原神の世界に通えるようになったので、モンドを拠点に異世界生活を楽しみます 作:ところてんの
翌週末。
土曜日の朝、俺は朝食を済ませると、テーブルに置いていたノートを開いた。
先週は志村屋で食事をし、偶然知り合ったトーマと稲妻の街を歩いた。その前には宵宮と甘味処を巡っている。
まだ見ていない場所も、聞いてみたい話もある。今日は鳴神大社をゆっくり見て回ることにした。
ゲームで何度も訪れた場所だが、参拝する人々や、神社を支える巫女たちの日常までは知らない。実際に足を運んで、自分の目で確かめてみたかった。
「よし、今日は鳴神大社に行こう」
俺はノートを閉じ、出かける準備を始めた。
財布とスマートフォンを確認し、必要なものをまとめる。今日は観光が目的なので、特別な荷物は必要ない。
準備を終えると、自宅のパソコンの前に座った。
視界の端にシステム表示が浮かぶ。
移動先の一覧から稲妻を選び、解放済みのワープポイントを指定した。
画面が切り替わり、見慣れた景色が目の前に広がった。
◇
俺は周囲を確認してから、鳴神大社へ向かう道を歩き始めた。
山道を進むにつれて、街の喧騒が遠ざかっていく。木々の葉が風に揺れ、時折、鳥のさえずりが聞こえた。
「こういう場所を歩くのもいいな」
普段の生活では、平日は会社で働き、休日も近所の店に出かける程度で終わることが多い。
こちらでも、帰る場所や仕事がなくなるわけではない。それでも、こうして普段とは違う景色の中を歩いていると、気分が切り替わる。
しばらく進むと、木々の間から大きな鳥居が見えてきた。
その先には、鳴神大社の境内が広がっている。
「おお……」
俺は思わず足を止めた。
ゲームで見ていた場所に、今は自分の足で立っている。鳥居の大きさや石段の幅、木々の間から差し込む光まで、目の前の景色として感じられた。
境内へ続く道には、参拝に訪れた人たちの姿もあった。
俺は鳥居の前で軽く頭を下げてから、境内へ入った。
中では、家族連れや一人で訪れた人たちが、それぞれのペースで歩いていた。参拝を済ませて帰る人もいれば、景色を眺めたり、連れと話をしたりしている人もいる。
巫女たちは参拝客への案内や境内の手入れに忙しそうだった。
神社というと、どうしても参拝する場所という印象が強い。けれど、こうした日常の仕事があってこそ、多くの人が気持ちよく過ごせるのだろう。
俺は通行の邪魔にならないよう気をつけながら、境内を見て回った。
建物には稲妻らしい意匠が施され、周囲の自然ともよく調和している。手入れも行き届いていて、ここが大切にされている場所なのだと感じられた。
途中、参拝を終えた男性が、近くにいた巫女に話しかけているのが聞こえた。
「今年の祭事も、もうすぐですか?」
「はい。詳しい日程は、決まり次第お知らせすることになっています」
「そうですか。家族と一緒に来られたらと思っていたんです」
「それはよろしいですね。皆様でお越しいただければ、きっと楽しい時間になると思います」
男性は嬉しそうに頷き、その場を離れた。
(祭事か……)
ゲームでも祭りに関する話はあったが、実際には日程の調整や準備など、いろいろな仕事があるはずだ。
祭事を楽しみにしている人がいる一方で、それを支える人たちもいる。そうした様子を見られるのも、現地を訪れる面白さなのかもしれない。
もう少し歩くと、参拝を終えた母親と娘らしき少女が話していた。
「お願いごとは、ちゃんとできた?」
「うん!」
「お母さんは?」
「お母さんも、ちゃんとお願いしてきたわよ」
二人は顔を見合わせて笑っていた。
その光景に、自然と頬が緩む。
大きな願いを抱えて参拝する人もいれば、家族の健康や日々の無事を願う人もいるのだろう。神社は、特別な行事のときだけでなく、普段の暮らしにも関わっているようだ。
俺も、せっかく来たのだから参拝していこう。
順番を待ち、前の人が終わってから静かに手を合わせた。
こちらでの生活が無事に続くこと。そして、これからもいろいろな場所を訪れ、人々との交流を楽しめること。
そんなことを心の中で願い、参拝を終えた。
少し気持ちが落ち着いたところで、俺は境内の奥へ向かった。
◇
境内を歩いていると、少し開けた場所に出た。
そこからは、木々の向こうに広がる稲妻の景色を遠くまで見渡せる。
「ここから見ると、また違うな」
少し離れたところに、見覚えのある人物がいることに気づいた。
長い桃色の髪に、整った顔立ち。余裕を感じさせる立ち姿。
(……八重神子?)
鳴神大社の宮司、八重神子。
サンドローネのパーティーではお世話になっている相手だ。こうして実際に目の前にすると、やはり目を引く美人だと思う。
……というか、生足を見せすぎだろ。
いや、もう少し袴を長めにしたほうがいいんじゃないか? 神社の宮司なんだし、もうちょっと露出を控えてもいいと思うんだけど……。
もちろん、本人にそんなことを言う勇気はない。そもそも、服装に口を出すのも失礼だろう。
俺は余計な考えを振り払い、改めて八重神子のほうへ目を向けた。
ゲームで何度も見てきた人物が、今は同じ境内にいる。何度か経験したこととはいえ、八重神子を前にすると、さすがに緊張した。
相手の反応を見ながら会話を楽しむ人だ。下手なことを言えば、面白がってからかわれるかもしれない。
とはいえ、せっかく会えたのだ。遠くから眺めるだけで終わるのも、もったいない。
俺は一度深呼吸をしてから、八重神子のほうへ歩いていった。
少し距離を空けたところで足を止め、声をかける。
「あの、すみません」
八重神子がこちらを向いた。
「おや? 妾に何か用かえ。そんなにかしこまらずともよいぞ?」
柔らかな声とともに、彼女の顔に小さな笑みが浮かぶ。
俺は軽く頭を下げた。
「こんにちは。俺、観光で稲妻に来ているんです。今日は鳴神大社を見て回ろうと思って」
「ほう、観光とな。わざわざ山の上まで来るとは、なかなか物好きな旅人じゃのう。……それとも、何か別の目当てでもあるのかえ?」
「稲妻には何度か来ているんですけど、まだ知らない場所も多いので。神社のことも知りたいと思ったんです」
「なるほどのう。街を歩くだけでは飽き足らず、神社のことまで知りたいとは。そなた、なかなか好奇心旺盛な旅人のようじゃな」
「そうですね。街を歩くだけでも面白いですし、食事や甘味を楽しめる場所も多いですから」
「ふふっ、街歩きに食事、今度は神社かえ。そなた、稲妻をずいぶん満喫しておるようじゃな。旅の楽しみ方を心得ておるではないか」
「はい。観光地を見て回るだけじゃなくて、現地の人たちがどんな暮らしをしているのか知るのも楽しいです」
「よい心がけじゃ。景色を眺めるだけでは分からぬことも、そこに暮らす者と話せば見えてくる。旅先では、そういう出会いも大切にせねばのう」
八重神子は境内を見渡した。
「それで、今日は何を知りたいのじゃ?」
「鳴神大社についてです。さっき参拝している人たちを見ていたんですけど、普段からここへ来る人も多いんですか?」
「それなりにおるぞ。大きな願いを抱えて来る者もおれば、家族の健康や日々の無事を願う者もおる。願いの中身は人それぞれじゃな」
「やっぱり、特別な日だけじゃなくて、普段から来る人もいるんですね」
「そうじゃな。参拝を済ませて帰る者もおれば、境内でしばし過ごしていく者もおる。ここでどう過ごすかは、その者次第じゃ」
俺は先ほど見かけた親子の姿を思い出した。
「さっき、母親と娘さんが一緒に参拝しているのを見ました。何気ない光景でしたけど、いいなと思いました」
「ふむ……よい光景じゃな。大層な儀式ばかりが信仰ではない。ああした何気ないひとときも、この社を形作っておるのじゃろう」
八重神子は穏やかに頷いた。
「信仰と聞けば、厳かな儀式や決まりごとを思い浮かべる者もおるじゃろう。じゃが、人々が何を願い、何を大切にしておるのかを見れば、少し違ったものも見えてくるはずじゃ」
「確かに。俺は信仰について詳しいわけじゃないですけど、こういう場所が普段の生活の中にあるのは、いいことだと思いました」
「ほう。どうしてそう思うのじゃ?」
「仕事や日々の用事に追われていると、目の前のことばかり考えてしまうじゃないですか。そんなときに、少し立ち止まって考えたり、願いごとをしたりできる場所があるのは、いいことだと思うんです」
八重神子は、しばらく俺の顔を見ていた。
やがて、楽しそうに目を細める。
「ほう……ただ参拝するだけでなく、そんなことまで考えておったのか。ふふっ、見かけによらず、なかなか面白いことを言うではないか」
「そ、そうですか?」
「知らぬことを知ったふりせず、自分の目で見て考える。うむ、そなたはなかなか素直なようじゃな。そういう者は、話していて退屈せぬ」
「ありがとうございます」
少し照れくさくなって、俺は頬を掻いた。
「そんなに大したことは言っていませんよ」
「自分では気づかぬこともあるものじゃ。知っておるつもりになったときほど、目の前のものを見落としやすいからのう」
八重神子は意味ありげに笑った。
「まあ、妾とて何もかもお見通し……というわけではない。知らぬこともあれば、知らぬふりをしておくこともあるからのう」
「八重神子さんでも、知らないことがあるんですか?」
「おやおや、妾を何でも知っておる神様か何かとでも思うておったのかえ?」
「い、いえ、そういうつもりでは……」
「ふふっ、冗談じゃ。そう慌てるでない。そなたの反応が面白くて、ついからかいたくなっただけじゃ」
あっさり笑い飛ばされ、俺は苦笑した。
やはり、こちらの反応を楽しむようなところがある。
からかわれている気はするが、こちらの話を適当に聞き流しているわけではなさそうだった。
◇
「ところで、先ほど祭事の話をしておった者がおったじゃろう? そなたも気になったようじゃな」
八重神子が話題を変えた。
「はい。家族と一緒に来たいと言っていました」
「時期によって、さまざまな祭事がある。賑やかな催しを心待ちにする者もおれば、古くからの習わしを大切にする者もおる。楽しみ方も、思い入れも、それぞれじゃな」
「祭事の日は、普段より人が多くなるんですか?」
「祭事の内容にもよるが、普段より賑わうことは多いのう。遠方から来る者もおれば、家族や友人と連れ立って来る者もおる」
「そうなると、準備も大変そうですね」
「もちろんじゃ。参拝客の案内に境内の整備、道具の手配……当日になって慌てても遅いからのう。祭事は、始まる前からすでに始まっておるようなものじゃ」
八重神子が話していると、少し離れたところから巫女が歩いてきた。
「宮司様。祭事の準備について、確認したいことがございます」
「どうしたのじゃ? 何か確認しておきたいことでもあるのかえ?」
「参拝客の案内についてですが、例年どおりの配置でよろしいでしょうか」
八重神子は巫女の説明を聞き、境内の様子を一度見渡した。
「基本は例年どおりでよい。じゃが、人が集中するようなら案内の場所を変えるのじゃ。決まりにこだわりすぎず、参拝客の様子を見て臨機応変に対応するとよい」
「承知いたしました」
「それから、祭事の準備に気を取られて、普段の務めをおろそかにせぬようにな。特別な日ばかりに気を配って、日々の仕事を忘れては本末転倒じゃからのう」
「はい。皆にも伝えておきます」
巫女は一礼し、その場を離れていった。
八重神子は再びこちらへ向き直った。
「待たせてしまったのう。話の途中で悪かったな」
「いえ。仕事の様子を見ることができて、勉強になりました」
「ほう? 何が勉強になったのか、聞かせてもらおうかのう」
「祭事って、当日だけじゃなくて、準備する人たちの仕事も大切なんですね。人が増えることを考えて案内を工夫したり、普段の仕事と両立させたり」
「そのとおりじゃ。祭事は妾一人、巫女たちだけで成り立つものでもない。多くの者がそれぞれの役目を果たして、ようやく当日を迎えられるのじゃ」
「故郷の行事でも、似たようなところがあります。参加する側だと楽しい部分ばかり見ますけど、裏ではいろいろな準備が必要ですから」
「なるほどのう。そなたの故郷でも、表には見えぬところで行事を支える者たちがおるわけじゃな」
「はい。準備する側が無理をしすぎないことも大事だと思います」
「ところで、そなたの故郷では、祭りの日に何を楽しむのじゃ? 先ほどから、ずいぶん楽しげに話しておるが」
「そうですね。屋台を見て回ったり、普段は食べないものを買ったりするのが好きです。人が多いと歩くのは大変ですけど、あの賑やかな感じも祭りならではですから」
「ほう、屋台巡りか。ふふっ、食べ歩きが目当てとは、なかなか正直じゃな」
「いや、もちろん祭りそのものも楽しみますよ。……でも、屋台が並んでいると気になります」
「ふふっ、隠す必要はないぞ。祭りの楽しみ方は人それぞれじゃ。そなたがこちらの祭事に来たなら、あれもこれもと目移りすることになりそうじゃな」
「それは楽しみですね。稲妻の祭りでしか食べられないものもありそうですし」
「さて、どうかのう。そなたの口に合うものがあるかは、実際に食べてみてのお楽しみじゃな」
「八重神子さんも、祭りの話になると楽しそうですね」
八重神子は小さく笑った。
「楽しむのは結構じゃが、支える者たちが疲れ果てては元も子もない。働くときは働き、休むときは休む。……さて、そなたはどうじゃ? 休むのを忘れて働いてしまう口かえ?」
「……耳が痛いですね」
「おや、図星かえ? その顔を見るに、思い当たる節があるようじゃな」
「仕事が忙しいと、つい休むのを後回しにすることはあります。今日は休日なので、ちゃんと観光を楽しんでいますけど」
「ほう、本当に観光だけかえ? 妾には、少しばかり怪しく聞こえるがのう」
八重神子が楽しそうに目を細める。
「はい。今日は商売のことも考えず、観光が目的です」
「ふふっ、まあよい。せっかくの休日じゃ、仕事のことなど忘れて好きに過ごすがよい。妾の前でまで、働き者のふりをする必要はないぞ?」
「そうします」
思わず笑ってしまった。
今日は実際、販売する商品のことも、仕入れのことも考えていない。知らない場所を訪れ、気になったことを尋ね、会話を楽しむ。それだけで十分に充実している。
「八重神子さんは、祭事以外でも参拝客と話すことがあるんですか?」
「もちろんじゃ。誰とでも長話をするわけではないが、世間話くらいはするぞ。街の様子を聞くこともあれば、祭事を心待ちにする者の話を聞くこともある。人の話は、思いがけぬところで面白い種を運んでくるからのう」
「神社の仕事というと、参拝や祭事のことばかり想像していました」
「神社が人々の暮らしから離れてしまっては、寂しいじゃろう? もっとも、ここにおるだけで稲妻のすべてが分かるわけでもない。街には街の、店には店の事情があるからのう」
「だから、いろいろな場所を見て回ることが大事なんですね」
「そういうことじゃ。同じ土地でも、誰と話すかで見えるものは変わる。そなたも、気になる者がおれば話しかけてみるとよい。思いがけぬ話が聞けるかもしれぬぞ。……もちろん、相手は選ぶことじゃがな」
これまでに出会った人たちとの会話を通じて、稲妻の暮らしについて少しずつ知ることができた。今日は八重神子との会話で、鳴神大社が人々の日常と結びついていることを知った。
同じ稲妻でも、出会う人が違えば聞ける話も違う。だからこそ、歩き回るのが面白い。
「ところで、参拝するときには、何か決まった作法があるんですか?」
俺は、さっき手を合わせたときのことを思い出して尋ねた。
「作法はあるが、初めて訪れた者がすべてを完璧に覚えておらねばならぬ、というものでもない。まずは敬意を持つことじゃな。形ばかり整えても、心が伴わねば味気ないからのう」
「作法を間違えないことばかり気にするより、まずは敬意を持つこと、という感じですか?」
「そうじゃ。周りの者の迷惑にならぬよう気を配ることも大切じゃが、形だけをなぞればよいというものでもない。参拝に来る理由は、人それぞれじゃからのう」
「なるほど。俺も、何となく参拝するだけじゃなくて、少しずつ知っていきたいです」
「それでよい。分からぬことがあれば巫女に尋ねるとよい。皆、参拝客に気持ちよく過ごしてもらえるよう努めておる。……もっとも、忙しそうなときは少し待ってやっておくれ」
八重神子は境内のほうへ目を向けた。
「祭事も同じじゃ。賑やかな催しを楽しみに来る者もおれば、古くからの習わしを大切にしておる者もおる。ある者にとっては楽しい休日でも、別の者にとっては受け継いできたものを守る大切な日なのじゃ」
「同じ祭事でも、人によって見方が違うんですね」
「当然じゃろう? じゃからこそ、実際に足を運び、そこにおる者たちの話を聞く意味がある。遠くから眺めておるだけでは、分からぬことも多いからのう」
俺は頷いた。
祭りと聞くと、屋台や催し物、普段とは違う賑わいを想像する。もちろん、それも楽しみの一つだろう。けれど、その日を迎えるまでに準備する人や、昔からの習わしを大切にしている人がいることも忘れてはいけない。
「次に祭事があるときは、見物するだけじゃなくて、どういう意味があるのかも知りたいです」
「ふふっ、よい心がけじゃ。楽しむことと、知ろうとすることは両立できる。せっかくここまで来たのじゃ、どちらも味わっていくがよい」
「今日は来てよかったです」
俺が言うと、八重神子は満足そうに頷いた。
「それは何よりじゃ。せっかく足を運んだのじゃから、何か一つくらいは面白いものを見つけて帰らねば、もったいないからのう」
「祭事の時期にも、また来てみたいです」
「機会があれば、また訪れるとよい。祭事の日には、普段とは違う賑わいが見られるじゃろう。……ただし、期待しすぎるのは禁物じゃぞ? 妾も、そなたがどんな顔をするか見てみたくなるかもしれぬからのう」
「楽しみにしておきます」
◇
しばらくすると、八重神子は境内の奥へ視線を向けた。
「さて、妾はそろそろ戻らねばならぬようじゃ。まだ片づけておかねばならぬ仕事が残っておるのでな」
「お仕事中に引き止めてしまって、すみません」
「気にするでない。妾は、そなたのように気になったことを素直に尋ねてくる旅人と話すのは嫌いではないぞ」
八重神子は、どこか楽しそうな笑みを浮かべた。
「また稲妻を訪れることがあれば、鳴神大社にも顔を出すとよい。時期が変われば、境内の様子も違って見えるじゃろうからな」
「はい。今日は、いろいろなお話が聞けて楽しかったです」
俺は頭を下げた。
八重神子は軽く手を振ると、巫女たちのいるほうへ歩いていった。
その後ろ姿を見送り、俺は小さく息をついた。
せっかくなので、俺は近くで境内を整えていた巫女にも声をかけてみた。
「あの、すみません。先ほど祭事の準備についてお話しされていましたけど、もう準備が始まっているんですか?」
巫女は手を止め、こちらに向き直った。
「はい。まだ本格的な準備というほどではありませんが、日程や参拝客の案内など、少しずつ確認を進めております」
「なるほど。さっき、祭事を楽しみにしている方もいましたね」
「ええ。毎年楽しみにしてくださる方もいらっしゃいます。ご家族で来られる方も多いので、皆様に気持ちよく過ごしていただけるようにしたいと思っています」
「楽しみにしている人がいると、準備する側も大変ですけど、やりがいがありそうですね」
「そうですね。忙しくはなりますが、祭事を楽しんでくださる姿を見ると、準備してよかったと思います」
巫女は少し照れたように笑った。
「ただ、祭事の日だけでなく、普段から参拝に来てくださる方も大切にしたいと思っています。いつ訪れても安心して過ごせる場所でありたいですから」
「いいですね。特別な日も、普段の日も、どちらも大事なんですね」
「はい。そう思っていただけるとうれしいです」
「お仕事中にありがとうございました。準備、頑張ってください」
「ありがとうございます。どうぞ、ゆっくりお参りください」
巫女に軽く頭を下げ、俺はその場を離れた。
「……いやあ、緊張した」
最初に声をかけるときは少し迷ったが、話してみれば神社や祭事についていろいろなことを教えてもらえた。
時折からかわれたものの、八重神子らしい会話も楽しめたと思う。こちらの話を面白がっているようでいて、質問にはきちんと答えてくれる。さすがは鳴神大社の宮司というべきか、相手の話を聞きながら、自然に大事なところへ話を導いてくれる人だった。
そして、話の内容を思い返してみると、少し意外な感覚もあった。
神社に参拝する人がいて、家族の健康や日々の無事を願う人がいる。祭事が近づけば、楽しみにする人がいる一方で、裏側では巫女たちが準備を進めている。行事を楽しむだけでなく、それを支える人たちの苦労も大切にする。
どれも、俺が日本で見聞きしてきた光景とよく似ていた。
(……マジで日本とそっくりだな)
もちろん、稲妻には稲妻の歴史や習わしがある。信仰の対象も、祭事の形も、日本とまったく同じというわけではない。それでも、神社が人々の暮らしの中にあり、特別な日だけでなく普段から足を運ぶ場所になっているところには、親しみを覚えた。
ゲームを遊んでいたときは、鳴神大社を景色や物語の舞台として見ていた。けれど、実際にそこで暮らす人たちの話を聞くと、建物や景色だけでは分からなかった意味が少しずつ見えてくる。
参拝していた親子の笑顔も、祭事を楽しみにしていた男性の様子も、八重神子が巫女に伝えていた指示も、ひとつながりの暮らしの中にあるものだった。
そう考えると、稲妻を観光する楽しみがまた一つ増えた気がする。名所を見て回るだけでも十分に楽しいけれど、そこに暮らす人たちの考え方や習慣を知れば、同じ場所でも違った見方ができる。
俺は気持ちを切り替え、もう少し境内を見て回ることにした。
参拝客が行き交う道を歩きながら、境内の建物や木々を改めて眺める。少し離れたところでは、巫女たちが手入れを続けていた。
祭事の時期になれば、また違った景色が見られるのだろう。
次に訪れる理由が一つ増えた。
俺は鳥居の近くまで戻り、最後にもう一度、境内を振り返った。
「また来よう」
そう呟いて、来た道を戻り始めた。
◇
山道を下りながら、俺は今日聞いた話を思い返していた。
帰ったらノートに簡単な記録を残しておこう。鳴神大社で見た景色や、八重神子から聞いた祭事の話を書いておけば、次に訪れたときにも役立つはずだ。
街へ戻ったら、まだ行ったことのない場所を見て回るのもいい。気になる店があれば立ち寄ってもいいし、食事をしてから帰ってもいい。
今日は、まだ時間がある。
商売とは関係のない話を楽しみ、稲妻の文化について少し知ることができた。
日本にいたころ、神社へ行くのは初詣や祭りのときが多かった。もちろん、普段から参拝する人もいるだろうし、地域によって習慣も違う。それでも、行事を楽しみにする気持ちや、準備をする人たちがいて初めて成り立つというところは、今日聞いた話と重なっていた。
こちらの世界に来てから、ゲームで知っていた場所や人物に出会うたびに驚かされてきた。けれど、こういう何気ない話の中にも、日本で暮らしていた自分に通じるものがあるとは思わなかった。
知らない世界を歩いているのに、ふと故郷を思い出す。そんな感覚も、異世界を旅する面白さなのかもしれない。
こうした休日も、悪くない。
俺は次に見る景色を楽しみにしながら、稲妻の街へ向かって歩いていった。