原神の世界に通えるようになったので、モンドを拠点に異世界生活を楽しみます 作:ところてんの
以前投稿していたお話を、少しずつ見直して修正していこうと思います。
そのため、しばらくの間は更新ペースがゆっくりになるかもしれません。
楽しみにしてくださっている方には申し訳ありませんが、より読みやすいお話にできるよう、少しずつ手を入れていきます。
これからも温かく見守っていただけるとうれしいです。
引き続き、よろしくお願いします!
先週末は璃月港を訪れ、煙緋に商売について相談した。
法律や取引上の注意点、露店を始める前に確認しておいたほうがいいことなど、教えてもらった内容は多い。
香菱の店にも食事をしに行き、今後は露店をやるつもりだと軽く話した。
まだ璃月で商売を始めたわけではない。これから準備を進め、少しずつ試していくつもりだった。
とはいえ、毎回商売のことばかり考えているのも味気ない。
そもそも、俺が異世界へ通うようになったのは、商売をするためだけではなかった。
見たことのない景色を見て、食べたことのない料理を味わい、この世界で暮らす人たちと交流する。
そうした時間を楽しみたいという気持ちも、確かにあった。
「今週末は、のんびり観光するか」
金曜日の夜。
俺は自宅の机に向かっていたが、手元のメモを閉じた。
璃月港には、まだ見ていない場所がたくさんある。
建物をじっくり眺めるのもいいし、港で船を眺めながら過ごすのもよさそうだ。
昼食には、先週とは違う店へ行ってみたい。
夕方になったら、海辺で景色を眺めるのもいいだろう。
「よし。明日はゆっくり出発しよう」
俺はそう決めると、翌日の準備を済ませた。
◇
土曜日の朝。
俺は朝食を済ませ、財布とスマートフォンを確認した。
小さな鞄に必要なものを入れ、身支度を整える。
今回は商品の仕入れや販売をする予定がないため、荷物は少なかった。
「これくらいでいいな」
部屋の片隅にあるパソコンの前に立ち、俺はシステムを操作した。
行き先は璃月港。
解放済みのワープポイントを選択すると、視界が切り替わった。
次の瞬間、潮風が頬を撫でた。
目の前には、活気あふれる璃月港の街並みが広がっている。
「よし、到着」
港には船が並び、荷物を運ぶ人々が行き交っていた。
店先には商品が並び、料理店からは食欲をそそる香りが漂っている。荷車が石畳を通るたびに車輪の音が響き、商人たちの呼び声が通りのあちこちから聞こえてきた。
「そっちの荷は、先に倉庫へ運んでくれ!」
「分かってる! こっちも昼までには片づけるよ!」
少し離れた場所では、荷物を運ぶ男たちが声を掛け合っていた。
露店の前では、店主が商品を並べ直している。
「新鮮な魚が入ったよ! 今日の分は早い者勝ちだ!」
「おい、昨日頼んだ香辛料は届いているか?」
「朝の船で届いたところだ。数を確認してから渡すから、もう少し待ってくれ!」
商人たちの会話を耳にしながら、俺はゆっくりと歩き出した。
何度か訪れたことで、少しずつ見慣れてきた景色だ。それでも、歩くたびに目に留まるものがある。
日本で暮らしていた頃も、休日に知らない街を歩くことはあった。
けれど、璃月港では、行き交う人々の姿や店先の商品を眺めているだけでも新鮮な気分になる。
商人が客と値段を交渉し、職人が品物を運び、買い物に来た人が店先で足を止める。
それぞれが自分の生活を送っている。その様子を見ていると、ここが人々の暮らす街なのだと改めて感じた。
「今日は、あっちの通りから見てみるか」
俺は人通りの多い道を避け、少し落ち着いた通りへと歩き始めた。
建物の軒先には装飾が施され、木製の看板には店の名前が記されている。
店先に並ぶ品々も、日本ではあまり見かけないものが多かった。
歩く速度を少し落とし、建物を眺める。
屋根の形や柱の装飾、窓の配置。細かな部分にも、土地の文化が表れているようだった。
「こうして見ると、建物も面白いな……」
ふと、少し古びた木の柱が目に入った。
表面には細かな傷があり、長い年月を経てきたことがうかがえる。軒先の装飾も、近くで見ると細部まで丁寧に作られていた。
この建物は、どれくらい前からここにあるのだろう。
どんな職人が造ったのだろう。
ここで暮らしてきた人々は、どんな景色を見てきたのだろう。
そんなことを考えながら、俺は足を止めた。
「そこの方、少しよろしいかな?」
「はい?」
不意に、落ち着いた声が聞こえた。
俺が振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男性だった。
黒と茶を基調とした服装。整った顔立ち。すっと伸びた背筋。
周囲の喧騒の中にあっても、不思議と落ち着いた雰囲気をまとっている。
その姿を見た瞬間、俺の思考が止まった。
――えっ。
――鍾離さん?
見間違えるはずがない。
原神を長くプレイしてきた俺にとって、あまりにも見覚えのある人物だった。
璃月の歴史や文化に詳しく、落ち着いた物腰で、何を語らせても知識が豊富。
そして、戦闘においても頼りになる存在として、多くのプレイヤーに知られている人物だ。
――うわ、本物だ……。
まさか、こうして目の前で本人と向き合う日が来るとは思っていなかった。
頭では理解していても、気持ちが追いつかない。
しかも、俺の脳裏に浮かんだのは感動だけではなかった。
――鍾離先生……強化、待ってます。
プレイヤー時代の記憶が、妙なタイミングでよみがえった。
性能について語られていた頃のこと。調整や強化を期待する声。自分も画面の向こうから眺めていた、さまざまな話題。
まさか、その本人とこうして向かい合う日が来るとは思っていなかった。
もちろん、口に出すわけにはいかない。
目の前にいるのは、ゲームのキャラクターとして画面に映る存在ではない。
この世界で暮らしている、一人の人間なのだから。
「……どうかされたかな?」
「あっ、いえ! 何でもありません!」
俺は慌てて首を振った。
少し反応が不自然だったかもしれない。
鍾離はわずかに首を傾げたものの、特に追及することはなかった。
「失礼。少々気になったものでな。璃月の者ではないようだが、この港には何用で?」
「観光です。いろいろな街を見て回っていて、今日は璃月港を歩いてみようと思いまして」
「なるほど。旅の途中というわけか」
鍾離は納得したように頷いた。
「私は鍾離と申す。差し支えなければ、君の名も聞かせてもらえるかな?」
「山田悠真です。悠真で大丈夫ですよ」
「悠真か。では、少し話を聞かせてもらってもよいかな?」
「ええ、もちろん」
まさか、向こうから話しかけられるとは思わなかった。
俺は内心の動揺を隠しながら、鍾離と向き合った。
◇
「先ほどから、建物を熱心に眺めていたようだが」
「はい。細かい装飾とか、建物の造りが気になって」
「璃月の建築には、長い年月をかけて受け継がれてきた技術が数多く残されている。時代によって流行も変わるが、古い建築にも学ぶべき点は多い」
鍾離は近くの建物を見上げた。
「例えば、あの柱の形だ。装飾としての美しさだけでなく、建物全体の構造とも関係している。職人たちは見た目だけでなく、実用性についてもよく考えているのだ」
「へえ……」
俺も改めて柱を見た。
言われてみれば、確かに細かな違いがある。
ただ景色として眺めていたものも、造りの意味を知ると見方が変わる。次に璃月港を歩くときは、今まで気に留めなかった部分にも目が向きそうだ。
「鍾離さんは、建物に詳しいんですね」
「長く璃月に身を置いているからな。自然と目にする機会も多くなる」
長く、という言い方が少し気になった。
ただ、俺も自分の事情を簡単に説明できる立場ではない。相手の素性を根掘り葉掘り尋ねるのも失礼だろう。
「そういうものなんですね」
「街というものは、人々の暮らしとともに変わっていく。新しい建物が増える一方で、古い建物が姿を消すこともある。しかし、そこに暮らした人々の営みまで、すべて消えてしまうわけではない」
鍾離の声は穏やかだった。
「何気ない道や、見慣れた店先にも、長い歴史の一部が残されている。そう考えると、街を歩くのもまた違った楽しみがあるだろう」
「確かに。何も考えずに歩くのと、そういうことを知って歩くのとでは、見え方が違いそうです」
「そのとおりだ」
鍾離はゆっくりと頷いた。
話を聞いているだけで勉強になる。
知識を一方的に並べるのではなく、目の前の建物を例にしながら説明してくれるので、話が分かりやすかった。
「ところで、悠真は璃月の歴史にも興味があるのかな?」
「興味はあります。ただ、詳しいわけじゃないですけど」
「それなら、歩きながら話すとしよう。書物を読むのもよいが、実際に街を見て回ることで理解できることもある」
「いいんですか?」
「構わない。私も、こうして街を歩くのは嫌いではないのでな」
そうして、俺は鍾離とともに璃月港を歩くことになった。
◇
鍾離の話は、想像していた以上に面白かった。
街の建築だけではない。
港が発展してきた経緯や、商人たちが取引を行う際の習慣、職人が技術を受け継いでいく方法など、話題はさまざまな方向へ広がっていった。
俺が知らないことを尋ねると、鍾離は丁寧に説明してくれる。
ちょうど通りの向こうで、商人たちが荷物を積み替えていた。
「この箱は倉庫へ運んでくれ。中身を間違えないよう、荷札を確かめておいてくれよ」
「こっちは別の店からの注文だ。先にそちらへ届けるんじゃなかったか?」
「いや、あちらは午後でもいいと言っていた。先に急ぎの品を運ぼう」
荷物を運ぶ男たちは、互いに確認しながら仕事を進めている。
その隣の店では、二人の商人が商品の値段について話し合っていた。
「このところ、香辛料の仕入れ値が少し上がっていてね」
「そうなのか。なら、次の取引では数を増やすから、少し値を抑えてもらえないだろうか」
「数をまとめてくれるなら、こちらも考えてみよう」
商人たちは互いに条件を確かめながら、話をまとめようとしていた。
俺がそちらへ目を向けると、鍾離もその様子を眺めた。
「商売のやり方も、土地によって違いがある。だが、取引を成立させるには、双方が納得できる条件を見つけることが大切だ」
「なるほど……。値段だけじゃなくて、届ける時期や数量も関係するんですね」
「そうだ。品物を売り買いするだけが商いではない。相手が何を求めているのかを理解し、約束を守ることも重要になる」
俺は頷いた。
「この前、商売について少し教えてもらったんです。璃月で商品を売るなら、事前に確認しておいたほうがいいことがあるって」
「それはよい助言を受けたな。商いにおいて、規則を知ることは重要だ。知らなかったというだけでは、済まされぬ場合もある」
煙緋から教わったことを思い出し、俺は頷いた。
「まずは小さく始めようと思っています。いきなり大きくやるつもりはないので」
「堅実な考え方だ。商売は利益を得ることだけが目的ではない。相手に何を求められているのかを知り、信頼を積み重ねることも大切だからな」
その言葉は、俺にとっても納得できるものだった。
日本で働いていたときも、相手の話を聞くことの大切さは何度も感じてきた。
ただ、異世界での商売となると、まだ分からないことが多い。
これから経験を積んでいく必要があるだろう。
「……やっぱり、実際にやってみないと分からないことも多そうですね」
「そのとおりだ。知識を得ることと、実際に経験すること。その両方があってこそ、理解は深まる」
鍾離の言葉に、俺は小さく笑った。
「今日は勉強になることばかりです」
「それは何よりだ」
鍾離も穏やかに微笑んだ。
歩き始めた頃にあった緊張は、いつの間にか薄れていた。
鍾離は知識が豊富なだけでなく、こちらの質問にも自然に答えてくれる。詳しい話を聞かせてくれるのに、押しつけがましさはない。
まだ出会ったばかりなのに、気づけば俺も気軽に質問していた。
◇
しばらく歩いたところで、鍾離が足を止めた。
「そろそろ昼時だな。悠真、食事は済ませたかな?」
「いえ、まだです」
「それなら、よい店を紹介しよう。璃月の料理を味わうのであれば、こうした時間も大切だからな」
「ありがとうございます。ぜひお願いします」
鍾離に案内され、俺は飲食店へ向かった。
店内には、昼食を楽しむ客の姿があった。料理の香りが漂い、店員たちが忙しそうに動き回っている。
近くの席では、仕事の合間らしい男たちが料理を囲んでいた。
「今日は港のほうが忙しいな」
「船が何隻も入ってきたからな。荷下ろしが終わるまでは、しばらく落ち着かないだろう」
「なら、腹ごしらえをしておかないとな。午後も働かなきゃならない」
そんな会話を耳にしながら、俺たちは席に着いた。
鍾離は慣れた様子で注文を済ませた。
運ばれてきた料理は、見た目にも華やかだった。
「おお……おいしそうですね」
「璃月の料理は、食材の持ち味を生かしたものも多い。味付けだけでなく、香りや食感の組み合わせにも工夫がある」
鍾離は料理について説明しながら、箸を取った。
俺も料理を口に運ぶ。
「うん、おいしい!」
思わず素直な感想が出た。
味付けはしっかりしているが、食材の風味も感じられる。料理によって食感や香りが違い、食べ進めるのが楽しかった。
「気に入ったようで何よりだ」
「はい。こういう料理を食べると、璃月に来たって感じがしますね」
「旅先で、その土地の料理を味わう。それもまた、旅の醍醐味の一つだろう」
「本当にそう思います」
俺は料理を味わいながら、鍾離の話に耳を傾けた。
食材の扱い方や、料理にまつわる習慣。祝い事の席で食べられるものや、地域によって異なる味付けの傾向。
話題は尽きなかった。
ゲームで料理の説明を読んだことはあっても、実際に味わいながら、その土地の食文化について話を聞く体験は新鮮だった。
味だけでなく、食材の扱い方や食事にまつわる習慣まで知ることができる。こういう発見があるから、現地を歩くのは面白い。
「鍾離さんは、本当にいろいろなことをご存じなんですね」
「長く見聞きしてきたことが多いだけだ。知らぬことも、まだまだある」
「それでも、ここまで詳しいのはすごいと思います」
「そう言ってもらえるなら、話した甲斐があったな」
鍾離は満足そうに頷いた。
観光のつもりで歩き始めたのに、建物や料理について、たくさんの話を聞くことができた。
今日は来てよかった。
そう思ったところで、昼食の終わりに予想外の出来事が待っていた。
◇
食事を終え、二人は席を立った。
鍾離は店員に声をかけ、会計を済ませようと懐に手を伸ばした。
しかし、そこで動きが止まる。
「……おや」
鍾離はもう一度、懐を確かめた。
それから、わずかに考え込むような顔をする。
「鍾離さん?」
「……どうやら、持ち合わせがないようだ」
「えっ、ないんですか?」
俺は思わず聞き返した。
あれだけ歴史や文化に詳しく、何事にも動じない鍾離が、食事の会計で困っている。
――いや、鍾離先生……そういうところは変わらないんだな。
ゲームをプレイしていた頃の記憶が、頭の片隅によみがえった。
「面目ない。食事の話に気を取られ、手持ちを確認するのを失念していた」
そう言って頭を下げる鍾離の態度は、あくまで穏やかだった。
俺は苦笑しながら財布を取り出した。
「今回は俺が払いますよ。案内してもらいましたし」
「よいのかな?」
「はい。これくらいなら大丈夫です」
俺が会計を済ませると、鍾離は改めて俺に向き直った。
「助かった。では、今回の食事代は私への貸しとしておいてもらえないだろうか」
「貸し、ですか?」
「ああ。借りたものを返さずに済ませるつもりはない。次に会う機会があれば、そのときに返そう」
鍾離は真面目な顔でそう告げた。
俺は、思わず笑顔になった。
鍾離と出会ったのは、ほんの数時間前だ。それなのに、一緒に街を歩き、食事をし、いろいろな話を聞かせてもらった。
そして今度は、次に会う約束までできた。
「分かりました。それじゃあ、貸しということで」
「では、次に会ったときには必ず返そう」
「はい。楽しみにしてますね」
俺は素直に頷いた。
――また会えるんだ。
そう思うと、自然とうれしくなった。
鍾離はそんな俺の様子を見て、穏やかに目を細めた。
「そう言ってもらえると、こちらとしてもありがたい」
会計をきっかけにした、ほんの小さな約束。
けれど、今日初めて出会った二人にとっては、それだけで次につながる大切なものになった。
◇
昼食の後も、二人は璃月港を歩いた。
港の近くでは、職人たちが商品を並べていた。細工の施された装飾品や、日常生活で使う道具。どれも手作りらしい温かみがある。
店先では、客が品物を手に取って、職人に質問していた。
「これは、どれくらいの期間で作れるんだ?」
「品物によるな。細工の多いものは、仕上げるまでに何日もかかる」
「なるほど。手間がかかっているんだな」
職人は少し誇らしげに、自分の作った品を説明していた。
「こういう商品も、長く受け継がれてきた技術で作られているんですか?」
俺が尋ねると、鍾離は頷いた。
「そうだな。職人によって得意とする分野は異なるが、技術を磨き、次の世代へ伝えていくことは重要だ」
「なるほど……」
俺は商品を眺めながら考えた。
自分が日本から持ち込んでいる商品は、便利さや珍しさが強みになっている。
しかし、璃月には璃月の優れた品がある。
現地の職人が作る商品には、その土地で長く培われてきた技術や工夫が詰まっているのだ。
何でも日本の商品で置き換えればいいわけではない。
むしろ、現地の品を知ることも、これから商売を続けるうえで必要なのかもしれない。
「悠真は、商品を見る目が商人のそれに近いな」
「えっ、そうですか?」
「ただ眺めるだけでなく、使い道や価値を考えているように見えたのでな」
「……商売を考えることが多いので、癖になっているのかもしれません」
俺は少し照れくさくなった。
自分では、まだ商売を始めたばかりの素人だと思っている。
それでも、少しずつ考え方が変わってきているのかもしれない。
「とはいえ、今日は観光が目的です。あまり仕事みたいにならないようにしたいですね」
「それも大切なことだ。休むべきときに休むことも、長く続けるためには必要だからな」
「ですよね」
二人は顔を見合わせて笑った。
鍾離と話していると、自然と考えが整理されていく。
難しいことを押しつけるのではなく、俺自身が気づけるように話してくれるのがありがたかった。
もっとも、会計の件だけは、しばらく忘れられそうにない。
――次は、食事の前に財布を確認してもらおう。
俺は心の中で、そっと決意した。
◇
日が傾き始めると、港の景色も少しずつ変わっていった。
昼間の活気はそのままに、空の色が柔らかくなり、建物の影が長く伸びていく。
船の上では帰り支度をする者たちの姿が見え、店先では商品を片づけ始める人もいた。
「そろそろ夕刻だな」
鍾離が空を見上げた。
「もうそんな時間ですか。話していると、あっという間ですね」
「時が過ぎるのは早いものだ。特に、興味深い話をしているときはな」
鍾離は港のほうへ視線を向けた。
「よければ、少し景色を眺めていかないか。夕暮れの璃月港も、なかなか見応えがある」
「ぜひ」
二人は人通りの多い通りを離れ、港を見渡せる場所へと向かった。
海の向こうでは、夕日がゆっくりと傾いていた。
水面に光が伸び、船の輪郭が柔らかな色に染まっている。港の建物にも夕日が当たり、昼間とは違った表情を見せていた。
「きれいですね……」
俺は、思わず呟いた。
潮風が吹き、遠くから船乗りたちの声が聞こえてくる。
空の色が少しずつ変わっていく様子を、時間を気にせず眺められる。
それだけで、ここまで来た価値があったと思えた。
「璃月港は、長い年月の中で幾度も姿を変えてきた」
鍾離が静かに話し始めた。
「建物も、人々の暮らしも、時代とともに移り変わっていく。かつて賑わっていた場所が静かになり、反対に、以前は目立たなかった場所が多くの人で賑わうこともある」
俺は、港の景色を眺めながら話を聞いた。
「だが、変わることそのものを恐れる必要はない。変化によって失われるものがあれば、新たに生まれるものもある。大切なのは、その移り変わりの中で何を受け継いでいくか、ということだろう」
「……なんだか、深い話ですね」
「そう難しく考える必要はない。悠真も、旅をしていれば似たようなことを感じる機会があるはずだ」
「そうですね。知らない街を歩いていると、同じように見えるものでも、場所によって全然違いますし」
「その違いを楽しめるのも、旅のよいところだ」
夕日が水面を照らし、船の影がゆっくりと伸びていく。
日本で働いていると、平日は仕事に追われ、休日も買い物や家事を済ませているうちに時間が過ぎてしまう。もちろん、それが悪いわけではない。
けれど今は、帰る時間を少し気にしながらも、目の前の景色を眺め、鍾離の話に耳を傾けていられる。そんな時間が、思っていた以上に心地よかった。
「俺、こういう時間が好きなのかもしれません」
「ほう?」
「目的地に急ぐんじゃなくて、途中で気になったものを見たり、知らないことを教えてもらったり。そういうのも、旅の楽しみなんだなって」
鍾離はしばらく俺を見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「よいことだ。旅とは、目的地にたどり着くことだけを指すのではない。その道中で何を見て、何を感じたか。それもまた、旅の一部なのだからな」
「……はい」
俺は小さく笑った。
今日は、思いがけない出会いがあった。
璃月の建築や歴史について教わり、おいしい料理を味わい、鍾離の意外な一面も知った。次に会ったときには食事代を返してもらう、という約束までできている。
大きな事件が起きたわけではない。それでも、璃月港を歩き、そこに暮らす鍾離と話せたことは、俺にとって忘れがたい体験になりそうだった。
◇
空が暗くなり始める頃、二人は港の近くで足を止めた。
「今日はありがとうございました、鍾離さん。いろいろな話が聞けて楽しかったです」
「こちらこそ。私も、久方ぶりにゆっくりと街を歩くことができた。よい時間だった」
「また璃月港に来たとき、会えたらいいですね」
「うむ。そのときは、今日の借りも返すとしよう」
鍾離は落ち着いた表情で頷いた。
「楽しみにしてます」
俺は笑顔で答えた。
初めて会った相手なのに、また話したいと思えた。
知識が豊富で、歴史や文化を大切にしている。それでいて、食事代を忘れてしまうようなところもある。
――こういうところも、鍾離さんらしいな。
思わず苦笑したものの、実際に一日をともに過ごしたことで、その人柄に少し触れられた気がした。
「それでは、また会おう、悠真」
「はい。また!」
二人はそこで別れた。
俺は少し歩いてから、最後にもう一度、璃月港の景色を振り返った。
港には明かりが灯り始め、海面には街の光が揺れている。
昼間とは違う、静かな美しさがあった。
「……いい一日だったな」
俺は満足げに呟いた。
商売の準備を進めることも大切だ。
けれど、こうした時間があるからこそ、また次の週末が楽しみになる。
次に璃月港を訪れるときには、今日とは違う景色が見られるかもしれない。
そして、鍾離とも再び会えるだろうか。
――あ、そうだ。食事代。
ふと、現実的なことを思い出した。
――次に会ったとき、ちゃんと返してもらおう。
俺は小さく笑い、帰還の準備を始めた。
週末の穏やかな一日は、こうして静かに終わっていった。
◇
日本の自宅に戻った俺は、荷物を片づけてからソファに腰を下ろした。
「いやあ、今日は楽しかったな」
璃月港の景色も、鍾離との会話も、思い返すだけで自然と笑みが浮かぶ。
まさか食事代を貸すことになるとは思わなかったけれど、それも含めて印象に残る出会いだった。
「……次に会ったら、ちゃんと返してもらおう」
俺は小さく笑い、スマートフォンを手に取った。
今日は土曜日。明日は日曜日だ。
せっかくの休日なのだから、明日も異世界へ出かけることはできる。
モンドへ戻って、顔なじみの人たちに会うのもいい。
璃月に残って、今日見られなかった場所を巡るのも楽しそうだ。
いや、たまには自宅でのんびり過ごすのも悪くない。
「うーん……どうしようかな」
モンドか、璃月か、それとも自宅か。
三つの選択肢を思い浮かべながら、俺はソファに深くもたれた。
「……まあ、明日の朝に決めればいいか」
結局、答えは出なかった。
俺はスマートフォンを置き、ゆっくりと背伸びをした。
明日も休日は続く。
どこへ行くにしても、まだ楽しみは残っていた。