原神の世界に通えるようになったので、モンドを拠点に異世界生活を楽しみます 作:ところてんの
第36話「知恵の国の市場」
三連休の最終日。
金曜日はモンドで露店を開き、土曜日は璃月へ移動して同じように商品を並べた。二日続けての販売だったが、慣れた作業を繰り返すだけでも、土地が変われば客の反応や会話の雰囲気が少しずつ違う。
モンドでは顔なじみの冒険者や街の人たちが立ち寄ってくれる。璃月では品物をじっくり見比べ、値段や使い方を確認してから買う人が多かった。もちろん、全員がそうというわけではない。それでも、同じ商品を並べても街によって目に留めるものが違うのは面白かった。
売上と残った在庫を確認し、必要な記録をノートにまとめたところで、昨日の露店は終わりにした。
今日は三連休の最終日だ。
せっかくの三連休なのだから、普段なかなかゆっくり見て回れない場所へ行ってみたい。
次に訪れる国として考えていたのが、知恵の国スメールだった。
教令院を中心に発展した街並みや、ほかの国とは違う市場の雰囲気も気になっていた。ゲームで知っている場所でも、実際に歩けば新しい発見があるはずだ。
仕事も露店も休みだ。今日はスメールを観光しよう。
「今日はのんびり見て回ろう」
俺はアイテムボックスの中身を確認し、観光に必要なものだけをバックパックへ入れた。財布、スマートフォン、ノート、筆記用具。それに、歩き回ることを考えて飲み物も用意してある。販売用の商品は持っていかない。今日は売るためではなく、自分が楽しむために出かけるのだから。
スメールシティへ向かう方法は、すでに解放してあるワープポイントを使えばいい。国をまたぐ移動も、今ではずいぶん気軽になった。ただ、移動が簡単だからといって、目的地に着いた瞬間から観光を急ぐ必要はない。
光に包まれた感覚が消えると、目の前にはスメールシティの景色が広がっていた。
緑を取り入れた建物が重なり、階段や橋が街の高低差に沿って伸びている。遠くには大きな樹木が見え、建物の間を行き交う人々の姿があった。市場の方からは、店主が客に声をかける声や、荷物を運ぶ音が聞こえてくる。
何度もゲームの画面で見た街だ。それでも、自分の足で歩き、風の匂いや人の声を感じると、画面の中で眺めていたときとは印象が違う。
ここが知恵の国、スメール。
学者たちが集まる教令院があり、知識や研究が街の暮らしにも深く関わっている。けれど、目の前にあるのは難しい学問の話だけではない。人が暮らし、食事をし、働き、買い物をする、ひとつの大きな街だ。
今日はその日常を、自分のペースで見て回りたい。
俺は街の流れに沿って歩き始めた。
まずは、気になった方向へ行ってみることにした。観光案内のように決まった順番で回るのも便利だが、今日は時間に追われていない。道を間違えたとしても、戻ればいいだけだ。こういう気楽な散策も、休日ならではの楽しみだと思う。
階段を上る人と下りる人がすれ違う場所では、自然と歩く速度がゆるやかになった。荷物を抱えた商人が通ると、周囲の人たちは少し道を空ける。小さな子どもが家族の手を引いて先を急ぎ、その後ろから大人が笑いながらついていく。特別な出来事ではないが、そんな光景を見ているだけで、街が生きていることを感じられた。
◇
市場へ近づくにつれ、店の数が増えていった。
野菜や果物を並べた店、香辛料を小袋に分けて売る店、布や日用品を扱う店。木箱に入った品物を店先に積んでいる商人もいれば、商品を手に取って見せながら客に説明している商人もいる。
同じ市場の中でも、売り方はそれぞれ違う。
商品の名前を大きな声で呼びかける店もあれば、客が足を止めるのを待って、質問されたときに詳しく説明する店もあった。目立つ場所に品物を置く店もあれば、用途ごとにきれいに並べ、じっくり選んでもらう店もある。
俺は邪魔にならないように通路の端を歩きながら、店先を眺めた。
「香辛料だけでも、けっこう種類があるな……」
小さな袋に入った粉末や、乾燥させた実、葉のようなものが並んでいる。近くを通るだけで、甘い香りや、鼻に少し刺激を感じる香りが混ざってきた。料理に使うものだろうが、見た目だけでは用途が分からないものも多い。
気になった品をひとつ見せてもらうと、店主は料理に使う方法を簡単に教えてくれた。肉料理に加えるもの、煮込みに使うもの、香りづけに少量だけ使うもの。話を聞いているうちに、スメールの料理を食べるときは、味だけでなく香りにも気を配ってみたくなった。
「ありがとうございます。あとで料理を食べるときに、ちょっと気にしてみます」
「そうすると、また違った楽しみ方ができるだろうね」
店主はそう言って、次の客に声をかけた。
俺はその場を離れ、また市場を歩いた。
観光地を巡るとき、つい有名な建物や名所を優先したくなる。もちろん、それも楽しい。でも、こういう何気ない店先で話を聞くと、その土地の生活が少し身近に感じられる。
商品が並んでいるだけでは分からないこともある。誰が買うのか、どう使うのか、どんなときに必要になるのか。店主との短い会話から、品物の背景が見えてくることもあった。
俺が今やっている露店販売も、考えてみれば同じだ。
日本から持ってきた商品を並べるだけでは、何が喜ばれるのか分からない。手に取ってもらい、使い方を説明し、買った人の反応を見て、少しずつ次の仕入れを考えていく。モンドと璃月で感じた違いも、その積み重ねの一部だ。
とはいえ、今日は商売の調査をしに来たわけではない。
ノートを取り出しかけて、俺は苦笑しながらバックパックの口を閉じた。
「休みの日くらい、まずは楽しもう」
気になることがあれば、あとで簡単に書き留めればいい。目の前のものを全部記録しようとしたら、観光どころではなくなってしまう。
そう考えて、俺は再び市場の散策に戻った。
◇
市場をひと通り見たあと、俺は街の別の通りへ足を向けた。
市場のにぎやかな声から少し離れると、周囲の音も変わってくる。建物の間を抜ける風の音や、階段を上り下りする人の足音が聞こえた。道沿いには小さな店が並び、店先で休んでいる人や、荷物を抱えて歩く人の姿もある。
高低差のある街なので、少し歩くだけでも視界が変わる。階段を上がった先からは、さっきまで歩いていた市場の一部が見下ろせた。店の屋根や看板、人の流れが重なり、街がひとつの大きな生活の場になっているのが分かる。
「こういう景色を、何も気にせず見て回れるのはいいな」
仕事のことを考えず、時間に追われず、気になる場所へ歩いていく。日本でも旅行はできるが、ここでは普段の生活とは違う景色や文化に出会える。知っている世界のはずなのに、実際に歩いていると新しい発見がある。
しばらく歩くと、飲食店から香ばしい匂いが漂ってきた。
ちょうど昼食の時間も近い。朝から市場を歩いていたので、少し腹も減っている。
「よし、昼飯にしよう」
せっかくスメールシティに来たのだから、昼食は街で知られたランバードの酒場にしてみよう。店内には何組かの客がいて、食事をしながら談笑している。店員に案内された席に座り、メニューを確認した。
スメールらしい香辛料を使った料理も気になる。さっき市場で聞いた香りの話を思い出し、今日は普段より少し意識して料理を選んでみることにした。
注文を済ませて待っている間、店内の様子を眺めた。客たちはそれぞれ食事を楽しんでいて、店員は忙しそうに料理を運んでいる。特別な出来事が起きているわけではない。それでも、知らない街で昼食を取るというだけで、少し旅をしている気分になる。
運ばれてきた料理からは、香辛料の豊かな香りが立ち上っていた。
ひと口食べてみると、最初に感じる香りと、あとから広がる味わいが少し違う。辛さだけが前に出るのではなく、複数の香りが重なっているようだった。
「おお、これ、思ったより香りが複雑だな」
ひと口ごとに味を確かめながら、ゆっくり食べた。市場で聞いた話を思い出すと、料理の楽しみ方が少し広がる気がする。もちろん、使われている香辛料を全部当てられるわけではない。それでも、普段ならそのまま食べて終わるところを、香りや後味にも意識を向けるようになった。
食事を終え、店員に礼を言って外へ出た。
昼食代は、普段の生活を考えれば少し贅沢をした部類に入るかもしれない。それでも、旅先でその土地の料理を味わうのは楽しみのひとつだ。無理に節約して後悔するより、予算の範囲で気になるものを食べてみる。俺はそういう使い方を大切にしていた。
もちろん、毎回高い料理を選ぶわけではない。軽食で済ませる日もあれば、露店で売っているものを試す日もある。生活費を圧迫しない範囲で、旅を楽しむ。そのくらいの距離感が、自分には合っていると思う。
腹が満たされると、また歩きたくなってくる。次はどこを見ようかと考えながら、俺はゆっくりと街を巡った。
◇
午後は、市場から少し離れた通りや、建物の間にある広場を見て回った。
大きな通りには人が多いが、一本入ると落ち着いた雰囲気の場所もある。店の前で商品を整理している人、知り合いと立ち話をしている人、買い物袋を手に歩いている人。街のあちこちで、それぞれの日常が続いていた。
スメールといえば知恵の国という印象が強い。学者や教令院の存在も大きいし、知識を重んじる文化があることも知っている。けれど、今日歩いてみて感じるのは、それだけではなかった。
知識を研究する人がいる一方で、品物を仕入れて売る人がいる。料理を作る人がいて、それを食べる人がいる。荷物を運ぶ人や、店を掃除する人もいる。そうした日々の仕事や暮らしがあって、街は動いている。
当たり前のことかもしれない。でも、ゲームを遊んでいたときは、街を移動して目的の人物に会い、依頼を進めることが多かった。こうして目的を決めずに歩いていると、背景として見ていた場所にも、人々の生活が続いているのだと実感できる。
もちろん、俺はこの街のすべてを知っているわけではない。今日歩いた場所だけで、スメール全体を理解したとも思わない。知らない通りも、まだ入ったことのない店もたくさんあるだろう。
だからこそ、また来る楽しみがある。
街の案内板に目を向けると、見覚えのある名前もいくつか見つかった。ゲームで目的地を確認するときは、地図の印を頼りに最短距離で向かうことが多かった。けれど実際の街では、途中の階段や通路、店先の様子までが移動の一部になっている。
目的地に早く着くことだけを考えていたら、きっと見逃してしまうものもある。遠回りした先に気になる店があったり、立ち止まった場所から思いがけずいい景色が見えたりする。現実の観光は、そういう偶然も含めて楽しむものなのだろう。
しばらく広場の端で休み、持ってきた飲み物をひと口飲んだ。歩き続けて少し疲れていた足も、座っているうちに落ち着いてくる。周囲では人々が行き交い、少し離れた場所からは店員の呼び声が聞こえてきた。
何かを成し遂げる必要も、誰かに会う予定もない。今日はただ、この街の雰囲気を知るために来た。それだけで十分に贅沢な休日だと思えた。
立ち止まって地図を確認し、次に行きたい場所をひとつ決めた。時間に余裕があるので、急ぐ必要はない。途中で気になる店があれば寄り道してもいいし、疲れたら休んでもいい。
しばらく歩いていると、道端で小さな品物を並べている商人が目に入った。市場の商人たちとはまた違い、こちらは日用品が中心のようだ。客は数人ずつ足を止め、必要なものを選んでいる。
俺は少し離れた場所から、邪魔にならないように様子を眺めた。
客が何を手に取るか、どのくらい商品を見比べるか。店主がどんなタイミングで声をかけ、質問されたときにどう説明するか。気づけば、また商売のことを考えていた。
「……まあ、こういうのも観光の一部ってことで」
自分に言い訳するようにつぶやき、俺は小さく笑った。
商売をするつもりで来たわけではない。それでも、露店を続けているからこそ、目に入るものがある。今までなら気に留めなかった売り方や商品の並べ方が、自然と気になるようになった。
それはそれで、悪くない変化だと思う。
ただ、今日は何かを決める必要はない。スメールで売る商品も、露店を出す場所も、まだ決めていない。まずは街を知り、必要になったときに考えればいい。
俺は市場の方向をもう一度眺め、それから街歩きを続けた。
◇
商店をいくつか見て回っていると、通りの一角に、ひときわ目を引く品物を並べた店があった。
装飾品や珍しい雑貨が、店先に整然と並べられている。俺は足を止め、品物の形や並べ方を眺めた。買うものを探しているというより、どんな品物が扱われているのか気になっていたのだ。
手のひらに収まりそうな小物から、少し値が張りそうな装飾品まで、種類は幅広い。色や形が似ている品物も、よく見ると細かな模様や素材が違っていた。値札の位置も分かりやすく、客がひとつずつ比較しやすいように並べてある。
店の前を通り過ぎる人の中には、ちらりと眺めるだけの人もいれば、足を止めて店主に質問する人もいた。興味を持った客には声をかけ、そうでない人を無理に引き止めることはしない。そんな接客の様子も、自然と目に入った。
俺も露店を出すとき、客に声をかけるタイミングには気をつけている。商品を見ているだけなのか、説明を聞きたいのか。それを見極めるのは簡単ではない。声をかけすぎれば落ち着いて見られないし、何も言わなければ使い方が分からないまま通り過ぎてしまうこともある。
店先を眺めているだけでも、参考になることは多い。そんなことを考えながら、俺は並べられた品物に視線を戻した。
そのとき、商売人らしい張りのある声が聞こえてきた。
「そこのお客さん、ちょっとよろしいですかぁ?」
声の方へ顔を向けると、小柄な少女がこちらを見ていた。特徴的な服装に、商売人らしい人懐っこい笑顔。ゲームで見覚えのある姿だった。
(ドリー……!)
スメールの商人、ドリー。ゲームでは何度も見かけた人物だが、実際に会うのは初めてだった。
ドリーは俺の顔よりも、着ている服に興味を示しているようだった。袖口や胸元の生地を確かめるように目を動かし、少しだけ身を乗り出す。
「お兄さんのお洋服、こちらではあまり見かけない生地ですねぇ。織り方も手触りも、スメールでよく見るものとは違うようです」
「そうですか? 俺のいた場所では、特に珍しいものじゃないんですけど」
「ほほぉ……こちらでは珍しいのに、そちらでは普通、と」
ドリーの目が、商機を見つけた商人のようにきらりと光った。
「もし同じような生地やお洋服を仕入れられたら、欲しがる方がいるかもしれませんねぇ。これは、なかなかもうかりそうなお話です!」
どうやら、俺が裕福そうに見えたから声をかけたわけではないらしい。見たことのない生地の服を着ている。それがスメールで商品になるかもしれないと考えたのだろう。
頭の中に、彼女の商売に関する知識が浮かぶ。珍しい品を扱い、商機を見つけるのが得意な商人。お金に関する話題にも敏感で、取引では抜け目がない。
ただし、ゲームで知っていることをそのまま本人にぶつけるつもりはない。俺にとっては知識のあるキャラクターでも、ここでは目の前にいるひとりの商人だ。
「こんにちは。今日は買い物をしながら、市場を見て回っているところです。あ、俺は悠真です」
「これはご丁寧に。わたくしはドリーと申します。おやおや、観光ですか? それとも、何か商売の参考になるものを探しているんですか?」
ドリーは俺の服装をもう一度見てから、さっきまで俺が眺めていた品物へ視線を移した。
見慣れない生地の服を着た客が、品物の種類や並べ方まで注意深く見ていた。ドリーにとっては、服そのものも、俺が商売に関わる人間らしいことも、話しかける理由になったのだろう。
「半分は観光ですね。普段はモンドを拠点にしていて、時々ほかの国でも露店を出しているんです。今日は売るためじゃなくて、スメールの街を見てみたくて」
説明しながら、俺は店先に並んだ品物をもう一度見た。ドリーの店は、ただ珍しいものを並べているだけではない。客の目に留まりやすい場所に目玉になりそうな品を置き、手に取りやすいものは前の方に並べているようだった。もちろん、俺がそう感じただけで、本人がどんな考えで配置しているかまでは分からない。
それでも、商品を眺める客の視線を意識していることは伝わってくる。俺の小さな露店とは扱う品物も規模も違うが、客に興味を持ってもらうために工夫する点は共通しているのかもしれない。
「ほほう、露店商さんでしたか。それなら市場を見る目も、普通の観光客とは少し違うかもしれませんねぇ」
「そうかもしれません。つい、どんな商品が並んでいるか気になってしまいます」
「分かりますよぉ。商売をする人は、どこへ行っても品物と値段が気になりますからねぇ」
ドリーは楽しそうに頷いた。
「でも、今日はお休みなんでしょう? それなら、難しいことはひとまず置いておいて、気になるものを見て回るのも大切ですよ。商売の種は、思いもよらないところに転がっているものですから」
「確かに。さっきから、つい考え込んでしまっていました」
「うふふ。せっかくの休日ですから、楽しんでくださいな。もちろん、気に入った品があれば、うちのお店も見ていってくださいね。良い品を見つけるお手伝いならできますよぉ」
最後のひと言には、商売人らしい抜け目のなさがあった。
「ありがとうございます。見せてもらってもいいですか?」
「もちろんですとも!」
ドリーは、店先に並べた品物を手で示した。
そこには装飾品や小物、日常で使う道具などが並んでいた。どれも、ただ珍しいだけではなく、使う場面を想像しやすい品が多い。見た目を重視したものもあれば、実用性を考えたものもある。
俺はひとつひとつを眺め、気になったものについて尋ねた。
「これは、どういう人が買っていくんですか?」
「品物によりますねぇ。贈り物にする方もいますし、自分で使うために買う方もいます。あとは、珍しいものを集めるのが好きな方もいますよ」
「なるほど。使う目的だけじゃなくて、贈り物や趣味で買う人もいるんですね」
「そういうことです。何が売れるかは、品物の良し悪しだけで決まるものではありません。誰に向けて、どんな場面で使ってもらうのか。それを考えるのも商売の大切なところですよぉ」
ドリーの言葉は、軽い調子の中にも商売人としての経験が感じられた。
俺は、目の前の品物をもう一度見た。同じような小物でも、日常使いを考えて買う人と、贈り物として選ぶ人では、気にする点が違うだろう。価格だけでなく、包装や見た目、使いやすさも判断材料になる。
「売る側が商品を知っているだけじゃ、足りないんですね」
「ええ。自分が良いと思うものを並べるだけでは、なかなか上手くいかないこともありますから。もちろん、売れるかどうかばかり気にしていても、商売は楽しくありませんけどねぇ」
ドリーは肩をすくめ、店先の品物を整えた。
「お客さんが喜んでくれて、お金もきちんと入ってくる。それが一番です!」
「分かりやすいですね」
「商売ですから!」
あまりにも堂々と言い切るので、俺は思わず笑ってしまった。
◇
話しているうちに、空が少しずつ夕方の色に変わってきた。昼食を取ってからも歩き回っていたので、そろそろ腹が減ってきている。
「そういえば、もう夕方ですね。そろそろ夕飯にしようと思っていたところです」
「おや、それならちょうどいいですねぇ。せっかくスメールに来たのですから、夕飯も楽しんでいかないと!」
ドリーは商売の話をいったん切り上げるように、店先の商品を整えた。
「この近くで、おすすめのお店はありますか?」
「もちろんありますよぉ。おいしい料理を出すお店はいくつも知っていますからね。……そうですね、せっかくですし、ご一緒しましょうか?」
思いがけない誘いに、俺は少し驚いた。
「一緒にですか?」
「ええ。お客さんはほかの国でも商売をしているんでしょう? まだ聞きたいこともありますし、食事をしながらお話しするのも悪くないと思いまして」
商談というより、商売人同士の話に興味を持ったらしい。もちろん、ドリーがただの善意だけで誘っているとは限らない。会話の中から何か商機を見つけたいのかもしれないが、それも彼女らしいところだろう。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。俺もスメールの料理をもう少し楽しみたいです」
「決まりですねぇ!」
ドリーは満足そうに笑い、店の片づけを手伝う者に短く声をかけてから、俺を連れて歩き出した。
店を離れる前に、俺はもう一度だけ店先を振り返った。日中に見た市場の店とは違い、ドリーのところには珍しい品が多く、眺めているだけでも飽きない。けれど、品物の珍しさだけでなく、客との会話や商売の進め方にも、彼女ならではの工夫があるように感じた。
今すぐ真似できることばかりではない。それでも、こうして別の商人と話す機会があるのはありがたい。旅先での出会いが、そのまま何かの成果につながらなくても、知ること自体に意味はある。
◇
案内された店は、夕食を楽しむ客でほどよくにぎわっていた。店先からは焼いた肉や香辛料の香りが漂い、扉をくぐると、いくつもの卓から楽しげな話し声が聞こえてきた。昼に訪れたランバードの酒場とはまた違った雰囲気だ。仕事を終えた人たちが食事をしながら一日の出来事を話しているらしく、店内には気取らない活気があった。
ドリーは慣れた様子で店員に声をかけ、空いている席へ向かった。どうやら、何度も利用している店らしい。
「ここなら、料理もおいしいですし、落ち着いてお話もできますよぉ」
「よく来るお店なんですか?」
「ええ。商売をしていると、食事をする場所も大事ですからねぇ。おいしいものが食べられて、店の人とも気軽に話せる。そういうところは覚えておくと便利なんです」
ドリーらしい答えに、俺は思わず笑った。
「なるほど。食事をする場所も、商売のうちなんですね」
「もちろん! ……まあ、今日は難しいことを考えずに、食事を楽しみましょうかぁ」
ドリーは店員からメニューを受け取ると、俺にも見えるように卓の上へ広げた。昼に食べた料理とは違うものを試してみたかったので、俺は名前と説明を見比べながら、気になる品をいくつか選んだ。
「これは香辛料が強そうですね。辛いんでしょうか?」
「辛さだけではありませんよぉ。香りを楽しむ料理もありますし、材料の組み合わせで味わいが変わるものもあります。初めてなら、こちらもおすすめです」
ドリーはメニューの一角を指さし、料理の特徴を簡単に教えてくれた。無理に高い品を勧めるのではなく、俺が何を食べたいのかを確かめてから、選びやすいものを教えてくれる。
商売人として抜け目がない印象はあるが、こうしていると気さくな一面も感じられた。
「じゃあ、これと、こちらをお願いします」
注文を済ませると、店員は内容を確認してから厨房へ戻っていった。俺は店内を見回した。近くの卓では、仕事帰りらしい客たちが料理を分け合っている。奥の席では、旅人らしい二人組が地図を広げて明日の予定を相談していた。市場で見かけた商人も、どこかで一日の仕事を終えて、こうして食事をしているのかもしれない。
料理が運ばれてくるまでの間、ドリーは昼間に歩いた場所について尋ねてきた。
「スメールの街は、気に入りましたかぁ?」
「はい。ゲームで見ていた場所でも、実際に歩くとずいぶん違いますね。市場も、ただ品物が並んでいるだけじゃなくて、店ごとに雰囲気が違うのが面白かったです」
「ほほぉ。ちゃんと見て回ったんですねぇ」
「最初は景色を楽しむつもりだったんですけど、気づいたら店先の品物や売り方まで見ていました」
「うふふ。商売をしている人なら、そうなってしまうのも仕方ありませんねぇ」
「休みの日くらい、仕事のことは忘れようと思っていたんですけどね」
「完全に忘れる必要もないでしょう? 見て、楽しんで、気になったことを覚えておく。それだけでも十分ですよぉ」
ドリーの言葉は、思っていたよりも気楽なものだった。何かを売るために市場を調べるのではなく、ただ歩いていて気づいたことを覚えておく。そういう付き合い方でもいいのだろう。
やがて料理が運ばれてきた。卓に並んだ皿からは、香ばしい匂いとともに、さまざまな香辛料の香りが立ち上ってくる。昼食のときにも感じたが、スメールの料理は、ひと口食べる前から食欲を刺激してくる。
「では、いただきます」
まずはひと口。最初に香りが広がり、そのあとから食材の味が追いかけてくる。辛さだけが前に出るのではなく、複数の風味が重なっているようだった。
「おお……。これ、思ったより香りが複雑ですね」
「でしょう? 香辛料の組み合わせで、同じような材料でもずいぶん印象が変わるんですよぉ」
ドリーは自分の料理をひと口食べ、楽しそうに頷いた。
「この料理は、最初の香りと後味が少し違う気がします」
「よく気づきましたねぇ。口に入れたときだけでなく、食べ終わったあとに残る香りも大事なんです」
市場で香辛料の話を聞いていたおかげか、今日はいつもより味や香りを意識して食べられている気がした。もちろん、どの香辛料が使われているのか全部分かるわけではない。それでも、ただ空腹を満たすために食べるのとは違う楽しみ方ができる。
俺が料理を味わっていると、ドリーは別の皿をこちらへ少し寄せた。
「こちらも食べてみますかぁ? さっきのものとは、香りの感じが違いますよ」
「いいんですか? ありがとうございます」
少し分けてもらい、今度は別の料理を味わう。こちらは先ほどよりも香りが穏やかで、素材の味がよく分かった。同じ食事の中でも違いがあるのが面白い。
「確かに、こっちは味がまろやかですね」
「気に入ってもらえたなら何よりですぅ」
食事の間、話題は街のことや商売のことを行き来した。ドリーは市場で見かけた店の特徴を教えてくれたり、スメールで暮らす人たちがどんな品物をよく買うのか、一般的な範囲で話してくれたりした。俺も、モンドと璃月で露店を出したときに感じた違いを話した。
「モンドでは顔なじみのお客さんが立ち寄ってくれることが多いんです。璃月では、商品をじっくり見て、値段や使い方を確認してから買う人が多い印象でした」
「土地が変われば、買い物の仕方も少しずつ違いますからねぇ。もちろん、どの街にもいろいろな人がいますけど」
「そうなんです。だから、どこでも同じ商品が同じように売れるとは限らないんだなって」
「その通りです。品物を持っていくだけではなく、そこで暮らしている人が何を必要としているかを知ることも大切ですよぉ」
ドリーの話し方は軽やかだが、経験に裏打ちされた考えがあるようだった。自分の店を持ち、多くの商品を扱っている彼女と、旅の合間に小さな露店を出している俺とでは、商売の規模が違う。それでも、客の反応を見て次を考えるという基本は同じなのだろう。
「悠真さんは、どんな商品を売っているんですか?」
「日用品や、ちょっとしたお菓子ですね。日本から少しずつ持ってきて、露店で販売しています。大きな商売ではないですよ。旅をしながら続けられるくらいの規模です」
「なるほど。珍しい品を少しずつ、ですかぁ」
ドリーは興味深そうに頷いた。俺が裕福だからというより、どんな商品を扱っているのか、その売り方に関心があるようだった。
「お菓子にもいろいろあります。甘いものもあれば、ミントのように口の中がすっとするものもあって。ただ、好みは人それぞれなので、どれが喜ばれるかは試してみないと分かりません」
「確かに、珍しいだけでは売れるとは限りませんねぇ。好きな方には気に入ってもらえても、苦手な方には選ばれないこともありますから」
「そうなんです。だから、もしスメールで販売することがあっても、最初は少量からにするつもりです。いきなりたくさん仕入れるより、反応を見て考えたいですね」
「堅実ですねぇ。売れ残りを抱えてしまっては、せっかくの利益も減ってしまいますから」
ドリーは自分の商売の経験を思い出すように、指先で卓を軽く叩いた。
「それに、スメールで何が好まれるかは、実際に暮らしている人や、ここへ来る旅人に聞くのが一番でしょうね。市場を歩いて、店の品ぞろえを見るのもいい方法ですよ」
「今日歩いてみて、同じ市場でも店によって売り方が違うのが面白かったです。人通りが多ければいいというわけでもないんですね」
「その通りです。人が多くても急いで通り過ぎるだけの場所もあれば、品物をじっくり見ていく人が集まる場所もあります。どんなお客さんに来てほしいかを考えることも大切ですよぉ」
昼間に市場を歩いて感じたことが、ドリーの説明で少し整理された。とはいえ、まだスメールで売る商品を決めるつもりはない。今日知ったことは、次に訪れるときの参考にすればいい。
「今日は観光に来ただけなので、具体的に何かを決めるのは、また今度にします」
「それがいいと思いますよ。急いで決める必要はありませんからねぇ。まずはスメールを楽しんで、気になるものがあれば覚えておけばいいんです」
「はい。今日は十分楽しめています」
「それならよかったです!」
ドリーは満足そうに頷き、今度は別の料理を勧めてきた。俺はそれを少し分けてもらい、味の違いを楽しんだ。
食事の時間は思った以上に楽しかった。商売の話だけでなく、街の暮らしや店のこと、料理の好みなど、話題は次々と移っていった。ドリーは話し上手で、こちらが質問すると気さくに答えてくれる。その一方で、品物や商売の話になると、目の輝きが少し変わるのが印象的だった。
食べ終わるころには、店内の客も少しずつ入れ替わっていた。俺たちもゆっくりと食事を終え、卓の上を片づけて店を出る準備をした。
「今日はありがとうございました。観光だけのつもりでしたけど、いろいろ話が聞けて楽しかったです」
「こちらこそ。わたくしも面白いお話が聞けましたよぉ」
店を出てから、ドリーと今日のお礼について話しているうちに、俺はまだ何も渡していないことを思い出した。
「そうだ。いろいろ教えてもらったお礼があるんです」
「おやぁ? お礼ですかぁ? これは楽しみですねぇ!」
俺はバックパックから、未開封のミネラルウォーターを取り出した。
「これ、よかったらどうぞ。持ってきたものなんですけど、まだ飲んでいないので」
「これは……お水ですかぁ?」
ドリーはペットボトルを受け取ると、中の水を確認してから、容器そのものを珍しそうに眺め始めた。透明な容器越しに水が見えることも、軽く持ち上げられることも、彼女には興味深いらしい。
「ほほぉ……。軽くて、中身がよく見えますねぇ。それに、この容器はずいぶん扱いやすそうです!」
ドリーはボトルを傾けて中の水を確かめたあと、ふたを指先でつまんだ。
「このふたは、どうやって開けるんですかぁ?」
「こうやって、左回りに回すんです」
俺はドリーが持っているボトルを見ながら説明した。
「左回り……こうですかぁ?」
「そうです。そのまま回していけば開きますよ」
ドリーがふたを左回りに回すと、キャップが少しずつ緩んでいった。やがて、ふたが外れる。
「おおっ! 本当に回すだけで開きましたねぇ!」
「はい。閉めるときは、反対に右回りに回せば大丈夫ですよ」
ドリーは外したふたを戻し、今度は右回りに回して閉めてみた。きちんと締まったことを確かめると、また少しだけ開けて、もう一度閉める。仕組みを確かめるように、何度か同じ動作を繰り返していた。
「なるほどぉ! 簡単に開け閉めできるのに、水を入れて持ち運べるんですねぇ!」
「そうですね。持ち歩くときにも便利ですよ」
ドリーはふたを閉めたボトルを両手で持ち、角度を変えながらじっくりと眺めた。中の水だけでなく、容器の形やふたの部分まで、細かく観察している。
「……これは、売れそうですねぇ」
「え?」
「いえいえ、こちらのお話ですぅ!」
ドリーはにっこりと笑いながら、再びペットボトルに目を向けた。お礼に渡した水を喜んでくれたのはもちろんだが、どうやら容器そのものもすっかり気に入ったようだった。
珍しい品を見つけたときの商人の目。さっきまで服の生地に興味を示していたときと、よく似た表情だった。これがどんな素材で、どう作られているのか、どのように手に入るのか。そんなことを考えているのかもしれない。
もちろん、俺はペットボトルを商品として売り込むつもりで渡したわけではない。今日案内してもらったお礼として、持ってきた水を渡しただけだ。けれど、ドリーにとっては、何気ない容器にも商売の可能性が見えるらしい。
「水も、よかったら飲んでくださいね」
「ありがとうございますぅ。大切にいただきますねぇ!」
ドリーはボトルを大事そうに持ち、満足げに頷いた。その様子を見て、俺も自然と笑みがこぼれた。
◇
外はすっかり夜の気配に包まれていた。通りに並ぶ灯りが、昼間とは違う柔らかな光を落としている。市場の方から聞こえる声も少し落ち着き、店じまいを始める店と、まだ客を迎えている店が混ざっていた。
「今日はありがとうございました。観光だけのつもりでしたけど、いろいろ話が聞けて楽しかったです」
「こちらこそ。わたくしも面白いお話が聞けましたよぉ。スメールにまた来ることがあれば、ぜひお店にも寄ってくださいね」
「はい。ぜひ寄らせてもらいます」
「うふふ、楽しみにしています!」
ドリーはペットボトルを手にしたまま、楽しそうに笑った。俺も軽く会釈をして、その場を離れた。
少し歩いてから、俺は一度だけ振り返った。ドリーは店へ戻るところらしく、手にしたボトルをまだ眺めているように見えた。あの様子なら、帰ってからも容器を観察するのかもしれない。
今日の観光は、最初から誰かと会う予定を立てていたわけではなかった。市場を歩き、昼食を取り、街の景色を楽しんでいただけだ。それが、偶然の出会いから夕食まで一緒に過ごすことになった。予定を詰め込まない休日ならではの展開だったと思う。
市場のにぎわいも、ランバードの酒場で食べた昼食も、午後の街歩きも、ドリーとの夕食も、それぞれ違った楽しさがあった。知恵の国という名前から学問の印象を強く持っていたけれど、実際に歩いてみれば、そこには商売をする人も、食事を楽しむ人も、日々を過ごす人もいる。
今日見たのはスメールシティのほんの一部だ。まだ歩いていない通りも、入ったことのない店もたくさんあるだろう。だからこそ、また訪れる楽しみが残っている。
俺は解放済みのワープポイントへ向かい、帰還した。
知恵の国で過ごした、充実した日曜日。
次にスメールを訪れるときは、また違った景色や出会いが待って