原神の世界に通えるようになったので、モンドを拠点に異世界生活を楽しみます 作:ところてんの
璃月港の朝は、今日も活気に満ちていた。
港では荷物を積み下ろす人々が忙しそうに動き、商店街では店主たちが商品を並べている。通りを歩けば、あちこちから呼び込みの声が聞こえてきた。
俺は、そんな街の中をのんびりと歩いていた。
今日は休日。
日本での仕事を終え、いつものようにテイワットへやってきた俺は、璃月港で過ごす時間を楽しんでいた。
前回は港の商店街や市場を中心に見て回った。どんな商品が売られているのか、どんな人たちが買い物をしているのか。そうした日常の様子を眺めるだけでも、十分に楽しかった。
ただ、見て回るだけでは分からないこともある。
食材の使い方や調理方法、そして実際にどんな料理として食べられているのか。
市場に並ぶ品物を眺めていると、そんなことが気になってきたのだ。
「せっかく璃月に来たんだから、料理も楽しまないとな」
俺は小さく呟いた。
日本でも食べることは好きだった。
平日は仕事で疲れているため、簡単な食事で済ませることも多い。休日には少し手の込んだ料理を作ることもあるが、特別に料理が得意というわけではない。
レシピを見ながらなら、ある程度のものは作れる。
その程度の腕前だ。
だからこそ、異世界の食文化には興味があった。
同じような食材でも、土地が違えば味付けも調理方法も変わる。普段から食べられている料理を知れば、その土地の暮らしも少し見えてくるかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、食欲を刺激する香りが漂ってきた。
香ばしい肉の匂い。
炒めた野菜の匂い。
温かい汁物を思わせる、優しい香り。
俺は自然と足を止めた。
「……いい匂いだな」
香りのする方向へ目を向ける。
そこにあったのは、見覚えのある店だった。
万民堂。
璃月の料理を楽しむなら、一度は訪れてみたいと思っていた場所だ。
店先では料理人らしき少女が忙しそうに動き回っていた。
「お父さん、こっちの下ごしらえ終わったよ!」
「おう。なら、次はそっちの野菜を頼む!」
元気な声が響く。
俺は、その少女の姿を見て思わず足を止めた。
特徴的な髪飾りに、料理人らしい服装。そして、食材や調理道具を扱いながら、少しもじっとしていない姿。
香菱だ。
原神をプレイしていた頃から、何度も名前を見てきたキャラクターだった。
(香菱か……。雷電ナショナルでお世話になったなあ)
思わず、懐かしい気持ちになる。
雷電将軍、行秋、ベネット、そして香菱。
あの編成を使って、どれだけの敵と戦ったことだろう。
元素爆発を回して、炎元素と水元素の反応を起こし、雷電将軍の攻撃で一気に畳みかける。
ゲームを遊んでいた頃の記憶が、頭の中によみがえった。
(まさか、本人が目の前で料理してるとはな……)
もちろん、ここにいる香菱はゲーム画面の中の存在ではない。
実際に料理を作り、店を手伝い、毎日を過ごしている一人の少女だ。
それは分かっている。
分かっているのだが、長いことゲームでお世話になったキャラクターが目の前にいるというのは、やはり不思議な感覚だった。
しかも、ゲームの中で見ていた姿より、ずっと忙しそうに動いている。
食材を運び、厨房へ入り、また店先へ戻る。料理人として働く姿には、画面越しでは分からなかった生活感があった。
「グゥ!」
足元から声が聞こえた。
香菱のそばには、小さな生き物がちょこちょこと動いている。
グゥだ。
「グゥちゃん、そっちは食材置き場じゃないよ。こっちこっち!」
香菱に呼ばれたグゥは、くるりと向きを変えて彼女の後ろをついていった。
俺は、その光景を見ながら小さく笑った。
(ゲームの知識があると、どうしてもいろいろ思い出すな)
しかし、いつまでも通りから眺めているわけにもいかない。
せっかく店まで来たのだから、客として料理を味わってみよう。
俺は万民堂へ近づいた。
店内からは、鍋をかき混ぜる音や、油のはぜる音が聞こえてくる。料理の香りも、近づくほどに強くなっていった。
ちょうど客足が落ち着いたのか、香菱が店先へ出てきた。
「いらっしゃい! 万民堂へようこそ!」
明るい声が響く。
香菱は俺の顔を見ると、少しだけ首を傾げた。
「えっと……お客さんだよね? 璃月の人じゃないみたいだけど」
「うん。今日は璃月の料理をいろいろ食べてみようと思って。ここが気になってたんだ」
「本当? それなら大歓迎!」
香菱の表情がぱっと明るくなった。
「うちは璃月の料理なら何でもござれ! 定番の料理もあるし、ちょっと変わった料理もあるよ!」
「ちょっと変わった料理?」
「うん! 珍しい食材を使ったり、いつもとは違う調理方法を試したり!」
香菱の目が輝いた。
料理の話になった途端、さっきまでの忙しそうな様子とは違う意味で勢いが増した気がする。
俺は苦笑しながら答えた。
「初めて食べるものも多いと思うから、まずは璃月らしい料理をお願いしたいかな」
「分かった! それなら、普段よく食べられている料理をいくつか選ぶね!」
香菱は嬉しそうに頷いた。
「辛いものは平気?」
「食べられるけど、ものすごく辛いものはちょっと自信がないかな」
「そっか。じゃあ、辛さは控えめにしておくね。苦手な食材とかはある?」
「特にはないよ。あ、でも、初めて食べるものもあるだろうから、何を使っているか教えてもらえると嬉しい」
「もちろん! 食材の話なら任せて!」
香菱は胸を張った。
そこへ、厨房の奥から男性の声がした。
「香菱、注文を受けるのはいいが、厨房の手も足りていないぞ」
「あっ、お父さん!」
奥から出てきたのは、万民堂の料理人である卯師匠だった。
卯師匠は俺を見て、穏やかに笑った。
「いらっしゃい。娘がずいぶん張り切っているようだが、何か注文してくれたのかな?」
「璃月らしい料理をいくつか食べてみたいとお願いしました」
「そうか。初めて食べる料理もあるだろうから、まずは定番からがいいだろうな」
「うん! お父さん、私が選んでいい?」
「もちろんだ。ただし、調理はきちんと順番を守るんだぞ」
「分かってるって!」
香菱はそう答えると、厨房へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、卯師匠は苦笑した。
「料理の話になると、あの子は止まらなくてね。気になる食材を見つけると、すぐに新しい料理を試したがるんだ」
「そうなんですね」
「もちろん、それが香菱のよいところでもあるんだがね。店の料理を作ることも忘れてはいけない」
卯師匠の言葉には、呆れたような響きと、娘を見守る親らしい優しさが混じっていた。
「でも、さっきの話を聞いていると、料理を食べるのが楽しみになってきました」
「それはありがたい。うちは、食べに来てくれた人に満足して帰ってもらうのが一番だからね」
俺は頷いた。
店内には、すでに何組かの客がいた。
仕事前に食事を取っているらしい人。買い物の途中で立ち寄った女性たち。店員と顔なじみらしく、気軽に声をかけている男性。
特別なことが起きているわけではない。
ただ、いつもの食事を楽しみにしている人たちがいる。
俺は空いている席へ案内され、腰を下ろした。
ほどなくして、香菱が水を持ってきた。
「お待たせ! 最初は、璃月の料理をいくつか楽しめるようにするね!」
「ありがとう」
「まずは、香ばしく焼いた料理と、野菜を使った料理。それから、温かい汁物も用意するよ。味の違いが分かりやすいと思う!」
「楽しみだな」
「ふふっ、期待してて!」
香菱は厨房へ戻っていった。
俺は店内を見回しながら、水を一口飲んだ。
日本で暮らしていた頃も、初めて訪れた飲食店で料理を待つ時間は嫌いではなかった。
メニューを眺めたり、周囲の客の注文を聞いたり、厨房から漂う香りを楽しんだり。
それだけで、少しずつ期待が膨らんでいく。
ただ、ここは日本ではない。
同じように食事を待っていても、厨房から聞こえてくる音も、店内で飛び交う言葉も、すべてが璃月の日常だった。
やがて、料理が運ばれてきた。
「お待たせ!」
香菱が皿を並べていく。
焼き目のついた肉料理。彩りのよい野菜料理。そして、湯気の立つ汁物。
どれも見た目からして食欲をそそる。
「まずは、これから食べてみて!」
香菱が指したのは、香ばしく焼かれた肉料理だった。
「表面をしっかり焼いて、肉の旨味を閉じ込めてあるんだ。味付けは濃くしすぎないようにして、食材そのものの味も残してあるよ」
「いただきます」
俺は箸を手に取り、ひと口大に切り分けられた肉を口へ運んだ。
最初に感じたのは、表面の香ばしさだった。
噛むと肉の旨味が広がり、脂の甘みが後から追いかけてくる。味付けはしっかりしているが、肉そのものの味を邪魔していない。
「……おいしい」
思わず、素直な感想がこぼれた。
「本当?」
「うん。焼き目の香りがいいし、味付けも濃すぎない。ご飯が欲しくなる味だね」
「そうそう! そういう料理って、ご飯と一緒に食べるとまた違うんだよ!」
香菱は嬉しそうに身を乗り出した。
「肉を焼くときは、火加減が大事なんだ。強すぎると表面だけ焦げちゃうし、弱すぎると香ばしさが足りなくなる。肉の厚さによっても変わるから、いつも同じように焼けばいいってわけじゃないんだよ」
「なるほど。火加減だけじゃなくて、肉の厚さも関係するんだ」
「うん! それに、食材の状態もね。水分が多いと焼き色がつきにくいこともあるし、切り方でも火の通り方が変わるから」
俺は、料理をもうひと口食べた。
日本でも肉を焼くことはあるが、普段はそこまで細かく考えていない。
フライパンを温めて、肉を置いて、火が通るまで焼く。
自宅で食べるなら、それでも十分だ。
しかし、店で出す料理となれば話が違う。
同じ料理を何度も作り、毎回おいしく仕上げるためには、火加減や食材の状態を見極める必要がある。
「家で作るときは、そこまで意識してなかったな」
「家で食べるなら、気楽に作っていいと思うよ。でも、ちょっとしたことを変えるだけでも、おいしくなることはあるんだ」
香菱は、今度は野菜料理を指した。
「こっちは、野菜の食感が残るように炒めてあるよ。火を通しすぎると柔らかくなりすぎるし、短すぎると青臭さが残ることもあるから、様子を見ながら仕上げるんだ」
俺は野菜を口に運んだ。
歯を立てると、ほどよい歯ごたえが残っている。味付けは肉料理より軽く、野菜の甘みがよく分かった。
「こっちもおいしい。野菜の食感がちゃんと残ってる」
「でしょ? 野菜は、ただ柔らかくすればいいってわけじゃないんだよね。料理によっては、少し歯ごたえを残したほうがおいしいこともあるし」
「食材ごとに、ちょうどいい火の通し方が違うんだね」
「そういうこと!」
香菱は満足そうに頷いた。
その勢いに、俺は小さく笑った。
料理の話をしているときの香菱は、本当に楽しそうだ。
相手が料理人でなくても、知っていることを惜しまず教えてくれる。しかも、ただ説明するだけではなく、相手が実際に食べて感じたことを聞きながら話を広げていく。
こちらまで、もっと料理について知りたくなってくる。
俺は汁物にも手を伸ばした。
器を持ち上げると、温かな湯気とともに、野菜や肉の旨味を感じさせる香りが立ち上る。
ひと口飲むと、優しい味が口の中に広がった。
「これは、思っていたよりもすっきりした味だね」
「うん。肉や野菜の旨味を生かして、調味料は控えめにしているんだ。汁物は、味を濃くしすぎるとほかの料理と一緒に食べたときに重たくなっちゃうこともあるから」
「料理全体の組み合わせも考えるんだ」
「もちろん! 一品だけおいしくても、食事全体で食べにくかったらもったいないでしょ?」
その言葉に、俺は納得した。
自宅で一人分の料理を作るときは、好きな味付けにしてしまうことも多い。濃い味が食べたい日は濃くするし、疲れている日は簡単なものを選ぶ。
それはそれでいい。
けれど、何品も並べて食べる食事では、それぞれの料理が互いを引き立てるように考えることも大切なのだろう。
「確かに。全部が濃い味だと、途中で飽きるかもしれないね」
「そうなんだよ! だから、味の強い料理と、あっさりした料理を組み合わせることもあるんだ」
香菱の説明を聞きながら、俺は料理を食べ進めた。
どの皿も、特別な珍味というわけではない。
けれど、だからこそ璃月で普段食べられている料理の味を知ることができる。
珍しいものを一口だけ食べて終わるより、こうした食事のほうが、土地の食文化を知るには向いているのかもしれない。
料理を楽しんでいると、厨房から卯師匠が顔を出した。
「口に合ったようで何よりだ」
「はい。どれもおいしいです。特に、野菜の炒め方が印象に残りました」
「ほう。どんなところが気に入ったんだい?」
「火が通っているのに、食感が残っているところです。家で作ると、つい柔らかくなるまで炒めてしまうので」
「なるほど。野菜は種類によっても火の通り方が違うからね。硬いものから先に入れて、火の通りやすいものは後にする。それだけでも、仕上がりはずいぶん変わるよ」
卯師匠は、厨房のほうを軽く振り返った。
「もちろん、料理によっては最初から一緒に煮込むこともある。どんな食感にしたいか、どんな味に仕上げたいか。それを考えて手順を決めるんだ」
「料理の手順にも理由があるんですね」
「そうだね。慣れれば自然に手が動くようになるが、最初はひとつずつ覚えていけばいい」
穏やかな口調だった。
香菱の説明は勢いがあって分かりやすいが、卯師匠の話には、長く料理を続けてきた人らしい落ち着きがある。
同じ料理の話でも、少し違った角度から聞けるのがおもしろかった。
「ところで、お客さんは普段、どんな料理を食べているんだい?」
「あ、そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。俺は山田悠真です。璃月には、いろいろな料理を食べてみたくて来ました」
俺がそう名乗ると、香菱が明るく頷いた。
「悠真さんだね! 私は香菱。こっちはお父さんの卯師匠だよ!」
「卯師匠だ。万民堂へようこそ」
「よろしくお願いします。お二人の料理、楽しみにしています」
「うん! おいしい料理を用意するから、期待しててね!」
香菱は元気よく答えた。
「それで、悠真さんは普段、どんな料理を食べているの?」
「普段は簡単なものが多いですね。炒め物とか、肉を焼いたものとか。仕事がある日は、あまり手間をかけないことも多いです」
「そういうものか。忙しいと、食事の準備に時間をかけられないこともあるだろうね」
卯師匠が頷いた。
「休日なら多少は頑張れますけど、平日は疲れて帰ってくるので」
「なら、下ごしらえを工夫するといい。時間のあるときに食材を切っておけば、帰ってからの調理が楽になることもある」
「確かに、それは便利そうです」
俺は頷いた。
日本で暮らしている自分にとっても、すぐに役立ちそうな話だった。
異世界の料理というと、珍しい食材や特殊な調理器具を想像しがちだが、基本的な考え方には共通するところがある。
食材を無駄なく使うこと。
火の通り方を考えること。
味付けの組み合わせを工夫すること。
そうしたことは、どこで暮らしていても役に立つ。
卯師匠は、俺が真剣に聞いているのを見て、少しだけ目を細めた。
「料理に興味があるなら、いろいろ試してみるといい。失敗することもあるだろうが、食べられる失敗なら、それも経験になる」
「食べられない失敗は?」
「それは、次から気をつければいい」
あっさりと返され、俺は笑ってしまった。
「確かに、それしかないですね」
「料理は毎日のことだからね。失敗を恐れていたら、何も作れなくなってしまうよ」
卯師匠はそう言い残し、厨房へ戻っていった。
俺は、残っていた料理を口に運ぶ。
温かい汁物を飲み、肉料理を食べ、野菜の食感を楽しむ。
何か特別なことをしているわけではない。
ただ、知らない土地で、その土地の人が普段食べている料理を味わっている。
それだけなのに、妙に満たされた気分になった。
*
食事を終えた俺は、会計を済ませたあと、店先で香菱に声をかけた。
「ごちそうさま。すごくおいしかったよ」
「ありがとう、悠真さん! 気に入ってもらえてよかった!」
香菱は満面の笑みを浮かべた。
「特に、野菜の炒め方が参考になったな。ああいう食感にするには、火加減だけじゃなくて、入れる順番も大事なんだね」
「うん! 食材によって硬さも違うし、水分の量も違うからね。全部を同じタイミングで入れると、柔らかくなりすぎるものが出てきちゃうんだ」
「なるほどなあ」
「それに、切り方も大事だよ。大きさがバラバラだと、同じ時間炒めても火の通り方が変わっちゃうから」
「家で作るときは、そこまで揃えてなかったかも」
「じゃあ、今度試してみるといいよ! 最初は難しく考えなくても大丈夫。野菜をできるだけ同じくらいの大きさに切る。それだけでも違いが分かると思う!」
香菱は話しながら、ふと厨房の奥を振り返った。
「あっ、そうだ!」
「どうしたの?」
「せっかくだから、食材の話もしようよ! 璃月の市場には、いろんなものがあるでしょ?」
「うん。昨日も市場を見て回ってたんだ。見たことのない野菜や、乾燥させた食材もあったよ」
「それなら、ちょっと見ていく?」
香菱は厨房の入り口を指さした。
「お父さんに聞いてみるね。今はちょうど仕込みをしているところだから、邪魔にならない範囲なら大丈夫だと思う!」
「え、厨房を見せてもらっていいの?」
「うん。もちろん、調理している場所には勝手に入らないでね。火を使っているし、包丁もあるから」
「それはもちろん」
香菱は卯師匠に声をかけ、短いやり取りを交わした。
やがて戻ってくると、こちらへ手招きする。
「大丈夫だって! こっちに来て!」
俺は案内され、厨房の入り口付近まで移動した。
中では、料理人たちが忙しそうに働いていた。
大きな鍋から湯気が上がり、まな板の上では野菜が手際よく切り分けられている。火にかけられた鍋の中身を混ぜる音、皿を重ねる音、注文を伝える声が絶え間なく聞こえてきた。
店先で料理を食べているだけでは分からなかった、もうひとつの万民堂の日常だ。
「すごいな……」
俺は思わず呟いた。
料理人たちは、無駄な動きをほとんどしていない。
必要な食材は手の届くところに用意され、使い終わった道具は邪魔にならない場所へ戻される。注文に合わせて調理を進めながら、次の料理の準備も同時に行っていた。
「毎日こんな感じなの?」
「うん。時間帯によって忙しさは違うけど、お昼が近づくと、もっと人が増えるよ」
香菱は棚に並べられた食材を指さした。
「ここにあるのは、今日使う野菜や調味料。こっちは乾燥させた食材だよ。生のまま使うものもあるし、水に戻してから使うものもあるんだ」
「乾燥させるのは、保存するため?」
「それもあるね。水分が少なくなれば長く保存しやすくなるし、乾燥させることで味や香りが変わるものもあるよ。戻したときの食感も、生のときとは違うんだ」
「同じ食材でも、保存方法で変わるんだね」
「そうそう! 乾燥させたものを戻したときに、どんな食感になるかを考えて料理を作るのも大事なんだよ」
香菱は、棚の一角に置かれた容器を手に取った。
「これは、調味料。少し入れるだけでも味が変わるから、使う量には気をつけないとね」
「調味料は、いろいろ混ぜて使うの?」
「料理によるよ。ひとつだけで十分なときもあるし、いくつか組み合わせることもある。でも、たくさん入れればおいしくなるわけじゃないんだ」
香菱は容器を元の場所へ戻した。
「食材の味を引き立てたいのか、香りを強くしたいのか、味に深みを出したいのか。それによって使い方が変わるからね」
「なるほど。調味料そのものの味だけじゃなくて、何を引き出したいかを考えるんだ」
「うん! だから、味見も大事なんだよ。作る前に考えていた味と、実際に調理したあとの味が違うこともあるから」
俺は厨房の様子を眺めた。
ここで作られている料理は、決してひとつの決まった手順を機械的に繰り返しているだけではないのだろう。
食材の状態を見て、火の通り方を確かめ、必要に応じて味を整える。
料理人たちの経験が、ひと皿ごとの仕上がりにつながっている。
「そういえば、璃月の料理って、地域によっても違うの?」
「もちろん! 山のほうと港のほうじゃ、手に入りやすい食材も違うし、暮らし方も違うからね。使う食材や料理の好みにも、それぞれ特徴があるよ」
「同じ璃月でも、違うんだ」
「うん。港では海産物を使った料理もよく食べられているし、山や村のほうでは、その土地で育てた野菜や、手に入りやすい食材を使った料理があるんだ」
その説明を聞き、俺は昨日の市場を思い出した。
魚介類だけでなく、野菜や果物、乾燥させた食材、さまざまな調味料が並んでいた。
それらは単なる商品ではなく、璃月の人たちの食生活を支えているものなのだ。
「市場で見た食材が、どうやって料理になるのか分かってくると、もっとおもしろいね」
「でしょ? 料理って、食材を知るところから始まっているんだよ!」
香菱は楽しそうに笑った。
そのとき、足元から小さな声がした。
「グゥ」
グゥが、いつの間にかこちらへやって来ていた。
香菱の足元を通り抜け、食材の置かれた台のほうへ近づこうとしている。
「あっ、グゥちゃん! そっちは駄目だよ!」
香菱は慌てて呼び止めた。
グゥは一度立ち止まり、香菱を見上げたあと、素直に向きを変えた。
俺はその様子を見て、口元を緩めた。
「厨房の中を自由に歩いているんだね」
「うん。でも、危ないところには近づかないようにしているよ。グゥちゃんも、ここがどんな場所か分かっているからね」
「そうなんだ」
グゥは香菱のそばまで戻ると、ちょこんと座った。
その姿は、どこかのんびりしている。
厨房は忙しく、料理人たちは手を止める暇もない。それなのに、グゥだけは自分のペースを崩していないように見えた。
不思議な光景だ。
しかし、テイワットでは、こうした光景も日常の一部なのだろう。
「ところで、香菱は新しい料理を考えるとき、どうやって決めているの?」
俺は、前から気になっていたことを尋ねた。
「うーん……いろいろかな!」
香菱は少し考えた。
「市場で珍しい食材を見つけたときもあるし、山や野原を歩いていて、これを料理に使ったらどうなるんだろうって思うときもあるよ。あとは、食べた料理からヒントをもらうこともあるね」
「食べた料理から?」
「うん! おいしい料理を食べると、どうやって作ったんだろうって気になるんだ。味付けや調理方法を考えて、自分でも試してみたくなるの」
「なるほど……」
「もちろん、同じものを作るだけじゃなくて、そこから別の料理にしてみることもあるよ。食材を変えたり、調味料を変えたり、焼く代わりに煮てみたり!」
香菱の目が輝いていた。
「でも、考えたとおりにできるとは限らないんだ。食材の組み合わせが合わないこともあるし、火を通しすぎて失敗することもあるし……」
「さっき卯師匠も、失敗は経験だって言ってたね」
「お父さんはそう言うけど、失敗した料理を食べるのは大変なんだよ?」
香菱は少しだけ頬を膨らませた。
「せっかく作ったのに、おいしくないと残念だし。でも、どうして失敗したのか考えれば、次に作るときの参考になるからね!」
「前向きだなあ」
「だって、料理は楽しいから!」
即答だった。
俺は思わず笑った。
料理が好きだということは知っていたが、香菱の話を聞いていると、その言葉が単なる趣味の説明ではないと分かる。
彼女にとって料理は、食べるための作業だけではない。
食材を知ることも、調理方法を考えることも、失敗して原因を探すことも、すべてが楽しみの一部なのだ。
「俺も、もう少し料理をしてみようかな」
「いいね! どんな料理を作ってみたいの?」
「そうだな……。今日食べた野菜料理みたいに、食感を残した炒め物とか。あとは、家でも作りやすいものかな」
「それなら、まずは身近な食材から始めるといいよ。難しい食材を使わなくても、切り方や火加減を変えるだけで、いつもの料理が違ってくるから!」
「それは試してみたいね」
俺は頷いた。
日本へ戻ったら、休日に何か作ってみるのもいいかもしれない。
ただし、凝りすぎるのはやめておこう。
料理の研究を始めた結果、休日が全部それで終わってしまったら本末転倒だ。
自分は料理人を目指しているわけではない。
おいしいものを食べて、気が向いたら自分でも作る。
そのくらいの距離感がちょうどいい。
「そういえば、璃月の人たちは、普段どんな料理をよく食べているの?」
俺が尋ねると、香菱は少し首を傾げた。
「うーん、家庭によって違うと思うけど、主食とおかずを組み合わせたり、汁物を用意したりすることが多いんじゃないかな。もちろん、外で食べることもあるし、忙しい日は簡単なものですませることもあるよ」
「やっぱり、家で食べるものと外食では違うんだね」
「そうだね。お店では、家ではあまり作らない料理を食べたい人もいるし、いつも食べている味を求めて来る人もいるよ」
香菱は店内の客席へ目を向けた。
「うちにも、よく来てくれるお客さんがいるんだ。いつも同じ料理を頼む人もいれば、その日の気分で違うものを注文する人もいる。新しい料理を試してくれる人もいるよ」
「お客さんによって、楽しみ方も違うんだ」
「うん。だから、いろんな料理を作りたいと思うんだよ。もちろん、何でも好き勝手に出せばいいわけじゃないけどね」
最後の一言には、店を手伝う料理人としての自覚が感じられた。
好きな料理だけを作っていればいいわけではない。
食べに来る人がいて、注文があり、店として続けていく必要がある。
それでも、その中で新しい料理を考える余地を見つけている。
香菱にとって、万民堂は料理を楽しむ場所であると同時に、毎日の食事を支える店なのだ。
*
しばらく厨房の様子を見せてもらったあと、俺は香菱に礼を言って店を出た。
昼が近づいてきたこともあり、通りには人が増えていた。
万民堂にも、新しい客が次々と入っていく。
香菱は店先で注文を受け、卯師匠は厨房で調理の指示を出していた。
さっきまで自分が座っていた席も、もう別の客で埋まっている。
その様子を見ていると、料理を食べる時間は、店にとっては日々繰り返される仕事の一部なのだと改めて感じた。
そして、客にとっては、一日の中の楽しみのひとつなのだろう。
「さて、少し歩くか」
俺は歩き出した。
もっとも、さっきしっかり食べたばかりだ。
すぐに別の店へ入るのは、さすがに無理がある。
腹ごなしも兼ねて、港のほうを散歩することにした。
通りを進むと、食材を運ぶ人々の姿が目に入った。
籠に野菜を詰めた人。荷車に魚を積んだ人。店先で品物を並べている商人。
昨日市場で見たものと同じような食材もあれば、見覚えのないものもある。
それらが、どこかの厨房へ運ばれ、誰かの手によって料理に変わっていく。
当たり前のことだが、実際にその流れを意識すると、街の見え方が少し変わった。
昨日までは、珍しい商品が並んでいる市場として見ていた。
今日は、その先にある食卓まで想像できる。
あの野菜は、どんな家庭で使われるのだろう。
あの乾燥食材は、どんな料理に入るのだろう。
あの調味料は、どんな味を生み出すのだろう。
考え始めると、気になることが次々と出てくる。
「……これ、全部知ろうとしたら大変だな」
俺は苦笑した。
璃月だけでも、食材も料理も多すぎる。
街の外へ出れば、また違う食材や食べ方があるのだろう。
軽策荘のような村では、港とは違う食生活があるかもしれない。
山の暮らしと海の暮らしでは、食卓に並ぶものも変わってくるはずだ。
すべてを一度に知る必要はない。
気になったものを少しずつ味わい、分からないことがあれば、その土地の人に尋ねればいい。
それが旅の楽しみというものだろう。
俺は海の見える場所まで歩き、欄干のそばで足を止めた。
港には、船が行き交っている。
荷物を積み下ろす人々の声が聞こえ、風に乗って潮の香りが届いた。
さっきまで万民堂の厨房にいたせいか、頭の中ではまだ料理の話が続いていた。
食材の切り方。
火加減。
調味料の使い方。
料理全体の組み合わせ。
日本に帰ったら、まずは簡単な炒め物から試してみよう。
いつも使っている野菜を、少しだけ丁寧に切ってみる。火を通す順番を考えてみる。味付けを少し変えてみる。
それくらいなら、無理なくできそうだ。
もっとも、作った料理が万民堂の味に近づくとは思っていない。
卯師匠や香菱が積み重ねてきた経験は、簡単に真似できるものではないだろう。
それでも、自分で作った料理がおいしくなれば、それはそれで嬉しいはずだ。
「よし。帰ったら試してみるか」
俺は小さく呟いた。
それから、しばらく港の景色を眺めていた。
*
昼を過ぎた頃、俺は再び街の中へ戻った。
万民堂の前を通りかかると、店は相変わらず賑わっていた。
厨房からは忙しそうな音が聞こえ、店先では香菱が客に料理を運んでいる。
その姿を見て、俺は少しだけ立ち止まった。
こちらに気づいた香菱が、手を振ってくる。
「またね、悠真さん! 今度は、ほかの料理も食べてみてよ!」
「うん。次に来たときは、今日食べなかった料理も試してみるよ」
「楽しみにしてるね!」
香菱は嬉しそうに笑った。
卯師匠も、厨房の入り口から顔を出して軽く手を上げた。
「またいつでも来なさい。璃月には、まだまだいろいろな料理があるからね」
「ありがとうございます。また来ます」
俺は二人に手を振り返し、歩き出した。
次に璃月へ来たときは、また別の料理を食べてみよう。
香菱に教えてもらったことを思い出しながら、自分でも簡単な料理を作ってみるのもいい。
そして、機会があれば軽策荘にも足を運んでみたい。
港とは違う景色の中で、どんな食事が食べられているのか気になる。
ただ、次の旅で何をするかは、もう少し考えてから決めればいいだろう。
今は、今日食べた料理の余韻を楽しみたい。
肉の香ばしさ。
野菜の歯ごたえ。
温かい汁物の優しい味。
そして、料理について楽しそうに話してくれた香菱と、落ち着いた口調で助言してくれた卯師匠。
観光名所を見て回るだけでは分からない、璃月の暮らしに少し触れられた気がした。
異世界を旅するというと、珍しい景色や見たことのないものを探すことばかり考えてしまう。
けれど、その土地で暮らす人たちが、毎日どんなものを食べ、どんなふうに働き、何を楽しみにしているのかを知ることも、旅の大切な一部なのだろう。
俺は、通りの向こうに見える店々を眺めた。
璃月には、まだ知らないものがたくさんある。
料理も、景色も、人々の暮らしも。
焦ってすべてを見て回る必要はない。
休日を使って少しずつ訪れ、気になった場所に立ち寄り、食べたいものを食べる。
そんな旅を続けていけばいい。
「……次は、何を食べようかな」
気づけば、そんなことを考えていた。
さっき十分に食べたばかりなのに、もう次の料理が気になっている。
食べることが好きな人間にとって、璃月はなかなか危険な場所なのかもしれない。
俺は苦笑しながら、港の通りを歩いていった。
今日のところは、もう一食追加するのはやめておこう。
次に来たときの楽しみを、少し残しておくことにした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
感想や評価をいただけると、執筆のモチベーションにつながります。
よろしければ、気軽に感想や評価を残していただけるとうれしいです。
これからもよろしくお願いします!