原神の世界に通えるようになったので、モンドを拠点に異世界生活を楽しみます 作:ところてんの
翌週末。
土曜日の朝、俺は身支度を済ませ、財布とスマートフォン、ノートを確認した。
今日は稲妻で食事を楽しみながら、まだ入ったことのない店を回ってみるつもりだ。商売の手続きは勘定奉行に確認してあるので、詳しい話は必要になったときに改めて聞けばいい。
「今日は食べ歩き中心でいこう」
俺は自宅のパソコンの前に座り、システム表示から稲妻の解放済みワープポイントを選択した。
画面が切り替わる。
◇
稲妻城の街は、今日も賑わっていた。
通りには買い物客や仕事へ向かう人々の姿があり、店先からは店主の呼び声が聞こえてくる。
店先では、品物を手に取った客が店主に値段を尋ねていた。荷物を抱えた商人が人波を縫うように歩き、顔見知りを見つけた人たちは足を止めて楽しそうに話している。
少し先の屋台からは、焼いた料理の香ばしい匂いが漂ってきた。通りを歩いていた人がその匂いにつられて足を止め、店先を覗き込んでいる。
誰もがそれぞれの用事を抱えながら、街の一日を過ごしている。そんな光景を眺めているだけでも、稲妻の活気が伝わってきた。
何度か訪れた街ではあるが、歩くたびに新しい発見がある。
ゲームで見慣れた景色なのに、実際にその場に立ってみると、建物の大きさも、人々の声も、店先に並ぶ品々も違って感じられた。
画面の中では通り過ぎていた人たちにも、それぞれの生活がある。
朝から働いている人もいれば、買い物を楽しんでいる人もいる。店先で知り合いと話し込んでいる人もいた。
そんな様子を眺めながら歩いていると、見覚えのある看板が目に入った。
志村屋だ。
「そういえば、ここではまだ食事をしたことがなかったな」
俺は足を止めた。
原作知識で志村屋の名前も場所も知っていた。だからこそ、一度は実際にここで食事をしてみたいと思っていた。
今日は、ここで食事をしてみよう。
店の前には料理を楽しみにしている客の姿があった。入口からは食欲をそそる匂いが流れてくる。
俺はそのまま店へ入った。
◇
志村屋の店内は、ほどよく賑わっていた。
席に着いて食事をしている客。料理を待ちながら話をしている客。一人で静かに食事を楽しんでいる客。
それぞれが思い思いの時間を過ごしている。
「いらっしゃい! ゆっくりしていきな!」
店主が威勢よく声をかけてきた。
俺は案内された席に座り、メニューを手に取った。
料理の名前を眺めていると、どれも気になる。
せっかくなら、まだ食べたことのないものを選びたい。
しかし、実際に選ぼうとすると迷ってしまう。
普段から食べ慣れている日本の料理なら、名前を見ただけで味を想像できるものも多い。けれど、稲妻の料理は名前だけでは分からないものもある。
「うーん……どうするかな」
しばらくメニューと睨めっこをしていた、そのときだった。
「もしかして、何を頼むか迷ってる?」
横から声をかけられ、俺は顔を上げた。
そこには、一人の青年が立っていた。
赤みがかった金髪に、緑色の瞳。後ろに長く伸びた髪の一房は赤い紐でまとめられている。
黒を基調とした服には赤や金の装飾が施され、全体的に軽やかな印象を受けた。
そして、その顔には見覚えがあった。
(……トーマ?)
神里家で働いている青年。
ゲームで何度も見ていた人物が、今は目の前にいる。
こうして実際に会うことにも、少しずつ慣れてきたつもりだった。それでも、突然知っているキャラクターに声をかけられると、やはり驚いてしまう。
「ええ、少し迷っていて。初めて見る料理も多いので」
「そうなんだ。初めてなら、選ぶのも大変だよね」
青年はメニューに目を向けた。
「ここは気軽に食事をするのにいい店だよ。オレも利用することがあるんだ」
「そうなんですね」
「もしよかったら、食べやすいものをいくつか教えようか?」
ありがたい申し出だった。
知らない料理を試すのも楽しいが、地元の人がおすすめするものを食べてみるのも悪くない。
「それなら、お願いしてもいいですか?」
「もちろん!」
青年は気さくに笑い、メニューのいくつかを指さした。
料理の特徴を簡単に説明してくれる。味付けや食感、どんなときに食べることが多いのか。話し方は自然で、こちらが気負わずに聞ける雰囲気だった。
「なるほど。じゃあ、今日はうどんにしてみます」
「いいと思うよ。オレもそれは好きだな」
俺は注文を決め、店主に声をかけた。
注文を済ませてから、改めて青年へ向き直る。
「ありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして。せっかく稲妻に来たなら、いろいろ食べてみたいよね」
「はい。街を見て回るのも好きですけど、食事も楽しみの一つなんです」
「いいね。稲妻には、まだまだおいしいものがあるからね」
青年は楽しそうに頷いた。
まさか、志村屋でトーマと出会うとは思わなかった。
ただ、考えてみれば不思議なことでもない。神里家で働いているからといって、ずっと屋敷の中にいるわけではないのだろう。
「君は、この辺りに住んでいるの?」
「いえ、住んでいるわけではないです。時々稲妻へ来て、街を見て回っているんです」
「そうなんだ。じゃあ、観光に来ているんだね」
「そうですね。まだ知らない場所も多いので、少しずつ歩いています」
「それなら、今日ここで会えたのはよかったかもしれないね」
トーマは明るく笑った。
「オレもちょうど食事をしようと思っていたところなんだ。よかったら、一緒に食べない?」
「いいんですか?」
「もちろん。せっかくだし、食事をしながら話そうよ」
俺にとっては願ってもない話だった。
せっかく思いがけない出会いがあったのだから、少し話をしてみたい。
「それじゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」
「うん! じゃあ、オレも注文してくるね」
トーマは店主のところへ向かった。
俺はメニューを片づけながら、思わず笑みを浮かべた。
今日は一人で食事を楽しむつもりだったのだが、どうやら思いがけず楽しい時間になりそうだ。
◇
注文を済ませたトーマが、俺の向かいの席に座った。
「それじゃあ、ゆっくり食べようか」
「はい。ご一緒できてうれしいです」
「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。今日は普通に食事をしに来ただけなんだから」
「それなら、そうさせてもらいます」
「うん、そのほうが話しやすいよ」
トーマは笑顔で答えた。
初対面の相手にも自然に接してくれる。こちらが緊張しないように気を配ってくれているのかもしれない。
「それで、稲妻には何度か来ているんだよね?」
「はい。まだ数えるほどですけど」
「街の雰囲気には慣れてきた?」
「少しずつですね。前に来たときは、商店街を中心に歩いていました。まだ知らない場所も多いので、いろいろ見て回っているところです」
「そうなんだ! 稲妻には見どころがたくさんあるからね。ゆっくり歩いてみると、いろいろな発見があると思うよ」
「今日は、食事をしながら稲妻のことをもう少し知れたらと思っていたんです」
「それなら、オレでよければ話すよ。もちろん、知らないこともあるけどね」
「ありがとうございます」
ちょうどそのとき、料理が運ばれてきた。
店主が料理をテーブルへ置くと、香ばしい匂いが広がった。
「お待たせ! 熱いうちに食べてくれよ!」
「ありがとうございます」
俺の前には湯気の立つうどんが置かれ、トーマの前には魚介を使った寿司が並んでいた。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます!」
まずはうどんを一口。
温かい汁と麺の味が口の中に広がり、自然と頷いてしまう。
「おいしいですね。稲妻にも、こういう麺料理があるんですね」
「うん。麺料理もよく食べられているよ。米を使った料理も多いし、魚介を使った料理も身近なんだ」
トーマは寿司を一つ口に運んだ。
「やっぱり、海に囲まれているから魚を使う料理が多いんですか?」
「そうだね。もちろん、それだけじゃないけど、魚やエビなんかを使った料理はよく見かけるよ。店によって味付けや作り方も違うしね」
「日本の食文化と似ているところもありますね。でも、実際に食べてみると違いもあって面白いです」
「あははっ。そういう発見があるのも、旅の楽しみだよね」
トーマも楽しそうに頷いた。
特別な日に食べる豪華な料理とは違うが、普段の食事としては十分に満足できる。落ち着いて食べられるし、店の雰囲気も悪くない。
何より、知らない料理を実際に味わうことができた。
ゲームで名前を知っていたとしても、味や香りまで分かるわけではない。こうして食べてみると、稲妻の食文化への興味がさらに湧いてくる。
「普段から料理をするの?」
食事の途中、トーマが尋ねてきた。
「簡単なものなら作りますよ。一人暮らしなので、まったく料理をしないわけにもいかなくて」
「なるほど。一人だと、自分で用意しないといけないもんね」
「そうなんです。仕事から帰ってきて疲れていると、簡単に済ませることもありますけど」
「あはは、分かるよ。忙しいときは、手間をかけずに食べられるものが助かるよね」
トーマは共感するように頷いた。
「でも、料理って面白いところもあるんだ。材料が同じでも、作り方や味付けで変わるからね」
「料理もするんですか?」
「うん。神里家では、食事の準備に関わることもあるよ。料理そのものだけじゃなくて、食材の管理や必要なものを揃えることも大切なんだ」
「やっぱり、いろいろ考えることがあるんですね」
「そうだね。食べる人の好みもあるし、その日の予定もある。たくさん用意すればいいというものでもないからね」
俺は頷いた。
一人暮らしでも、食材を買いすぎれば余らせてしまうことがある。逆に、必要なものを買い忘れれば、食事を作るときに困る。
人数が増えれば、その分だけ考えることも増えるのだろう。
「そういうことを全部把握しているんですか?」
「全部とまでは言わないよ。分からないことがあれば確認するし、必要なら周りの人にも相談する。オレ一人で何でもできるわけじゃないからね」
トーマは気負いのない笑顔を浮かべた。
「大切なのは、何が必要なのかを考えて、きちんと準備しておくことかな。あとは、予定どおりにいかないときに対応できるようにしておくことだね」
「なるほど……」
しっかりしている人だと思った。
何でも一人で完璧にこなそうとするのではなく、周囲と協力しながら必要なことを進めていく。神里家で働くうえで、そうした考え方が身についているのだろう。
俺も、何かを始めるなら準備が必要だ。
ただ、今はまだ情報を集めている段階。具体的にどうするかを決めるのは、もう少し先でいい。
「稲妻で何か始めようと思っているの?」
トーマが尋ねた。
俺は少し考えてから答えた。
「いずれ、こちらでできることを増やしたいとは思っています。ただ、今はまだ街を見て回っているところですね」
「そっか。まずは、いろいろ知るところからなんだね」
「はい。実際に暮らしている人の話を聞いてみると、自分だけでは分からないことも多いので」
「それは大事だと思うよ。外から見ているだけじゃ分からないこともあるからね」
トーマは料理を食べながら続けた。
「でも、何かを始めることばかり考えなくてもいいと思う。せっかく稲妻に来ているんだから、楽しむ時間も大切にしないとね」
「そうですね。俺も、そう思っています」
思わず笑みがこぼれた。
商売のことを考え始めると、つい店先の商品や客の動きばかり見てしまう。
けれど、異世界へ来た目的はそれだけではない。
気になった店へ立ち寄り、知らないものを見つけ、現地の人と話す。そうした時間そのものを楽しむことも大切だ。
今日は、あまり難しく考えずに食事を楽しもう。
◇
食事を終えるころには、店内の客も少しずつ入れ替わっていた。
俺は店主を呼び、代金を支払った。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「ありがとう! また食べに来てくれよ!」
店主の声に見送られ、俺たちは志村屋を出た。
外へ出ると、日差しが少し強くなっていた。通りには買い物をする人や、別の店へ向かう人の姿がある。
「ごちそうさまでした。おすすめを教えてもらえて助かりました」
俺が礼を言うと、トーマは笑った。
「どういたしまして。気に入ったならよかったよ」
「まだ食べていない料理も多いので、また来てみたいです」
「それがいいと思う。稲妻にはいろいろな料理があるから、少しずつ試してみると楽しいよ」
「はい」
そこで別れるのかと思ったが、トーマは通りの先を見てから、こちらへ向き直った。
「このあとも街を歩く予定?」
「そうですね。せっかくなので、もう少し見て回ろうと思っています」
「それなら、オレも少し付き合おうか。今すぐ屋敷に戻らないといけないわけじゃないし」
「いいんですか?」
「うん。食事をしただけで別れるのも、なんだかもったいないからね」
トーマは気さくに笑った。
「それに、君はまだ稲妻を見て回っている途中なんだよね。オレでよければ、知っている場所を案内するよ」
ありがたい申し出だった。
先週は宵宮に案内してもらったが、トーマと歩けばまた違った話が聞けるだろう。
「それじゃあ、お願いしてもいいですか?」
「もちろん!」
トーマは明るく頷き、歩き出した。
俺もその隣に並ぶ。
◇
志村屋を離れ、二人で街を歩き始めた。
大通りにはさまざまな店が並び、店先には日用品や食材、工芸品などが置かれている。
客を呼び込む店主の声や、買い物をする人たちの話し声があちこちから聞こえてきた。店先で商品を選ぶ人もいれば、買った品を連れに見せながら歩く人もいる。屋台の前には短い列ができていて、料理を受け取った客が近くで立ったまま食べていた。
前回も見た場所ではあるが、トーマと話しながら歩くと、自然と目に留まるものが変わってくる。
「この辺りは、買い物をする人が多いですね」
「そうだね。食材を買いに来る人もいれば、用事のついでに店を覗く人もいるよ。いつも同じ人が来るとは限らないけど、よく見かける顔もあるね」
「何度も通っていると、自然と顔を覚えるんでしょうね」
「うん。店の人と話すようになったり、買い物のついでに近況を聞いたりすることもあるよ」
トーマは歩きながら、知っている店をいくつか教えてくれた。
どんなものを扱っているのか。どんなときに利用すると便利なのか。話はどれも具体的で、実際に街で暮らしている人ならではの視点があった。
「こうして聞いてみると、店ごとにいろいろな特徴があるんですね」
「そうだね。見た目が似ている店でも、品ぞろえが違ったり、店の人の得意分野が違ったりするからね」
「実際に利用してみないと分からないことも多そうです」
「そのとおり。気になるなら、店の人に聞いてみるのもいいと思うよ。もちろん、忙しそうなときは邪魔にならないようにね」
「分かりました」
俺は頷いた。
前回も店主たちから話を聞いたことで、初めて分かったことがいくつもあった。
ただ眺めているだけでは分からないことも、会話を通じて少しずつ見えてくる。
とはいえ、今日は商売の下見ばかりに時間を使うつもりはなかった。
気になった店を見て、知らない場所を歩き、稲妻の街を楽しむ。
それくらいの気持ちで十分だ。
「普段から街を歩くことが多いんですか?」
「仕事の用事で出かけることもあるし、買い物をすることもあるよ。ずっと屋敷の中にいるわけじゃないからね」
「神里家のお仕事は忙しそうですけど、休める時間もあるんですね」
「もちろん。仕事は大切だけど、ずっと仕事ばかりしていたら疲れてしまうからね。休めるときには休むようにしているよ」
トーマはさらりと答えた。
「それに、街を歩いていると、仕事にも役立つことがあるんだ」
「仕事にも、ですか?」
「うん。店の人と話したり、買い物をしている人の様子を見たりすると、普段は気づかないことが分かるからね。屋敷の中だけにいると、見えにくいこともあるんだ」
なるほど。
神里家で働いているトーマにとって、街の様子を知ることは仕事にもつながっているのだろう。
けれど、彼は何でも仕事に結びつけているわけではなさそうだった。
「でも、何でも仕事のために考える必要はないと思うよ。普通に楽しんでいるうちに、気づくこともあるからね」
トーマは笑った。
「せっかく街に出てきたんだから、楽しむことも忘れないようにしないと」
「それは大事ですね」
思わず笑みがこぼれた。
俺も、商売のことを考え始めると、つい店先の商品や客の動きばかり見てしまうことがある。
けれど、異世界へ来た目的はそれだけではない。
気になった店へ立ち寄り、知らないものを見つけ、現地の人と話す。そうした時間そのものを楽しむことも大切だ。
トーマの言葉を聞いて、改めてそう思った。
◇
その後も、俺たちは街を歩き続けた。
途中で気になる店を見つけては立ち止まり、商品を眺めたり、店の様子を見たりする。
トーマは知っている場所について簡単に説明してくれたが、必要以上に案内を押しつけることはなかった。
俺が興味を持った場所では一緒に足を止め、特に用がなさそうな場所はそのまま通り過ぎる。
その自然な距離感が心地よかった。
しばらくして、少し落ち着いた通りへ出た。
大通りに比べて人通りは少ない。住宅の並ぶ一角では、家の前を掃除している人や、荷物を運んでいる人の姿が見えた。
「この辺りは、さっきの通りとは雰囲気が違いますね」
「うん。人が多い場所も便利だけど、こういうところにも暮らしがあるからね」
トーマは周囲を見渡した。
「名所を巡るのも楽しいけど、普通の道を歩いてみるのも悪くないと思うよ」
「俺もそう思います。こういう何気ない街並みを見て回るのも、楽しいですね」
「実際に歩いてみると、いろいろ気づくよね」
「はい。店の人も、ここで暮らしている人も、それぞれの日常があるんだなって」
通りの向こうから、誰かが知り合いに声をかける様子が見えた。
特別な出来事ではない。
けれど、こうした何気ない光景を見ると、稲妻が単なる観光地ではなく、人々が暮らしている街なのだと実感できる。
俺はしばらくその様子を眺めた。
「今日は、いい時間を過ごせました」
「そう言ってもらえるならよかった!」
トーマは満足そうに頷いた。
「オレも楽しかったよ。食事をしながら話すのもいいけど、実際に歩いてみると、いろいろな話ができるね」
「そうですね。また機会があれば、よろしくお願いします」
「もちろん! 稲妻を楽しんでいってね」
そう言って、トーマは神里家のほうへ向かって歩き出した。
俺はその背中を見送り、軽く手を振った。
◇
トーマと別れたあとも、俺はしばらく街を歩いた。
せっかく稲妻に来たのだから、もう少し見て回りたい。
店先に並ぶ品々を眺め、通りを歩く人々の様子を観察する。気になったものがあれば足を止め、どんなものなのか確かめてみる。
そうしていると、時間が経つのはあっという間だった。
昼間に見た店も、時間が経つにつれて少しずつ様子が変わっていく。
店先の商品を補充する店主。買い物を終えて帰る客。夕食の準備のためか、食材を選んでいる人。昼間より荷物を抱えた人が増え、家路につく人々の足取りも目立つようになっていた。
屋台では、帰り道に何か買っていこうとする客が立ち寄り、店主との短いやり取りを交わしている。大通りの賑わいは続いているが、街の空気は少しずつ夕方のものへと変わっていた。
同じ通りでも、時間によって見えるものが違う。
俺はそんな光景を眺めながら、今日一日のことを振り返った。
志村屋で食事をし、そこでトーマと出会った。
食事のことや普段の暮らしについて話を聞き、その後は一緒に街を歩いた。
特別な出来事があったわけではない。
けれど、こういう何気ない時間が楽しい。
現地で暮らしている人と話し、その人にとって当たり前の日常を少しだけ知る。自分が知らなかったことを教えてもらい、見慣れた景色の中にも新しい発見を見つける。
観光というのは、名所を回るだけではないのだろう。
その土地で暮らす人々の生活に触れることも、旅の楽しみの一つだ。
そして、そうした経験は、いつか商売を始めるときにも役立つかもしれない。
ただし、今すぐ何かを決める必要はない。
まだ見ていない場所もあるし、知らないこともたくさんある。
焦らずに、少しずつ知っていけばいい。
「さて、そろそろ帰るか」
空を見上げると、時間もそれなりに進んでいた。
俺は最後にもう一度、稲妻の街並みを眺めてから、帰るための準備をした。
◇
日本の自宅に戻ると、部屋は出かける前と変わらない様子だった。
パソコンの画面を閉じ、俺は椅子に腰を下ろした。
「いやあ、今日も楽しかったな」
思わず声が漏れる。
今日は志村屋で食事をし、思いがけずトーマと出会うことができた。
料理のこと。普段の暮らしのこと。そして、街を歩くことの楽しさ。
どれも、実際に話をしてみなければ得られなかった経験だ。
俺はノートを取り出し、今日の出来事を簡単に整理した。
志村屋で食べた料理のこと。トーマから聞いた話。街を歩きながら見つけた店や、人々の様子。
書き出してみると、商売に関する情報だけでなく、稲妻で暮らす人たちの様子も少しずつ見えてくる。
「やっぱり、現地の人と話すのって大事だな」
先週は宵宮と街を歩き、今日はトーマと食事をした。
知り合いが少しずつ増えるだけで、街の印象も変わってくる。
ゲームの知識だけでは分からないことばかりだ。
商売については、これからも少しずつ考えていけばいい。
勘定奉行にはすでに確認してあるし、必要な手続きについても把握し始めている。詳しいことは、改めて話を聞きに行けばいいだろう。
もちろん、商売だけが目的ではない。
稲妻にはまだ見ていない場所があるし、これから交流することになる人たちもいる。
「次はどこを見て回ろうかな」
そんなことを考えながら、俺はノートを片づけた。
志村屋の料理も、また食べに行きたい。
今日食べたものとは別の料理を試してみるのもいいし、別の店を探してみるのも楽しそうだ。
それに、宵宮が話していた花火屋にも、いつか行ってみたいと思っている。
稲妻での観光は、まだまだ始まったばかりだ。
焦らず、楽しみながら、自分のペースで進んでいこう。
そう思いながら、俺は次の休日に思いを馳せた。