原神の世界に通えるようになったので、モンドを拠点に異世界生活を楽しみます 作:ところてんの
次の週末。
平日の仕事を終え、部屋でひと息ついた俺は、テーブルの上に置いたノートを開いた。
先週はスメールシティの市場を歩き、ドリーと夕食を共にした。市場のにぎわいも、料理の味も楽しめたし、商人としての考え方を聞けたのも収穫だった。
スメールといえば、商売だけでなく学問の国という印象も強い。ゲームで遊んでいたころから、教令院や学者たちの存在はよく知っていた。ただ、実際に暮らしている人たちにとって、学問や研究はどんなふうに日常とつながっているのだろう。
研究室の中だけで完結するものもあるだろうし、街の建物や道具、暮らしを支えている知識もあるはずだ。
「今日も、街を歩きながらその辺りを見てみるか」
俺は歩き回るときのための飲み物をバックパックに入れた。今日も販売用の商品は持っていかない。先週と同じく、観光を楽しむための休日だ。
行き先はスメールシティ。解放済みのワープポイントを使えば、移動に時間をかけずに済む。
光に包まれた感覚が消えると、見慣れ始めた緑の街並みが目の前に広がった。
市場の方からは商人たちの呼び声が聞こえ、通りを行き交う人々の姿も多い。香辛料や焼きたての料理を思わせる香りが風に混ざって流れてきた。先週と同じ場所でも、歩く道を少し変えるだけで目に入るものが違う。
今日は教令院の周辺を見てから、街の建物や人々の暮らしにも目を向けてみよう。学問について詳しい知識があるわけではないが、観光客なりに気になったことを見つけられれば十分だ。
ただ、その前にひとつ寄っておきたい場所があった。
観光が目的とはいえ、俺は一応冒険者として活動している。スメールシティに来たのなら、冒険者ギルドにも顔を出しておいたほうがいいだろう。依頼を受ける予定がなくても、街に来たことを伝えておけば、何かあったときにも話が通じやすい。
市場の人波を避けながら、俺は冒険者ギルドの受付へ向かった。
見慣れた受付の前には、依頼の相談に来た冒険者が数人並んでいた。掲示板の前で依頼書を眺める人もいれば、仲間同士で報酬や行き先について相談している人もいる。どこの国でも、冒険者ギルドには似たような空気があるらしい。
列が進むのを待つ間、俺は掲示板に貼られた依頼書を眺めた。素材の採集や魔物の討伐、荷物の運搬など、内容はさまざまだ。スメールらしく、森や遺跡に関係する依頼も目につく。
今日は観光が目的なので、依頼を受けるつもりはない。内容を眺めるだけにして、順番が来るのを待った。
「こんにちは。何かご用でしょうか?」
受付のキャサリンが、いつもの落ち着いた笑顔で声をかけてくれた。
「こんにちは。今日はスメールシティを観光しに来たので、その挨拶に。依頼を受ける予定はないんですけど、一応冒険者なので顔を出しておこうと思って」
「そうでしたか。わざわざご挨拶いただき、ありがとうございます。スメールでの滞在をお楽しみください。依頼をお探しの際は、いつでもお声がけくださいね」
「ありがとうございます。今日は街をゆっくり見て回るつもりです」
簡単な挨拶を交わしただけだが、それで十分だった。冒険者としての用事をひとつ済ませたことで、気持ちにも少し区切りがついた。
ギルドを離れる前に、俺はもう一度掲示板へ目を向けた。森や遺跡に関する依頼は気になるものの、今日の目的はあくまで街歩きだ。予定を増やしすぎず、まずはスメールシティを自分の足で見て回ろう。
俺は人の流れに沿って、教令院の方へゆっくりと歩き始めた。
◇
教令院へ近づくにつれ、手に本や書類を抱えた人が増えてきた。歩きながら誰かと話している人もいれば、建物の入口で資料を読み込んでいる人もいる。
「その資料、午後の講義までに確認できそうか?」
「たぶんね。あと少しだけ整理すれば大丈夫だと思う」
すれ違った学者らしい二人の会話が、通りのざわめきに混じって聞こえてきた。別の場所では、階段を下りてきた若者たちが講義の内容について話し合っている。教令院の周辺には、学問が日常の一部になっている人たちの姿があった。
広い階段と柱のある建物を見上げると、やはり学術機関らしい重みを感じる。ゲームで何度も見てきた場所を実際に歩いていると思うと、少し不思議な気分になった。
「ここが教令院か……」
入口の先には人の出入りがあるものの、観光客が勝手に入っていい場所ではないだろう。俺は案内板や周囲の様子を確認しながら、外から見える範囲を歩くことにした。
掲示板には講義や研究発表の告知が並んでいる。題名を読んでみても、専門用語が多くて内容までは分からない。研究というものは、こうした題名ひとつ取っても、専門外の人には少し遠い存在に感じられる。
とはいえ、難しい言葉を理解できないからといって、何も得られないわけではない。建物の造りや、人々の動きからでも、気づくことはあるはずだ。
しばらく周辺を歩いたあと、俺は教令院から少し離れた広場へ向かった。そこには木陰になる場所があり、腰を下ろして休める石のベンチも設置されている。日差しは強いが、木の下に入ると幾分か過ごしやすかった。
ベンチの近くでは、二人の男性が建物の方を見ながら話をしていた。
広場には、講義の合間らしい学生が何人か腰を下ろしていた。少し離れた場所では、荷物を抱えた職員らしき人が足早に通り過ぎていく。木の葉が風に揺れる音と、人々の会話が重なり、教令院の近くにも街の日常が流れていた。
二人の男性は、そんな周囲の様子を気にすることもなく、手元の紙を見ながら話し合っている。一人は落ち着いた様子で腕を組み、もう一人は身振りを交え、ときおり図面を広げて説明していた。
俺は少し離れた場所から、二人の話が途切れるのを待った。建物の話をしているらしいが、こちらから内容を聞き取ろうとするのは気が引ける。そろそろ別の道へ行こうかと思った、そのときだった。
見覚えのある姿に、俺は思わず足を止めた。
(アルハイゼンとカーヴェ……?)
ゲームで知っている二人だ。まさか、こんなところで一緒にいる場面に出会うとは思っていなかった。
二人は何かの建物について話し合っているらしい。カーヴェが紙に描かれた図を指し、アルハイゼンがそれを見ながら短く意見を返していた。
「だから、日中に熱がこもることを考えるなら、窓の位置だけでなく、風の通り道も確保する必要があるんだ。見た目だけ整えても、実際に使う人が快適に過ごせなければ意味がないだろう?」
「その点は否定していない。問題は、今ある構造をどこまで変えられるかだ。理想だけで設計を進めても、予算や施工上の制約を無視すれば実現できない」
「分かっているさ。だから、どこを変えるのが一番効果的か考えているんだろう」
会話の内容からすると、建物の改修か何かを検討しているようだった。専門的な話なので細かい部分までは分からないが、カーヴェが理想と実用性の両方を考え、アルハイゼンが現実的な条件を確認しているらしい。
声をかけるつもりはなかった。二人の話を邪魔するのも悪いし、俺はただの観光客だ。そう思って通り過ぎようとしたとき、カーヴェが図面から顔を上げた。
「ん? 君、何か用かな?」
「あ、すみません。話が聞こえてしまって。邪魔するつもりはなかったんです」
「いや、別に構わないよ。ここは通り道だからね」
カーヴェはそう言って、柔らかく笑った。アルハイゼンも俺を一瞥したが、特に気にした様子はない。
「観光で来たんです。街を歩いていたら、建物の話が聞こえたので」
「観光か。スメールシティの建築に興味があるのかい?」
「詳しいわけではないですけど、街並みを見るのは好きですね。建物によって窓の形や日陰の作り方が違うな、とは思っていました」
そう答えると、カーヴェは少し興味を持ったように目を輝かせた。
「そういうところに気づいてくれるのは嬉しいな。建築は、ただ建物を立てればいいというものじゃない。そこで暮らす人がどう過ごすのか、周囲の環境とどう調和するのかも大切なんだ」
「カーヴェは建築家だ。こういう話になると長いぞ」
「アルハイゼン、余計なことを言わないでくれ」
「事実を述べただけだ」
二人のやり取りに、思わず笑みがこぼれた。仲が悪いというより、遠慮なく意見をぶつけ合える関係なのだろう。カーヴェは少し呆れた顔をしたものの、すぐにこちらへ向き直った。
「僕はカーヴェ。建築家をしている。こっちはアルハイゼンだ」
「アルハイゼンだ。教令院で書記官をしている」
「俺は悠真です。今日はスメールを観光しています」
名前を聞いた瞬間、胸の内では少し緊張した。二人ともゲームでよく知っている人物だが、目の前にいるのは画面の中のキャラクターではなく、実際に生活している人たちだ。知っている情報をそのまま口にするわけにもいかない。
「遠いところから来たんです。詳しい話は、ちょっと説明しにくいんですけど」
「事情があるなら、無理に聞くつもりはない」
追及されるかと思ったが、アルハイゼンはあっさりと話を切り上げた。必要のないことに深入りしない性格なのだろう。カーヴェもそれ以上は尋ねず、手にした図面を軽くたたんだ。
「せっかくだから、少し話をしないか? 今話していたのは、街中にある建物の暑さ対策についてなんだ。君も窓や日陰に気づいていたと言っていただろう?」
「俺でよければ。専門的なことは分かりませんけど」
「専門家の意見だけで考えていると、かえって見落とすこともあるからね。使う側の感覚も聞いてみたいんだ」
カーヴェにそう言われ、俺は二人の図面を少し離れた位置から見せてもらった。細かい線や寸法が描き込まれているが、何が何だか分からない部分も多い。ただ、窓の位置や壁の厚さ、屋根の形などが記されていることは分かった。
「この建物は、午後になると室内に熱がこもりやすいんだ。窓を増やせば風が通るかもしれないけれど、壁の構造や日差しの向きも考える必要がある。どうすれば快適にできるか、検討しているところさ」
「なるほど……」
俺は図面と、実際に見える建物を交互に見た。
現代日本でも、夏の暑さ対策は身近な話題だ。学校で習ったことや、普段の生活で知ったことなら、少しは話せるかもしれない。
「詳しい設計のことは分からないですけど、日差しが直接入ると室内が暑くなりますよね。窓の外にひさしをつけたり、日陰を作ったりするだけでも違うと思います」
「ひさしはすでに検討しているよ。太陽の高さや季節によって、日差しの入り方が変わるからね」
カーヴェは図面の端を指した。
「ただ、建物の向きや周囲の環境も関係する。日陰を増やせばいいというだけではないんだ」
「そうですよね。あとは、風が通るようにすることですかね。窓を二か所開けて、空気の出入り口を作るとか」
俺が何気なく言うと、アルハイゼンがこちらに目を向けた。
「空気の出入り口、か。君の国では、そうした考え方が一般的なのか?」
「一般的だと思います。家の造りにもよりますけど、風が入る窓だけじゃなく、反対側にも開けられる場所があると空気が流れやすい、という話は聞きます」
「風が吹き込むことだけでなく、抜けていく先を作るわけか」
アルハイゼンは少し考えるように図面へ視線を落とした。
「確かに、入口だけを考えて出口を考えなければ、空気の流れは安定しないだろうな」
「もちろん、風向きや窓の大きさも関係するので、いつでも同じようにいくとは限りません。俺も詳しい計算はできないですけど」
「いや、今の話は十分に参考になるよ」
カーヴェは図面を広げ直し、窓の位置を見比べた。
「空気が流れる道筋を考える、ということだね。風が入りやすい側と抜けやすい側を意識すれば、窓をただ増やすよりも効果的かもしれない」
「そういうことだと思います。あと、暖かい空気は上に移動しやすいので、高い位置に空気の抜け道があると、熱がこもりにくくなる場合もあります」
自分で話しながら、どこまで正確に説明できているのか少し不安になった。学校で習った知識と生活の中で聞いた話をつなぎ合わせているだけだ。専門家の前で偉そうに語れるほど詳しいわけではない。
「暖かい空気が上に移動する……」
カーヴェは言葉を繰り返し、建物の上部を指でなぞった。
「高い位置にも換気できる窓を設ければ、下から入った空気が上へ抜ける流れを作れるかもしれない。もちろん、雨が入らない構造や、外観との兼ね合いも考えなければいけないけど」
「温度差による空気の動きと、風による流れは別々に考えたほうがよさそうだな」
アルハイゼンが続けた。
「今の話は経験則として伝わっている部分もあるだろうが、条件を整理すれば、どの構造が有効か比較できる。少なくとも、窓を増やせば解決するという単純な問題ではないことが分かる」
「ええと、俺はそこまで難しいことを考えていたわけじゃないんですけど……」
「だからこそ興味深いんだ」
アルハイゼンは淡々と答えた。
「専門家は、知っている方法や既存の理論を前提に考えることがある。別の環境で一般的な知識として扱われているものが、こちらではまだ十分に整理されていない可能性もある」
「いや、俺は観光で来ているだけですから。専門的なことは分かりませんよ」
「それは聞いた。だが、専門家でないことと、役立つ知識を持っていないことは別だ」
アルハイゼンの言葉はそっけないが、からかっているわけではなさそうだった。
俺にとっては当たり前の話だ。夏場に窓を開けて風を通すことも、日差しが強いときにカーテンやひさしで遮ることも、特別な知識というほどではない。けれど、建物を設計する側から見れば、そうした日常の感覚を仕組みとして整理する価値があるのかもしれない。
「それにしても、普段からこういうことを考えているのかい?」
カーヴェが尋ねた。
「いえ、そこまでではないです。暑い部屋は嫌だなとか、風が通ると気持ちいいなとか、その程度ですよ。今の話も、学校で習ったことや、日常で聞いたことを思い出しただけです」
「その感覚も大切だよ。建物は図面の上にあるだけじゃない。実際にそこで暮らす人が、暑いと感じたり、風が通って心地よいと感じたりする。その実感を無視したら、どんなに見栄えがよくても、いい建築とは言いにくいからね」
カーヴェは真剣な顔で言った。建築家として、見た目の美しさだけではなく、そこで過ごす人の快適さを大事にしているのだろう。
「ただし、感覚だけで設計を決めるわけにもいかない。日差しの角度や風向き、建材の性質を調べて、実際に確かめる必要がある」
アルハイゼンが付け加えた。
「結局、二人で検討することになるんですね」
「僕が考えた案を、彼が現実的な条件に照らして確認することはあるよ。もっとも、言い方がいちいち気に障るんだけどね」
「君が条件を確認するたびに、理想を語り直すからだ」
「理想がなければ、改善する意味もないだろう?」
「理想を実現するには、現実を無視しないことだ」
二人はまた言い合いを始めた。けれど、そのやり取りには慣れた様子がある。相手の意見を聞き入れないわけではなく、違う部分をはっきり言い合いながら、最終的にはひとつの答えを探しているように見えた。
俺は少し笑いながら、図面をもう一度眺めた。
「そういえば、壁の材質でも暑さって変わりますよね。日差しを受けた壁が熱くなると、室内にも熱が伝わってくるとか」
「その通りだ。熱は壁や屋根を通して伝わる。材質や厚さによって伝わりやすさが変わるから、建材の選択も重要になる」
カーヴェはすぐに答えた。そこは建築家として、すでに考えている部分なのだろう。
「故郷では、断熱材を使って熱が伝わりにくくすることがあります。建物の構造によるので、どこにでも同じものを使えるわけではないですけど」
「熱が伝わりにくい材料を間に入れるわけか」
アルハイゼンが確認する。
「はい。外の暑さや寒さが室内に伝わりにくくなるようにするんです。逆に、冬は室内の熱が外へ逃げにくくなります」
「なるほど。空気の流れを利用する方法とは別に、熱そのものが移動するのを抑える方法があるわけだ」
アルハイゼンは短くまとめた。
「ただ、断熱材の種類や施工の仕方までは分かりません。俺の知識は、本当に一般的なところだけです」
「それで十分だよ。今の話だけでも、検討する方向はいくつか見えてきた」
カーヴェは嬉しそうに図面を見直した。
「窓の配置と日陰、空気の通り道、壁や屋根からの熱の伝わり方。ひとつだけで解決しようとせず、建物全体で考えたほうがよさそうだ」
「ただし、すべてを採用できるとは限らない。費用や建物の用途、周囲の環境も考える必要がある」
「分かっているよ。だからこそ、どの方法が一番効果的か調べるんだ」
また同じやり取りになり、俺は思わず笑ってしまった。二人は一瞬こちらを見たが、カーヴェは苦笑し、アルハイゼンは特に気にした様子もなく図面をたたんだ。
「すまない。少し話が長くなったね」
「いえ、面白かったです。俺にとっては当たり前の知識でも、建物を作る人からすると、いろいろ考える材料になるんですね」
「そういうことさ。知識というのは、使う場面によって意味が変わる。君の話は専門的な設計図の代わりにはならないけれど、考え始めるきっかけにはなる」
カーヴェの言葉に、俺は少し照れくさくなった。
何かすごい発見をしたわけではない。学校で習うような知識を、思い出しながら話しただけだ。それでも、二人が真剣に聞いてくれたのは嬉しかった。
「もしよければ、もう少し聞かせてほしい。君の国では、建物以外にも、こうした科学の知識が日常生活に使われているのかい?」
カーヴェが尋ねた。
「使われていると思います。例えば、故郷では葦を編んで作った『よしず』というものを使うことがあるんです。窓の外に立てかければ日差しを遮れますし、隙間から風も通ります」
「編んであるなら、隙間から風が通るのか」
アルハイゼンは、よしずの形を想像するように少し考え込んだ。
「そうです。日差しを遮りつつ、風は通せるんです。特別な機械を使わなくても、こういう工夫で暑さを和らげられるんですよ」
「材料を編んで、窓の外に立てかけるだけなら、仕組みそのものは難しくなさそうだね」
カーヴェは興味深そうに言った。
「もちろん、こちらで同じものが作れるかは、材料次第ですけど。似たような植物が手に入るなら、比較的安く試せるかもしれません」
「スメールなら、植物の繊維や茎を利用する方法は検討できそうだ。耐久性や湿気への強さは確かめる必要があるが、最初から大がかりな設備を用意する必要はないだろう」
アルハイゼンは、実際に試す場合の条件を整理するように話した。
「そうだね。まずは小さく作って、日差しをどれくらい遮れるか、風が通るかを確かめればいい。費用を抑えられるなら、試してみる価値はありそうだ」
カーヴェは図面の端に何かを書き留めた。
「ただ、俺は作り方を細かく説明できるわけじゃないですよ。故郷で見かける身近な道具、というくらいなので」
「そこは分かっているよ。実際に使える形にするのは、こちらで調べて考えることだからね」
カーヴェはそう言って、穏やかに笑った。
「身近な道具に、そういう工夫がいくつも入っているんだな」
「はい。使う側は仕組みを全部知らなくても、便利だから使っていますけどね」
「それはどの国でも同じだろう。道具がどう動くか理解していなくても、使い方が分かれば生活には役立つ。ただ、仕組みを理解すれば、改良できる可能性も出てくる」
アルハイゼンの言葉は、いかにも彼らしい。実用性を認めながらも、仕組みを理解する価値を見落とさない。
「君の話を聞いていると、科学というのは特別な研究室の中だけにあるわけじゃないんだね」
カーヴェが言った。
「そうですね。日常で使っているものにも、誰かが考えた仕組みが入っています。ただ、俺は使い方を知っているだけで、作れるわけではないです」
「知っていることと、実際に作れることは違う。それを区別しているのはいいことだ」
アルハイゼンは相変わらず淡々としていた。
「自分が知らないことを認めたうえで、分かる範囲を説明する。情報を扱うなら、その姿勢は大切だろう」
「なんだか、急に評価されている気がしますね」
「事実を述べただけだ」
「アルハイゼン、それは褒めているつもりなのかい?」
「そう受け取れる内容だと思うが」
「もう少し言い方というものがあるだろう……」
カーヴェが呆れたようにため息をつく。俺はまた笑ってしまった。二人の会話は、こうしているだけでも飽きない。
◇
気づけば、日差しは少し傾き始めていた。立ち話のつもりだったのに、思った以上に長く話し込んでしまったらしい。
「引き止めてしまって悪かったね。君は観光中だったんだろう?」
カーヴェが図面をまとめながら言った。
「いえ、俺も楽しかったです。街を歩いているだけでは分からない話が聞けました」
「それならよかった。スメールシティには、建築以外にも見どころがたくさんある。市場もいいし、少し道を変えるだけでも街の表情が違って見えるよ」
「先週は市場を見て回りました。食べ物もおいしかったです」
「それは何よりだ。観光なら、食事も大事だからね」
カーヴェは笑顔で頷いた。
「もし建築についてもっと知りたくなったら、街の建物を眺めるときに、外観だけでなく窓の位置や日陰の作り方にも注目してみるといい。設計者が何を考えたのか、少し想像できるかもしれない」
「やってみます」
「ただし、見ただけで設計意図がすべて分かるわけではない。建物には、土地や費用、使う人の希望など、外から見えない条件もある」
アルハイゼンが補足する。
「分かっているよ。せっかく興味を持った相手に、余計な水を差さないでくれ」
「誤解がないように説明しただけだ」
「はいはい。そういうところだよ」
二人のやり取りを見ていると、また笑いがこみ上げてきた。
「今日はありがとうございました。お二人の話を聞けて、勉強になりました」
「こちらこそ、興味深い話をありがとう。君の国の暮らしについて、また聞ける機会があれば嬉しいよ」
カーヴェはそう言って、親しみやすく手を振った。
「俺も、今日の話を少し整理してみる。君が話したことがどの程度こちらの条件に当てはまるかは、実際に調べる必要があるからな」
アルハイゼンはそう言うと、たたんだ図面を手にした。
「もちろん、俺の話は参考程度にしてください。専門的なところは全然分からないので」
「その点は理解している」
アルハイゼンは短く頷いた。
俺たちは軽く挨拶を交わし、二人は建物の方へ戻っていった。カーヴェは歩きながら図面を開き、アルハイゼンに何かを説明している。アルハイゼンは相変わらず落ち着いた様子で聞いていたが、ときおり短く指摘を返していた。
二人の背中を見送りながら、俺は少し考えた。
自分にとっては、学校で習ったことや、生活の中で耳にしたことばかりだった。暖かい空気は上に移動しやすい。風の通り道があれば空気が流れやすい。壁や屋根を通して熱が伝わる。どれも、日常で使う言葉としては特別なものではない。
でも、知識を使って建物を考える二人にとっては、設計を見直すきっかけのひとつになるらしい。
もちろん、俺の話だけで何かが劇的に変わるわけではない。建物を設計するには専門的な計算も必要だし、土地や気候、建材、予算など、考えなければならないことがたくさんある。一般的な知識を知っていることと、実際に形にすることの間には、大きな隔たりがある。
それでも、知っていることを誰かに話すことで、別の考え方につながることはあるのだろう。
◇
教令院の周辺を離れ、俺は街の通りを歩いた。
さっきまで建物の構造について話していたせいか、周囲の景色が少し違って見える。建物の窓はどこに配置されているのか。通りに日陰を作る屋根や張り出しは、どんな役割を持っているのか。風が抜けそうな路地もあれば、建物に囲まれて空気が動きにくそうな場所もある。
もちろん、見ただけで正解が分かるわけではない。日差しや風向きは時間によって変わるし、建物の内側までは見えない。それでも、今まで何となく眺めていたものに、別の見方が増えた気がした。
通り沿いには小さな店が並んでいた。食材を扱う店、布を売る店、道具を並べた店。店先では客と商人が値段について話し合い、荷物を運ぶ人が忙しそうに通り過ぎていく。
「この布、もう少し安くならないかい?」
「それなら、二枚まとめて買ってくれたら少し値引きするよ」
近くの店からそんなやり取りが聞こえ、荷物を抱えた客が笑いながら店先を離れていった。少し先では、食材を選ぶ人と店主が今日入った品について話している。人々の話し声や足音が重なり、通りには途切れることのない暮らしの気配があった。
先週ドリーと話したときは、品物をどう売るか、どんなものに商機を見いだすかという商人の考え方に触れた。今日は、建物を使う人の快適さや、科学の知識を暮らしに役立てる考え方を知った。
同じ街でも、誰と話すかによって見えてくるものが違う。観光というと名所を巡ることを思い浮かべがちだが、そこで暮らす人たちの話を聞くことも、街を知る方法のひとつなのだろう。
少し歩いたところで、香ばしい匂いが漂ってきた。屋台の鉄板の上で、薄く伸ばした生地が焼かれている。店主が具材を包み、客に手渡していた。
ちょうど小腹も空いてきた。俺は店先に近づき、並んでいる軽食を眺めた。
「これは何が入っているんですか?」
「香辛料で味付けした野菜と、刻んだ肉だよ。焼きたてだから熱いぞ」
「じゃあ、それをひとつください」
代金を払い、包みを受け取る。外側は香ばしく焼けていて、手に持つと温かさが伝わってきた。少し冷ましてからかじると、野菜の歯ごたえと肉のうま味に香辛料がよく合っていた。
最初に感じたのは、焼いた生地の香ばしさだった。そのあとから、野菜の甘みと肉のうま味が広がり、少し遅れて香辛料の複雑な香りが鼻に抜ける。辛さだけを強く押し出すのではなく、いくつもの風味を重ねているようだ。具材を生地で包んであるので、歩きながらでも食べやすい。
スメールでは、香辛料を料理の味付けに使うだけでなく、食材の持ち味を引き立てるように組み合わせるのだろうか。先週の食事でも香りの豊かさが印象に残ったが、屋台の軽食にも、土地の食習慣が表れている気がした。
「おいしいな」
思わず感想が口から出た。店主は満足そうに笑う。
「気に入ったならよかった。昼どきには、別の具材を使ったものも出しているよ」
「具材が変わると、味付けも変えるんですか?」
「もちろん。肉や野菜の組み合わせによって、合う香辛料も違うからね。決まった配合を使う店もあれば、仕入れた食材に合わせて調整する店もある」
なるほど。同じ料理でも、具材や香辛料の組み合わせで味が変わるらしい。日本でも地域や家庭によって味付けが違うけれど、スメールでも店ごとの工夫があるのだろう。市場で食材を眺めるだけでは分からない、料理する側の感覚に少し触れられた気がした。
「また来たときに、別の具材も試してみます」
礼を言って店を離れ、食べながらゆっくり歩いた。
食べ物の温度を保つ道具や、材料を保存する仕組みの話も、さっきの会話に出てきた。今の軽食だって、材料を育てたり運んだり、調理したりする人たちの知識と経験があって、こうして食べられる。科学という言葉から想像する実験や研究だけでなく、日常のあちこちに工夫がある。
故郷では当たり前に使っている道具も、テイワットでは同じように普及しているとは限らない。逆に、こちらの世界にしかない技術や知恵もある。どちらかが何もかも優れているわけではなく、それぞれの環境で積み重ねてきたものが違うのだろう。
そんなことを考えながら、俺は街の景色を楽しんだ。
◇
帰る時間が近づいてきたので、最後に教令院を少し離れた場所から眺めた。建物の周囲では、書類を抱えて歩いている人もいれば、誰かと話しながら階段を下りてくる人もいる。研究に追われている人も、講義を終えてほっとしている人もいるのだろう。
知恵の国という名前から、学問は専門家だけのものという印象を持っていた。でも今日、アルハイゼンとカーヴェと話してみて、知識は日常の感覚からも広がるのだと感じた。
俺は科学者ではないし、建築について専門的なことを知っているわけでもない。二人に話したことも、現代日本で暮らしていれば耳にするような一般的な知識ばかりだった。それでも、違う世界で暮らす人たちにとっては、新しい視点になることがある。
そして、俺が知っていることにも限界がある。説明できないことは多いし、知識を実際に役立てるには、さらに調べて確かめなければならない。分かることと分からないことを区別して話すのは、思っていた以上に大切なのかもしれない。
「次に来たときは、また違うところを見てみるか」
俺はそう呟いて、バックパックを背負い直した。
先週は市場でドリーと出会い、商売の話を聞いた。今日は偶然アルハイゼンとカーヴェに出会い、科学や建築について話すことができた。予定を細かく決めずに歩いているからこそ、こういう出会いがあるのだろう。
スメールには、まだ知らない場所も、話を聞いてみたい人もたくさんいる。森や砂漠へ足を延ばすのもいいし、スメールシティの別の通りをゆっくり歩くのも楽しそうだ。
俺は解放済みのワープポイントへ向かった。
光に包まれ、気づけば日本の部屋に戻っていた。バックパックを置き、今日のことを思い返す。
アルハイゼンは、俺の話を聞いて知識の根拠や応用できる可能性を考えていた。カーヴェは、建物を使う人の感覚や、実際の暮らしにどう役立てるかを考えていた。同じ話を聞いても、二人が注目するところは少し違う。それが会話を面白くしていた。
俺はノートを開き、今日のことを簡単に書き留めた。窓の配置、風の通り道、熱の伝わり方。詳しい設計の知識ではなく、二人と話した内容を忘れないための短いメモだ。
書き終えてノートを閉じる。
今日話した知識が、二人の検討にどのくらい役立つのかは分からない。もしかしたら、専門的に調べた結果、俺の話した方法がその建物には合わないと分かるかもしれない。それでも、話をきっかけに別の可能性を考えることができたなら、それで十分だ。
平日は会社で働き、休日にはこうして異世界を歩き回る。慣れてきたとはいえ、訪れるたびに新しい発見があるのは楽しい。
次にスメールを訪れるときは、今日とは違う景色が目に入るかもしれない。
知恵の国には、まだ知らないことがたくさんあるのだから。