは、警察署近くの宿へ戻っていた。
久しぶりに、まともな食事を取ることができた。
温かいスープ。
焼いた肉。
柔らかいパン。
それだけのことが、妙にありがたかった。
リリアは向かいの席で、スープを飲んでいる。
その表情には、疲れが滲んでいた。
「……今日は長かったね」
「ああ」
俺は頷いた。
「さすがに疲れた」
彼女は小さく笑った。
「アオでも?」
「俺だって人間だぞ」
「……そうだね」
リリアは少しだけ笑みを深めた。
俺はパンを千切り、スープへ浸した。
……さて。
今日の成果は大きい。
北部倉庫の摘発。
十七人の救出。
輸送網の記録。
そして、広域捜査の開始。
だが、同時にマフィア側の反撃も激しくなるだろう。
黒鴉が撤退したとはいえ、陰獣が動いている。
十老頭直属の戦力だ。
連中が本格的に介入するなら、警察だけでは対処しきれない場面も出てくる。
俺はリリアを見た。
「……しばらく、気を抜けないな」
「うん」
彼女は頷いた。
「でも、今日は十七人助けられた」
「ああ」
「それは、ちゃんと喜んでいいと思う」
俺は少し考えた。
そして、頷いた。
「……そうだな」
リリアは微笑んだ。
俺も、わずかに笑った。
窓の外では、街の灯りが静かに揺れている。
この街には、まだ助けを待っている人間がいる。
そして、俺たちの知らない場所で、何かが動き始めている。
だが。
それでも、やることは変わらない。
俺はスープを飲み干した。
……明日も、動くか。
そのとき。
リリアが、ふと窓の外へ目を向けた。
「……アオ」
「ん?」
「……誰か、いる」
俺は顔を上げた。
窓の向こう。
通りを挟んだ建物の屋根。
そこに、小さな黒い影があった。
鳥のようにも見える。
だが。
その周囲に、微かなオーラが漂っていた。
俺は静かに目を細めた。
……黒鴉か。
どうやら、こちらを監視しているらしい。
俺は椅子から立ち上がった。
リリアも、静かに席を離れる。
俺は窓へ近づいた。
黒い影は、屋根の端で動かなかった。
……なるほど。
こちらの位置を把握していることを、わざと見せているのか。
俺は静かに息を吐いた。
……いいだろう。
監視するなら、好きにすればいい。
だが。
俺たちが何もしないと思うなよ。
窓の外で、黒い羽根が一枚、夜風に舞った。
そして。
遠く離れた屋敷の地下室では、四人の陰獣が、それぞれの任務へ動き始めていた。
裏社会の秩序を守るために。
そして、アオたちの捜査を止めるために。
新たな戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。