原神の世界に通えるようになったので、モンドを拠点に異世界生活を楽しみます 作:ところてんの
日曜日の朝。
璃月港の宿で目を覚ました俺は、窓から差し込む光を眺めながら、ゆっくりと体を起こした。
昨日はモンドで露店を出していた。
タオルと洗濯ばさみを売りながら、菓子の包装ごみを回収する。そんな小さな商売も、少しずつだけど形になってきた。
おかげで、今日は一日ゆっくり過ごせそうだ。
「さて、今日はどうしようかな」
璃月港には、まだ見ていない場所がたくさんある。
昨日までに市場を歩き、万民堂で璃月の料理も味わった。今日はもう少し違う場所へ行ってみたい。
そう考えていると、ふと薬舗のことが頭に浮かんだ。
璃月港にある不卜廬。
白朮と七七がいる薬舗だ。
ゲームで何度も見た場所ではあるけれど、実際に訪れたことはない。
薬舗なら、璃月の人たちが普段どんな薬を使っているのかも分かるかもしれない。病気やけがをした人が訪れる場所だから、街の暮らしを知るという意味でも興味があった。
「よし、今日は不卜廬に行ってみよう」
朝食を済ませ、身支度を整える。
荷物は最低限。財布と、ちょっとしたメモ帳くらいだ。
商売のことを考えるなら、いずれ璃月でも何か売れるものを探したい。ただ、今日は商品の仕入れや販売先を探すのが目的じゃない。
せっかくの休日だ。
知らない場所を見て、知らない人と話して、気になったものがあれば立ち止まる。
そういう時間を楽しみたい。
宿を出て、璃月港の通りを歩き始めた。
朝の市場には、すでに多くの人が集まっていた。店先に品物を並べる商人、買い物かごを持った人、荷物を運ぶ男たち。通りのあちこちから、呼び込みの声や話し声が聞こえてくる。
昨日も歩いた道だけど、時間が違うと景色も少し違って見えた。
露店の準備をしている人たちを眺めながら、俺はゆっくりと進んでいく。
モンドとは街の雰囲気が違う。
モンドは風が吹き抜ける開放的な街という印象だけど、璃月港は人と物が集まって、街そのものが動いているように感じる。
どちらが好きかと聞かれたら、まだ答えられない。
そもそも、比べる必要もないだろう。
それぞれに違う魅力があるのだから。
そんなことを考えながら歩いているうちに、目的の場所が見えてきた。
不卜廬。
店先には薬草などが並び、薬舗らしい落ち着いた雰囲気が漂っている。
人通りの多い市場から少し離れた場所にあるためか、周囲の喧騒も幾分か和らいでいた。
「ここか……」
ゲーム画面で見慣れた場所が、現実の景色として目の前にある。
もう何度も経験しているはずなのに、こういう瞬間には少し不思議な気持ちになる。
俺は店先に並ぶ品物を眺めてから、店内へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声が聞こえた。
カウンターの向こうに立っていたのは、白い衣装を身につけた細身の男性だった。
首元には白い蛇が巻きついている。
白朮。
璃月で薬舗を営む医師で、七七の面倒を見ている人物だ。
そして、実際に目の前で見ると――。
あ、本当にお腹出してる。
いや、ゲームで見たとおりの服装なんだけどさ。
知っている姿がそのまま目の前にあると、妙なところに意識が向いてしまう。
俺はじっと見ないようにして、すぐに白朮の顔へ視線を戻した。
「こんにちは。ちょっと見学というか、薬舗がどんなところなのか気になって来たんですけど、大丈夫ですか?」
「ええ、もちろん。薬をお求めでなくても、店を訪ねてくださるのは構いませんよ。ただ、診察中はお待ちいただくことになりますが」
「分かりました。ありがとうございます」
白朮は柔らかい笑みを浮かべていた。
見た目の印象どおり、物腰が丁寧な人だ。
もっとも、医師としての顔や商売人としての一面もあるのだろう。初対面の相手に、こちらから何でもかんでも尋ねるのは失礼だ。
まずは店内を見せてもらおう。
俺はカウンターから少し離れ、棚に並んだ品物を眺めた。
乾燥させた草や木の根らしきものが、種類ごとに分けて置かれている。小さな容器に入った粉末や、紙に包まれた薬材もあった。
薬草といっても、見た目だけでは何に使うのか分からないものが多い。
「薬草がたくさんありますね」
「璃月にはさまざまな薬用植物がありますからね。それぞれ性質が異なりますし、採取する時期や保存方法によっても状態が変わります」
「保存方法でも変わるんですか?」
「ええ。乾燥させれば長く保管できるものもありますが、すべてがそうとは限りません。湿気に弱いものもあれば、香りや成分が失われやすいものもあります。薬として使うのであれば、品質を保つことが大切ですから」
「なるほど……」
俺は棚を見ながら頷いた。
薬草に詳しいわけではない。
ただ、商品を扱うという意味では、少し分かる気がした。
食べ物でも日用品でも、仕入れた品をどこに置き、どう保管し、どのくらいの期間で使い切るかは重要だ。
薬ならなおさらだろう。
「薬舗を続けるのも、いろいろと気を遣いそうですね」
「そうですね。薬を用意するだけではなく、患者さんの話を聞き、必要なものを判断し、薬材の状態も確認しなければなりません。医師としての仕事と、薬舗を維持するための仕事。その両方が必要です」
「確かに。お客さんが来たら品物を渡して終わり、というわけにはいかないんですね」
「ええ。特に薬は、ただ渡せばよいというものではありませんから」
白朮は穏やかに答えた。
薬を扱う以上、相手の体調や症状を確かめる必要がある。
俺がモンドでやっている商売とは、責任の重さが違う。
こちらは、持ち込んだお菓子や日用品を売るだけだ。使い方を説明することはあっても、相手の健康に直接関わるわけではない。
自分にできることと、できないこと。
その違いは意識しておいたほうがいい。
そんなことを考えていると、白朮がこちらに視線を向けた。
「ところで、あなたは璃月の方ではないようですね」
「あ、はい。山田悠真といいます。モンドを拠点にして、いろいろな場所を見て回っているんです」
「山田悠真さん、ですか。私は白朮と申します。こちらは長生です」
白朮が首元へ軽く手を添えた。
その動きに合わせて、白い蛇がわずかに頭を動かす。
俺は改めて長生を見た。
「長生さん、おとなしくてかわいいですね」
「ふふっ、そうでしょう? 長生は見た目だけでなく、なかなか頼りになる相棒なんですよ」
白朮はどこか嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見て、俺もつられて笑った。
自分の大切な相棒を褒められたら、嬉しくなるのは人間も同じらしい。
「白朮さんにとって、長生さんは大事な相棒なんですね」
「ええ。長い付き合いですから」
白朮は長生の頭をそっと撫でた。
長生も特に嫌がる様子はない。
言葉を交わす二人の姿を見ていると、単に医師と使い魔という関係ではないのだろうと思えた。
俺は少しだけ店内を見渡してから、改めて白朮に尋ねた。
「そういえば、ここには普段どんな人が来るんですか?」
「さまざまですよ。風邪や腹痛など、日常的な不調を相談される方もいれば、仕事中にけがをした方、旅の途中で体調を崩した方もいます。薬を買いに来るだけの方もいらっしゃいますね」
「港町ですもんね。荷物を運ぶ人も多いですし、けがをすることもありそうです」
「ええ。重い荷物を扱う仕事は、どうしても体に負担がかかります。無理をしないことが一番ですが、生活がありますからね」
白朮は少し困ったように笑った。
体を大事にしろと言われても、仕事を休めない人はいる。
現実でもよく聞く話だ。
俺だって会社員だから、体調が悪くても仕事を気にしてしまう気持ちは分かる。もちろん、無理をしすぎるのはよくないけれど。
「白朮さんは、患者さんの話を聞くことも大切にしているんですね」
「症状だけを見ていても、分からないことはありますから。普段どのような生活をしているのか、何を食べているのか、どのような仕事をしているのか。そうした話から見えてくることもあります」
「なるほど。薬草の知識だけじゃなくて、相手の生活も知る必要があるんですね」
「そういうことです」
白朮は説明しながら、棚の一角を示した。
そこには、乾燥させた薬草がいくつかまとめられている。
「例えば、同じような症状でも、原因が違えば必要な対処も変わります。薬材について知ることと、人について知ること。その両方が欠かせません」
なるほどなあ。
薬舗という場所は、薬を買うだけの店ではない。
人の暮らしに近いところで、その人の体を支えている場所なのだろう。
ゲームでは店の前を通り過ぎるだけだったけれど、こうして話を聞くと印象が変わってくる。
「すごく勉強になります。普段、こういう場所に来る機会ってあまりないので」
「それは何よりです。ところで、モンドを拠点にしているとおっしゃいましたね。観光が中心なのですか?」
「観光もそうですけど、ちょっとした商売もしています。故郷から持ってきたお菓子や日用品を、モンドで売ったりしています。あとは、こうしていろんな場所を観光したりですね」
「故郷から珍しい品を持ってきているんですね。使い方を実演してみせるのも、売るための工夫としてはよさそうです」
「そうですね。実際に使っているところを見てもらうと、興味を持ってもらえることもあります」
モンドでは、洗濯ばさみを実際に使ってみせたことで、興味を持ってくれる人が増えた。
タオルも、手触りや大きさを確かめてもらうと買いやすかったようだ。
ただ、白朮に細かな商品説明をする必要はないだろう。今は商談をしているわけではないのだから。
「璃月でも何か売れそうなものがあれば、いつか試してみたいですね。でも、今日はまず街を見て回ろうと思って来たんです」
「それがよいと思いますよ。土地が違えば、暮らしも違います。どのようなものが必要とされているのか、実際に見て回るのは大切でしょう」
「はい。急いで決めても、うまくいくとは限りませんから」
焦って仕入れたところで、売れなければ困る。
それに、俺がこの世界でやりたいのは商売だけではない。
知らない場所を歩き、現地の料理を食べ、人と話す。
その合間に、できそうな商売を少しずつ続けていければいい。
そんな話をしていると、店の奥から小さな足音が聞こえてきた。
とことこと、ゆっくりした足取りで誰かが近づいてくる。
薬草の入ったかごを抱えて現れたのは、小柄な少女だった。
紫色の髪に、頭に乗せたお札。
青白い肌と、どこか眠たげな目。
……おお、七七だ。
ゲームでは何度も見たことがある。
そして、プレイヤーとしては思わず口にしたくなる感想がひとつ。
超絶強化おめでとう。
もちろん、心の中だけだ。
目の前にいるのは、ガチャで引くキャラクターではない。実際に暮らしている女の子なのだから、ゲームの性能を思い出している場合じゃない。
そう自分に言い聞かせていると、七七がこちらを見た。
「……知らない人」
「あ、こんにちは。俺は山田悠真。今日はちょっと見学に来たんだ」
「山田悠真……」
七七は俺の名前を小さく繰り返した。
それから、かごを抱えたまま、じっと俺の顔を見上げている。
何か気になることでもあるのだろうか。
「七七、こちらは山田悠真さんです。今日は薬舗を見にいらしたそうですよ」
白朮が説明すると、七七はこくりと頷いた。
「七七は七七」
「うん。よろしくね、七七」
「……うん」
それだけ答えると、七七は俺のそばへ歩いてきた。
そして。
ぎゅっ。
「……ん?」
足に、柔らかな感触があった。
見下ろすと、七七が俺の脚に抱きついていた。
「七七?」
「ここ、いい」
「えっと……ここ?」
俺が聞き返すと、七七は俺の脚に頬を寄せたまま、小さく頷いた。
「ここにいると、いい感じ」
どうやら、俺のそばにいたいらしい。
理由は分からない。
初対面のはずだし、特に何かをした覚えもない。
ただ、七七は嫌がる様子もなく、むしろ落ち着いた顔をしていた。
「そっか。気に入ってくれたなら、いいけど」
俺は困ったように笑いながら、七七の様子を見守った。
無理に引き離す必要もないだろう。
ただ、薬草のかごを持ったままでは動きにくそうだ。
「七七、そのかごは大丈夫?」
「大丈夫。落とさない」
「そっか。じゃあ、無理しないようにな」
「うん」
七七は返事をしたものの、俺の脚から離れようとはしなかった。
白朮も、その様子を見て少し目を丸くしている。
「七七が、初対面の方に自分から近づくのは珍しいですね」
「そうなんですか?」
「ええ。人に慣れていないわけではありませんが、自分からこうして甘えることはあまりありません」
そう言われると、少し意外だった。
七七は見た目どおり、どこか静かでマイペースな子という印象がある。
そんな子が、会ったばかりの俺に抱きついている。
どうしたんだろう。
俺は七七を見下ろした。
七七は、俺の脚を抱えたまま目を細めている。
なんだか、猫みたいだな。
いや、猫にしてはずいぶん静かだけど。
「七七、俺のこと、そんなに気に入ったの?」
「……うん」
返事は早かった。
思わず笑ってしまう。
「そっか。ありがとう」
理由は分からないけど、嫌われるよりはずっといい。
頭を撫でていいものか迷ったが、七七は特に警戒している様子もない。
「頭、撫でてもいい?」
「……いい」
許可をもらってから、そっと頭に手を置く。
髪を乱さないように、ゆっくり撫でた。
七七は少しだけ顔を上げ、それからまた俺の脚に頬を寄せる。
気持ちよさそうにしているのを見ると、こちらまで頬が緩んでしまう。
そのとき、白朮が七七をじっと見つめていることに気づいた。
「白朮さん?」
「いえ……少し気になることがありまして」
白朮は七七の顔を確かめるように見たあと、そっと目を細めた。
「七七の様子が、いつもより落ち着いているように見えるのです」
「そうなんですか?」
「ええ。七七は普段から感情を大きく表に出す子ではありませんが、今はずいぶん穏やかな顔をしています」
白朮の言葉に、俺はもう一度七七を見た。
確かに、さっきより表情が柔らかい気はする。
けれど、俺にはそれ以上のことは分からなかった。
「俺のことが気に入ったから……とかですかね?」
「ふふっ、そうかもしれませんね」
白朮はそう答えたが、どこか考え込むような表情を浮かべていた。
七七の体内にある仙力の流れが、普段よりも穏やかになっている。
少なくとも、白朮にはそう感じられた。
しかし、その理由が分からない。
七七自身が何かをした様子もなく、悠真が特別な術を使った形跡もない。そもそも、彼はただ立っていただけだ。
白朮はそのことを不思議に思いながらも、すぐに答えを出そうとはしなかった。
七七が苦しんでいるわけではない。
むしろ、普段よりも穏やかに見えるのだ。
今はそれでよいのかもしれない。
「七七、薬草を運んできてくれたのですね。ありがとう」
「うん。薬草、持ってきた」
「助かります。あとで一緒に整理しましょう」
「……うん」
七七は返事をしたものの、まだ俺の脚にくっついたままだ。
「七七、そろそろ薬草を置きに行きましょうか」
「……もう少し」
「もう少し、ですか」
白朮は困ったように笑った。
俺もどうしたものかと考えたが、七七が嫌がっているわけではないのだから、少しくらいなら構わない。
「俺は急いでないから、もう少しここにいてもいいよ」
「……ありがとう」
七七は小さく答えた。
その声が、ほんの少しだけ弾んでいるように聞こえた。
しばらくすると、七七はようやく俺から離れた。
名残惜しそうに一度だけこちらを見てから、薬草のかごを持ち直す。
「七七、薬草を片づける」
「うん。頑張ってね」
「……頑張る」
七七はゆっくりと店の奥へ戻っていった。
その後ろ姿を見送っていると、白朮が小さく息をついた。
「申し訳ありません。少し驚かせてしまいましたね」
「いえいえ。全然大丈夫ですよ。むしろ、懐いてくれたみたいで嬉しかったです」
「そう言っていただけると助かります」
白朮は微笑んだ。
俺は少し考えてから、気になっていたことを尋ねてみた。
「七七は、いつも薬草を運んだりしているんですか?」
「ええ。七七には薬草を集めてもらったり、店の手伝いをしてもらったりしています。ただ、記憶を保つことが難しいので、覚えておかなければならないことは紙に書き残すようにしています」
「記憶が……」
「昨日のことでも、忘れてしまう場合があります。本人も困ることがあるでしょうが、周囲が工夫すればできることも増えますから」
白朮は淡々と話していたが、七七を気にかけていることは伝わってきた。
記憶を保つのが難しい。
それは、本人にとっても周囲の人にとっても大変なことだろう。
けれど、白朮は七七に何もさせないのではなく、できることを任せているようだった。
「七七も、自分でできることがあるんですね」
「もちろんです。時間がかかることはありますが、七七には七七のできることがあります。できることまで取り上げてしまっては、本人のためにもなりませんからね」
「そうですね」
俺は頷いた。
手伝うことと、何もかも代わりにやってしまうことは違う。
相手ができることまで奪ってしまえば、かえって困らせてしまうこともある。
七七と白朮の関係を見ていると、そんなことを考えさせられた。
「白朮さんは、七七のことをよく見ているんですね」
「医師ですからね。それに、七七は私にとって大切な子です。気にかけるのは当然でしょう」
白朮は当たり前のことを言うように答えた。
その言葉に、俺は素直に感心した。
この世界には、ゲームの中で見ていた人物たちがいる。
けれど、実際に話してみると、それぞれがそれぞれの暮らしを持っていることを改めて感じる。
白朮は医師として患者を診て、薬舗を切り盛りし、七七の面倒を見ている。
俺が画面越しに知っていた情報は、その人のほんの一部にすぎない。
しばらく白朮と話していると、店の奥から七七が戻ってきた。
今度はかごを持っていない。
「七七、薬草を片づけてきたの?」
「うん。終わった」
「お疲れさま」
「……うん」
七七は俺の前で立ち止まり、じっと見上げた。
「悠真、もう帰る?」
「いや、まだ少しここにいるよ」
「……よかった」
小さな声だった。
けれど、俺にははっきり聞こえた。
「七七は、ここで仕事をしているんだよね?」
「うん」
「じゃあ、俺は白朮さんと話しているから、七七は自分の仕事をしていていいよ。時間があったら、また話そう」
「……分かった」
七七は頷いた。
さっきのように脚へ抱きついてくることはなかったけれど、俺のそばから離れるときには、何度か振り返っていた。
その様子を見て、白朮が微笑ましそうに目を細める。
「すっかり気に入られたようですね」
「みたいですね。俺にも理由は分かりませんけど」
「人との相性というものもありますから」
「そういうものですかね」
「ええ。必ずしも、理由を説明できるとは限りませんよ」
白朮はそう言って、茶を勧めてくれた。
「よろしければ、少し休んでいきませんか? せっかく来てくださったのですから」
「いいんですか?」
「もちろんです。患者さんがいらっしゃったら、そちらを優先することになりますが」
「それは当然ですよ。じゃあ、お言葉に甘えて」
俺は店内の邪魔にならない場所に座らせてもらった。
白朮が用意してくれた茶は、すっきりとした香りがした。
薬草の香りなのだろうか。普段飲んでいるお茶とは少し違う。
一口飲むと、口の中に穏やかな風味が広がった。
「おいしいですね」
「ありがとうございます。薬舗ですから、体に負担の少ないものを選ぶこともありますが、味も大切ですからね」
「薬だから苦い、というわけでもないんですね」
「薬材によっては苦みの強いものもありますよ。ただ、苦ければよいというものでもありません」
白朮は笑った。
俺もつられて笑う。
薬についての知識はほとんどないけれど、こうして話を聞くのは面白い。
知らないことを教えてもらう時間は、思っていた以上に楽しかった。
「そういえば、白朮さんは璃月の外へ出ることもあるんですか?」
「必要があれば、薬材を探しに出ることもあります。ただ、薬舗を空けるわけにはいきませんから、いつでも自由に出かけられるというわけではありませんね」
「なるほど。お店があると、そういうところは大変ですよね」
「ええ。悠真さんは、決まったお店を持たずに各地を回っているのでしたね」
「はい。今のところは、旅のついでに売るくらいです。売れたら嬉しいですけど、あまり大きくしすぎると、観光する時間がなくなっちゃいますから」
「ふふっ。それでは本末転倒ですね」
「そうなんですよ。俺は旅行を楽しみたいので」
商売を大きくすれば、収入が増える可能性はある。
でも、店を持てば管理することが増えるし、商品の補充や在庫の管理も必要になる。
今の俺には、そこまでの余裕はない。
何より、せっかく異世界を自由に歩けるのだ。
売ることばかり考えて、景色を楽しむ時間を失ってしまうのはもったいない。
「自分に合ったやり方を見つけることが大切なのでしょうね」
「そうですね。まだ始めたばかりですし、しばらくはこのままでいいかなと思ってます」
白朮は納得したように頷いた。
話をしていると、店の入口から客がやってきた。
白朮はすぐに立ち上がり、穏やかな声で迎える。
「いらっしゃいませ。今日はどうされましたか?」
訪れたのは、荷物を運ぶ仕事をしているらしい男性だった。
男性は肩を押さえながら、仕事中に痛めたらしいことを説明している。
白朮は椅子を勧め、いつ、どのように痛めたのかを丁寧に尋ね始めた。
俺は邪魔にならないよう、少し離れた場所へ移動した。
患者の話を聞く白朮の表情は、先ほど俺と話していたときとは少し違っていた。
柔らかい口調は変わらない。
けれど、相手の言葉を聞き逃さないよう、注意深く様子を見ている。
医師としての顔なのだろう。
俺は静かにその様子を見守った。
しばらくして、白朮は必要な薬を用意し、男性に使い方や注意点を説明していた。
男性は礼を言い、薬舗を出ていく。
「お待たせしました」
「いえ。お仕事を見せてもらえて、勉強になりました」
「そう言っていただけるなら何よりです」
白朮は再び椅子に腰を下ろした。
「先ほどの方は、仕事を休めないとおっしゃっていました。ですが、痛みがあるときに無理をすれば、かえって長引くこともあります。できる範囲で休んでいただきたいものです」
「そうですよね。仕事があると、つい無理しちゃうんでしょうけど」
「ええ。だからこそ、こちらからも説明する必要があります」
俺は頷いた。
患者の事情を聞き、必要なことを伝える。
その繰り返しが、白朮の日常なのだろう。
俺がこの世界で過ごす時間は、まだ限られている。
休日に訪れて、景色を見たり、人と話したりするだけだ。
でも、街で暮らしている人たちには、それぞれの仕事があり、毎日の生活がある。
そのことを知るたびに、テイワットがゲームの舞台ではなく、誰かの暮らす場所なのだと実感する。
「白朮さん、今日はありがとうございました。いろいろと話を聞けて楽しかったです」
「こちらこそ。私の話が何かの参考になったのなら嬉しいですよ」
俺は立ち上がり、荷物を手に取った。
店の奥から、七七が顔を出した。
「悠真、帰る?」
「うん。そろそろ街を見て回ろうと思って」
「……また来る?」
七七は少しだけ首を傾けた。
俺はその問いに、笑って答えた。
「もちろん。璃月にはまだ見たいところがあるし、また来るよ」
「……約束?」
「うん、約束」
七七は小さく頷いた。
「七七、待ってる」
「ありがとう。じゃあ、またね」
「……またね」
七七は静かに手を振った。
白朮にも挨拶をして、不卜廬を後にする。
外へ出ると、港から吹いてくる風が頬を撫でた。
薬舗の中で過ごした時間は、思っていたより長かった。
けれど、不思議と退屈には感じなかった。
薬草のことや、白朮の仕事のこと。七七が俺に懐いてくれたこと。
どれも、ゲーム画面を眺めているだけでは分からなかったことばかりだ。
特に七七のことは、少し不思議だった。
初めて会ったのに、あんなにくっついてくるなんて。
「まあ、気に入ってくれたなら嬉しいけど」
理由は分からない。
白朮も何か気づいたようだったけれど、特に問題があるようには見えなかった。
今は深く考えなくてもいいだろう。
俺は歩きながら、次にどこへ行くか考えた。
璃月港の中にも、まだ見たい場所はある。
それに、少し足を延ばせば軽策荘もあるはずだ。
港の賑やかな景色とは違う、田園風景を眺めるのもよさそうだな。
今日の残りの時間は、もう少し街を歩いてみよう。
昼食は、まだ決めていない。
万民堂で食べた香菱の料理もおいしかったけれど、せっかくなら別の店にも入ってみたい。
璃月には食べてみたい料理がいくらでもある。
そう考えると、昼食を決めるだけでも迷ってしまいそうだ。
俺は市場のほうへ向かいながら、道沿いの店を眺めた。
店先には、焼きたての料理を並べる屋台や、果物を売る露店がある。
行き交う人々の声に耳を傾けながら、気になった店があれば立ち止まる。
急ぐ必要はない。
今日は日曜日で、明日からはまた日本で仕事だ。
だからこそ、休日の時間を大切にしたい。
昨日はモンドで商売をして、今日は璃月で薬舗を訪ねた。
明日は会社へ行く。
そんなふうに二つの世界を行き来する生活にも、少しずつ慣れてきた。
ただ、慣れたからといって、何もかもが当たり前になるわけではない。
目の前の景色も、そこで出会う人たちも、俺にとってはまだ新鮮だ。
俺は足を止め、港の向こうに広がる海を眺めた。
日差しを受けた水面が、きらきらと輝いている。
「さて、昼飯は何にしようかな」
さっきまで薬舗で過ごしていた時間を思い返しながら、俺は再び歩き始めた。
璃月での休日は、まだ続いている。
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